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シンバツピリオド.  作者: 楓馬知
3/43

「ぜぇ……ぜぇ……」

 膝に手を突いて乱れた息を整える。

 顔から大量の汗が滴っていき、アスファルトの上に染みを作っていく。

「や、やっと着いた……着いた、けど……」

 頭を上げて前にある高校に目をやる。

「なんてでかさの高校だ……」

 目の前にあるのは巨大な門。

 高々とそびえ立つ鉄の門が口を開けて待ち構えており、左右に同じくらい高い塀が延々と続いている。

 美榊第一高校は周囲を森に囲まれた高校だった。

 近くには大きな建物がいくつかある程度で、ここまで走ってくる間も森続きだった。

 第二高校の方は普通に民家やスーパー、コンビニなどに囲まれていたどこにでもある普通の高校に見えたが、この第一高校は孤立した要塞のように見える。

「まあ何にせよ。早く行かないとさらに迷惑になるな」

 既に迷惑になっていることは言うまでもないだろうが、ここで立ち止まっていても仕方がない。

 巨大な口のように開けられた門をくぐり、美榊第一高校へと足を踏み入れた。

 ずっと先に校舎が見える。

 左右にはよく手入れされたと見られる花木が回廊のように並んでいる。

 当然木々の中にはサカキが多く見られる。さすが美榊島といったところか。

 花は咲いていないが、それでもサカキ自体もとより清らかに見えるので、それだけでも十分綺麗だ。

 校舎に近づくにつれ、全容が見えてきた。

 敷地に負けず劣らずの大きな校舎。加えて、最近改築があったばかりのように真新しい造りとなっている。

 三年生だけが通っている高校にしては広過ぎる気がするが、一学年何人くらいなのだろうか。

「校舎自体は良いな。高校最後を迎えるには悪くないかも」

 正面玄関の前でくるりと回って辺りを見渡す。

 既に遅刻しているので完全に開き直っています。

「……ん?」

 周囲を見渡したとき、おかしな部分が目に留まり、俺は足を止めた。

 それは今まで歩いてきた先、高校の校門部分だ。先ほどまで大きく開いていた校門が、いつの間にかその口を閉じている。

「さっきまでは普通に開いていたのに、どうして急に閉めたんだろ」

 門の近くに人がいたようにも見えなかったので、自動で開閉するようにでもなっていたのだろうか。

 そんなことを考えていた矢先、異変があった。

 突如、島中に聞こえるのではないかと思うほど大きなチャイムが鳴り響いた。

 俺が本土の高校で聞いていたチャイムより重々しく、体の芯まで響いてきそうな低音だ。

 腕時計を見て再び時刻を確認すると、丁度二つの針が上を指していた。

 つまりは十二時だ。

「こんな時間にチャイムが鳴るのか……」

 俺が今まで通ってきた学校の時間割はそんな風にはなっていなかったので、十二時が区切りというのは妙に感じた。

 だがそういう学校もあるだろうと、改めて遅刻していることを思い出し、歩き出す。

 その瞬間、それは起こった。


「――――ッ!」


 突如、体中に虫が這い回るような悪寒が走った。

 全身の皮膚が一瞬で粟立ち、嫌悪感が体の芯から突き上がる。

「なんだ……っ」

 感じたことのない不快感に体を抱えていると、視界の隅の方で大きな何かが動いた。

 無意識に視線がそちらを向く。

 影。形容するならそれくらいしか出てこない。もしくは黒い何かだ。

 その黒い影が、高校の敷地を囲うように高速で上がっていく。

 塀や門の向こうの景色は遮断され、外の様子が一切わからなくなる。

 口から言葉が出てこず、呆然としている間に、ドーム状に展開された黒い影は美榊島の美しい山々や太陽や青空までをすっぽり覆い尽くしてしまった。

 太陽の光を閉ざされているにも関わらず、周囲の光景ははっきりと見て取れる。

 黒い影が錯覚なのかと疑いたくなるが、紛れもなく現実だ。

 何か仕掛けが。

 ふとそんなことを考えたが、こんな大規模な仕掛けを行える技術なんてあるはずがない。

 足がすくみ、自然と校舎への方へと体が向く。校舎の中にはきっと人がいて、状況も理解できると思ったからだ。

 だが、それを遮るものがあった。

「なんだこれ……っ」

 口から震えた声が漏れる。

 視線の先にある校舎が、歪んでいた。

 しかし、歪んでいるのは校舎ではない。俺と校舎の間にある空間だ。

 溶けたように歪んでいる空間からは不穏な気配が流れ出る。

 歪みは徐々に黒みを帯びていった。向こう側にあった校舎は見えなくなり、遂に歪みは漆黒へと変化する。

 不意に、空間の歪みは消えた。

「……ッ!」

 代わりにそこに現れた。

 体を芯から震え上がらせるような唸り声を上げる生き物。

 黒い体毛を体中に纏った巨体。体長は二メートルほどで俺の身長より頭一つ分くらい高いように見えるが、前屈みなので正確にははわからない。黒い体毛の隙間に光っているのは獲物を射止める二つの目。手足からはいかにも切れ味のよさそうな爪が伸び、突き出た口からはよだれとともに牙が覗いていた。

