40
視界が一面雪景色のように純白に包まれていた。
最期に見た光景は黒に染まっていたはずだが、急に反転した色が全てを覆い尽くしている。
なぜだか、酒呑童子との戦いからずいぶん時間が経っている気がする。
俺は、美榊第一高校のブレザーを着て、真っ白の空間に立っていた。酒呑童子との戦いであった損傷はどこにも見当たらない綺麗なブレザーだ。
体に刻まれていた傷もない。
しかし、左目だけは確かにあるのだが、視力だけはなくなっている。
これまで、人は死ぬと何も考えることも感じることもできないのだと思っていた。存在全てが消え、思考や感情というものの概念すらなくなると。
それなのに、今俺は実際に物事を考え、現状に戸惑いを覚えている。
これが、俗に言う死後の世界という場所なのだろう。
不意に、視界の隅で何かが揺れた。
目を向けると、俺から十メートルほど離れたところに、一人の少女が立っていた。
歳はおそらく俺と同じ頃。少し古めかしいセーラー服を着ており、項で縛った髪を背中辺りまで伸ばしている。
整った綺麗な顔をしているが、どこかで見たような女の子だった。
「こんにちは」
鈴のような柔らかい音色で、少女は言葉を投げかけてきた。
呆気にとられている俺を尻目に、少女は太陽のように輝くような笑みを浮かべた。
その笑みに、俺は少女をどこで見たかを思い出す。
同時に、誰であるかを悟った。
「母さん、か?」
「はい、そうです」
少女は笑って頷く。
父さんが持っていた写真、父さんと母さんが二人で並んで写っている写真に、母さんは今のように晴れやかな笑みで写っていた。
姫川陽。
俺を産んだ直後に紋章を使用して死亡した母さんがそこにいた。
「母さんがここにいるってことは、やっぱり俺は死んだんだな。ここは死後の世界か」
母さんはゆっくりとこちらに歩き出しながら言う。
「厳密には、ここは死後の世界ではありません。本来私たちがいた場所ではないのは本当ですけれどね」
ならここは一体どこだという言葉を飲み混む。
俺の前まで歩いてきた母さんは、茶色の二つの目で少し高い位置にある俺を見上げた。
これまで言葉を交わすことさえできなかった、俺の中では幻のようになっていた存在が、目の前にいる。
母さんは、白い手をこちらへと伸ばし、俺の頭へと乗せた。
「大きくなりましたね、凪」
「……当たり前だろ。もう十八歳なんだから」
十八年間会えなかった唯一の母さんが、俺の頭を優しく撫でる。
「母さん。俺、死んじまった」
綺麗な顔が微かに歪む。
「知っていますよ。全部」
母さんは俺の頭から手を下ろすと、左手を手に取った。
紋章があった場所には、何もない肌があるだけだ。
「私が紋章を使ってすぐ、私の意識はここに移りました。私の紋章が遺伝したことが原因のようですね。だから、凪が何を感じて、何を思ってきたのか、私は全て知っていますよ」
つまり本当に、俺がどんな選択をしてきたか、どんな最期であったかということも知っているのだ。
「バカな息子だって思うよな。母さんが命を賭けて生んでくれたのに、こんな終わらせ方をして、申し訳ないと思っている」
「そんなことはありませんよ」
母さんは優しげな笑みを浮かべて俺の左手を包み込んだ。
「凪と同じ立場になったとき、勇も、そして私も、絶対に同じ選択をしたでしょう。あなたが取った手段は褒められることではありませんが、間違ってはいません。やっぱり、あなたは私たちの子どもであるということがはっきりとわかりました」
「……強情とか頑固だって、よく言われてた」
「私や勇も、それが名前みたいなものでしたよ」
思い出を懐かしむように、俺と母さんは笑う。
「でもな、母さん」
静かに目を閉じる。
俺が美榊島に来てからの一年にも満たない期間の出来事が、再び頭の中を駆け巡る。
「俺は、誰もできなかったことをやったよ」
「はい」
笑顔を浮かべたまま、母さんは頷く。
「五十年以上誰も成し得なかった、父さんさえできなかったことを、俺はやったんだ」
