38
美榊島に帰ってきてから今までのことが、一瞬で頭の中を駆け巡った。
長いようで、あっという間だった。
走り抜ける走馬灯。
数え切れない人に助けられ、多くの仲間を失い、恋人を失い、俺はここにいる。
神を殺すと息巻いて、この様だ。
体に落ちてくる白い空の涙。
本来冷たいはずのそれは、まったく温度を感じない。
体に触れると同時に赤い滴となって消えていく。
本当に、色んなことがあった。
皆で生き残ると願い、心葉を、仲間を守ると豪語した。
紋章を持っている心葉を救うために、神罰を終わらせることを決意した。
押さえ切れなくなって、全ての気持ちを心葉に吐き出した。
心葉が助からないことを知り、それでもなお戦った。
助けられなかった恋人を看取った。
神罰を起こしている神と対峙し、持てる全ての力を使い、神を打倒しようした。
そして、生きて全てを終わらせ、島を出るつもりでいた。
その未来は、完全に潰えた。
俺は死ぬ。
ここから生き残ることができる可能性は、万に一つも残ってはしない。
そう思うと、自然と口元が僅かに緩んだ。
これで、心葉と同じ場所に行けるのだと。
玲次、七海、理音、芹沢先生、黄泉川先生、彩月さん、円谷先生。
皆、怒るだろうな。
ごめん。
父さん。
絶対に生き残る選択をしろって言ってたのにな。
呆れるよな。
親不孝な息子で、悪かった。
心葉。
自分のために生きろと言ってくれたのに、それに背いた。
俺のことをどこまでも心配してくれていたのに、あいつはきっと俺がこの選択をすることをわかった上で、生きろと言ってくれていたんだよな。
最期のわがままさえ聞いてやれないダメな彼氏で、許してほしい。
やっぱり――使うよ――
酒呑童子の血に染まった腕が、俺の額へと乗せられた。
異質な存在が精神に、肉体に入り込んでくる。
体にできた隙間を自身の存在で埋めようと、浸食してくる。
そのとき、遥か上空から白い影が飛来した。
それは悪神の顔に体当たりをする。
「ガァガァッ!」
真っ白なボールみたいなその体は、この島にやってきてから毎日俺の側にいた、同居動物だった。
黄色いくちばしと足を使い、酒呑童子の顔をがむしゃらに攻撃する。
やめろと声を張り上げたかったが、掠れ出た声をホウキの風切り音によって掻き消される。
攻撃自体は気にもならない様子だったが、突然現れたホウキに苛立ちげに目を細めた。
「鬱陶しい羽虫が」
俺の頭から手を離し、早口に何かを唱える。
手のひらから飛び出した稲妻がおもちゃのような体を打ち、真っ赤な血を撒き散らしながらホウキは吹き飛び、俺の視界から消えた。
体が火のように熱くなった。
先ほどまでピクリとも動かなかった体に力がこもる。
右手が、左手首にはめられていたリストバンドを引きちぎった。心葉からもらったものであったが、戦闘によってボロボロになっており、簡単に破れた。
酒呑童子が緩慢な動きでこちらに視線を戻す。
もう生きることを諦めた俺が、何もできないと疑わないようだ。
確かに、俺にもう生きるという選択肢は残されていない。
でもな、できることが何もないわけではないんだよ。
俺は、左手を酒呑童子の胸に押し当てた。
酒呑童子は疑問に思い、左手を見る。
そして、そこにあるものに驚愕した。
目をこれ以上ないほど大きく見開き、わなわなと口を振るわせる。
次の瞬間、左手から漆黒の光が広がる。
二十センチくらいの球体になった光は、俺の腕と、酒呑童子の胸部を包み込んだ。
そして、ガラスのように弾けて消えた。
「――ッ!」
酒呑童子は俺を投げ捨てるように手を離すと、よろよろと後退した。
信じられないものを見て、感じて、現実に恐怖する。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
空を割るような叫びが響き渡ると同時に、酒呑童子の体から青白い光が飛び出した。
