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シンバツピリオド.  作者: 楓馬知
22/43

21

 夏休みが始まって一週間ほど。

 情けない話、これと言って大した情報は掴めていない。

 毎日美榊高校の図書館に通い詰め、必要とあれば自転車を走らせ気になる場所へ行きもした。

 しかし、神罰においての知識は深まるが決定的な情報は見つかっていない。

 玲次と七海は一日の多くを第二高校に通い、心葉も時折一緒に行って生徒の法術の指導をしているようだ。

 第二高校にも図書室があり、そこには別の書物がそれなりにあると夏休みでも休まず図書室に通っている円谷先生からの情報を得て、玲次たちに着いて第二高校に行きもした。

 当然高校一年、二年の生徒が通う第二高校で第一高校の生徒は目立ってしまったが、気にせず図書室は利用させてもらった。

 ただそこにあったのは神罰の基礎的なことがまとめられているだけで、島に来た当初であれば有益だった情報だろうが、今では大部分が知っている情報だった。

 心葉に付き添うことも忘れずに行っている。

 玲次たちといる間はそちらに任せていた方が安心できるが、心葉が一人で外出する際などは向こうから声をかけてもらい一緒に街まで行きもしている。

 心葉も神罰の気になった情報などがあれば教えてくれるので、俺の推論についてと意見を交わすこともあった。

 だが結局わからず仕舞い。

 図書館から借りてきた本を読み漁り、これまでわかったことを書き出して整理していると、いつの間にか開けたカーテンの向こう側が白み始める。

「もう朝かよ……」

 毒づきながら大きく伸びをして机に突っ伏す。

 これまでわかっているルーズリーフのファイルをぱらぱらとめくっていき、これまでの情報の少なさに再びどんよりする。

 何もわからないわけではない。推測はいくつあり、間違いではない可能性も十分にある。

 ただ決定打にはならないのだ。俺が今把握できていることは、神罰がどのように起きているかなどの原理的なものだけだ。それもわかれば大きいと考えていたのだが、神罰を止める決定打にはならない。

 このままベッドに倒れ込んでしまうのは簡単だが、頭が変に冴えてしまっているので寝ようと気にはなれない。

 リビングに出てベランダを開けると、涼しい風が部屋に滑り込んできた。

 まだ朝日は昇っていない。

「そういえば……まだあそこ行ってないな」

 この島に帰ってきたら必ず行こうと思っていた場所が母さんのお墓以外にもう一つある。

 そこは父さんと母さんの思い出の場所で、この島に父さんがやってくることができたときの数少ない時間に教えてもらったことである。

「行ってみるか」

 思い立ったが吉日だ。

 さっとシャワーを浴びて、青いボーダーのポロシャツと七分丈のカーゴパンツに着替える。

 コーヒーを淹れながらホウキの皿にペレットと野菜を添えてやる。重度の猫舌なので冷たい牛乳で薄めたコーヒー牛乳を一気に飲み干す。

 簡単に戸締まりを確認し、ショルダーバッグを背負って寮を出た。

 まだ日が昇っていないほどの早朝なので、管理室に彩月さんの姿はない。夏休みと言えど大抵の日は寮の管理をしてくれているが、さすがに早過ぎたようだ。

 寮の駐輪場から自分の自転車を引っ張り出す。ここに来た当初使っていたいわゆるママチャリは、先代の卒業生が残していたものを譲り受けていたのだが、山道が多いこの島ではママチャリは少し便利が悪かった。

 そこで、夏休みに入る前にマウンテンバイクを街で購入してきている。後ろに荷台と後輪の左右にバッグを吊しているタイプなので、買い物したものも入れられる優れものだ。

 電車を使えば大抵の場所へは移動できるが、それでも小回りを重視するならやはり自転車が一番だ。

 朱色のフレームに跨がり、勢いよくペダルを蹴る。タイヤは以前の自転車とは比較にならないほど地面を弾いて進んでいく。

 心葉たち三人と遊んだビーチ。あそこに行って思い出したのだ。

 以前の自転車よりの倍は速くなったマウンテンバイクで山道の中を突っ走っていく。額に大粒の汗が浮かび、首や頬を伝って下に流れていく。シャワーを浴びたばかりでまた汗だくになってしまったが、不思議と不快ではない。

 最初は車道にちらほら車が走っていたが、すぐにまったく通らない道に入る。中央線がない一車線の左側を走って行く。

 両側には生い茂った木が乱雑に並び立ち、この島ではあまりお目にかかれなないなんとも野生心を刺激する雑木林。と言っても枯れ木が転がったりゴミが捨てられていたりということはなく、木が自由にのびのびとあちこちに向かって生えているが、この島特有の目には見えない神々しい力のようなものが溢れている。

 しばらく進むと、二つに分かれた道が現れ、左は美榊島の市街、右はこの先は行き止まりとなっている。

 俺は迷わず右に曲がり、舗装が行き届いていない道へと入っていく。

 曲がってすぐに車道が途切れ、道らしい道はなくなった。

 やがて自転車では進めなくなり、丁度立ち入り禁止の立て看板があったので看板の足に自転車のタイヤをきっちりと止める。外れないことを確認し、ショルダーバッグを担ぎ直して山道へと分け入る。

 リストバンドで額の汗を拭い、バッグから取り出したペットボトルに入っている水を一気に半分ほど飲み干す。少し温くなってしまっていたが、乾いた体に心地良く水分が染み渡っていく。

 今俺が踏み行っている場所は先ほどの立て看板が示していた通り、本来なら立ち入ることすら危険な場所だ。整備されていない雑木林に生い茂る木々や草木が服やバッグに引っ掛かり、服から出た腕や足を引っかいていく。

 立ち入り禁止の立て札から雑木林に入って、さらに二十分ほど踏み行っていくと、やがて開けた場所へと出た。

 美榊島の最西端。

 先ほどまであった雑木林を抜けると、広い草原が現れる。先ほどまでの荒れた木々などはなく、儚くも美しい草が大地を覆っていた。

 草原の先にあるのは断崖絶壁だ。柵やロープで遮っているわけではなく、一歩踏み出せば数十メートルは落下するほど高い崖だ。立ち入り禁止になる理由には十分過ぎる理由だろう。

 しかし、草原には草以外何もないわけではない。

 草原の中央には、たった一本ではあるが大きな木がそびえ立っている。

「よかった、まだあった」

 思わず安堵してそっと胸を撫で下ろす。

 最後に見たのは実に今から十年近く前。残っているかどうかも甚だ心配だったが、取り越し苦労だったようである。

 草原にそびえ立っているのは巨大な一本杉だ。

 ただ、さすがに十年も経てば少しは姿が変わっている。元々樹齢数百年は超えている大きな木だったので、記憶との差異はそこまでないのだが、それでもやはり大きくなっているように見えた。

「こっちも残っていてくれよ……っと」

 軽く仙術を使いながら跳び上がり、太い枝に捕まるとさらに上を目指して跳び上がる。以前来たときは地道に幹を這って上っていたが、今では軽々と木を上っていける。

 木の中程まできたとき、それを見つけた。

 杉の樹皮の外皮を削り、その下の内皮に傷が付けられている。元は白かったであろう内皮も、長い年月を経て茶色っぽく変色している。

 なにせこの傷は、二十年近くも以前に刻まれたものだからだ。

 それは一つの相合い傘だ。内皮に滑らかに描かれた可愛らしい傘の下には、これまた樹皮に描かれているとは思えないほど綺麗な字で名前が彫られている。

 勇、そして陽。

「懐かしいな……」

 二つの名をそっと指でなぞる。潮風にさらされているにも関わらず、樹皮はさらさらとした手触りが心地良い。

 ここに初めて来たのは、物心が付いてすぐのことだったと思う。

 当時父さんはほとんどこの島にいることはなく、まだ父さんは大学に通っていた頃だ。盆の大学がほとんど休校状態の時期を利用して帰ってきてくれたのだ。

 その頃の俺はまだ右も左もわからない子どもで、自分に母親がいないということをよく理解しておらず、ことある毎に父さんに尋ねていた。それが、父さんにどれほど辛い思いをさせていたのかが、今ならわかる。

 無邪気にただ好奇心だけで質問を重ねていた俺に、父さんは嫌な顔一つせずに答えてくれていた。

 思えば、俺はこのときから人の顔を窺う癖が付いてしまったのだ。

 紋章所持者に選ばれてしまった母さんを助けられず、死なせてしまった父さんは俺に母さんのことを話すときはいつも穏やかな笑みを浮かべていた。ただその笑みの向こう側、奥底には必ずと言っていいほど別の感情が見え隠れしていた。

 それはきっと、寂しさ、悲しさ、苦しさ。今思えばそういう感情だったんだ。

 ここに連れてきてくれたときの父さんの表情にも、その感情はあった。

 俺を背負ってこの丘にある一本杉に登った父さんは、この木に描かれたものがどういうものなのかを教えてくれた。

 まだ相合い傘がどういう存在だったのかわからなかった俺に、好きな人同士で書いたり、想い人の名前を書いたりするのだと教えてくれた。

 そしてこの相合い傘は父さんと母さんがまだ子どものときに、二人で木によじ登って書いたものらしい。それまで二人はただの幼馴染み同士であったが、親同士が許嫁にしようとしていることを知り、ここで確かめた合ったと言っていた。