 生き物などという、生易しいものではない。

 頭だけ見るなら犬、いや狼と呼べる凶悪さだが、体躯は人間のそれに酷似している。

 人と狼の中間に位置する幻想生物。

 人狼。

 正真正銘の化け物がそこにいた。

 太い二つの足で立つ人狼は、鼻をひくつかせながら周囲を見渡し、俺に気付いた。

 二つの目から放たれる殺気に全身が危険信号を放つ。

 気付いたときには、体を投げ出すように横に跳び退いていた。

 直後、先ほどまで立っていた場所に、人狼が鋭利な爪が突き立てた。

「なんだよ一体!」

 地面を転がって体勢を整えたが、振り向いたときには再び人狼が迫っていた。

 よだれを撒き散らしながら突き進んでくる姿は獲物を狙う狩人のそれだ。

 再び突き出される凶悪な爪。

 体を翻し強烈な一撃を躱すが、幾度も攻撃が飛んでくる。

 五感全てを研ぎ澄ませ、人狼の一撃一撃を全てを躱していく。だが後方まで気を気張る余裕はなく、背後にあった木に背中を打ち付けてしまった。

 人狼の目がギラリと光り、ここぞとばかりに振られた爪が俺の左腕を斬り裂いていった。

「いつっ!」

 腕から血が飛び散り、黒いパーカーを濡らした。

 怯む間すら与えてくれず、人狼はよだれを撒き散らしながら喰らいついてくる。

「――ッ!」

 咄嗟に背中に担いでいた”それ”で人狼の口を押さえつけた。

 浅葱色の袋に包まれた棒状の"それ"は歯茎の間に挟まり、なんとか人狼を押し止めることができたが、人狼は構わず俺に噛みつこうと顎を動かす。

「ぐっ……!」

 両腕に力を込めると、斬り裂かれた左腕に激痛が走り、傷口から溢れ出した血が地面に落ちていく。

 浅葱色の袋が次第に破れていき、中の白い金属が顔をのぞかせる。

 人狼の口から流れ出た唾液が、俺の顔へと垂れて伝っていく。

 この人狼は、俺を食い殺そうとしている。

 今まで生きてきた平凡で短い生涯の中で、死を感じたことなど一度だけ。

 そのことを思い出すと同時に駆け巡った。

「そういえば、なんか言ってたな……ッ!」

 頭の中に父さんの言葉がよみがえってきた。

 俺がこの島に帰ることを告げられた日、ほんの数日前のことだ。


  Θ  Θ  Θ


 数日前、小学生からずっと過ごしてきたマンションに、父さんが帰ってきたときのことだ。

「すまんが、来年度から転校してくれ」

「……」

 開口一番父が放った言葉に、俺はきっかり五秒硬直した。

「はぁ!? 転校!?」

 転校という言葉の意味が頭を錯綜し、視界がぐるぐると回る。

「ああ、そうだ。頼む」

「いやいや頼むじゃねえよ! 来年度って、もう四月だろ!?」

 さらっと言ってのける父さんに食って掛かる。

 この無茶なことを言う父親の名前は八城勇(やしろゆう)。全国でも有数の大学に努める大学教授だ。三十五になったばかりという若さで教授を勤めていることから考えても、優秀な人間なんだと理解していた。

 基本的にしっかりしているがその反面、家事全般を息子の俺に丸投げするという破天荒な面も併せ持っている。

 しかし、いきなり転校を決めるなんて無茶なことを言い出す人間ではなかった。

 父さんはスーツの上着をゆっくりと脱ぎ、簡単に畳んでリビングの椅子にかけた。その隣にあった椅子を引いて腰を下ろすと、項垂れるように机に肘を突き、手で顔を覆った。

「悪い。今日決まったことなんだ」

 妙に真剣に、それでいて辛そうに告げる。

 普段から淡々と冷静に話すことが多い父からは想像もできない姿に、火照った頭が冷めていく。

「はぁ……」

 肩を落としてため息を吐くと、冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶を二つのコップに注ぎ、その片方を父さんの前に置いた。

 もう一方は父さんの反対側に置き、その席に俺も腰を下ろす。

「決まったっていうのがわからないな」

 冷静になった俺は、違和感を覚えた父さんの言葉を指摘する。

「決まっていうのは転校がって意味だよな。それって、別に父さんがどこかに転勤とかってわけではないんだろ?」

 大学教授である父さんの出張は今まで何度もあったが、転勤なんてことはなかったし、そんな話が四月に入っている今頃決まるはずもない。

「そうだ。私はあの大学の教授を続ける。お前には高校三年生の一年間だけを、別の高校に行ってもらいたい」

 ますます怪訝な顔をし、すがめた目を父さんに向ける。

「余計わからなくなったぞ。大学は父さんの大学に行くってほとんど決まってるだろ。それなのになんで今更転校なんだ?」

 高校を卒業すると、俺は父さんの大学に進学すると決めている。

 学力が足りないからだという理由で転校というのなら、わからないでもないがその線も薄い。

 父さんの大学は難関ではあるが、その大学教授直々の指導もあって、なんとか合格できるであろうラインも維持できている。いざとなれば私の権力でねじ込むとか無茶なことも言っていた。