それは、膨大なまでの神力。
半世紀に渡って、この島の子どもたちから奪い続けた神力に他ならなかった。
今、その神力全てが、失われていく。
「あああああッ! 力が、我の力があああああッ!」
悪神が溜め込んでいた神力が溢れては弾け、粒子となって消えていく。
雪が降りる空に、対称的に神力の欠片が昇っていく。
「は……は……」
力のほとんど入らない足で血だらけの体を支え、小さく笑う。
酒呑童子が、本来の存在を示す、まさに鬼の形相で振り返った。
「貴様……ッ! なぜ、なぜ――」
その視線は、俺の左へと注がれている。
「なぜ貴様がそれを持っているッ!」
俺は左手をゆっくりと掲げた。
「お前が教えてくれたんだぜ? 酒呑童子」
ずっとリストバンドで隠されていた左手首が露わになっている。
掲げられた左手首。
そこには、白銀の光を放つ模様が描かれていた。
「神力は、遺伝する、ってな」
円を作るように描かれた文字や模様の中央に、太陽を模した紋章が刻まれていた。
授業でこいつ自身が言っていた。
神力は親から子へ遺伝するものだと。
そして、俺の母さん、姫川陽が持っていた紋章は、そのまま俺へと受け継がれた。
こいつ自身、気付いていなかったことだろう。
なぜ、今年の神罰が強大なものが多かったのか。
それは、単純に運が悪いなどという理由ではない。
神罰発動時、その発動に必要な力は心葉から吸い上げられ、さらに俺からも吸い上げていた。
確かに神罰開始時、空間がずれることによって酔いを起こす人間はおり、それによって神罰の開始を感じ取れる人間はいる。
だが、俺や心葉の場合は違う。
神罰開始時に倦怠感や疲労を覚えるのは、体から神罰を開始する際に神力を奪われているからなのだ。
俺と心葉、本来あり得ない二人の紋章所持者が同時に存在していたが故、神罰に使われる神力が多くなった。
その結果、神罰に現れる妖魔が強大になったのだ。
本来、紋章所持者が二人いるということは起こりえない。
なぜなら、紋章を得た人間は一年以内に死亡する運命にあるからだ。
高校生であるという事情もある上に、本来妊娠した生徒がいたとしても神罰に参加しなくていいから。
紋章所持者は酒呑童子が直接選んだのだろうが、わざわざ妊娠した生徒を紋章所持者に選ぶ必要がない。
その子どもに紋章が受け継がれる可能性は、おそらくさらに低い。
俺の紋章は、勝手に発動するという仕組みまでは引き継がれなかった。
しかしもう一方の力は完全に受け継がれていた。
使用した者の神力を食らい尽くすということと、紋章周囲の反神力物質を生み出すというものだ。
そして、俺は酒呑童子に対して紋章を使用した。
その結果、酒呑童子が集めた神力が反神力物質によって破壊されたのだ。
「あり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ない!」
酒呑童子が体を抱えて失われていく神力を掻き集めようとするが、全て溢れては消えていく。
止めどなく溢れ出た神力がやがて輝きを失う。
酒呑童子の体内に納められていた神力が全て、消えた。
「五十年……五十年かけて集めた……力が……」
うわ言のように、虚な目で繰り返す酒呑童子。
だが、やがて呆然とした顔に笑みを貼り付けた。
「いや、いや別に、いい。もう一度、もう一度集めればいいだけだ……」
考えるまでもないことであるにも関わらず、酒呑童子はそれが天啓のように感じられているようだ。
途端に狂ったように笑い始める。
「あははははははは! 我の力があれば、何度でも、何度でもッ!」
事実、酒呑童子の相手の体を奪うという力と、神罰を起こすだけの術式さえあれば、何度でも繰り返すことは可能だろう。
つい先ほどまでなら。
「……喜んでいるところ悪いが、残念ながらそれは無理だ」