 つまりここは、父さんと母さんが恋人になった場所ということだ。

 ここも、母さんのお墓と同様に、俺にとって数少ない、母さんの思いが宿った場所なのだ。

 木の幹に背を預け、眼下に広がる大海原を見下ろす。

 あの日も、ここに来た。

 自分の心の中の水量まで、子どもの俺は把握できていなかったのだ。何でもないようで、ダムが決壊したように全てが溢れてしまったあの日。

 この場で、俺は心葉のことを意識するようになったのだ。

 そして、その数日後、俺はこの島を出ることになった。

 今思えば、俺がやろうとしていたことがそれとなく心葉の両親を介して父さんに伝わり、俺がバカな真似をしないように父さんが連れ出したのだ。

 まったくどうして、嫌な黒歴史だ。

 朝日を拝み、貫徹したことを意識した途端、急激な睡魔にずるずると木を滑り降り、そのまま一本杉の根元に横になった。

 小高い丘に吹き抜ける潮風と木陰が心地良く、目を閉じた直後には一瞬でとぷんと闇に落ちた。

 夏休みに入ってからというもの、まともに寝た日などほとんどなかった。心葉たちと海に行ってから体内時計は見事にぶっ飛んだ時間を刻み初め、気付けば毎日三時間程度しか眠らない日々。

 心葉の紋章を見て以来、紋章についての調査を先行して行った。

 しかし、紋章の存在は美榊島でも厳しく管理されており、まともに情報が出てこない。この島に来た当初、神罰のことをただひたすらがむしゃらに調べていたときでさえ、紋章のことなんて単語一つも見つけることができなかったのだ。

 それほど、紋章は秘匿された存在なのだ。それが、紋章所持者を守るためだということは、とっくの昔にわかっていることだ。神罰において最も中心に近い場所にいる紋章所持者に、この島は優しくない。

 不意に、意識の外で何かを踏む音がした。

 夢の中から意識が覚醒するに連れ、音が鮮明に耳へと届いてきた。草を踏む音だ。丘は一面が草原なので、近づいてきている人間は草を踏みしめながらゆっくりとこちらへ近づいてきている。

 俺は上半身を起こすと、体を大きく反らして伸びをする。

 同時に、足音が止まる。

「お前そこで何をやっている!」

 突然響いた怒声が右耳から左耳へと通り過ぎていく。

 顔をしかめ口を曲げながら振り返ると、そこには学生もののブレザーを着た少年が立っていた。

 少年と言ってもおそらく歳は俺の一つか二つ下程度だろう。ブレザーにも見覚えがあり、あれは美榊第二高校のブレザーだ。基本的な造りは俺たちの第一高校のものと変わらないのだが、第一高校が藍色を基調に作っているに対して、第二高校は濃い緑色を基調に作ってある。今年神罰を受けている生徒かそれ以外の生徒かを判別するためだとかなんとか。

 長めの髪がゆらゆらと揺れ、切れ長目の鋭い視線に猜疑心を乗せてこちらを睨み付けている。俺が何もしていないからいいものの、ここで不審な行動の一つを取ろうものなら飛び掛かってきそうだ。

「何って、ただ昼寝をしていただけだけど?」

 正直に誤解を与えないよう端的に答えたのだが、男子生徒は顔を真っ赤にしてさらに怒りを露わにする。

「ふざけるなっ! ここは立ち入り禁止だ。一般人がほいほい入って寝ていいところではない!」

「はあ……そうなんですか。それは知りませんでした」

 すっとぼける俺に、男子生徒は訝しげな視線を向けてきた。

「立ち入り禁止の立て看板に赤色の自転車がチェーンで止められていたから来たのだが、お前の自転車ではないと?」

「……俺の自転車だな」

 寝ぼけて自分で何を答えているのかよくわからなくなってきた。

「ああ、あの看板ってこの辺りのことだったんだな。いやー、気が付かなかった」

 大きく欠伸をしながらズボンに付いた払い、近くに置いてあったショルダーバッグを肩にかける。

 一本杉を見上げ、目を閉じてそっと手を合わせる。

 男子生徒の懐疑のこもった視線が頬に刺さっているのを感じるが、努めて気付かないふりをする。

「大人しく引き上げさせてもらうよ」

 男子生徒の顔には視線を向けないようにしながら、浮浪者を思わせるのそのそとした動きで歩いて行く。

 だが俺の行く手を、鋭い光が遮った。

 重い鋼色の光沢を放つ金属が、俺のすぐ目の前にある。反りがなく手元から真っすぐに伸びる両刃。切っ先はなく両刃が直角に曲がっており方形になっている。剣に分類されるに違いないが、それはただの剣と言うにはあまりに巨大過ぎた。刃渡りが俺の身長ほどあり、俺よりやや低い位置にある男子生徒にとってはそのアンバランスさはよくわかる。

「いきなりなんだよ?」

 横目に男子生徒の目を、冷静に見返す。

 いくら神罰で戦うために本物の刀剣を持つことがあって、神降ろしで得た神器を隠して持てるからと言って、見知らぬ人間の前でいきなり武器を持ち出すなんて行為、普通はしない。

 下級生でも神力の多いやつはは早めに神降ろしによって自らの神器を得ることができる。七海や理音はそのタイプらしい。

 男子生徒が持ち出した武器も間違いなく神降ろしによって得た神器だ。

「お前はどこの人間だ?」

「質問を質問で返すなよ」

「答えろ」

 素っ気ない態度で男子生徒に向かってため息を吐くと、大剣が数センチ上がり刃が首に当たった。少しでも力を込められれば皮膚が裂けるだろう。

 俺は両手を挙げながら肩を落とした。

「はいはい、わかりましたよ。美榊第一高校の三年だ。お前の先輩じゃないかね」

「……生徒手帳を出せ」

「生徒手帳? そんなのもらってないけど」

 本当のことを素直に答えたにも関わらず、男子生徒の顔はさらに険しくなり、大剣を握る手に力がこもった。

 あれ、よく考えたらマジで生徒手帳とかもらってないな。男子生徒の反応を見るにあるのだろうけど、俺は本当に持っていない。

 これはさすがに逃げた方が身のためかと考えていると、男子生徒は空いた左手を上着のポケットに手を入れ、中から二つ折りの携帯電話を取り出した。視線を俺に向けたまま、片手で器用に開くと慣れた手つきでボタンを操作する。

 焦げ茶の髪の隙間から覗く携帯の画面がすぐに通話中へと変わった。

太刀山(たちやま)です。不審者を見つけたので車を一台お願いします。場所は――」

 早口で現在位置を通話相手に伝えると、わざと音を立てるように携帯電話を閉じてポケットに押し込んだ。

「あの、太刀山君? 俺、第一高校の生徒って言ったよね?」

 不審者扱いされて怒るところなのかもしれないが、首に大剣を当てられている状態で下手なことを口走るのは避けた方がいい。

 太刀山は大剣を両手で持ち直すと、俺の背後に回り込んで角張った切っ先を背中に押し当てた。

「黙れ。俺は美榊高校の全生徒の名前と顔を把握している。一年から三年までな。お前みたいないけ好かない生徒がいれば忘れたりしない」

 ずいぶんな言われようだが、見事に勘違い、いや思い違いをしているようだ。

「俺は八城って言うんだが、覚えはないか? うっかり八兵衛の八に万里の長城の城」

 ちょっとおどけてみせたのだが、太刀山は華麗にスルーする。

「八城? 旧家にそんな名前があった気がするが、今この島にそんな名前の人間は子どもを除いてもいない。下手な嘘を吐くと立場を悪くするぞ」

「いや俺今年からきた転校生で――」

 弁解をしようとしたが背中を大剣でどつかれた。太刀山にとっては軽い一撃のつもりだったのかもしれないが、大剣の巨大な質量に一瞬息が止まった。

「それ以上口を開くな。串刺しにされたくなければな」

 その大剣でどうやったら串刺しになるのか気になるところではあったが、下手に問題を起こすのも気が引ける。

 手を上げたまま項垂れて首を縦に振ると、太刀山の大剣に押されて山道を降りていった。

 マウンテンバイクを止めていたところには、既に黒一色のセダンが止まっていた。サングラスをかけた禿頭の男が周囲に目を光らせて立っていた。

 山から下りてきた俺と太刀山が視界に入ると、眉間に深い皺を刻んでサングラスを光らせながら睨み付けてきた。

「お疲れ様です。こいつが立ち入り禁止区域に入ってました。美榊高校の生徒だと偽装しています」

「だから違うって」

 前半は本当だけど。

 禿頭男はポケットに手を突っ込んで肩を怒らせながら歩き、下から厳つい顔でガンを飛ばしてくる。

 なんかいやに威圧的な人だな。

「こいつがっすか?」

 どう見ても禿頭男の方が俺たちより年上なのだが、太刀山に向かって下手に話している。

 舐めるように俺の体中をじろじろと見てくる禿頭男。体中の毛が一瞬で粟立ち、思わず後ずさったが背中に大剣の切っ先が当たって下がれなかった。

 この人、色んな意味でやばい気がする。

 後ろで太刀山が聞こえないくらい小さな舌打ちをする。

 わかる。わかるぞその気持ち。

 会って間もないやつに勝手に共感していると、背中をどすっと突かれた。

「無駄口はいいです。さっさと連れて行ってください」

 お互い丁寧な物言いではあるが、どうやら立場的には太刀山の方が上に感じられる。

 神力が遺伝によって引き継がれるせいもあり、この島では神力を持つ家系が大きな力を持つ。玲次や七海は鼻にかけないからわかりにくいが、あいつらと周りに上下関係を作ったとしたら必然的にあいつらは上の立場になる。

