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シンバツピリオド.  作者: 楓馬知
34/43

33

 クリスマスを控えた前日、クリスマスイブに、それは起こった。

 ずっと、妙な予感はしていたのだ。

 十二月頭に神罰が一度、朧車という妖魔の神罰が起きて以来、二十日近くも神罰が起きていなかった。

 神罰の長い歴史を振り返っても、これほど長く神罰が起きなかったことはないのだ。

 異例ずくめの今年の代で、早く神罰が起きてほしいという思いが生徒たちの中に募っていく。

 なぜ、神罰なんてもう起きなければいいとならないか。

 それは今年や過去の傾向が起因している。

 強大な妖魔や、単体神罰が起こるまでの期間は、大抵の場合前回の神罰からそれなりの日数が空くという傾向にあるのだ。

 今年で言えば、大百足の神罰、ガシャドクロの神罰もそうであるし、イレギュラーではあるが夏休みのダイダラボッチの神罰も前回から期間が空いていることになる。

 だから二十日も神罰がないというのは、次に来る神罰が強大なものになることを予感させ、言いようもない不安を覚えるのだ。

 日に日に増していく焦り。

 神罰が起きないことを恐怖することが来るとは、生徒も予想していなかっただろう。

 ピリピリとした空気が教室を埋め尽くしている。

 壇上にいる天堵先生も、たびたび腕時計を見て時間を気にしている。

 俺は、寒いが窓を開けて待機していた。

 ガシャドクロのとき、もっと早く行動をしていればあれほどの被害を出すこともなかったのだ。

 だから、神罰開始と同時にすぐに外に飛び出せるように、正午になるときは窓を開けている。

 今日は、生き残っているクラスメイトが全員教室に揃っている。

 この教室も、四分の一程度の席に空席があった。

 今思えば、俺もこんな異常な状況に慣れてしまっている。

 クラスメイトがこれほど死ぬなんて普通ではあり得ないことなのに、それを受け入れ、自らの席に腰を下ろして神罰を待っている。

 今日、神罰が起きなければ、午後は二学期末考査がある。

 それさえ終わってしまえば冬期休暇。

 また神罰がない休みに入る。

 もう誰も死なせやしない。

 心葉だけではない。

 この高校に生き残っている生徒や先生たちを、これ以上殺させはしない。

 そんな覚悟を裏切るように、それは起きてしまった。

 正午になると同時に、視界が真っ暗になった。

「あ……れ……?」

 気が付くと、視界に机や椅子の足、それからしゃがみ込む誰かの足が映っていた。

 何が起きたのかと気付くのに数秒かかった。

 俺は床に倒れていた。

 気を失っていたようで座っていた椅子から滑り落ちて床に倒れていたようだ。

 意識が覚醒し始めると、途端に吐き気と倦怠感が襲ってきた。

「何が……起きた……?」

 呻きながら体を起こすと、俺の周りに他の生徒が集まっていた。

「そりゃあこっちのセリフだ。お前らいきなりどうしたんだよ」

 お前ら。その言葉からわかるように、倒れているのは俺だけではなかった。心葉もだったのだ。

 心葉も頭を抑え顔を歪めながら辛そうに呻いている。

「……わっかんねぇ、それよりも、神罰はどうなってるんだ?」

 ふらつきながら天羽々斬を作り出し、杖代わりにして歯を食いしばりながら体を起こす。

 生徒たちを閉じ込めるための漆黒の結界が校舎を包み込んでいた。

 不快感がひどいが、そんなことを気にしている場合はではない。

 こういったときの神罰は、とんでもないやつだと体感的にわかっているのだ。

 予想は的中した。

 校舎から最も離れたグラウンドの端。そこに黒い空間の歪みが渦巻いている。

 それほどの大きさはない。一メートル四方と言ったところか。ダイダラボッチやガシャドクロに比べれば遥かに小さい。

 本来ならこの場で飛び出すべきだ。

 いや、飛び出さなければいけなかったのだ。

 だが、体が思うように動かず、仙術で体を無理矢理調整する。

 そうしている間に、空間の歪みからそれは現れた。

 人。

 人が立っていた。

 空間の歪みから現れたその人物は、高貴な着物に身を包み全身に赤い気のようなものを纏い、グラウンドに立っている。

 見たこともないような美しい女性だ。

 だが、一目見てわかった。普通の人間ではない、と。

 あれは、まさか。

『まずいぞ! あれは――』

 天羽々斬が焦って声を上げる。

「なんであんなやつが!」

 玲次は現れた着物の女性を視認すると同時に、窓際の椅子を蹴り飛ばして足場を造ると、手の中に巨大なレールガンを作り出した。

 窓を叩き付けるように引き開けると、銃口を数百メートルは離れている着物の女性に向ける。

 そして迷わず引き金を引いた。

 ほとんど狙いを定めずに放った一撃にも関わらず、打ち出された銃弾、如何なるものも貫き通す水波は、的確に女性に向かって飛ぶ。

 いきなり女性に向かって攻撃を仕掛けるなんて、普通であれば正気の沙汰とは思えないが、玲次の判断は誰もが正しいと思っただろう。

 一撃とはいかなくとも、水破はどんな物質であろうと貫通する性質を持っている。

 だが、その銃弾はいとも簡単に、女性の前に現れた障壁によって消失した。

「くそっ!」

 玲次は何度も水破を放ち、雨のような銃弾、兵破をも放つが全て弾かれてしまった。

 女性の周りには、空間そのものを固めて作ったような壁が幾重にも張り巡らされており、全ての銃弾はその光に触れると同時に力を奪われるように消え、攻撃としての役割を果たさなくなっている。

「まずい……なんてものじゃないわね……っ」

 目の前の光景が信じられないように七海は目を見開き、両手をきつく握りしめている。

 玲次がいくら弾丸を放ってもまったくダメージを与えることができず、俺は動きが鈍い体に鞭打って窓際に足をかけたとき、女性に変化が起こる。

 突如、女性がニヤリと笑った。この世のものを全て嘲笑うような凶悪な笑みが、教室にいる俺たちに向けられた。

 女性は大仰に手を持ち上げると、胸の前でそっと手を合わせた。

 一瞬にして、女性の姿が赤黒い結晶、石のようなものに変化する。

 続いて、石から腐った肉のようなドロドロした物体が吹き出し、それを自身の周囲に纏わせ始めた。それと同時に、纏っていた赤い光も大きくなって周囲に広がる。

 それが脈打つタイミングに合わせて連続して起こり、徐々に肉の塊は肥大していく。

 現れる肉は石と同じ赤黒い不気味な色をしており、血液が流れているのか表面にはいくつもの赤い線が走っている。

 明らかに普通ではない妖魔。

 しかし、その形容しがたい妖魔は、過去の記録に確かに存在する。

「ああなってしまったら、もう止められないわ……」

「わかってる! わかってるそんなことは!」

 喚くように怒鳴ると、玲次は雷上動を窓枠に叩き付けた。

 そして、悔しそうに歯を食いしばり、壇上付近に立つ天堵先生へと目を向ける。

 天堵先生は戸惑ったように震えており、何もしようとしてはいないのだが、玲次たちはその様子にもどかしさを感じているようだ。

 不意に、教室の前の扉が開いた。

 現れたのは黄泉川先生だ。

 黄泉川先生はいつもと同じ気だるげな表情をしていたが、目は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされている。

 視線が教室の一番後ろで机に手を突き体を支えるように立つ心葉に向けられる。

 心葉は、驚きを隠せないように、信じられないものを見るようにグラウンドにある石を凝視していたが、やがて小さく笑った。

「あーあ、もう少しで、凪君とクリスマスが迎えられたのにな……」

 そんなことを呟き、ため息を落として玲次に視線を向ける。

「……いいよ、玲次君」

「――ッ! よくねぇだろッ」

 怒りを抑え込むように雷上動を握る手に力を込めると、銃身で教室にあった机を叩き割った。

 近くにいたクラスメイトが悲鳴を上げて玲次から距離を取る。

 息を荒くし、目を血走らせた玲次は、ゆっくりと教室にいる生徒たちを見渡した。

 そして、言う。


「全校生徒、校舎から出ろ。グラウンドから最も離れた外壁付近に散らばれ」


 それは、事実上戦うことを放棄したということだ。

 誰も玲次の言葉に異議を唱えるものはいなかった。

 他の生徒たちも、既に状況を把握しており、他のクラスと連絡を取り合って、教室から出て行った。

 三十秒と経たず、教室はおろか、校舎からほとんどの人間が消え去った。

 教室に残ったのは、俺、心葉、七海、玲次、黄泉川先生、それから他のクラスが待避したことを確認し終えた理音がやってきた。

 天堵先生は廊下に出ている。

 なぜこんな状況になっているか、理解が追いつかない。いや、単にしたくないだけなのかもしれない。

 俺は体を動かそうと必死に神力を体に満たしているが、それでも全快になるまではまだ時間がかかる。それほど、消耗してしまっていた。

 グラウンドでは、肉の塊は肥大を続けており、もう十メートルほどの大きな塊に姿を変えていた。

「凪、七海、お前らは他の生徒と一緒に批難しろ」

 玲次が言った信じがたい言葉に、耳を疑った。

「な、に言ってんだよお前!」

 足をもつれさせながら玲次に掴みかかり、胸ぐらを締め上げる。

「あいつを倒さないと神罰は終わらない。逃げ切れるわけないだろうが、あの妖魔から!」

 もう、あの妖魔が何であるのかはわかっている。

 理解したくない。理解するわけにはいかない存在。

「いや、八城と西園寺だけじゃない。片桐、白鳥、お前たちも教室から今すぐ出ろ」

 その言葉を発したのは、これまで神罰においてほとんど口を挟むことのなかった教師、黄泉川先生だった。

 壇上の方から散乱した机を避けるように俺たちの方へ歩いてくる。

「どちらにしても、これは生徒には誰にも見せてはいけないことになっているからな」

 黄泉川先生は覇気のない声で呟きながら、白衣の内ポケットに手を入れ、そこから黒い金属製の物質を取り出した。


「紋章所持者を殺す現場は、生徒たちには見せてはいけないことになっている」


 黄泉川先生が取り出しのは一丁の拳銃だった。

 テレビや写真でしか見たことのない重量感のある金属で作られた武器。俺たち一般人がそう簡単に見ることができない人を殺すために作られた武器が、そこにはあった。

 人に向けられるだけでも憚られる銃口は、真っすぐ向けられている。

 心葉に向かって。

「な……にを……」

 言いながら、理解した。理解してしまった。

 引き金を引けばそれだけで人を殺す力を持った武器を前に、心葉は穏やかな表情を浮かべていた。

「いいんだよ、凪君。こうなったからには、もう仕方ない」

 なぜ、心葉がそんなことを言うのか。

 これまで幾度となく諦めてもおかしくない状況だったにも関わらず、最期のときまで生きることを諦めずにそこに立っていたはずの心葉が、なぜそんなことを口にするのか。

 その理由を、黄泉川先生が口にする。

「お前はまだ知らないんだな。どうして俺たち教師が死の危険を冒してまで、校舎に留まるのか。それは、生徒たちのケアやフォローをすることも当然あるが、そんなものは二の次だ」

 これまでしてきたことがついでであったことを打ち明ける黄泉川先生。

 では、何が本来の目的であるのか。

 答えは、考えれば簡単に想像が続くことだった。


「俺たち教師は、生徒たちが神罰において勝ち得ない敵、妖魔が現れたとき、できる限り多くの生徒を救うため、紋章所持者を殺すためにいるんだ」


 疑問に思ったことがなかったわけではない。

 神罰において、現れる妖魔は傾向こそあるが基本ランダムで、相性などによっても妖魔に勝てる確率は差異が出てくる。

 極論を言ってしまえば、全校生徒の力をあらゆる方法を持ってしても勝てない妖魔が出てきた場合、どうすればいいか。

 至極簡単で最も合理的な判断だ。

 紋章所持者を殺せばいいのだ。

 そうすることによって、その年の神罰は終わり、生徒を助けることができる。

 これは神罰の原則から言うとかなり問題のある行動だ。

 神罰は生徒たちが受けなければいけないものであると定めているにも関わらず、それを大人の手によって紋章所持者を殺し止める。

 そんなことをして、神罰を起こしている神の逆鱗にでも触れてしまえば、さらにひどい状態になる可能性があるのだ。

 紋章を使用できるのは紋章所持者のみ。それ以外の方法で紋章を発動させることはできず、また生徒に生徒を殺させるわけにもいかない。

 それをわかった上での行動。最悪の最終手段。

 教師が神罰を止めるために紋章所持者を殺すこと。

 黄泉川先生がいる意味はそれであり、今その役目を全うしようとしている。

「ま、待ってください先生!」

 俺は心葉と黄泉川先生の間に割って入った。

 銃口が俺に向いているが、怯まず言う。

「まだ俺たちが勝てないと決まったわけじゃないでしょう! 心葉を殺すと判断するには――」

 抗議の声を上げるが、視界の隅に映り込んだ真っ赤な肉の塊に、途中で言葉が続かなくなった。

「ごめん、凪君」

 背中に、コツンと心葉の額が押し当てられる。

「でも、無理だよ。あの化け物には、誰も敵わない」

 泣き出しそうな声を必死に押し殺すようにして言葉を吐き出す。

 肉の塊は、今ではあの妖魔本来の姿を変化している。

 全長おそらく四十メートルほどの体躯。

 先ほどまでの剥き出しの肉ではなく、体表には金色に輝く体毛を持っており、体は全体的に細く、手足からは巨大な鈎状の爪が伸びている。口からは剣のような牙が何本も突き出ており、垂らしたよだれはグラウンドを溶かした。目は人形のように真っ黒で、まったく生気が感じられない。