笑いを止め、神力を急激に奪われすっかりやつれた顔をこちらに向ける。
俺はブレザーのポケットに手を入れて中のものを取り出し、酒呑童子の足元へと投げた。
グラウンドを転がっていくそれは、やや厚めのカードと数本のコード。
それは、様々な機能が備えられている美榊島市役所のカードキー。それに集音マイクだ。
酒呑童子はすぐに全ての状況を把握したように青ざめた。
「ここに俺が来てからお前が結界を張るまでの会話は、全部マイクで集めて美榊中に発信している。ここにいるからわからないだろうけど、たぶん結界の外はお前の正体を知った人間で溢れかえってるぜ?」
Θ Θ Θ
「くそっ!」
閉ざされた校門に拳を叩き付ける。
拳は校門の鉄柱にぶつかる前に見えない何かによって阻まれる。
美榊中に発信された信じられない話。
その話を聞きつけて数え切れない人間が美榊第一高校周囲に集まっていた。
閉ざされた空間により中に入ることはできないが、足掻かずにはいられなかった。
心葉の死を公表する段取りをしていた中で、俺たちのスマホやパソコンにその音声データが送られてきた。
発信者はあのバカだ。
ただの音声ファイルのみで、件名も本文も一切ない。
流れ出した凪と天堵先生との会話。
この島で起きていた全ての真実。
そして、天堵修司という人物が神罰を起こしていたという事実。
信じられない話であったが、それを裏付けるように導き出された凪の言葉が、信じがたい現実を肯定した。
音声ファイルを聞き終わり、凪の携帯電話に連絡を入れても繋がらない。
そんなとき、追加でメールが来たのだ。
会話が行われている場所と、そこが現在どういう状態になっているかが書かれていた。
メールの発信者は、閉ざされた美榊高校の前に立っていた。
そいつは今も高校を眺め、高校が開放されるときを待っている。
「理音、お前知ってたんだろ! どうして凪を止めなかった!」
メールの発信者に、理音を怒鳴りつける。
理音は悔しそうに唇を噛んで答える。
「止めてどうなるんですか? 一緒に行くというつもりっすか? 玲次君も七海も、もう神器すら持っていない。そんな状態で、この神罰を起こしている神を前に何ができるんすか?」
「だからってな――」
「止めなさい」
掴みかかろうとすると腕が引いて止められた。
「玲次、わかっているでしょう? あいつにとって私たちは足手まといでしかなかったのよ。だから連れて行くわけにはいかなかった。理音の選択は間違いじゃないわ」
七海の言葉に、カッと頭が熱くなった。
「そんなことはわかってるんだよ! でもだからってな……!」
その先の言葉は続かなかった。
神器の縁を切り、凪に譲渡した形になっている今では、俺たちにあるのは仙術と法術程度。
それが、神罰を起こしている神に通用しないことなどわかりきっている。
神器があったところで変わりはしない。
あいつにとって一番勝率が高く、犠牲も少ない方法が一人で戦うことだった。
七海が俺の手を両手で包み込んだ。
その手は血が通っていないように冷たく、震えていた。
「……私たちがしなければいけないことは、あいつが万が一にも負けた場合に命を賭して戦うこと。それだけよ」
あいつは、意味もなく音声ファイルを理音に頼んで撒いてもらったわけではない。
自分が解き明かした謎を真実としてこの島の連中に突き付けるには、実際に聞かせるしかなかったのだ。
信仰深い人間がいるこの島だ。
終わった後にこういう事実だと言っても、仮に神罰が終わっていたとしても理解されない可能性がある。
だから、事実を納めた音声データを撒いたのだ。
さらに、それを聞いた人間が実際に録音された美榊第一高校に集まるように仕向けた。
自分が負けた場合にも、その後の行動がしやすいように、神罰を起こしている術者を逃がさないようにだ。
