3.かわいいあたし、青魚に食われる
不意に魚影があたしに降りかかった。
降りかかったと思ったときにはもう時すでに遅しだった。
あたしは絶叫する。
前脚を青魚に持って行かれた。
筋肉繊維がぶちぶちと引き千切られる音をあたしは確かに体内で聞いた。
掲げた右の前脚を見ると関節から先がどこにも見当たらない。
切断面から緑色の液体が立ち昇って水中にオーロラをつくっている。
あたしは涙目になった。
視覚的に痛い。
実際に感じる痛みよりも目から感じる痛みのほうがよりひどくあたしを狼狽させた。
あって当然のはずの体の一部が何度確認しても見当たらないという恐怖。
あたしは今それを実感を伴って理解する。
呼吸が乱れる。
あたしの脳裏に恐怖が巣食って離れてくれない。
駄目だ。
生きるのだ。
弱気になるなあたし。
脳裏に焼きつく映像は馬鹿でかい暗黒の魚影だった。
暗黒の魚影があたしに降りかかった途端あたしの前脚が食い千切られた。
ということはあのときあたしが一瞬でも身じろぎをしていれば、もしかしたら食い千切られていたのは頭のほうだったのかもしれない。
そうなればあたしは誰とも知れない海原の底で息絶えることになる。
その一瞬の命のやり取りが脳裏にこびりついて消そうと思っても消すことができない。
もうやだおうちに帰りたい。
兄貴ごめんなさい。
食い千切られた前脚が塩水に浸みて激痛が走る。
水を掻こうにも痛くて敵わないし右と左の推進力の違いで一気にバランスの均衡が破られた。不細工な犬のように手足をばたつかせても先ほどと比べてまったく前に進まない。
あたしの周りのヤドカリたちはあたしを置いてすいすいと抜き去って行く。
あたしは笑う。
もしかしたら淋しげな笑みに映るかもしれないが、あたしは肩肘に力を入れて気丈に笑う。
「ゆけ。ヤドカリベイビー。たくましく生きろ」
そのときだった。あたしの体が浮いたのは。
ヤドカリの幼生たちがあたしの体を引っ張って加速したのだ。
「諦めるな。姐御がそう言ってくれたきゅぴー」
「お前ら」
「姐御はワシたちの女神きゅぴー」
「お前ら!」
あたしは全身の血を燃え滾らせて激怒する。
「それとこれとは話が別だろうがッ!」
「きゅぴー」
「足手まといを連れて逃げるなんて馬鹿にもほどがある。あたしが言ってたのは必死で生き抜けってことだ。その中には身内を犠牲にしてでもより多くが生き残ることを選択しろってことも含まれてる。あたしなんか連れてちゃあ、生き残るもんも生き残れねえ」
「聞こえないきゅぴー」
「ふざけるなよ。キモグロエイリアン」
「知らないきゅぴー」
「あたしを置いてけ」
「やだきゅぴー」
「舐めるなよ。自力で生き残ってみせるぜ、あたしは」
「きゅぴー」
「おい聞いてるのか。降ろせってあたしは言ってんだ」
「きゅぴー」
くそが。
こいつらは一向にあたしの言うことを聞きやがらない。
連帯意識と感情移入は違うってのに。
情に脆い奴は情に溺れる。
たとえ海の戦士であってもだ。
まああたしは、嫌いじゃあないが。
幼生たちに引っ張られながらあたしは周囲に視線を巡らせる。
上部ではあたしのマザーと青魚の群れが戦争を繰り広げていた。
2メートルの貝殻を持つあたしのマザーは海底を蹴飛ばして上部までロケットジャンプをすると、二つのハサミを妖刀のように閃かせて青魚を三枚に降ろしてぶち殺している。
だが青魚は数が多かった。
マザーの戦闘能力は圧倒的だったが、青魚の腹にハサミを突き刺しても突き刺しても一向に数が減らない。どこから沸いてくるのかは知らないが次から次へと現れて、まるでマザーに殺されるために生まれたとでも言うように無防備な土手っ腹をお披露目する。
それでも埒が明かない。
青魚の数が尽きるか幼生の数が尽きるか。
つまるところそういう段階にきている。
そして戦況は圧倒的にあたしたちが不利だった。
五匹の青魚を貫通させた大ハサミを振り抜くと、びゅおんと魚の死骸が水中を吹き飛んでいく。残ったのは血にまみれたハサミだけ。
マザーが雄叫びをあげる。
海底中がびりびりと震えた。
あたしは自然界ってやつを舐めていたのかもしれない。
朝起きたらコーヒーとトーストのある生活。着る物にも困らないし、プレイステーションもあるし、ふかふかなベッドも用意されてある。ベッドの上にはクマのぬいぐるみが十四個もあって、あたしはそれぞれにそれぞれの名前を決めてあげている。本棚にはプリクラ手帳が四冊あるし、雑誌は名前が青臭いから買ってる『セブンティーン』が山ほどある。
笑える。
なんて甘っちょろい生活なんだ。
日本人のガキはぬくぬくの温室で育って気が抜けている。
自然はこんなにもシビアだってのに、あたしはそんなことにも気がつかないで 毒キノコを食らって死んでしまった。馬鹿じゃねえのか?