 わざわざ転校をする理由がない。

「大体転校ってどこに?」

 麦茶を一口飲みながら、落ち着いた声で尋ねる。

 先ほどまでとは打って変わって冷静だ。

 こういうところは父親に似ているのだろうと、内心苦笑する。

 父さんは迷ったように瞳を揺らすと、その高校名を口にした。

「美榊島の、美榊高校だ」

 高校の名前を聞いた途端、思考が停止し、指に力が入らなくなった。

 机に戻そうとしていたコップが、カタンと音を立てて机の上を転がる。

 まだ半分以上残っていた麦茶が机の上に広がり、床に流れ出しそうになったところで再び思考が動き出した。

「おっと……」

 半分うわの空で席を立ち、布巾を取り出して広がった麦茶を拭き取っていく。

 麦茶を布巾で拭き取れるだけ拭き取ると、キッチンのシンクで布巾を冷たい水にさらす。

 流水の音を耳で受けながら、背後にいる父さんに問う。

「……美榊島に、帰れってことか?」

 部屋に水の流れる音だけが響き、そのせいで少しの間がとても長く感じる。

 父さんはズボンから黒いハンカチを取り出し、布巾で拭い切れなかった麦茶を拭き取り始め、それと同時に口を開いた。

「そういうことになるな。高校三年生だけの期間付だが」

 帰る。

 その言葉からわかるように、俺はかつて美榊島に住んでいた。ただ住んでいたのは十年も前で、当時の記憶も曖昧だ。

 この十年間一度も帰島していないので現在がどのような状態になっているかは知らないほどだ。

 元々父さんは美榊島の人間であり、その子どもである俺も美榊島に住んでいたのだ。

 だが、父さんが島を出るというになり、俺も小学生低学年くらいのときに島を出て、それっきりずっと本土で暮らしている。

 そのときのことは、おぼろげだが覚えていた。

 父さんは俺が生まれたときまだ若く、理由は知らないが大学、大学院に通い、その後異例の若さで助教授、今で言う准教授になったと同時に、俺を連れて島を出たのだ。

 さらにその数年後、父さんはめでたく教授になり、それは高校二年生を終えるまで続いていた。

 美榊島の閉鎖的な社会の徹底ぶりは大したもので、一度外に出た俺や父さんでさえ、十年間一度として島に帰ったことはない。

「もし嫌なら、断ってくれても構わない」

 洗い終えた布巾をシンクにかけ、俺は父さんの方に向き直った。

「拒否はできると?」

「無茶なことを言っていることは、重々承知している。お前だって高校の友達や環境のこともあるだろう。だから無理強いはしない。だができるなら断らないでもらいたい」

「その理由は?」

 間髪入れずに聞き返した俺に、父さんは眉根をよせて押し黙ってしまう。

 その様子を見て、俺は父さんから視線を逸らし、再び父さんの向かいの椅子に腰を下ろした。

「なんか、事情ありか」

「……」

 半分独り言ではあったのだが、父さんの沈黙は肯定したも同じだろう。

 父さんの事情というより、島の事情と判断するべきなのだろうな。

 父さんは俺の答えを待つように、静かな視線を俺に向けていた。

「転校……ね……」

 その視線をごまかすように、指で机をトントンと叩く。

「詳しい説明は?」

「島に行けば、校長が詳しいことを話してくれる。私の恩師だ」

 それ以上は言わずまた閉口する。

 その目はただただ答えを待つように真っすぐ俺を見返していた。

「はぁー……」

 俺は深々と息を吐き出し、足を組んで机に肘を突いた。

 色々と納得がいかない部分がある。だが父さんはそれを話す気がないように口を閉ざしている。あの目を見る限り、答えるつもりはないだろう。

「一つだけ確認」

 問うた内容に、父さんはゆっくりと答えてくれた。

 しかし、一瞬その目に痛みが光ったのは、見逃すことなどできなかった。

 答えを聞いた俺は、しばらく考え込み、やがて机に突っ伏す。

「わかったわかったよわかりましたよ。高校が変わるのは面倒だけど、それだけの価値はあるだろ。ああ、行ってもいいよ」

 父さんは小さく目を見開き、口から少しの息を吐き出した。

「すまないな」

「謝るなよ。何か事情があるんだろ?」

 当たり前だが、いきなり転校しろなんて妙な話である。

 ましてや四月に入っている今から転校など、まともな方法では行うことすら不可能だ。

 つまりは、それを受け入れる転校先にもそれなりの理由があると考えられる。

 何から何まで不自然ではあるが、幼少の頃を過ごしたあの島に戻ることにも興味がある。

 目の裏によみがえるのは、消えるはずもない遠い記憶。

 個人的に、島に行かねばならない理由がいくつかある。

 だがそれらの思い出に浸る前に、父さんが言葉を投げてきた。

「あの島に行くことに関して、お前にいくつか言っておくことがある」

「なんだ? 変出者でも出るのか? 安心しろ。ぶっ飛ばしとく」

 やけくそに冗談を言ったのだが、いつも通り父さんは拾ってくれない。

「それより悪いな」

 それどころかマジレスで返してくる。

 父さんはおもむろに立ち上がって歩き始めた。無駄に広いこのマンション。父さんはリビングを出て他の部屋に消えていった。

 すぐに戻ってきたが、その手にはあるものが握られていた。それは父さんの寝室にずっと飾られていたものだ。

「まず一つ、島にはこれを持っていけ。そして肌身離さず持っておくんだ」

 持ち出したものを俺の眼前に突き出しながら父さんはそう言った。

 目を白黒とさせ、突き出された手中のものと父さんの顔を交互に見る。

 父さんの表情は依然変わらず真剣だが、それを全てひっくり返すほどのものが突き付けられていた。

「え……? なんで……?」

「いいから持っていけ」

 ”それ”を投げ渡されて、落としそうになりながらなんとか掴み取る。

 理解が追いつかない俺にお構いなしに、父さんは続ける。

「二つ、帰ってきたくなればいつでも帰ってくればいい。三つ、お前がやりたいようにやればいい。四つ、私の協力がいるときはいつでも連絡してこい。でもお前自身で判断してほしいから、できるならお前が自分の目で見てほしい。五つ、これが最後だが……」

「ちょっと待った待ってくれよ」

 頭から何を言っているかはわからず、矢継ぎ早に告げる父さんの言葉をたまらず遮る。

 最初に言われた部分を聞き返した。

「帰ってきたくなれば帰ってくればいいって、別にホームシックになったりしない。それにこんなものをどうしろと?」

 冗談交じりに、少し重い"それ"を上げてみせながら苦笑する。

 だが父さんはピクリとも笑わずに口を開いた。

「あの島に帰り、美榊高校に通うということはお前の命に関わる問題なんだ。だから帰ってきたければ帰ってくればいいし、帰ってこないにしても身を守るために"それ"を持っていけと言っているんだ」

