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シンバツピリオド.  作者: 楓馬知
29/43

28

 二学期が始まってから半月が経った。

 夏休みに神罰が起きたことで、何かが変わってしまうかのせいもあったのだが、そんなことは一切なく、平常運転を続けていた。

 教室では今も滞りなく授業が進んでいる。

 午前中の一限目、科目は数学だ。

 黒板に眠たくなるような文字の羅列であったが、ほとんど覚えがある数式だったので、特に書き留める必要もないし覚えておく必要もない。

 俺的には、何かが変わってくれた方が色々ぼろを出してくれそうで助かるのではあるのだ。

 これまで五十年以上も続いて生きている神罰は、おそらくは今現在の形が最もバランスがとれているのだろう。

 そういう完成された形から問題点を見つけ出すのは難しいのだ。

 夏休みに神罰が起きてくれたのは、俺からすれば嬉しい出来事だった。心葉にこんなことを言ったら怒られること確実だろうが、事実だから仕方がない。

 実際、あの神罰が起きてくれたおかげで疑問の一つは解消されたし、手掛かりも掴んだ。

 突発的に起きたあの神罰は、俺たちにとっては驚きであったが、神罰を起こしている神からしてもイレギュラーな出来事であったに違いない。だから慌てて他にぼろを出してくれないかと期待したのだが、そういうことはないようで残念だ。

 それと、夏休み以降変わったことと言えばもう一つ。

 俺と心葉が付き合っているという話が高校中に広まっている。

 心葉は第一高校の中ではあまり話す友達がいない。紋章所持者である立場上、まともに話せるのは玲次や七海理音くらいのものだからだ。

 二学期になったこともあり、紋章所持者という事実を受け入れることもできているためか、それなりに話すようになっていたのだが、それでも恋バナのようなことをできる状態ではない。

 しかし、心葉が美榊第一高校以外の友達と話している際に、うっかり口に出してしまったらしいのだ。

 そしたらとんでもない勢いで広がってしまった。

 玲次と七海の生易しい視線が非常にむかつく。理音なんてスマートフォンと手帳片手に追いかけてくるものだから、全力逃亡劇を繰り広げたことが既に何回かある。

 それ以外の生徒の目は、あまり快くはないがそれは仕方のないことだと理解している。彼らの中では心葉は助かることのない短い命なのだ。

 そんな心葉が誰かと付き合って、相手をどうしたいのか。さらに俺視点で見ると、もうすぐ死ぬ人間と付き合って何が楽しいんだと変人的な目を向けられている。

 それは予想されうることであったので、俺も心葉も大して気にはしなかったが。

 しかし、広まってしまったことで一つ問題が発生している。

 その問題はどうにかしないといけないのはわかっているのだが、正直非常に非常に憂鬱だ。

 窓から外に視線を向けて、どうしたものかと深々とため息を吐く。

 こんな悩みも、普通の高校生からしたら贅沢でわがままなことなのかもしれない。でも、神罰というものが一つあるだけで、状況が全てややこしくなっている。

 できることなら、こいつらと、ここのいる皆と、普通の高校生活ってのを送ってみたかった。

 それは、もう叶うこともなく、存在すらすることのなかった世界だ。

 不意に、後ろの席で影がゆらっと揺れた。

 後ろには最近ではずいぶん教室にいることが多くなった心葉が座っている。

 体を揺らしてどうしたのかと後ろに視線を向ける。

 心葉は口から熱っぽい吐息を落としながら、頬を上気させていた。

 様子がおかしい。

 そう思ったときには、心葉の体は傾いてゆっくりと倒れてしまった。


「風邪だ。ただ少々ひどいらしい。二、三日入院した後、自宅療養になるだろうな」

 心葉の症状を尋ねに保健室へ行くと、黄泉川先生は外に出てタバコを吸っていた。

 倒れてすぐに、状態が悪いと判断され、救急車の乗せられて病院に搬送された。

 俺も一緒に病院まで行きたかったのだが、神罰が起きたらいけないからここにいてと言われたので、高校に残ることにしたのだ。

 校舎の壁に背中を預けて、黄泉川先生は長々と紫煙を吐き出した。

「疲れだな。まだ九月も半ばだが、急に冷え込んだこともあるし、これまでの疲れが一気に出たんだろう。この時期はよくそういう生徒が出るんだ」

 俺は外にあるベンチに腰をかけながら、黄泉川先生の話を聞いていた。

 特に心葉は紋章を持っていることもあり、その辺りの心労は相当なものだろう。俺がいることで、おそらくは一層疲労を感じていたのではないかと思う。

「心配なのは、美榊がそれをよしとするかどうかだが」

 言いながら、黄泉川先生は吸い終わったタバコを消し、次のタバコに火を付けた。そして、こちらにライターとタバコを一本こちらに差し出した。

「……いえ、結構です」

 教師が未成年者にタバコを勧めるとはこれいかに。

 黄泉川先生は眉を上げながらライターとタバコをポケットに突っ込んだ。

「それより、美榊がよしとすかとどうかというのは、どういうことですか?」

「お前も知っているだろうが、紋章は神に捧げられる生贄の目印という考え方が一般的だ。だから、他の生徒はいくら欠けたところで問題はないが、紋章所持者は絶対に高校内にいるべきというのが上の考えなんだ」

 そう言えば、確かに聞いたことがある。

 紋章所持者は、神罰において戦闘に参加する必要はない。代わりに、他の生徒と同じく美榊高校内にいなければいけないという制約があったはずだ。

 これまで、心葉が高校からいないという状況が起こることはなかったから特に何も起きなかったが、ここにきてその問題が持ち上がってしまったようだ。

「もし心葉が高校にいないと何か問題があるんですかね」

「特にはないだろう。この辺りは信仰的な問題が多い。だから問題があるとかいう問題ではなく、そうするべきではないという考えなのだ」

 神に対する度重なるご無礼を、ということだろう。

「でも、風邪を引いた心葉を高校に連れてきて、他の人間に移しでもしたら戦える人間は減るし、死亡者が出る可能性は増えるのではないですか?」

「まったくもってその通り」

 無表情であるが、やや疲れたようにため息とともに煙を吐き出した。

「俺の力が及ぶ範囲では、椎名は風邪が完治したと判断するまで高校には出てこさせない。両親も同じ考えだ。だから心配はしなくていい」

「そうですか。ありがとうございます」

 黄泉川先生は微かに笑みを零した。

「都合のいいことに、週末は三連休だ。金曜まで高校に出てこさせなければ、連休で休ませることができるからな」

 そう言えば来週の月曜は祝日だった。一日でも多く休めさせたいこのときには都合がいい。

 不意に、黄泉川先生が表情に影を落として壁から離れた。

「……もう帰ってこなくていいがな」

 俺には聞こえていないつもりで言ったのだろうが、しっかりと俺の耳に届いていた。

 保健室に戻りながら、黄泉川先生は思い出したように振り返った。

「お前、椎名と付き合っているって、本当か?」

 突然、違う方向からの問いに、一瞬きょとんとした。

 先生たちの間にも広まってるのかよ。

「ええ、まあ、そうですね。呆れますか?」

「それなりにな」

 言葉とは裏腹に、黄泉川先生は楽しそうな笑みを浮かべた。

「まったくどこまで、と呆れている」

 意味あり気な言葉に眉をひそめていると、黄泉川先生は小さく手を振って保健室へ入っていく。

「高校生らしい清く正しい付き合いをするように」

 そう言い残して去って行った。

 それを言うなら高校生にタバコを勧めるのは止めていただきたい。

 一人になって、俺はベンチに横になった。

『見舞いにはいかないのか?』

 天羽々斬が話しかけてくる。

 今は刀の形にして具現化しているわけではないが、神力にして隠している状態でも会話ができる。実際に音として発しているわけではなく、頭に直接送り込む形であるので周囲に気付かれることはない。