ちょっと目を向ければ自然界の厳しさなんて目の当たりにできるのだ。
たとえば蝶を食らう蟻んこ。
たとえばカマキリを食らうハリガネムシ。
生存競争に敗れて絶滅した種族。
あたしがクマさんに名前をつけているときに、
名前を忘れ去られた絶滅種がいるという事実。
自然界は実にシンプルだ。
食うか食われるか。
そしてあたしの思考は複雑だ。
命を失ってヤドカリの体になってしまったというのに、この期に及んで思い浮かぶのはバカ兄貴の顔だった。喧嘩なんかせずに素直に謝っておけばよかった。
駄目だなあたし。
弱気になってる。
兄貴の顔が思い浮かぶなんてとち狂っているとしか思えない。
くそ。
涙が出まくる。
なんなんだよ畜生。
怖えんだよ。
怖くてたまんない。
「ぎゅびい!」
あたしを担いでいた幼生の一匹が食われて死んだ。
あたしは必死で手足を動かす。
コンマ一秒でも速くなるために。
コンマ一パーセントでも生存率を上げるために。
「ぎゅびい!」
「ぎゅびい!」
「ぎゅびい!」
あたしの担ぎ手がいつの間にかいなくなっていた。
あたしは涙を海水に溶かしながら足掻きつづける。
不様でもいい。
不格好でもいい。
あたしの命を繋ぎ止めてくれた兄弟のためにあたしは生きる。
生きる。
それが手向けだ。
距離にして20メートルそこらの岩場までの距離が、まるで永遠につづく道のりのように感じられる。20メートルがこれほどまでに遠いと思ったことはかつてない。
あたしの前方には岩場の陰に潜り込もうとする幼生の集団が目に見えた。
まずは一安心だ。
第一波の集団がこうして生存できる。
あたしが心の内でそっと安堵の息をつこうとしたとき、兄弟たちは血を噴き出してただの肉塊に変わり果てた。
「え?」
俄かには信じられなかった。
海草の陰から飛び出てきた青魚集団が、横から襲いかかって食い散らかしたのだ。
あたしはその光景の一部始終をむざむざと見せつけられた。
「あ、え」
ありえない。
ありえないありえない。
やだやだやだ……。
150匹ほどの青魚が通り過ぎた道には、
ヤドカリの肉片がひとつたりとも残っていなかった。
全滅。
信じたくない。
こんな結末はあんまりだ。
まさか岩陰の前に罠を仕掛けていたなど信じたくなかった。
あたしたちは岩場の陰に希望を見出して必死で泳いできたのに、それが青魚の策略だったなんて。あたしたちは青魚の策略にまんまと嵌まってしまったのだ。
そんな事実には気づきたくもなかった。
急に胸が圧迫されて息苦しくなる。
もう、
もう、
あたしは、
泳げない。
体の奥底で、何かの折れる音がした。
そして不意に、あたしの全身に暗黒の魚影が降りかかってきた。
ああ――
この感じは嫌になるほど知っている。
この魚影を感じ取ったとき、それはもう、時すでに遅しなのであった。