32
「デートをしましょう」
十二月の第二週。
霜が降り初めて久しくなるこの頃、外を出歩くにも、もとより暑がりな俺でもコートを着るようになった。
誰もいなくなった教室で一人調べ物をしていた俺を前に、心葉は高らかに言い放った。
集中していたため、もしかしたらその前に何かを言っていたのかもしれない。
「デートをしましょう」
覚え立ての言葉を繰り返すオウムのように、まったく同じ言葉を繰り返した心葉に、その線もないということを知る。
「いきなり現れて、あなたは何を言っているのですか?」
「何をじゃないよ! デートだよデート! デートするんだよ!」
机をバンバンと叩きながら心葉が抗議をする。
「お前急にどうしたんだ? 何か悪いものでも食ったのか? いい病院紹介するぞ?」
「いい病院なら凪君よりも知ってるよ!」
的外れだがもっともなツッコミをしながら心葉は憤慨する。
「私たち、もう付き合って三ヶ月になるんですよ! それなのにデートの一つもしたことがないのはおかしいと思うのです!」
「うっ……」
これまたもっともな指摘に言葉に詰まらせる。
俺が思いを伝え、そして心葉がそれに応えてくれたのが夏の終わり、八月下旬のこと。それから、九月から十一月まで丸々、特に彼氏彼女らしいことはやっていない。
しかし、それも仕方のないことだと、自分の中で言い訳をする。
神罰を終わらせるために、俺はあらゆる時間を調査に回している。そんな時間がないとまでは言わないが、それなりに忙しい日々は送っている。
それに、心葉がもうすぐ死ぬことを考えると、どうしてもお互いの距離を詰めかねる。どこまでが大丈夫で、どこからがダメなのか。当たり前だが、そんな境界なんてものが最初からないこともわかっている。
心葉は少しむすっとしたように頬を可愛らしく膨らませた。
「凪君、私が死ぬから変な遠慮してるよね?」
再び痛いところを突かれて、ぐうの音も出ない。
心葉のことを、紋章の真実を知ってからもう二ヶ月近く経つ。気持ちも落ち着き、徐々に付いてはいけない整理がつき始めている。
心葉の死を考えても以前ほど胸が痛むことはなくなったが、それでも痛みの波がやってくる。
結局は、やはりただの言い訳なのだ。
心葉のことを本当に思うなら、心葉に楽しい思い出を作ってあげることが、俺ができる唯一であることは理解している。
「するなっていう方が無理だろ」
風船のように膨らませている頬を両手の人差し指で押して空気を抜いてやった。
ぷしゅうと空気が流れ出し、心葉は頬を押さえて唸る。
「別に今すぐ死ぬってわけでもないんだから気にしないでほしいな。そんなこと気にしてたら何もできないよ」
俺は少し眉を上げて驚いた。
今の言葉は、現在は心葉が紋章を使う気がないことということだ。
以前の心葉なら皆のためには紋章を、なんて言うバカな考えに付きまとわれていた。
つい先日、高校全体で三十人も死ぬということがあって、俺は心葉が紋章を使うなんて言い出さないかひやひやしたが、そんなこともなくこれまで通り過ごしていた。
どう転んでも、心葉の命はあと四ヶ月もない。
他のやつらもそれを今になってようやく痛感し始めているのか、心葉に尖った視線を向けることもなくなっている。
そのことが嬉しく、そしてそれ以上に悲しくなり、曖昧な笑みを浮かべた。
「わかったよ。丁度こっちも行き詰まってる。気分転換にデートしようか」
「……なんか、デートがおまけみたいになってない?」
逆に悲しそうな顔をされ、俺は笑いながら心葉の頬をぐりぐりと軽く指で突いた。
「そんなことないよ。すっげぇ嬉しい。悪いな、彼女の方からこんなこと言わせて。甲斐性なくてすまん」
心葉は少し赤くなりながら俺の手に自分の手を重ねて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「本当ですよ。あまり苦労かけさせないでください」
「申し訳ないです。責任取りますので許してもらえるとありがたいです」
お互い恥ずかしくなって敬語で話し合う。
心葉は、幸せそうな笑みを浮かべて頷いた。
「許します、彼氏さん。だから、デート、すっごく楽しいものにしてね」