 太刀山も鼻にかけいるわけではなさそうだが、禿頭男に指示を出すくらいには上の立場なのだろう。

 禿頭男はわかりましたと返事をすると、後部座席の扉を開けてくいっと首を振った。

 もうどうにでもなれだ。

 このまま突っ立ているとさらに背中をど突かれるか、もっと危険な攻撃が来る可能性を考慮して車に乗り込む。

 片足を突っ込んだところで、俺は太刀山の方を振り返った。

「俺の自転車はどうなるんだ? まさか廃棄処分とかないよな? 勘弁してね」

 太刀山はぶすっとしたまま答えようとはせず、代わりに禿頭頭が答えてくれた。

「そんなことするわけないぞ。あとで調書に書いた住所に届けてやる。気にせず、ほら」

 見た目に反した猫なで声を出して、そっと俺を押そうとする。尻を。

「ばしっ……そうですか。ありがとうございます」

 手で払い落としながらそそくさと車に乗り込む。

 はっ倒すぞこの野郎。こいつ完全にそっち系じゃねぇか。

 車内は運転席助手席と後部座席が旧家ガラスの仕切りによって区切られており、ここは絶対的なサンクチュアリだ。

 俺は助手席に後ろに座り、運転席後ろには太刀山がどかっと腰を下ろした。乗る直前に大剣は消しており、両手を組んで視線を窓の外へと逸らしている。

「俺はどこへ連れて行かれるんだ?」

「黙ってろと言ってるだろ。それ以上口を開けば助手席に叩き込むぞ」

 なんだそのとんでもなく恐ろしい脅迫文句は。

 話し声は運転席に届いているようで、シートベルトを締めていた禿頭頭がこちらに期待の眼差しが投げられた。

 体中に氷水をぶっかけられたように悪寒が走り抜ける。太刀山に習って視線を窓の外へと逃がす。

 こんな危険地帯の密室に閉じ込められ、連行されているにも関わらず、早く目的地へと着いてほしいと心の底から願ってしまった。

 移動中にはバッグや携帯電話なども取り上げられ、身ぐるみを剥がされてしまった。

「まったく、この忙しい時期に面倒を起こしてくれる。ただで帰れると思うなよ」

「へいへい」

 適当な返事を返しながら扉に肘を窓枠に突きながら大きく欠伸をする。

 車はすぐに山道から外れ、すぐに舗装された車道へと下りた。

 完全にやることもなくなった俺は、先ほど昼寝中に叩き起こされたこともあり、うとうとしていた内に眠りこけてしまった。

 キッと言う切れのいい音ともに車が停車し、その勢いで眠っていた俺の頭はしこたま強化ガラスにぶつかった。

「いっつー……」

 赤くなっているであろう額を押さえながら呻いていると、車の扉が自動で開いた。

「さっさと出ろ」

 連れ出されるわけでも手錠をされているわけでも拘束されているわけでもない。太刀山はおそらく仙術が使えるレベルの神力保有者だ。俺が逃げても取り押さえることができるという自負を持っているのだろう。その気になったらいつでも逃げ出せるのだが、今は付き合ってみるとしよう。

 俺は額をさすりながら車から降りた。車は眠りこけている間に市街地までやってきた。

 後ろの車道では激しい交通量の車が行き交い、車道と建物の間もビジネスバッグを持った社会人や買い物袋をぶらさげた主婦など、様々な人が行き交っている。

 美榊島は市街地と郊外でそれは大きなギャップがある。市街地は都心を切り取って貼り付けたように、そこらの下手な街より巨大な市街地となっている。しかし郊外は、美榊第一高校がある辺りなどだが主要な建物や民家以外はないような場所がほとんどである。

 中心街だけでこの島のほとんどの経済を担っている。限られた土地でそのようなことをしているので、建物は自然と上と下へと伸びるのだ。

 目の前にある建物も、以前近くに寄ったことがあるが、それでも建物の大きさに圧巻する。

 広大な面積に立つ数十階ある高層ビル、美榊市役所である。

 名前こそ美榊市役所であるが、ここは市役所兼警察署兼消防局兼エトセトラエトセトラ、美榊島の運営のほぼ全てを担っている建物だ。閉鎖的で大半を美榊市だけで処理しているので、一つの建物にまとめた方がやりやすいというためらしい。

 以前にも一度建物の前まで来たことはあったのだが、入るきっかげなくてそのまま帰ったことがある。

 パトカーでこそなかったものの、明らかに連行されてきた俺に周囲の人間はちらちらと視線を向けてくる。その視線から逃れ、太刀山に背中を押されて市役所へと入っていく。

 背中に再び恐ろしい視線を感じたが、車が走り出すと同時にその視線も消えた、

 ふぅ、生きた心地がしなかったぜ。マジでああいう人に会うの初めてだ。二度と会いたくないもんだ。

 受付で太刀山が少し話している間に、エントランスを見渡した。エントランスは市役所を利用する人を管理するために、受付で判断できるようになっている。上に行くにも下に行くにも一階を通らなければいけない。用件に合わせて受付に人が並んでおり、警察署の受付は人がいなかったのですぐに通ることができた。

 ああ、これで俺も前科も持ちか。感慨深いものがあるな。将来の就職に響かないことを祈るばかりである。

「乗れ」

 エレベーターに押し込まれ、緩やかに動き始めた箱は徐々に勢いを増して上り始める。

 階を選択するボタンの上部にある数字が勢いよく上昇していく。背後はガラス張りになっており、体が美榊島の上空へと上っていく。

 ただ高層ビルが建ち並ぶ中心にある市役所からは美榊島を見渡すことはできないので、見える景色のほとんどは建造物のみだが、それでも十分に壮観な景色だ。

 離島でありながらこれほどの場所を築き上げる力を持つ、心臓部に今俺はいるのだ。

 階数を示す数字の上昇が緩やかになり、やがて止まった。

 開いたところで今度は太刀山に急かされることなく自らエレベーターから出た。

 この高層ビルでも高い位置にある刑事課は、当たり前だが外の賑やかな雰囲気とは違い、厳格な雰囲気が漂っていた。

 警官が着ている青い制服を着た人や、黒いスーツを着た人たちが前に広がる廊下を行き交っている。女性警官の姿も見受けられ、他にも俺と同じように連れてこられたかに思われる私服の子どもなんかもちらほらいた。

 子どもは夏休みで浮かれた気分であっても、逆に忙しくなるであろう警察官たちは本当に大変だ。

「取り調べに素直に答えればすぐに返してやる。本当のことを言わないといつまで経っても帰れないだけだ」

「へいへい」

 周囲を興味深く見渡しながら適当に返事を返す。そう簡単に帰るつもりがあるならとっくに逃げている。

 さすがにここでは自由に動き回らせるつもりはないようで、後ろから早く足を進めろとばかりに威圧してくる。

 初めて着た場所に好奇心を振りまきながら歩いて行く。その島では殺人みたいな凶悪犯罪こそ滅多に起きるものではないが、神罰絡みで何かと問題は起きる。

 本土では人が何かの事件を起こすにはそれなりの力が必要になる。力というのはただの腕力など誰でも持ち合わせているものではなく、刃物や銃器といった様々なものに及ぶ。そういったものが暴力性や自傷行為や殺意へと変わっていくこともある。しかし、本来人が持ち合わせている腕力などは別として、殺意や凶器なんて誰もが持っている力ではない。

 この島では、刃物や銃器などといった凶器をいとも簡単に超越する力を、体自身に宿している人間がいるのだ。神罰に赴く美榊高校の生徒だけではない。卒業生や高校に入る前の人間、それ以外にも神罰で戦えるほど使えないだけで力としては使える者は相当数存在するのだ。

 そういった力は、ちょっとしたきっかけで暴力や殺意へと変化する。

 俺がこの島に着てからはあまり大きな事件は起きていないが、それでも力を使った小競り合いはそれなりに起きているし、過去では力を持った者同士が激突して家を何棟も全壊させたという事件もある。

 この島の警察の仕事は、本土で起こる一般的な事件の対処もあるが、神力を持つ人間の取り締まりが大部分だ。

 評議会が行っている神力を持つ生徒の取り締まりもこの延長線上のものなのだ。

 最近ある程度神力を持つ人間と持たない人間を感じ分けられるようになってきたが、ここにいる警察官たちはもう大人であるにも関わらず多くの神力を持っている人間があちこちにいる。