 冗談としか取れない言葉を、父さんは真顔で言ってのけた。

 固まる俺に、父さんは五つ目を言い、それからはいくら尋ねても詳しいことは島に行ってから聞けと、結局最後まで教えてくれなかった。


  Θ  Θ  Θ


 そして、この島に来たのだ。

「そういうことかよ父さん……! これが、命に関わる問題ってやつね……!」

 父さんの言葉の意味を理解したとき、口元が自然と緩んでいた。

 目の前にあるのは、死の脅威。

 だが、そいつを前にしても笑みが湧き上がってくる。

「また後で……ゆっくり聞かせてもらわないとな!」

 斬り裂かれた腕から血が流れ出すのもお構いなしに、力任せに人狼を押し返す。

 人狼の頭をある程度押し返したところで、不意に力を緩めた。人狼の体は支えを失ったことでバランスを崩し倒れてくる。

 その隙に、人狼の口に当てた"それ"を押さえつけたまま、人狼の背後に回り込んで締め上げる。

 不意を突かれた人狼は完全にホールドを許してしまう。

 その状態から大きく跳躍し、もがく人狼の項に右膝を叩き込んだ。

 ゴキッという嫌な音と感触が人狼の項から伝わってくる。

 人狼は動きをピタリを止め、"それ"を口から放すと力なく地面に倒れ伏した。

「はぁ……はぁ……」

 乱れた息を整えながら、手に握られた"それ"に視線を向ける。

「ボロボロになっちまったなぁ」

 綺麗だった浅葱色の袋は、人狼に噛み千切られ見る影もなくなっている。

 袋の結び目をほどき、中から"それ"を取り出した。

 中から出てきたのは、一振りの刀だ。

 刀の分類にそれほど詳しいわけではないが、形状からすると日本刀が一番近いだろう。

 柄から鞘の至る所までが、光り輝く雪のような純白。人狼の牙にあれほど噛みつかれていたにも関わらず、傷一つない鞘はその強靱さを物語っている。

 この刀は、俺が子どもの頃から傍にあったものだ。

 本来父さんの持ち物であり、父さんの寝室にずっと置かれていた。鞘に納められているため、刀身がどうなっているのかは知らないが、雰囲気だけは俺でもわかるほど異彩に放っていた。

 渡された当初は何を考えているのかと疑いもしたが、いや正直今もわからない部分はあるが、目の前に倒れ伏している化け物を見た後では冗談で笑い飛ばせなくなってしまった。

 左手で鞘を持ち、刀の柄を右手で握りしめる。ひんやりとした感触が刀から伝わってくる。

 右手で少し柄を引けば、その刀身が露わになるだろう。

 輝く光沢を放つ純白に吸い込まれるように、刀を引き抜くため力を込める。

「いっつ……!」

 だが力を入れた拍子に、人狼に斬り裂かれた左腕が思い出したように痛んだ。

 斬られた当初はそれほど痛みを感じなかったが、時間が経ちじわじわと、意識すると一層痛みが増してきた。パーカーの袖を捲りあげると、爪牙によって痛ましい傷が刻まれていた。

 刀を近くにあった木に立てかけ、鞄から長いスポーツタオルを取り出す。

 それを右手と口を使い、傷が走る左手をきつく縛り上げた。

「いってぇ……とりあえず応急処置で……」

 きちんと止血はできていないが、何もないよりはマシだろう。

 流血のせいでパーカーと左腕のリストバンドが血だらけになってしまったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 左腕を庇いながら、目の前に倒れ伏している化け物を見下ろした。

 着ぐるみや機械などではない。間違いなく血肉を持った生物だ。

 膝蹴りで頸椎を破壊したときの感触ははっきり残っている。

「なんだったんだよこいつ――」

 言葉が途切れる。

 足元に倒れている人狼。

 そいつが目の前で、消えた。

 現れていたときとまったく逆で、その体がぐにゃりと歪み、何かに吸い込まれるように消えていった。人狼が横たわっていた場所には、何もない空虚な空間が存在している。

 夢でも見ているのかと疑いもしたが、左腕の痛みが現実だと叩き付けてくれる。

「これは帰りたくもなるわ……」

 さっそく愚痴を吐くが、帰ろうにも門は閉まったままで、正体不明の黒い物体は完全に高校を覆い尽くしている。

 どこか出られる場所を探さなければいけない。

「ん……?」

 突然校舎の方が騒がしくなってきた。

 喧騒は徐々にはっきりと大きくなっていき、人の叫び声や悲鳴などに変わっていく。

「うわあああああああ!」

 突如、悲鳴が響いた。

 体をびくつかせながら悲鳴が聞こえてきた方を向く。方向は俺から見て右手の校舎裏だ。

 嫌な予感しかしないが、考えるよりも先に走り出していた。

 立てかけていた刀を手に掴み取り、邪魔になりそうな鞄は植木の中に投げ込んで悲鳴が聞こえた校舎裏へ脇目も振らず走っていく。

 校舎の角を曲がった先。

「――ッ!」

 そこに広がっていた凄絶な光景に声を詰まらせた。

 先ほど俺を襲ってきた化け物、人狼。それが五体。

 そしてその人狼と、美榊高校の生徒と思しき人たちが――

 戦いを繰り広げていた。

 生徒の数は人狼より多い六人。各々が様々な武器を手に、人狼と交戦している。

 だが全員体中に傷を負い、着ているブレザーは傷と血でボロボロになっていた。中には立っているだけでもやっとな状態の者もおり、戦いの激しさを物語っている。

 生徒の掛け声と武器を振るう音、人狼の雄叫びだけが空間を支配する。

 現実離れした光景に、俺の足は地面に張り付いたように動かなかった。

 俺の前で、女子生徒が大振りの槍を器用に扱いながら人狼と対峙していた。

 そして人狼の一瞬の隙を突き、女子生徒は槍で人狼の口を一突きにした。

 人狼は俺が倒したとき同様、絶命した人狼は体を歪ませて空間に吸い込まれるように消えていった。

 だが女子生徒は人狼を一体仕留めたことで周囲への警戒が疎かになった。

 消えた人狼の影にいた別の人狼が女子生徒目掛けて突っ込んでいく。槍の間合いではない懐に入られた女子生徒は距離を取ろうとバックステップをするが、躱し切れずに体当たりを受けて吹き飛んだ。