週末、約束した通りに心葉とデートに行くことになった。
九時半から美榊高校の駅前で待ち合わせをして、街に行くことになっている。
元々、父さんの朝食を作ったりという家事全般を行っていた俺は朝にめっぽう強い。
目覚まし時計など使わずとも、六時半には目が覚めており、その日にしておかねばならない大抵のことは済ませて家を出た。
基本的に俺は服装にはそれほど頓着しないので、黒のジーンズと上はシャツの上からブラウンのジャケットを羽織るという簡単ななりだ。
最初はそれなりに悩んでいたのだが、あまり悩んだところでこういうことは意味がないのが世の常だ。
結局は自分が一番落ち着くと感じた服装にするのがいい。
これで文句を言われた素直に謝ろう。
『神罰の方は大丈夫なのか?』
天羽々斬が心の中から尋ねてくる。
責めているわけではなく、単純に心配してくれているのだ。
「少しなら大丈夫だ。行き詰まっているのは本当だしな。あまり考え過ぎても効率が落ちるのもマジだし。ちょっとは息抜きしないとな」
焦りに焦りが重なり、何をしていいかわからなくなることがある。
そんなときは気分転換に出て行くということも必要だ。
それが心葉とのデートと言うなら、一石百鳥くらいの価値がある。
『お前がそれならいいがな。後悔がないようにするのも、お前たちにとっては必要なことだ』
天羽々斬は、心葉の死を否定することは絶対にない。それが無理なことであると天羽々斬も知っているからだ。
でも、いやだからこそか、心葉のことをよく気にかけているように感じる。
『では、私は眠ることにする。お前も私を気にしたままでは、逢い引きもできないだろう』
失礼になるかもしれないが、神様とは思えないほど気を遣えるやつである。
天羽々斬は基本的に常に俺と意識を通じているが、自分の任意のタイミングで意識を眠らせることができるのだ。
俺が寝ている間は警戒のためという理由で起きており、それ以外の時間で安全そうな時間があれば眠ることもある。眠りが必要であるわけではないらしいのだが、たまには意識を沈めた方がいいとかなんとか。
『何かあれば呼んでくれ』
「気を遣わせて悪いな」
『ゆっくり休息を取るといい』
天羽々斬の意識が体の中で小さくなっていくのを感じ、それっきり話さなくなった。
術者の正体、それが未だにわからない最大の難関だ。
天羽々斬がこいつだと教えてくれれば簡単なのだが、それがわかるものでもないらしい。第一それができていれば父さんの代で神罰は終わっていることになる。
しかも、術者がわかってもすぐにはどうこうできない可能性が出てきている。
調べれば調べるほどこの神罰は複雑な状態でできているらしい。
どちらにしても術者がわからないと何ともしがたい状態にあるのには変わらないが。
「さて、どうしたものかな」
「なーにが?」
突然背後から飛びつかれた。
九時半ぴったりだ。
「色々だな」
「まさか私とのデートプランで悩んでくれてたりするの?」
「そんなものは最初から考えていない」
「ひ、ひどっ、本当にひどい!」
計画性など俺に求められても困る。こういうとき、計画なんか立てたら身動きとれなくなってついでに時間も気にしてろくなことにならないのは目に見えている。
心葉は背中から降りると、腰に手を当てたぺろっと舌を出して笑った。
「考えてないのは私もなんだけどね」
「お互い様じゃん」
二人して照れを隠すように笑い合った。
心葉はとてつもない寒がりだが、冬になれば見えるところは秋や春と変化しない。その代わり下にたくさん着ているのだと以前言っていた。
今日は膝丈までのスカートの下にレギンスを穿き、上は白色のニットの上にベージュのダッフルコートを着ている。
「どうかな、似合ってる?」
その場でくるりと回ってみせるが、無理をしているため表情がぎこちない。
こういうときはついついいじりたくなってしまう。
「かわいいよ。本当によく似合ってる」
顔が爆発したように真っ赤になった。
心葉をいじるときはとことんストレートに行くのが鉄則だ。
俺も逃げ出したくなるので諸刃の剣であるが。
「あ、ありがとう」