「知っています」
「これで、数え切れない人を苦しみから救ったと思うんだ。これから生まれてくる子どもたちを、死の運命から助けられたと思うんだ」
「その通りです」
「これだけでも、俺が産まれて、生きて、戦ってきた。そのことに、十分な価値があると思うんだ」
堪え切れず、頬を熱いものが流れていった。
「でも、でも俺は……っ」
ここがどこなのかわからないが、枯れていたと思っていた涙が止めどなく溢れ出す。
「俺はやっぱりあいつに、心葉に生きていてもらいたかったんだ。それだけで、本当によかったんだ……っ」
悔いがないなんて、格好良いことは言えない。
俺は、本当に助けたかった女の子を助けることもできずに、結局死んでしまった。
そのことが、悔しくて仕方がない。
細い枝のような指が伸びてきて、目元溜まった涙を拭っていった。
「それでも、あなたはあなたにやれるだけのことを行いました。そのことを、私は誇らしく思いますよ」
『私もだぞ、凪』
聞き覚えのある声が突然降ってくる。
真っ白の空間に溶けて消えそうな純白の炎に包まれた刀が目の前に現れる。
「天羽々斬……」
『お前は人の身では本来成し得ないことをやったのだ。悲観することはない』
励ましてくれるのは嬉しいのだが、天羽々斬が現れたことに怪訝な顔をしてしまう。
「……お前、常世に帰ったんじゃなかったのか?」
『その帰り道だ。ここは常世と現世の境界にある世界だ。神罰が起きていた空間と同じと言えばわかりやすいか。お前たち同様、途中で急に呼び止められてな』
天羽々斬が、俺の横に立つ母さんを向く。
『久しぶりだな。姫川陽』
「お久しぶりです。天羽々斬様」
『お前の息子の戦いは、我らの世界でも歴史に残るものだったぞ』
「いえ、天羽々斬様の力があってこそです」
お互いに初対面というわけではないようだ。
「二人は知り合いなのか?」
『陽とは勇が我を扱っていた際に面識がある。陽は神格に対する感受性が飛び抜けていた。そのため、我が意識を持った神だということも勇より早く気付いていた』
「勇が天羽々斬様と話すきっかけを作ったのが私でしたからね」
二人が懐かしそうに過去のことを話している。
『まったくね。あなたの目ざとさに呆れを通り越して恐怖したわ』
さらにもう一つの声が入ってきた。
上方から真っ白の翼を羽ばたかせてこちらにゆっくりと降下してくる。
俺たちの前に、白いボールのようなずんぐりとした体格の生き物が着地した。
「お、お前は……」
『レディにいきなりお前呼ばわりはいただけないわね。これだから甲斐性なしは』
「ホ、ホウキ?」
目の前に降りてきたのは、見間違うこともない同居動物でコールダックのホウキだった。
酒呑童子に法術で殺されたはずであるが、今はその傷もなく綺麗なふわふわの羽毛が揺れている。
「お前、なんでしゃべって……」
突然現れた予想外の乱入者に俺は混乱を隠せない。
ホウキは黄色いくちばしで大げさにため息を吐いてみせると、翼を大きく広げた。
すると、体全体が一斉に光り始めた。
眩い光が納まると、そこには長身の美女がいた。
簡素な青いパーカーにジーンズというなんとも現代人っぽい服装で、金色に輝く麦畑のような長い髪を両肩から垂らしている。
「え……ええ!?」
ホウキが、人に姿を変えた。
信じがたい光景に目を丸くしていると、母さんがおかしそうに笑いながら言った。
「彼女は、本来美榊島に古くから住んでいる一柱の神なんだそうです。由緒ある神様らしいですよ」
少しぶすっとした表情で、金髪美女が母さんを睨み付けた。
「よく言うわ。海辺にいた私を引っ捕まえた上、ホウキなんて名前を付けて寮に住まわせていたのはどこの誰よ。白々しいにもほどがあるわ」
「あら、何のことでしょうか」
とぼけたように笑いながら母さんは口元を押さえ、対称的にホウキはげんなりとしたように肩を落としていた。
顔を引きつらせていた俺に、天羽々斬が説明してくれる。