「いっつ!」

 地面に叩き付けられ苦痛に顔を歪める女子生徒に、ここぞとばかりに人狼が跳びかかり女子生徒の腕に食らいついた。

「あぁあああああ!」

 耳を塞ぎたくなるほどの叫び声とともに、人狼の顎の力に呆気なく腕が食いちぎられる。

 人狼が頭を振り上げた拍子に口から腕が離れ、目の前に血まみれの腕が落ちてきた。

 落ちてきた手に握られていた槍が地面に落ちて跳ね、頬に一筋の傷を作った。

 だがそんなものは気にもならない。

 先ほどまで女子生徒の体に付いていた腕は、動かないただの肉塊へと変わっていた。

 込み上げてくる吐き気と不快感。

 現実を疑いたくなる光景に、脳の思考は停止する。

「ぅあ……や、やめ……!」

 だがそれも次の悲鳴で我に返った。

 俺は女子生徒に再び喰らいつこうとしている人狼目掛けて走り出し、手にしていた刀を鞘に入れたまま人狼の口の中に突っ込んだ。

 てこを利用して喉を抉るように力を入れると、人狼の顎が外れ、数本の牙が根元から折れて宙を舞う。

 人狼は痛みのあまり地面をのたうち回る。

「おい大丈夫か!?」

 腕を押さえて地面に蹲る女子生徒を抱え、離れた木の根元まで運んでいく。

 運良く他の人狼に襲われることなく戦闘から逃れることができ、女子生徒を木の影に横たえた。

「しっかりしろ!」

 カーゴパンツから引き抜いたベルトで、二の腕から先がなくなっている腕をきつく縛り上げる。

 女子生徒の顔が苦痛に歪むが、悲鳴を上げまいと歯をきつく縛って耐えている。女子高生の精神力とは思えない。

 女子生徒を気にしながらも未だ続いている戦闘に目を向けた。俺が先ほど喉を抉った人狼は止めを刺され、今は四体になっている。

 美榊高校の生徒側は女子生徒が減って五人。

 生徒たちは全員が武術でも嗜んでいるのか、機敏に素早く動き回っている。

 明らかに素人のそれではないようなのだが、全員浮き足立っているようでいつ崩れてもおかしくない。

 そのとき、額に大量の汗を滲ませ顔を血で濡らした女子生徒が、俺を見上げた。

「あ、あなたは……?」

「そんなことよりこの状況はなんなんだ? あの化け物は?」

「し、【神罰(しんばつ)】だよ……知らないの?」

 シンバツ?

 現実味のない言葉に、息が喉に詰まる。

 神の罰。あの人狼が、神の罰?

 呆けていた俺の背後に人狼が回り込んだ。

 咄嗟に右手に持っていた刀を掲げ、振り下ろされた爪を受け止める。

「ぐっ……」

 片腕じゃ押さえが効かない。押し切られる。

 そんなことが頭をよぎったとき、俺の影から女子生徒が残っている左腕をふらふらと上げた。

 人狼の背後で先ほど女子生徒が取り落とした槍が宙に持ち上がった。

 見えない手で持ち上げられているような、不自然な光景。

 それが、何かの力によって投擲されたように弾かれ、飛来する。

 槍は真っすぐ人狼目掛けて飛び、その後頭部を貫いた。

 噴き出した温血が俺たちの体に降り注ぐが、それも人狼の体が消滅したと同時に消えてなくなる。

 超能力。

 それ以外に考えられない。それほどまでに決定的なものだった。

 しかしそれは、”力”によって行われているのだということは感じ取れた。

 まさかこの女子生徒も……。

 頭の中で疑問が生まれ、どういうことなのか考えていると、女子生徒が首を振りながら残っている手で俺の腕を掴んだ。

「あ、あなたがどこの誰でもいい……。助けて……!」

 少女の言っている助けてほしい相手は、自分などではなかった。

「皆を助けて! 神罰はまだ……!」

 未だ人狼と戦っている生徒たちを見ていた目が固まる。

 視線を追うと、新たに七体の人狼が校舎の向こうから現れた。

 今までの均衡が一気に崩れ、生徒たちの顔が恐怖に染まった。

 数で上回っているというアドバンテージでなんとかやれていた危うい状況で、自分たちの人数を上回る増援が現れたのだから当然だ。

「お、お願い! 皆を死なせないで!」

 女子生徒の言葉は、本気だった。本気で彼らが死ぬことを危惧し、それを恐れている。

 俺の腕を掴んでいる女子生徒の手は、女子生徒自身の血によってべっとりと濡れ、生暖かい感触に肌が粟立つ。

 昨日、いや、ついさっきまで世界とは違う。

 この世界は――

 父さんが送り出した世界は――

 掴まれていた手を離させ、改めて女子生徒を木にもたれさせると、刀を手に立ち上がった。

 すくむ体を無理矢理前に押しやりながら、体を人狼たちに向ける。

 この島に来る際、父さんが俺に言ったことは、全部で五つ。

 刀を持っていくこと。

 帰りたければ帰ればいいこと。

 やりたいようにすればいいこと。

 聞きたいことがあれば電話をしろということ。

 そして最後の一つが――

『あの島に行けば、”力”を好きに使っていい』

「ああ、”力”を好きに使わせてもらおうじゃねぇか」

 何がそうさせるのかはわからないが、目の前の状況から、逃げるという選択肢は浮かんですらこなかった。

 揺らぐ視線を、左手に握りしめた刀に向ける。

 無傷の右手で、白光りする柄を握りしめる。

 柄がかちゃかちゃと音を立て、体が震えていることを教えてくれた。

 心は静まっていると感じているが、それでも体は恐怖している。

 震えと恐怖を振り払うように、力強く柄を握りしめる。

 視線の先で、いよいよ生徒たちが危なくなってきた。

「使わせてもらうぞ」


『ああ、いいだろう』


「…………は?」


 誰に言ったわけでもない言葉に、返事が返ってきた。

 頭に直接響いてくるような、重々しく不思議な声だ。

「え?」

 呆けた声を出して周囲を確認するが、近くにいるのは傷を負った女子生徒のみ。女子生徒は痛みに顔を歪めながらも、怪訝な顔で俺を見上げていた。

 他に聞こえてくるのは人狼の唸り声や生徒の悲鳴といった喧騒だけだ。

『何をしている』

 もう一度響いた声に視線を巡らせる。

『こっちだ』

 次に響いた声に、どこから聞こえてきているのかを確信した。

「か、刀が……しゃべってる……」

 刀に意識を向けると、より一層鮮明に声が響いてきた。

『早く抜け。抜かねばあの人の子が死ぬぞ?』

 刀の声に我に返り視線を前に戻すと、男子生徒が人狼に押し倒されて必死にもがいていた。

「――ッ!」

 色々気になることがあり過ぎるが、全部後回しだ。

 覚悟を決めろ。

「抜かせてもらうぞ!」

 刀に向かって呼びかけながら、柄を握りしめる。

『ああ! 抜け! そして――』

 命じられるままに、刀を抜き放つ。

『戦え!』

 小気味のよい音を立てて、刀が鞘から解き放たれる。

 柄の長さは大体二十五センチ、刀身は一メートル弱くらいといったところか。

 何でできているのかわからないが、刀身の色は柄や鞘同様、光に消えてしまいそうな白であった。刃はぞっとするほど切れ味がよさそうに凶悪な光を放っているが。それでいて、とても美しい刀だった。