ほら、こんなこと言われたらこっちが照れるわ。
九時三十五分、正確過ぎる電車が高校前に到着した。
高校生の休日などどこも同じようなもので、朝っぱらから出て行こうという生徒は少ない。
「とにかく行こ。今日は一日きっちり付き合ってね」
心葉は到着した電車に向かって歩き出しながら、こちらに手を差し出す。
付き合い始めてから、心葉は俺に遠慮というものをほとんどしなくなった。
昔のように、自然体で俺に接してくれる。
それが本当に嬉しかった。
差し出された手を握り返しながら笑う。
「仰せのままに、お姫様」
「うむ。苦しゅうない」
心葉も楽しそうに微笑みながら、俺の手を引いて歩いて行った。
伝わってくる温もりを手のひらに感じながら、俺も歩みを進めた。
街に到着してからは、心葉のペースでデートが始まった。
もとより俺より断然この街を知っている心葉に任せた方が確実だし楽しめるのは間違いない。
最初は定番に映画だった。
「どれが見たい?」
溢れかえるチケット売り場を前に心葉が尋ねてきた。
「何か見たいものがあったんじゃないのか?」
「いや、定番かなと思って」
考えることは二人とも同じだった。
「とことん定番なら恋愛ものかホラーだけど」
「じゃあ丁度いいのがあるよ」
心葉が指さした先にあるのは、明らかに隅に追いやられているポスターだった。
【ラブゾンビ】。そんなタイトルが書かれていた。
「制作会社は混ぜるな危険っていう言葉を知らないのか?」
「知っているんじゃないかな。毒ガスじゃなくてたくさんの花の香りになりましたって書いてるし」
「それ既に三途の川の向こうに渡ってるじゃねぇか。お花畑に囲まれてんじゃねえよ。帰って来いよ制作会社」
ポスターは毒々しいゾンビの大群と黒髪ロングの美少女が一緒に映るという見事なミスマッチが繰り広げられていた。
B級臭がとんでもない。
「え? でもこの制作チームって前作で収益全国一位だよ?」
これが努力の方向音痴か。何があったんだマジで。
前作は年に五本と映画を見ない俺でさえ見たことがある映画で、その面白さは確かだった。
他に目に付く映画もなかったため、愛はゾンビを救うというキャッチフレーズの映画を選んだ。
タッチパネルの画面でチケットを二枚購入する。
「あ、凪君、お金」
取り出された橙色の財布を手で押し返す。
「いいからいいから。俺はプランとかは一切考えてないから、金は俺が出すよ。今日は全部俺持ちだ」
「え、でも、それじゃ……」
「マジいいって、どうせ親父の金だ」
「……余計に申し訳ないんだけど」
確かにそんな風に取られるかもしれないが、本当に構わない。
島に来る際に俺の口座に振り込まれている額は有り余るほどだ。普通に生活を送っているだけでもちろんほとんど使うことないし、相当な豪遊をすれば半分にできるかもというものだ。
この島に来てから神罰のことでアルバイトなんかはできていないが、本土ではそれなりに家庭教師なんかのアルバイトをしていたのでそれなりに蓄えもあった上、父さんからのお金で何十倍にも膨れ上がっている。
アルバイトをしていたあの頃が懐かしい。ずいぶん遠くまで来てしまったものだ。
そんな感慨深いことを考えながら、俺は券売機から吐き出されたチケットの片方を心葉に差し出し、財布はさっさとポケットにしまってしまう。
心葉は降参とばかりに手を上げて、チケットを受け取った。
単刀直入に言おう。
映画は非常に面白かった。
シリアスホラーと純愛が見事なマッチを繰り広げた邦画にしては珍しい三時間長編だった。だらだらと長いわけではなく、息も吐かせぬ演出に驚かされた。
俺は演出やキャラクターの描写などに感心しながら別角度から楽しんでいたのだが、心葉は映画に完全に入り込んで楽しんでいた。
ホラーシーンになれば体をびくつかせて涙目になり、隣に座る俺に手を必死で握っていた。家が道場で普通の女の子より明らかに鍛えられているため、全力の握力に手のひらが悲鳴を上げていたが構わず握らせて上げていた。
ゾンビと黒髪美少女のまさのに恋愛シーンでは涙をぽろぽろ流していた。
最後開始直後からひたすら手を繋いでいたことに上映終了後に気付き、顔を真っ赤にしていた。