 その姿は、生き物で言うなら狐。

 だが、通常の狐が持ち得ないものを、その狐は持っている。

 それは、九本にもなる尻尾。

 扇を広げるように狐の背後に広がる九本の尾は、その存在が何であるかを象徴している。

 銃口と視線を真っすぐ俺の後ろにいる心葉に向けたまま、黄泉川先生は言う。

「あれは、【金毛九尾の狐】。過去の歴史で一度だけ現れた妖魔。現れた際に、数え切れない生徒を一瞬で殺した、神罰史上最強の妖魔だ」

 狐の魔物、憑き物として世界各地に伝説が残っている妖怪だ。

 おそらく最初に現れた女は玉藻前だ。九尾が化けたとされる絶世の美女と言われており、人を騙すために変化した姿と言われている。

 中国の王朝などをいくつも滅ぼしたと伝えられており、その力は世界中に知れ渡っている。

『その教師の言う通りだ。あの姿、あの力、金毛九尾の狐に間違いない』

 天羽々斬に言われるまでもなく、わかっていた。

 過去の記録を調べて、あの妖魔のことを知らないわけがない。

 なぜなら、あの妖魔は……。

 俺の背中にしがみつくようにして、心葉が呟く。

「総一さんたちの代を滅茶苦茶にした妖魔なんだよ。知らないわけないよね……」

 玲次の兄、総一兄ちゃんや、結衣さんの許嫁である紋章所持者の男子生徒までも殺し、その世代を空白の世代たらしめた存在だ。

「過去の神罰の記録において、最も強く対処できないとされた妖魔。あの妖魔が出現した段階で、俺たち教師は紋章所持者を殺す権限を与えられている」

 いつの間にか廊下に、芹沢先生、天堵先生、円谷先生を初めとした、先生たちが廊下に立っている。

「俺たちは基本神罰を見守る立場だ。生徒たちが神罰において生き残れるようにな。だが、あの九尾はそんな希望を与えてくれないほど強大だ。俺たち美榊の人間が受けないといけない罰であったとしても、生徒が全員死ぬ状況を看過できない。ここで椎名を殺せば、とりあえずは全員助かるんだ」

 黄泉川先生の判断は、おそらく正しいのだろう。

 九尾の妖魔が動き出すまでは時間がかかる。だから今はまだ安全だ。さらに出現時からしばらくの間は、攻撃をまったく寄せ付けない状態にあり、何をしても無駄だ。代わりに九尾自身も攻撃をしてくることはない。

 だが、あの九尾がひとたび動き始めれば、ここは地獄と化す。

 その前に、それまでの間に心葉を殺してしまうというのは、勝てない戦いを一部でも勝ちにするという選択で、間違いはないのだ。

 それならどうして、どうして今まで心葉を生かすなんて考えを取っていた?

 そんな考えが沸いてきたが、その考えが愚かでどうしようもないものだとはわかっている。

 先生たちは、心葉を、紋章所持者を苦しめるためにいるわけではない。

 生きることができない重過ぎる枷をかけられた生徒に、少しでも長く生きさせてあげようという、暖かい感情の上に成り立っているのだ。

 現在の状況は、他の生徒はおろか、紋章所持者の心葉でさえ助からないという状態になっている。

 それなら、心葉を殺すという考えは合理的と、言える。

 ――知るかそんなこと。

 天羽々斬から火球が飛び出し、黄泉川先生が構えていた拳銃を捉えた。

 真っ白の炎は瞬く間に、拳銃全体を覆い、その存在そのものを破壊する。

 熱は感じないにしても、手中の拳銃が炎によって焼き尽くされたにも関わらず、黄泉川先生は表情一つ変えず消えていく炎を見ていた。

「……今のはお前の意志か? それともその刀の意志か?」

 黄泉川先生が問うた。

「俺たちの意志です」

 正直、俺が飛ばしたのか、天羽々斬が飛ばしたのかがわからない。気が付けば飛んでいたのだ。

 しかし俺も天羽々斬も、納得していないのは確かだ。

 

「黄泉川先生、それと他の先生も、俺にチャンスをください」


 俺と心葉は、二人だけで屋上に上がっていた。

 眼下にいる金色の獣は、まだ動かない。あれは、体を動かすまでに時間がかかる。

 金毛九尾の狐は、過去の資料に正確な情報が残っている。数年前に起きた神罰であるため、一回だけとはいえそれなりの情報が残っていた。読んだのは転校直後だが、資料を記したのが結衣さんと琴音さんの二人だったということを知ったのはつい最近だ。

 二人の許嫁をいとも簡単に奪い去った妖魔を、彼女たちが記してくれている。

 勝てる可能性は、正直絶望的だ。

 あの妖魔はあらゆる意味で規格外だ。

 だが、勝てなければ俺たちに明日は来ない。

「本当に、戦うの?」

「戦わないっていう選択肢が、俺にあると思うのか?」

 逆に聞き返す。

「俺一人でも、絶対に勝ってみせる。この世に勝てない敵なんていない。九尾がいかに強大であったとしても、勝つさ」

 安心させるために精一杯の笑みを浮かべながら、心葉の額をチョップする。

 クローバーの髪飾りが少しずれ、俺はそれを両手で正した。

 俺は、玲次たちを下がらせた。

 これは俺のわがままだ。

 玲次たちも、心の中では心葉を殺すことが正しいと理解してしまっている。

 これまでの俺たちが力を合わせれば勝てた妖魔と違い、あの妖魔は絶対に勝てないとされる最強クラスの妖魔だ。

 全校生徒を率いる身として、勝てない戦いは避けるべきであるという考えは正しい。

 もっとも、俺はそんなものを気にするほどまじめではない。

 また、先生たちも心葉を生徒棟の屋上に待機させることによって説き伏せた。

 全校生徒は今外壁近くまで散っているので、グラウンドの近い場所ある生徒棟の屋上に心葉を置けば、生徒たちが攻撃を受ける前には心葉が攻撃を受けることになり、結局生徒たちは死なずに済む。

 反対もあったようだが、その辺りは黄泉川先生と如月先生が説得してくれた。

 俺が暴れ回るよりはいいとの判断だろう。

「でも、勝てないよ……」

 心葉は今にも泣き出しそうな表情で俯いた。

 俺が戦うと言ってからずっとこの調子だ。

 心葉は、総一兄ちゃんたちが死んだ神罰のことを実際に聞いている。だから、あの妖魔の強さを知っているから、どうしても悲観的にならざるを得ないのだ。

 右手の腕時計にちらりと視線を向ける。

 神罰が始まってから、後一分で十分になる。総一兄ちゃんたちのとき、九尾は十分後に動き出したと記録されている。どうやらその通りになりそうだ。

 九尾は四つの足で立ったまま、微動だにしない。結界と同じ漆黒の瞳は何も映していない。それなのに、俺たちを笑っているように見えた。

 嘆息を零して、心葉に言う。

「おい、今日は何日だ?」

「……十二月二十四日、です」

「そうだ今日はクリスマスイブだ! なのに、うら若き乙女がそんな顔してんじゃないよ!」

 ずびしと、少し強めの手刀を額に入れる。

 あうと悲鳴を上げて心葉が涙目になる。

「お前、自分から彼氏をデートに誘っておいて、すっぽかすとかふざけたことは言わないよな?」

「それは……」

「それはもへちまもない! お前がここで俺に戦うなというのは詰まるところそういうことだ」

 約束は破るためにあるとどっかの誰かが言っていたが、ふざけんな。

 守るためにあるに決まってるだろうが。

「俺はなんとしてでも、九尾に勝つ。だからお前は、何も気にせず、ここで自分の身だけを考えて守っとけ」

 ここも、九尾の攻撃範囲になっている可能性がある。ほぼ間違いなくなっている。

 だから、自衛だけはしてもらわなければならない。

「……お前は、本当に俺が勝てないと思うのか?」

 俺の問いに、心葉は俯いたまま答えなかった。

 初めて、心葉に対して苛立ちを覚えた。

 どうして、信じてくれないのかと。

 突然沸き上がってきた感情に、内心舌打ちを打つが、苛立ちは納まらなかった。

 これまで、いつでも俺を信じてくれた彼女が、勝てないと思っている。何かを諦めてしまっている。そう考えると、心の中で何かが折れそうになった。

 その何かは、頭の片隅に追いやる。

『凪、落ち着け』

 わかってる。大丈夫だ。

 天羽々斬にもわかるほど揺れている事実に、また憤りが沸いてきた。

 もう時間がない。

「いいさ。そこで見とけ」

 投げやりに言って、俺は手すりの上に飛び乗る。

「凪君……っ」

 俺の感情を察してか、慌てたように読みかけるが、もうすぐ十分になる。

 振り返り、笑みを作る。

「悪い、後で聞く。俺が勝った後に、また聞かせてくれ」

 心葉の表情に、沈痛なものが走った。

 作り笑いを見抜いてしまった。そんな表情だ。

 それを必死に隠すように、心葉も無理に作ったような笑みを浮かべた。

「ごめんね」

 何に対しての謝罪だったのか、正直わからなかった。

 それに気付いてさえいれば、何かが変わったのかもしれないのに。

 ただ、苛立ちと焦りと、時間を気にしていた俺は、前を向き、言う。

「行ってくる」

 俺は、手すりを蹴って屋上を飛び出した。

 


 空中をゆっくりと駆けながら、九尾を見やる。

 外見だけ見れば、大百足のように凶悪なわけでもなく、ダイダラボッチに比べれば小さく、ガシャドクロみたく強力な武器を体に持っているわけでもない。

 だが、それらの妖魔と九尾がぶつかった場合は、百パーセント九尾が勝つ。

 それほどまでに力の差がある。

 厳密に言えば、能力の差だ。

『九尾を倒す方法は簡単明瞭だ。わかっているな?』

「もちろんだ」

 過去一度現れた妖魔であり、そのときは紋章所持者が死亡することによって神罰を終了したが、九尾の倒し方は推測することができる。

 最初に現れた美女、その後変化した石のようなもの、それから変化して今の九尾の形になっている。

 問題となるのは、九尾になる前の石のようなもの。

 あれは、殺生石と呼ばれる代物だ。

 九尾が形を変えたもの、毒石などと呼ばれることもあるが、殺生石は九尾の核となる部分だ。

 その部分を破壊すればまず間違いなく九尾は消滅する。

 どこにあるのかはわからない。しかし、巨大とはいえ、四十メートルほどの体躯のどこかに直径一メートルにもなる石が存在している。

 その殺生石を破壊さえすれば、九尾は倒すことができる。

 これだけ聞けば、それほど難しくないように聞こえる。俺が全力をぶつければ、九尾の体を粉々に吹き飛ばすくらいのことはできる。

 それが、できればの話なのだが。

 九尾に纏われた赤黒いオーラのようなものの色が変わると同時に動き始めたと、結衣さんたちの資料にある。

「行くぞ天羽々斬! 最初から、手加減なしだ!」

『心得ている。私の力、好きなだけ持っていけ』


「――神懸かりッ!」


 体が白銀の炎となって燃え上がる。

 爆発的に能力全てが向上し、巨大化した天羽々斬を頭上に掲げる。

 こいつが動き出すと同時に、攻撃が届くようになる代わりに、相手も攻撃をしてくるようになる。

 初撃でできる限り、ダメージを与える。

 白銀の大刀を振り上げ、込められるだけ神力を流し込む。

 直後、纏っていたオーラが完全に血のように鮮やかな赤へと変わり、漆黒だった目が赤に変化した。

 自身の体がオーラのようなものに触れないように注意しながら、瞬間的に間合いを詰め、体が僅かに動くか動かないかのタイミングで、俺は掲げた天羽々斬を九尾の頭に向かって振り下ろした。