 見とれていたい気持ちもあったが、ある部分が全てを吹き飛ばした。

「な、なんじゃこりゃああ!」

 刀を抜くと同時に白い煙のようなものが刀より染み出し、体中に纏わり付いていた。

 靄のような霧のような、正体不明のそれはゆらゆらと俺の周囲を周囲を漂っている。腕で振り払おうとするがまったく消えることはなく、体中に纏わり付いている。

『気を取られるな!』

「あ……ああ、そうだったな」

 今はこんな些末事はどうでもいい。

 刀に叱責され状況を思い出し、鞘を投げ捨てて足に力を込める。

 そして、”力”を使う。

 男子生徒に襲い掛かっている人狼までの距離はおよそ十五メートル。

 この程度の距離、一歩で十分だ。

 刀を横に構え姿勢を低くし、足に力を込め、蹴る。

 瞬間、足元の地面が爆ぜた。

 全身を押さえつけられるほどの風を感じ、周囲の景色が流れるほどの速度で人狼に迫る。

「ハァッ!」

 人狼が間合いに入ったところで、構えていた刀を真横に振り抜いた。

 たった今、生徒に噛みつこうとしていたままの表情で、人狼の首だけが横切っていく。

 進行方向に人狼が飛び出してきた。

 人狼の眼前に足を付き、跳んだ勢いを殺さず体を回転させ、こちらを振り向いた人狼の顔面に回し蹴りを叩き込む。

 人狼はダンプカーにでも跳ねられたように直線的な軌道を描きながら吹き飛び、離れた場所にあった焼却炉に突っ込み動かなくなった。

 再び地面を蹴り飛ばし、他の生徒が相手をしていた人狼の頭を背後から貫いた。

「下がれ! 全員離れろ!」

 刀を縦に斬り上げ人狼の頭を割りながら叫び、生徒たちが答えるより先に後方に足を振り抜く。

 そこでは人狼が跳びかかって来ており、振り抜かれた足は人狼の腹を蹴り上げた。

 人狼の体はふわりと宙に浮き、次の一刀で人狼の体は頭から股にかけて真っ二つにする。

 俺の指示で生徒がお互いを支え合って離れたことで、人狼が俺だけに狙いを定めて襲い掛かってくる。

 だが、人狼が何かするより先に回り込み、刀が人狼の体をいとも簡単に両断する。

 人狼の動きは速い。常人なら動きを追うだけでも難しいだろう。

 しかし俺は、その人狼より圧倒的に速い。

 人狼は瞬間的に間合いを詰められ、気づいたときには斬られ、蹴り飛ばされ、まともに攻撃することすら許されない。

 それも全て、俺が使用している【仙術(せんじゅつ)】のおかげだ。

 仙術は俺が使うことができる特殊な能力である。体の中にある力を操ってエネルギーに変える技術で、これを使用することで身体能力が通常の何倍にも向上させることができる。

 俺の知る限り俺と父さんしか使えない技術で、その理由により人前で使うことがはばかられてきた。ずっと緊急時以外は使うなと言われてきたため、これまで生きてきてほとんど使ったことなんてない。

 だが、父さんは俺がこの島に来る際にその枷をなくした上、これだけの危機的状況なら遠慮なく使うことができる。

 極めつけは父さんがよこしたこの白刀。

 切れ味が尋常ではない。

 また人狼の胴体に刃を振り抜く。ほとんど抵抗を感じることなく真っ二つに斬り裂いた。

 ただでさえ人よりも強靱な肉体を持つ人狼相手に、普通の刀でこんな無茶な斬り方をすれば、すぐに刃こぼれをしてただの鈍器に成り下がるだろう。

 しかし、この白刀にはそんな様子が一切ない。

 次々と襲ってくる人狼を斬り裂き続け、瞬く間に全ての人狼を斬り伏せた。

 これまで倒した人狼と同様に、全ての人狼は空間の歪みに吸い込まれるように消えてしまった。

 周囲に残っているのは、凄絶な戦いを物語るように飛び散っている生徒の血液だけだ。

「はぁ……はぁ……」

 仙術の連続使用と激しい戦いのせいで息が上がり肩が上下する。それも仙術のおかげですぐに収まった。

 敵がいなくなったことで刀を下げ、怪我をしている生徒たちの方へ駆け寄った。

 腕を噛み千切られた女子生徒のところへ全員集まっており、お互いの怪我を手当てしていた。

 自然と大丈夫とかという言葉が出そうになったが、大丈夫ではないのは一目瞭然だ。

 無傷な者は俺を含めて一人もいなく、全員着ているブレザーの所々に血の染みで濡らしている。俺の左腕の傷が軽傷に見えるほどだ。

 中でも一人の男子生徒がかなりの重傷だ。

「う、あ……」

 呻き声を上げる男子生徒の腹部には深い裂傷があり、比較的軽傷の男子生徒が必死に押さえているが血は止まらず流れ出している。

「代わるよ。君も自分の治療をした方がいい」

 俺が声をかけると、男子生徒は戸惑いながらも傷を負った生徒から離れた。

 刀を近くの地面に刺し、すぐに男子生徒の腹部の服を裂いて傷を露わにする。その傷に、思わず顔をしかめた。

 目を背けたくなるほどのひどい傷が、腹部に刻まれている。

 不快感とともに吐き気が込み上げてくるが、なんとか堪える。左腕の応急処置が外れないように着ていたパーカーを脱ぎ、男子生徒の傷に押し当てる。

 これほどの傷に力を加えれば相当の痛みを伴い、普通は何かしら反応があるはずだが、男子生徒はピクリとも反応しなかった。

 あまりの出血に意識を失っている。

「くそっ、しっかりしろ!」

 呼びかけにも反応せず、押さえつけたパーカーが溢れ出した血を吸い上げ、手のひらに生暖かい温度が伝わってくる。

 血に染まった手で携帯電話を取り出し救急車を呼ぼうとしたが、電池マークの横のアンテナ部分には圏外と表示されている。先ほどまでは三本立っていたにも、ここにきてなぜか電波がなくなっている。