俺がこちらにやってきたばかりのときはローテンションのことが多かったが、基本的に感情の起伏が人並み以上にあるやつなのだ。
まさか映画が三時間もあるとは思わなかったため、映画館を出たときは既に二時を回っていた。
「あ、そういえば、前に行った喫茶店、覚えてる?」
「オムライスが美味しかったところな」
「そうそこ。あそこ、今新作のオムライスが出てるんだ。そこで昼食にしようよ」
返事をする前に心葉は歩き出しており、俺が着いてきていないのに気付くと、駆け寄ってきた。
「ほらほら、時間は待ってくれないよ!」
心葉は俺の手を引いて歩き始めた。
映画館ではそこまでわからなかったが、心葉の手は戦闘には不向きなほどに小さな女の子らしい手だった。心葉は十分に剣の腕も立つが、それでも武器を持っている姿は思い浮かばない。
戦闘スタイルが武器を持たないものであるため、本当に綺麗な手をしている。
俺のマメだらけでぼこぼことしている手とは対照的だ。
「相変わらず、あったかい手だな」
「それでも私は結構寒いんだけどね。困ったものだよ」
苦笑しながら震える振りをしてみせていた。
「手が冷たい人は心が暖かいって言うよな」
「……それは暗に私が冷たいと言っているの?」
「言ってないです」
冷え冷えとした声に即座に首を振った。
そんなたわいもない会話をし、俺たちの初デートは続いていった。
喫茶店で新作のデミグラスオムライスを二人で食べ、服を買いに行き、カラオケで歌い尽くした。
買い物では、心葉には暖かそうなショールを買って上げ、お返しにスポーツ用のリストバンドを買ってくれた。自分のキャラを立てるために、というわけではないが大抵左手にリストバンドをはめているため、すぐにボロボロになる。
心葉はそれを気にしていたようで、五種類ものリストバンドをプレゼントしてくれた。
なら俺もとショールを四本追加しようとしたのだが、さすがに遠慮されてしまった。
夜になり、ベタに綺麗な夜景が見えるレストランで夕食、っという感じにしてもよかったのだが、高校生の俺たちがそんな場所には合わないだろうという意見の合致により、簡単なコース料理を出してくれる店で済ませた。
「くうううっ! 久しぶりによく遊んだー」
前を歩く心葉が大きく体を伸ばしながら言った。
寮までの帰り道、電車を途中で降り、迂回して海際にある公園を歩いて帰ることにした。
海に隣接するように造られた森林公園は、整備された遊歩道が続いており、朝や夕方はランニングやペットの散歩をする人たちで溢れかえっているが、さすがに日が変わろうかとしているこの時間帯には誰も歩いていない。
「ここまで遊んだのは初めてかもしれないな。勉強するか剣道の稽古付けられるかアルバイトのするかのどれかだったからな」
「友達いなかったんだ?」
こちらを振り返りながら心葉が悪戯っぽく微笑む。
この手の話をすると友達ゼロ説が出てくるのが世の常だ。ボッチであったことは否定しない。
俺は乾いた笑いを浮かべながら頭を掻く。
「俺の友達は、本土に行ってもずっとこの島にいたからな」
視線を海沿いにある丘に向ける。夜であるため、ほとんど見えないがあそこに一本杉の丘があるのだ。
立ち入り禁止でしょっ引かれてからあまり行けていないが、それでも時々は行くようにしている。
大切な場所だ。
やれやれと頭に手をやって言う。
「島から出て生活するとな、なんだか自分の生活全て嘘っぽく感じられて、つまらなかったんだよ」
心葉たちは、皆はあの島で暮らしていくのに、俺はもうその輪の中に戻ることはできない。
そう考えるとどうして腐ってしまい、以前のように人に接することができなくなった。人の輪に入っていけなくなった。自然と笑う買う数が減っていった。
「全部この島に置いてきてたんだ。友達も、母さんも、家も、好きな人も、な」
「えへへ」
心葉が照れたように顔を赤くして笑う。
そして、手を差し出してきた。
「好きな人とこうなれて、凪君は幸せ、ですか?」
確かめるような言葉。
それに答えるように俺の手を重ねて指を絡める。
俗に恋人繋ぎというやつだ。
