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シンバツピリオド.  作者: 楓馬知
25/43

24

 体が痛んだ。

 意識のない体を蹴り起こすようなその痛みは、どうやら頭から来ているもののようだった。

 目が重くて、とても開けられそうにない。

 混濁した思考が、ダイダラボッチとの死闘を思い出す。

 そうだ。

 俺はダイダラボッチを倒した後に、そのまま意識を失ったんだ。

 なぜか、ずいぶん昔のことのような感覚に陥った。

 全身が凍えるように冷たかった。本当は死んでいるのではないか。そんな考えすら頭をよぎる。

 このまま目が覚めないのかもしれない。そんな恐怖を感じた。

 不意に、左手がほんのりと温かくなった。

 冷え冷えとした体を芯から温めてくれるようなそれは、とても優しく心地良い、暖かい温もり。

 凍り付いたような瞼が、少し力を入れるだけでゆっくりと持ち上がった。

 開けた白い天井。右には僅かに開けられた窓から入ってくる風で揺れるカーテンがある。全体的に白を基調とした造りは、病室のそれだった。

 温もりを感じる左へと、視線をのろのろと動かすと、そこには俯く小柄な姿があった。

 意識を失う前に、俺を呼んでくれた。

 左手を両手で包み込むように握ってくれており、温もりの正体はそれだった。両手から少しずつ俺の体へ神力を流し込んでいた。

 その手をほとんど力の入らない手で握り返す。

 驚いたように顔を上げ、目を開けた俺と視線を合わせる。

 その目に、大粒の涙が浮かんだ。

「な、凪君……よかった……。生きてた……」

「当たり……前だろ」

 開いた口から出た声は乾燥しきっており、やっとの思いで言い切った。

 渇いた口を唾液で潤し、再度口を開く。

「あぁー、でもマジで死ぬかと思った……」

 実際、意識の最後は死んでもおかしくない状況だったと思う。

 右手を痛む頭にやる。額に包帯と、左頬にガーゼが貼られている。水色の病衣の袖から覗く左腕には包帯が巻かれており、少し膨らんでいる。どうやらギプスが取り付けられているようだ。

 俺はダイダラボッチの神罰が終わったとき、まだ上空にいた。自分ではダイダラボッチを倒した後に、完全に無事とは言えないが着地できるくらいのマージンを取っていたつもりだったが、最後の攻撃でその辺りが狂ってしまった。

 体が神罰前の状態に治るか治らないかで、俺はおそらく下に落ちたのだろう。あの高さから無防備に落ちたにも関わらずこの程度で済んでいるのは、落下した後にも少しは体が修復されたからだ。俺たちにもダイダラボッチのような再生能力がほしいもんだ。

 左手に、ぽつぽつと落ちるものがあった。

 心葉の頬を伝って落ちる滴は、止めどなく流れ出し俺の手を濡らしていく。

「……ごめん、私が紋章を使えば……誰も傷つかずに済むのに……。凪君が、こんな目に遭わずに済むのに……っ」

 泣きじゃくる心葉は、顔を涙でぐちゃぐちゃに濡らしていた。

 蒼白の頬には、乾いた涙の跡がいくつもついていて、たぶん俺の意識がなかった間にも、一人で泣いていたのだ。

「さっきと言っていることがずいぶん違うじゃないか。あんなに人に罵声を浴びせておいて」

「……さっきなんかじゃないんだよっ」

 溜め込んだ感情を吐き出すように、心葉は言う。

「凪君は、十日眠ってたんだよ! もうちょっとで死ぬところだった。全部私のせいだ!」

 静かな病室に、心葉の叫びが響く。

 十日か。そんなに長い間休んでたのか。

 通りで体のあちこちに違和感があるわけだ。

 しかし、死ぬ一歩手前まで行ったにも関わらず、まだ生きている。

 無駄に悪運だけは強いんだな俺。

「凪君が死んだら、私も死ぬつもりだった……。ううん、今ここで紋章を使えば……」

 両手で紋章のある胸を押さえ、歯をきつく食いしばる。

 そんな心葉の頭を、ギプスで固定されてた腕でコツッと叩いた。鈍い痛みが走ったが、心葉には気付かれないように小さく笑ってごまかす。

「バカなこと言ってんじゃない。お前が死んだら俺がやっていることが全部無駄になるだろ。今死んでも何にもならない。最後まで足掻けよ。お前だって、俺にそう言っただろ」

 初めから俺がしていることなど、神からすればただの悪あがきでしかないだろう。

「神様に見せてやるんだよ。人間がどこまでやれるのかってことを。ここで止めたらそれは負けを認めて逃げるのと同じだよ。俺はたとえこの先、手をもがれようが足をもがれようが挑んでやる。もう二度と、弱音を吐いたり諦めたりしない。お前を助けるためになら、どんなことだってしてやる」

