29
土日祝日の三連休を開け、火曜日になった。
予想していた通り、火曜日になると神罰が起きた。
さすがに二週間を開けるような状態にはならなかった。
水曜日になった今日、神罰は起きなかった。長く開いたからと言って連日で起きるということもないようで何よりだ。
連休は何度椎名宅に呼び出されたかがわからない。
事ある毎におじさんおばさんから携帯電話に連絡が入ってきた。
早朝稽古に付き合えと叩き起こされ、昼に街に出ていると釣りに行くから付き合えと言われ、夕方寮に帰ると夕飯ができたから食べにきなさいとか。とにかく色んな用件で呼び出された。
未だ後ろめたさを感じている部分があり、その要求には断れずに大人しく従っていた。
道場では門下生たちと立ち会いまでさせられた。
俺とおじさんの一本がいい刺激になったようで、同年代の俺をどうにか下そうと必死になって挑んできた。大人げなく蹴散らしてやったが。
さすがに中学生以下の子どもたちにそんなことはできず、柄にもなく指導をしてみたり助言をしてみたり。
神罰のことを調べることも同時並行でやっていたせいで、かなり密度の高い連休となってしまった。
それに、稽古に付き合うのはいい経験になった。
神罰に立ち向かうために力を付ける生徒たちの姿を見るのは、モチベーションを上げることができるし、今現在神罰について子どもたちがどう思っているのかを実際に見ておきたかったのだ。
大半の子どもたちは俺に挑んでくるだけで、あまり関わりを持とうとしなかったが、一部好奇心の塊みたいな子どもたちはおり、そいつらは積極的に質問を飛ばしてきた。
天羽々斬を見せてくれだとか、仙術とか法術とかを使ってみてくれとか、多少無茶も言ってきたがある程度はやっていた。
想像以上に美榊島の教育というのは凄いものがあり、神罰への認識や反感が徹底して教え込まれていた。
子どもたちは、神罰は絶対に受けなければいけないものだと理解しており、神罰をどうにかするなんて考えを持った子どもは一人もいない。
ただ強くあらなければいけないと考えており、愚直なまでに強くなろうとしている。
周囲がそうしているから自分もそうしなければいけないという、流されやすさのようなものを感じた。
生徒の中に、何人か島の息のかかった子どもを忍び込ませ、島がその子どもたちをよく扱う。玲次や七海、理音たちもそれに当たるだろう。
そうすることによって、集団心理を利用して子どもたちを先導して問題がない方向、神罰に敵対しない、違和感を持たない、ただ戦う。
そういう形に持っていっているのだ。
美榊島が行っている政策だ。
それが間違っているとは思わない。
俺や、そして御堂がそうであったように、神罰を止めようとするなどといった目を付けられる行動をすれば、神罰を起こしている神に直接消されかねない。こういった政策がなければ、もしかしたらとっくの昔にこの島自体が潰されていたかもしれない。なくなっていたかもしれない。もっと多くの人が死んでいたかもしれない。
だから、美榊の考えを否定するつもりはない。
子どもたちの話を聞く内に、こちらの方面からのアプローチも重要だと判断し、九月終わりから十月中旬にかけて、俺は中学生小学生やそれ以下の子どもたちのことを調べた。
おじさんも俺がそのことを調べたいと言うと、道場の出入りを自由にしてくれた。武具も好きに使えばいいとまで言ってくれ、行動を示してくれるわけではないが、それでも俺には協力はしてくれる。
それが椎名樹という人なのだ。
しかし、あの日おじさんが言った意味深な言葉については触れようとはせず、こちらが聞いてものらりくらりとごまかすばかりだ。
ただ、何かを待っている節があるので、そのときが来れば教えてくれると信じ、こちらも深くは聞かないようにした。
子どもたちのことを調べ始めたのは、他の中学校や小学校がどのようになっているかという状態を知りたかった。
美榊第一高校だけが神罰が起きており、それ以外の教育施設ではどのような動きがあるのか、どんな場所にあるのか、神罰が起きているときに何か変化はないのか。
最期が一番大きな理由だ。
俺の中で、少しずつではあるが神罰のことを解明できつつある。しかし、それはあくまでも上辺の部分だけで、最も重要な術者まで辿り着くことができない。
それさえわかってしまえば、正直原理や理由などを全て吹き飛ばして神罰を終わらせることができる。
相手が神であろうと何であろうと、今の俺なら善戦できる。これは天羽々斬からの情報だ。
もちろん絶対ではないが、神懸かりをすれば大抵の神とは渡り合うことがあると。世界を創った神とて、この世界を一瞬で消し去る力などは持ち合わせていないのだ。それが行方がわからなくても気付かれもしない神なら尚更のこと。
話を戻すが、結果として中学校や小学校では何も掴めなかった。
道場で知り合った中学生や小学生、あとついでにいた第二高校の太刀山君の力を借りて学校を調べて回ったがこれと言って情報は得られなかった。
特に変わった人物がいるわけでもなく、施設が特殊なわけでもない。
それに、美榊第一高校はあまり神罰というものを強く意識させないためか、第一高校だけ離れた辺鄙なところに造られているのだ。
当然だが、第一高校の隣やら付近に後輩の学校なんかがあれば、死んでいく生徒たちを間近で見ることになり、ただでさえ不安定な生徒の心にダメージを与えかねない。
離れた場所に生徒を批難、いやこの場合どちらかと言うと神罰を受ける生徒たちを隔離しているのだ。そのための学生寮だ。
仮に付近に神罰を受けることのない、神力を持たず戦うことができない生徒が通う高校なんてあってみれば、神罰を受けている生徒としては力のないお前たちがなんでそんな楽な生活をしているんだ、死に怯えずのうのうと生きているんだというわけだ。
神罰が起きるよう要因は全て美榊第一高校内に揃っているはず。それから考えるに、術者も高校内にいる可能性が高い。
しかし、それについては一つ引っ掛かることがある。
御堂が殺された際の状況だ。
御堂は、神罰が終了する前ではなく、終了した後に殺された。
おそらく殺した犯人は、御堂を神罰終了後に息の根を止めることによって、御堂が神罰中に妖魔によって殺されたと見せかけることが目的だったはずだ。
それが、御堂が奇跡的に意識を保っていたことで、違和感が生じてしまった。
御堂を殺した犯人は、なぜただ単純に、神罰中に御堂を殺さなかったのか。都合のいいことに、あのとき現れていた妖魔は蜃であり、視界が悪く御堂を強襲するにはこれ以上ない状況であったに違いない。
それなのに、わざわざ神罰が終わった後に御堂を攻撃し、致命傷を与えた。
そこから推測できることが一つある。
神罰を起こしている術者は、神罰が起きる時間には関係者以外原則入ることができない校内にいると不審な人物であるということ。
それならわざわざ神罰が終わった後に御堂を殺すことも納得できる。
神罰を起こす際、神罰が起きている結界に留まるのは、正直かなり危険だ。いくら神とは言っても、人の姿をして成り代わっているわけだから、明らかに人間とは思えない力を発揮するわけにもいかず、だからといって妖魔に殺されてしまえば意味がない。こちらとはそのまま死んでしまうというのは非常に嬉しい話だが、そうならずに五十年が経っていると考えるとそれはまずあり得ない。
そう考えると、神罰を起こしている術者はむしろ外部にいた方が自然と考えることができる。
自ら作り出した檻の中に、自らが呼び出した化け物と一緒に入る必要はないというわけだ。
そういうわけで、今回は外に目を向けて、神罰に関わりが深い第二高校や中学校以下、それから美榊第一高校周辺の施設や人物を調べてみたのだが、成果は上げられなかった。
情けない話ではあるが、わからなかったという手掛かりが得られただけでも上々。
これまでならこんなことを考えていたが、いよいよそんな悠長なことは言ってられなくなってきた。
もうすぐ十月が終わるというところまできてしまった。
でもそんな状態を打破するように、一つの出来事が起こった。
その日は週の終わり、金曜日の出来事で、十二時を過ぎて神罰が起こらないとわかった日のことだった。
昼食を食べてから午後の授業になり、二時くらいまでこれまで調べていたことを頭の中で整理しながら教鞭を振るっている先生の授業を聞き流していたときだった。
突然校内放送を知らせる音楽が流れた。
流れ始めた軽快な音楽に生徒たちは一様に動揺し、視線を外に向けたり先生や七海、玲次に意見を求めたりしている。
美榊高校には校内放送はほとんど神罰が起きているときしか使われることがない。今年ではほとんど七海がやっていることだが、神罰が始まる際に現れた妖魔の攻略法や弱点、注意点などを示唆するために使われる。
しかし、それ以外のことでは基本的に使うことはないらしく、俺も実際七海以外が使っているのを見たことがない。
俺も外に視線を向けるが、神罰が起きている風ではない。結界も現れている様子はないし、俺も嫌悪感などを感じていない。
先生や七海、玲次の様子を見るに、何かを聞かされていないのは明らかだった。
ただでさえ今年は、夏休みに神罰が起きるなどという異例な事態が起きているため、本来神罰が開始される正午を過ぎていると言っても、楽観視はできないのだ。
音楽が終わり、芹沢先生の声が流れた。
『三年Aクラス八城凪、八城凪、至急校長室まで来なさい。繰り返す――』
お前、またなんかやったのか。
そんな視線が教室中から向けられる。
よってたかって熱い視線を向けられて困っちゃうぜ。
冗談はさておき、本気で何も覚えがない。
そろそろ好き勝手やりすぎたから島から出ろとかそんな話だろうか。それなら素直に職員室に行ってはろくなことに、いやどうやってもろくなことにはならないんだが、悩んでしまう。
「行った方がいいよ、凪君」
後ろに座っていた心葉から声をかけられる。
「……何か知っているのか?」
声をひそめて返すと、心葉は微笑を浮かべた。ただ笑っているわけではなく、笑みの中に悲しさを隠した笑顔だ。
「大丈夫。悪い話じゃないから。行けばわかるよ」
寂しそうに笑う心葉に、俺はそれ以上追求することができなかった。なんとなく、察してしまったのだ。
荷物を手早くまとめて席を立つ。
「じゃ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
七海にも手を振り、後ろを通り過ぎながら玲次の肩を叩いて教室を出た。
校長室まで辿り着き、扉をノックする。
どうぞという声を聞いて、扉を押し開ける。
「失礼します」
初めて普通に校長室へと足を踏み入れた。
その場にいたのは、芹沢先生と、お客様用の椅子に腰をかけた一人の女性。
フレアスカートの黒いスーツに身を包んだ女性で、背中まで伸びた綺麗な黒髪を持っている。和服でも着れば完全な大和撫子だ。
何度か会ったことがあるその人だが、なぜここにいるのかは疑問だった。
「えっと、白鳥琴音さんでしたよね?」
「覚えてくれたの? ありがと」
人懐っこい笑みを浮かべるその人は、白鳥理音の姉、白鳥琴音さんだった。吉田が死亡したときと、理音が高校から帰ってこなかったときと二度会っている。
左の奥にある椅子に座っていた芹沢先生が言った。
「評議会の上層部が、一度話をしておきたいということでね。わざわざ迎えに来てくれたんだ」
「私は評議会の事務的な仕事をしているの。主な仕事は実務より対外的なやりとりの打ち合わせとアポイントを取ることが多いわね。私もあなたとはゆっくり話したことがなかったから、迎えを買って出たのよ。運転手は別にいるけれどね」
「そうですか。ちなみに、その呼び出した人っていうのはどちら様ですか?」