「砕け散れッ!」

 直撃すれば、文字通り粉々になるほどの暴虐なまでの力だ。

 白銀の刃が、九尾を捉える。

 

 結果は、呆気ないものとなった。


 振り下ろされた刃は確かに九尾へと届いた。額を打つように、当たったことまで確認できている。

 だが、天羽々斬の一撃は、九尾の頭を僅かに裂いただけだった。

 真っ赤な血液が飛散し肉が飛び散ったにも関わらず、九尾は微動だにしない。

 それどころか、刻まれた傷から新しい肉が吹き出し、急速に修復を始める。

 さらに周囲のオーラが九尾の鼻先に圧縮され、サッカーボール大の赤い球体に姿を変えた。

 そして、球体から巨大な砲撃が放たれる。

「ぐっ――」

 ほとんど零距離から放たれた砲撃を天羽々斬の腹で一瞬受け止め、受け流して打ち払う。

 砲撃は上空に打ち上げられ、漆黒の結界に直撃する。そのとてつもない一撃に結界全体が揺れた。

 受け流しただけの衝撃で体が吹き飛ばされそうになるが、どうにか堪えて持ちこたえる。

『怯むな! 立て続けに仕掛けろ!』

「わかってる!」

 天羽々斬に返事を返しながら左手を前に出し印を結ぶ。

 早口で呪文を唱え、集めた神力を雷に変える。

 以前は両手の印が必要だったこの法術も今では片手で十分な威力を生み出せる。

「【天雷法】!」

 九尾の頭上から巨大な雷の竜が打ち下ろされ、その体を穿つ。

 巨大な熱量と衝撃波により、九尾の頭が砕ける。

 だがその一撃も予想されるものよりも遥かに低い威力になった。

 傷つけていた部分の肉が飛び散り焦がしたが、本来であれば頭を根こそぎ消し飛ばすくらいの威力があったのだ。

 俺が使った力に比べ、威力が明らかに低過ぎる。

「これが、九尾の力か……」

『そうだ。瘴気を前には生半可な攻撃は通じない。全ての攻撃が弱体化される』

 ダイダラボッチと同等の回復能力。

 大百足やガシャドクロ以上の攻撃能力。

 だが、そんなものすら九尾の瘴気の前には劣ったものになる。

 瘴気。それが九尾の最も脅威になる能力だ。

 瘴気は神力の亜種に分類される力であるが、性質が異なる。

 紋章を使用した際に発生する反神力物質とはまた別の力となるのだが、神力が新たなものと作り出す力であるに対し、瘴気は物質を消失させる力になる。

 九尾はその力を全身にオーラとして覆っている。

 だから俺たちが扱う神力の攻撃全てが弱体化し、九尾に届くまでには微々たる攻撃力しか発揮することができない。

 天羽々斬を扱っている俺の力でこのダメージしか与えられないのだ。

 総一兄ちゃんたちの代も、全ての生徒が総出で攻撃を仕掛けたが、まともなダメージすら与えることができなかったそうだ。

 さらに、俺たち人間はあの瘴気には生身で触れることができない。触れれば、体が炭化したように消滅させられる。

 先ほど、瘴気の砲撃の受け流し切れなかったものが一部顔を掠めていたが、その部分の肉が僅かに炭化している。痛みなどはなく、その分逆に恐ろしい。

 生物の命を狩り取るための力。

 それが瘴気だ。

 九尾の焼けた頭部には新しい肉が覆われ、五秒と経たない内に元の綺麗な金毛へと戻った。

「化け物め……っ」

 あらゆる点でとんでもないスペックを誇っているのだが一番厄介なのが、この九尾にまともにダメージを与えることもできない状態では、どうあっても核である殺生石を破壊することができないということだ。

 神力と瘴気は相殺する。だから神力での攻撃をひたすら繰り出せば、瘴気も減少して攻撃は届くようになる。

 しかし、九尾から溢れる瘴気は増え続け、攻撃の手を止めると溢れ出した瘴気によって近づくことすらできなくなるのだ。

 そして、溢れ出した瘴気は攻撃にも使われる。

 九尾は首を上げてこちらを見ると、口を曲げて笑った。

 周囲に瘴気の球体がいくつも生成される。

 俺は咄嗟に九尾の真上に飛んだ。

 先ほどまで俺がいた場所を深紅の砲撃が打ち砕く。さらに上に飛んだ俺を追うように刃が飛来した。

 低い位置で戦えば端に逃げているとは言え他の生徒にも被害が及ぶ可能性がある。

 だから上空に逃れたのだが、刃は執拗にどこまでも追ってくる。

 俺は天羽々斬から炎を放って刃を打ち落とす。

 だが、回避している間に九尾が一瞬で間合いを詰め、鋭利な爪を備えた腕を振り下ろしてきた。

 瘴気も纏われているため、ただ受けるだけではこっちの体がやられてしまう。

 全身に炎を纏い、振り下ろされた腕を逆に斬り飛ばす。

 そのまま神力を全身に漲らせ、九尾に向かって突進し、体毛に覆われた胸に天羽々斬を突き刺した。

 そこから刀の炎を爆発させて九尾の肉を抉ると、頭目掛けて斬り上げる。

 至近距離であったため攻撃はそれなりにまともに入り、九尾の頭が今度こそ真っ二つに割れる。

 だが斬り裂いた部分に殺生石はなく、九尾は瞬く間に体を修復した。

『これ以上はまずい。一旦離れろ』

 天羽々斬の指示に従い、九尾の体を蹴り飛ばして距離を取る。

 体中に漲らせていた銀炎がほとんど失われている。

 九尾の体から止めどなく溢れ出す瘴気に神力が消失させられる。

 神力と瘴気の関係はどちらかが優れているというわけではなく、単純に数字のプラスとマイナスの関係のようなものだ。

 こちらが百の神力を用いれば瘴気も百減らすことができると考えていい。

 だが、神力を多く持っているとされるが人の身である俺と、純粋に化け物として生まれた九尾とでは保有量に差がある過ぎる。

 追撃を放とうとしたところで、九尾が体を引いて大きく口を開けた。

 やばいと感じたときには、口の中に溜め込まれた瘴気がブレスとなって吐き出された。

 全身に炎を纏って防御の体勢を取ったが、ブレスは根こそぎ炎を吹き飛ばし、俺は衝撃を受け流すこともできず地面に叩き付けられた。

「がっ……はっ……!」

 潰れた肺から血が噴き出し、呼気とともに一気に吐き出される。

 地面を転がりながら体勢を立て直し、すぐに横に飛ぶ。先ほどまでいた場所を九尾の足が踏み潰した。

「天羽々斬、傷を塞いでくれっ」

『今やっている! とりあえず時間を稼げ!』

 天羽々斬はその膨大な神力を消費することで、九尾ほどではないにしろ人間離れした再生能力を発揮する。だが、それも安静にした状態であればの話だ。

 こんな乱戦の中ではどうしても治癒能力は下がってしまう。

 治療は天羽々斬に任せ、俺は追撃を駆けてくる九尾を迎撃する。

 名を表す九つの尻尾が鞭のようにしなり、あろうことか伸びて襲い掛かってきた。

 バックステップで距離を取っていきながら左手に鞘を生み出して炎刀を納める。

 神力を鞘に流し込み、圧縮し放つ。

 刹那の間に、踊っていた尻尾を全て切断する。

 さらに抜き放った刀を体に引き寄せ、神力を先端のみに凝縮し、それを突き出した。

 ライフルの銃弾のように速く飛来する銀の槍は九尾の胸を穿つ。

 だが威力の軽減された攻撃は僅かに体に食い込んだだけで、制止する。

「くそっ!」

 悪態を吐きながらその場を離れようとするが、先ほど斬り落としたばかりの九尾の尾が足に絡みついた。

 足に神力を集めて浸食は回避したが、振り払おうとしたときにはいとも簡単に体をすくい上げられて体が宙に浮いた。

 飛行して回避しようとするが、足に絡みついた尻尾は振り払えない。

 咄嗟に左手に持っていた鞘を刀に変え、切断することでなんとか逃れた。

 だが、そんなことをしている間に九尾がすぐ目の前まで接近していた。

 俺のすぐ眼前には瘴気の巨大な塊が形成される。

 こんな距離で攻撃を受ければ一溜まりもない。天羽々斬で防御しても同じことだ。肉片すら残さず消し飛ばされる。

 それなら瘴気の塊を斬り裂けばいい。

 そう考え、両手で刀を握りしめた。

 しかし、その行動を読んでいたように、瘴気の塊は無数の粒子へと分裂した。

 目を見開き見据えた九尾の口は、卑しく歪んでいた。

 絶対的な力の差を見せつけるように、嗤うように。

 回避するためになりふり構わず飛ぼうとするが、それより早く瘴気の粒子が光を放たれる。

 ――避けられない!