 これは俺のエゴ。

 誰かに認められるとか、評価されたいがためにやっていることではない。

 俺は俺のためにやっている。

 でも、そんなエゴでも、それは間違ったことではないはずだ。

「お前を助ける。今の俺の生きる意味は、それしかないよ。だから俺の生きる意味を奪わないでくれ」

 心葉は口を結ぶと、夏物セーターの袖で目元を拭った。

 深く呼吸を繰り返し、両手を膝の上に置いた。

「……凪君」

 消え入るようなか細い声を吐き出す。

 前髪で目元が隠しているが、震えそうになる声を必死に押さえようとしている。

「どうして、凪君は、そこまでして私を助けようとしてくれるの?」

 答えにくい問いがやってきた。

「ずっと考えてたんだ。なんで凪君はそんなに私を助けようとしてくれるのか」

 心葉は顔を上げ、俺の顔を覗き込んだ。

「凪君は、わ、私のことが、す、す……」

 そこまで言って、顔を真っ赤にして俯いた。

 これまで何度も問われてきた。

 俺がなぜ心葉のためにそこまでするのか。

 神罰によって死亡する子どもや、失われた命のために行動をしているのではなく、あくまでも心葉を助けるために動くこと。

 それが俺の行動の大前提。

 心葉以外の命なんてどうでもいいなんて考えているわけではなく、単純に優先順位が明確に決まっているからなのだ。

 心葉の命は、俺の命よりも優先順位が高い。

 ただそれだけのこと。

 でも、俺は決めていた。

「俺は、お前に感謝してるんだ」

 もし心葉に、面と向かって聞かれたのであれば、そのときは全てを答えると。

 痛む体を無理矢理起こし、微かな吐息を漏らす。

「感謝って、私凪君に何もしてないよ。この島に帰ってきてから、ずっと一方的に助けられてばっかりだった」

「戻ってきてからのことじゃない。俺たちがまだ子どもの頃の話だ」

 きょとんとする心葉。

 泣きはらした顔で怪訝な表情になる。

「そんなこと……あった……?」

 思いつかないことが恥ずかしいのか、申し訳ないと感じたのか、曖昧な声を落とす。

 俺は途端におかしくなって笑った。

「安心しろよ。覚えてないんじゃない。元々知らないんだ。俺が勝手に死にそうになって、勝手に助けられた。ただ、それだけのこと」

 誰よりも大切な心葉に、知っていてもらいたいんだ。

 笑った痛む胸へと手を当てる。肋骨も折れるか罅が入るかしているのだろう。

 心葉はますますわからないというように眉を曲げた。

 その視線から逃れるように、カーテンの外へと目を向ける。

 どこの建物なのかはわからないが、窓の外には山々が広がっている。夏の強い日差しを受けた緑が生き生きと輝いている。

「俺は一日も忘れたことはないよ。あの日のことを」


  Θ  Θ  Θ


 俺には母親がいなかった。

 生まれたときから幼少の頃まで、そして今に至るまで、母親がどんな顔で、どんな声で、どんな性格だったのか、どんな人間であったのかを知らない。

 それが、当たり前だと思っていたのだ。

 物心が付いて、俺は周囲で母親がいないというのが俺だけだと知った。正確には思い込んだ。実際はそんなことはなかったのだろうが。

 若くに亡くなっている人はいただろうし、離婚などして体裁上ほとんど会わない親子もいたはずだ。

 だが、子どもの俺という小さな世界の中で、母親がいないというのは俺だけだった。

 父親はいるが、母親がいない。

 自分を支えている足が片方ない。生きているだけで、不安に陥った。周りと違うということがひどく心に揺らした。

 子どもの頃、俺も含めて周りの多くの子どもは、幼稚園や保育園に行くということがなかった。

 神罰という特異な環境下にあるからだったのだが、小学校に上がるまで、子どもたちは何かしらの武道を嗜んでいた。それが異常だということに気付いたのは、本土に引っ越してから数年経ってからだった。

 子どもの頃から始めたことは、この先生きていく上で役に立つことが多い。芸術家やスポーツ選手も、高校生などから初めて突然才能を開花させ一躍スターになる人間もいるが、多くは子どもの頃から努力を積んだ結果得ているものだ。

 神罰は高校三年生に必ずやってくる。神力を持たないものは当然参加することはないが、それがわかるのは小学生より前であったり中学に上がってからだったりとまちまちなのだ。

 だからこの島の親たちは、こぞって子どもたちを道場などに通わせ稽古をさせた。

 俺も似たようなものだったのだが、それは問題ではなかった。

 今思えば、俺はその頃から周りよりは武術の才能があったのだろう。教えられた剣術をすぐに自分のものにし、数歳上くらいまでの同じ道場に通う小学生たちには負けたことがなかった。