琴音さんは悪戯っぽく笑みを浮かべ、唇に指を当てた。
「内緒っ。本人に会うまでのお楽しみ」
つまり気になるなら来いということか。
この人も妹の方と同じでやたらぐいぐい来るな。
「わかりました。お願いします」
この様子では島外退去をさせられるとかそういう話ではないようだ。となると、自ずと話は限られてくる。
「しっかりね。凪君」
芹沢先生にも後押しをされ、俺は琴音さんに連れられて外に出た。
玄関の前には、何度か見たことがある黒い車が止まっている。評議会の人の社用車だ。この島ではパトカーと同じくらい怖い車だ。
車の側ではさらにもう一人、コートを来た私服姿の女性が待っていた。
「お久しぶりです。八城さん」
「あれ、結衣さん。もしかして結衣さんが運転をされるんですか?」
待っていた結衣さんはげんなりとして肩を落とした。
「ええ、今日は非番だったんですが、突然琴音に呼び出されまして、運転手をしてくれないかと」
「ええーいいじゃない。どうせ暇してたんでしょ?」
失礼にもほどがあるが、いつものことなのか結衣さんは特に相手もせず後部座席の扉を開けた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ショルダーバッグを膝に抱えて乗り込む。
結衣さんは運転席に乗り込み、なぜか琴音さんは俺の隣に乗り込んできた。
「……あの、どうしてわざわざ後ろに?」
「固いこと言わずに、ささ、シートベルト、お姉さんが締めて上げる」
「いえ、結構です。自分でできますので」
きっぱりと断ってそそくさとシートベルトを締めてしまう。
「もう、初なんだから」
琴音さんは体をくねくねとさせながら笑う。
この人は理音とはまた違った意味で強引だ。パーソナルスペースが狭過ぎる、と言うか存在しないのかもしれない。
車がロータリーを回って校門から外へと出た。
「八城君、神罰を止めようと頑張ってるんだって? 男の子はそれくらい無茶をしないとダメよねー」
「琴音、それは問題発言ですよ」
「固いこと言いっこなしよ。この場には評議会のうる若き女しないのよ。誰も聞いちゃいないわよ」
結衣さんが運転席で疲れたようなため息を吐いている。
「八城君いいなー。強くて奔放で格好良くて。今日この用事が終わったらお姉さんとデートしない?」
「いえ、そういうのはちょっと。俺、彼女いますので」
思い出したように琴音さんは手を打った。
「ああ、知ってる! 心葉ちゃんとでしょ!? 評議会の方でも話題になってたわよ。やるわねぇさすが男の子」
言いながら、琴音さんはすっと俺の足に手を伸ばしてくる。
「でもいいじゃない。その前に私と、どう?」
いやどうって……。
大人な妖艶さを放ってくる琴音さんの手を受け止め、反応に困る行動に頭が痛んだ。
受け止めたその手に指を絡めてくる。
「いいじゃない。大人の遊び、しましょ?」
よくないです。
徐々に近づいてくる琴音さんを躱したいのだが、なにしろ狭い室内なので逃げることができない。
「琴音、からかうのはそのくらいにしたらどうですか? 八城さんが困っていますよ。それに八城さんが本当に受けたらどうするつもりですか? 処女のくせに」
「ばっ、バカ! バカ結衣! 何言ってくれてるのよ!」
際どい発言に琴音さんは俺から体を離して前に座る結衣さんに抗議をする。
「本当のことではないですか。もし凪君が隠れプレイボーイで、じゃあ夜の街で俺としけ込もうぜとか言ってきたら一番困るのはあなたですよ」
琴音さんは顔を真っ赤にしてこちらを見た。
プレイボーイじゃないです。
「とりあえず俺は彼女がいますんで、そういうのはノーセンキューなんで安心してください」
「そ、そう、それなら仕方ないわね」
口ではそう言いながらも安堵して胸を撫で下ろす琴音さんだった。
非常に気まずい空気が車内に流れる。
前の信号が赤に変わり、車は停車した。
「あ、あの、まあさっきの話は別としまして、お二人は恋人とかいないんですか?」
この島では神力を持つ子どもの血を絶やさないための対策として、幼い頃に許嫁を決めるということを慣例的に行っている。なので、二十歳前後でも将来を誓い合った相手がいるのが別段珍しくもなんともないのだ。
「お二人とも美人ですし、評議会で働くばりばりのキャリアウーマンだとは思うんですけど、引く手数多なんじゃないですか?」
二人は、何も答えなかった。
運転席ではハンドルを握ったまま、結衣さんが静かな眼差しを前に向けており、横に座る琴音さんは微笑を浮かべている。
非常にまずい話を振ってしまったと、悟った。
「ああっとね」
琴音さんは探すように言葉を彷徨わせる。
「私も結衣もね、神罰で恋人を亡くしてるのよ」
この島には触れてはならない話題に溢れている。それを失念していた。
信号が青に変わり、車は動き出した。
結衣さんは何も言わずに運転を続ける。
「数年前に、空白の世代があるの知ってる?」
「……はい、知っています」
知らないわけがない。
近々で起きた最も凄惨な出来事だ。
「私たちはその世代の人間なのよ。空白の世代の生き残り。結衣の恋人はその年の紋章所持者、そして私の恋人は今年生徒会長を務めている片桐玲次君の兄、片桐総一君」
愕然とした。
「総一兄ちゃんの……!」
「あれ、君は総一君とも関わりがあったの?」
「俺が、この島にまだいた頃にお世話になって人です。とてもよくしてくれました」
総一兄ちゃんの許嫁が理音の姉の琴音さん。
そして、その年に紋章所持者に選ばれた人の許嫁が結衣さん。
神罰によって、許嫁を奪われた二人。
「私たち二人が評議会の人間で、あの二人は学校側の人間、まあ紋章を持った彼は、紋章所持者になると同時にその席を外れたけどね」
いつも一緒に遊んでいた仲だったそうだ。
評議会と学校側の人間に別れていたとしても、別に二つの組織は相対しているわけではない。ただ役割が違うだけだ。
それこそ、今の俺たち四人のような仲だったのだろう。
「私たちの年は盤石って言われてたんだけどね。よほどのことがない限り、少ない犠牲で神罰を終わることができるって話だった。でも、たった一体現れた妖魔に全てを覆された」
視線を窓の外へ向け、流れる景色のその向こう、過去へと向けて琴音さんは言った。
「一瞬で数え切れない友達が死んだ。悲鳴を上げる暇も後悔する暇もなくね。私たちは自身の身を守るだけで精一杯で。それで本来近接戦闘には向いていないのに前線に出て戦っていた総一君が死んで、それを見て逆上した紋章所持者の彼が妖魔に向かって、殺されて。でも本当は、彼はわざと命を投げたんだ。誰も敵わないことに絶望して、私たち残っていた生徒を守るために。それを隠すために、妖魔に突撃して死を選ぶなんてことをした」
紋章を使っても死ぬことはできるし、他に様々な方法で命を絶つことはできる。
しかし、その方法をとっては皆を助けるために死んだと皆に思わせてしまう。それなら、逆上した振りをして妖魔に向かっていって殺される方が負担が少なくて済む。
かつて、心葉が自ら車道に飛び出して自殺しようとしていたのと同じだ。
「だから私たちには、二人揃って恋人もいなくて、処女のままなんですよ。八城君」
おちゃらけた表情で言ってのける琴音さんだが、その目に浮かんでいた悲しみは隠すことができていなかった。
「すいません……」
「何を謝ってるんだねチミは。別に私たちは怒ってはいないのだよ」
肩をばしばしと叩きながら陽気に言った。
そんな仕草すら気分を紛らわせるためのものだ。
琴音さんは手を組むと、小さく笑みを零した。
「だから八城君、私たちは君に期待をしているのですよ」
「……期待ですか?」
「うん。これまで、きっと多くの人が成し遂げようとしていた、願っていた神罰を終わらせるという壮大なことをやろうとしている君を、誰も言葉には出さないけれど、期待しているわけですよ」
評議会。
本来、正しく神罰が始まり、正しく神罰が終わるようにしなければいけない立場の人。
それなのに、俺が神罰を止めることを応援してくれると言う。
それは素直に、本当に嬉しかった。
「琴音」
運転席から、小さく声が投げられる。
「それは、問題発言ですよ」
たしなめながらも、結衣さんの言葉はどこまでも優しく、どんなものよりも深い慈愛に満ちていた。
「うん、ごめん」
謝りながら、琴音さんはぺろっと舌を出した。
「また怒られちゃった」
軽快に笑いながら琴音さんは視線を窓から外へと逃がした。
それっきり、二人とも言葉を発することはなく、俺も何も言えずに、ただ車は目的地を目指して走って行った。
二十分ほど緩やかに走って、車は目的地に到着した。
市役所。
以前、一度来たことがある場所。
また、ここに来ることができた。
車は正面玄関で止まった。
「はい、これ」
琴音さんは内ポケットから取り出した一枚のカードをこちらに差し出した。
ただのカードにしては厚みが数ミリあり、黒くメカニカルなデザインは近未来的な構造になっている。
「これを使えば市役所内で自由に動けるから。と言っても、君の行くべき場所は一つ。エントランスの正面にある一番大きなエレベーターにこれを当てて、それから最上階を押して」
「琴音さんは一緒に来られないんですか?」
てっきりそこまで来てくれるものだと思っていた。
「うん、私はこれから結衣とちょっと遅めのランチに行ってくるから」
「ちょっとあなたまだ仕事中――」
「というわけで行ってらっしゃい」
指摘した結衣さんの言葉を遮って琴音さんは悪びれること言い放った。
結衣さんは呆れて何も言えないようだった。
俺は渡されたカードを握りしめる。
「琴音さん、結衣さん。お二人にこんなことを言っていいのかはわからないんですが」
一度切って、はっきりと告げる。
「神罰は、必ず俺が終わらせます。これまで犠牲になってきた全ての人のために、今生きている人のために、これからを生きる子どもたちのために」
評議会の人たちに、一体何を言っているという話だ。
いくらこの二人だとしても、神罰を追わせることを心の底では願っている二人ではあっても、二人には本来言うべきことではない。
でも、言っておきたかった。
「うん、期待しているね!」
琴音さんは眩しいばかりの笑顔を浮かべて言った。
結衣さんは何も言わなかったが、小さく笑って頷いてくれた。
すると、琴音さんは自分のポケットを探り、結衣さんにも何かを出させた。
「これ、私たちの名刺。何かあったら電話してきて。何か聞きたいことがあるときでも、夜のお供が寂しくても呼んでくれていいから」
「はは、ありがとうございます」
苦笑しながら二枚の名刺を受け取った。
「では、行ってきます」
扉を開けて、外に出る。
「頑張ってください」
「キラキラしろよ! 少年!」
二人の声に押されて、俺は足を進めた。
ついにここまできたか。
エレベーターの階数が一番上を目指すのを見ながら、暴れ馬のように打つ胸を押さえる。
ここまで連れてこられた理由はわかっている。
むしろ、俺が願っていたことだ。
超高層ビルの最上階、四十階でエレベーターは止まった。
軽快な音を立てて、エレベーターが開いた。
五メートルほどの、短い廊下が目の前にある。左右には二つずつ扉があり、正面に一つの扉があった。
この超高層ビルの敷地の広さから考えて、廊下があまりにも短い。これでは、他の部屋を移動することが不便で仕方がないと思う。実際、俺がいくつか覗いたことがある他の階は、長々とした廊下が縦横無尽に走っていた。
こういう構造になっているのはなんとなくわかるが、それを確認することはできない。
この階は結衣さんや琴音さんですら入ることができず、そのため俺に指示をするだけ一人でここまで来ている。