 一か八か全身に全ての神力を込めて防御しようとしたとき、視界を炎が埋め尽くした。

 俺の輝くような白炎ではなく、猛り狂う怒りの紅炎だ。

 粒子となっていた瘴気を瞬く間に焼き尽くしていき、爆発する前に全てが消え去った。

 何が起きたのかがわからず、九尾が僅かに首を傾げた。

 同様に呆けていた俺の手が高速で接近してきた何かに引かれ、地面に降ろされてそのまま九尾から離れていく。

 誰に引っ張られているのかは容易に想像が付いた。

 九尾がこちらを追いかけようと足を踏み出した途端、次に現れたのは怒濤の弾丸の嵐だ。

 数え切れない弾丸が嵐のように飛来し、九尾を襲う。

 瘴気に守られた九尾に弾丸は届かないが、それでも徐々に瘴気のバリアが削られる。

 そこに先ほど瘴気を焼いた炎が飛び、九尾の瘴気を焼き払っていく。

 バリアが薄くなった一瞬の隙を突き、弾丸の嵐が解除されると、明らかに質の違う弾丸が十発撃ち出される。

 瘴気のバリアをも貫き、銃弾は九尾の体のあちこちに突き刺さった。

 九尾は一瞬呻くように鳴くと、後ろに飛んで大きく距離を取った。

「へぇ……最悪の妖魔なんて言われても大したことねぇな」

「まったくね。こんなやつになに苦戦してるんだか」

「油断は禁物っすよ」

 口々に勝手な感想を漏らしながら笑う。

「いつまで呆けているんですか? 早くしゃんとしてくださいっす」

 腕を掴んでいたそいつは体を揺すってくる。

 下がってもらったやつらが、どうしてか、いや考えるまでもない理由でここにいる。

「……何しに来たんだよ。お前ら」

 苦い顔で言うと、巨大なレールガンを抱えたそいつは笑った。

「何って、手伝いに来たんだよ」

「私たちが助けなかったらやばかったくせにいちいち細かいこと気にしてるんじゃないわよ。みみっちいわね」

 相当怒っているようで、その怒りを鼓動するように数珠に纏われた炎が脈打っている。その怒りが九尾だけに向けられたものではないことは容易に想像が付いた。

「やっぱり性に合わないっすね。逃げて隠れているなんてことは。記者は常に最前線。報道するためにも前に出ないといけないっすからね」

 そんな明らかに思ってもないことを口にしながら、両手でそれぞれ色の違う双剣を回す。

 玲次、七海、理音。

 いつも一緒に戦ってきた仲間がそこにいた。

 下がっていてくれと行ったのに、こいつらはここにいる。

 これは、俺のわがままなのだ。

 心葉を死なせたくない一心で、俺が死ぬまで心葉には手を出さないと約束をしてもらった。それは俺と心葉以外の犠牲者が出ないことを前提として約束だ。

 それ以外の生徒が死亡するとなったとき、俺の提示した条件が狂ってしまう。

 こいつらが出てきた時点で、俺の約束を先生たちが守る必要がなくなってしまった。

 そんな俺の考えを察してか、玲次が笑った。

「勘違いするなよ、凪。先生たちは納得させている。俺たち全員が死ぬまで心葉の処分は待ってくれってな」

「あんたが一人行くのに、私たちが行かないわけにいかないでしょう」

「そんなことは――」

「あんた、逆の立場で自分がどうするか考えてみなさいよ」

 七海の鋭過ぎる返しに、俺はぐうの音も出なかった。

 まったくその通りだ。

 逆の立場になったとき、俺はこいつらを見捨てない。

 たぶん、自分が死ぬかもしれないとなったときでさえ、笑みすら浮かべて出てくるに決まっている。

「まあ、僕たちが来たのは凪のことや、心葉だけが理由じゃないんすけどね」

 理音はすっと目を細くしながら、干将莫耶を握りしめる。

 九尾は失った瘴気を再び纏うためか警戒しているからかはわからなかったが、すぐに距離は詰めずに俺たちを遠目に見ていた。

 玲次は雷上動を肩に背負ったまま、ゆっくりと前に出る。

「お前を抜きにしても、やっぱり俺たちは戦っただろうな。何しろ、兄貴の仇だからな」

 玲次の目からこれまで見たこともないような怒りが宿る。

「本当ね。私たちの代で、まさか復讐する機会が巡ってくるとは思わなかったわ」

 七海は隠す気のない殺気をぎらつかせながら炎を纏う。

「姉ちゃんの恋人を奪ったことを、後悔してもらわないといけませんっすね」

 双剣同士をぶつけて音を奏でる。

 三人にとって、一様に因縁を持った相手。

 兄弟を、好きだった人を、姉の恋人を奪った存在。

 こいつらがその理由を前に、如何なる理由も勇み足を止める理由にはなりはしなかった。

『いい仲間を持ったな』

 天羽々斬が嬉しそうに笑う。

 全くだ。

 内心笑いながら、天羽々斬を携えて前に出る。

 すると、俺の意志ではなく刀身から銀炎の火の玉が飛び出し、玲次たちの体に当たって吸い込まれるように消えた。

『さすがに相手が悪いからな。私も力を貸そう』

 俺にしか聞こえなかったはずの声に、三人が反応した。

「この声は、もしかして天羽々斬の声か?」

『いかにも。微力ながら力を貸すぞ。人の子よ』

 天羽々斬はさも当然のように玲次に答える。

 天羽々斬は自身の神力の一部を三人に譲渡させることよってリンクさせ、声が届くようにしたのだろう。

「天羽々斬、九尾の能力とかも教えといてくれ」

『心得た』

 普通に会話をする天羽々斬に七海が頬をひくつかせ、理音は物珍しそうに目を輝かせている。

 不意に、天羽々斬の気配が鋭くなった。

『気を付けろ。仕掛けてくるぞ』

 天羽々斬が言うと同時に、九尾は雄叫びを上げた。

 纏っていた瘴気が一層濃くなり、こちらに向かって突進してくる。

 俺は先駆けるように飛び出し、地面を蹴って走る。

「一斉に攻撃を仕掛けるぞ! 瘴気を削って、なんとか攻撃を届かせるんだ!」

 玲次たちは同時に散開する。

 取り囲むように走り抜ける玲次たちを視界の隅で捉えながら、俺は炎刀に神力を注ぎ込み、それを九尾の進路に叩き付けた。

 地面が爆発し、抉れ消し飛ぶ。

 いかに瘴気によって攻撃が弱体化されるとしても、それはあくまでも九尾本体に攻撃をする場合のみだ。

 九尾は穴の空いた地面に足を取られた。

 地面などの足場を崩せば、地面を走っている以上どうやったってバランスを崩す。

 突如、九尾の頭上に巨大な隕石のようなものが出現した。

 七海が法術によって作り出したもので、自身のレーヴァテインによって威力の底上げをされた隕石は、唸りを上げながら落下していく。

 離れようと足を付いて立ち上がろうとするが、そこに数え切れない弾丸が飛来する。

 兵波によって放たれる弾丸は九尾をその場に釘付けにする。

 瘴気によって攻撃は届いていないが、この状態で九尾が無理に脱出するようなことがあれば、自然と瘴気が薄まり、自ら弾丸の嵐に突っ込む形になる。

 なまじ頭が働く分、そういった判断が命取りだ。

 どう考えたって七海の攻撃の方が威力がある。

 それの考えに行き着いた九尾は、弾丸の嵐を突き破ってでも逃げようとする。

「逃がさないっすよ!」

 霞むような速度で走る理音は、玲次が薄くした瘴気の壁を突き破り、九尾に突進する。

 天羽々斬の助言を聞いて全身を神力で纏って防御を固めた状態で、干将莫耶を何度も打ち合わせる。赤い剣は燃えるように赤く、青い剣は凍てつくように青くなった。

 赤と青の輝線を残しながら理音は九尾の足元を走り抜け、四本の足を同時に斬りつける。

 跳び上がろうと力を込めたときに足の筋肉を切断されたことで、九尾の体は足を取られて地面に倒れた。

 完全に身動きが取れなくなったところに、七海が生み出した隕石が九尾に落ちる。

 術により神力から生成された隕石であったため、瘴気に触れることで多少減衰はしたが、圧倒的な質量を残したまま九尾の体を押し潰した。

 九尾の叫びと肉が焼ける音が広がる。

 だが、損傷した部分がすぐに修復され、九尾は巨大な岩石の塊を砕いて吹き飛ばす。

「こっちだ!」

 薄くなった瘴気を突き破り、九尾のすぐ眼前に飛び込む。

 天羽々斬に幾重にも圧縮した神力を重ねる。

 一度に集めることができる量の神力を重ねることで、本来一撃に込められる神力を上昇させ、ビルのような巨大な炎刀を作り出す。

 それを、至近距離から天羽々斬を袈裟斬りに振り下ろした。

 炎刀の刃に込められている膨大な神力を消費させることは今の九尾にはできず、その巨体を天羽々斬が斬り裂いた。

 天羽々斬の刃が、明らかに固いものに当たった。

 その瞬間、俺は天羽々斬に込めていた神力を爆発させた。

 炎が一瞬にして膨れ上がり、九尾の体を中心に大爆発を引き起こした。

 爆発に巻き込まれないように距離を取る。

 爆炎が収まると、爆心地の中心に体の大部分を消失した九尾があった。

 剥き出しになった胸の中心辺り、砕けた肋骨に囲まれるように赤黒い巨大な石があった。

 九尾の急所、殺生石だ。

 破壊したつもりでいたが、殺生石には傷一つ付いていない。

 相当な硬度を持っているようだ。

「もう一押しだ! 一気に畳みかけろ!」

 玲次の叫びに答えるように、俺たちは再度九尾に向かって走り出す。

 雷上動から放たれる無数の弾丸、空間から生み出される猛り狂う炎、赤と青の輝線を描きながら高速で駆ける影。

 白銀を輝かせながら俺は刀を振り上げる。

 集中砲火で一気に殺生石を破壊する。

 あと、それだけのはずだった。


『ダメだ離れろ!』


 天羽々斬の鋭い声が飛ぶと同時に、俺は足を後ろに跳び縋った。

 だが、玲次たちにも天羽々斬の声は届いたであろうが、あまりに突然警告に疑問に思って足を緩めたが、離れるまでのことをしなかった。

 天羽々斬の指示に間違いはない。俺たちが見て考えられること以外のことを鋭敏な感覚で察しており、俺はそれにいつも助けられている。

 一人で戦っているわけではないことを、これまで何度も実感している。

 だからこそ俺はすぐに距離を取ることができたのだ。

 それが決定的な差となった。

 殺生石から、膨大な瘴気が膨れ上がり、弾けた。

 九尾の本体、殺生石から無差別に瘴気が放出される。

 周囲の空間を覆い尽くす勢いで拡散する瘴気。

 俺は後方に跳んでいたことですぐにその範囲から待避することができたが、追撃をするために接近し過ぎていた玲次たちは、あっという間に瘴気に覆い尽くされた。

 触れているだけで体を炭化させることができる。

「早く距離を取れ!」

 一般生徒とならあっという間に体の神力を喰らい尽くされ炭化し死亡していただろうが、元来神力の保有量が多いあいつらは全身に神力を纏って防御をしていた。

 だが、そんなものも長くは続かない。

 三人とも全力で九尾から距離を取ろうと走り出す。

 しかし、九尾が簡単には逃がしてくれない。

 あまりにダメージが大きかったためか、再生はまだ始まっていないがかろうじて無事だった九つの尻尾を無造作に動かして玲次たちに襲い掛かった。

 瘴気によって神力を削られるということは、本来神力を体に満たして使用する仙術にも影響が出るということだ。

 明らかに切れのなくなった三人は、簡単に尻尾の攻撃を受けた。

 いかに柔らかそうな金毛で覆われていようと、その質量は圧倒的だ。

 大木のような尾に体を打たれ、三人が吹き飛んだ。

 運がよかったのは、その衝撃に瘴気が広がっている範囲の外に吹き飛ばされたことだ。

 勢いよく放り出され、グラウンドに体を打ち付けて転がっていく。

 近くに飛んできた七海を受け止める。

「うっ……いっつ!」

 七海が痛みに耐えかね顔を歪めて呻く。

「立てるか!? じっとしてたらやられるぞ!」

 七海は額に脂汗を浮かべて頷き、立とうとするがすぐに足を押さえて崩れ落ちた。

 左足がおかしな方向に曲がっており、膝辺りが青黒く腫れ上がっている。明らかに骨折していた。

 内心舌打ちをし、七海を抱えて立ち上がる。

 すぐに玲次と理音に視線を向ける。

 二人は七海よりさらにひどい怪我を負っていた。

 玲次は右腕の肘から先がなく、理音は両足を失っていた。

 七海は全身に神力の塊である炎を纏っていたからこの程度の怪我で済んでいるが、玲次や理音は神力は纏えてもそれはエネルギーでしかない神力のため、純粋に防御力に差が生じていた。

 その結果が如実に表れてしまっている。

 玲次は大き過ぎる雷上動を扱うことはできず、理音は最も得意とするスピードをまったく生かせないどころか、身動き一つ取れなくなってしまった。

「わ、私はいいから、他の二人を……」

「黙ってろ!」

 怒鳴って封殺しながら俺は走る。

 七海も足の骨を折っている以上、一人では満足に逃げることができない。

 三人同時に抱えるなんてどう考えても無茶だが、それでもやらないわけにはいかない。

 俺たちの追撃がないと判断したのか、九尾は自身の修復を始めた。

 俺たちが離れたことで攻撃が可能になり、屋上にいる心葉から法術の援護が飛ぶ。

 惜しみなく火界呪や天雷法などが放たれるが、分厚い瘴気に阻まれてほとんどが九尾の体に届かない。

 心葉が最も威力のある攻撃は呪符を使った殲光呪などの攻撃だ。だがあれらの術は呪符に必ず微量の神力を込めてリンクさせるという方式を採るため、その神力を簡単に消失させる瘴気が相手では相性が悪過ぎて使用することができないのだ。