『彼女の神名は、【矢乃波波木神】。別名を【箒神】と言う。どんなものにも神が宿るされる考えがある中で、箒神は箒から生まれたものだ。本来、神々の内宮を守護する役目を持つのだが、その役目の一端として神の箱庭である美榊島の監視役として、古来から動物やものに宿り人々の繁栄を見守ることが役目なのだ』
「……ってことは、お前知っていたのか?」
『ああ、初めて会ったときから気付いてた。というより勇や陽の時代から知っていたのだ。それなのに、お前の時代になっても同じ姿をしているから何をしているのかと思ったぞ』
「失礼ね。私はあの姿が気に入っていたのよ。あまり長生きしていても不思議ではない生き物の体って中々ないのよ。箱庭を見回るのも便利だったから、飛べる体にいただけよ」
怒ったように口を膨らませる仕草はとても可愛らしかった。
「その、庭っていうのは?」
ホウキが二つの青い目をこちらに向け、面倒くさそうに言った。
「美榊島は、神々の庭の一部なのよ。神々の世界にある庭を切り取り、現世との門にするために意図的に作られた、半分神の島なの。そこに住んでいるあんたたちは、その神々の血を引く由緒正しい人間ってわけ。私はその島の監視役として、数百年以上昔から美榊島にいるのよ」
と、言うことはこの女性は見た目二十代だが……。
「あんた、今凄く失礼なことを考えたでしょ? はっ倒すわよ?」
「滅相もございません」
いやまさか、ホウキが神様だったとは思いもよらなかった。
普通の生き物とは何かが違うとは思っていたのだが、箒神という立派な神様であるといは思いもよらなかった。
「お前が、俺たちをここに呼んだのか?」
「ちっがうわよ。私もあんたたちと同じで呼ばれたの」
ホウキはそう言うと、白い空間を見上げた。
「呼び出しといていつになったら姿を見せんのよ。早くしてくれないかしら」
ホウキの呼び声に答えるように、空が弾けた。
空間を割って入ってきたそれは、光り輝く球体だった。
真っ白の世界でもわかるほどの光を放つそれは、高い位置で浮遊して制止した。
『長い間会っていなかった私に対して、ずいぶんなものの言いようですね』
光の球体から声が発せられた。
男とも女とも取れる、中性的な声だった。
「うるさいわね。さっさと要件言いなさいよ」
『別にあなたに用があったわけではありません。ついでに呼んだだけです』
「なんですって!」
ホウキが地団駄を踏んで怒る。
今度はどちら様だ。
そんな疑問を抱いていると、天羽々斬が俺や母さんの横まで移動してきた。
『天照大神様だ』
「え……? それって最高神の?」
『そうだ』
唸るように天羽々斬が答える。
天照大神は八百万の神々の中でも最高位の神格を有する神だ。神々の中でも総氏神という全ての元締めの存在である。
天照、つまり天に照り輝く太陽を意味するその名前にも象徴されているように太陽神で有り同時に皇室の祖神としても祀られている。
『あなたが、八城凪ですね?』
天照大神の言葉が俺へと向けられる。
「はい、そうです」
どうやら、用があるのは俺らしい。
『このたびは、我々の問題を解決していただき、ありがとうございます。全ての神を代表し、敬意を称します』
神々の問題。
酒呑童子の一件、つまりは神罰の発端は神々にあったということだ。
そこには様々な条件や出来事が入り交じった結果だろうが、それでも別に神々を責めるつもりはない。
そんなことがお門違いであるということは、天羽々斬と言葉を交わしたときからわかっていることだ。
『酒呑童子は敗れ、これで美榊に神罰が起きることはなくなりました。我らが手を出すことができなかったとはいえ、ご迷惑をかけたことを謝罪します』
「いえ、あなた方は、天羽々斬という神刀や神器を遣わすことで十分協力をしていただいています。直接関与できない決まりがあることも天羽々斬から聞いていますので」
ホウキが俺たちの側にずっといてくれたことから考えても、神々は様々な助力をしてくれていることは知っている。