「半分幸せ、半分不幸だ」
包み隠さず、今の気持ちを言う。
時間がない心葉に、嘘も隠し事もするべきではない。
心葉もそれはわかってくれている。
「そうだよね。本当に」
寂しさを孕んだ笑みを浮かべると、俺の手を引いて歩き始めた。
お互いの体温を手のひらで共有しながら、寒い公園を歩いて行く。
真っ暗に溶けるような夜空に向けて、白い息を長々と吐き出しながら、もう何年も前のように感じられる今年の春を思い出す。
「お前とまた会えて、恋人になれて本当に嬉しかった。島に帰ってくるまではな、お前に一言礼さえ言えたら、それでよかったと思ってたんだ。あいつも島で十年別の世界で生きてきて、歳も歳で付き合ってるやつもいるかもしれないし、俺のことなんて忘れてるかもってな。でも最初の神罰の後、教室でお前に会ったとき、そんな建前吹き飛んじまった。俺がどれほどお前のことを考えてきたか、感謝してきたか、ずっと好きだったかをわかってもらいたいって、思っちまったんだ」
自分の中で感情が動くのをはっきりと感じた。
心葉がまだ明らかにクラスメイトたちから拒絶され、腫れ物のような扱いを受けている中、俺はそんなことを意にも介さず接してきた。
何があったのかは当時知らなかったけれど、一人寂しそうに辛そうに高校生活を送っている心葉を見ていられなくなったら接していたわけではなく、ただ単純に、心葉に話したかったから話してきたのだ。接してきたのだ。
それほどまでに、自分の感情を殺せなくなっていた。
「本土にいた頃は、たぶん建前ばっかりで生きてたんだよ」
皆がそうしているからそうする。
友達がいるのが普通だから友達を作る。
誰かと接するのが普通だから接し接される。
学校に行けば勉強をしないといけないから勉強をする。
そこで何をしなければいけないかを、周囲の空気や常識のみに縛られ、流されてきた俺の人生。
自らの意志と呼べるものはそこにはなく、あるのはそうすべきという建前のみ。
のっぺらぼうな人生だ。
今の俺に建前はない。
その事実が、どこか心を晴れやかにしてくれる。
「お前に会ったとき、建前ばっかりで生きてきた俺なら、普通は他の皆が心葉に距離を取って接するなら距離を取って接するべきって考えて、皆と同じような態度を取っていたはずなんだ。なんだかんだ言って、紋章所持者に対する接し方はあれで正しくはないけど間違ってもないからな」
当事者である心葉は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「まあ、ね。紋章所持者は常に神罰を終わらせることができる立場にいるから、皆があんまり関わりたくないって気持ちはわかるよ。これまで通り仲良くいるっていうのは私が死ぬとき辛いし、神罰を終わらせるために私に近づくということは、言い方は悪いけど暗に私を殺すってことが含まれるからね」
そんな重責を進んで背負うようなやつは、頭のどこかがおかしいんだと思う。俺もそうなわけであるが。
「でも、お前を前にしたらそんな建前を持ってられなかった。本音が出ちまったんだよな。他の誰がどう思ってようが関係ない。俺は好き勝手にやらせてもらうって」
思えば、久しぶりに出た俺の人間らしい部分だったのだ。
人は結局のところ、感情の生き物なのだ。正しいか間違っているかは別の話で、刹那の感情の中に生きている。
俺は、心葉に会って人間の部分を取り戻した。
「お前に会ってから今日まで、ずっと幸せだった。感情を押し殺さずに外に出して生きるのが、こんなに楽しいものだなんて忘れていたよ。玲次とバカやって、七海と本音をぶつけ合って、皆で海行って、遊んで、それでお前と恋人になれた。そのことが、本当に幸せだった」
言葉が過去になった。
一瞬歪みかけた視界を何度も目をしばたたかせて堪える。
「今は、毎日が辛いよ。せっかくお前と恋人になれたのに、お前は死んでしまう。あと三ヶ月経てば、お前は……」
その先の言葉はもう続かなかった。
足が動かなくなり、立ち止まる。
手を触れ合わせている心葉はこれほど近くにいるのに、もう少しの時間が経てば、二度と手の届かないところに行ってしまう。