俺をここに一人でやったのは、俺が信用されているからか、はたまた信用できない人間だと裁定するためなのかはわからない。
指示されたのはエレベーターを降りて正面の扉に入ること。そこに俺が求めていたものがあると。つまり左右の扉に入ってはいけないわけだ。
ここまで来て他の部屋を覗くなんてバカなことをすることもない。
足を進める俺の後ろで、エレベーターの扉が閉まり、階下へと降りていった。
重くずっしりとした黒々と光る扉。
躊躇わず、その扉をノックした。
扉の左上には監視カメラが設置されており、真っすぐこちらを見つめている。
入室許可の声の代わりに、扉のオートロックが解除され、自動で開いた。
入れと言わんばかりに、周囲の空気を取り込むように風が流れた。
足を進め、部屋に入る。
俺が入ると、独りでに扉が閉まり、オートロックの鍵がかかった。
見る限り、こちら側にはロックを解除するボタンやスリットなどはない。
部屋の主が退出を許可するまで、俺はここから出ることができないというわけだ。
広大な部屋だった。
中央に真っすぐ道ができており、左右にデスクが大量に並んでおり、書類などが綺麗に積み上げられていた。
しかし、そのデスクには誰も作業をしている人はおらず、また座っている人もいなかった。
俺は、そのまま前へと足を進めた。
部屋の最奥に巨大なデスクがあり、ディスプレイがいくつかと他のデスク同様書類が積まれていた。
デスクの向こうは一面ガラス張りになっており、街はもちろん山々まで見渡せる絶景が広がっている。
そのデスクには黒い牛皮で造られたオフィスチェアが一つあり、その椅子は窓側に向けられていた。
そこに一人、鎮座している。
「八城凪さん、ですね」
この部屋の主が語りかけてくる。
「はい」
返事をした自分の声は、微かに震えていた。
単純な怖さ、期待、高揚、その他あらゆる感情に突き動かされるように、体中が猛っていた。細胞が悲鳴を上げ、同時に歓喜している。
「周囲がやたらと私に時間を作るようにうるさくやっていると思ったら、あなたの差し金だったんですね」
やや呆れている声色も含まれているが、声の主は楽しんでいるように軽快に笑っていた。
「大したことは行っていません。ただ、一度会っておかなければいけないと思っていましたから。時間がない人だと聞いて、色んな人にあなたの時間を作っていただけないかと頼んでいただけです」
俺は、部屋の主に向かって言う。
「美榊市長、神宮司志乃さん」
大きな椅子がくるりと周り、こちらを向いた。
綺麗な紫色の和服に身を包み、黒にちらほら白が混じる髪を結い上げた、妙齢の女性。
この島にまだ神罰なんてものがなかった頃から市長を務めており、神罰が始まってから終わらずに続いている現在まで、実に五十年以上市長を務めている人。
おそらく年齢は八十歳前後というところだとは思うのだが、そんなものは微塵も感じさせないほど生気に溢れており、目は輝きを失っていない。
顔には所々に刻まれた皺が目立つが、それでもまだ五十にもなっていないように若々しい。
「凪さんと呼んでもいいかしら?」
「お好きに呼んでくださって結構です。市長、今日はお時間を取っていただき、本当にありがとうございます」
その場に市長に向かって深々と頭を下げる。
「いいんですよ。私も長い間休みを取っていなかったので、周囲からうるさく言われてましたから。私のことは気軽に、志乃と呼んでください。市長と呼ばれるのも、苗字で呼ばれるのもあまり好きではないので。言葉遣いも気負わなくて結構ですよ。僕でも俺でもタメ口でも結構です」
一瞬の逡巡の後、俺は頷いた。
「わかりました。では、志乃さんと呼ばせていただきます。言葉遣いも少し崩させてもらいます」
さて、と前置きをして市長、もとい志乃さんは机に肘を突いた。
「ここ数ヶ月、あらゆる人間が私に連絡を取ってきました。現美榊第一高校の芹沢先生、警察署長を任せている御堂大翔さん、その妹結衣さん、それからもう亡くなってしまっていますが弟の准さん。他にも、白鳥の御令嬢、生徒会の片桐玲次さん、西園寺七海さん。他にも、色んな人から時間を作って凪さんと面談をするように話がきています」
俺は、市長の志乃さんに会うためだけに様々な人に頼んできた。事ある毎に、市長に面談をさせてくれるようにお願いをしていた。
誰かに一人に頼んで成功するものでは、そもそもなかったのだ。志乃さんに会えないという問題は、俺に会ってくれないということではなく、志乃さんに時間がないからという問題だった。
この美榊島の堅牢な統制を保つためには、先導者を多く配置するより、ずば抜けたキャパシティを持つ志乃さんを頭に据えておく方が効率的で確実だった。そのため、美榊島が行ったのがあらゆる裁定を、志乃さんを通して行うというもの。
そのせいで、理想の状態は築けているのかもしれないが、志乃さんの仕事量が莫大なものになっていたのだ。
その中で志乃さんに会うにはどうするべきか。それはあらゆる方面から志乃さんの仕事を削ってもらうようにお願いすることだ。
それを行うことには時間がかかることはわかっていた。問題しか起こしていない一生徒に会わせるために、ポンと時間をくれるような余裕はこの島にはない。
だから、俺は会う人会う人にお願いをした。
市長に会うだけの、時間を作ってくれませんかと。
他にも、学校の先生で言えば黄泉川先生や円谷先生、天堵先生や彩月さんにも頼んでいたし、生徒でもそれなりに島の上層部に食い込んでそうな人には声をかけていた。
その結果が、ようやく現れたのだ。
「あなたのお父さんからも、数ヶ月前に連絡が入っていました。一度でいいから、会ってやるようにと。挙げ句、つい先日孫の樹からも連絡が入り、仕事はこっちでどうにかするから会ってやってくれと言われました」
「……樹さんって、椎名樹さんですか?」
「そうです」
それはつまり……。
志乃さんは悲しそうな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、その通りです。今年の紋章所持者は、心葉ちゃんは私の曾孫に当たります」
親しみを込められた呼び名に、一層痛みが含まれていた。
こんな人でも、五十年以上同じ経験をしているにも関わらず、死には慣れていないのだ。それが親類ともなれば当然だ。
市長の表情が、すっと真剣みを帯びた刃のように変化した。
「凪さんが、どうしてここに来たのかはわかっています」
声音まで、体をすくませるほど恐ろしく響いてくる。
「凪さんの口から聞いておいておきたいので、要件をお願いできますか?」
俺が美榊島のトップ、市長の志乃さんのところまできた理由。
そんなものはわかりきっている。何度も切に思ってきたことだ。
「俺は、神罰を止めたいと思っています」
後戻りができない言葉を口にする。
色んな人に何度となく言ってきたことだが、この人に言うのはわけが違う。
「あんなものがあってはならない。神が起こしているから、俺たち人間が犯した過ちだからとか、そんなことは関係なく、あんなふざけたものをあること自体が許せない」
この人相手に告げてしまうということはつまり、この島の人たち全てに対して言っているのと同義だ。
今更、悪ふざけでした、冗談でしたではすまない状態に、自ら落ちた。
「でも、俺の目的はたった一つ」
口に微かな笑みを浮かべて、俺は言う。
「俺は、あなたの曾孫である、椎名心葉を助けたい。そのために神罰を止めます。だから――」
乾いた肺に息を取り入れ、言う。
「あなたが知っていることを教えてください。神罰について知っていることを教えてください。お願いします」
腰を折って頭を下げる。
俺が知らない神罰の秘密。俺一人の力ではどうにもならない情報を、この人は持っている。それは間違いない。
だからここまで来たんだ。
少しの沈黙の後、志乃さんは吹き出し、声を上げて笑い始めた。
頭を上げて、思わず呆けていると、一頻り笑った志乃さんが謝るように手を上げた。
「ふふ、ごめんなさいね。あまりに、あまりに似ていたものだから、つい笑ってしまいました」
「えっと、その、似ていたというのは」
「あなたのお父さん、勇さんにですよ。私のところにあなたの話を持ってくる人が、似ている似ているというもので、どれくらい似ているのか気にはなっていたんですが、まさかここまでとは。ここに来た理由を尋ねると、今の凪さんと同じことを言ってましたよ。違うのは、救いたかった対象が、姫川陽さんとだったということくらいです」
懐かしむように一つの息を吐き出して、志乃さんはこちらに目を向けた。
「凪さん、これだけはわかってください。ここまで辿り着いたご褒美として、神罰で多くの生徒を助けてくれているお礼として、私はあなたに私が知りうる情報の全てを提供します。しかし、それは勇さんがここにきた情報とあまり変わってはいません。つまり、その情報を知った上で、勇さんはあなたのお母さんを助けることができなかったのです。それでも、私から話を聞こうと思いますか?」
「はい」
俺は即答する。
「たとえどんな小さな可能性だろうと、俺は諦めるつもりはありません。あなたの曾孫を救うために、俺は今どんな情報もほしいんです」
正直、志乃さんが父さんのときから新たに大きな情報を持っているとは、失礼な話だがそこまで期待はしていなかった。
父さんの時代から現代まで、特に体制に変化はない。
つまりそれは、そこまで劇的な情報は入ってきていないということなのだ。
「わかりました」
志乃さんは頷くと、再びこちらを見返した。
「凪さん、私から話す前に、あなたにはいくつかの条件を了承していただきます。過去、勇さんに提示した条件と同じになります」
俺は頷いた。
代償なしで教えてもらえるとは、はなから思っていない。
「まず一つ、ここで聞いたことは絶対に口外してはいけません。ただの一人も許すことはできません。もし口外した場合は、私は総出であなたを排除しに回ります」
「構いません」
即答することが意外だったのか、志乃さんは微かに眉を動かしたが再び口を開く。
「第二に、ここで話を聞いたことにより、あなたをこの島においておくことができなくなります。本年度、正確には今年の神罰が終わると同時に、島を出て行っていただきます。もちろん、二度と戻ることは許しません」
「はい。わかっています」
父さんが提示された条件と同じだ。
この条件があったから、父さんは島を出るしかなくなったんだ。もちろん母さんが死んでその思い出の場所に留まるのが辛かったからということもあるだろうが、根本的には美榊島が父さんがこの島に残ることをよしとしなかったんだ。
「三つ目、これが最期ですが」
志乃さんは頷き、三つ目の条件を提示する。
その場で、志乃さんは深々と頭を下げた。
「必ず、神罰を終わらせてください。お願いします」
話を聞くに当たって、場所を移すことになった。
大部屋からはさらに一つ移動ができて、そこは志乃さんの私室である和室だった。
老いをまったく感じさせない足取りで進み、俺もその後を追う。
とても超高層ビルの最上階にあるとは思えない部屋だ。
掛け軸や立派な日本刀が飾られており、招き猫や信楽焼の狸の置物など、様々なものが飾られている。
「何もないところですいません。あんなところで立ち話も何なので、許してください」
そう言って、志乃さんはお茶と茶菓子を俺の前に置いてくれた。
「いえ、こちらこそすいません」
突然、辛い感情が頭をよぎった。
この人も本当は、こんな和室でゆったりと老後を過ごしているはずの人なのだ。
しかし、それが神罰なんてものがあるせいで、この島の人間の誰よりも身を粉にして働いている。
この世界が、様々な世界が枝別れしてできたものであるなら、神罰は一体どれほどの人の人生をねじ曲げているのか。