神々が発端の問題であったとしても、これは俺たち人間がどうにかしなければいけない問題だったのだ。
『酒呑童子が欲にまみれて集めた神力は、天羽々斬とあなたによって、ほとんどが常世に帰っています。全てとはいきませんでしたが、それでも十分過ぎる成果です』
ひとまずは、俺たちの希望通りの結果に落ち着いたということか。
これで、美榊島にも安寧が訪れることだろう。
『姫川陽を初め、数え切れない子どもたちの命を奪ったことにも、謝罪します』
「私は後悔はしていません。こうして、神罰を終わらせることができたのですから。それが私の息子であるのですから、言うことはありません」
母さんがとんと背中を叩き、なんともこそばゆい気持ちになる。
「これまで死んでいった子どもたちも同じです。皆、神罰の終わりに喜んでいます。酒呑童子から溢れた神力から、私はそう感じました」
天照大神が安堵したような息を漏らす。
『それなら、本当によかったです』
少しの沈黙の後、天照大神は再び口を開いた。
『私は、これから現世へと赴き、最期の仕事を行いに行きます。姫川陽、八城凪、あなたたち二人のような存在が私たちの箱庭に生まれたことに、私は最大の感謝を致します』
母さんが恭しく頭を下げる。
「光栄です。天照大神様」
俺は、なんと言っていいかわからずに視線を下に投げていた。
神様に対して不躾もいいところだと自分でも思うが、別に神様に感謝してほしくて戦っていたわけではないのだ。
それがどれほど人間に対して喜ばしいことであったとしても、賛辞に対してお礼を言うことなどできなかった。
そんな意図が伝わってしまったのか、天照大神の意識がこちらを向いた。
『八城凪。あなたが思う気持ちはわかります。あなたは自分の目的のために戦ってきた。それだけのために、命を賭けてきた。たとえあなたが行ったことに対して、これから犠牲となるはずだった人間を救うことができたとしても、あなたにとっては関係ないこと。そうですね?』
「……」
間違いなく事実であったが、あまりにストレートな言葉であったため、言葉を返すことができなかった。
『あなたは我々神の問題に関わり、力を尽くしてくれた。そのことに、私は本当に感謝をしています。だから、私ができる限りの、理から外れない願いを一つ。叶えてあげましょう』
天照大神から出た打診に、胸が高鳴った。
だが、すぐに冷静になる。
当たり前だが、なんでも願いが叶うと言っているわけではない。
できる限りの、理から外れないという二つの制限を付けた。
そのことに、落胆せずにはいられなかった。
「では、死んだ人間を生き返らせてくれと俺が願えば、その願いは叶うのでしょうか?」
隣で母さんがそっと顔を強張らせる。
「あんただけはそんなバカなことを言わないと思ってたんだけどね。がっかりだわ」
ホウキは大げさに肩をすくめてみせ、こちらを睨み付けた。
「あれはできる限りって言ったでしょ? 神にも人をよみがえらせることはできないのよ。そんなことをすれば、倫理観が崩れる。あたしたち神にある絶対条件の一つに、如何なる理由であっても人をよみがえらせてはいけないっていう決まりがあるのよ。たとえ、死んだあんたも、あんたが思っていたあの娘もね」
『ホウキ、凪もわかっている。その上で質問をしているのだ』
「ふん、どうだか」
苛立ちを隠す気もなく、ホウキは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
横顔に、一瞬寂しげな影が差していたが、それは気のせいだろうか。
俺は、黙ったままの天照大神に視線を戻す。
「ホウキの言う通り、死んだ人間を生き返らせることはできない。それは間違いないのでしょう?」
『……はい。私たちにどんな比があろうと、その者がどれほど生きる必要がある人間だとしても、私たちの力で人をよみがえらすということはできません。可能は可能です。あなたが死に際に受けていたダメージを全てなくし、蘇生することもできます。だが、それは絶対にやってはいけないことなのです』