「ちょっと行きにくい事情あり」

 しかし俺は声にしないといけないので、気を付けないと独り言をしている痛い人間になるので注意が必要である。

『我の力で病くらいは遮断できるぞ?』

「それはありがたいけど、そういうことじゃないんですよ」

 今日の空は曇り模様。俺の気分を体現しているようだ。

 本当に、行きづらい。

 行かないのはもっと問題。

「腹を決めるか」

 決心をした俺の頬に、ぽつりと雨が落ちた。


 心葉の家に、直接お見舞いに行くことにした。

 しかし、いよいよ行くしかないと判断したときには、週末になっていた。

 毎日体内に潜む神に根性なし扱いをされ、やけくそとばかりに心葉の家と向かう。

 神罰がないことが確認された金曜日の午後、一度街に出て行き、果物などを買い込んだ。

 心葉は病院に四日入院した後、自宅に帰って療養している。本当は二日でよかったかもしれないと心葉がメールで言っていたが、おそらくこの辺りは黄泉川先生が頑張ってくれたのだろう。

 こういう機会でもなければ、心安まるときなどない。

 そして今週いっぱいは家で休んだ方がいいと判断されたので、その間自宅療養をすることになったのだ。

 心葉の家まで向かう道中、天堵先生とばったり出くわした。

「ああ、八城君。こんにちは」

「こんにちは。先生、まだ授業中なのにこんなところで何しているんですか?」

 天堵先生はこの残暑で暑い中上下スーツでばっちりと決め込んでいる。俺なんて半袖シャツと短パンでうろついていると言うのに。

 天堵先生は内ポケットからハンカチを取り出して、汗を拭った。そんなに暑ければ上着くらい脱げばいいのに。

「ちょっと椎名さんの家まで行っていたんです。お見舞いにですね。もしかして八城君もそうですか?」

「はい。もうある程度元気になっているとは思うんですけどね。どうでしたか?」

「いえ、椎名さん本人には会えなかったんです。ご両親と少し話をしてから戻ってきているところです。まだ高校には出て来られないかという話をしてきただけですよ」

 俺は眉をピクリと揺らしてしまったが、努めて冷静に返す。

「別にこの、椎名が高校に出てくる必要はないでしょう? 大抵の神罰なら、俺一人でもなんとかできますから。もとより、椎名は紋章所持者で戦う必要はありませんよ」

 少しむっとしまったのは、おそらくは伝わらなかったと思う。心葉を学校に出てこさせようとする考えに苛立ちを覚えた。普通の生徒なら学校に出てくるのは当たり前だが、心葉はむしろ出てこなくてもいいのだ。戦闘に参加するわけでもなければ、いなかったからと言って不都合が出るわけではない。

 唯一問題があるとすれば、心葉が神罰中に結界内にいないことによって、生徒たちだけでは太刀打ちできない妖魔が現れた場合、神罰を終わらせるという切り札はなくなることになる。

 しかしそんなものは、心葉の命を犠牲にした上での、最低な考え方だ。仮に俺たち全員が死亡したとしても、それは心葉のせいではなく俺たちに力がなかったから。根本的な話を言ってしまえば神罰なんてものがあるからなのだ

 俺の苛立ちを読み取ってかそうでないからかはわからないが、天堵先生は曖昧な表情を浮かべた。

「それは確かにそうです。ですか、紋章所持者は原則神罰が始まる正午前後は高校敷地内にいること。これは決まっていることです。八城君が椎名さんを大事にする気持ちはわかります。しかし、世の中には守らなければいけない決まり事がいくつかあります。だから、私たちはその決まり事が正しく履行されるように注意をしなければいけません」

「でも、心葉が高校に出てこないことで、何か不利益があるとは思えないのですが」

 つい反論してしまってから、少し後悔した。こんなことを天堵先生に言っても何にもならないと言うのに。

 しかし天堵先生は優しげな笑みを浮かべて頷いた。

「そうですね。今の私には、八城君のその問いに対して満足な答えを持っていません。ただ、そういうものだと理解していただけると助かります。みっとももない教師として軽蔑されても構いません。わかってください」

 諭され、俺は申し訳なくなって頭を下げた。

「いえ、生意気なことを言いました。すいません」

 ところで、と言葉を返す。

「椎名には会えないってことでしたけど、体調はよくなっているんですよね?」

「ええ、ご両親の話を聞く限りでも、ずいぶんよくなってはいるようですよ。ただ、今の八城君と同じようにあまり快い反応はされなかったというだけです。あ、別に私は気にしてませんので、気を落とさないでくださいね」

 顔を歪めた俺にすかさず天堵先生がフォローを入れた。

「でも、八城君であれば会うことができると思いますよ。行ってあげてください」

 そう言えば、と天堵先生が思い出したように手を突いた。

「夏休みの神罰のときは大変でしたね。一人であのダイダラボッチに挑んで見事勝利したとか」

 突然褒められ、天堵先生が気を遣ってくれたのだと気付く。

「いえ、運がよかっただけです。天堵先生もあの日会議があって、芹沢先生たちが抜けた穴を一人で埋められていたんだとか」

「ああ、それですか」

 天堵先生は困ったような笑みを浮かべて頭を掻いた。

「あの日はもう大慌てでしたよ。会議に絶対必要な書類を高校に忘れてしまって、芹沢先生が顔を青くしているところに、あの神罰が起きたとあったそうですよ。皆さんがすっ飛んでいった後に、入れ替わりに私が入って、なんとか会議は無事終わらせることができましたが、今度は夏休みになんで神罰が起きたなんていう前代未聞の話題が持ち上がりましたからね。てんやわんやでした」