 誇らしげだった。俺には皆より秀でているものがある。母親がいなくたって、皆が持ってないものを持っているんだ。

 寂しさを押し隠すために、強がっていた。絶対に負けてなんかいないと。

 周囲の人間は、俺をもてはやしていた。単に剣術が秀でていたからという理由ではないだろう。

 俺の父親はなんと言っても、神罰から多くの生徒を救った英雄だったからだ。母親も、俺を産むという心に決めたことを達成すると、紋章を使用してその年の神罰を止めた。

 過去を見ても、ここまで完璧に神罰を終わらせた例はないだ。

 同様の期待を、二人の息子である俺に向けることは仕方がなかった。

 皆が俺を認めている。俺という存在が、皆の中で大きな割合を占めている。きっと、俺はこれから将来凄い人間になるんだ。

 周囲の期待を一身に受け、自信高々に思っていた。

 でも、俺をもてはやす大人たちの中で、俺が一番であるはずがない。

 彼らにも自分の子どもがおり、その子どもたちを迎えに来るために道場にやってきていたのだ。

 早めに迎えにやってきた大人たちは、子どもだてらに強い力を持つ俺を見て、期待や羨望の目を向けていた。

 しかし、道場が終わると全てそれらが自らの子どもを向く。

 それがおかしいわけではない。むしろ自分の子どもが一番気掛かりであって当然なのだ。

 ただ、俺は母親がいなく、父親も島にいないという空虚を、周りの人の目で埋めていた。

 傲慢になっていたわけではないが、俺はただ誰かに認められてもらいたかったのだ。

 周囲の目が自分に行く。だがすぐに俺を離れ自分の子どもへと向く。

 空虚を偽りで埋めていたことも相まって、俺の心は一層空虚になった。

 いつも一緒に道場にいた、心葉、玲次、七海にも当たり前に親がおり、その親の愛情を一身に受けて育っていた。

 だが俺には、そんな人は近くにいなかった。

 父さんのことを恨んでいるわけではない。仕方がないことだったということは理解しているし、それを責めるのがどれほどお門違いで愚かなことかは理解している。

 でも、空虚な時間は辛かった。

 一人、また一人と、愛情を向けられて子どもたちは自らの親と一緒に道場から帰って行く。

 そんな光景を、毎日毎日、何年も見続けた。

 心がすさみ、いつも靄がかかったようだった。

 周囲には悟られていなかった。

 この頃既に、俺は心中を押し隠し、偽ることを覚えていた。むしろ当時あったことが、変に達観した価値観を持つことに起因しているのだと思う。

 小学校に上がっても、それは続いた。

 学校が終わると道場に入り、また竹刀を振るう。無我夢中だった。

 心葉たちと一緒に遊ぶのは楽しかった。山々をかけずり周り、川に全員で飛び込んだ。総一兄ちゃんは、いつもそんな俺たちを見ていてくれた。

 楽しかった。それに偽りはない。

 でも時々、現実に引き戻されたときに思うのだ。

 この中で俺だけ、やっぱり母親がいない。父親も、いてもいなくても変わらない。

 誰も俺を見ていてはくれない。

 皆と俺は、やっぱり違うのだと。

 空っぽの心がボロボロと削れ、形をなくしていく。

 人形のような毎日だった。

 そんなある日、言われた。

 また今日も、道場に来ていた子どもたちが、迎えに来た親と一緒に帰って行った。

 見て見ぬ振りをしながら、何度も竹刀を振るう。雑念を切り捨てるように、ただ一心に竹刀へと意識を宿す。

 心葉たちがいなくなってからも、ただただ続けていた。

 しかし、誰もいなくなり一人になっていたはずの道場に、見慣れない人が立っていたのだ。スーツに身を固めた、かなり高齢のおじいさんだった。

 迎えに来る子どもも、尋ねてくる家主もこの場にはいないので、一体何の用かと竹刀を振る手を止めた。

 白髪の多い頭に手をやりながら、柔らかな笑みを浮かべる老人。どことなく怪しげな印象を受けた。

「やぁ……あまりに熱心に稽古に望んでいるでね。つい見入ってしまったよ」

「そう」

 さして興味もなく、素っ気なく答えてまた竹刀に視線を戻す。

 相手はこちらに興味を持っていたようだが、俺はまったくなかった。

 再び竹刀を振り上げる。

「君、お母さんがいないそうだね」

 だが、老人が放った一言に、体中に釘を打たれたような痛みが走った。

 竹刀を上げたまま体を動かすことができず、のろのろと老人へと視線を動かした。

 母親がいないことなんて、生まれたときからずっとわかっていたことだ。物心付くより前から、俺はきっと理解していた。

 でも、面と向かってはっきりとその現実を突き付けられたことはない。

 老人は皺だらけの顔をくしゃくしゃにしながら笑った。

「いやいや、悲しそうな顔をすることはない」

 そんな顔をしたつもりはなかったのだが、老人の目にはそう映ったらしい。

「君のお母さんはね、神様になっているんだよ」

「神様……?」

「そう、神様だよ」

 老人は優しげに微笑む。

「この島で死んでしまった人は、この世界を創った神様たちと同じ世界に行くんだ。そちらの世界でね、楽しくやってるんだよ」

 自分の母親が、この島において神聖視されていたことは知っていた。父親もそうだ。

 神罰を奇跡的な終わらせ方した二人の存在は、もはや神と同列にまで扱われていた。

「そっか。そうなんだ。なら、お母さんは寂しくないね」

 神罰のことこそ知らなかったが、この島でこれまで死んできた人が一緒なら、母さんも寂しくはない。母親がどんな存在かわからなくても、母親が寂しくはないというのはとても安心できたのだ。