それを考えると、また怒りが込み上げてきた。
どれもこれも、全て神罰を終わらせれば解決する話だ。過去は変えられないが、これからは変えられる。
志乃さんは、俺の前に膝を折って座った。
「まず、あなたが神罰をどのように思っているか、それを聞かせていただきましょうか」
志乃さんから質問を投げられ、この島の人間が誰でも知っている神罰のことを話した。
五十数年前に、島にやってきていた神をこの島の子どもが攻撃してしまったことが発端となった現象、それが神罰。
様々な対策の末、現在は美榊第一高校のみで正午から一週間に一、二度の割合で起きている現象。
神罰を終わらせる方法は、紋章所持者が死亡すること。それによって、その年の神罰は終わらせることができる。
簡単にではあるが説明をすると、志乃さんは満足げに頷き、さらに質問を投げてきた。
「これまで、半世紀以上も終わることなく続いているこの神罰を、凪さんは止められると思っているんですね?」
「はい」
迷わず即答する俺に、同意するように頷き、志乃さんはその理由を尋ねてきた。
神罰が発生する条件が、あまりに人為的、作為的に起きている点。
様々な対策を行っているにも関わらず、問題がない対策と問題がある対策が存在するという点。
紋章という不可思議なものがあり、紋章所持者が死ぬことで神罰が終わるという、妖魔と戦うことで罰を受けているにも関わらず二重に罰が起きている点。
「この島の人たちからすれば、ほとんどの人が気にしない点ですが、俺には気にしていない方が不思議です。それも、この島の教育があるから、だとは思っていますが」
「そうですね。私たちが最も力を注いでいる部分の一つです。そこにこの島の人間が違和感を覚え始めると、神罰が崩れた形になり、さらに犠牲者が出ること請け合いですから」
もう隠す必要がないと考えているからか、全て話してくれるからかわからないが、志乃さんは否定することなく答えてくれる。
そして、猫又のマリから聞いた、この神罰は明らかに術によって行使されているという点。これは初めて情報だったらしく、志乃さんは興味深そうに聞いていた。
「それと、これは誰にも聞いたことがないんですが」
前置きをした上で、俺は全てを知っている市長に会えたら尋ねようと思っていた疑問を投げかける。
「この島に来て一番初めに、芹沢先生から神罰が発端になった出来事、この島に来ていた神をこの島の生徒が攻撃してしまったって聞いていたですけど、それってよく考えるとおかしな話ですよね?」
「……何がおかしいですか?」
眉根をよせた志乃さんが聞き返してくる。
「はい。後々文献で読んで思ったんですけど、この島は元々神が遊びに来る島である。神様がこの島に来たという話はこれまで幾度も記録に残っている中で、神を攻撃したなんて事実はたった一件。神罰の原因になったあの一件だけです。ここで疑問になるが、どうして神を攻撃するなんて出来事が起きたかということ」
これだけ聞けば、普通起きるはずがないことが起きたから神罰が起きていると納得できるが、考えればそれがおかしいことということには簡単に気付ける。
「ざっと見ただけでも、クニトコタチ様やタノカミ様が現れていることが記述にありました。その神様って、大抵人の形をしているんですよね。神罰を起こしている神は、俺は人の姿をしていると予想しているんですが、もしこの予想が正しいなら、昔のこの島の生徒は、人を攻撃したことになる」
その攻撃をしたという生徒が、狂った力をもてはやす悪人だったのなら話は別だが、天堵先生からの情報では、その生徒は品行方正のよい生徒だったと聞いている。そんなバカなことをするとは思えない。
「しかし、事実その事件は起こっています。それは間違いありません」
「はい。それを否定するつもりはありません」
「では、どうして神を攻撃したなんてことに発展していると考えているのですか?」
尋ねてくる志乃さんの表情からはいつの間にか笑みが消えていた。
「神を攻撃したって話自体が嘘か。本当に間違って攻撃をしてしまったか。あるいは――」
答えを持っているだろう目の前に市長に告げる。
「攻撃をされた神に、攻撃されるべき原因があったか、です」
志乃さんの表情が凍り付いた。
俺は、正直これしかないと考えている。
「俺や父さんがずっと追ってきた問題の根底にある神を少年が攻撃した出来事。これを、少年が意図して行ったものであるなら、話はまったく別のものになってきます。この神罰は、決して神が誤った行いをした生徒に科した罰などではない。攻撃をされた神が自らに刃を向けた人間への報復。それが、この島で起きている罰の正体、現象なのではないかと考えています」
そう考えれば全ての辻褄が合う。
神を攻撃した少年に何かしらの問題があったのであれば、少年の行いはむしろ正しいことになり、至当の行動となる。
そして、この島の人間に半世紀も科せられている罰も、相手に許す気など毛頭なく、ただ俺たちが苦しむのを見たいと、快楽的なものに置き換えれば終わらないことも納得だ。
紋章所持者も妖魔も、全てが生徒を苦しめるものであると、全てが罰などではない怨恨によるものであるなら、当然の帰結となる。
「まさか、そこまで考えているとは思いませんでした。勇さんがここに来たときも、そこまでのことは把握されておりませんでしたからね」
微笑を浮かべて志乃さんは頷くと、小さく息を吐き出した。
「凪さん、あなたが考えていることは真実です。この神罰は、ただ神が私たち美榊の人間に罰を科しているなどという単純なものではありません」
「神の罰ではないと?」
「それはわかりません。私たちも全てのことを把握しているわけではありませんので」
市長である志乃さんが神罰がどういうものか全て把握しているという可能性も、僅かに考えなかったわけではないが、やはりそんな簡単なものではないようだ。
「ただわかっているのは、あのことがきっかけで始まり、誰も止めることができずに半世紀もの間に渡り続いてきたということだけです」
「あのことというのは、神を攻撃したという話ですね?」
「そうです。あの事件が全ての始まりでした」
「あの日、神罰が始まる発端の出来事について、凪さんはどのような知識をお持ちですか?」
「俺が知っているのは、先ほどお話しした、この島にやってきた神をこの島の少年が攻撃した。神に攻撃されうる何らかの理由があったから、これは俺の考えですが。この件については、これくらいしか知りません」
「周囲のことについてはどうです?」
その出来事の周囲であった出来事と言うと……。
「神を攻撃した少年が、神を攻撃してしまったことを島民に伝えた直後に失踪。そして、双子の姉が同時期に事故で死亡したということくらいでしょうか」
この辺りは御堂に聞き、天堵先生に聞いたことだ。
「姉のことまで知っているとはよく調べていますね」
感心するように言葉を紡ぐが、その表情はどこまでも悲しげだった。
それも当然であるが、俺には何も言えない。
「神を双子の弟が攻撃、同時期に姉が事故死。これが世間一般で言われている事実です。しかし、事実は違います」
「違う……んですか?」
何が違うのかわからず、俺はしどろもどろに尋ねた。
「初めから話す必要がありますね」
志乃さんは過去を思い出すように、懐かしむように、悲しそうに目を閉じた。
「私の、妹と弟のことを」
以前天堵先生から聞いた、神罰の発端となる少年の苗字、それは神宮司。
神罰の発端となった少年とその姉は、この目の前にいる市長、神宮司志乃さんの弟と妹になるのだ。
血の繋がった、実の姉弟。
「この島の子どもが神を攻撃したのは事実です。しかし、事実は逆になっています。神を攻撃したのは、双子の弟、神宮司宗太ではありません。姉の神宮司早紀なのです」
神を攻撃したのが弟の方ではなく、姉?
この島の人たちが持っている情報と違う。おかしなことではあるが、事実が入れ替わっていることに関しては大した問題ではない。
問題は、どうしてその立場を逆にしているか、だ。
その疑問に答えるように、志乃さんは話し始めた。
「双子の姉は、神宮司早紀。弟は神宮司宗太。二人は姉の私から見ても本当に仲がよく、そしてどちらも優秀でした。当時の神宮司家は、他の人間を寄せ付けない圧倒的な力を持っていました。神力はもちろん、術や戦う技術に至るまで、あらゆる面で優れていたのです。特に姉の早紀は、稀代の神童と呼ばれ、未来を渇望されていました」
しかし、そんな双子を、ある日悲劇が襲った。
「修行に出ていた弟を迎えに行くために、山に入った姉が見たのは、血だらけで倒れる弟と、その上に覆い被さる黒い影でした。それこそ、すべての発端」
「まさか……」
ずっと静かだった体の中の神力、天羽々斬が嫌悪を示すように熱を持った。
「そうです。私の弟、神宮司宗太は、神に喰われていたんです」
喰う。あまりに唐突に吐き出された信じがたい言葉に、息が止まった。
「人を喰う、神……?」
途切れ途切れでやっと言葉を出すことができた俺に、志乃さんはゆっくりと頷いた。
「はい。神罰の原因となった神は、世間一般で思われている通常の神ではありません。人々に災いをもたらす悪神でした」
一般的な神道では、絶対的な邪神などはいないとされている。しかし、実際に人に害をなす神や、存在が悪でなくても結果が人間に災いをもたらす神は存在すると言う。
「その悪神がこの島に来て、宗太さんを喰っていたということですか?」
「それだけではありません。その神は、宗太以前にも相応数の人を喰っていたという調査結果が出ています」
不意に頭に過去通した資料の情報が流れた。
この島の歴史について調べていたときの情報だ。
「そういえば、神罰が起きるより以前、神隠しが頻発して人が消えるという出来事があったと思いますが、まさかそれが……」
一瞬驚いたように目を見開き、やがて頷いた。
「よく知っていますね。その通りです。あの頃多発していた神隠しは、全てこの悪神に喰われた結果です。全て、後で調べてわかったことですが」
志乃さんは当時のことを思い出して悔しそうに唇を噛んだ。それさえわかっていれば、妹と弟を死なせずに済んだかもしれないからだ。
悔しさを振り払うように、志乃さんは続ける。
「宗太が神に喰われているのを発見した早紀は、即座に状況を理解し、自分が持てる全ての力を用いて、悪神を攻撃しました。たとえ神と言えど、早紀の全力を持ってすれば討ち滅ぼすことも可能であったと思います。しかし、弟を殺されたことに動揺し、神を討ち滅ぼすには宗太の体を消滅させるほどの力を行使しなければいけなかったこと。それらの理由で、早紀の攻撃が完全なものでなかったことを咎めることなどできません」
当時、二人は俺たちよりも年下の十五か十六だったはず。そんな子どもに、そこまで酷なことを求めること自体が間違っている。
目の前で生まれてずっと一緒に育ってきた、言わば半身のような存在。その存在が目の前で殺されているのを見て、その神を滅ぼうと力を使っただけでも早紀さんの行動は褒められるべきものだ。
「結果として、早紀はその神を討ち滅ぼすことができずに反撃を受け、致命傷を負いました。相手の神も滅ぼされこそしなかったものの、相当のダメージを受けたようで、早紀に止めを刺すこともなく消えました」
その後、早紀さんは息も絶え絶えに、山を下りて島民にあったことを伝えた。
当時頻発していた神隠し騒動の理由がわかると同時に、島民は戦慄した。神がやってくる島として誇らしげに生きていた島民にとって、長い歴史の中で人を喰うなどといった悪神がやってくることなどなかった。
しかも、悪神であろうと何であろうと、神であることに変わりはない。いくら神に近い力を持った美榊の人間であっても、対策などできるはずもなかった。