「……それはなんかもう、すいませんでした」

 完全に俺が引っかき回している。いやしかし、芹沢先生を救ったと思えば決して悪い話ではない。悪い話ではないんだ。必死に自分に言い聞かせた。

 天堵先生は謝罪する俺の肩を叩くと、楽しそうな笑い声を上げた。

「はははっ。あなたが気にすることではありません。私たちはそれが仕事ですからね。では、私は高校に戻ります。八城君も、暑いですから体調管理には気を付けてくださいね」

 天堵先生と別れて、俺はまた心葉の家を目指して歩き始めた。

 まだここから心葉の家までは二十分近くかかる。天堵先生はこれから高校に帰ってから仕事だろうから。わざわざ時間を取って心葉の家に行っていたのだ。

 さっきの反応はいくらなんでも失礼だった。もっと誰に対しても冷静に対処できるようにならないといけないな。

 しばらく歩くと、ようやく心葉の家の前までやってきた。

『懐かしいな』

 やってきた場所を前に、天羽々斬が呟いた。

「来たことがあるのか?」

『勇と一緒にな』

 それはそうかと納得する。

 心葉の家、それは玲次や七海の家とはまた違う立派な家だ。

 小高いに山の上が一面椎名家の敷地で、山々の四方を囲うように塀が走っており、中には古くはあるが尊厳ある建物がいくつも建ち並んでいる。

 入ってすぐ右手から大きな掛け声がいくつも聞こえてきた。

 右手にあるのは大きな道場だ。おそらく武術が盛んなこの島において一番大きな道場があの道場だ。

 うん、しっかり稽古にいそしめ若人よ。

 下調べ通りで安心した。

 これで初めの関門の七十パーセントは終えることができた。

 気配を悟られないよう、道場の誰かに見つからないように、忍び足で玄関に向かっていく。玄関も田舎のおばあちゃんの家をイメージさせる安心感ある門構えだ。

 手早くインターホンを押す。しばらく待っても誰も出てこなかった。

 中から人の話し声はたくさん聞こえてきているのだが、たぶん話に夢中で音に気付いていないのだ。

 心葉にメールを送ってみる。家の前まで来ているという簡単なメール。

 一分も経たないで返信が返ってきた。

 私の部屋まで来てくださいととことだった。

 携帯電話を閉じ、恐る恐る扉を開ける。

 心葉の部屋ならわかっている。変わっていたらわからないが、指摘してこない辺り変わっていないのだろう。

『いくらなんでも怖がり過ぎではないか?』

「……事実怖いんだよ」

 ここまで状況を悪化させたのは全て俺に原因があるのではあるが。

 玄関の扉を開けると、広い玄関を埋め尽くすような靴が並べられていた。入ってすぐ横の部屋から女性たちの話し声が響いてくる。扉こそ閉まっているが、中から聞こえる話し声は廊下まで漏れていた。

 道場にはたくさんの子どもが通っている。俺が剣術を学んだのもここの道場なのだ。

 その子どもたちの親御さんたちが迎えに来て、あまった時間をここで話して過ごしているのだ。

 十中八九、心葉の母親もここにいる。

 話すのが好きなおばさんは、俺が子どもの頃もここで親御さんたちにお茶やお菓子を振る舞って、自らもおしゃべりに夢中になっていた。

 懐かしい限りであるが、見つかっても気負わせてしまうだけなので、忍び足で通り過ぎる。

 心葉の部屋は離れにある。母屋は心葉の両親が住んでおり、対外的にも使われることが多いため、心葉の部屋は離れに造られていた。

 心葉の部屋に行くまで、誰にも会うことはなかった。

 基本的に椎名邸は和室が多いが、心葉の部屋は一般的な洋風な造りとなっている。

 部屋には、心葉の部屋と書かれた昔ながらのプレートが残っていた。

 コンコンと扉をノックする。中からどうぞと返事が返ってきて、俺は扉を押し開けた。

 部屋は古くはあるが綺麗に整頓されていた。女の子らしい装飾が施された部屋に、本がぎっしり詰め込まれた本棚、部屋の中央には丸机があり、教科書やノートが広げられている。風邪で寝込んでいても勉強をしていたようだ。

 心葉は左の窓際にベッドに横になっていた。

「久しぶり、体調は大丈夫か?」

 心葉は水色のパジャマの上からカーディガンを一枚羽織っていた。一つも流している黒髪は一括りにして胸の方に流していた。

 体を起こしていた心葉は、力のない笑みを浮かべて指をくるくると髪に絡めた。

「心配かけてごめんね。でも体調の方は大丈夫だよ。大事を取って休んでいるだけだから」

「それなら結構。はいこれ、お土産」

 果物が盛られたバスケットを机に置く。

「それから、スポーツドリンクとか栄養ドリンクとか買ってきたから、気が向いたら飲んでくれ」

「ありがと。気が利くね」

「大したことじゃないよ」

 俺は心葉に近づくと、その額にそっと手を当てた。

 あっ、と微かに顔を赤らめるが、そんな仕草も可愛らしい。

「うん、熱も下がってるな。倒れたときの熱と言ったら仰天ものだったよ」

「情けない限りです」

 額をぺちっと叩いて、俺は机の側に腰を下ろした。

「気にするな。ゆっくり静養しろ」

 俺は一緒に買ってきていた紙皿を取り出す。

「リンゴとオレンジとメロン、どれがいい? 好きなもの剥くけど」

「それじゃあ、オーソドックスにリンゴで」

 盛り合わせの中から真っ赤に熟れた果実を一つ手に取った。

 そして、天羽々斬の炎で包丁を作り出す。形状は炎だが熱を持っているわけではないので、以前と変わらず、いや以前より明らかに切れ味を増している。白炎でリンゴの表面を撫でて洗浄、これで水洗いよりも清潔になります。

「そう言えば、神罰は大丈夫だった?」

 俺がリンゴを剥いていると、心葉が聞いてきた。

「大丈夫も大丈夫。夏休みにあった神罰が原因か知らんけど、一週間近く神罰は起きてないよ。たぶん来週の頭には来るだろうな」

 これまでの傾向から言って、神罰が起きない日というのは長くても二週間以上続くことはない。連日で起きるということもないが、逆に日が開き過ぎるということもない。一週間以上開いて、土日に入るため、月曜火曜くらいには来るだろう。

 しかし、神罰はもうさほど問題ではない。天羽々斬の力が解放された今、大して強くない妖魔であれば俺一人でもどうにかできる。

 他の生徒が戦わないというのも問題らしい。俺任せにすると、評議会辺りがうるさいらしい。あんな余所者に任せっきりにせず、お前たちも戦えということだ。最も、俺には関係ない話なので、容赦なく単身で突っ込んでいってはいるが。

 剥き終わったリンゴを八等分にして皿に載せ、心葉に差し出した。

「ほい」

「ありがと。さすが凪君、器用だね」

 心葉はリンゴを一口囓った。

「うん。美味しい。凪君も一緒に食べよ。一個丸ごとはさすがに多いよ」

「それもそうか。じゃ、お言葉に甘えて」

 噛むと口の中でしゃりしゃりと音がするほど新鮮であり、凄く甘い。やっぱりリンゴはフジだね。

 しばらく適当に会話を繰り返しながら、リンゴを食べた。

 紙の皿が空っぽになったところで、俺は立ち上がって部屋を見渡した。

「ここに来るの久しぶりだから驚いた? ずいぶん変わったと思うんだけど」

「そうだな。昔は子どもの部屋って感じでごちゃごちゃしていたイメージが強いけど、今は女の子女の子した部屋だと思うよ」

 何しろ最後に来たのは十年以上前だ。記憶の片隅に僅かに残っている程度なので、印象が違うのも当然である。

「さっき、ここに来る途中で天堵先生に会ったけど」

「ああ、うん」

 心葉は曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁した。

「もう体調もよくなっているから、私も出て行こうと思ったんだけどね。実際、天堵先生毎日のように来てくれているし。でも、お父さんにお前は休んでいなさいって言われちゃって。登校したら謝りに行かないといけないな」

 毎日来ていたのか、天堵先生。本当にマメな人だ。

 心葉はちらりとこちらを一瞥すると、布団をきゅっと握って言った。

「お母さんとは会えた?」

「母親会議の真っ最中だったみたいだったから止めておいた」

「ああ、そういえばそれで入れなかったんだったんだね。ごめんね」

「いいよ。今更会って、何様だって話だよ。半年近くも、挨拶すらしてなかったんだからな」

 正直、今でも会うのが怖い。

 あれほどお世話になっていたにも関わらず、俺はこんな立場で島に帰ってきてしまった。

 命のやりとりをしなければいけない、俺自身死ぬ可能性がある状態。

 現在は、もうそんな確率は低くなっているとはいえ、今は心葉の事情を知った手前会いづらい。しかも、今は付き合っている状態にあるのだ。普通の親からの心情から考えれば、娘はもうすぐ死んでしまうのに、そんな状態で付き合ってどういうつもりだふざけるなというところだろう。