 老人はなぜか困ったような顔をした。

「そうだね。でも、きっとお母さんは君がそんな風に落ち込んでいるのを嬉しくは思わないと思うよ。だから、楽しそうに笑いなさい」

 自分がどんな表情をしていたのかはわからないが、辛そうに見えていたのは間違いないだろう。周囲の大人たちからも、きっと同じように映っていたはずだ。

「今の僕は、笑えてますか?」

 子どもながらに、一生懸命に笑顔を取り繕う。

 おそらく俺は、このとき初めて作り笑いというものを身に付けたのだ。

 老人は満足そうに頷くと、俺の頭の上にポンと手を乗せた。

「うん、しっかり笑えているよ」

 老人は少し時間を気にした風に時計に目をやり、こちらに背を向けて歩き出した。しかし、すぐに立ち止まった。

 そのまま背を向けて、言ったんだ。

「君がいくら笑ったところで、君のお母さんはわからない。でも、君がお母さんと同じところで笑みを見せることができたのなら、きっとお母さんはとても喜ぶだろう」

 言っていることの意味がわからずに閉口していると、老人はにっこりと笑い振り返りながら言った。

「君がお母さんに会いたいと心から願うなら、お母さんと同じように神様になることだよ。そうすれば、きっとお母さんに会える」

 そんな言葉を残して、その老人は去って行った。

 老人はきっと、寂しそうに見える俺を心配していったのだろう。

 いつか自分も死んだとき、母さんに笑顔を見せてあげなさいと。

 でも、その言葉が、俺の中で何かを動かしたんだ。

 簡単なことじゃないか。いつかじゃない、今でいいと。

 自分が神様になれば、母さんと同じ世界に行ける。

 これまで会ったことがない母さんに会えるのだと。

 ただ、死んで神様にさえなれば。

 その日の内に、すぐに考えたことを実行に移した。

 深く悩みも、考えも、困りもしなかった。

 会えなかった母さんに会う方法が見つかった。そのあまりに嬉しい出来事が、心を躍らせていた。

 ちょうどその日は、近所で会合があったらしく、居候をしていた家の人たちはいなかった。

 一緒に暮らしていた子さえ、どこかに行っていていなかった。

 お世話になっていた家に手紙を書いた。

 まだ死生観が正しくなかった俺は、ちょっとお母さんに会ってきます。すぐに戻ってきますので心配しないでくださいみたいな文章を書いた覚えがある。

 ちょっと考えればわかることだったのに、そんな時間すら惜しく、ただ母さんに会うためだけに動いた。

 着替えることももどかしく、家を飛び出して走った。

 これから自分が死ぬ。それを考えたときに、真っ先思いついた場所があったのだ。

 それが、あの崖に立つ一本杉がある丘なんだ。

 夏の暑い日で、夕方になっていたと言っても本土からずっと南に位置している島であったので、走っただけでだらだらと汗をかいた。

 小高い丘からは、ちょうど真っ赤な夕日が海に沈んでいくところだった。全ての世界が赤い染まり、それが俺がこれからすることを肯定しているようで嬉しくもあった。

 この場所は、父さんと母さんにとっての思い出の場所だと、父さんが数ヶ月前に帰っていたときに言っていたのだ。

 この場所から、母さんがいつもお前を見守っていると。

 このとき、母さんはずっと近くにいてくれると言ってくれたのだが、父さんには申し訳ないが、踏み切る一つの要因になったことは否定できない。

 母さんが近くにいるのだから、ここで死ねば、すぐ近くにいる母さんに会えるのだと。

 今にして思えば、俺はこのときかなりおかしくなっていたのだ。

 自分と周囲の違い。母さんにただ会いたいという強い思い。特殊な境遇が重なり合い、俺は普通の思考を持てなくなっていた。

 すぐに行くから、待っててください、母さん。

 そんなことを木に向かって呼びかけ、俺は崖の前へと立った。

 手紙に書いた通り、ここから飛び降りても、また帰ってこられる。そんなことさえ思っていた。

 あと一歩で落ちて死ぬ。

 そこまで来ても、特に迷った覚えはない。

 しかし、いざ飛び降りようとしたときに、突然そいつは現れたんだ。

「きゃあっ!」

 可愛い悲鳴とともに、どすんと落ちたきた。

 どこからともなく降ってきたそいつに驚いて目を見張った。

 なんでここにいたのかわからない。でも、俺はこれから母さんに会いに行こうとしていたところを邪魔されて、少しいらついたことを覚えている。

 何をしていたのかわからないが、着ていたシャツやスカートをボロボロにして、土だらけになったお尻を押さえながら、涙目になっていた。

「いったーい」

「……こんなところで何しているの?」

 水を差された気分だったが、突然現れた知り合いに声をかけないわけにもいかなかった。

 ビクリと肩を揺らしながら、少女はこちらへと視線を向けた。

「び、びっくりしたぁ。な、凪君こそ、ここで何してるの?」

 なんと答えていいのかわからなかった。

 尋ねられ、初めて自分のやろうとしていたことがおかしなことではなかったのかと感じたからだ。

「僕は別に……。そっちこそなんで木の上に上ったりしていたの?」

 自分のことをはぐらかすために再度質問をすると、目としばたかせながら少女は答えた。

「凪君のお父さんとお母さんの思い出の場所だったって言ってたでしょ? そしたら、悪い鳥さんが木の上で喧嘩をしてたから止めてたの。私もここによく来るんだよ」

 自慢げに胸を張るものの、泥だらけの顔で何を言っても真剣みにかける。

 思わず笑ってしまった。

 怪訝な顔をしている少女は、再度質問をしてきた。

「凪君は、ここで何しているの? そんなところに立ってたら、危ないよ?」

 危ない。言われて初めて思った。確かに、危ないことをしていると。

 同時に、一気に不安が襲ってきた。何か大変なことをしようとしていたのではないかと。

 だから、俺は少女に聞いてみたのだ。

 一本杉二人で背中を預けて、俺は自分と年が変わらない、でも自分よりは明らかにしっかりしているお姉さんのような少女に、俺がこれまで考えていたことを話してみた。

 少女は、おそらくお互いが生まれてから本当にずっと一緒にいた。十年にも満たない短い期間だったが、父さんよりもずっと長く、長く。

 ほとんど兄弟同然に育ったのだ。

 だから聞いてみた。自分とずっと同じ時間を生きていた少女に、今俺の頭が考えていることが正常であるのかどうか。

 母親がいないことで寂しかったこと。自分と周囲との違い。俺というわからない存在。

 それらについて、俺が子どもながらに感じていたことを、全て、話した。

 誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。でも、誰にも話すことなどできなかった。

 少女は時折相づちを打ちながら、俺が今まで抱えたものを聞いてくれた。

 なるほどねとか、確かにとか、そんな言葉ではあったが、それがとても嬉しくあった。

 そして、いざ俺がこれから死のうとしていたことを打ち明けようとすると、まだ十にもならない少女は言ったのだ。

「周りの人たちが凪君に向けている目は、私たちとは少し違うね。期待していると言うか、望んでいると言うか。お母さんがいないっていうが理由だけじゃないのかもね」

 子どものくせにいやに核心を突いた考えだった。

 やっぱり、俺は違うのだ。ここにいてはいけない人間なんだと、疎外感を覚えてしまった。

 心の中がかさかさになり、痛んだ。

 でもね、と少女は続けた。

「私は、そんな風に凪君を見たことは一度もない。玲次君や七海ちゃんだって、きっとそう。総一お兄ちゃんやお父さんやお母さんも、凪君のことそんな風に思ってない。どこにでもいる普通の男の子」