 この人たちはきっと、神力を乗り切って生き残った人たちなんだ。つまりは俺たちの先輩に当たる。

 しばらく警察官たちの間を通って歩いて行くと、太刀山が歩く速度を速めて俺の前に出て一つの部屋の扉を叩いた。

「立ち入り禁止区域に入っていた学生を連れてきました」

 どうぞと少女の声が響いた。

 ん? なんか聞いたことがある声だった気がするぞ。

 失礼しますと断って、太刀山は扉を押した。

 中は小さな会議室のようになっており、奥と手前に黒く光る机が並び、全部で四つほどの椅子がある。

 奥の机、正面の席にスーツ姿の少女が座っていた。

「あ……」

 部屋の中にいた人物はこちらを見て口をぽかんと開けている。

「何やってるんですか……?」

「立ち入り禁止区域に入りましたっす。悪いことをしました。この通り反省してますので、許してくださいっす。刑事さん」

「誰が刑事さんっすか……。わかっててからかうの止めてくださいっす」

「すいません」

 不満そうに声を漏らす部屋の住人に苦笑しながら謝罪する。

 当たり前のように会話を続ける俺たちを、太刀山は頬をひくひくと引きつらせていた。

「あの、白鳥先輩、こいつと知り合いなんですか?」

「うん、残念なことに」

 失礼だなおい。

 理音のことを先輩と呼ぶということは、やはり美榊第二高校の生徒か。それとおそらくは評議会の人間だろう。

 部屋にいた理音もいつものブレザーではなく、きっちりとした紺のスーツを着込んだ理音だった。普段やんちゃをしている空気はいずこかに消え、髪はピンで留めて整えている。素振りや雰囲気も高校でカメラを持って走り回っているときとはまったく異色の空気を纏っている。

「凪も性格悪いっすね。まじめな太刀山君を騙すなんて」

「だ、騙す?」

 太刀山は動揺して瞳を揺らし、俺と理音の顔を交互に見た。

 俺はおどけて首をすくめる。

「人聞きの悪いことを言うな。俺は一度も騙してもなければ嘘も吐いてない。立ち入り禁止の場所に入って、こいつに見つかった。で、連行された。逃げようと思えばいくらでも逃げられたけど」

「……本音は?」

「市役所って中々入れないから、丁度いい機会なので大人しく連行されてみました」

「腹黒っすよね、凪」

 机に肘を突きながら、理音は乾いた笑いを零す。

「ど、どういうことだお前っ! 一体何なんだ!?」

 俺の意図も理音との関係もわからない太刀山は半ばパニックになりながら喚く。

「さっき名乗っただろ。俺の名前は八城。昔の名前とか言ってたけどちゃんと残っているからな」

「だとしても美榊高校の生徒ではないだろ! お前みたいな名前の生徒はいない!」

「転校生なんだよ。三月までは本土暮らし。美榊島には小さい頃住んでいただけ」

 ここまで説明してようやく思い当たることがあったようで、太刀山はハッとしたように目を見開いた。

「お前か神罰を止めようなんてバカなことやっているって下衆野郎は!」

 そこまで言うかこいつ。

「太刀山君、口が悪いっすよ」

 理音がやんわりとたしなめるが、太刀山は止まらない。

「ふざけんなよお前! へらへら笑いやがって! お前みたいなやつのせいで、先輩は、御堂先輩は――」

「太刀山君」

 大声で言ったわけではないにも関わらず、鋭く飛んだ理音の声が太刀山の言葉を斬り裂いた。

 理音の熱く凍るような視線に太刀山はたじろいで口をつぐむ。しかしすぐに気を取り直すと、両手を机に叩き付けた。

「なんでですか白鳥先輩! ずっと言ってきたじゃないですか! 不穏分子はすぐに排除するべきです! 御堂先輩みたいな人を増やさないためにも、さっさと島から叩き出すべきです!」

 俺も散々言われているな。

 やっぱり神罰で十分な成果を残しているとは言っても、俺のことは結構議論されているようだ。あんまり穏やかな話ではないようだが。

「白鳥先輩たちができないって言うなら、俺が力尽くで御堂先輩の仇は俺が取ります」

「准は凪のせいで死んだんじゃないっすよ。あいつは自分の行いを信じ、信念を信じて死んだんです。後悔こそあるでしょうけど、間違ったことをしたとは思ってないっすよ、絶対」

 薄く消え入りそうな笑みを浮かべて、理音は呟いた。

 理音の中で、御堂のことは少しずつではあるが整理ができ始めているのだろう。御堂の死後、放っておけば御堂の後を追いそうだった理音はもうどこにもいない。当然悲しみこそ残っているが、その目には前に進む意思がはっきりと宿っている。

「それはこいつがいたことが大きいんじゃないですか!? 御堂先輩は一度もそんな素振りを見せてない。こいつがいたから魔が差して、神罰を止めようなんてして、鬼斬安綱を降ろして……ッ」

 それは違う。あいつは俺が来るよりずっと以前より神罰を止めるために行動をしていた。咄嗟の行動ではない。それはおそらく太刀山もわかっているはずだ。でも、それを受け入れることができないのだ。

「なんと言われようと俺はこいつをぶちのめします。御堂先輩がとか白鳥先輩がとかは言いません。俺の気が収まらないんです」

 自分の気持ちに嘘を吐かないのは好感を持てるが、それでも今そんなことをされるのは非常に面倒だ。

 机をバンバンと叩きながら、理音は呆れたようにため息を吐く。

「バカなことを止めるっすよ。そんなことをしたら、ぶちのめされるのは太刀山君になります。来年は太刀山君が皆を背負って戦うんですから、こんなところで怪我なんてしちゃダメですよ」

「誰がこんなやつに! だった今この場で……ッ」

 太刀山の左手に神力を集めながら後方にいた俺を振り返る。

 おいおい、血の気の多いやつだな。

 二人には見えないように、後ろ手にこちらも神力を集めて防御の体勢を取る。

 だがどちらも発動されることはなかった。

 太刀山の攻撃があと瞬きするほどの時間で仕掛けられる刹那、俺のすぐ後ろにあった扉が蹴破られた。

「……あなたたち、一体何をやっているんですか?」

 現れたのは、すらっとしたスタイルの綺麗な姿の女性。周囲のほとんどがきっちりとしたスーツ姿であるにも関わらず、女性はカジュアルなスーツを着ている。どことなく赤が混じった茶髪は項で縛られて背中に垂れている。

 それは綺麗な美女であった。肌は雪のように白く、皺などは一切ない。しかし同時に、雪のようである肌はどちらかと言えば青白く見え、皺一つない肌なのに微かにやつれて見えた。なぜだかわからないが、どことなく病的な印象であったが、それが儚げな魅力を引き立てている。

「廊下まで声が聞こえています。市役所内で一体何を考えているんですか?」

 青フレームの眼鏡の向こうに光る二つの目は氷柱のように冷たく鋭く尖っている。正直太刀山なんかより全然怖い。

「ゆゆゆゆゆゆ結衣(ゆい)さん!」

 先ほどまでとは打って変わってたじたじになった太刀山。どうやら知り合いのようである。

 太刀山の後ろにいる理音は何か非常にまずいことが発生したような頬をひくつかせて頭を抱えている。

 結衣と呼ばれた女性は、冷ややかな視線で俺を一瞥した後、視線を背後の太刀山へと移した。

「太刀山君。あなたが評議会の活動に熱心なのは知っています。ですが、いつまでも子どものように騒いでもらっては困ります。この島の重要な一角を担うものとしての責任を持ってください」

「そ、それは……」

 弁解しようと口を開きかけるが、追随するように細められた視線によってその口を閉ざした。

「……申し訳ありません」

 頭を下げた太刀山から視線を外し、女性は俺へと視線を移した。

「先ほど立ち入り禁止の場所に入った人間がいると連絡がありました。あなたですね?」

「はい、そうです」

 冷え冷えとした目がさらに凍り付き、鋭い刃へと変化する。

 ぞっとするような空気だった。

 この結衣という女性はもとより冷たい空気を纏っているのだろうが、今の俺に向けられているものはそんな生易しいものではない。

 嫌悪、憎悪、敵意、殺意、そんな感情を一緒くたにして放たれたような黒い感情だった。明らかに立ち入り禁止の場所に入ったからというだけではない。それ以外の何かから呼び起こされた感情だった。

「神罰での活躍は聞き及んでいます。そんなあなたが立ち入り禁止の場所に入るとは感心しませんね」

「……すいません。俺がこの島にいた頃の思い出の場所だったんです。一度でいいから、行っておかないと行けない場所でした。もう、しません」

 少なくとも今のところはと心の中で付け足す。

「わかりました。今回はこの件は不問とします」

 俺の考えは看破されることはなかったようだ。

「ちょっと結衣さん!」

 太刀山が批難の声を上げたが、女性はそれを黙殺する。

「ただし、一つ条件があります。私の兄に会って行ってください。一度、会いたいと言っていましたので」

「あなたのお兄さん、ですか?」

「はい。あなたに拒否権はありません。これは、美榊に在住している人間への命令です」

「別に断るつもりはありません。前科が付くよりはいいですから」

「では、こちらへ」

 女性は促しながら部屋を出て行く。

「ま、待ってくださいっす。僕も一緒に行きます」

 座っていた椅子をがたっと言わせながら理音が慌てて立ち上がる。

 理音に続き、呆けていた太刀山もハッとして姿勢を正す。

「俺も行きます!」

 女性とは特に拒絶することもなく視線だけで首肯するとそそくさと歩き始めた。

 太刀山は俺を忌々しげに睨み付けると、すぐに女性の後を追っていく。

 理音は俺の側にくると、片手で謝罪しながら耳打ちをしてきた。

「申し訳ないっす。ちょっとで終わるはずなんで、お付き合いをお願いします」

「気にしてないよ。元々ここには一度来たいと思っていたし」

「ありがとっす。ただ、あまり下手なことは言わないようにお願いします。ややこしくなるんで」

「俺が下手なことを言ったことが一度でもあったか?」

 理音は乾いた笑いで適当にごまかすと、部屋を出るように促した。

 女性と太刀山は扉から数メートル先に進んだ辺りで止まっており、さっさと来いと言わんばかりに視線を送っている。すぐに理音と後を追う。

 俺は理音も含めて他二人の人間もこの警察署ではどのような立場にいるのかはわからないが、明らかに外部の人間である俺と三人の組み合わせは珍しいようで、好奇の視線が四方から飛んでくる。