 俺に子どもがいて同じような状態になったとしても、確実にその相手に懐疑心を覚える。

 それに、俺と椎名家の事情は、些か複雑だ。

 会ってもろくな状況には――

 突然、部屋の扉が開いた。

 心葉は驚いて目を丸くし、俺は蛇に睨まれた蛙のごとく体の機能全てが停止した。

 現れたのは、胴着姿の男性。鍛え上げられた肉体が、胴着の上からでもはっきりとわかる。精悍な顔つきに浮かぶ両目は猛禽類を思わせる鋭さが光っている。

 仮にその手に竹刀が握られていたなら、俺はこの場で殴り殺されてしまっていたかもしれない。いや素手でもぼこぼこにされるかもしれない。

 少し昔と印象は変わっているが、見間違うことなく心葉の父親だった。

「お、お父さんノックもせずに入ってこないでよ!」

 心葉が批難の声を上げるが、そんなものは一切耳に入っていない。

 俺はもう、身の安全を考えることで精一杯だった。

「……帰っているとは聞いていたが」

 薄ら無精ひげが生えた口元から猛獣のような低い声が漏れる。

 その場で跳び上がり、正座して姿勢を正した。

「は、はい! 挨拶もせず申し訳ございませんでした!」

 やばい、マジでやばい。あ、挨拶はする気はあったんです本当ですそのまま帰ろうなんてこれっぽちも思ってませんでした嘘じゃありません。

 心の中で必死に言い訳をまくし立てる。しかし全てが声にならずに、頭の中で反芻する。

 心葉の親父さん、椎名樹は色々豪快な人だ。おっかない。とてもおっかない。

 しかし、剣術を教えるときにかなり厳しく教えられていたがそんなものは当たり前で、問題はもっと別のところにあるのだ。

 俺が、この人にぼこぼこにされても反論できないようなことを、俺はこの人とおばさんにしてしまったのだ。

 おじさんは目を細めてこちらを睨み付けてくる。

「どうだ? ん? 久々に帰った我が家は」

 頭が熱くなり胸がきりきりと痛んだ。

 俺は、この家に住んでいた。

 それも数日とか数ヶ月とかそんな期間ではなく、生まれて、俺がこの島を出るまでの数年間。

 俺は、父さんが本土に行って島で一人残っていた際に、預けられていた家、それが椎名家。俺は心葉の家にずっと居候をしていたのだ。

 本当は真っ先に挨拶をしなければいけなかったのだ。

 どれほどお世話になったかわからない。どれほど失礼なことをしたかわからない。

「本当に……」

 声が震え、顔を上げていることができずに俯いた。

 たくさん、本当にたくさん言わなければいけないことはあった。しかし、その先の言葉が音にならず体に溶けていく。

 下げた顔を上げることなどできない。俺はそれだけのことをしたのだ。

「ふむ」

 おじさんは考えるように唸ると、言った。

「何をそんなに考え込んでいるのかわからないが、いるならちょうどいい。少し来てもらおうか」

 とてつもなく嫌な予感がし、俺は顔を上げた。

「え? ど、どちらにですか?」

 おじさんは、極道のようなその顔に、とても意地の悪い顔を浮かべた。

「道場に決まっているだろう。がははは」

 抵抗する間も与えられないまま、道場へと連行される。

 心配した心葉が、後ろをスリッパでぺたぺた言わせながら着いてくる。

 母屋から道場までは廊下で繋がっている。手前には先ほどまで賑やかしくしていた母親会議の部屋があったが、既に中から話し声はしなかった。

 道場に入ると、中は稽古を終えた子どもたちと、それを迎えに来た親御さんたちで溢れ返っていた。

 俺が、一番嫌だった時間だった。今は何ともないはずなのに、その光景を見るだけで少しだけ心がざわついた。こういうものを、トラウマというんだろうな。

 心葉が心配そうに横から覗き込んでくるので、大丈夫と手を振った。

「あれ、もしかして凪君?」

 親御さんたちに混じっていた一人の女性が、こちらに気付いて首を傾げた。

「おばさん……」

 椎名悠花。心葉の母親だ。

 心葉は母親似で、その顔はとてもよく似ている。三十代後半頃の年だったはずだが、その表情はまだ二十歳のように若々しい。心葉と同じ黒い艶髪を一つに束ねて背中に垂らしており、エプロン姿のどこから見てもお母さんという風体。

 このまま、ここから逃げ出したくなってしまって顔を逸らした。

 しかしそんな行動を起こす前に、がしっと両手を掴まれた。

「こんなに大きくなって! この間怪我をして入院したって聞いて心配してたのよ。体は大丈夫なの?」

 十年ぶりに会ったにも関わらず、おばさんは変わらず俺に接してくれた。

「体の方は、大丈夫です。それより、長い間挨拶にも伺わず、すいませんでした」

「いいのよそんなこと! 私もお父さんも、あなたが元気でやってくれていたのならそれで十分よ。子どもが変な気遣いするもんじゃありません」

 ぺちんと額を叩かれる。

 恥ずかしくなって、俺は顔を伏せた。

 俺が一人考え伏せっていただけで、おじさんもおばさんも、些細なことなど気にしていなかったのだ。

 でも、俺が犯した罪が消えるわけではない。

「悠花。悪いが後にしろ」

「何言ってるの? もう子どもたちは帰るんだからゆっくり話せるじゃない」

「いや、もう一本やる」

 言って、おじさんは道場の中央まで歩いて行った。

 やっぱり、そういうことですよね。

 もう夕方だ。これから子どもたちを返した後に、空いた道場で稽古をするということなのだ。昔からよくここでおじさんに残って稽古をされていた。

 おじさんは、周囲の子どもたちに言った。

「全員、帰る準備ができたら端に寄れ。これから一本立ち会いをする。それの見学だ。それが終われば今日は帰っても大丈夫いいぞー」

 ……え?

 呆け、全てを悟った。

 もう逃げられない、と。

 適当な剣道衣と竹刀を渡され更衣室に押し込まれた。

 道場に戻ると、片付けはほとんど終わっており、道場の中央は大きく開けられ、子どもたちと親御さんたちは壁際へと寄っていた。

 道場の中央に、俺とおじさんは向かい合った。

 剣道衣に、竹刀を一本。防具は着けない。

 生まれてこのかた、俺は防具の類いを着けたことがない。一般的には付けて稽古をするのは当たり前なのだが、俺とおじさんの稽古で、防具は着けたことがなかった。それは今回も同じだ。

 本来剣道の試合などをするよりずっと広く、俺たちの周囲は開けられている。これは試合などではないからだ。

「武術の上では基本的に手でも足でもなんでもあり。当然術の類いは禁止。相手に参ったと言わせるか、それに似た状態、または相手を戦えない状態にした段階で終了とする。一応審判を、太刀山、頼めるか?」

「はい」

 子どもたちの中に、太刀山がいた。

 なんでお前がこんなところにいるんだと、じろじろと視線を向けられる。

 見れば、周囲にも高校生らしき生徒がちらほらいる。ついさっきまで授業中であったはずであるが、おそらくは美榊第二高校の生徒たちだ。あと一年二年すれば神罰で戦う生徒たち。授業よりも体を鍛えることの方が大事というわけだろう。