そのために、この場には今年生き残った生徒だけではなく、もう神罰を終えた先輩や、これから神罰を迎えるはずだった後輩が集まったのだ。
まだ神力を豊富に持っている生徒たち。
音声ファイルが送られた人間は、凪とどこかで関わりを持った人間だけだ。
ここに集まった生徒は皆、凪と繋がりを持った生徒、もしくはその知り合いだ。
大翔さんや結衣さん、琴音さんたちも、OB、OGを連れて集まっている。
ここにいる全ての人間を、凪がたった一人で動かしたのだ。
この島に戻ってきて、まだ一年と経っていないやつがだ。
「もし天堵先生が、この神罰を起こしている神が出てきたら、そこからはお前らの仕事じゃない」
そう言ったのは、口にタバコを咥えた黄泉川先生だ。
紫煙を吐き出しながら、左手に持った刀を握りしめる。神器ではなく、この島で鍛えられた刀だ。
「まったくもってその通り。神罰が起きてからずっと気付けなかった、私たちの責任だからね」
もう八十を超えているにも関わらず、眼鏡の奥で鋭い光を放つ円谷先生は薙刀を肩にかける。
「いや、先生たちはもう神力が……」
七海が口を開いて止めるが、巫女服の彩月さんが笑いながら言う。
「侮ってもらっちゃ困るわよ、七海ちゃん。これでもまだ、戦える力は残っているわ。私を拾ってくれたこの島の未来のために命を賭けるだけの覚悟もね」
手の中には束になった呪符を掲げており、全ての呪符に神力がこもっている。
他の先生たちも、自らの力を、命を使うだけの覚悟を持っていた。
先頭に校長が歩いてきて、校門の前にいる俺たちに言った。
「彼が、この島と一番繋がりが浅い彼が、たった一人でこの島の未来のために命を賭けている。それに私たちが応えないで、一体誰が応えると言うんだ」
校長たちが言っていることはわかる。
この島で長い間一緒に仕事をしてきた同僚の中に、神罰を起こしていた張本人がいたのだ。
責任を感じないわけがない。
でも、先生たちが戦えるわけがない。
もしここで、凪が負けて天堵先生が、酒呑童子が出てきたのなら、そいつは凪よりも強いことになる。
憤りを抑えて、俺は校長先生に答える。
「先生たちの申し出はありがたいです。でも、これは今年の神罰を任されていた俺たちで始末を付けます。たとえ、差し違えることになったとしても」
「そんなことをさせられるわけが――」
「お取り込み中申し訳ないが」
反論しようとしてた校長の言葉を遮り、大して申し訳なさそうにも感じていない声が入ってきた。
生徒たちの間を通りながら、ゆっくりとした足取りで歩いて行く。
紺のジャケットに黒いスラックスを穿いた、どこか学者のような雰囲気を漂わせる男性。
誰もが焦りを覚えているこの状況でただ一人、涼しい表情でいるその男性の顔は、誰かよく知っているやつに似ている気がした。
突然現れた見知らぬ男性に戸惑う俺や七海たちとは対称的に、先生たちは現れた人物に驚きを隠せないでいた。
「お前……」
無表情を崩した黄泉川先生を初めて見た。
驚きで目を見開き、開いた口が塞がっていない。
男性は微笑みながら黄泉川先生の横を歩き、拳で軽く黄泉川先生の肩を叩いた。
そして、先生たちの先頭にいた校長に頭を下げる。
「お久しぶりです。如月先生」
「あ、ああ」
校長がたどたどしく答える。
「さっき話されていたことですが、先生たちが戦う必要はありません。もちろん君たちもだ」
最期の言葉は、俺たちに向けられていた。
怪訝な顔をする俺たちに、男性はどこか寂しそうな表情をして笑う。
「あいつが勝つ」
その言葉に込められていた、あいつが誰かということが一瞬で思い至り、同時にこの人が誰であるかわかった。
思い出した。
男性は、どこか懐かしさを孕んだ目で、未だに入れない高校の門に手をかける。
「あいつは絶対に負けやしない。私と陽の息子が負けるわけがない」
そして、微かに顔を歪めて、こう付け加えた。
「たとえ、自らが命を落としたとしても……」