揺れる視界に、心葉の悲しそうな顔が映っている。
こんな顔にさせたいわけではないが、心葉の前では感情が溢れ出して止まらない。
もう建前を取り繕うことさえ意味はない。
お互いに知らないことなど存在しない今の関係では隠すことすらできない。
心葉は手を離すと、そのまま両手で俺の顔を包み込んだ。
そして、少し高い位置にある顔を引き寄せて、そっと唇を合わせた。
慰めるような優しい口づけに、涙が流れ出し、地面に落ちた。
長いキスの後、心葉は唇を離し、濡れた目を俺に向ける。
「私も、本当に辛いよ。もっと凪君といたい。もっとやりたいこともたくさんあった。玲次君や七海ちゃんとも、まだまだ一杯あったんだ」
俺と同じように、心葉の頬にも涙が伝う。
心葉は自分の死を前に泣かないような、そんな強い女の子ではない。どこにでもいる、普通の女の子だ。
そんな心葉に重すぎる責任。
今更、神罰を起こした神をいくら恨んだところで、神罰を止めたところで何にもならない状態になってしまっている。
大粒の涙が浮かんだ顔に、優しげな笑みを作った。
「でも、凪君たちは違う。私が死んだ後も時間があって、この先何十年も生きていく。前を向いて生きてほしい。それが、私の願いです」
溢れ出しそうになる感情を無理矢理抑え込む。
手のひらが痛いほど握りしめ、本音を沈めていく。
今度はこちらから心葉に口づけをし、力を込めれば壊れそうなほど華奢な体を抱きしめる。
言葉が心の中で固まったところで唇を離し、心葉の願いに答える。
「約束するよ。お前が死んだ後も、俺は今と同じように生きることを。お前の人生に約束をする」
心葉の表情に一瞬影が差したが、すぐに嬉しそうな笑みになった。
「……ありがと。私もすぐに死ぬわけじゃないから、残りの三ヶ月はよろしくね?」
「ああ、わかっているよ」
また、指を絡めて手を繋ぎ直し、俺たちは歩き出した。
おそらく心葉に見抜かれてしまった。
お互い口に出して触れこそしないが、それでも悟られてしまっただろう。
今俺が言ったことが、建前であるということに。
妙なところで勘が鋭過ぎるのが心葉の怖いところだ。
普段はなんということにも気付かないのに、人の心の変化には機敏に反応する。些細な挙動すら簡単に見透かされてしまう。
きっと今も、俺の言葉に何かを感じ取ったのだ。
それを口に出さないのは、それがたぶん心葉の建前だからだ。
お互いに、根底にあることは口にできなかった。
でも、それでいい。
言葉は口にして初めて現実になる。
いくら心の中で思うと、それは虚構に過ぎない。
口にしないことによって、建前によって本音を騙し、お互いを偽る。
そうすることでしか生きられないときも、時には存在する。
一時間ほど、たわいもない会話をしながら寮までの道を歩いた。
もうどちらも神罰や紋章のことには触れず、俺が本土にいた間の話や、日常でのことだけを話していた。普通の恋人のように。
校門の前まで帰ってきた。
もう日は変わっており、明日は日曜日で休みだというのに校門は誰彼も歓迎するようにその口を開いていた。
「凪君は、これから図書室に行くんだよね?」
「ちょっとだけだけどな。調べておきたいこともあるし」
デートをする前にちらりと話していたのだ。
デートが終わった後は高校で調べ物があるからそれまでになるけどいいかと。
別に時間は決まっていたわけではなかったので、こんな時間までデートをしていたわけだが、毎日やっていることをやらないというのは非常に気分が悪いのだ。
「じゃあ、今日はここでお別れだね」
「そうなるな」
再び俺は心葉にキスをした。今度は短く軽いものだ。
「いきなりはずるいぞっ」
心葉からもお返しとばかりにキスの応酬があり、唇を離すと心葉は数歩俺から距離を取った。
「今日は、私のわがままに付き合ってくれてありがとうね」
「彼女とのデートはわがままとは言わないだろ。俺に甲斐性がないだけだ」
「ははっ。そうかもね」
心葉は楽しそうに笑った。
「でも、神罰を終わらせてって言っている私の願いまで聞いてもらってるのに、邪魔してるみたいで申し訳なかったんだ。そこは迷惑じゃなかった?」