早紀さんが伝えた場所で、宗太さんの体は原形を留めないまでに破壊されて発見された。しかし、肝心の逃げた神は島中総出で探したにも関わらず、結局痕跡すら見つけることができなかった。
結果として残ったのは、手負い悪神を野放しにしてしまったという事実だけだった。
「早紀は、あの悪神に止めをさせなかったこと、そして弟を助けられなかったことを嘆きながら息を引き取りました。最期まで、宗太に対して謝罪を繰り返していました」
神罰を引き起こしている悪神の、最も初期の被害者。神隠しによって行方不明になるのとはわけが違う。
正しい行いをしたとはいえ、弟までを攻撃の対象にしなければいけなかったこと。
その使命を全うできずに死んでいくしかなかった早紀さんの無念は計り知れない。
まだ高校生に上がったばかりの子どもにはひど過ぎる。
志乃さんは淡々と、それでいて押さえ切れない感情を瞳に宿して続ける。
「このことには、箝口令が敷かれました。早紀の攻撃が功を奏し、度重なり起きていた神隠しはピタリとなりを潜めました。早紀の一撃で、神が滅ぼせていた。もしくは追い払うことができていたのであればそれでよかった」
しかし、現実は甘くなかった。
毎日を祈るように過ごしていた、その事件を知る人たちの耳に、ある情報が入ってきた。
突然、当時一校だけだった美榊高校に、数え切れない化け物、妖魔が現れ在校生の半分が死んだというものだ。
五十年以上も前とはいえ、過去何百年と続いてきた技術を受け継いでいくために、神宮司姉妹ほどではないが法術などを扱える子どもは多数存在した。
しかし、突然のことということもあるが、神降ろしなどで神器を得てない上、当時は力を持つ者と持たざる者を分けるなどといった対策は行っていない。神力を持たず戦う術を持たなかった生徒が、過半数を占めていたのだ。
それだけのことがありながら、よく半分の生徒が生き残ったものだと、逆に感嘆するほどだ。
悪神の出来事を知っていた志乃さんたちはすぐに思い至った。
一年前倒し損ねた神が起こした罰であると。
ここで一つの問題が持ち上がった。
「わけもわからないものにいきなり襲われた島民たちを納得させる一番簡単で早かった方法は、その原因を伝え、その上で現状の打破を考えてもらうことでした。なぜ起きているかもわからなければ、まともに考えることすらできません。そういう状態だったんです」
「でもだからと言って、悪神がこの島に災いをもたらしているなどとは伝えることができない」
俺がそう言うと、志乃さんはゆっくりと頷いた。
「その通りです。数度神罰が起き、ようやく島民全体が事態を飲み込んだとき、なぜこんなことにと疑問が浮かびました。しかし、原因を知っていた我々でさえ、神罰を止められる目処など何一つなかったのです。真実を伝えたところで現状は間違いなく悪化する。自分たちに罰を受けなければいけない理由があるならまだしも、いくら神とはいえ悪神などという理不尽な存在から罰を受けているなどとすれば、納得をせず反感を持つ島民が現れることは必至です」
この島の人間が、なぜ神罰なんて明らかに異常なものを受け入れているか。
それは神罰自体が自分たちが背負わなければいけない罰であり、たとえ過去の人がやった罰だとしても自分たちが償っていくしかないものだと信じて疑わないからだ。
もし、神罰の原因が自分たちになく、現象の根源である神に問題があるとわかれば、状況は一変する。
俺のように、神罰を止めようとする人間が多数出てくる可能性があった。
「島中の人間が協力すればどうこうなるなどという話ではありませんでした。神罰を直接止めようなどという人間が多数存在すれば、それに対して何かが起きるのはわかりきっていたことでした。現に、早紀を看取った人間の中でそのような動きを取った者は、容赦なく消されました」
だから、志乃さんたちは事実を隠蔽し、ねじ曲げて伝えるという選択を取った。
「早紀と宗太が既にこの世にいないことはわかっていたことです。早紀は体が残っていたため、事故死扱いで葬儀などもきちんと行っていました。宗太は体がほとんど消失していたため、もとより失踪したことになっていたのです。しかし、ただ失踪したとなれば違和感を覚える人間が出てくる。いくら何でもタイミングがおかしいですからね。だから私たちは、宗太が神を攻撃し、その後失踪、身を投げた風に思わせることにし、早紀はただの事故死ということで世間に伝えました」
若干の違和感こそ残るものの、これが一番筋の通った話になる気がする。
もし、早紀さんが神を攻撃してその反撃を受けた結果死んだなどとわかれば、相手の神は直接人を攻撃してくるような神だと思われかねない。
そうするなら、初めから理由不明で失踪扱いにしていた宗太にその理由を向けて処理した方が後々問題も起きにくそうだ。
事実、ほとんどの人間が疑問を持っていない。
志乃さんたちがこうやって事実をねじ曲げて伝えたことにより、この島の人たちは、完全に神罰がいくら理不尽なものに感じたとしても受け入れないといけないという状態を作り出したのだ。
これらのことを全て行ったのも、おそらくは志乃さんだ。
当時から、才気溢れる女性だったのは間違いない。
長々と話したためか、呼吸を整えるように志乃さんは長い息を吐き出した。
「以上が、神罰が始まる原因となった出来事の顛末です」
「……」
俺は顎に手を当てて考え込んだ。
「一つ、お伺いしたいですが」
と前置きをした上で、俺は志乃さんに尋ねた。
「この事実を知っているのは、この島でどれくらいいるんですか?」
一瞬、志乃さんの頬が引きつった気がしたが、やがて寂しそうに頷いた。
「そうですね。当時はそれなりにいたのですが、現在は私を含め数人しか残っていません。皆、様々な理由で先に逝ってしまいましたから」
おそらく、志乃さんがこの年までこの活力を保っているのは、神力に起因する部分が多いのだと思う。いくら二十歳を過ぎると少なくなっていくとしても、完全に消えるわけではない。長生きの理由には十分だ。
それに、志乃さんが言った様々という理由。それにはたぶん、神に直接殺された人や、神罰で死んだ人、もしかしたら自ら命を絶った人もいるのだろう。
「ちなみに、具体的に誰が知っているか、名前で教えていただいてよろしいでしょうか?」
今度はあからさまに志乃さんの顔が引きつった。
しかし、俺が真っすぐ視線を向けると、小さくため息を吐いて、数名の名前を暗唱してみせた。適当に言ったわけではなく、全て覚えているのだろう。
「……これでいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
志乃さんから言われれば、昔から戦ってきた同士を疑われたのだ。気持ちがいいものではないのはわかっている。
でも、なるほど。あれはそういうことか。
勝手に納得し、俺は意識を志乃さんに戻した。
「俺は、猫又からこの神罰が術であるという情報をもらいました。それは事実でしょうか?」
唐突に質問の内容が変わったことに一瞬面食らったようであったが、志乃さんはすぐに答えた。
「その可能性は十分にあります。むしろそうでなければ、おかしいというくらいですが。ただ、それを踏まえた上で何十年も調査を行っていますが、神罰という術はほとんど解明できていません」
それはそうだろう。
術の構造が把握できているなら、術を止めることなど容易い。
逆に構造が把握できない限り止める算段が立つことはない。
「どうして死んだ生徒の体が治らないか。それはわかりますか?」
志乃さんは曖昧な表情になった。
「それもわかっていません。ただ、死亡した生徒の体にはある共通点があるがわかっています」
「共通点?」
思わず聞き返すと、志乃さんは頷いて胸に手を当てた。
「我々神人は、生まれたときから死ぬまで、必ず神力を最低限体に宿しています。しかし、神罰によって死亡した生徒の体からは、神力が検出されないのです」
神力が、体から消えている?
不可解な状態に、俺は眉をひそめた。
神力は、俺たち神力を持つ人間にとって生命力そのものだ。使う使わないの問題ではなく、持っていなければいけないものなのだ。
しかし、神罰が終わり、死亡した生徒の体には神力がない。
神罰を生きて終えている生徒の体にはあるのにだ。
意味は理解できないが、一つ合点のいくことがあった。
しかし、問題はそこではないのだ。
一体なぜだろうと頭を悩ませる。
死亡した生徒の体から神力が消えている。
それは、明らかにおかしな変化だ。
あちら側、現世と常世の間の世界とマリが呼称していたあの結界内では、神罰が終わると同時に修復されるあらゆる物質と対称に、術などによって消費された神力はまったく戻らないという事実がある。
しかし、あの結界内で死亡したからと言って、神力は人の体を離れるわけではない。
元々神力は、その存在そのものに宿っている力なのだ。
この島はこの世界のどんな場所よりも神力が存在する島である。だからこの島では、草や木、動物、果ては石や地面、建造物に渡るまで神力が宿っている。
たとえ、神力の宿る木を破壊したところで、その木に宿った神力が消えるということはあり得ない。それは徐々に時間をかけて消えていくものなのだ。
だから、通常の考えを用いるなら、神罰で命を落としたからと言ってその体から神力が消えるなどという現象はそもそもがおかしい。
「どの課程で神力がなくなるか、それはわかっているんですか?」
志乃さんは頷いて答える。
「はい。死亡した直後には、もう失われています。これは私たちが直接確認している事実なので間違いありません」
死と同時に消失する神力。
これまで、神罰を勝って生き残った生徒と、負けて死亡した生徒の間に、どのような違いがあるかは、死というものだけで判別されていた。
生き延びたから生還できた。それだけの違いで判断していた。
しかし、現実には他にもあった。
「可能性としての話なんですが、神罰によって死亡した生徒の体が回帰しないのは、死亡したからではなく、神力を失ったから。そう考えることもできるのではないでしょうか?」
確認を投げると、志乃さんは眉根をよせて顔をしかめた。
「確かに、可能性としては十分にあり得る話です。しかし、それがわかったところで、私たちには何もできませんでした。あなたには、何かわかったんですか?」
「いえ、そういうわけではありませんが、新しい情報だったもので」
本当は考えられるうる推測をいくつか頭の中で組み立てることができていた。
だがそれは推測の域を出るものではないし、それによって何かが変わるわけでもない。下手に情報を伝え、混乱させるわけにはいかない。
気付くと、志乃さんの目が真っすぐ俺に向けられていた。俺自身を見るのではなく、内面を見透かすような視線だった。
「あなたは、私が神罰を起こしている神であるという可能性も、考えているのではありませんか?」
冷たく紡がれた言葉に、体が溶かした鉄を当てられたように熱くなったが、表面上はどうにか押し隠した。
「別に、そんなつもりはありませんが……。失礼に思われたのであれば謝罪します。申し訳ありません」
志乃さんの透き通った双眸を見返すことができず、俺は頭を下げた。
手のひらに噴き出た汗が畳に吸い込まれていく。
体は熱を帯びて沸騰しそうになっているのに、手足は先端から徐々に冷たくなっていた。
どう言い繕うかと頭を回転させていると、楽しそうに笑う声が頭上に落ちた。
「私も責めているわけではありませんよ。大した胆力であると感心していたのです」
頭を上げると、可愛がっている孫を見るような目をした顔があった。