 返事こそするのもの、太刀山は壁際に立ったまま動こうとしない。近づけば邪魔になると理解しているからだ。

「先生ー、なんでそんなやつと立ち会いなんてするんですかー?」

 子どもたちの一角から声が上がる。

 太刀山と同じくらいの子どもで、おそらくは高校生だろう。

 稽古も終わってようやく帰れると思ったところに、おかしなやつが出てきたため、その辺り不満がこもっているのだろう。

 周りからもそうだそうだと言った声が上がる。

 その声に、太刀山は不満げに顔を歪めている。

 声を発した生徒に、おじさんは鋭い視線を向けた。

「お前たちが最近たるんでいるからだ。無駄口叩くとしばき上げるぞ」

 怒気を孕んだ低い声に、声の主は震え上がる。

 保護者がいる前でなんて容赦のなさ。さすがおじさんだ。

 おじさんの怒りは俺には理解できた。

 彼らは、というよりここにいるほとんどの生徒は、遅かれ早かれ神罰で戦うことになる生徒たちだろう。将来、命のやりとりをしなければいけない立場の子どもたちなのだ。

 そんな生徒たちから、今みたいなヤジが出ること自体が問題なのだ。

 太刀山もそれをわかっているから不満げな表情をしているのだろう。

 子どもたちは、もっとがむしゃらに真剣に、稽古に取り組む必要があるのだ。今みたいな雰囲気が道場に広まっていることは、これから先神罰で生きていくためには絶対に払拭せねばならない。