 俺は、言われたことを理解するのに時間がかかった。

 隣に座る少女の顔を覗き込む。

 夕日に照らし出された少女の顔は、にっこりと笑った。

「どこか頼りないけど、すっごく強くて、いつも他の人を気遣ってる。七海ちゃんの具合が悪いときや、玲次君が怪我したときとかもすぐに気付いて、私が疲れて動けなくなったときは、背負って家まで連れて帰ってくれた」

 そんなことも、確かにあったと思う。でも俺にはそんなこと当たり前で、それが特別なんて感じたことはなかった。

「誰にでもできることだよ」

「そんなことはないよ。私にはできないことだったし、凄いことだと思った。でもそれは、凪君が他と違うからできるんじゃない。誰にでもできることはある。でも、その人がその人だからできることも必ずある。ってお父さんが言ってた」

 少し恥ずかしそうに笑いながら少女は続ける。

「私たちは別に、私は、凪君に期待をしているんじゃないの。ただ、凪君と一緒にいることが楽しいから。一緒にいたいと思うから。それだけじゃダメ、かな?」

 そこで初めて、俺は慰められているのだとわかった。

 少女は、ずっと俺が抱えてきたものを聞いて、その上で、理解しようとしてくれていたのだ。

「凪君のお母さんはここにはいないけど、たぶんもう会えない。死んじゃった人には、もう会えない。会おうとするべきじゃない。って、これはお母さんが言ってた」

 また、今度は寂しそうに笑いながら、少女は続ける。

「死んじゃった人は、神様になる。うん、本当にそうだといいね。凪君のお母さんもきっと、神様になってる。だからね、神様になったお母さんに見てもらうために、凪君はもっと笑って生きなきゃ。今の凪君の顔は、笑えてない」