 九尾は、周囲に漂っていた瘴気を自らに体に引き戻すと、欠損していた部分に集めて回復を始めた。瘴気が肉へと変化し、失っていた部分を急速に埋めていく。

 閉じていた目が開き、ぎょろりと動く。

『また来るぞ!』

「わかってるよ!」

 叫び変えながら走るが、人一人抱えている上に二人とも距離があり過ぎた。

 ――間に合わないっ。

 そんな最悪な考えが頭によぎった、そのときだ。

 グラウンドを取り囲んでいた森が影が飛び出した。

 人間離れした動きで駆ける影は、どうにか体を動かそうとしていた理音をグラウンドから掻っ攫い、そのまま走る。

 さらに反対側のグラウンドからも影が飛び出し、玲次を抱え上げた。

 理音を抱え、こちらに走ってくるその影は、ここにいるわけがなく退避しているはずの生徒。

 柴崎だった。

 玲次の方に行っている生徒も、退避していたはずの生徒、青峰だった。

 俺の近くまで走ってきた柴崎は、理音を抱えたまま息を荒くして呼吸を整える。

「お前、仙術が使えるようになったのか」

「こっちだって、何もせずに生活していたわけじゃ、ないんだよ。周りには興味のないお前にはわからないことだろうがな」

 そんなことはない。頻繁に突っかかってくるが、こいつが隠れて努力していたことは知っている。

 だがまさか、仙術が扱える程までに力を付けているとは思わなかった。

「どうして出てきた?」

 柴崎はこれまで何度も心葉を殺すように、神罰を終わらせるように周囲に進言してきた人間だ。

 だがそれは、自らが生きたいからという理由だけでなく、自分の友人に死んでもらいたくないという理由が多いことはわかっている。

 大百足の神罰の際に、友達が死んで怒りを露わにしている柴崎を見て、それがわかったのだ。

 俺の言葉を鼻で笑って一蹴すると、柴崎は俺から視線を逸らした。

「ここで、白鳥を見殺しにしたら、御堂に怒られるからな」

 柴崎は理音を抱えていない方の手で七海を受け取りながら言う。

「それに俺たちだって、仲間が見殺しにされるのを黙ってみているわけにはいかないだろ」

 その言葉に応えるように、生徒がグラウンドに飛び出してきた。

 法術が使える生徒たちだ。

 九尾を取り囲むように位置を取ると、一斉に呪文を唱え始める。

 あるものは武器を手に突進していく。

 確かに今なら瘴気はほとんどないし、法術だけでなく近接攻撃で手が届く状態にある。

 だが、相手はあの九尾なのだ。

「いけない! 全員引かせろ! お前も二人を連れて早く離れろ!」

「俺たちだって戦える。それに今の九尾なら――」

 俺は柴崎を無視し、九尾に向かって走り出した。

「全員九尾から離れろッ!」

 玲次を抱えた生徒たちはいち早くグラウンドを離れていたが、まだ結構な数の生徒が九尾の近くにいた。

 こいつらも知らないわけではないだろう。

 総一兄ちゃんたちの代、空白の世代を作り出したときに九尾が行ったことを。

 あのとき初めて現れた九尾に、全員が向かっていき、一瞬にして総一兄ちゃんを含む数え切れない生徒が死んだのだ。ただの一撃でだ。

 九尾の攻撃はどれもこれまで戦ってきた妖魔のどいつよりも高い威力を持っていたが、それでも、一瞬で多数の生徒の命を狩り取るような攻撃は行っていない。

 つまり、九尾はまだ使われていない攻撃を持っているのだ。

 九尾が緩慢な動きで立ち上がった。

 生徒たちが唱えていた術が完成し、炎や稲妻が九尾を襲い、少なからず九尾の体にダメージを与え、接近した生徒たちの振るう武器も九尾の体中に傷を刻んだ。

 瘴気によって体を守っていることもあり、九尾自身の体は大百足のような強固な防御力はない。

 それらの傷もすぐに修復するが、生徒たちは攻撃を続ける。

「止めろ無駄だ! 早くそいつから――」

 次の瞬間、九尾がその首を真上へと掲げ、吠えた。

 空気を唸らせ、まだ離れたところにいる俺の場所にまで衝撃波がやってくる。

 口の先に膨大な瘴気が集められ凝縮されていく。

 周囲の空気を吸い込み、徐々に巨大化していく瘴気の塊は、アドバルーンほどの大きさになった。

 純粋な瘴気の塊。赤く毒々しい色のエネルギー体。

 九尾は、そのエネルギーを砲撃や刃と言った攻撃に変えることなく、ただ、解放した。

 九尾の力によって押さえ込まれていたエネルギーが、制御を失い暴発する。

 

 それは、途方もない結果をもたらした。


 一瞬光を放つと、エネルギー体は大爆発を引き起こした。

 周囲にいた生徒はあっという間に爆発に飲み込まれ、離れていたところにいた俺や柴崎もその爆発によって吹き飛ばされた。

 柴崎や七海たちを守るように白炎を展開し攻撃を防ぐが、それはあくまで緩和程度の効果しかない。

 天羽々斬の能力は物質を破壊することにあるが、物理エネルギーを消滅させることができるわけではないからだ。

 俺たちの体は反対側にあった校舎の辺りまで飛ばされ、グラウンドに体を打ち付けて転がっていく。

 あまりの衝撃に校舎全体が揺らされ、強固なガラスも全てが砕けた。

 周りにガラスが落下してきたが、運良く俺たちには当たらずに辺りに散らばった。

「ぐっ……」

 あまりの衝撃に頭が揺れ、まともに立ち上がることさえできない。

 天羽々斬を杖代わりにして立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。

 柴崎は七海と理音をしっかりと守っており、二人を抱えまま地面に倒れている。

 だが、打ち所が悪かったのか頭部から血を流し意識を失っていた。

 俺は視線をグラウンドの方へ戻し、愕然とした。

「こ、れは……」

 目を疑いたくなるような惨状がそこにあった。

 グラウンド全体が、まるで爆弾で消し飛ばされたかのように抉れていた。

 爆心地には九尾は佇んでおり、九尾を中心にしてグラウンドが消失している。

 先ほどまで九尾の周囲で攻撃をしていた生徒は、衣服や肉片すら残さずに消し飛んでいた。

 九尾の、純粋に破壊だけを求めたエネルギー攻撃。

 この攻撃が、総一兄ちゃんたち百名以上の生徒一瞬にして消滅させた攻撃だ。

 九尾に、先ほどまで使っていた以外の攻撃があることはわかっていた。

 なぜなら、九尾の攻撃はどれもこれも瘴気を辺りに漂わせ、神力を扱う者に対する攻撃だった。

 それは、俺たちがそうなるように仕向けていたからだ。

 攻撃を神力を用いたものばかりに絞り、攻撃もヒットアンドアウェイや遠距離攻撃のみに絞り、九尾の注意を絶えず近くにいる誰かに向けさせていた。

 だから九尾は俺たちを一人一人潰すような攻撃をしていたのだ。

 だが、もし九尾は物理的な攻撃をするときはどうするか。

 牙や爪、尻尾やその体の巨体だけを生かした攻撃も確かに驚異的だが、九尾ほどの妖魔がそれ以外の対処手段を持っていないことの方がむしろおかしい。

 今の攻撃は予備動作がある上に、明らかに瘴気の消費が激しい。九尾だってそう簡単に使えるものではない。

 だが、九尾を攻撃していた生徒たちは取り囲み、接近してひたすら攻撃をするという手段を取ってしまった。

 そうなれば、俺が九尾であっても一撃で範囲を攻撃出る方法を採る。

 今の攻撃だけで、五十人近い生徒が一瞬にして死亡した。

 ――俺の、せいだ。

 頭の中で反芻する。

 心葉のことを最優先に考える。

 その考えは今でも変わっていない。

 しかし、俺が黄泉川先生に心葉を殺させず、九尾と交戦することを選択したのは俺自身だ。

 あの場で、絶対にそんなことはさせることはできなかっただろうが、心葉を諦めることを選択していれば、少なくとも彼らは死ぬことはなかったのだ。

 悔やんだところでどうにかなるものではない。

 心葉を殺させないという選択肢を採ったことにも後悔はない。

 下がっていろと言う指示が出ていたにも関わらず最前線に出てきた彼らにも問題がある。

 どれだけ言い訳を重ねても、俺が彼らの死の原因を作ったことに変わりはない。

「くっ……そっ……!」

 悔やんだところで、仕方がない。

 これは俺が選らんだことであり、心葉のためにはこうするしか……。

 いや、違う。

 これは、俺のわがままの結果だ。

 心葉は死を覚悟していたにも関わらず、俺が心葉に死んでほしくないがために、心葉の死を先延ばしにするために、戦うことを選んだのだ。

 心葉は関係ない。

 全て俺の意志により、戦うことを選び、彼らを巻き込み、死なせてしまった。

 グラウンドに力を込めた指が刺さる。

 言い訳のしようなどない。

 そのとき、不意に耳元で紙の擦れる音が響いた。

『そんなに、自分を責めないで』

 声がした方に視線を向けると、ボロボロになったブレザーの肩の上に青い紙で作られた折り鶴が乗っていた。

「式……神……?」

 ハッとして視線を屋上に向けると、そこには心葉が立っていた。

 落下防止の緑色のフェンスを乗り越え、縁石の上に一人立っている。

『全部私のせいだから、凪君は何も悪くないよ』

 待て、お前は何を言っている。

 声を出そうとするが、喉が掠れて声がうまくでなかった。

 立ち上がろうにも体が言うことを利かず、ふらついて体をグラウンドに体を打ち付けた。

 屋上に立つ心葉は、どこまでも穏やかに笑っており、どこまでも悲しそうに泣いているように見えた。

 あと一歩踏み出す。

 それだけのことで全てが終わる場所。

『最初から、こうしていればよかったんだよ』

 突然、心葉の胸が光を放ち始めた。

 制服の間から漏れる光は、漆黒の禍々しい光でありながら、なぜか途方もなく神々しいものに見えた。

「止めろ心葉ッ!」

 心葉が何をしようとしているかは、容易に想像が付いた。

「止めなさい!」

「バカな真似は止めるっす!」

 七海と理音も叫ぶ。

 心葉が紋章を使う気であることは、誰に目にも明らかだった。

 紋章に使うものは、たった一つのものだけで十分だ。

 ただ、紋章を使用するという意志。

 そのただ一つさえあれば事足りること。

 今目の前で、数十人近い生徒が殺された心葉にとって、これ以上生きることが不可能なほどの苦しみを受けた。

 そして、ここで心葉が紋章を使えば、死んだ生徒が戻ることはないが、少なくともここで今年の神罰は終わり、これ以上死亡する生徒はいない。

 でも、だからといって――

 俺は、心葉に死んでほしくない。

 その気持ちだけで体を動かした。

「待て心葉! まだ、まだ俺は――」

 戦えると言おうとした俺に、心葉がゆっくりと首を振る。

『もういいんだよ、凪君』

 全てを諦めてしまったその言葉に、何も言えなくなった。

 口々に制止の声をかけるが、心葉はただ微笑んでいた。


『ごめんね、皆。今まで、ありが――』


 心葉の言葉が唐突に途切れる。

 あまりに突然過ぎることに、何が起きたのかわからなかった。

 心葉自身、呆然と目を見開いている。

 大量の真っ赤な飛沫が、屋上から散った。

 ぱたりと、俺の肩に乗っていた折り鶴の式神が落ちる。

 心葉を中心に輝いていた黒い光も徐々に弱まっていき、すぐに全ての光が失われた。

 心葉の口が、ゆっくりと動く。

 なんで、と。

 

 心葉の胸を、血に濡れた銀色の刃が貫いていた。

 