「美榊の最高責任者を前に、そうも図太くいられる人間は中々いません。ただひたすらに自分の目的のためだけに貪欲になれる。それは誇れる部分だと思います」
実際内面はひやひやだったのだが、そこまではどうやら伝わらなかったようでほっとした。
志乃さんは、少し気落ちをしたように目を伏せると、疲れを感じさせる声で言った。
「あなたの、誰であっても神罰を起こしている神であるという可能性を常に持つのは、この神罰を終わらせるために絶対必要なものです。私たちもそれを持とうと意識していますが、どうしても同胞を疑い切れません。その慧眼があれば、神罰の真相まで辿り着けるかもしれませんね」
期待と願望を孕んだ言葉に、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
この人が神罰を起こしている神である可能性は、ある。限りなくゼロに近い確率であったとしても、可能性は零ではない。
だから何か気付いたとしても、俺はこの場では絶対にそれを口にしない。
ここに来る以前から、ずっとそう決めていたのだ。
「すいません。俺はなんとしても神罰を終わらせたい。だから、誰かを疑わずにいるということはできないんです」
謝る。
自分が謝罪すべきことをしているのはわかっている。しかし、間違ったことをしているわけではないため、今下手に情報は明かせない。
「ですのでわかっていますよ。気になさらないでください」
志乃さんは優しげに微笑んだ後、そっと胸に手を当てた。
「私は自分がその神罰を起こしている神ではない。その自覚はあります。しかし五十年もの間、神の正体について調査を続けましたが、誰かに特定することはできませんでした。予想される人物は何人かいたのですが、確証を得ることもできず、そういった人間は長い年月の間に亡くなり、現在では私が考え得る人間はいません」
現実に起きる事件などでもそうだが、初動が何よりも重要なのだ。
長い間年月が経ち、少ない手掛かりからさらにすり減った欠片の中から真実をすくい上げようとするのが、そもそも無茶なことをしようとしているのだ。
神罰が始まった当初に徹底的に調べ上げることができていれば、何かわかったかもしれないが、パニックに陥っていたこの人たちにそんなことをしろと言っても無理な話だ。
それに、志乃さんは見当を付けた人間がいると言っていたが、実際ほぼ確実に神罰を起こしている悪神だと思っても確かめることなどできない。
相手が人に成り代わっている以上、相手を問い詰められたところでしらばっくれられたら終わるだ。
殺して確かめるという方法も極論としてあるにはあるが、この神罰の表向きはこの島の人間が受けなければいけないものとされているため、そんなことをやって間違っていれば自分たちが受けている神罰に美榊が反旗を翻したと思われてしまう。
そんなことになれば、美榊島の社会は確実に崩壊する。
俺は拳を顎に当てて考える。
神罰を起こしている神はどこにいるか。
それさえわかれば、神罰は終わらせることができる。逆に、それ以外のことがいくらわかっても、神罰を終わらせることはできない。
神罰を起こしている悪神を消滅させない限り、神罰は終わることはない。
頭の中にあるピースをいくら繋ぎ合わせても、悪神へと辿り着くことはできない。
まだ、足りない。
思わず渋面になり、口を歪める。
そんな様子をただ静かに見ていた志乃さんが、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、本当に神罰を止めたいのですね。いえ、違いましたか。あなたは心葉ちゃんを助けたかったのでしたね」
そう言う志乃さんの表情は、とても残念そうな、それでいて憐れんでいるような瞳を宿していた。
「……はい。心葉を、俺は誰よりも何よりも大事に思っています。失いたく、ない」
心の内を吐露する。
心葉の曾祖母という志乃さんに対して、嘘を吐くべきではない。今は話せないこともあるが、それでも俺が本気で思っていることは伝えるべきなのだ。
俺の言葉を聞いた志乃さんは、まるで泣き出しそうに顔を歪めた。
「そうですか。心葉ちゃんにも、こんなにも思ってくれる人ができたんですね」
喜ぶように、称えるように紡いだ言葉は、慈愛に溢れていた。
「でも、残念です。本当に」
ゾクッと、背筋が凍った。
生気が抜け落ちたような冷たい瞳に、どこまでも深く暗い悲しみが灯っている。
こういうときの勘は外れることがない。
あとで聞かなければよかったと後悔するほどの、事実を告げられる。
そんな予感があった。
「凪さん、言わない方が私たちには益があると思っていましたが、心葉ちゃんをそこまで思ってくれているあなたに、私は隠すことができません。許してください」
頭を下げる志乃さんに、俺はわけもわからず思考が停止した。
何を謝ることがあるのか、何の許しを請うことがあるのか、隠すとは一体何のことか。
頭の中を疑問が埋め尽くした。
「これは、あなたのお父さんも知り得ない情報です」
志乃さんは続ける。
「あなたの第一目的は、心葉ちゃんを助けること。その方法は、神罰を止めることにより、紋章が消える、そう考えていますね?」
「……そうです。紋章が消えれば、心葉は助かるはずです。紋章所持者が卒業まで生きられないのは、紋章が発動して神力を全て失うから。それなら、紋章を消し去れば神罰をどうにかできないにしても、心葉が死ぬ要因はなくなるはずです」
紋章については、はっきりとはわかってはいないが様々な推測がされている。
神罰を終わらせる唯一の方法。
神から許しを得る方法。
生贄の目印。
どれも確定的な情報はないが、紋章があることが全て所持者の死に繋がっている。
かといって紋章を消し去るのは、方法がないわけではないが非常に難しい。
それなら、神罰を終わらせることによって紋章の意味自体を消し去れば、紋章も消滅する。
俺はそう考えていた。
「それは違います。仮に、今このとき、神罰が終わったとしても紋章は消えることはありません。そして、死の運命が変わることも、ありません」
その考えは、真っ向から否定された。
志乃さんは辛そうに顔を歪めているが、その目は怖いほど乾燥していた。
「紋章が神罰とどういう繋がりを持っているのかはわかりません。ただわかっていることがないわけではありません。紋章は、複雑怪奇な術式が埋め込まれたものなのです。そして、その一部は解析されています」
俺は目を剥いて驚いた。
紋章については何一つわかっていない。わかるわけがないと思っていたのだ。
そんなものがわかっているのなら、紋章所持者を救う方法がわからないわけがないと思っていたから。
美榊が紋章所持者を助けることができないのは、紋章のことがわかっていないからだと、頭から決めつけていた。
それは、俺の勝手な願望。
真実が、必ずしも俺たちに優しいわけでは、ない。
「紋章は、ただ体に刻まれた模様ではありません。我々美榊の人間が持つ、神力を生成する器官、【神力器】。紋章はその器官を術式に再形成したものなのです」
「神力を生成する、器官? 神力器、ですか?」
志乃さんは頷いて手を胸に置いた。
「私たち神力を扱える人間は、ここ、心臓に神力を生成する器官を持っています。この神力器から神力を生成して扱うのです」
それはどこかの本で読んだ気がする。
神力は物質に宿るものだが、神力を扱う人間は独自の神力を発生する器官を心臓に持っている。
その器官から溢れ出す神力を扱える人間が、俺たちのような人間なのだ。
「本来、神力を作る器官は心臓にあります。それが模様となって体表に現れたもの。それが紋章なのです。所持者の体を調査したところ、本来神力を発している器官は心臓にはなく、紋章からその器官が見つかりました」
夏の海で、心葉は俺に紋章を見せてくれた。
あの紋章自体が、心葉の神力を作り出す器官だっていうのか。
薄ら寒い感覚が体を撫でた。
それは、俺が考えていた心葉を助ける方法を完全に否定するものだった。
口が震え、向き合わされる現実を否定するように言葉を吐く。
「そ、それなら、その器官を体に戻すことができれば……」
俺の内心などまったく気付かずに、志乃さんはさらに現実を告げる。
「残念ながら、それはできません。一度心臓から取り出した神力器は、本来の形をしていないのです。そんなものを心臓に戻すことなどできません。過去に一人、紋章所持者から数十人がかりで紋章に姿を変えた神力器を引き剥がすことに成功したことはありますが、心臓に戻すという作業がどうやっても成功せず、死亡させたことがあります。死を決意した所持者が協力してくれたから得られた情報です」
俺が咄嗟に思いつくような簡単なことを、志乃さんたちが行っていないわけがない。
元々俺がやろうとしていることは、過去これまで一度として成し得なかったことへの賭け。
それを思い知らせるように続けられる。
「紋章をどうにかするということは、神力器を破壊するということ。神力器を失った我々は、生存することができません」
「で、でも、紋章が形を変えたとしても神力器としての役割を果たしているのなら、発動させないようにすれば……」
「それも不可能です。紋章はm違いなく卒業式の日に発動します。それは言わば爆弾のようなもの。紋章を使用する、または一定時間経つと紋章が発動、所持者と周囲数十センチという範囲の神力を消滅させる反神力物質となり、自らの体を死滅させる矛となる」
暗い面持ちのまま、志乃さんは言う。
「紋章についての考え方は諸説ありますが、紋章は神が与えてくれた神罰を終わらせる力、ではありません。神罰でどれほどの戦いぶりを見せようと、一人だけは必ず命を奪う。死亡者ゼロで終わる完全な神罰が起きえないように仕組まれた一つの仕掛けなのです。紋章を任意で発動する、もしくは発動を拒んだとしても発動し神力を反神力物質へと変え、所持者を死に至らしめる。その期間こそが……」
「一……年……」
震える口から漏れた言葉は、紋章所持者の人生を表していた。
志乃さんは、そっと自らの頬に手を当て、そこに何も着いてないことに嘆息を吐いた。
「これだけ悲しいと感じているのに、私はもう涙一つ流せないのですね」
自らに呆れているようなそんな言葉を呟き、視線を揺らす俺に、志乃さんは決定的な現実を口にする。
「紋章所持者は、私たちが生きるために必要不可欠な器官を抜き取られ、再度体に埋め込まれた存在。本来生きていられるはずがない状態で生きている。それが紋章所持者です。どんな手段を用いても、紋章所持者は長く生きたとしても卒業式まで。それ以上は生きることができません。神罰をどうにかするとか、紋章をどうにかするとかという問題ではないのです。紋章として心臓から神力器を引き剥がされた時点で、紋章所持者の運命は確定しています」
運命なんて、この世にはない。
そんなことをおじさんに息巻いておきながら、志乃さんの言葉はまさに運命を体現したような言葉に感じられた。
「今年の紋章所持者は、心葉ちゃんは、どう足掻こうともあと半年ほどしか生きることができない。それは、確定化された現実、運命なのです」
Θ Θ Θ
どうやって市役所から、志乃さんの前から去ったのかは、よく覚えていない。
放心してしまった俺を前に、志乃さんはタクシーを用意してくれて、俺がエレベーターで一階に下りるまでの間、何度も謝っていたことがうろ覚え程度に頭に残っている。
足が地面に着いている感覚がなく、前に進んでいるのに歩いている感覚がない。
ただ体が覚えている機能を使っているだけのように、亡霊のように体を動かしていた。
気が付けば、砂浜にいた。
夏に心葉たちと来た、あの砂浜だ。
夏でさえプライベートビーチ化していた海辺には、空気がかなり冷たくなってきた十月下中のこの現在では人っ子一人どころか野生動物の一匹も見当たらない。