「わかっていますよ。でも確認したかったんです」
顔に浮かべていた笑みを消す。
「あなたは俺がやってきたことを知っていた。その上で、願いを一つ叶えるなんて餌を吊せば、どんな願いをするかなんて、正直誰にでも予想ができる」
自分で言うのは何だが、俺は相当わかりやすい人間だ。
「あなたは俺が死んだ恋人を助けてくれと望むということを、俺の口から聞いておきたかった。自分たちの子孫がどんな人間になっているのか、自分の思い通りの人間でいてくれるかを知りたかった。違いますか?」
『……』
今度は天照大神が沈黙する。
「別に、それに対して怒っているわけではありませんよ」
また表情を崩して笑う。
「もし何でも願いが叶うというなら、望む願いは心葉を助けてほしい。それ以外にはありません。それがダメだというなら、願いはいりません」
『誰かを死から救うことの他に、願いはないのですか? 誰かを幸せにするでも、あなたたちの言葉を生きている者たちに届けることもできます。その権利すら、いらないと言うのですか?』
「はい」
俺は即答する。
「どんな願いも、神の助けを借りたという時点で理を冒すことになります。そこに神の意志が介入した段階で、それは本来人が辿るはずだった運命をねじ曲げてしまう。そうなってしまえば、それは俺の意志によって誰かの人生を変えたことになる」
『しかし、幸せになることや、言葉を届けることは、今を生きている人間にとって悪い要素は持ち得ません。そうなるように、行うことができます』
「そんなことはわかっていますよ」
自然と、口元が緩んだ。
「でも、俺がそんなことを願わなくても、生き残った皆はこれから正しい未来を生きてくれます。未来は、神様や俺に決められるものではない。自分たちが自分たちの意志で物事を動かしてこそ、納得のいく結末になる」
美榊島では、これまでも神々が美榊島に遊びに来て、その結果何かしら変化を及ぼしていくが、基本的に直接人の利益になること、不利益を被ることは起こしていない。
唯一の例外が、酒呑童子の神罰だ。
神々はわかっている。俺たちの未来は、俺たち自身が行動を起こしてこそ掴み取るべきものだと。
「まあ、必ずしも全てがうまくいくということはありませんけどね。俺がいい例です」
自嘲気味な笑みを浮かべて頬を掻きつつ、俺は眼前に浮かぶ光球を見つめた。
「天照大神様、願いの件は結構です。お断りします。あなた自身が願っている通り、これからを生きるあの島のやつらも、神の力を借りずとも、立派に生きる」
『絶対、ですか?』
「絶対です」
きっぱりと言い切る。
母さんが穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
天照大神は驚いたように言葉をなくしていたが、やがて思っていた通りの答えに満足したようにふっと笑った。
『わかりました。それも一つの選択。私も神として、あなたの導き出した答え、確かに受け取りました』
光の玉が一層強く輝いた。
『では、私は行きます。姫川陽、八城凪、もしどこかの世界で会うことがあれば、よろしくお願いします』
「もう死んでいる人間に対して、無茶を言いますね」
「まったくです」
苦笑して肩をすくめる俺と母さんに、天照大神は楽しそうに笑った。
『これは失礼しました。では、本当にこれが最期です。さようなら』
光の球体は、現れた際に砕いた上空の狭間に飛び込み、そのまま消えてしまった。
「どこまでも自分勝手なやつね」
最高神に毒を吐くホウキは一体何者なのだろうと疑問に思うが、それでもこういうやつだからということなのだろう。
神にも色んなやつがいるということか。
ホウキは金色の髪をなびかせながら、前に歩いて俺たちから距離を開けた。
「それじゃ、私も行くわ。久々に神界に戻ってちょっとゆっくりしようかしら」
「ホウキ」
軽快な足取りで歩き始めた彼女を、俺は呼び止める。