 それは、何の前触れもなく訪れた。

 心葉の背後から飛来した槍が、今紋章を使おうとしていた心葉の胸を貫いた。

 紋章の発動は強制的に終了される。

 紋章の発動トリガーは意志。

 あんな傷を負ってまで使用する意志を保っていられる人間などいられるわけがない。

 槍は、先端部から徐々に神力の粒子に変わって消失した。

 途端に穴の空いた胸からは血が噴き出す。

 胸を貫かれた体は力を失い、揺れ、そして屋上から落ちた。

「心葉あああああああッ!」

 駆け寄ろうと立ち上がる。

 だがそのとき、俺たちのいる場所を大きな影が覆った。

 先ほどまで遥か遠くにいた九尾が俺たちを落ち潰そうと落ちてくる。

「邪魔を――するなッ!」

 怒りによって膨れ上がった尋常ではない神力を全て炎に変え、九尾に向かって打ち払った。

 先ほど大技を使ったばかりでほとんど瘴気のなかった九尾はその身に攻撃を受け、衝撃で吹き飛ばされ、グラウンドに叩き付けられた。

 あまりに突然大量の神力を消費したことで、神懸かりが解除される。

「くっ……!」

 痛みが体を走り抜け、とてつもない倦怠感が襲う。

 俺は、足をもつれさながらなりふり構わず校舎に向かって走る。

 落下地点には七海が先回りしており、落ちてきた心葉の体を受け止めていた。足が折れているにも関わらず、心葉を助けるためだけに痛む体に鞭打って走ったのだ。

 倒れた心葉に駆け寄り膝を突く。

 肺にまで傷ついている心葉は血を吐き出し、差し伸べた俺の腕と自身の血だらけのブレザーに新たな染みを作った。

「心葉!」

 遠くにいた玲次も駆け寄ってきた。片腕が炭化して失った状態で、雷上動を引きずりながらやってきたのだ。

「天羽々斬!」

 俺の呼び声に答えるように、天羽々斬は無言で刀身から炎を煙にして渡してくれる。

 神懸かりを解除されたばかりで力が大したことはできず、煙を心葉の胸の傷に押し当てて止血する。

「うっ……!」

 痛みに顔を歪めるが、その表情すら弱々しい。

 大量の血液を失っており、普通なら即死してもおかしくない状態でどうにか心葉は意識を保っていた。

「凪……く……」

 失血のため目が見えていないのか、心葉は探るように手を伸ばす。

 俺はその手を掴み取り、力強く握りしめた。

「ここにいる! ここにいるから、だから――」

 その先にある言葉を、俺は続けることができなかった。

「し……なせて……」

 心葉の、その言葉を聞いてしまったから。

「もう……いい……」

 激痛に襲われているはずであるにも関わらず、力のない笑みを浮かべたまま、心葉は言った。

 自分たちの無力さに、俺たちは歯がゆい思いを痛感する。

 ここで手当てをしなければ、心葉は死ぬ。

 紋章を使わないでいたとしても、心葉が死亡すれば神罰は終わる。

 心葉の意識がまだあるのが奇跡的なのだ。

 神人の強靱な肉体がそうさせているのだが、神人とは人間であることには変わりない。ここで俺が止血を止めてしまえば、一分も経たずに心葉は死ぬ。

 そうすれば、神罰は終わり、今生き残っている皆はとりあえず助かる。

 でも、それは……

「嫌だ……」

 子どものような言葉が漏れる。

 玲次と七海も、本当はそうすることが正しいことであることはわかっている。

 そうすることによって、他の生徒を救うことができる。

 大勢の生徒が死亡した今となっては今更だと思われるかもしれないが、現状を考えるなら間違いなく正しい判断だと思う。

 でも、踏み切ることができない。

 だからこそ、俺は戦わなくちゃいけない。

 戦って、九尾を倒す。

 そうする必要がある。

 今現在採れる方法では、もうたった一つの方法しか残されていなかった。

 天羽々斬。

『……本当に、やるのか?』

 少し気の進まない様子で、俺に宿る神刀が問う。

 仕方ない。勝手なことをして悪いが、ここで九尾を倒すには、そうするしか方法がないんだ。

 俺は立ち上がり、心葉から距離を取る。

 止血している神力が消えてしまわないように注意しながら、神力を切り離して心葉の傷を覆ったままにする。

 天羽々斬の柄を握りしめた。

「玲次、七海」

 二人がこちらを振り返る。


「ごめん」


 俺は持っていた天羽々斬で、二人の体を斬り裂いた。


  Θ  Θ  Θ


「まったく、最期はだらしないっすね。柴崎君」

「や、やかましい」

 悪態を吐きながら、よろよろと体を起こす。

 どうやら気を失っていたらしい。

 不意に押さえた頭からは鈍い痛みが響いており、ずきずきと痛む。

 それなりに出血もしているようだ。

 痛む体に鞭打って、白鳥の体をもう一度抱える。

 あれだけ楽しそうに走り回っていたやつの両足を失っている姿は、目を背けたくなるがこの神罰さえ終わればその足も元通りになる。

 先ほどまで近くにいた西園寺や八城は校舎の側におり、高校全体を滅茶苦茶にした元凶である九尾は、グラウンドの中程に倒れている。

「……椎名はどうした?」

 屋上にいたはずだがその姿が見られない。

 白鳥は暗い顔をしたまま答える。

「さっき、心葉が紋章を使おうとしたんっす。でも、突然槍が心葉に突き刺さって……」

 白鳥も少なからず混乱しているようで、言っていることは要領を得なかったが、言いたいことはわかった。

 まだ神罰が続いているということは、とりあえずまだ生きてはいるんだろう。

 それも、今のこの状況ではいいとも言えないが。

 ここも安全とは言えない。たとえ、あと一秒後に死ぬかもしれないとしても、止まっていてはいいことにはならないだろう。

 足を失ったことで、白鳥の体は元々の小柄さも相まってさらに軽くなっている。両手で抱えたまま、グラウンドを走って校舎の方へ向かっていく。

 足には響かないかと白鳥に目をやると、汗だらけの顔に微かな笑みを貼り付けていた。

「何がおかしいんだ?」

「いや、別に。まさか柴崎君にお姫様だっこされる日が来るとは思ってなかっただけっすよ」

「ほっとけ、それは俺も同じだ」

 同い年でありながら驚異的な力を持つ、昔ながらの仲間。今は亡き御堂の許嫁と俺がこんな状態にあることを誰が予想できただろうが。

「あのバカが。ここはお前のポジションだっていうのによ」

 言っても意味がない言葉が漏れる。

 白鳥の顔が曇った。

 幼い頃から、力を持つ生徒はずっと一緒に過ごしており、お互いのことは大抵知っている。

 白鳥と御堂の関係は、知らない人がいないほど仲のいい関係だった。

 そんな関係が続くことを誰も疑わなかったというのに、神罰はそんなものを容易く壊していった。

「俺たちも人事じゃないけどな」

 椎名がまだ生きているということは、神罰は終わらず、槍に貫かれた状態では紋章を使うことは絶対に不可能だ。

 あいつらが、それほどの状態になっても椎名を見捨てることはしないということはわかっている。

 見捨てるべきでないことも。

 この神罰では、どっかの誰かが考えているような、誰かのために、なんて考えは絶対に持つべきではないし、間違いだ。

 他人の心配なんてしても結局自分が死ねば何にもならないからだ。後には、嬉しさも後悔も何も残りはしない。

 だから俺も、自分が生きる道だけを考え、そうする可能性が最も高い紋章の使用を椎名に強要した。

 クズに成り下がるだけで生きられるなら安いものだ。

 もう既にたくさんの仲間が死んでいる。

 その仲間の死も、俺には耐えがたい苦痛だった。悲しみもした。

 責任は椎名だけではなく、俺たち全員にある。そんなことはわかっているのだ。

 力のないこと、生きる力を持てなかったことが、死んだ人間の責任であり、助けられなかったことは生きている人間の責任だ。

 だけど、今の状態は一人の能力云々のレベルを遥かに超えてしまっている。たとえ、誰であっても、勝つことはできない。

 ふと、心の中で、俺はなぜ一人と言ったのかが気になった。

 神罰は一人で戦うものではない。当たり前だ。あんな化け物に、一人で挑む人間がいるわけがない。

 それなのに、俺は一人で戦うことに焦点を絞って思考していた。

 その一人が誰のことであったのかは、すぐに思い至ったが、同時に苛立ちも覚えた。

 あの甘さで体を構築しているようなふざけた野郎の顔が一瞬よぎったからだ。

 走り逃げる俺たちの背後で、化け物が体を起こした。

 ダメージを受けていた箇所を全て回復し、自らの周囲に神力と相対すると言われている瘴気を纏う。

 力の衰えが感じられないわけではない。

 巨躯に纏う瘴気の量や、ダメージの回復に明らかに時間がかかるようになっている。

 だけど、それがなんだというのだ。

 俺たちみたいにちっぽけな生き物が、あんな化け物に敵うわけなどなかった。

 それなのに、あんな化け物と平気で戦えるやつらを見て、俺たちも戦えると勘違いをして戦いを挑み、一瞬にして仲間が何十人も消えた。

 俺も、役回りが違っていただけで、間違いなく死んでいた。

「どれだけ戦っても、足掻いても、俺たちが助かることはねぇ。たった一つの方法を除いてな」

 紋章所持者が死亡しない限り、この神罰は終わらない。

 あんな化け物に勝つ方法など、倒せる方法など、残されていない。

 こうなれば、俺があいつを直接殺すしか方法がない。

 後で生徒会の連中になんと言われるかはわからないし、最悪殺されてもおかしくはないが、全員死ぬよりはマシだ。

 体に力を込めて、動き出そうとする九尾。

「俺たち人間は、どれだけ望んだところで勝てないんだよ。神様にはな」

 投げやりな言葉。

 こんな現実を見せられて、おいそれと理想を追いかける方が頭がどうかしているんだ。

 そんな俺の言葉の、何がおかしかったのか、抱えられたままの白鳥がおかしそうに笑った。


「でも柴崎君、世界にはまだ、どれだけ足掻いても望んでも足りない人間がいるんすよ」

 

 俺には理解ができない言葉。

 笑い飛ばそうとする俺の前に、立ちはだかるように一人の人間が落ちてきた。

 グラウンドに着地したそいつの周囲に砂塵が巻き上がり、ブレザーがなびく。

 まったく臆することなく、ただこの島に吹く風のように透き通った双眸で九尾を見据えている。

 あれだけ九尾に力の差を見せつけられていながら、仲間をあれだけ殺されながら、大切なやつが今現在死にかけていながら、そいつはまたあの化け物へと立ち向かう。

「柴崎、理音を連れて早く下がってくれ」

 落ち着き払った声で、後ろの俺たちを気遣う。

 いつでも変わることなく、どんな状態であっても諦めることを知らない糞野郎。

 俺はこいつが大嫌いだ。

 これまで俺が簡単に諦めることを、こいつは絶対に諦めずに自らの力のみでここまで来ている。


 ――その糞野郎は、右手に純白に燃える刀、左手に燃えたぎる紅蓮の枝を巻き付かせ、背中に巨大なレールガンを背負って、佇んでいた。


 Θ  Θ  Θ


『……【雷上動】、及び【レーヴァテイン】の縁を結び終えた』

「悪いな。無茶をさせる」

『階位が上の私が階下の神器をいくらか従えたところで、大したことではない。無茶をしているのはむしろお前の方だ。間接的にとはいえ、同時に三つもの縁を形成して体に影響がないと思うなよ』