志乃さんとの話し合いが、何十年も昔のことに感じられるのに、まだ一時間も経ってない。
立っている感覚すらない足に目を向けると、膝が笑っていた。
崩れ落ちて、そのまま砂浜に座り込む。
志乃さんが言ったことが、全て真実である保証などどこにもない。志乃さんの自ら言っていたように、志乃さんの自身が神罰を起こしている神である可能性もあり、俺に絶望を与えるためにそんなことを言っているという可能性もないわけではない。
ただそんな適当な言い訳でごまかすには、志乃さんの言っていることは非の打ち所がないほど正しいものに思えた。
紋章所持者から紋章を引き剥がすという試み。そんなものがあるなんて、できるなんて思いもしなかったが、それが術であり一つの器官として形作られているのであれば、それも可能なことだろう。
そんな実験まがいのことをしたくらいなのだ。紋章について、ある程度の調べができていて、ほぼ確信を持った上での行動だろう。
俺の紋章の認識は、所持者の体に刻み込まれた爆弾で、その爆弾が所持者の体を破壊すると思っていた。
だから、紋章さえ消し去ってしまえば心葉を助けることができると思っていた。
おじさんが言っていたのは、この方法なのだ。
俺は、神罰から紋章所持者を解放する術は持てなくても、紋章の機能を消し去ることができる方法は見つけていた。
その方法を用いれば、所持者の体には被害を及ぼすことなく、紋章だけを破壊することができるはずだった。
けど、おじさんの言う通りだった。
俺が勝手に思い込んでいただけで、この方法では紋章所持者を救うことはできない。
なぜなら、紋章所持者の紋章を破壊するということは、所持者の命を破壊する行為に他ならないからだ。
それならば、紋章を体に戻せる方法を考えればいい。
そんな、呆れてしまうほど安直な考えが頭をよぎり、顔を歪めて手で押さえた。
神力器なるものを体が引き剥がして紋章に形を変えて刻み込まれたそれを、どうやって体に戻すなんてことができる。
あの人たちができないと判断しているそんな技術を、俺が持てるわけもない。
「……言われたことは間違いないのか」
しゃがれた声を吐き出すと、体の中から答えが返ってきた。
『おそらくだが間違いない。私も初めて聞いた話ではあったが、その可能性は非常に高いと思う』
無論、あの話自体が嘘である可能性もある。
しかし、そんなのに調べればわかることだ。大翔さんや結衣さん辺りに聞けば、おそらくは簡単にわかるだろう。
そんな嘘を吐く意味もない。
「……っ」
感情があふれ出しそうになり、まぶたをきつく結ぶ。
俺は、これまでずっと、自らができる範囲の技術しか持ち合わせていなかった。
自分ができると判断したことは、大抵のことはできる。天羽々斬を持つ以前よりも前から、それは変わらなかった。
思い返してみれば、心葉が死の瀬戸際に立たされているというのに、あまりに冷静に神罰の調査をしていた。がむしゃらではなく、淡々と調べていた。
きっと、父さんはもっとがむしゃらに、それこそ死にものぐるいであったはずだ。気が狂いそうだったはずだ。今の、俺のように。
それなのに、俺はこんなにも落ち着いて神罰について、心葉を助けるために調査を続けていた。
ただ同じなのは、絶対に助けるというその意志の一点に限られるだろう。
俺が落ち着いて冷静に神罰を調べられたのは、全てを尽くして神罰を止めようとしたにも関わらず、神罰を止める手立てを考えられなかったとしても、俺が最後の手段を講じることができれば心葉の紋章を破壊、もしくは効果をなくすことができるから。
心葉を助けられる。その結果、自分が確実に死ぬことになったとしても本望だった。
この方法を用いると、俺は確実に死ぬ。それほどの奥の手は既に用意ができていたのだ。見つけられていたのだ。
だが、それらの考えを全て崩壊させることを、俺は知ってしまった。
不意に、後ろに誰かの気配があった。
砂浜を踏みしめる音がゆっくりと近づいてくる。
それだけで、誰であるかわかってしまった。
足音は俺の横で止まった。
「こんなところで、何してるの?」
呆れているような、心配しているような、それでいて泣き出しそうな、そんな声をかけられた。
俺は答えることも、顔を上げることもできなかった。
「冷え込んできたし、そろそろ帰らないと風邪を引いちゃいますよ」
おちゃらけた空気を作り出そうとしているが、相手自身もそんな状態でないのはわかっているようだった。
「おばあちゃんから連絡が来たんだ。ひいおばあちゃんからね。浜辺にいるから、行ってやってくれって」
その口ぶりから、これまでも連絡を取り合っていたことが窺える。
それが、余計に真実だと教えるように、心がかさかさに渇いてずきずきと痛む。
「……お前は、知っていたのか?」
問うが、すぐには返事は返ってこなかった。
浜辺に打ち上げる波の音と、潮風の音だけが虚しく響く。
「うん。全部、知ってた」
笑って、認めた。
その笑いはどこまでも寂しく、悲しく、辛い。それでいて奮起しようと必死になっている様子が感じ取られた。
「私が紋章に選ばれた時点で、すぐにおばあちゃんに呼び出された。紋章所持者は、毎年そうしてるんだって。別に、そこで本当のことを話すわけじゃないよ。ただ、おばあちゃんがどんな人なのか会っておきたいんだって言っていた。でも、私は特別に教えてもらったんだ、紋章のこと。自分から、聞いたんだけど」
こいつは自分の体に起きたことを、全て把握していたらしい。自分の神力の器官が、いつの間にか自分の心臓から離れて紋章になっていたことに。
そして、そんなことが周りでは知られていなかったため、曾祖母である志乃さんに尋ねた。
そこで、志乃さんは全てのことを話したらしい。
紋章所持者が、どれほど希望を持ったとして、助からない存在であることを。
「知ってたのか……。知っていたのかよ……心葉……ッ」
座り込んだまま体を抱え込み、信じがたい思いで叫ぶ。
「お前は、自分が助からないことをわかった上で、全て承知していた上で、全部……全部知っていたのかよッ!」
「……うん、知ってた」
心葉、また微かに笑って、答えた。
それがまるで気にするなと言われているようで、目の裏が熱いものが込み上げてきた。
俺は、本当に最低のクソ野郎だ。
心葉が紋章を持っており、その結果本年度いっぱいで死ぬと教えられたとき、俺は心葉をどれだけ傷つけてきたのかを思い知った。
島の外の出ようだの、卒業したらどうしようだの、未来にやりたいことは何だのと聞き、心葉が未来に希望なんて持てない立場にいることに打ちのめされた。
でも、その直後に俺が心葉を救うことを決め、心葉を元気付けようとして、希望を持たせるようなことを言ってきた。
それに、心葉もそういう将来の話などをするときは楽しそうで、普通の女の子らしく楽しそうにしていたのだ。
だがそれでも、俺がどんな手段を用いて神罰を終わらせようと、紋章をどうにかしようと、自分が死ぬということを知っていた。
自分が、卒業後生きられる可能性は、一パーセントも、万が一つにもないことを、心葉は知っていた。
「なんで……」
言葉が涙声になってしまうが、もう押さえきることができなかった。
立ち上がり、海を向いている心葉に叫ぶ。
「なんでなんだよ心葉ッ! どうして、どうして言ってくれなかった! 俺はお前を、たくさん傷つけた……。繰り返し繰り返し……! なのに、どうして……」
責めてほしかった。批難してほしかった。
俺は心葉にそれだけのことをしてきたのに、何の罰を受けることも、責め苦を受けるわけでもない。
「俺はお前を一方的に傷つけた! なのに、どうしてそんな風に笑っていられるんだ!」
ベージュのダッフルコートに身を包んだ心葉は、海を見ながら、穏やかに笑っていた。
その笑みが、全てを悟り、自分の死の向こう側まで見渡してしまっているようで、心の中がざわついた。
心葉は、ゆっくりとこっちを向くと、俺の頬に、そっと手を当ててきた。
「凪君も、傷ついてるよ」
押さえることができない、堪えることができずに溢れ出す涙に触れると、優しい手つきで拭った。
「私のせいで、凪君は傷ついた。私が、もっと早く真実を告げてあげられることができれば、凪君はこんなにも痛みを背負うことも、苦しみに喘ぐこともなかった。私はそれだけのことを凪君にした」
「違う。こんなのは俺が勝手に苦しんでいるだけだ……、お前のせいなんか、じゃない」
心葉は目を閉じて静かに首を振る。
「ううん、私のせいだよ。私は、凪君が私を助けるために力を尽くしてくれている間に、ずっとその願いを叶わないことを知っていた。私が助かることがない人間だということは凪君に会う前から知っていた。それなのに、希望があるような素振りをして、凪君に接してきた」
そんなのは、お前なら当たり前のことじゃないか。
沸き上がってきた気持ちを必死に堪える。
お前自ら、俺の希望を絶つような、絶望させることをするわけがない。
誰より優しいお前には、そんな選択肢しかないことは、初めからわかっているのに。
溢れ出し止まることを知らない涙は、ぽたぽたと滴って足元の赤く染まる砂浜へと落ちていく。
「お前が、俺と付き合ってくれているのも、告白を受け入れてくれたのも、全ては俺を傷つけないためにやってたことだって言うのかよ」
言ってはならない恨み言。
そんなひどいことを、よく言えたものだと自分の卑しさに憤りを覚えるが、心葉は再び首を振った。
「それは違うよ。凪君と恋人になることを選んだのは、私の意志だよ。私が付き合いたいと思ったから、凪君のことを本当に好きだから、私は凪君と付き合うことを選んだ。あと少ししか生きられない人生だとしても、最期、凪君が苦しむことになっても、私はそれまで凪君と一緒にいたいと思った。だから、私は凪君と付き合うことにしました」
照れくさくなったのか、語尾をごまかすように言った。
心葉は俺から少し離れると、背を向けて空を仰いだ。
燃えるように赤く、どれほど祈っても届かないほど高い空を見ながら、心葉は言う。
「私もね、色んな夢があったんだ。本土の有名なお菓子屋さんに行ってみたい。ネズミさんがたくさんいる遊園地に行ってみたい。大きな神社を巡りたい。苦手だけど、もっと寒いところにも行ってみたい。暑いところにも行ってみたい。外国にも行ってみたい。世界一高い山や、たくさん水路が走る水の都や、古代の遺跡も見てみたかった。そんな誰もが思う夢があった」
俺の前で、これまで一度として口にしなかった、在学中は決して叶うことがない、未来の夢。
どれだけ願おうと、決して届くことのない、幻。
心葉は、こちらを振り返ると、見ていて悲しくなるほど綺麗で儚い笑みを浮かべた。
「それに、恋人がほしかった」
恥ずかしそうに楽しげな笑いを零しながら言う。
「大好きな人と恋人になって、デートしたり、一晩中電話したり、映画を見に行ったり、つまんないことで喧嘩したり、皆が当たり前に願うことを、私も持ってた」
胸の前で手を組んで、祈るように続ける。
「大人になったら、結婚して、子どももできて、家を買って、一緒に笑って、悲しんで、楽しんで過ごしていきたかった」
もう、視界が霞んで前すら見えなくなった。
「どれもこれも、私には絶対に叶えることができない夢だった。願いだった。希望だった。でも、そんなとき、凪君が島に帰ってきてくれたんだよ?」
爪が手のひらに突き刺さるほど両手を強く握りしめ、目を閉じる。大粒の涙が落ちていった。
一瞬心葉が辛そうに顔を歪めた気がしたが、俯いて顔を上げると再びこちらに近づいて、両手で俺の頬を包み込んだ。
触れられた手は火のように熱く、そして震えていた。