 少女の両手が顔に伸びてきて、頬を掴んでぐいぐいと伸ばす。

 ぱっと手を離されたとき、微かに痛かった頬に手をやって、俺は視線を落とした。

 お母さんには会える。そう反論したかった。しかしできなかった。

 少女を前に、そんな言葉は返せなかったんだ。

「これから、僕はどうすればいいの?」

 少女に聞いても仕方のない言葉が口から漏れた。

「だって、僕だけお母さんがいない。僕はこの島で、独りぼっちなんだよ・・・・・・」

 口にすると、ずっと耐えてきたものが、堪え切れなくなった。

 目にいっぱいの涙が浮かび、視界がぼやけて見えなくなる。膝を抱え、顔を埋めて声を殺して涙を流した。

 色々、わからなくなっていた。

 これまで物心が付いてからずっと抱えてきたものが、一度に弾けて溢れ出した。

 再び、少女の手が頬に触れた。先ほどのように掴むのではなく、そっと添えるように。

 そして、微かに力が加えられ、俺は泣きはらした顔を上げた。

 見られたくない泣き顔を隠そうと、彼女の両手に抵抗しようとしたが、少女の顔を見てそれができなくなった。

 少女も、泣きそうに見えたから。

「私がいるだけじゃダメかな? お母さんの代わりに一緒に、凪君の隣にいるだけじゃダメかな? それだけじゃ、凪君が笑うだけには、足りない? あっ、これは私の気持ち」

 必死に、慰めてくれようとしているのがわかった。

 少女の目には、俺はどう映っていたのかはわからない。

 もしかしたらただの弱虫なガキに見えたかもしれない、今にも消えそうな蝋燭のように見えていたのはわからない。

 しかし、俺を心配し、この場に繋ぎ止めようとしてくれていることだけはよくわかった。

「私は、ここのいるよ。凪君を一人残したりしない。凪君のお母さんのようにはいかないかもしれないけど、一緒にいるから。だから……泣かないで……」

 自分が泣きそうな声を出しながら、少女は言った。

 子どもが、近くにいる泣きっ子に釣られて泣き始めることがあるが、少女の涙がそれだったのか、俺に共感したからかはわからない。

 でも、自分のせいで泣きそうになっている女の子を見て、自分の姿を情けなく思ったのも事実だ。

 少女の言う通り、その頃から無駄に世話焼きだったと思う。

 俺と一緒にいてくれると、慰めるためだったとしても、その言葉は嬉しかった。

 少女の言葉一つ一つ、挙動一つ一つが、ささくれだって空虚だった俺の心を埋めてくれた。

 先ほどまでしようとしていたことが、ひどくみっともなく、情けないことだったと思い返すと、逆に笑えてしまった。

「はは、はははっ」

 まだ涙は目に浮かんでいたが、必死に笑いを続けて少女へと返した。

 少女もようやく、泣きそうな顔に笑みを浮かべた。先ほどまでの泣き顔が演技ではあったのではなかったのかと思わせるほど鮮やかに移行だった。

 少女は、俺の頭をそのまま自分の胸へとよせると、力の限りと抱きしめた。

「さあ、帰ろう」

 そのささやきは、母親にはなれないといった少女の、どこまで母親らしい一言だった。

 その後のことは今でもあやふや。

 俺たちが帰り始めた頃にはすっかり周りは暗くなっており、森を通って近所まで帰ってきたときには既に大騒ぎになっていた。

 どうやら会合から帰ってきた家主が俺が置いた手紙を見つけたらしく、街中総出で探していたらしい。

 普通に帰ってきた俺と少女を見て、家主は最初はひどく怒ったが、すぐに優しく迎え入れてくれた。

 俺の手紙で、かなり心配をさせてしまったようなのだ。

 そして、家に帰ったとき、先に家に入った少女が、俺に言った。

「おかえり。私たちの家へ」

 それから数日は、これまで過ごしてきた生活と変わらないものを送った。ただ、少女にはあんなことを言って言われてしまった手前、少々お互いに気まずくなってしまったが、今となってはそれも懐かしい。

 しかし間もなく島に帰ってきた俺は父さんに連れられ、島を出ることになった。

 俺の手紙のことを居候していた家から報告を受けたらしく、少々無理をして俺を連れ出すことにしたそうだ。

 そのとき、父さんはかなり俺に謝っていたことを覚えている。父さんも外で大変だったのだ。まったく伝のない本土で、生活するための基盤を作っていたから。

 しかし自殺までしようとしていた俺を島に、家族のいないところに残しておくのは危険だと判断し、急遽連れ出す形になってしまったらしい。

 そのせいで、島の友達や少女にはろくに挨拶もできぬまま、俺は島を出た。

 それから十年近く経ち、この島に帰ってきたわけだ。

 それまでの十年間、少女に言われたことがずっと頭の片隅に残っていた。いつもそれが心の支えとなっていた。

 楽しかったことも、悲しかったことも、嬉しかったことも、辛かったことも、それら全てが、少女が俺が言ってくれた言葉があったからだ。

 俺が生きていられること全てが、少女がいてくれたからなのだ。


  Θ  Θ  Θ


「その女の子って……私!?」

「それ以外に誰がいる。と言うか、一本杉のところで話したのも覚えてないのか?」

「いや、それは覚えてる。覚えてるけど……」

 心葉は頬に手を当てて顔を真っ赤にしていた。

「ていうかあのとき凪君、そんな危険な状態まで行ってたの!?」

「だからそう言ってんだろ。お前は俺の命の恩人なの。マジで死ぬつもりだったの」

 一気に恥ずかしさが込み上げてきて、やけっぱちのように言った。

 でも、あったことは全て事実だ。

 俺はあのとき、心葉が木から降ってこなければ、たぶん死んでいた。死ねば母さんに会えるなんてバカなことを本気で思っていた。

 そんなわけはない。そんなわけはないのに、そんな言葉を信じてしまうほど、心が消耗していたんだ。

「だって、私、ただ、ただ話聞いただけなのに……」

「それだけでよかった。それで十分だったんだよ。俺には」

 それがあったから、俺は今生きていられるんだ。

 熱のこもった額を冷ますように浮かんだ汗を手の甲で拭い、心葉に向き直った。

「俺はお前に命を救われた。確かに、そんなことって思われるかもしれない。けど俺にはそれが必要だったんだ。誰かに自分を認めてもらいたかった。俺は誰かに期待され望まれるだけの人間じゃない。俺がこの場にいてもいい。そう認めてくれる人がほしかったんだ」

 俺の存在は、両親が神聖視されているとこと、武術がただ他の人より秀でていたからというだけで、羨望と憧れ、期待を向けられていた。

 そんなものは犬にでも食わせてしまえばいい。

 そんな人たちの気持ちは、結局は自分たちに見返りを求めてのことだったから。当時はそこまでわかっていなかったが、向けられたものは将来の神罰のための剣として見られていただけだ。

 そんな目を向けられて、喜べるわけもなかったのだ。

 しかし、心葉はしっかりと俺という人間を見ていてくれた。

 空っぽだった心を埋めて、俺は母さんに逃避することなく生きることができたのだ。

 あの出来事がなければ今ほどではないが、俺の人生は常に色を失ったモノクロのようなものだったろう。

「俺は、お前がいなければあの日死んでいた。だから、お前がこの先、卒業までしか生きられないと知ったとき、俺は思った。俺は、あの日あのとき、このために生きたんだって。俺の力も技術も、これまで生きてきた思い出や人生全てが、お前を助けるための力なんだって。そのためなら、たとえ俺は自分が死んだって構わない。それが、命を救ってくれたお前に対する恩返しなんだ」

 俺を認めてくれた。俺に人生をくれた。

 俺に希望を、感情を、数え切れないものをくれた心葉に報いること。

 それが、俺が今生きている意味であり、心葉を助ける理由でもある。

 言ってしまえば、至極当然なこと。

「どうだ? 聞いてしょうもないことって思っただろ?」

 困惑している心葉に笑いかける。

「そ、そんなこと思わないよ。でも、なんて言うか、ちょっとわからなくって……」

 それはそうだろう。自分を助けるために動いていた人間の理由が、自分が覚えもないくらい昔のことで、さらにそのときの経緯すら初めて聞いたのだ。

 頭の中は混乱しているに違いない。

「そんな子どものときの話で、そこまでしてくれてるの?」

「それだけじゃ、ダメか?」

 逆に聞き返す。

 面を食らったように唸り、俯きながらぼそぼそと口ごもる。

「ダメ、ではないけど、なんて言うか、それだけの理由で私に命をかけてくれるのが申し訳ないよ。私のおかげで凪君が生きられたっていうのなら、凪君にはもっと自分を大事にしてほしい。神罰を止めるなんて、そこまで、してくれなくても……」