「こいつは昔俺が教えた弟子だ。そして、現在美榊第一高校に通っている。その意味はわかるだろう」

 周囲の生徒たちの目が一瞬で変わった。

 親御さんたちがいるから明言こそしないが、現在神罰で戦っている生徒と言いたいのだろう。

 その中で、腫れ物でも見るような視線が混じっている。おそらくは俺が神罰を止めようとしている生徒であることを知っているのだろう。

 一斉に周囲から、負けろ負けろと怨嗟にも似た視線が送られてくる。

 お前なんか余所者が。お前が来たから怒られた。早く負けろ。そんな視線が投げられる。

 しかし、無表情であるがおじさんがますます不機嫌になっているのに気付いてほしい。

 こうしたたるんだ雰囲気は、一度広まってしまうと中々消えることはない。おじさんが悩むのもわかる。

 だがちょっと待ってほしい。

 これ、俺が無様に負けたら、おじさんの面目丸潰れではないだろうか。いやそれどころか信用失墜にもなりかねない。

 この椎名家の道場は、美榊島で最も歴史ある由緒正しい剣術道場なのだ。道場はこの島に数え切れないほどあるのだが、ここほどの人口を持っているところは他にはない。

 何か、ひどく重大なものを一瞬で背負わせられた気がする。

 おじさんは竹刀をゆっくりと上げてこちらに視線を投げた。

「凪、お前が島を出るとき、俺がなんと言ったか覚えているか?」

「……はい」

 島を出ることになった当日、俺はおじさんに最期の稽古を付けてもらった。

 そのときも手を抜いてもらっていたとはいえ、結構な回数竹刀でびしばしと叩かれた。

 午後から夕方まで、ずっと続いた。最期に一本だけでも取りたかったのだが、いよいよ一本も取れずにおじさんと別れることになった。

 終えたとき、おじさんは言った。

 次にお前と立ち合うときは、お互い本気、手加減なし。だから、それまで強くなっておけ、と。

 俺は島を出てから父さんに剣術を習った。その父さんも、おじさんと同じ流派の剣術かであり、つまりは俺もこの道場の流れを汲んだ剣術を使っているのだ

「その成果、しかと見せてもらおうか」

 おじさんはニヤリと笑った。

 そして、構える。

「はい」

 倣い、俺も構えた。

 お互いの構えが、鏡写しのように似ている。

 ここまで来て、引くことはできない。

 少なくとも、おじさんは喜んでくれているとわかったのだ。俺と、また会えたことを。 その心が、俺の心を暖かくしてくれた。

 会ってわかった。

 おじさんとおばさんに会うのは本当に怖かった。それでもやはり、会えてよかったと心から思える。

 話したいことはたくさんある。

 謝りたいことがたくさんある。

 でもそれも、全てこれが終わってからだ。

 右手に、心葉とおばさんが立っている。

 心葉は胸の前で両手を組んで、祈るように俺たち二人を見ている。

 おばさんは、心から嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 見てもらおう。

 俺がこれまで生きてきたものを。

 太刀山が、俺たちが構えたのを確認すると、手を上げた。

 そして、振り下ろされる。

「始めッ!」

 一瞬にして、おじさんの姿が揺らいだ。

 振り下ろされる高速の剣戟。

 それがすぐ目の前に迫っていた。

 そんなものは驚くに値しない。

 それがおじさんや俺が扱う剣術の真骨頂だからだ。

 この島で俺が行った対人戦では基本的に受け身を主体としていたが、実は俺が扱っている剣術は超攻撃型の剣術なのだ。

 考えてみれば当然だが、この剣術は神罰において妖魔と戦うための技術である。妖魔との戦いに最も必要なのは、速さ。

 あんな化け物に力で敵うはずもない。だから、この剣術の最たるものは、その速度にあるのだ。

 おじさんの一振りはまさにそれを体現している。

 俺は自らの竹刀でおじさんの剣戟を受け流しながら体を翻し、その回転を利用して竹刀を真横に振り抜く。

 身を低くして躱したおじさんは、振り終わった竹刀を切り上げてくる。

 すかさず体によせた竹刀で防ぐが、ほぼ同時に頭を狙った蹴りが飛んできた。

 竹刀から離した片手で蹴りを打ち上げおじさんのバランスを崩すと、がら空きの胴に竹刀を突き出した。

 おじさんは体を仰け反らせて突きを躱すと、片手で竹刀を首を狙って振り抜いた。

 こちらはバックステップで避けると、一旦おじさんから距離を取る。

 バランスを崩していたにも関わらず、おじさんは綺麗にその場で体勢を立て直していた。

「やるようになったじゃないか。あのはなたれ小僧が」

 おじさんは嬉しそうに呟いた。

「まだまだ、おじさんに及びそうもありませんけど」

 高ぶる気持ちを抑えながら、竹刀をきつく握りしめる。

 今度はこちらの番だ。

 竹刀を低く構え、一直線に突進する。

 電光石火からの切り上げで脇腹を狙う。

 切っ先を正確に見極めたおじさんは、紙一重で攻撃を躱すとその隙を突いて竹刀を振り下ろしてきた。

 だがそれが決まるより早く一歩踏み込み、切り上げた竹刀を振り下ろしておじさんの竹刀へとぶつける。

 避けたものだと思っていた竹刀からの攻撃に、おじさんは目を丸くして体勢を崩した。

 竹刀から左手を離し、右手だけでおじさんの首元へと竹刀を突き出す。

 おじさんは横にずらして突きを躱すが、俺はさらにもう一打、左手での打突を放った。

 しかしそれは、竹刀で払われて躱されてしまった。

 叩かれた手首がじんじんと痛んだが、手を突いた勢いを利用して体を時計回りに回転させると、右手一本で竹刀を振り抜いた。

 おじさんはどうにか竹刀で防御をしていたが、勢いを殺し切れずに飛ばされて畳の上を転がった。

 綺麗に体を転がすと、おじさんは流れるように体勢を立て直して竹刀を構え直る。

「本当に、強くなった」

 おじさんは額に浮かんだ汗を拭って笑う。

 痛む左手を閉じたり開いたりしながら折れていないことを確認しながらも、込み上げてきた笑いを抑えることができなかった。

「それでも、やっぱりおじさんは強いです」

 そしてまた、おじさんとの剣戟の打ち合いが始まる。

 子どもの頃も、皆が帰った後に稽古を付けてもらっていた。

 何度も畳の上を転がされ、それでも立ち上がっておじさんへと向かっていた。

 痛かったし、辛かったし、きつかった。

 でも、それでも、その中に必ず楽しいものが存在していた。

 どうして今まで、気付かなかったんだろう。忘れていたんだろう。

 切なくも懐かしい思い出に突き動かされるように、俺は一心不乱に竹刀を振るった。

 そして、おじさんと三十分の間、竹刀をぶつけ合った。

 お互いに、距離を取り、荒くした息を吐き出す。仙術なしで行った激しい打ち合いに体が悲鳴を上げている。

 周囲から漏れていた不満の声や視線は、消えていた。

 息もつかない攻防に、誰もが見入っている。

 三十分という長い間、その光景に釘付けになっている。

 それも、もう終わりだ。

 お互い弾かれたように畳を蹴る。

 おじさんは袈裟斬りに竹刀を振り、俺は畳すれすれから竹刀を切り上げる。

 二本の竹刀が高速で激突し、

 そして、双方が砕けた。

 折れたと同時に俺は竹刀を手放し、おじさんの顎目掛けて拳を突き出した。

 命中する直前で、ピタリと拳を止める。おじさんの顎を打ち抜くギリギリのところで拳は止まっている。

 視線を下に落とす。

 俺の鳩尾にも、おじさんの拳が添えられていた。

「――そこまで!」

 我に返ったように太刀山が終了の声を上げた。


 それからさらに三十分後、俺はおじさんと二人きりになった道場で、正座をして向かい合っていた。

 子どもや親御さんたちは皆帰った。

 皆、凄いものを見たように気持ちと心を弾ませて、嬉しそうに帰ってい行った。

 おばさんと心葉も、おじさんが外してくれと言ったので、母屋へと行っている。

「腕を上げたな。凪」

「いえ、まだまだです」

 おじさんは楽しそうに笑った後、言った。

「だが俺に対して手を抜くとはいい度胸だ。そこに直れ」

「えっ!? そんなことはありません! 全力でした!」

 弁解する俺の顔を覗き込んで、豪快に笑った。

「がははは! お前は考えていることが目に現れやすいのだ。立ち会い中も、ずっと何かを考えながら竹刀を振るっていた。大方、俺がここで負けてしまっては門下生たちが俺がなめられると思って、あえて手を抜き、拮抗した立ち会いを演じてみせたのだろう? かつての師匠相手に舐めたことをする」

 そんなにわかりやすいのだろうか俺は。

 そこまで言われては否定することもできずに、唇を噛んで黙ってしまった。

 これまで自分たちを教えてくれていた先生がどれほどの力を持っているのか。

 現役で神罰を戦っている一生徒がどれだけの力を持っているのか。

 わかっていない子どもたちがほとんどだっただろう。

 そんな子どもたちの目を覚まさせるために、おじさんはこの立ち会いを行った。

 俺との約束もあるだろうが、それだけならわざわざ衆人環視の中でやる必要はなかったのだ。

 おじさんの考えを潰さないためには、それなりの拮抗した状態が必要だった。

「……真剣勝負に手を抜いて、申し訳ありません」

 頭を下げる俺に、おじさんは言う。

「別に怒っちゃいねぇ。俺としては、お前がそこまで力を付けてくれていて嬉しく思っている。今度やったら許さんけどな」

 ……最後の言葉には本気の怒気が見え隠れしていた。

 やっぱり怒っているんじゃないっすか。なにげに大人げない。

 顔を上げずに内心呟く。

 気持ちを落ち着かせながら、体を起こす。

「本当に、長い間謝罪にも伺わず、申し訳ありませんでした」

 姿勢を正し、再度頭を下げる。

 おじさんは、小さくため息を吐いた。

「お前が謝ることは、何もない。お前の苦しみに気付いてやれなかった俺たちがバカだったんだ。勇のやつにも、お前を預かっておきながら、すまなかったと思っている」

 頭を上げないまま、唇を噛んだ。

「おじさんたちは、何も悪くありません。俺が、恩知らずだっただけです」

 目が熱くなった。

 自分の愚かさを痛感する。

 俺は、この島にいるとき、自らの命を絶とうとした。

 寂しさからくる逃避で、だ。

 そしてあの日、居候させてくれていた家に、おじさんとおばさん宛に手紙を書いたんだ。

 今だからわかる。

 俺が書いた手紙、俺がやろうとしていたことは、おじさんやおばさんを侮辱したものだった。

 あなたたちでは、寂しさを、孤独を埋めることなどできなかった。だから、死んでお母さんに会う。

 俺が二人に言ってしまったのは、つまるところはそういうことなのだ。

 父さんは、おじさんの後輩に当たる。そして、先代の師範代からともに剣術を習った兄弟弟子になるのだ。

 そのツテで、父さんが本土に一人で行た際に、生活の基盤を作るまでの間に俺を預かってもらっていたのだ。

 俺がこの島を出るまでの数年間、父さんよりもずっと多くの時間を過ごしたのはこの家だ。

 そんな二人の恩人に、俺は最低なことをしてしまった。

 会えば謝らなければいけない。どんな誹りを受けても当然だった。

 突然、おじさんが俺の頭にげんこつを振り下ろした。

「いてっ」

 怒りのげんこつではなく、子どもをあやすような、そんな優しい拳だった。

「男が何度も謝るな。ガキがそんな昔のことをうじうじ気にしてんじゃねぇよ。ガキの頃は何でも経験だ。そんな悪いことをしたと思ってんなら、今俺たちに恥を掻かせるんじゃねぇよ」

 あれから、十年経っている。

 それだけの時間が経っても、所詮俺は子どもだった。

 見えないように瞼を何度も閉じ、溢れ出しそうになったものを引っ込ませる。

「すいません」

「だから謝るなと言ってるだろう。ぶっ飛ばすぞ」

 おじさんの言葉は本気だった。

「す――」

 もう一度出そうになった謝罪を飲み込む。

 言うべき言葉はそれではない。

「はい。ありがとうございます」

 おじさんは足を崩してその場であぐらを掻いた。

 お前も楽にしろと言われ、同じようにあぐらを掻く。

「さて、こっからは今の話だ。お前、かなり話題になってんぞ」

「ああ……はい」

 そりゃあおじさんの耳に入らない方がおかしい。

 この島で武術が秀でているということはそれだけ力があり、発言力もあるということだ。歴史も古く、相応の地位にいるのだ。

「ここ最近、悠花は体調を崩しがちでな。大事な一人娘が紋章に選ばれてしまったんだから当然と言えば当然だが。明るく振る舞っているがいるが、それも全部心葉のため。自分がしっかりしないとと思ってるんだ。だから、あいつの前ではあまり、そういうことを言うのは止めてくれよ」

「……はい、わかっています」

 おじさんはやや疲れたような笑みを浮かべた。俺が見たこともない、辛そうな表情だった。

「こうなることが嫌で、あのバカには目立つ行動を控えろと言っていたんだがな。そしたらあいつ、そんな卑怯なことして他の誰かが選ばれたら嫌って。そんなこと言ったんだぜ。本当は怖くてしょうがなかったくせに。バカなやつなんだよ」