「わかってるよ」

 俺は、玲次と七海の了解なく、二人が神器との間に結んでいる縁を切断した。

 本来、縁を切断された武器はすぐに消えてしまう。

 だが消える前の神器と再度縁を形成することができれば、その神器を現界させたまま扱うことができる。

 当然問題がないわけはない。

 もとより神降ろしによって一つの武器としか縁を形成しないのは、数種類もの武器を同時に扱うことが難しいとかいう以前に、自身の神力を圧迫してしまう可能性があるからだ。

 縁を結ぶ場所は、基本的には自身の心臓、神力を生成する器官に結ぶことになる。

 これは、パソコンでいうところのハードディスクに考えが似ている。

 神器と縁を結ぶと、その神器に神力を提供する代わりに、その部分から溢れる神力を神器に割り当てることになる。

 ハードディスクがデータで埋まっているということだ。

 これがいくつもの神器でその神力を埋めていくとどうなるか。

 自身が扱える神力の絶対量は減少し、最悪枯渇して死に至ることが考えられる。

 神降ろしが禁術にしているされる理由は、過去自分の力量にあった神器を降ろすことができず、所持者が死亡するということが頻発したからである。

 現代の技術でその部分を解消し、正しい使い方をすれば自身の力量を大幅に超えるような神器は降りることはない。

 俺は、今そのルールを意図的に壊している。

 自分が降ろしてもいない神器を、天羽々斬経由ではあるが二柱も自分の体に縁を形成した。

 多少違和感があるのは拭えないが、九尾を倒すには、今使える選択肢はこれしかなかった。

「さっさと下がれ、柴崎。縁を結んだばかりで、完全に扱えるわけじゃないんだよ」

「結んだばかりって、まさか、お前……」

「早くしろ」

 鋭く声を飛ばす。

 柴崎はまだ何か言いたげだったが、理音を抱え直すと校舎の方へと走っていった。

 眼前に佇む化け物を見据える。

 地上に魔界を出現させようと悪逆非道の限りを尽くしたとされる、最凶の妖怪の一つ。

 金毛九尾の狐。

 お前がどれほどの力を持つ妖魔であろうが、神であろうが、俺はあいつのために、お前を――


 殺す。


「天羽々斬!」

『心得た!』

 溢れ出した三つの力。

 俺自身が、父さんから引き継いだ伝説の神刀、天羽々斬。

 玲次の兄、総一兄ちゃんが降ろし、その意志とともに玲次に引き継がれたレールガン、雷上動。

 七海が神罰に対する怒りを具現化させ、その力全てを炎に変えた、レーヴァテイン。

 その全ての力が、今、俺の中で一つになる。


「『神懸かり――』」


 白銀の炎が天羽々斬から吹き荒れる。

 周囲を覆い尽くすように沸き上がった炎は、俺自身を飲み込み、雷上動を、レーヴァテインを覆い尽くす。

 一時的にではあるが、天羽々斬の能力で二つの神器を俺の制御下に置く。

 同時に三つの神器を扱うという、常識からは考えられない使い方。それを全て可能にしているは天羽々斬が持つ絶対的制御力のおかげだ。

 俺の現在の状態に何を感じ取ったのか、九尾が焦ったようにこちらに突進してきた。

 自身が吹き飛ばしたグラウンドに爪を食い込ませ、これまでの余裕がどこに行ったのかと思うほど、ただ真っすぐ突っ込んでくる。

 化け物の目に映る自分がどんな姿なのかは非常に興味があるが、そんな好奇心は捨て去る。

 天羽々斬の刀は白銀の炎に変えて周囲に漂わせ、俺は左手の紅蓮に燃える枝に右手で触れる。

 天羽々斬の神力が無尽蔵に送り込まれることで、レーヴァテインは押さえきることができないほど力が膨れ上がっていた。

 向かってくる九尾を前に、ゆっくりと左手を挙げる。

 七海が神罰を生き抜くために、大好きなやつらを守りたいという思いから得た神器。

 その炎は、一方的に奪われるばかりであった七海の感情を体現するように、怒りという人類にとって原始的な感情に反応するように力を発揮していた。

「七海、お前の怒りも全部、俺がぶつけてやるよ」

 俺の、今の怒りに応えるように、レーヴァテインが燃え上がる。

 手首だけに纏われていた炎が、左腕全てを埋め尽くし、そして、それは放たれる。

 巨大な火柱。

 眼前にいる巨大な狐の妖魔に向かって、左手からあらゆるものを燃え尽くす圧倒的な炎が吐き出される。

 荷電粒子砲のような勢いで撃ち出された炎のレーザーは、周囲のグラウンドの水分を一瞬で蒸発させるほどの熱量が辺りを埋め尽くした。

 九尾が止まって回避しようとしたときには既に遅く、火柱は正面から九尾の頭部を穿つ。

 だが、九尾も頭がいい。

 攻撃が一点に集中していると気付くやいなや、体全体に覆っていた瘴気を自身の頭部に固めて障壁を作り出した。

 紅蓮の炎と赤いの障壁が激突し、衝撃がグラウンドに響き渡る。

 互いが互いを打ち消し合う神力と瘴気が膨大な量を削り合う。

 しかし、拮抗はいとも簡単に崩れた。

 俺が放っている炎が徐々に障壁を削り始めた。

 瞬く間に失われていく障壁に、九尾を焦ったように体中から瘴気を出して補填しようするが追いつかない。

 ついには、レーヴァテインから放たれる炎が九尾の瘴気を全て吹き飛ばした。

 単純に相性の問題だ。

 俺の扱う白炎や玲次が撃ち出していた銃弾は、瘴気の影響を受けやすかった。それは、能力そのものが神力のみで構築されているためだ。

 七海の扱っていた炎は、俺たちと違う使い方をしていたわけではないのに、瘴気を簡単に消し去っていた。

 レーヴァテインによって生成される炎は、確かに神力によって作り出された炎なのだが、炎は元々この世界の理に存在している力であり、レーヴァテインは神力によって理を操作する力にあった、

 元からこの世界に存在する炎は、九尾の瘴気を持ってしても相殺に時間がかかり、量も必要となるのだ。

 九尾を守っていた絶対的な防御が、完全に崩れた。纏っていた瘴気を全て消滅させられ、九尾を守るものはもう存在しない。

 時間が経てばまた体から沸き上がるだろうが、それまで待つつもりはない。

 撃ち出していた炎を二つに分けると、それを九尾の赤い目に突き刺した。

 肉の焼ける嫌な音ともに、九尾が怯む。

 いかに強大な力を持つ化け物と言えど、情報の多くは目から仕入れている。それを塞がれれば、行動力は明らかに低下する。

 レーヴァテインの炎を解除し、右手を肩越しに回して背中から雷上動を降ろす。

 俺の体ほどある巨大なレールガンは、かつて総一兄ちゃんが自らの神器とし、玲次が引き継いだ、総一兄ちゃんの形見だ。

 引き金に指をかけ、重鎮な銃身を持ち上げながら、コッキングレバーを手前に引く。

 照門を覗き込み、狙いを九尾の胴体の胸辺りに合わせる。

「使わせてもらうぞ、玲次、総一兄ちゃん」

 トリガーを引いた。

 次の瞬間、空間を埋め尽くすほどの弾丸が雷上動から吐き出された。

 隙間を縫うことすら不可能なほどの弾丸が、無数に九尾へと撃ち出される。

 体には既に薄い瘴気が纏われていたが、ほとんど一つの銃弾のように放たれる攻撃を前に、そんなものは無意味だった。

 九尾の周囲ごとを覆うように放たれる銃弾は、九尾の体の肉を吹き飛ばしていく。

 血と肉と骨と、その他九尾を構築されていた部分が銃弾によって削られ、修復する間もなくただひたすらに九尾の体を撃ち抜いていく。

 引き金を引き続けるだけで無数に放たれ続ける雷上動の銃弾。

 この銃で使用できる銃弾は、圧倒的な貫通力を誇る水破、大多数の標的を一度に屠る兵破の二つがある。

 俺が使用している銃弾は見た目だけ見れば兵破だが、実際は違う。

 水破の力を用いて、兵破の弾丸をコーティングした、言わばハイブリット。

 そもそも、雷上動には二つの能力があるが、その能力は二つの銃弾を持っているというわけではない。

 銃弾は元々一つであり、その銃弾をどちらの力を込めて作るかという違い。その違いによって、銃弾は二つの別々の力を得る。

 俺は、本来撃ち出される兵破の銃弾の先端に、水破の力を覆っている。

 元々の水破ほど貫通力には遠く及ばないが、それでも兵破という圧倒的な火力に水破に力を僅かに加えるだけで、その力は恐ろしいまで膨れ上がる。

 現実に、アンチマテリアルライフルという銃器が存在する。基本的に対戦車や対物として扱われるライフルになるが、これを用いて生物を撃つとどうなるか。

 銃の口径や銃の種類にもよるが、撃たれた場所周辺が衝撃で吹き飛ばされる。

 今の九尾の状態はまさにそれだった。

 撃ち込まれた部分の肉が弾け飛び、体表を覆っている全てを雷上動の銃弾が撃ち抜いていく。

 九尾も初めは逃げるなり避けるなりの行動をしようとしていたようであるが、初弾、と言ってもそれすら無数にあったのだが、その弾丸に足の筋肉や関節を持っていかれたため、逃げることもできずにその場に倒れ込んだ。