 携帯電話を力任せに閉じながら、傍で苦しい顔を浮かべている生徒たちに呼びかける。

「おい誰か助けを呼べ! このままだとこいつやばいぞ!」

 この高校の生徒なら先生たちの連絡先や何か対処方法を知っているはず。

 そう思って尋ねたのだが、生徒たちの答えは不可解なものだった。

「こ、この神罰が終われば……た、たぶん……」

「終わればって……」

 要領を得ない答えにどういうことが追求しようとしとき、それを邪魔するように新たな人狼が何体もやってきた。

 既に誰かを襲ってきたのか、口や手を血で濡らしており、自身も体の所々に傷を負っている。

「またっ……代わってくれ!」

 傷を押さえるのを他の生徒に任せ、刀を手に生徒たちの前に立ちふさがる。

 一ヶ所に固まっている俺たち目掛けて、人狼は一斉に走り出した。

「次から次へと……!」

 怒りと刀を手に、仙術で全身を強化しながら前に踏み出した。

 足に力を込め、飛び出そうとしたそのとき――

「凪、止まれ」

 飛び出すより先に、鋭い声が行く手を遮り、足が止まった。

 同時に目の前を、空を切る音とともに大量の何かが通り過ぎて行く。

 それは、無数の弾丸だ。

 飛来した弾丸は俺たちに向かってきた人狼の体中に突き刺さり、戦闘にいた人狼が呻き声を上げながら倒れ伏した。

「な、なんだ……?」

 驚いたのも束の間、後方に控えていた無傷な人狼が前に出てくる。

 俺が慌てて迎撃しようとしたとき、視界に真っ赤なものが移り込んだ。

「止まれと言っているでしょう、バカ凪。火傷するわよ」

 視界を覆い尽くしているのは、真っ赤な、どこまでも紅い灼熱の炎だ。

 草や木の葉を一瞬にして焼き尽くすほどの熱を持った炎が、人狼を消し飛ばしていく。

「あっつ!」

 腕で顔を庇いながら、弾丸や炎が飛んできた方向に視線を向けた。

 揺らめく炎の向こうに、二つの影が佇んでいた。

「来るのが遅いから、何やってたのかと思ったぜ」

「まったくよ。こっちの都合も考えてほしいものね」

 炎が消え、その向こうから美榊高校のブレザーを纏った二人の男女が現れた。

 男の方は身長が大体俺と同じくらいの百七十後半ほど。焦げ茶に染めた髪をワックスできっちり整えており、ブレザーを全体に着崩している。目は男らしくきりっとしているが、どこかやんちゃが抜けきっていない子どもっぽさを残している。

 女の方は男より頭一つ分低く、首辺りで切り揃えた栗色の髪に茶色の瞳。男子生徒とは対象的に模範生のようにきっちりとブレザーを着込んでおり、凛々しい顔はとても高校生には見えないほど大人びていた。

 普通に見れば一般的な二人の高校生。

 しかし、男の手には巨大で無骨で巨大な銃、女の方は手に炎を灯しているという明らかに異常な部分を持っていた。

 だが俺は、そんな非現実的な光景などまったく気にならないほどの衝撃を受けていた。

「ま、まさか……」

 外見や容姿などといった単純な要素ではない。

 雰囲気、話し方、仕草。

 そんな些細なことがとても懐かしく、鮮明によみがえってくる。

「久しぶりだな。一体何年ぶりだよ」

「あんたもでかくなったわね」

 二人の言葉に、俺は自分の感覚が間違いでないことを知った。

「玲次……七海……」

 かつて、俺がこの島に住んでいた頃、毎日のように遊んだ三人。

 その内の二人。

 小学生のとき以来会っていない上、閉鎖的な美榊島の理由も相まって今まで連絡なども取っていなかった。

 それでも、美榊島のことを思い出し、こいつらのことを思い出さないことなど一度たりともなかった。

 片桐玲次(かたぎりれいじ)

 西園寺七海(さいおんじななみ)