「今まで、ありがとうな」
「……何よ、急に」
俺たちに背を向けたままでホウキは足を止める。
今しか言えない言葉を投げる。
「これまで何度も助けてくれただろう。本当に助けられた。ありがとう」
ホウキがこちらを振り返った。
口を曲げ、目をすがめ、何のことを言っているのかわからない風を装っているが、微かに目が揺れていた。
ホウキは、何度も俺たちを行動によって助けている。
心葉が一人で外出して吉田に襲われそうになったとき、ホウキが心葉の部屋の前で騒ぎ、それで心葉が部屋にいないことを知ることができた。
天堵先生であった酒呑童子が夏休みの神罰に際に高校にいたという真実を、車に激突するという行動によってヒントを与えてくれもした。
そして何より、独りで心細かったり、落ち込んでいたりした際に、こいつは俺や心葉の側にいてくれたのだ。
それが、ただアヒルになりきっていただけでないことはわかっている。
「何のことか、わからないわね」
「それでも、ありがとう」
ホウキの顔がますますしかめっ面になる。
「そういえば、私のときも……」
「や、止めなさい! と言うかやっぱりあんた私の正体知っていたでしょそうなんでしょ!?」
「そんなことはなかったような。そうでもなかったような」
笑いながら母さんが首をひねってみせる。
ホウキはがっくりと肩を落とすと、大げさにため息を吐いた。
「でも、あんたが私を拾ってくれてから日々は、なんだかんだ言って楽しかったわ。それには感謝しなくもないわ」
母さんがちょっと意外そうに目を見開いている間に、青い二つの目がこちらを向いた。
「あんたのご飯は美味しかったわ。そのあたりは、母親似ね」
母さんも同じようなことをやっていたのか。
父さん相手にさぞ苦労していたことだろう。
どことなく感慨に耽っていると、ホウキが優しげに微笑んだ。
「お役目とは言え、あんたたちに会えたことを、私も嬉しく思うわ。それじゃ、またね」
ホウキは踵を返し、再び歩き始める。
同時に、足元から光の羽へと変わっていき、空高く上っていった。
『最期まで、素直じゃないやつだ』
天羽々斬の言葉に、俺と母さんは笑みを零した。
白炎を纏う刀は、俺と母さんの前に行く。
『では、我も行くとしよう。母子の別れを邪魔するほど、無粋ではないのでな』
変に気を利かせようとする神様である。
『ここで何か利いた別れ文句でも言えるといいのだが、生憎、凪には現世で言うべきこと言ってしまっているから、特に言うこともないな』
「俺もだな」
お互い苦笑する。
そして、天羽々斬が母さんへと意識を向ける。
『陽よ。お前の夫、それに加えお前の息子まで我々の戦いに巻き込んでしまったことを、申し訳なく思っている。すまなかったな』
「いえ、私たちはホウキと同じく箱庭を守護する神人。神々が窮地に立たされたときに動けずに、どうやって箱庭を守れましょうか。私たちは、私たちにできることをしただけです。それに」
母さんが俺の頭に手を乗せる。
「私たちが憎むべき相手は、私の息子が討ってくれました。それに天羽々斬様が力を貸してくれました。それだけで、十分です」
『そうか』
天羽々斬は言葉の端から嬉しそうな気持ちを零しつつ、再び俺に向かって言った。
『凪、本当に、お前という人間に会えてよかった』
「俺も、お前と一緒に戦えてよかった。悔いなくとはいけなかったけど、俺にできた全てのことだったんだと思う」
『その通りだ』
天羽々斬は頷く。
『できることには限界がある。それは人だけではなく神であってもそうだ。しかし、その限界は誰が決めるものでもない。自ら全力で辿り着いた結果が、その者にとっての限界なのだ。そして、お前は誰もが信じられないほどの成果を残した。それは、お前が自らの力で掴み取ったものだ。そのことを、忘れるなよ』
「ま、その限界でも、俺もあいつも死んじまったけどな」
『それでもだ。お前は最期まで諦めなかった。戦うことを止めなかった。それが、結果を生んだ。運命を変えた』