「私が凪君と恋人同士になることを選んだのは、私の意志です。私が私の夢を叶えるためにしたことです。もう、結婚とか子どもを作るとかは、叶わない夢だけど、凪君は私と付き合ってくれて、夢を叶えてくれた。絶対に、凪君が願ったから同情で付き合ったわけじゃありません。私が、私のわがままに付き合わせた。だから、凪君が私に負い目を抱えることなんてないのです」
優しさと温もりに溢れた、許しの言葉。
どこまでも優しく、強い心葉。
さらに涙が込み上げてきて、すぐ目の前に心葉の顔すらわからなくなった。
「俺は、俺はもっとお前にそういうわがままを言ってほしかったんだよ! お前をもっと色んなところに連れて行ってやりたかった。俺だってお前と結婚したかったし、子どももほしかった! もっと言えよ! お前が願うなら俺が全て叶えてやるから、言えよお前の願いを!」
子どものように泣きじゃくり、喚くように俺は叫んだ。
心葉がどんな表情なのか、どんな思いなのか、今何を願っているのか、俺にはもうわからない。
ただ、心葉は言った。
「……ごめんね。もう、全部叶えられない夢なんだよ」
それは、全てを終わらせる言葉だった。
俺と心葉の願いを、希望を全て絶つ言葉だ。
俺はその場に崩れ落ちた。
心葉の服にしがみつき、震える声で、涙声で、俺自身の願いを吐く。
「生きて……生きてくれよ心葉……」
心葉は子どもをあやすように俺をそっと抱きかかえると、そっと呟いた。
「ごめんね……」
叶わない願いだと、俺自身わかっていながら、何度も繰り返し吐き出す。
「もっと、一緒にいてくれよ……」
「私も、ずっと一緒にいたかった」
「わがままだって願い事だって何でも聞くから……」
「十分聞いてもらった。もう十分だよ」
「まだまだお前に見せてやれてないものも、たくさんあるんだ……」
「うん、私も見たかったよ」
「教えてやりたいこともたくさんあったんだ……」
「私も知りたかった」
「俺の家にも遊びに来いよ……」
「行きたかったな」
「まだ、まだまだ伝えたいことが、あったんだ。もっともっと……俺は、お前に……っ」
「うん、わかってるよ。全部、教えてほしかった。一緒にしてほしかった。一緒に生きたかった。二人で、この島以外の世界を、見てみたかった」
全ての願いが希望が、祈りが過去になる。
願い事は全て過去へと消え去り、残り短い命が、ほんの少しだけ前に進む。
俺は、再び心葉に願いを吐く。
「死ぬな……心葉……。頼むから、死なないでくれよ……」
「……ごめんね。それはできないんだ、もう。私はもうすぐ死んじゃうから」
全ての未来と人生を、自ら心葉は否定した。
その後はもう、言葉を発することができなかった。
俺は何度も願いを吐き出そうとするが、涙と悲しみと苦しみで全部が崩れていく音だけを頭の片隅に聞きながら、何度も嗚咽を繰り返し、いつまで泣き続けた。
心葉はそんな俺を抱きしめたまま、頷きながら最期まで側にいてくれた。
心葉は、助からない。
神罰、紋章、神力。様々なものに絡み取られてしまった心葉の命は――
残り、半年もなかった。
すっかり夜の帳が降り、月も出ていない夜は、砂浜を真っ黒に染め上げていた。
泣き尽くした俺は、砂浜に座り込み、心葉と一緒に海を見ていた。
見ているだけで、飲み込まれてそのまま上がってこられない海を前に二人で何時間もこうしている。
「さて」
唐突に心葉が立ち上がり、スカートに付いた砂を払った。
「もう遅いし、早く帰ろう。明日が休みとだって言っても、いつまでも夜遊びをしていては怒られてしまいます」
心葉はこちらに手を差し出した。
泣きはらした顔にもう涙はない。全て枯れてしまった。
力の入らない手で差し出された手を握ると、女の子とは思えない力で引き上げられた。
ずっと座り込んでいたため、体がふらついたすぐに心葉が支えてくれた。
「もう、しっかりしてくださいよ。彼氏さん」
「……すいませんね。彼女さん」
俺は乾燥しきった声で答えた。
心葉がもう助からないとしても、あと半年ほどしか生きられないとしても、俺は心葉と恋人でいる。
俺もそれを望んでいるし、何より心葉がそれを願っている。
最期が来るときそのときまで、心葉の願いを叶え続ける。
それが、俺にできる数少ないことだから。
「ねぇ」
心葉が俺を呼んだ。
「凪君はさ、もう神罰を終わらせようとは、しない?」
「……」
答えられず閉口した。
真っ暗な中でも心葉の視線がはっきりと感じ取れ、逃げるように海へと顔を逸らした。
心葉がすっと息を吸った。
「私のわがまま、なんだけど」
少し躊躇ったような仕草の後、言った。
「私は、凪君に続けてほしいと思ってる。神罰を、終わらせようとすることを」
あまりに意外な言葉に、俺は心葉の顔を見返した。
「おかしなことを言っているのは、わかってるよ。これまで何度も凪君に止めるように、そんなことしないでって言ってたのにね。でも、なんと言うか、凪君を見てると不思議な気持ちになるの。玲次君も言ってたんだけど」
心葉は空を見上げた。釣られて俺も視線を上に移す。
頭上には俺たちを見下ろす満天の星空が広がっている。
見上げているだけで寂しさが込み上げてきそうな、そんな空だった。
「凪君なら、神罰をきっと終わらせてくれるって」
再び込み上げてきた暑いものを紛らわすために俯いた。
それを、お前が言うのかよ。
込み上げてくるのは、怒りでも憤りでもない。
ただただ胸が痛くなるほどの、悲しみ、寂しさだった。
感情を押し殺すこともできずに、俺は言った。
「そこに、お前はいないだろ……。たとえ俺が神罰を今年度に終わらせたとしても、お前はいない。神罰を止めても、お前は助からない……」
自分がいない未来のことを願う。
俺たちがもっと大人になれば、長い年月を過ごした後であれば、そんな感情は普通に出てくるものかもしれない。
自分の人生を全うした中で、それでも大切な人がいたのなら、そういう人に何かを残したいと思うのは当然だと思う。
自分が死んだ後も幸せになってもらいたいと思うのは自然だと思う。
でも、こいつは違う。
まだ、本当ならまだ、こいつにはもっと明るい世界がずっと未来まで続いていたはずだ。
神罰なんてものがあるせいで、紋章なんてものがあるせいで心葉はその誰もが当たり前にくる未来を生きられない。
「お前が、この先俺たちと生きられないとしても、それでも神罰が終わることを願うのか?」
神罰が終わり、生き残った生徒とこれからの後輩たちの未来は、幸せなものになる。明るいものとなる。
それでも、心葉にそんなものは絶対に来ないのだ。
空を見上げていた心葉は、ゆっくりとこちらを向いた。
そして――
どうしてだろう。
これほど視界が暗い中でも、心葉が輝くばかりの笑みを浮かべたのがはっきりとわかった。
「もちろん。神罰が終わってくれたら、これほど嬉しいことはないよ」
弾んだ声で答えながら、心葉はくるりと回りながら俺から少し離れた。
「本当は、皆心の底で思ってるんだよ。神罰なんて終わってしまえばいい。普通の人生でいいから、送ってみたいって。普通の人生っていうのは、私たちには遠過ぎるところにあるからね」
毎日毎日、自分が死ぬかもしれない戦いがくることに怯える日々。普通の高校生が当たり前にする高校生活、青春を送ることができない高校生たち。
その高校生たちが大人になり、自分たちに子どもができたときは子どもたちに同じ苦しみを、孫ができたときには孫にも同じ苦しみを。
終わることのない死の連鎖。
「おばあちゃん、市長の方ね。おばあちゃんね、私が紋章に選ばれたときは、ずっと抱きしめて慰めてくれたんだ。紋章に選ばれたばかりの頃は、私はそんなに悲しい思いはしてなかったんだ。特に泣きもしなかった。でもね、おばあちゃんに抱きしめてもらって慰められると、ああ、私本当に死んじゃうんだって、一気に悲しくなって大泣きしちゃった」
恥ずかしそうに笑みを溢した後、砂浜を蹴って土を飛ばした。
「おばあちゃんも泣いてはなかったけど、本当に苦しそうに辛そうにしてた。だから、思ったんだ。なんとしても、神罰は終わらせないといけない。私が感じた悲しみや、おばあちゃんが苦しみ続けた痛みを、絶対に続けるわけにはいかないと思うんだ。だから――」
愚直なまでに真っすぐとした瞳で、どこまで綺麗な真摯な気持ちで、口にする。
「凪君、絶対に、神罰を終わらせてください。そこに私はいないけど、凪君と一緒に喜べないけど、私はそれを望んでいる。神罰が終わって、皆が喜べるその未来を私は待ってる。だから、お願いします」
頭を下げて、心葉はそう言った。
目を逸らしてしまいたくなったが、両手をきつく握りしめてどうにか堪える。
「それが……お前の願いか?」
やっと絞り出した声は、驚くほど震えていた。
顔を上げた心葉が、今にも消え入りそうな儚げな微笑みを浮かべた。
「はい、それが私の、世界で一番好きな人への、最後のお願いです」
俺は深々と息を吐き出し、星空を見上げた。
星空は、世界に存在する俺がちっぽけな存在だと証明してくれる。
それは、全てにおいて同じこと。
この広い宇宙に存在する如何なる存在も、たった一部に過ぎない。
俺も心葉も、神罰さえも。
そう考えると、心の中から再び沸き上がってくる。
以前のような、単純なやる気や純粋な前向きな気持ちなどではない。
ただの責任感のようなものだった。
この島の人々ともう十分過ぎるほど関わってしまった。
たくさんの思いを知った。
数え切れない痛みを知った。
これまで生きてきた人の苦しみを知った。
俺にとって非日常だったこの世界は、もう俺の日常へと変わってしまっている。
たとえ、卒業と同時に島を出なければいけないとしても。
もう二度と、この島の土を踏むことができなかったとしても。
俺は多くの人と関わり、神罰を終わらせると言うことを期待させた。
皆の中に希望を作ってしまった。
それなのに、今更神罰を止めることを止めましたなどと言って許されるわけがない。
志乃さんは、その選択をさせるために紋章所持者の運命について教えてくれたのだろう。
俺が第一目的を失っても、神罰を終わらせるという意志を持てるかどうか。
わざわざ神罰の情報を伝えた後に紋章のことを話したのは、心葉を助けられないとわかった後にどうするかがわからなかったからだろう。
その上で教えてくれたのは、志乃さんの優しさだ。
今心葉を助けられないとわかった方が、後々の苦しみを消せる。
思い違いをしていた部分を秘密の情報を教えてわざわざ正してくれたんだ。
それに、本当に感謝をする。
心葉の苦しみを知らないままいるなんて、俺にはできない。
それに、打算もあったのだろう。
先に話してしまえば、俺が心葉のことを助けられるないと知った後に神罰を止めることを諦めたとしても、島外退去させることができる。
神罰を終わらせることができる意志を持たない人間が神罰の真相を知っているのは危険なことだ。何の役にも立たなければ情報が拡散してしまう可能性もある。
「お前も、結構酷なことを言ってくれるな……」
苦笑をしながら皮肉をくれてやると、心葉は小悪魔のような笑顔を浮かべて腕にしがみついてきた。
「ふふっ、いいでしょ? 彼女のわがままの一つぐらい、快く受け入れてくれるくらい、懐が大きいとありがたいんだけどな」
うりうりーと頬を指で突かれる。
俺は深々とため息を吐いた。
心の中はまた泣き出したい気持ちでいっぱいだった。
でも俺が泣くなんてことが許させるわけがない。
心葉の方がもっと苦しく悲しい思いをしているのだ。それでも笑っている。
だから、俺も精一杯の笑みを浮かべた。
「わかったよ。俺が絶対に神罰を止めてやる。お前の最後の願いを、絶対叶える」
俺も目的は、結局のところ変わることがなかった。
心葉のために、俺は神罰を止める。
絶対に止めてみせる。