 だが、容赦なく銃弾を撃ち込み続ける。

 体の神力が根こそぎ持っていかれる感覚。

 神懸かりを使用していることも相まって、神力が尋常ではない速度で消費されていく。

 不思議な感覚であった。

 先ほどまで玲次や七海が扱っていた武器を二人の了解も得ずに借り受けているが、縁を繋いだだけで扱い方が全て頭に流れ込んできた。

 玲次や七海の意志のようなものも微かに感じ取れ、気持ちはただ一つ、あの妖魔を倒す、その一点のみに集中していた。

 体を消し飛ばされていく九尾が、足掻くように瘴気を残っている体から溢れさせて防御しようとする。

「させるか!」

 左腕に宿る炎の枝に神力を込める。

 同時にいくつもの火球がレールガンを支えている左腕から飛び出し、九尾へと向かっていく。

 防御に使おうとしていた瘴気を紅蓮の炎が焼き尽くし、無数の銃弾が九尾の体を消し飛ばす。

 そして、体の肉全てが消滅し、グラウンド中に血肉が散乱している中に、ただ一つ銃弾にも炎にも焼かれないものが残った。

 赤黒い巨大な結晶。

 空中に漂うそれだけは、銃弾でも炎でも破壊することができない。

 俺は攻撃を止め、レーヴァテインとともに雷上動を消すと、そのまま九尾に向かって走り出した。

 右手に炎刀を生み出し、最期に撃った銃弾を追いかけるようにして走る。

「天羽々斬!」

 俺の声に応えるように、天羽々斬は俺から惜しみなく神力を持っていき、白銀の炎が燃料を加えられたように燃え上がった。

 全ての銃弾が殺生石を通り過ぎ、それと同時に高々と飛び上がる。

 あらゆるもので守られていた九尾の急所は剥き出しの状態。

 にも関わらず、九尾は攻撃を再開する。

 殺生石から名を表す九本の尾を生み出すと、一斉に上空の脅威へと向ける。

 鞭のようにしなる大木のような尾。

 だが、瘴気を纏っていないこの程度の攻撃など、天羽々斬を前には何の役にも立たない。

 炎刀を空中で目にも止まらぬ速さで振り抜く。

 俺に向けられた九本の尾は、もろくも敗れ去る。

「これで、終わりだッ!」

 全ての防御を突破し、俺は天羽々斬を殺生石へと振り下ろした。

 小気味のよい音を立てて、殺生石が二つに割れる。

 見えない力によって浮遊していた赤黒い石は、二つに割れる同時に浮力を失った。

 地面に落ちると同時に、殺生石は粉々に砕け、空中に溶けるように消滅した。

「勝っ……た……?」

 九尾の血肉の上に着地した俺は、自らがやったことであるにも関わらず、信じられない思いで呟いた。

『ああ、お前の、お前たちの勝ちだ』

 天羽々斬が満足げな言葉を吐き出すと同時に、周囲に散乱していた九尾の残骸が消えた。

 体のあちこちにあった怪我も、神罰が始まる前の状態へと戻っていく。

 史上最悪と言われた妖魔、金毛九尾の狐が今、倒れた。

「やっ……」

 喜びに声を上げようとしたが、不意に神懸かりが解除される。

 天羽々斬が解いたのだろうが、同時に立っていられないほどの疲労が一挙に押し寄せ、俺は仰向けに倒れた。

『危なかった。後もう少しで神力が足りなくなるところだったぞ』

 心底ほっとしたように天羽々斬が言う。

 足りなくなっていたらどうなっていたか、結果は火を見るよりも明らかだった。

 瘴気を前に、こちらは持てる神力を全て消費しなければ勝つことができなかった。

 その上で、数え切れない犠牲を払ってしまった。

 俺が戦いを挑んだせいで、勝った負けたは、死んでいった生徒には関係ない。

 独りよがりの結果で、俺は皆を戦闘に参加させ、死なせてしまった。

 俺の服には、血の一滴も付着していなかった。先ほど付着した心葉の喀血もだ。

 心葉は生きていた。血が心葉の元へもとっているのがその証拠だ。

 たとえ胸を槍で貫かれたとしても、それは神罰中のこと。死んでしまう前までに神罰を終わらせることができれば、如何なる負傷も神罰前の状態に戻る。

 心葉が助かっていたとしても、俺は残り三ヶ月の命の心葉を、他の生徒数十人の今後何十年もあったであろう生徒の命を優先させたのだ、

 それが、どれほど間違っていたことであっても、俺は俺にとって、心葉にとって、正しいことをしたはずだ。

 したはずだった。

 異変に気付いたのは、少し経ってからだ。

 体が動くようになるまで少しグラウンドに横になったまま休んでいた。

 ふらつきながらも体を起こすと、未だに校舎の下に玲次や七海の姿があり、その周辺に生き残った生徒数人が集まっていた。

 そこに何があるのか。


 気付けば、俺は走り出していた。


 辿り着いた先で、目を疑った。

 周囲の生徒を理音や柴崎が遠ざけてくれる。

 そんな喧騒すら、耳に入らなかった。

 胸を貫かれた怪我は完全に消えている。出血している様子もない。

 それでも、それでも――


 心葉は、まだ倒れたまま息を荒くしていた。


 どうして、なんで、何を間違った。

 先ほどまであったことを一瞬の逡巡の内に巡らせるが、理解ができない光景が俺を悠然と待ち構えていた。

 頭に水をかぶったような汗を浮かべ、息を吸えずに喘ぐように荒い息を繰り返す。胸元の服は少しはだけており、苦しそうに上下している。

『天羽々斬……?』

『私にも、わからない』

 内に宿る神でさえ、現状を把握できていなかった。

 俺は崩れるようにして心葉の側に膝を突いた。

 他の生徒たちも集まってくるが、先生たちが素早く散らせていく。神罰が終わった今、高校にいる必要はない。早々に帰宅するようにと指示を出している。

 生徒たちは、今の心葉がどういう状態にあるかわからないようだ。

 当然だ。御堂のときと同じである。生徒たちに知らされている情報だけではわかりえないことが今目の前で起こっているのだ。

 先生たちはそれを理解してか、厳しい言葉で生徒を校内から排除していく。

 早々にグラウンドからほとんどの生徒が消え去り、先生たちも生徒たちを出すために散っていった。

 残ったのは俺たち四人と、芹沢先生と黄泉川先生だけだ。

 七海の膝に頭を乗せるように横になっている心葉。

 体を預けられている七海は、苦しそうに呻く心葉の額に手を乗せている。項垂れ顔にかかる髪の隙間から、唇を噛み切るほどきつく噛みしめているのが見えた。

 玲次は心葉の右手を両手で包み込むように握ってやっている。跪き懇願するようなその表情は、祈るように、自らの無力さを嘆くように悲しげだ。

「……ごめん……ね、凪……君……」

 今にも消えてしまいそうなほどか細い声で、半分閉じられたうろんな目で、心葉は言った。

「お前……何謝ってんだよ……」

 自分の喉から出た声は、自分のものではないかのような低い声だった。

「俺は、俺は九尾を倒した! あの化け物を、誰もが勝てないと思った化け物を俺が倒したんだ! なのに、それなのにどうしてお前は……」

 言いながら、自身の中の最近明らかに鋭敏さを増してきた感覚が教えてくれる。

 心葉の体の中にある神力が、異常な速度で減少している。

 俺が天羽々斬で無茶な使い方をしているときよりさらに消費が激しい。

 心葉は現在術を行使していなければ、神力さえ扱っていない。

 心葉の意図しないところで体外へ神力が流れているのだ。

「紋章使ったわけじゃないだろ! それなのに、どうしてこんなことになっているんだよ!」

 俺の叫びは虚しく高校に広がる。

 誰も答えてくれはしない。

 皆、もう答えを知っているように何も言わなかった。

 玲次に掴まれていない方の手が緩慢な動作で胸元に行く。

 少し開けた胸元を掴み、左右に分ける。

 何者かが投げた槍によって負った傷は跡形もなく消えている。

 しかし、その下で微かに光るものがあった。

 心葉の体に刻まれた、神罰の象徴たる紋章だ。

 かつて夏休みに一度だけ見せてもらった紋章が、心葉の胸で極々淡い光を放っていた。

 痣のように刻まれていただけの紋章が光っている。

 それだけでも疑問な光景であるだろう。

 だが、決定的に異常な部分が一ヶ所、あった。

 以前見せてもらった心葉の紋章は、こぶし大の円に様々文字や木を表すような模様が描かれていた。

 その一部が、不自然に欠けている。

 円に切り込みが入り、その切り込みから内に入るように書かれていた文字がいくつか見えなくなっており、木の幹の部分が斧を打ち当てたように欠けていた。

 これは……。

 一瞬にして血の気が引いた。

 愕然と項垂れる俺を見て、心葉が力のない笑みを浮かべる。

「あはは……紋章、壊れちゃった……」

 胸に刻まれていた紋章の一部が、破壊されている。

 原因はわかりきっている。

 あのとき、心葉の胸を穿った槍だ。

 飛来した槍は心葉の胸を貫き、同時に心葉の胸にあった紋章を斬り裂いた。

 神罰中の出来事。全ては、神罰中に起きた出来事だった。

 だが、心葉の紋章は壊れたまま、神罰を終えた今でも復元されていない。

 その理由は、神罰の仕組みと紋章がどういうものか考えればすぐにわかる。

 神罰において、あらゆるものは神罰終了とともに神罰開始前の状態へと回帰する。どんな細かな単位で破壊しようが消滅しようが、ほとんどのものが復元される。

 その中で、復元されないものが二つある。

 一つは神罰の中で最も避けるべき、生徒、及び教師の死だ。死んでしまった人間は、体の九九パーセントが残っていたとしても戻ることはない。逆に、どんな状態になっても生きているのであるなら、心葉のように心臓を貫かれても復元される。

 そしてもう一つ、戻らないものがある。

 当たり前という価値観の元、ほとんどの場合において神罰に懸念すらされないこと。

 本来神罰においても、戦った後疲れるのは当然と考えがちだが、肉体や衣服などといったものはあらゆる状態から復元されるのに、神力が復元されないことには違和感を覚える生徒もいるだろう。

 多くの生徒はそんなことを問題視もしない。なぜなら神罰が終わってしまえば消費した神力など、一晩と待たずに回復するからだ。

 だが、この決定的な状態が心葉の現在の状態を作り出している。

「そんなの……直せばいいだろ……」

 ふざけたとしか思えない冗談染みた言葉が落ちた。

 また、心葉は笑う。

「はは……そんなこと、できないよ……。これは、私の神力、そのものなんだから……」

 志乃さんに聞いた。

 紋章は、所持者の肉体から剥ぎ取られた神力を司る器官を組み替えられて作られたものであると。

 であるなら、作り替えられた神力器も、神力によって作られていることになる。

 心葉の神力器が、破壊されてしまった。

 胸元を広げていた心葉の手が、力が入らなくなったように落ちる。

 俺はそれを受け止め、握りしめた。

 生きている人間の体とは思えないほど、冷たい手だった。

 寒さなどによって冷たくなる表面的な冷たさではなく、体の芯から冷え切っているような、そんな恐ろしいものだ。

「――ッ」

 使い切って空っぽになっているなけなしの神力を掻き集め、心葉の体にリンクさせる。

「無理、だよ……」

 否定しながらも、もう振り払う力もないのか指だけを動かして抵抗する手に、集められるだけの神力を流し込む。

 答えてほしかった。

 俺が送り込んだ神力を吸い取って、元の、元気な心葉に戻ってほしかった。


 そんなこと、もうあり得ないとわかっているのに。


「死ぬな……」

 口にすると同時に、頬を熱いものが流れ落ちた。

 自身の体の神力がなくなっていることも厭わず、掻き集めては掻き集めては心葉の体に流し込む。

「死ぬなよ心葉! 俺が何のために九尾を倒したと思ってるんだよ! お前に、お前に一分でも長く生きてほしかったから倒したんだ! それなのにこんなところで死ぬなんて、ふざけるなよ!」

 自分勝手な理由は並べ立て、子どものように喚き散らす。

 俺は大抵のことは理屈で判断する。判断してしまう。

 現象には必ず理由があると、物理学者が言ったように、俺の中で、心葉に起きた原因からこれから起きる現象へ簡単に結び付けていた。


 心葉は、もう助からない。


 死んでしまうのだと。


 心葉の体の神力が、失われている。

 蛇口の壊れてしまった水道管のように、止めどなく流れ出す神力。

 そこに俺が僅かな神力を注ぎ込んだところで、いやどれほど膨大な神力を注ぎ込んだところで、肝心の壊れた蛇口をどうにかしなければ帰結する結果に変わりはない。

 溢れ出した水が、原水が枯渇するまで水を吐き出し続ける。

 心葉の紋章は、もう治らない。

 紋章を破壊されることは本来、心臓を壊されることと同義なのだ。本来神力を作る器官は心臓にあり、仮に神力器だけを器用に破壊したとするなら、今の心葉と同様の状態になる。

 だがそんなことは通常起こりえない。

 わざわざそんな面倒なことをしなくても、人は心臓を潰されただけで死んでしまう。

 心葉のような紋章所持者は、心臓を剥き出しの状態でいるに等しかったのだ。

「明日のデートはどうするんだよ! 俺との約束は!? まだ卒業式まで二ヶ月以上も残ってるんだ! こんなところで死ぬなよ!」

 込み上げてきた感情は、どうすることもなく溢れてくる。

 否定してほしかった。

 ちょっと待てばすぐによくなると言ってほしかった。

 けろっと立ち上がってほしかった。

 また笑いかけてほしかった。

 だが、心葉は――。


「ごめん、ね……」


 ただただ、謝罪の言葉を述べていた。

 玲次が、七海が涙を流す。

 二人も、もうわかっているのだ。

 紋章が破壊されてしまった心葉に助かる方法がないということを。

 これまで、俺が島に来るより以前から、二人はこの日が来ることを知っていた。

 いつでも来ていいようにと覚悟をしていたはずだ。

 強固に固められていたはずのそれは、現実を前に容易く崩れ去った。

「心葉……力になれなくて……ごめん……」

 頬を流れ行く七海の滴は、ぽたぽたと自身の腕に落ちていく。

「私が、私が代わってあげられたら、どんなに……」

「そんな……こと、言わないで……」

 自身の体を預けている七海に、心葉は優しげな笑みを浮かべる。

 最後の力を振り絞るように、必死に言葉を、思いを、全てを吐き出す。

「七海ちゃんは、これまでも……私の代わりに頑張ってくれたよ。本当に、助けられて、ここまで来たよ……」

 ここが終着点だと言わんばかりに、心葉は満足げな笑みを浮かべる。

 一瞬辛そうに顔を歪め、肺に空気を取り入れてから、玲次に目を向ける。

「玲次君も、ありがと……」

 溢れ出した涙を隠そうともせず、玲次は首を振る。

「ありがとうじゃねぇえよ……。俺がお前に何をしてやれた。お前よりも他の生徒を優先して、いつも、いつも……」

 これまで押さえてきたものが押さえ切れなくなったように制御が利かなくなる。

「他のやつらと同じように、お前と別れるとき辛くなるのが嫌だったから、他に集中する振りして、いいことを、正しいことをしている気になって――」

 嗚咽を零しながら涙を流し、これまで内に秘めてきた感情を吐露する。

「結局、俺は自分のことしか考えてなかったんだよ! お前に、ありがとうなんて言ってもらう資格は俺にはない……ッ」

 また、心葉が笑う。

「ふふ……本当にそっくりだね……二人は……」

 玲次が吐露した心の内。

 その姿は、かつての七海そのものだった。

 俺と七海が対峙し、わだかまりを解消する以前の、七海にそっくりだ。

 心葉はその事実に喜ぶように笑うと七海に目を向け、そのまま玲次に視線を移した。

「七海ちゃん、元気でね……。玲次君、七海ちゃんを、絶対に幸せにしてあげる……ように……」

 二人はもう声にならない返事を返し、項垂れ、涙を流す。

 仕方ないなというように小さく苦笑いを浮かべる心葉。

 そして、冷たくなった手が微かに握り返され、今にも閉じそうな目が俺を向いた。

「凪君……もう、いいよ……」

 頭の中で、必死に考え、神力を心葉へと流し込み続けていた俺に、心葉が言う。

「ダメだってことは……わかるんだ……。皆とお別れをしないと……いけない……って」

 たくさん話したからか、深くゆっくりと息を吸う。吸い込んだ空気を肺が取り込んでくれないのか、呼吸を繰り返しても苦しそうなまま、自嘲気味な笑みを零す。

 頭の中で、必死に考える。

 心葉を助ける方法を。現実を変える方法を。


 世界で一番大好きな彼女を、この世界に繋ぎ止めておく方法を。


 だが、考えれば考えるほど、答えは一つへと収束する。

 人間誰しも逃げられないものが待っている。生まれてきた人間全てに平等に、現実は訪れる。

 でも、それはあまりに早過ぎる。

 この生徒たちは、これまで何十年にも渡り、この現実と向き合ってきた。

 どれほど願っても、焦がれても、力を尽くしても変えられない、俺がこの世で一番大嫌いな運命が、心葉の前に待ち構えている。

 扉はもう開かれた。

 その線を越えてしまっては、もう戻ることができない場所へ、心葉が連れて行かれる。

 必死に止めようと手を伸ばすが、触れ合うほど近くにいる心葉が確実に向かっていく。

 死という、普遍の真理に。

「そんなこと、言うなよ……」

 流れ出した滴が自らの手の甲に落ち、心葉の手へと流れていく。

「俺は、俺はお前にまだ何もしてやれてない。お前がもう助からないって、それを聞いていても、ずっと助けようとしていたんだ……。これまでどうとか、こういう理由だからなんてそんなことはどうでもよかった……。俺はただ、お前を助けたかったんだよ……ッ」

 俺は知っている。

 大切な人をこの世界から失わなければならなかった苦しみを。

 どれだけ嘆き悲しんだところで、あのときこうしていれば、時間が戻ってくれれば、どうしようもないたらればばかりが頭を巡ったとしても、何も変わらない。

 最近、思い出すのだ。

 物心付くより以前。

 まだ赤ん坊だったときの記憶が、時折頭によみがえってくる。

 父さんが母さんを失って、世界に絶望している姿がしっかりと瞼の裏に焼き付いている。

 心葉の冷たくなった手を握りしめ、失い続ける神力が残りの時間を突き付ける。

「その気持ちだけで……十分だよ……」

 穏やかに優しく、心葉が微笑む。

「信じられなくって、ごめん……。本当に九尾を倒して……凄かった……。それと……」

 もう耳を近づけなければ聞こえなくなるくらいのか細い声で、心葉は、言葉を口にする。

「明日の約束――守れ――なくて――」

 ふっと心葉の体から力が抜ける。

 先ほどまで微かに感じていた手のひらの力はなくなり、薄らと開かれていた瞼も力なく閉じられた。

 そして、心葉の体に灯火のように揺れていた命の火が、消えた。


 心葉は美榊大学病院に運び込まれた。

 誰もが無理だと、無駄だとわかっていただろう。

 しかし、誰も心葉に対して治療をすることを止めなかった。

 ただ一人の消え行く少女の命をここに繋ぎ止めようと力を尽くした。

 心葉の体は、紋章を、神罰器を失ったことによって、生命維持を行っている神力全てを失った。

 体は短時間しか経っていないにも関わらず明らかに衰弱していき、そして――


 本年度、四十七回目の神罰、十二月二十四日。

 その神罰が終了してから五時間後の、世界が影に包まれた宵闇の時刻。


 心葉は、息を引き取った。

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