 俺にとって、一本杉での出来事は、人生で最も重要なものであったのは間違いない。

 しかし、それら客観的に見たとき、果たしてそれは人一人を命がけで助けること、そのためにどんな犠牲も厭わないかとなったとき、理由としては弱いのだろうと感じる。

 自分が特殊な人間で、どれほど心葉に依存しているのかがよくわかる。

 俺は笑いながら深々とため息を吐いた。

 ここまで言ってしまえば、正直俺から言わせればどんなことを言っても同じことだ。それほどのことを心葉に暴露した。

「それで足りないんだって言うんなら、言ってやるよ」

 心葉がきょとんとして顔を上げた。


「俺はお前のことが――好きだ」


「…………」

 訪れたのは、長い長い沈黙。

 風にカーテンがふわりと揺れて、ようやく時間が動き出した。

「なっ……ななっ……!」

 熟れたリンゴのように顔を真っ赤にし、口をわなわなと震わせる心葉。

 口からなんとか言葉を出そうとしているが、まったく出てこない。

 俺も正直、勢いで言ってしまったとはいえ突然過ぎる告白に、頭がのぼせ上がりそうなほど熱かった。なにぶん告白したことなど、俺の十七年と少しの人生ではなかった話だ。

 しかし、ここで慌ててしまえば男が廃る。

 ここは、冷静な振りで頑張ろう。

 乾燥してがちがちになった喉を唾で潤わせながら下から心葉の顔を覗き込む。

「どうした、聞こえなかった? だったらサービスだ。もう一度言ってやろう」

 口を開きかけたとき、冷え性の体にはあるまじき熱を持った両手で口を塞がれた。

「ま、待って待って! 聞こえてる! 聞こえてるから!」

 必死に俺の口を押さえつけながら二度目の告白を潰しにかかる。

「きゅ、急に何言って……!」

 俺は心葉の両手を掴んで降ろさせる。

 すぐ近くに心葉の顔があり、俺も逃げ出しそうになってしまうが続ける。

「お前が自分を助けてくれている理由を教えてくれって言ったんじゃないか。だから言ったの」

「その理由って私が昔凪君を偶然助けたってだけじゃないの!?」

「それもありきだよ。お前が俺の命を助けてくれて、その上で心葉のことが大大大大好きだから助けてるんだって。うん、これなら理由として全然弱くないな」

 勝手に納得しながら一呼吸入れる。

「島に帰ってきてからな、本当に楽しかったんだ。神罰があって、誰かが死んでしまう世界であったとしても、お前と過ごせる日々は本当に楽しかった。そんな日は、もう絶対にこないと思っていたんだ」

 俺は島を父さんと出た。それはもうこの美榊島には戻って来られないことを示していたのだ。

 閉鎖的な社会から、追い出されるように父さんは出た。当然一緒に出た俺が戻れるはずも、本来ならなかったのだ。

「よく考えてみろよ。お前は俺の命を救ってくれた。そのせいで、俺の人生全てが変わったんだ。お前を好きになるなっていう方が、無理な話だったんですよ」

 開き直って言ってやる。

「たぶん、あの一本杉、いやそれよりも前から好きだったのかもしれないな。気付けば、お前のことばかり考えていた。本土に行っても、それは変わらなかったよ。誰かに好意を抱くことはあっても、それは絶対に恋にはならなかったんだ」

 告白されたこともあった。相手の女の子たちに問題があったわけではない。

 でも仕方がなかったんだ。まだまだ子どもの頃だったとはいえ、初恋が自分の人生を変えてくれた恩人だった。忘れられるわけもなかった。

「俺はきっと、この思いを抱いたまま、誰とも恋人にならないまま、過ごしていくんだろうなって思ってた。でもこの島に帰って来られた。前に言っただろ? 俺がこの島に帰ってきて一番よかった思ったことは、お前にもう一度会えたことなんだ。初恋なのにもう二度と会えないと思っていた女の子に、もう一度会うことができたんだ」

 嬉しかった。これほど嬉しいことがこの世にあるんだって、舞い上がった。

 でも、現実はそう簡単に甘くはなく、それは刃となって向けられた。

「お前が卒業までしか生きられないって聞いたとき、愕然としたよ。別に俺は、心葉に気持ちが伝えられないとか、そういう関係になれないっていうことは仕方ないことだって思ってたんだ。お互いの気持ちあってだからな。でも、神罰っていう理不尽なものによって命を奪われる。それだけは絶対に許せなかった。たとえ相手が神だろうと、俺が今生きている理由そのものを奪われることだけは、絶対に認めるわけにはいかなかった」

 それを認めると言うことは、これまで俺が生きてきた人生そのものを奪われるのと同義だった。俺を救ってくれた心葉が、ただのシステムによって死ぬ。黙って見ていられるわけがない。

「心葉、もう一度言うよ」

 目の前にある心葉の綺麗な瞳を、真っすぐ見つめる。

「俺はお前が好きだ。この世界で一番、誰よりも。お前がこれから死ぬ運命にあっても、神に殺されるのだとしても、俺が絶対にお前を守る。相手が何であろうと、絶対にお前を助けてみせる。だから、俺をお前の側にいさせてくれ」