「それも、知ってます」

 あいつは、別段強いやつではない。どこにでもいる普通の女の子だ。

 俺たちの前で初めて内心を吐露したときのあいつの悲痛な叫びは忘れられない。

 ただ真っすぐだっただけなんだ。自分の考えに愚直なまでに真っすぐだった。

 その結果、あいつが紋章所持者に選ばれるのは仕方のないことだったのかもしれない。

「お前、あいつと付き合っているっていうのは本当か?」

 鬼のように、いや鬼より圧倒的に怖い男の一人娘。

 目に入れても痛くないほど可愛がっていた風景は十年も前なのにはっきりと思い出せる。

 対してこちらはおそらく神罰が始まって以来一番の異端児だ。昔は居候をさせてもらっていた身だが、長い間それもなければ繋がりも希薄になっている。

 そんな男と大事な一人娘が……という意味の問いではなかったようだ。

 おじさんは、純粋に気になっているようだった。

「……はい、本当です」

 彼女の父親に挨拶をした図になっていたが、どちらもそんな気分ではなかった。

「変わり者だな」

 自分の娘に対してずいぶんな物言いだが、おじさんが言っていることは当然そういうことではない。

「可能性は高かったんだ」

「はい?」

「あいつが、選ばれる確率だ」

「……その学年で、一番術に長けた生徒に与えられると聞いています。心葉なら明らかだったでしょうね」

「そうだ。しかし、術に一番長けているからと言って、絶対というわけではない。戦闘技術が長けていた者であったり、神力保有力が多い者、その他様々な推測があるが、どれも推測の域を出ない。今年可能性があったのは、心葉、玲次と七海、それから白鳥家の令嬢、他数名、ある程度の推測は毎年できるんだ。お前も、この島でずっと育っていたなら、間違いなく候補に入っていただろう」

 その言葉を聞いて、歯がゆく思った。

 少し躊躇ったような間の後、おじさんは言った。

「お前の母親、姫川陽もそうだった」

「母さん、ですか?」

 興味が湧いて聞き返す。

 おじさんはやはり母さんの話をするかどうか迷っているようであった。

 俺が過去、母さんのことで自殺までしようとしていたこともあり、正しいかどうか決めあぐねているのだろう。

「構いませんよ。むしろ、教えてください」

 笑いながら俺は言った。

 おじさんは少し意外そうに眉を歪めた後、またため息を落とした。

「この島の巫女であり霊媒師であり、あらゆる術をいとも簡単に扱う才能を持っていた。その年は、陽と勇が抜きん出た力を持っていた。隠すことさえできないほどのな。どちらが一方が紋章所持者になるのは目に見えていたんだ。あいつら二人はお互いを誰よりも求めていた。許嫁や恋人などでは言い表せないぐらい、あいつらは二人で一つだったんだ」

 父さんから聞くことが憚られた過去が語られる。

 不思議だった。話に聞いているだけだというのに、父さんと母さんの姿を簡単に思い浮かべることができた。

「あいつらが突出した力を持っていた理由はおそらく、相手を紋章所持者にさせないために力を付けようとしたからだ。だからあいつらは他の誰も触れられないほど高みまで上り詰めたんだ」

 その気持ちは、痛いほど理解できた、

 おじさんになんと言われようと、俺がこの島にずっといることができたのなら、俺は心葉や玲次たちを紋章所持者にしないために、死にものぐるいで強くなろうとしただろう。

 神罰において、誰かを確実に守る方法は、誰よりも強くなり紋章所持者になり、自らが紋章を使うと言うことが最も確実なのだ。無論、そこまでの覚悟を持ち合わせていたらの話ではあるが。

「おじさんは、俺が神罰を終わらせようとしていることをどう思いますか?」

「止められるものなら、止めてほしいに決まっているだろう。それが正しいか間違っているかは、また別の話だ」

 おじさんは閑散とした道場を見渡した。

「俺がこの道場を任させられるようになって、もう十五年だ。俺が卒業して間もなく、親父は怪我で教えられなくなったからな。ここに様々なやつらが来る。力がほしい者。誰かを守りたい者。ただ連れてこられた者。思いや希望はそれぞれが違う。心の奥底に持っている共通の意識は、神罰で死にたくない、死なせたくない。それだけだ。十五年の間に多くの弟子たちと出会い、多くの弟子たちと別れた。神罰によって、命を落としてな。俺がこの道場でしてやれることはせめて、神罰によって死ぬ確率を少しでも減らしてやれることだけだ。それが、俺がここにいる意味だ」

 だがな、とおじさんは拳を畳へと叩き付けた。どすんと道場全体が揺れた。

「俺がここにいるだけでは、絶対に救えないやつがいる。毎年毎年、必ず一人。美榊一実力がある道場なんて言われているが、それだけではどうにもならないやつがいる。そして、あのバカもその一人になった」

 溢れ出す感情と歯がゆさを押さえるように拳を畳に押し当てる。

「俺の力では、あいつを助けることができない。俺は、勇のやつを見ちまってる。神罰の歴史の中でも、あいつほど神罰に抗い、誰かを助けようともがいた人間は他にいない。あれだけのことをしても助けられなかったあいつ以上のことを俺ができるとは、とても思えない」

 その言葉には、どうにもならない現実を受け入れる諦めがあった。

 俺は、父さんがどれほどのことをしてきたのかは知らない。これまでの紋章所持者が辿った末路や、それを取り巻く生徒たちの歩んだ過酷な現実を知らないからだ。

 おじさんにしろおばさんにしろ、心葉のことを助けたいと思っているのは当たり前だ。その上で、行動に起こさない、起こせないのは、この島に刻み込まれた神罰という楔がどれほど絶対的なものであるのかを理解しているからだ。

 俺はおそらくこの島で育ったとしても、父さんのように心葉を助けようと死にものぐるいで戦ったに違いない。

 だがそれは、そんな状態になっても現実に抵抗反抗する俺たちが異常なのだ。

 他の誰とも違う、神に抗う異常者。

 しかし、忌み嫌われ迫害される異常者であっても、俺は本当によかったと思う。それで、あいつを救えるのであればなんと言われようが知ったことではない。

 そして、俺が異常者であって喜べることが、もう一つある。俺には、俺にはもう一つだけ……。

 おじさんは畳から拳を離すと、日本刀のように研ぎ澄まされた視線を俺に向けた。

 目の前に切っ先を突き付けられたかのような威圧感が放たれるが、俺は目を逸らさず見返した。

「俺はお前を知っている。生まれたときからガキになるまでの間、お前を見てきて、お前を知っている」

 だから、とおじさんは続ける。

「お前が現段階において、心葉を助けられる可能性がある手段を持っていることを、俺は知っている。そして――」

 研ぎ澄まされた視線が、憂いとともに吐き出された。


「その手段を取ることで、お前が確実に死亡することも、俺は知っている」


 冷たい空気が道場に流れ込み、二人だけの道場を包み込んだ。

 静寂が支配する。

 否定しない俺に、おじさんは拳を固めて向けた。

 拳に、稲妻のような光が走る。

 見間違うことのない神力の光だ。

 おじさんの歳でまだまともに神力を扱えるというのは驚異的なことなのだが、そんなことはおくびにも出さずに、おじさんは言った。

「もしそんな手段を取ると言ってみろ。今俺がこの場で、お前を殺す」

 本気で放たれた殺気に、背筋に大量の汗を掻き、震え上がりそうになったがおじさんからは目を逸らさない。

「そんな方法であいつが助かったとしても、あいつはお前という苦しみを背負ってこの先の人生を生きなければいけない。そんな地獄を見るなら、あいつにはあいつの運命を全うさせた方がいい」