「お疲れ様です。結衣さん」

「太刀山君もご苦労様」

 ここの人は若い人間に対してずいぶん好意的に接してくれる。人気者と言ってもいいかもしれない。理音と太刀山は現在とこれからの神罰を生きる人間だ。激励のこもった言葉もたくさんかけてもらっている。

 しかしこの結衣という女性には、理音たちと同じような言葉以外にも、単純に尊敬されているようにも感じた。それも俺たちより一回りも二回りも年上の人たちからだ。それと、誰もこの女性を苗字で呼ばない。おそらく、この人の兄という人も同じ部署、もしかしたら家族絡みでこの部署におり、名前で呼び分けているのだろう。

 それはともかく、この結衣という女性、何か気になる。

 この人はおそらく二十歳かそこらだろう。十八を過ぎた辺りから神力の量は低下していき、二十歳を過ぎた頃には最盛期の数割程度まで減少する。それなのに、この人が保有している神力は太刀山や理音たちと遜色ない。この分なら、神罰に参加していた頃は相当な実力者だったことは間違いないだろう。

 長い廊下を進んでいき、端から端まで移動したところで、突き当たりの部屋の扉を結衣さんが叩いた。

 扉の脇に、署長室と書いてあった。

「え……」

「どうぞ」

 俺の呆けた声と中から聞こえた若い男性の声が重なった。

「入ります」

 結衣さんが扉を押し開け部屋に入り、太刀山と理音が続く。

 こ、この女性とのお兄さんって、警察署長? この人、全然不問にする気ないじゃん。むしろ捕まえる気満々じゃん。

「何をしているんですか? 早く入ってください」

 面倒くさそうな表情を浮かべた結衣さんが中から顔を覗かせ、部屋の中へと招き入れる。

 逃げ出すわけにも行かないので、大人しく従って中に入った。

 署長室は先ほど入った部屋よりもずっと広い間取りとなっていた。入ってすぐのところに応接用の豪華な装飾でできた机と、座り心地のよさそうなオフィスチェアが並んでいる。

 そして、正面にある尊厳な机に一人の若い男性が書類に囲まれて座っていた。

 黒い立派なスーツで身を包み、黒縁眼鏡がかけている。

 忙しそうに書類に目を通していた男性は、こちらに目を向けた途端、手を止めて小さく目を見開いた。

「おやおや、これは珍しいお客様だ」

 優しげな声音を持つ男性は、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら再び視線を書類へと落とした。

「せっかく来てくれたところ申し訳ないが、少し待っていてくれ。この仕事はすぐに片付くからね。結衣、悪いけどお茶を出してくれ」

「わかりました。それにしても仕事が遅いですね。その仕事は数時間前には終わっていなければいけない仕事ではないですか?」

「……そんなことはないよ」

 男性は気まずそうに俺や理音にちらちらと視線をやる。お客さんがいる前で言わないでくれ。そんな感じの視線だった。

 理音は慣れたように椅子に腰掛け、俺に隣に座るように促した。大人しく隣に座り込む。黒い牛皮の椅子はあまりの柔らかさにバランスを崩しそうになった。ずいぶん高級なものを使っている。

 太刀山は俺から一つ椅子を空けて二つ隣に座った。両腕を胸の前で組み、仏頂面で目を閉じている。よほど俺のことが気に入らないらしい。

 初めて入る警察署長の部屋を見渡していると、手早く準備されたアイスコーヒーが並べられた。

 話が始まる前まで手を付けるのもなんなので、じっと待っていると書類の山から声が飛んだ。

「先に飲んでいてください。もっと楽にしてくださって結構ですので」

「ありがとうっす」

 いつも通りの軽い返事を返し、理音はコーヒーを一口飲んだ。

 俺もやはり何かと緊張していて喉がからからだったので、さっそくいただくことにした。

「美味しい……」

 砂糖やミルクが一切使われていないブラックコーヒーのはずなのに、苦いだけでなくほんのりと甘い。どんな淹れ方をしたのかはわからないが、俺が淹れるインスタントでは絶対に出せない味だ。

「ありがとうございます」

 まったく嬉しそうな素振り一つ見せずに言いながら、女性は俺の左前の席に座った。凜とした佇まいは育ちのよさを感じさせる。

 女性はこちらの視線に気付いたのか、女性もこちらに目を向けた。またあの視線だ。目はなんともない普通の目なのに、どうしてかおぞましいほどの負の感情がぶつけられてくる。

 このまま目を合わせていてはあまりの冷たさに血液が凍結してしまう可能性があるので、自然とこちらから逸らしてコーヒーをもう一口飲む。

 実際の時間は五分ほどだっただろうか。実際はそれより遥かに長く感じたが、書類を片付けたと思われる男性が立ち上がってこちらに歩いてきた。

「さてさて、待たせて悪かったね。いやー今日はいい日だ。神罰で今一番ホットな人物と会えるとはね」

「……そんなにですか?」

「もちろんだとも! 本当はもっと早く会いに行きたかったんだけど結衣が許してくれなくてね」

 大げさに手を広げて身をよじらせる男性の姿は、とても警察署長には見えない。いや、まだ警察署長とは決まったわけでは……。

「警察署長ともなると暇がなくてね」

 やっぱり警察署長だったらしい。

「それで、結衣がわざわざ連れてきてくれたのかい? 仕事の合間を縫ってそんな気遣いをしてくれるなんて、さすが我が妹!」

「違います」

 テンションをこれでもかというほど上げていく男性とは対照的に、女性の言葉はどこまでも重い。

「なんだ違うのか! こりゃ参った!」

 なんかこの人めっちゃテンション高い。よく見ると目の下にパンダのような隈が刻まれている。どうやらあまり睡眠を取っていないようで、頭の針が振り切れてしまっているようだ。

 誰か止めてやれよと思うが、この部屋の誰一人男性を諫めようとする人間はいない。いつものことなのだろう。

「だったらなぜキミがここにいるのかな?」

「俺が捕まえてきたんですよ。最西端の立ち入り禁止区域に入っていたんで、連行してきたんですよ」

 一瞬きょとんとした男性だったが、途端に腹を抱えて笑い始めた。

「あっはっは! あんなところに入ったのか! しかも見つかるとはなんて不運な子だ。あんなところを巡回している人間なんてほとんどいないだろうに」

 目じりに溜まった涙をぬぐい取り笑いを噛み殺しながら、男性は机に置かれていたアイスコーヒーを手に取る。

 それを体を仰け反らせながら一気飲み。

 ごくんと一口でグラスのコーヒーを飲み干した。コトンと音を立てて、ペーパーコースターの上にグラスを戻す。

「さて」

 急に冷静な眼差しと落ち着いた声色になった。眼鏡のブリッジを押し上げながら机の上で手を組んで俺を見やる。

 急転直下の感情の波に身をすくませていると、男性は優しげな目で微笑んだ。

「そう緊張せずに。ところで、私のことは知っているかな? これでも一応警察署長をさせてもらっているのだけれど」

「いえ、まったく」

 会いたい人物の名前ならともかく、警察署長なんて普通に生活していたらまずお目にかかることはない人種だ。わざわざ名前を調べたりはしない。

 きっぱりと否定した俺に苦笑いを零しつつ、男性は手を下ろして背筋を伸ばした。

「では、自己紹介をさせていただこう、八城凪君」

 最後のたった名前を呼ぶだけの動作に、こちらのことは何でも知っていると言わんばかりの意味合いを感じて思わず背筋が寒くなる。

「私は御堂大翔(みどうひろと)。こっちは妹の結衣だ。初めまして、八城君。私たちは、今年神罰で命を落とした、御堂准の兄姉だよ」


「准の死は本当に残念だ。あいつがまさか、神罰でならまだしも、妖刀の呪いで死ぬなんて、因果なものだよ。まったく」

 机に肘を突き、組んだ両手で目を隠しながら大翔さんは唸る。

「あいつがわざわざ妖刀を呼び出した理由は、後になって理音に聞いたよ。神罰を止めようとしていたと。本来神罰を正しく履行するためにある評議会から著しく外れた考えだが、今思うとあいつらしいよ」

 小さな笑みの影に寂しさが隠れている。両脇に座る理音と太刀山はどちらも視線を落としている。

 俺は真っすぐ大翔さんを見返していた。ここで視線を落とさない。落としてはいけないと思った。

「俺も、同じ意見です。短い間の付き合いでしたけど、自分の信条は絶対にしているような感じでした」

「まさにそれだ。最後までそれを私たち家族には打ち明けてくれなかったけどね」

 打ち明けられるはずもない。

 兄の大翔さんは警察署長、結衣さんは副署長だ。本来、この二人の若さで警察署のトップに上り詰めることなんてあり得ないことなのだが、二人は同年代の人間の中で飛び抜けて優秀らしい。大学の課程をたった二年で修了、本来これもとんでもないことらしいのだが、大学を卒業後すぐに評議会の中の警察署に勤めた。