 心葉は、赤くなった顔を隠そうとするが、俺が両手を掴んでいるせいで逃げることができない。

 顔を下げて、表情を見られないようにしてから、ふてくされたように言った。

「……諦めて死のうとしたくせに」

「それはすまん。でも、もう二度と諦めたりしない。お前を助けるために、俺も自分の命を守ると誓う」

「手紙だって一度もよこしたことないくせに」

「この島でそれが簡単じゃないってことはお前が一番わかってるだろ」

「これまで、一度も好きなんて言ってくれたことなかったくせに」

「だからこれから何度でも言う。俺はお前が好きだ」

 黒髪から覗く小さな耳は、バラの花弁のように真っ赤になっている。

 きっと俺も、同じくらいに赤くなっているだろう。

 心葉は捕まれている俺の手に、自分の指を絡めた。

「私ね、本当はこの島のシステムで何度も許嫁を決められそうになってきたんだ。お父さんとお母さんには、私の意思でって言ってくれてたけど、断るのも申し訳ないと思ってたんだ。その理由が、誰と比べても、初恋の人ほど好きになれないって、わかってたからなんだ」

 心葉は、ゆっくりと顔を上げて俺の顔を見返した。

 濡れた瞳は大人びて色っぽく、それでいてこのまま逃げ出してしまうのではないかというくらい揺れていた。

「神罰で、私たちが死ぬかもしれないってわかったとき、絶望ばっかりじゃなくて、一つだけ嬉しいことがあったんだ。それが、初恋の人が島から出ていて、神罰を受けなくてもいいってこと。その人は神罰みたいなことには関わらず一生を過ごしてもらいたかったから。だから、神罰のことを知っても少しだけ安心できたんだ」

 悪戯っぽく笑いながら、心葉は続ける。

「その人は、いつもは本当に強くて、優しくて、格好良くて。それなのにたまにどうしてこんなにっていうほど弱くなって。どうしても放っておけない。そんな男の子だった」

 両手を通して熱さとともに気持ちが伝わってくる。お互い汗でびっしょりになってしまっているが、その手は離そうとはしない。

「でも、帰ってくるって校長先生から聞いて、ああどうしてって、泣いちゃったな。もうわけわからなくなって涙が出ちゃった」

 その頃のことを思い出したのか、小さく笑った。

「すぐに紋章を使おうとかとも思った。島に帰ってくる前まで私が死ねば、一度も神罰を起こすことなく、その人がこの島に来るという理由そのものをなくしてしまえるから。けど、できなかった」

 一瞬悲しそうな弱い表情になったが、振り払うように何度も瞬きをした。

「七海ちゃんや玲次君が止めてくれたからじゃなくて、私も、もう一度会いたいと思っていたから。あの男の子が、どんな風に成長しているのか、今も元気でやっているのか、それを、知りたかったからなんだ」

 堪え切れなくなったのか、瞬きをした拍子に一粒の涙が頬を伝って落ちた。

「私、やっぱり卒業後死ぬかもしれないよ」

「絶対にそんなことはさせない。俺が助ける」

「私泣き虫だよ」

「いっぱい泣けばいい。泣き笑いは悪いことじゃない」

「面倒くさい女だよ」

「俺ほど面倒くさいやつを、他に知らん」

「一途でストーカーになっちゃうかも」

「十年間思い続けた俺に対する嫌みか」

「寒がりだよ」

「気にするかバカ」

 いくつも、自分の嫌な部分を並べ立てる心葉。

 そんなことは全部知っている。ずっと見てきた。側にいた。

 こいつのために、命を賭けると決めたんだ。

「夏祭りのとき、お前言ってたよな。神罰が終われば私たちの関係は変わるのかって。思ったんだけどさ、俺たちの気持ちに、神罰は関係ないんだ。もし、神罰が俺たちの気持ちに影響しているんなら、それは神罰を肯定することになる。俺たちは俺たちだ。俺たちの関係を変えるのは、俺たち自身なんだ」

 心葉の手を、力強く握り返す。

「俺は神罰を認めない。心葉が死ぬかもしれないとか、俺が死ぬかもしれないとか、そんなことは関係ない。俺はお前が好きだ。神罰があるから告白ができないなんて、そんなのバカみたいだろ。俺がお前を好きであることには変わりはない」

「そ、そんなに好き好き言わないでよぉ……」

 身をよじらせながら恥ずかしそうに頬を上気させる。

 握った手からは、強くはっきりとした鼓動が響いている。その鼓動が心葉のものなのか、俺のものなのかはわからない。

 俺たちの鼓動は繋がり、一つになっていた。

「だったら、お前の気持ちを教えてくれ。答えてくれよ。でないとひたすら言い続けるぞ」

「それ、脅迫だよ?」

「こっちも、必死なの」

 声が震えた。

 心葉もそれに気付いたように小さく目を張った。

 頭が沸騰しそうなほど、熱かった。

 でも、嬉しくもある。

 俺は、こんなにも人を好きになることができたんだと。

 心葉はしばしの間、気持ちを落ち着かせるように目を閉じた。

「私も……」

 また目を開けたとき、恥ずかしそうではあるが、優しげな目で微笑んだ。


「私も、凪君のことが好きです。ずっと、ずっと。この世界の誰よりも、凪君のことが、大好きです」


 一句一句を、大切に、大切に口にする。

 俺も、その言葉を、絶対に忘れないように、頭に刻みつけた。

 繋いだ気持ちは、離れることはない。

 どちらからともなく近づき、そっと唇を合わせた。

 ついばむ程度の微かなものだったが、俺たちにとっては初めの一歩だった。


 改めてここに誓う。

 絶対にこいつを失いたくない。失わない。

 絶対に、助けてみせる。

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