 俺は小さく笑い、言った。

「勘違いしないでください。俺は自分を犠牲にして心葉を助けようなんて思っていません」

 眉をひそめ、口を曲げられたが、それでも続ける。

「確かに俺の第一目的は心葉を救うこと。でもそれは、心葉の命だけを救うという意味ではありません。心葉を、神罰というくそったれのしがらみ全てから救うことです」

 どれほど酷な道を進もうとしているかは理解している。これまでの数十年、誰も歩むことができず、触れることもできなかったその先に進もうとしているのだ。

 でも、でもそれでも。

「俺は、ハッピーエンドが好きなんです。これが一つの物語なら、俺は、全てを救いたい。もう死んで、助けられなかったやつもたくさんにいます。俺と同じ思いを持っていたやつもいました。でもそれでも、俺は最期まで諦めません。あいつが思える最高のハッピーエンドを作ること。そのためなら、俺はどんなことだってやってみせる」

 おじさんは、苦しそうに瞳を揺らし、拳をほどいて下へと降ろした。

「ただ、わかってください」

 ずっと前から宿っていた決意。考えるまでもなく、その答えは俺の中に出ていた。

「決して俺は死にたいわけではありません。神罰なんてなかった道が、未来が、それがどれほど望んでも届かない尊いものであるか、そんなこと考えると、悲しみに押し潰されそうになります」

 悲壮感、嫌悪感、孤独感、虚無感、寂寥感。

 そんな感情が溢れ、この島から逃げ出してしまった方が楽になれるのではないかと考えたこともある。

 しかし、絶望の後に必ず思い出してしまうのだ。

 あの日、俺に生きる希望をくれた、心葉との関わりを。

 でも、だからこそ決めている。

「俺たちが卒業するまでに心葉を助けられなかった場合は、俺は最後の手段を取ります。たとえこの場でおじさんに殺されることになったとしても、絶対に心葉を助けてみせます。あいつが生きていない限り、ハッピーエンドにはならない。ハッピーエンドにしたいのは、俺の人生ではありません。俺はあいつの人生を必ずハッピーエンドで終わらせてみせる。これは俺にしかできない、たった一つできる心葉への恩返しなんです」

 心葉にとってそれが救いかどうかはわからない。

 でも、生きてさえいれば、ハッピーエンドになる可能性は消えない。

 しかし、俺基準に見れば最後の手段を使うことはハッピーエンドではない。言うならばグッドエンドか。悪くはないが、幸せなエンディングではないと言うところ。

 俺も、できることならハッピーエンドがいいんだけどな。

 その可能性は低いだろう。

「……変わらねぇな。本当にあいつらそっくりだ。胸くそ悪い」

 罵るように吐き捨てるが、おじさんはどこか懐かしそうに笑っていた。

 呆れるように肩をすくめながら、両手を畳について天井を仰ぐ。

「バカに何を言っても変わらない。そんなものはとっくの昔に学んだと思っていたんだがな。変わらないのは俺も同じ、バカは俺も同じ」

 自嘲気味に笑いを向ける。

 その笑いは、目の前にいる俺ではなく、いつかの誰かに向けられたもののように感じられた。

 おじさんの表情から、ふっと笑みが消えた。

「凪、俺は、運命は変えられないと思っている。変えられないから運命、予め定まっていることが運命だからだ。それなのに、お前は神罰を止められると思うのか?」

「思っています」

 俺は即答する。

「俺は、神罰や、この俺たちの物語が運命だとは思いません。思ったことは、一度としてありません」

 神罰や俺たちの物語だけではない。

「この世界に、運命なんてものは存在しない。存在するわけがないんです。もしあるなら、神は何のために世界を創り、見守っているのかということになります。神自身がわからないから、わかるわけなどないからこの世界は動く。俺たちが変えることで世界は創られている。相手が神であろうと悪魔であろうとなんだろうと、俺たちと神の間に絶対に隔壁など存在しない。貫き通す意志と相応の力さえあれば、変えられないことはありません」

「意志と力があっても、勇は陽を助けられなかった」

 今度は間髪入れずに返された。

 言って、おじさんは苦虫を噛む潰したように顔を歪める。

「確かにお前の言う通り、運命はないのかもしれない。でもな、変えられないものは、確かに存在する」

 言い切るおじさんの目には、憐れむような悲しい光が揺らいでいた。

「先ほど俺はお前に、心葉を救うことができるかもしれない方法を持ち、その手段を取ることによってお前が確実に死亡すると言った」

「はい」

 おじさんは憐れみに自己嫌悪を重ねるように言う。

「だがな、その手段を持ってしても、心葉を助けることはできない。不可能なんだ」

 一瞬、心臓が止まったかと思った。

 止まったのは思考だけだったのだが、回復すると同時に心臓が痛く軋み始めた。

 努めて悟られないようにしながら、平静を装う。

「なぜですか? おじさんがその前に俺を殺すからですか?」

 冗談を返してみるが、おじさんは反応すらせず、それどころか一層深みへと落ちた。

 それらを振り払うように立ち上がると、おじさんは俺に背を向けて母屋の方へと歩き出した。

「これから、お前は神罰の深淵を覗くことになるだろう。誰もが見ずに蓋をして生き死んでいくものを、自ら覗き込んで触れたとき、お前がまだ今と同じことを言っていられることを祈っている」

 期待を込めた言葉に聞こえるが、おじさんの声は諦めに満ちていた。

 おじさんが何を知って何を見てきたのかはわからない。

 それ以上語らないおじさんは、扉に手をかけて振り向いた。

 その表情は、かつて俺に居候させてくれていたときと変わらず優しげだった。

「夕飯でも食ってけ。悠花のやつ、今頃ノリノリで作っているぞ。積もる話もあるだろう。話してやってくれ」

 俺が断ることができない話題を持ち出し、おじさんは話を打ち切った。

 そしてそのまま道場から出て行ってしまった。

 一人になった道場に倒れる。

 腕を額に押し当て、気持ちを落ち着かせる。落ち着かせたいのだが、痛む心臓は収まってはくれなかった。

「大丈夫……」

 自らを落ち着かせるように口にする。

「間違ってない。大丈夫だ……」

 先ほどまでのやりとりを、俺の言葉を聞いているであろうが、天羽々斬は一言も言葉を発することはなかった。

 怖くて、俺も聞くことはできなかった。

 その日は椎名家で夕飯をごちそうになった。

 おじさんも神罰や紋章のことなどは話さず、それ以外のことで水を向けてきた。

 俺もそれに答え、おばさんの質問にも笑って答えた。

 心葉は笑っていたが、時折こちらに意味深な視線を向けていた。俺がそれに気付いて目を向けると、視線を逸らすかごまかすかしていた。

 俺の笑いが作り笑いであることに気付いていたのだ。本当に恐ろしいやつだ。

 心のねじが一本取れてしまったかのように、思考が鈍くなっていた。

 おばさんも俺と心葉が付き合っていることは知っているはずだが、そのことは上辺にも出さなかった。

 おじさん同様、心葉の今を大事にしているからこそのことだ。

 付き合っているからと言って、俺たちの未来に結婚をしたり子どもを作ったりという未来は存在しない。そんな間もなく、娘は死んでしまうと理解しているのだ。

 だから、頑なにその部分には触れることはなかった。

 おじさんの言ったことが頭をよぎり続け、気が付けば深夜を回るくらいまで話し尽くしていた。

 日が変わって今日は土曜日だから泊まっていけばとおばさんに勧められたが、さすがに断っておいた。

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