 そしてこれからすぐにでも経験を積ませたいということで、無理矢理署長と副所長にねじ込んだのが今の状態らしい。

 存外無茶なことをしていると呆れてしまうが、それでもここ数年事実平常動作を行っているのだ。それだけでもこの人たちがどれほど有能なのかは想像に難くない。

「大翔さんは、御堂から打ち明けてもらいたかったんですか?」

 目の前にいる人もその横で冷たいオーラを放っている人も御堂さんだが、気にしないでいいと言ってくれたのでそのまま使う。

 大翔さんは曖昧な表情で笑うと、結衣さんが追加で淹れたアイスコーヒーを一口飲む。

「そうだね。家族だから、打ち明けてほしかったという気持ちはある。ことが恋愛や自らの進路、夢なんかなら家族であっても言うべきではないときがあるが、これはまったく違う。最悪の場合は島全体を巻き込みかねない。今のキミの立場のように」

 今度は俺が曖昧な表情を作る番だった。

「でも、打ち明けてほしくなったとも思う。打ち明けられてしまえば、立場上そんな考えを許すわけにいかない。評議会に置くことさえ難しくなるし、家が家だから普通に生活することにさえ障害ができたかもしれない」

 大翔さんは僅かに瞳を暗くし、すっと目を細めた。

「その点、キミは非常に特殊な立ち位置にいる。元来であれば私たち以上に歴史を持った旧家の生まれで、相応の力も持っている。それなのに、人生の大部分を美榊島と関わることなく過ごし、美榊の力が及びにくい島外に父親という力を持っている。そして、美榊島内部にも現段階で大きな力を持つ人物たちと友好関係にある。そんなキミだからだこそ、美榊島で神罰を止めるなんてことを公言しているにも関わらず、大した影響を受けずにここで生活していられるんだ」

「……仮に、なんですけど、もし俺がこの島から出ずに父と普通通りに生活していたにも関わらず、神罰を止めるなんてことを言い出したらどうなってました?」

 一瞬目を丸くし、腕を組んでふむと頷く大翔さん。

「まず、家族へ強いパッシングが行くだろう。一体どんな教育をしているんだ、とね。高校生とは言えまだ一生徒の身だ。いきなり子どもに何かあるわけがない。そして、親から子どもへ、そんなことは止めろと、大抵の場合はなる。それで収まればいいが、収まらなければ家族ではなく本人に攻撃が始まるだろう。口で言う者から直接手を出すもの、陰湿極まりない虐げも当然あるだろう。あとはもうなんでもあれだ。親などであれば職をなくすことも考えられるし、家族まで迫害され始める。キリスト教の異端審問にかけられていると思ってくれればいいか。誰も庇ってくれない、この島の人間が当たり前に信じている神を裏切っているのだからね」

 どうやら俺は結構なことをやっているらしい。自分で言うのもなんだが、特殊な立ち位置なだけに気付いていなかった。

「でも僕は、凪の人柄もあると思うっすけどね」

 理音がグラスの縁を指でコンと弾く。

「この島で問題となる背神者は、周囲を先導して神罰に挑もうとする者なんですよ。美榊島には神道以外の宗教も少なからずあるっすけど、どこも神道が混じっているんす。しかし、神道とそれ以外の宗教、そこに第三勢力として神道を否定する宗教ができればどうなるか、わかりますか?」

「美榊島自体が根底から崩れる可能性があるってことか」

「その通りっす。いわゆる新興宗教っすね。それが自らの信じる神を崇めるるものであればいいっすけど、それが他の宗教を攻撃することになると困るんすよ。こう言っちゃ何ですけど、神罰は対立を作りやすい現象っすからね」

「そうならないように、美榊島では子どもの頃から神罰に対しての疑問を抱かないような教育をしているわけですよね」

 大翔さんに向けて言うと、その目が一瞬鋭くなったが、すぐに穏やかになった。

「まあ、そうだね。頼むからそのことはあまり広めないようにね。公の場で口にしていいことではないんだ」

 やや疲れた声音だった。

 神罰に対して疑問を抱かないように教育をするということは、裏を返せば疑問を抱かれた困ることがあるということだ。

 それが何であるかは言うまでもない。神罰が俺たちが背負うべき罰などではなく、術者が意図的に起こしている一つの術であるからだ。

 美榊がどこまでのことを把握しているのかはわからないが、それでも今俺が掴んでいること程度はとうの昔に知っているだろう。

 それを俺が掴むまでに四ヶ月。他の生徒がこの島でずっと過ごしてきて知らないことを俺がそれだけの期間で知ることができただけで大したことなのかもしれないが、それでは足りない。

 俺は渇いた喉をコーヒーで潤し、真っすぐ大翔さんを見据える。

「大翔さん。結衣さんが言っていましたけど、俺に会ってみたいと言っていたのはどういうことですか? まさか逮捕するなんて言わないですよね?」

 冗談めかした言葉に反し、大翔さんの目が全てを飲み込みそうなほど暗く染まった。ブラックホールを思わせる瞳に、言いようもない悪寒が走る。

 先ほどおちゃらけた雰囲気を見せていたが、この人は美榊の警察を総括している人なのだ。表に出している姿は仮の姿まではいかないが、腹に一物抱えているのは間違いないだろうし、美榊を率いるカリスマ性と強かさを持っている。

 トーンが先ほどより僅かに下がった。

「そんなことをはしない。するならとっくにやっている」

「はは、そうですよね」

 軽い返事を返しながらも、警戒だけは緩めない。御堂の兄とは言っても、相手が目的を持ってもこちらに接触しているのは間違いない。その目的が、必ずしも俺に有利に働く者であるとは限らない。むしろ逆の可能性の方が遥かに高い。

 そして、その予想は的中した。

「八城君、評議会に入るつもりはないかい?」

 どんなことを言われても反応しないつもりだったが、心臓がどくんと大きく脈打った。

 左では太刀山が目を見開いて驚愕している。理音はどんな話が出るか予想をしていたようであるが、何かを言おうとすることを堪えるように固く閉口している。

 結衣さんと言えば机の上で結んだ両手を見つめるばかりで何も言わない。

「どういうことですか署長! なんでこんなやつを評議会に――」

「太刀山君には聞いていないよ」

 噛みつく太刀山を冷たい声が遮る。一瞬で体を強張らせて何も言わなくなった。

 俺は真っすぐ向けられた黒い瞳を負けじと見返す。

「いきなり意味がわかりませんね。どうして俺を評議会に? 自慢じゃないですが、規則を守らないことには自他共に定評がありますよ」

 島を管理する人材でこれほど信用できない人物もいないだろう。

 大翔さんはくすりとも笑わずに応える。

「評議会はこの島の未来を第一に考える。その結果、キミの力はこの島にとって非常に有益だと判断されている。保有神力、戦闘技術、神罰での戦果。多少性格に難はあるかもしれないが、それでも高校の成績もダントツのトップだ」

 蛍光灯の明暗のように、また大翔さんの表情が真剣になる。

「これだけの人材は中々いない。キミという存在をおかしな形で失いたくないんだ。どうかな? この島の未来のために、評議会に入ってはくれないか?」

「お断りします」

 考えることなく切り捨てる。

 大翔さんは肩すかしを食らったようにきょとんとする。

 評議会。この美榊島のほぼ全てを統括している組織だ。

 評議会に入ることができれば、きっと俺はこの島に卒業後も暮らすことができる。父さんが帰ってくることも許されるだろう。

 これまでの俺の人生のように、やりたいことも夢もなくただただ惰性で生きている人生に、これほど有意義な存在理由はないだろう。

 でも、そんなものは――。

「申し訳ないですが、俺には興味のない話ですよ。この島は故郷ではありますが、俺がほしいのは美榊の未来ではないです。俺が助けたいのはただ一人。それ以外の人もそのときになれば助けますが、あなたたちは自分の未来を自分で進めることができる。俺は、進めないやつのために、ここにいるんですよ」

 失礼に当たる言動も含んでいるが、こういうことはきっぱりと断るのが一番だ。後腐れなく相手に期待を持たせることなく終わらせるにはこれくらいはっきりとさせていた方がいい。

 横から理音が割り込みにくそうに軽く手を上げる。

「凪、何も署長はあなたの行動を制限しているわけではないっすよ。ただ、この島のために力になってくれないかって話です。それなら凪もいいんじゃないですか?」

 少し視線を動かして理音に向ける。

「違うよ。警察署長が言ったのはそういうことじゃない」

 視線をまた大翔さんへと戻す。

「さっき大翔さんが言っていただろ。御堂が神罰のことを止めようとしていたとき、思ったことは半分半分。半分は家族だから言ってほしかった。もう半分は評議会としては認められない、だ。これを俺に置き換えたとすると、俺は家族じゃないから前者はなくなる。後者だけだ。つまり……」