「迷惑であるはずがないだろ。煮詰まった頭のリフレッシュに本当によかったよ。久しぶりに爽快な気分」
これは本当のことだ。
いつも神罰に黒い感情を向けているため、たまにガス抜きをしないと頭がおかしくなるのも事実なのだ。
「そっか、ならよかったかな」
どうやら本気で心配をしていたようで、心葉は胸を押さえて安堵を漏らしている。
それなら、とか細い声で言う。
「またデート、してもらっても、いいかな?」
恐る恐るといった様子で口にする心葉。
再度自分からデートに彼氏を誘うということに恥ずかしさを覚えているようだが、さっき散々キスをしていてそんなところに恥ずかしさもないだろうに。
変なところで乙女な彼女に、俺は笑いながら答える。
「もちろんいいよ。自分で言ってて悲しくなるが、俺は甲斐性なしだから、誘ってくれなきゃ動けないんだ。でも誘ってくれたらいくらでも答えるから。その辺は悪いな」
「そ、そっか。よかった」
指をもじもじとさせながら、顔を赤くして俯く。
しばらく両手の指を弄んだ後、意を決したとように顔を上げた。
「じゃあ、今年のクリスマスとかいいかな? 十二月二十五日。今年は土曜日だから、一日私とデートしてもらえない?」
クリスマスに恋人とデート。
彼氏彼女なら誕生日や一周年などの記念日と並ぶ定番のデートデイだろう。
「それに、凪君、クリスマスが誕生日だったよね?」
「ん? なんだ覚えてたのか?」
「当たり前じゃない。彼氏の誕生日くらい把握してますよ。最期に聞いたのは何年も前だったので不確かだったけど、最終的には理音ちゃんに確認しました」
あの野郎、いや野郎じゃないが、何勝手に人の個人情報漏洩してやがる。心葉だからいいものを、他にも流しているんじゃないかと疑問が湧いてきた。
仕切り直すように心葉が言う。
「だからね、今年のクリスマスは私に凪君の誕生日を一緒に祝わせてほしいんだ。私の誕生日はもう終わっちゃってるから、凪君の誕生日だけでも……」
ちなみに心葉の誕生日は四月五日だ。
俺は笑みを浮かべて頷いた。
「わかったよ。それでそのときは、何ヶ月遅れにもなるけど、お前の誕生日も祝おう」
俺がこの島に帰ってきた頃には既に終わっており、そのときは紋章が体に表れたことでバタバタとしており、自分の誕生日を祝う余裕などなかったと聞いている。
「クリスマスとお互いの誕生日、派手に祝おうぜ」
「うん、絶対っ、約束ね!」
「おう、約束だ」
「……ありがと。凪君」
消え入りそうな声で呟くと、心葉も顔に笑顔を貼り付けた。
お互いに最後は必死に笑うことしかできなかった。
「それじゃあ、クリスマスに」
「ああ」
それ以上言葉を交わすことはなく、心葉は俺に小さく手を振ると、逃げるように寮へと走って行った。
心葉の背中が見えなくなるまで見送ると、俺は校門をくぐって深夜の校舎へと向かって歩いて行く。
「クリスマスに心葉とデート……か」
心葉とこんな関係になるとは、島に帰ってきた頃には想像もしていなかった。
心葉はあと三ヶ月すれば、死んでしまう。それは確定した出来事だ。
だからこそ、俺たちはお互いの距離を縮めることを躊躇してしまう。
お互いの距離が縮まれば縮まるほど、別れるときは辛くなる。
どうしようもないことなのだ。
でも、俺は心葉が望むなら、どんなことでもしてやれる。
俺にはまだ時間が残されているが、心葉にはもう限られた時間しか存在しないのだ。
俺の痛みなど、心葉の苦しみに比べたら微々たるものだ。
だから俺は、心葉の願いは全て叶える。
神罰を終わらせることも含め、全ての願いを叶えてみせる。
全ては、心葉のために。
「ああ、でも――」
楽しみではないと言えば、さすがに俺も嘘になる。
自然と顔を緩んでしまう。
「さて、天羽々斬、起きてくれ。始めるぞ」
少しの沈黙の後、体の中に意識が一つ覚醒するのを感じた。
『……終わったのか?』
「ああ、今日も夜の間に調べてしまうぞ」
『心得ている』
短く言葉を交わし、俺はクリスマスのことを心の片隅で楽しみにしながら、また神罰を終わらせるために動き始めた。
だが――
俺と心葉に、クリスマスが来ることはなかった。