胸の中に、暖かいものが広がった。
死に行く俺に、天羽々斬が送ってくれた。
「ありがとう」
『礼を言われるのはこっちなのだがな』
天羽々斬の楽しそうな笑いが響く。
『では、これで本当にお別れだ。八城凪、姫川陽、またいつかの日まで』
天羽々斬を纏っていた白炎が勢いを増したかと思うと、天羽々斬自身も炎に身を変え、そして消えていった。
何もない、常世と現世の空間に俺と母さんだけが残る。
「これで、全部終わりだな」
神罰も、美榊島での生活も、俺の人生も。
思い返しても、悔いばかりが残っている。
しかし、神の力を使っても、如何なる方法を用いても過去を変えることはできない。
俺ができるべき最大だったと天羽々斬は、言った。
それで納得できるものではないが、天羽々斬の言葉は確かに伝わった。
「私も逝かなければなりませんね」
母さんが俺の前に躍り出た。
「一緒に逝けるんじゃないのか?」
「あなたはまだ死んだばかりですからね。もう少しは体が持つはずです。でも、私はほら」
母さんの足が、薄らと透けていた。
つま先から徐々に、体が光となって消えていく。
「凪」
母さんが両手を伸ばして俺の顔を包み込んだ。
「私は、母としてあなたに何もすることができませんでした。普通の母親してあげられることの何一つを、あなたに、そして勇にしてあげることができませんでした。苦労もかけたでしょう、辛いことも思いも、寂しい思いも、たくさんさせたと思います。本当にごめんなさい」
俺は母さんの両手を握り、そっと降ろさせた。
「確かに、何もなかったと言えば嘘になるな。母さんが知っている通り」
俺のことを全て見た母さんは、俺が自らの命を絶とうとしたことがあることも知っている。
「それでもな、俺は、この世に生まれてよかったと思う。母さんと父さんの息子に生まれたことに、本気の本気で感謝してる。これまで生きて、玲次や七海や、それ以外の多くの人に会えて、神罰を終わらせた。それで、こんな終わり方になっちまったけど、心葉に出会えたことが、俺の人生で一番嬉しいことだった」
十八年かかってやっと会えた母さんに、俺は言う。
「母さん、本当にありがとう。俺の母さんでいてくれて、俺を生んでくれて、俺に力を貸してくれて、本当にありがとう」
ようやく言えた。
胸が一杯になって、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
母さんが消えていく。
足が消え、体が消え、手も徐々に薄くなっていく。
「こちらこそ、ありがとうございます。私たちの子どもに生まれてくれて。神罰を終わらせてくれて、ありがとうございます。私たちの全てを解放してくれて、本当にありがとうございます」
母さんの言葉に、一斉に空間を覆っていた白が弾けた。
それは、膨大な神力だった。
微かに青みを帯びた神力の粒子が、境界であるこの世界からあちら側の世界へと去っていく。
これは、神罰で犠牲になってきた生徒のものだ。
酒呑童子の呪縛から解き放たれ、神々のシステムに従って常世へと帰って行く。
この世界は偶然できたものではなかった。
これまで犠牲になった生徒たちが、俺たちのためにこの世界を形作ってくれていたのだ。
それが今、彼らの魂が帰って行くと同時に、緩やかに崩壊へと進む。
そして、母さんの体もゆっくりと空へと登っていく。
もう少し母さんといたい。
そんな思いが無意識に働き、母さんの両手を掴む手に力を込めてしまう。
どこまでも穏やかに、そして寂しげに、母さんが微笑む。
「もうお別れのようです。凪、クリスマスがあなたの誕生日でしたね」
「……ああ。十八歳になったよ」
「おめでとうございます。そんなあなたに、私が、私たちがしてあげられる、最初で最後の、最大限の贈り物を。そして、あの人に伝えください。私は――――」
母さんの言葉が終わるか終わらないかというとき、母さんが消えていった。
そして、世界が再び真っ白に染まった。