「ごまかしはいりません」

 冷たい声が鼻先を掠めた。

 ずっと下を向いて言葉を発しなかった結衣さんが顔を上げており、冷めた目をこちらに向けていた。

「その通りです八城君。私たちの要望はあなたが評議会に入ること。でもその際には、神罰を止めるというバカな考えを今後一切持たないことを誓っていただきます。条件としては悪くないはずです。あなたが美榊に対して尽力してくれるなら、今後の未来を全て補償しましょう。その代わり、神罰を止めるなんてことは許しません。神罰が起きているとき以外は、理音さんを監視として付けます。条件としては悪くないはずです。生涯の未来を取るか、刹那の一年を取るか。拒む理由がわかりませんが」

 理解しがたい地球外生命体を見るような目が、俺に向けられていた。

 ふっ、と小さな笑いが口から漏れた。

「何がおかしいんだ!」

 先ほど大翔さんに叱られて借りてきた猫のように大人しくなっていた太刀山が、机を叩きながら立ち上がる。

「こんな好条件を提示されて、断る理由なんてないだろ!」

 俺は怒りを隠そうともしない太刀山を見返す。

 こいつは間違っていない。こいつの考え方は大人のそれに近い。今のことを考えるより、これから生きる未来のことを考えている。

 それが普通だ。小学校、中学校、高等学校、大学、全ては自分の将来のために行っていることだ。それを高校生のこの段階で、生涯を補償すると言ってくれているのだ。

 大人は常に先のことを考える。そのときのために生きるのは子どものやることだ。刹那的な欲求で動き、後先のことなんて考えない。それが子どもだ。

「お前からすればないだろうな。結衣さん、あなたにもないのかもしれません。でも、俺にはあります。そして、御堂にもあった」

 表情こそ変えないものの、結衣さんの瞳が猛獣のように鋭くなった。

「御堂は自分の未来のために、神罰を止めようとしたわけではないはずです。隠れて神罰のことを調べたり、自分に注意を引くために妖刀を降ろしてみたりと、様々なことをやっていました。その結果、妖刀に殺されてしまったのは本当に残念です。でも、御堂が行おうとしていたことは、自らのためではなくそれ以外の何かだったと思います」

 俺は大翔さんへと視線を移す。

「大翔さん、もしあなたが御堂が神罰を調べていることを知ったとして、御堂に対して今俺にした提案と同じ提案をしたとします。そうすると、御堂はすぐに神罰のことを諦め、自分の未来だけを考えたと思いますか?」

 大翔さんは険しい顔をしたまま口を結んでいる。

「俺は絶対にあり得ないと思います。この島の人間が神罰に対して不信感を抱かないよう教育されている中で、御堂はそれでも神罰のことを疑った。そんなやつが、生涯を約束された程度で転ぶとはどうしても考えられません」

 改めて御堂が大したやつだと思い知らされる。

 もっとあいつと色んな話をしてみたかった。この場にあいつがいてくれたら、簡単に話がまとまっていたんではないかと思う。そして、この場にいる人たちを味方に取り込んだ上で、神罰を止めるために動き出せたのではないか。

 そんな甘い夢のようなものが瞼の裏に浮かんだが、すぐにぼやけて見えなくなった。

 そんな未来はもう、ありはしない。

 俺は椅子に座り直して姿勢を正し、真っすぐに大翔さんを見据える。

「申し訳ありません。せっかく誘っていただいたんですが、俺は評議会には入りません。神罰のことを止めるなんてこと、絶対にできません」

「……キミは、本気で神罰を止められると思っているかい?」

「止められると思っているんではなく、止めたいと思っているんです」

 俺は絶対に神罰を止められると思っているわけではない。神罰を止めることを目的として動いているだけだ。

 神罰を止めることに必要なのは絶対に止められるという手段ではない。絶対に止めるという意思が大切なんだ。

 この島では意思がまず狩り取られる。意思がないから神罰を止められない。

 だから、俺や御堂が持っていた神罰を止めるという意思が何より重要なんだ。

「ははっ、やはりそうだよね」

 大翔さんはやれやれと肩をすくめながら表情を崩して先ほどまでの雰囲気を脱ぎ去った。

「それくらいの誘惑で壊れるくらいなら、初めから神罰を止めるなんて考え、すぐになくなってしまうからね。評議会に誘うのは諦めよう」

 ただし、と一度区切る。

「もしあなたが神罰を止めるという行動を取るに当たって、この島に不都合な行動を起こした場合、例えば先ほど言った他の人間を先導するといった行動だが、そんな行動をすれば神罰でどんな戦果を上げているとしても、この島から退去してもらう。今後一切、島の土を踏むことは許さない。たとえその結果、今年の世代が全滅することになってもだ。我々は小よりも大を取る。それが我々の組織だ」

 考え方は軍隊のそれと同じだ。

 目の前に傷ついた仲間がいる。しかし任務遂行には時間がなく、仲間を助けると時間が足りなくなる。この際に、その仲間を助けることが正しいかどうか。

 答えは、人としてなら正しい、だが軍隊としてなら間違っている、だ。

 目の前にいる仲間を放っておけないというのは人としてなら誰だって正しいことだと判断するだろう。

 しかし軍隊や組織は違う。小さい犠牲が出ようとも、その他大勢を救えるならそれが正しいのだ。

「あなたたちはそれで間違っていないでしょうね。あなたたちがその判断をしなければこの島は回らない。でも……」

 これ以上ないほど綺麗な、それでいて真っ黒な笑みを浮かべる。

「俺はお断りです」

 自分でも意地の悪い笑みだったと思う。

 これまで自分のペースを一切崩さなかった大翔さんもさすがに一瞬顔を引きつらせた。

「妥協するつもりなんてありません。あいつを救うためならどんなことでもやります。誰が否定するとか認めるとか、そんなことは関係ありません。ただ俺がやりたいからやる。それだけです」

 これほどまでわがままでみっともないセリフは今までに言ったことがないし、聞いたことがない。自分本位で自分勝手、自分以外のことなんて何も考えていない。

 子どもでももっとまともな判断をすると思う。でも当たり前だが、俺は子どもの頃から成長していないというわけではない。

 ただ、この気持ちを抱いたときが子どもだった。

 そして、そのときからまったく気持ちが変わっていない。

 それだけのことだ。

 視界の隅で、理音が堪え切れないように吹き出し、必死に笑いを噛み殺している。

 俺が言うのもなんだが、緊張感のないやつだ。

 反対側では太刀山が顔を真っ赤に怒りを露わにしているが、大翔さんや結衣さんの手前、我慢しているという感じだ。

 結衣さんは呆れたようなバカにしたような、そんな曖昧な表情を浮かべて視線を逸らしていた。

「ふぅ……ここまで自己中心的な人間だったとは。自分から言い出したことだが、とてもではないが私たちの組織に入れることなどできないね」

 辛辣な言葉とは裏腹に、大翔さんの目は穏やかに笑っていた。

「申し訳ないが、私はキミが神罰を終わらせられるとは正直思えない。それほど、私たちはキミよりずっと多くの神罰を見ているんだ」

「はい」

「私たちはキミに干渉することは極力控える。キミが神罰を終わらせられるとは絶対に思えない。だから、好きにするといい」

「ありがとうございます」

 お礼を言いながら頭を下げる。

 不意に、大翔さんが腕時計を見た。俺も釣られて自分の腕時計に視線を落とす。

 いつの間にか昼前になっていた。

「結衣、そろそろ病院の時間じゃなかったかい」

「……はい、わかっています」

 返事をした結衣さんは、言葉こそ今まで通り丁寧だが、声の節々から苛立ちが溢れていた。アイスコーヒーのグラスに向けられている視線だけでコーヒーが凍り付いてしまいそうな冷ややかなものだった。

「あ、でもその前に皆で食事でもしようか。丁度お昼時だ。理音と太刀山君、八城君も来るといい。好きなものをごちそうするよ」

「私は結構です」

 片手を机に付きながら立ち上がる。

「コーヒーの片付けは任せますので。失礼します」

 こちらには一瞥もくれずに、結衣さんは扉へと歩き出す。

 だが、扉から数歩のところで足を止めた。

「八城さん、これだけははっきりとさせておきます」

 結衣さんがこちらを振り返る。

 今度は、憎悪の感情が明らかに見て取れた。冷たい表情に宿る瞳は炎を灯したように揺れていた。

「兄や理音たちがどう思おうと、私はあなたのことを信用していませんし期待もしていません。むしろ軽蔑しています。いくら神罰で戦果を上げようと、様々なところから信頼を得ていようが関係ありません」

 これまで堪えていた分が耐え切れなくなったかのように弾けた感情の大波だ。

「神罰を止めようとし、あまつさえそれを公言し、周囲に不安と疑心感を募らせた」

「結衣、准が神罰のことを止めようしたきっかけに八城君は関係ないだろう。八城君が島に帰ってくるより以前から、神罰を止めようとしていたのだから」

 そうだ。

 言ってしまえば言い訳のようになってしまう口にはしなかったが、御堂のことは俺とは関係がない。

 御堂が神罰を止めるために自分に注意を集めるために鬼斬安綱を降ろしたとき、俺はまだ神罰を止める決心などしていなかったし、公言もしていない。ただ、神罰自体が気に入らないから、調べていただけだ。

 御堂もおそらくは、幼少の頃から神罰というものを教えられたに違いない。仙術を扱えるほどの力を持ち、玲次や七海同等以上の力を持っていた御堂は、周囲よりは精神的な成長が早かったのではないかと思う。子どもとは言え、神罰に不信感を持つには十分な条件だ。