 それが二人の名前だ。

「ど、どうしてここに……」

 俺の口から思わず出た言葉に、玲次はけらけらと笑った。

「どうしてってことはないだろ。お前が三年になってるんだから、俺たちだって三年になるさ」

「あ、ああ、そうだな……」

 久々の再会に笑みが零れてくるが、状況が状況だけに振り払う。

「それより、怪我人がいるんだ。どうにかならないか?」

 玲次の視線が鋭くなり、俺の後ろにいる怪我人たちに向けられる。

 七海も顔を険しくし、空間の歪みに消えていく黒焦げの人狼を睨み付けた。

「これはもうすぐ終わらせる。悪いけどそれまで治療は難しいの。他のところでも今みたいのなのがうろついているから、私たちはそれを片付けに行くわ」

「一体何の話を……」

「悪いな。話してる時間がないんだ。後で詳しく話す」

「ってちょっと待て――」

 俺の制止も聞かずに、玲次と七海は人狼がやってきた方向に走っていき、すぐに見えなくなった。

 終わらせる? 一体どういうことだ……。

 頭に様々な思案が巡ったが結局答えは出ず、仕方なくまた生徒たちの手当てに戻ろうと体を返す。

 だが、生徒たちの方へ足を踏み出したとき、異変が起きた。

 体に圧しかかっていた重みがすっと消え、同時に先ほどまで続いていた不快感もはがれ落ちていった。

 何かの留め金が外れてしまったように、次々に異変が起き始める。

 左腕をきつく縛り上げていたタオルが自然とほどけ、ふわりと地面に落ちた。落ちたタオルから、何かが空中に浮き上がった。

 それは、俺の左手から流れ染み出ていた、血だ。

 信じられない光景だった。

 血が浮き上がり、それが左腕の傷へと逆流を始める。それに伴い、傷もみるみる内に塞がり始め、あっという間になくなってしまった。

 それだけではない。

 俺が人狼を蹴り飛ばして壊れた焼却炉、燃え尽きたはずの草木などが一斉に再生を始めた。

 物質が以前あった場所に戻り、まるで、ここでは何もなかったかのように元通りになってしまう。

「……」

 声も出せず、ただ茫然としていた俺の視界に、眩い光が差す。

 反射的に視線を上に向けると、美榊高校を覆っていた黒い影が真上からゆっくりと消え始めていた。

 太陽が降り注ぎ、先ほどまでなかった涼しい風が校舎を吹き抜ける。

 そして、遂には全ての影が消え去った。

「どうなってんだよこれ……」

 傷がなくなった左腕に触れながら、夢のように消え去った嵐の跡を眺める。

 そこには、ただの穏やかな校舎裏の風景があるだけだ。

 しかし、立ち尽くし呆然としていたそのとき、不意に手に違和感を覚えた。

 様々な傷や汚れが元通りになっているのに、手に付いた血だけが消えていない。

 なんで……。

 疑問を抱く俺の耳に、すすり泣くような小さな声が入った。

 声の方を振り返った先では、女子生徒が泣いていた。

 先ほど腕を食いちぎられていた女子生徒だが、女子生徒の腕は元あった位置にあった位置に戻っており、その腕で涙が流れる頬を拭っている。

 女子生徒の周りにも、同じように泣く者、項垂れている者、きつく歯を食いしばっている者。それぞれの反応を示している生徒たちだが、それは悪い夢が覚めたから嬉しく泣いているわけでもなく、喜びを噛みしめているわけでもなかった。

 生徒たちの中心に一人、仰向けで倒れたまま、動かない生徒がいた。

 瀕死の重傷を負っていた男子生徒だ。

 彼だけは、未だに血まみれの状態で横たわっている。

 ブレザーの傷はなくなっているが、ブレザーやシャツ、止血のために使っていたパーカーは、先ほどまでと変わらず血に濡れていた。

 倒れている彼の表情はとても安らかで、まるで――

 まるで、眠っているように見えた。

 背筋に氷の刃を当てられたように悪寒が駆け抜ける。

 何がそこまで不安を掻き立てるのかはわからないが、足は勝手に前に動き、足早に横生徒の元へ駆け寄った。

 ボロボロだったブレザーは綺麗な状態に戻っているが、おびただしい血液は流れ出たまま、ブレザー下のシャツの白地が見えないほど赤く染まっている。

 地面に落ちている血だらけの手に迷いなく触れ、手首に指を押し当てる。

 脈は、ピクリとも触れていなかった。いくら待っても、いくら願っても、血のぬめりとした感触があるだけだ。

 男子生徒は、死んでいた。

「おい……」

 俺は男子生徒の肩を掴んで軽く揺さぶった。

「おい! 起きろよ!」

 どれだけの力を込めて揺さぶっても、反応はなかった。

 周りの生徒はもう既に彼の死を受け入れてしまっているようで、彼を見ようともしない。

 そんな彼らに憤りを覚えたが、乾燥した喉が張り付いてうまく言葉が出てこない。

 唾を飲み込み、どうしようもない現実とともに拳を地面に叩き付ける。

「何がどうなってるんだ!」

 鈍い痛みが拳から伝わってくるが、そんなことは気にもならない。

 人が死んだ。

 その信じられない事実だけが、俺の思考に重く覆い被さっていた。

 変な化け物に襲われたかと思いきや、それが全て夢のように消え去り、俺と同じくらい歳のやつが目の前で死んでいる。

 到底受け入れることなどできない現実が、目の前にこれでもかと突き付けてくる。

「死亡者を確認」

 そんな俺の耳に届いたのは、無機質な淡々とした声だ。

 後ろから発せられた声に振り返ると、そこには白衣を纏った長身の男が立っていた。

 短髪に黒縁眼鏡、口には火の付いていないタバコが咥えられており、やる気なさげな視線を落としていた。

 一見養護教諭のようだが、どこか学者の雰囲気を漂わせている風変わりな人だった。

 養護教諭は俺の横を通り過ぎると、まだ温かい男子生徒の遺体に触れる。

「死因は腹部裂傷による失血死。呼吸、脈拍、ともに停止」

 確認するように呟きながら遺体を調べていく。

「Eクラス、原崇志。神罰初日、死亡を確認」

 事務的に言い、養護教諭は少しばかりの黙祷を捧げた。

 そして立ち上がり手を上げると、どこからともなく白衣を着た人が数人現れ、持ってきていた大きな細長い袋に遺体を入れ始めた。

 目の前で起きていることを受け入れることができず立ち尽くした。

 養護教諭がこちら方を振り返り、無機質な視線に俺は体を強張らせる。

 養護教諭はポケットからジッポライターを取り出し、慣れた手つきで咥えていたタバコに火を付ける。

「転校生」

「はい」

 呼ばれて返事をすると、養護教諭は紫煙を吐き出しながら肩を落とした。

黄泉川昴(よみかわすばる)

 それが養護教諭の名前だと気付くのに数秒かかった。

「あの、その人は助からないんですか!? 俺たちの傷は全部治ったのになんで――」

「死んだから」

 俺の言葉を遮り、黄泉川先生は無情にも言い放った。

 しばらくジッポライターを閉じたり開けたりして音を立てた後、再び空気中に紫煙を吐き出す。

「この神罰で死んだ人間は生き返らない。神罰の後を生きられるのは、神罰を戦い抜いて生きた人間だけだ」

 死んだ人間は生き返らない。

 あり得ないことが起きている今ここでも、それだけは変わらない現実だった。

「聞きたいことはまだあるだろうが、俺には聞くな。校長か生徒会にでも聞け」

 さらに質問を重ねようとしている俺を封殺するように、黄泉川先生は言う。

 この状況でも動じず、慣れたように、これが当たり前の出来事のように自然とそこにいる。他の白衣の人たちも同じだ。

 それが理解できなかった。

 遺体の彼、原は遺体袋に収められ、もう姿を見ることができなくなる。

 黄泉川先生たちは彼の遺体を運んでいく。

 俺はどうすることもできずに、見送ることしかできなった。


 死者八名。


 それが今年美榊高校で起きた神罰の、初日の犠牲者だった。

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