38.かわいいあたし、黒カニと対決する2
無意識のうちに【憤怒】が発動して我を忘れる。
「あ、姐御……目が……」
「目が、紅いきゅぴ……」
あたしはロケットスタートを切って一瞬で黒カニの眼前に到達する。
「ぬふふふ。何度やろうが無駄なことよ」
黒カニの振ったハサミを屈んで躱す。
「あたしに用があるのはてめえの甲羅じゃねえ。脚だ」
屈んだ姿勢のままひゅんとハサミを伸ばして黒カニの右脚を一本掴む。
そのまま引き千切る。
ぶちぶちぶちぶち!
「ぐうう!? なにをっ!?」
「甲殻類の脚が千切れやすいってのはあたしが一番知ってる。これからあんたの右脚を全部いただこう。カニしゃぶの時間だぜ、大臣様よ。あはん?」
ぶちぶちぶちぶち!
二本目を引き抜く。
「や、やめろおお!」
「何もあんたを殺す必要なんかねえんだこっちにはね。あんたさえ無力化すればいいんだよ。歩けなくなったカニはただの直方体だ。さあて数学の時間だぜ? てめえの体を微分する。覚悟しな、直方体から目を生やした変な生き物」
「貴様ァァァ!」
ぶちぶちぶちぶち!
右脚をすべて引き抜いて黒カニは歩くこともままならなくなる。
「地べたに這いつくばって己の無力さを嘆け」
あたしは背を向けてサザ衛門と向かい合う。
どうすればいいのだろう。
どうすればいい?
目の色を失わせたサザ衛門に近づいて説得を試みる。
「よ、よおサザ衛門。元気かよおめえ。イカしてんなその目。カラコンか?」
「…………」
「いつの間にタトゥーなんか彫ったんだよ。似合ってねえぜ?」
「…………」
「サザ衛門! 目を覚ませよ! 何してんだよお前! お前には夢があるんだろ!」
「…………」
「なあおいサザ衛門! てめえは世界中を旅して鋏術を広めていくんじゃなかったのかよ! こんなところで油売ってどうするんだよ! カラコンつけてタトゥー彫っても鋏術は広まんねえよ! 意味ねえよそれ! プロペラのねえ扇風機だ! 目を覚ませよサザ衛門! プロペラのねえ扇風機にだけは、なっちゃいけねえんだサザ衛門!」
突如、あたしの体に鋭い痛みが走った。
「――?」
サザ衛門のハサミがあたしの体を貫いている。
「サザ……衛門……うそ……だろう……?」
血が滲んで視界が緑色になる。
グオオオォォォ――!
サザ衛門はもがき苦しむように叫んだ。
サザ衛門の目から血の涙が滲み出る。
大丈夫だサザ衛門。
こんなの、痛くも痒くもねえぜ。
だから目を覚ましてくれよ、頼むから。
「マ……マーキュリー……コ……コロセ…………」
何を言って――
一瞬、呼吸が止まった。
あたしは何度も何度も首を振る。
「殺せねえよ! あたしたち友達だろ! あたしにはできねえよ!」
「コノママデハ……オマエヲ……コロシテシマウ……」
「殺さねえよ! お前はあたしを殺さねえし、あたしもお前を殺さねえ! 何か解決方法があるんだよ! 諦めんな! 必死で考えれば何か思いつくって!」
必死に考えるんだ。
あたしは馬鹿だけど、今は考えなきゃいけないときだってわかる。
馬鹿でも何が大切かくらいはわかる。
「カンゼンニ……オレガオレデ……ナクナルマエニ……コロセ……」
「できねえって……あたしにはできねえよ……」
「タノム……ショウキデ……イルウチニ……コロシテ……クレ……」
「サザ衛門……絶対に何か……解決方法があるんだって……」
やめろよサザ衛門。
そんなこと言うなって。
絶対に何かいい方法があるんだって。
今そういうこと言うなよ。
「イッショウデ……イチドノ……オネガイダ……コロセ……マーキュリー……」
「お前には夢があるんだよ……鋏術を海底中に広めるって夢がよ……それをこんなところで散らすわけにはいけねえんだ……夢半ばで息絶えるなんてあっちゃいけねえんだ……」
「――退くきゅぴ」
あたしは誰かに押し退けられる。
腹部からサザ衛門のハサミがぬぷぷと引き抜かれ、
その場に伏せって押してきた奴の顔をまじまじと眺める。
そこに立っていたのは、ボロボロのエルシャラだった。
ウツボ戦で自己再生を使い果たしてボロボロになったエルシャラだった。
「何をする気だ……エルシャラ……」
「大海の誇りを胸に抱け。矜持を忘れた奴は野生の本懐にあらず」
あたしの瞳から涙が次々と溢れてくる。
「やめるんだエルシャラ……それだけは……」
「ワシは師匠の矜持を守る」
エルシャラの言っていることはすごくよくわかる。
でも、それでも、やっちゃ駄目なんだ。
「お前……一番サザ衛門と仲がよかったじゃねえか……。一番弟子でよ……いつも師匠師匠って懐いてたじぇねえか……。あたしはそれが淋しくもあったけど……嬉しくもあったんだよ……。兄弟の中で一番お前が……サザ衛門のこと好きだったじゃねえかよお……!」
「姐御の手は汚させないきゅぴ。これはワシの使命」
「エルシャラぁ……!」
「師匠が堕ち切る前に、ワシが送ってやるきゅぴ」
「エルシャラぁぁ……っ!」
涙が、止まらない。
エルシャラが唇を噛んで、そして、ぽつりと呟く。
「これしか恩を返せないことが、悔しいきゅぴ……」
「やめろよエルシャラぁぁ……っ!」
エルシャラはくもりなき眼でサザ衛門を見つめる。
サザ衛門はすべてを受け入れてスッキリした顔でその視線を受け止める。
もう、どうしようもないのだろうか。
サザ衛門は夢半ばで果てていくのだろうか。
そんなのは嫌だ。
嫌なのに。
エルシャラのハサミが、サザ衛門の胸部に、深々と突き立てられた。
サザ衛門は一瞬だけ瞳に光を宿して、エルシャラの肩にポンと手を置いた。
「アリガ……ト……」
そして、肩に置かれた手が、だらんと垂れていった。
うそ、だ。
あたしは床に何度も頭突きをぶちかまして唸る。
「ぅううううううううううううううううううっ!」
くそ!
くそ!
くそ!
くそくそくそ!
くそがああああああああっ!
あたしの中で【憤怒】が発動する。
あたしの中で【憤怒】が発動する。
あたしの中で【憤怒】が――
【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】【憤怒】……
そして、それを押さえ込むようにあたしの頭に冷気が迸った。
クリオネの特質――【冷思】。
あたしは立ち上がる。
静かな怒り――【冷怒】を胃の底に沸き上がらせて。




