2.かわいいあたし、早速ピンチになる
「おいちょっとあんた」
あたしは横に漂うヤドカリの幼生に声をかける。
「きゅぴー?」
「きゅぴーじゃねえよ。日本語しゃべれ」
「きゅぴー?」
ヤドカリの幼生が眼球をくりくりさせて鳴いた。
あたしは腹が立って触手をぶんぶん振り回す。
「おいこらなんとか言えよ」
「めんどくさいきゅぴー」
「ふえ?」
あたしはびっくりする。
やがて心の内に温かいものが広がってぽかぽかしてくる。
唇の端を歪めてニヤニヤするあたしは隣の幼生体の背中をばしばしと叩いて言った。
「おうこらなんだよしゃべれんじゃねえか日本語。ヘイ」
「きゅぴー?」
「出し惜しみすんなよ。マヨネーズじゃねえんだぜ?」
「うるさいきゅぴー」
「やべー。あたし超通じてる。ヤドカリと意志疎通してる。うひゃあ!」
「テンション高いきゅぴー」
誰かと会話をしたのは久々な気がする。
うひゃあ!
もう今にも叫び出したい気持ちだった。
ここが山の頂上だったら絶対に「ヨーロレイヒー!」と叫んでいる自信がある。
でもここは海の底なので「うひゃあ!」で我慢だ。
あたしは我慢のできるいい女だ。歯並びもいい。
興奮した声で聞く。
「ここはどこだ?」
「わからないきゅぴー」
「どうしてだ?」
「生まれたばかりだからきゅぴー」
「それもそうだな。悪かった。かたじけない」
あたしは謝る。
「それで、あたしはどうすればいい?」
幼生は地に響くような低い声で言った。
「生きよ」
「なに?」
「赤子の我々に課せられた命題はただひとつ。生存だ」
「なるほど?」
「見よ、この広大な海を」
気取ったように差し伸ばされた幼生の前脚。
その先にはありとあらゆる生命が群雄割拠の生存戦争を繰り広げている。
「おい! あたしの兄弟が魚に食われてる!」
「きゅぴー?」
「きゅぴーじゃねえ! どうすれば兄弟を救うことができる?」
「……諦めろきゅぴー」
「嘘だろう?」
あたしの心の中になにか冷たいものが流れ込んできた。
暗い海の中でヤドカリの幼生たちがきゅぴきゅぴ叫んで逃げ惑っている。
敵は2メートルもある青魚だ。
口の中にノコギリのような牙を覗かせて、あたしの兄弟の体をバラバラに噛み千切っていく。海水に緑色の血が混じってあたしの嗅覚にも鉄のにおいを感じさせた。また一匹また一匹と絶命していく兄弟を見てあたしは胸が張り裂けそうになる。
やめろ。
やめてくれ。
あたしはあたしの兄弟に対して何の感情移入もしていなかったが、それでも同族の殺される光景を目の当たりにして怒りが沸き上がらないほど落ちぶれてもいなかった。
「馬鹿な考えはよせきゅぴー」
隣の幼生があたしの肩を叩いた。
あたしは唸る。
「わかってる!」
あたしにもわかっているのだ。
今のあたしでは助けに行ったところで返り討ちに遭ってしまうことくらい。
「くそが。逃げるぞ、ついてこい」
「きゅぴー」
「お前らもあたしについてこい。何が何でも生き延びるぞ!」
あたしはそこら中に浮かんでいる何百という兄弟たちに向かって大声をあげた。
「きゅぴー」
「きゅぴー」
「きゅぴー」
兄弟たちが声を揃える。
まさに生存をかけた行軍歌。
ヤドカリの幼生とは言っても50センチほどの大きさがあり、十本の手足で水を掻けばそれなりの推進力を生み出すことができる。
あたしたちはロケットのように泳いだ。
だが大群でまとまりすぎたせいか青魚の群れにロックオンされて、あたしの周りのヤドカリたちが次々と餌食になっていく。ヤドカリなど取るに足らない速度で海中を突っ切ってきて、すれ違ったあとに取り残されるのは真っ二つに裂けたヤドカリの死骸だった。
柔らかい腹部が食い千切られて緑色の血液を垂れ流す奴もいる。
その血がさらに青魚を呼び寄せる。
悪循環。
魚影がまるで点画のように水中に浮かび上がって、大きなうねりとなってあたしたちに襲いかかってくる。
まるで流星群のようだとあたしは思う。
ただの流星群ならまだ許せる。
しかし最悪なことに青魚たちは自動追尾型の必殺兵器なのだった。
自動追尾する必殺の隕石が目にも止まらぬ速さであたしたちを殺すのだ。
対策を取ろうにも対策が取れない。
気がついたときには仲間が殺られている。
一方的な大量虐殺。
あたしたちはただ青魚とすれ違いませんようにと祈ることしかできない。
「もう無理きゅぴー」
どこかの誰かが呟いた。
「おいふざけんな!」
あたしは叫ぶ。
「勝手に諦めてんじゃねえ。あたしがいいって言うまでずっと逃げつづるんだ。岩陰まで逃げ切ればあたしたちの勝ちだ。それまではあたしの声を女神の声とでも思って必死で縋りつくんだ。いいね?」
「姐御!」
「姐御!」
「姐御!」
「苦しくなったら明るい未来を思い浮かべるんだ」
「!」
「!」
「!」
「こんなのはどうだ。岩陰に隠れ住んで、脱皮して、貝殻のマイホームを見つける」
「マイホーム!」
「マイホーム!」
「マイホーム!」
「マイホームがありゃあ、あたしたちは食われない」
「!」
「!」
「!」
「生きる希望を失うな。目の前には何が見える?」
「岩!」
「岩!」
「岩!」
「岩陰でパジャマパーティーと洒落込もうじゃないか」
「姐御!」
「姐御!」
「姐御!」
うす暗い海底の先には大岩の連なりが見える。
いくつも重なり合った岩の下には適度な空間があって、もしかしたら30匹か40匹くらいはすっぽりと収納できそうだった。寿司のようにぎゅうぎゅうに押し込めば60匹か80匹くらいは余裕で行ける。あたしたちは寿司になる。
「ぎゅびい!」
「ぎゅびい!」
「ぎゅびい!」
くそが。
あたしの視界の端に見える右のヤドカリも左のヤドカリも一秒ごとに殺られていく。
もう何匹殺られた?
生き残りは何匹だ?
何百匹といたヤドカリがどうしてこんなにも少ないんだ?
あたしは首を振って手足を動かす。
尻尾でドルフィンキックをする。
少しでも速く、少しでも前に。
「ぎゅびい!」
「ぎゅびい!」
「ぎゅびい!」
青魚たちは手を休めない。
大量の餌を前にして休むはずがなかった。
バーゲンセールのおばさんが安物の服を掻き集めるように、青魚たちがこの掻き入れどきをみすみす見逃すわけがない。もし見逃すのであればそれは生物として阿呆だ。
でもあたしたちは安物の服にはならない。
あたしたちは寿司になる。