 どこまで本気だったのかはわからない。

 俺と違い、御堂は毎年終わるはずがない神罰を見てきたはずだ。そんな現実を目にし、自分が終わらせられるという未来を掴むことは、きっと容易なことではない。

 結果として御堂は死んでしまったが、それは誰のせいでもない。御堂が自分で選び、自分で信じた、結末だ。

 結衣さんは止めに入った大翔さんに一瞥もくれることなく俺を睨み付けている。

「そんなことはわかっています。でも、彼がやっていることはこの島において最も許されない罰、神への反逆です。今年の紋章所持者にはなにやら思い入れがあるようですが、結局は自己満足ではないですか。所持者に生きてほしいのではなく、自分が傷つくのが嫌だから助けたいだけ。偽善者。まったく、呆れたものですね」

 まるで地べたを這う虫を見るような目で嘲笑う結衣さんに、俺は笑みを返す。

「以前、御堂にも言われましたよ。偽善者って。周囲に気を遣っているのが腹が立つって。御堂もあなたと同じで、嫌だった。誰かのために助けたり戦ったりしているのが、嘘っぽく見えたんでしょうね」

 笑みを消し、拳を握りしめる。

「でも、それの何がいけないんですか? 確かにそうですね。俺はあいつが死ぬのを見たくない考えたくない絶対認めない。全て俺が嫌だからです」

 開き直った俺に結衣さんの目が鋭くなる。

「たとえ自己満足と言われようが自己満足と言われようが、俺はやりますよ。あなたは自分が本当の善人のつもりなのかは知らないですけど、助けたい人を助けようとしないことが善人だというのなら、俺は喜んで悪人になりますよ」

「――ッ!」

 言い返しそうに口を開きかけるが、音になる前に口の中で噛み潰した。

 このまま続けても自らがぼろを出すだけだと判断したのだろう。

 実際どう判断するかは別の話だが、俺が神罰を止めようよしているのは間違いではなく、正しいことだと結衣さんも根本的にはわかっているのだ。

 美榊島の生徒が未来永劫死に続けるであろうこの現象が、本当に正しいと思っているのなら、それは人がいくら死のうが気にしない冷酷非道な屑だ。結衣さんはそういうタイプではない。

 どちらかと言えば、玲次や七海と同じだ。神罰が起きることは基本的には仕方がないとした上で、神罰によって死亡する生徒を少なくするために画策するタイプだ。

「……あなたと話をしても、無意味な時間なだけだとわかりました。あなたは逸材かとも思っていましたが、この島にとって邪魔な存在でしかないようですね。いずれ神に殺されるのは目に見えていますし、好きに死ぬといいでしょう」

 まるでこれから俺が死ぬことを確信しているような物言いだった。頭から決めつけている。

 今更こんなことを言われた程度で反論するほど、バカではない。こんなことは日頃から言われ慣れている。

 なんと言われたところで止めるつもりがないのだから、ここで反論することも無意味なのだ。

 微笑を浮かべながら結衣さんから視線を背ける。

 同時に、結衣さんも体を返して背を向けた。

「准もあなたと同じ、愚かな弟でした」

 自信の顔に浮かべていた薄ら笑いが一瞬で消えたのがわかった。

「神を守り崇める存在である私たちの家に生まれておきながら、自ら神に背き、泥を塗るような真似をした。神がそんなことを見逃してくれるわけがありません。准は私たちの恥です。私たちに隠れて勝手な真似を行い、そして死んだ。自業自得です。あなたには、弟のように無様な人生を送ってほしくなかったのですけれどね」

「そんな言い方――」

 理音が批難の声を上げると同時に、轟音とともに署長室が揺れた。

 目の前に机に拳が突き刺さっている。三分の一ほどコーヒーが残っていたグラスが倒れ、中身が机に広がっている。拳は手の甲の中程まで机にめり込んでいるが、自分の体ではないように痛みを感じない。

 いつの間にか席を立っており、揺らぐ視界の隅をこぼれたコーヒーが流れていった。

 部屋を出て行こうとしていた結衣さんが驚いてこちらを振り返っていた。

 はっきりと感じ取れるほどの、燃え上がる怒りが脳全体を支配する。

「聞き捨てなりませんね」

 自分でもぞっとするほど怖い声が漏れる。丁寧な言葉遣いを残せたのは自分でも驚きだった。

「御堂が愚か? 恥? 無様? ふざけないでくださいよ。ただ神の罰を受け入れて何もせずに傍観しているだけのあなたに、誰かが傷ついても何にも感じないあなたに、御堂のことを笑う資格があるんですか? 俺から言わせれば、あなたの方がよっぽど愚かですよ」

 突然の蛮行にただ呆然と結衣さんだが、すぐに気持ちを落ち着かせて笑みを含んだ表情に変わった。

「……面白いことを言いますね。私が愚かだと?」

「何もせず何も考えない。ただ考えることを放棄して思考停止している。それがなんとか現状を打破しようとした人間を笑ったんですよ? これを愚かな行いだと言わずしてなんというんですか?」

 一度火の付いた導火線は水をかけても止まらない。俺の状態はまさにそれだった。

 拳を机から抜き取ると、机正面の樹脂は指の形に綺麗に変形していた。

「この島の人間全てが愚かだと思いません。何も疑心感を抱かないよう、教育指導されているのですから当然と言えば当然でしょう。でも、あなたは違う。御堂と同じで、幼い頃から神罰がどういうものか教えられ、それが全て真実でないということにあなたも気付いている」

 疑問ではなく言い切った俺に、結衣さんは反論することはなくただ目を細めてこちらを見返していた。

「知っていながら、あなたは見て見ぬ振りをしている。御堂はそれが嫌だったんでしょう。だから行動を起こした」

 その結果、命を落としてしまったのは残念な結果だ。だが――

「それを愚かだと笑うあなたは一体何様なんですか? ただ何もしないならそこらの石ころと同じです。石ころと同レベルのあなたに、御堂を笑うなんて、絶対に許さない」

 自分でもどうしてここまでの怒りが沸いてきたのかわからなかった。

 自分のことならなんと言われても構わなかったが、御堂のことは聞き流すことができなかった。

「ずいぶんと言ってくれるではないですか。あまり評議会の人間に盾突くと、この島にいられなくなりますよ」

 脅し文句をかけてきた結衣さんを鼻で笑って頭を振る。

「できるもんならやってみくださいよ。俺は――」

 指の隙間から白煙を生み出し、机に広がったコーヒーを全て掻き集めて起こしたグラスに戻した。

「あなたたちが束になってこちらを妨害してこようと、全員返り討ちにしてみますよ。絶対に止めたりしませんから。俺は神罰を止めます。どんなことがあっても、諦めたりしません」

 結衣さんは、両拳をミシミシと音が鳴りそうなほど固く握りしめ、忌々しげに顔を歪めている。

 すっと、それら全てが溶けた。

 空っぽの瞳、全ての感情が抜けた落ちた表情と病的なまでに白い肌が、まるで幽霊のように薄ら寒くなった。

「そこまで言うなら、試させていただきましょう」

 言いながら眼鏡を外すと、ポケットから取り出したケースに収めた。

「ちょっと結衣……」

 なにやら察した大翔さんが止めに入ろうとするが、結衣さんは一瞥するだけで制した。

 そしてまたすぐに俺に視線を戻す。

「八城凪君、私と模擬戦をしていただけませんか?」

「模擬戦?」

「ええ、そうです。あなたが准がやったことは間違いではない、自分も同じものを志しやり遂げることができると言うなら、力でそれを証明してみてください。散々大口を叩いたんです。それくらい可能でしょう? それができたなら、准のことも撤回しましょう」

 挑発するように口元を歪める。しかし、瞳は空虚なままで底知れない感情が潜んでいる。


「そして、もし私があなたを下した場合、あなたには本日中にこの島から退去していただきます」


 一瞬、この人は何を言っているのだろうという考えが頭をよぎった。

 理音は椅子から腰を浮かし、何か批難の声を上げている。それに短い言葉で結衣さんが応えてあしらっている。

 正面では大翔さんが仏頂面のまま結衣さんを睨み付けていた。

 太刀山は話の展開に着いて行けないようで、話には入らまいと口を結んでいる。

 火照った顔の熱を逃がすように長々と息を吐き出した。

「結衣さん、確かにあなたが現段階でも神力を相当量保有しているのはわかります。でも、こちらは神器を持っています。模擬戦というのは、神器なしの戦いということでよろしいんですよね?」

「違います」

 一言で切り捨てられる。

 訝しげに眉をひそめていると、結衣さんが右手を掲げた。

「あなたは勘違いをしています。神降ろしで得た武器はほとんどの生徒が卒業と当時に縁を切り手放しますが、全員が全員というわけではありません」

 手のひらに溢れ出した神力が集まり、不規則な形に変化したかと思うと、七本の刃を持つ剣を形成した。一つ一つの刃が規則的に七本並び、一つの刀と化している。

 七支刀。分類としては刀か剣か怪しい形状を取っているが、紛れもない事実が一つあった。

 その武器は神降ろしによって得た神器なのは間違いない。

「私もこの通り、神器所持者です。能力のどれを取ってもあなたに劣っているとは考えられません。もし必要なら、手加減をしてあげますけど?」

 先ほどのお返しとばかりに挑発してくる。

 だが、挑発されたことなんかよりも俺の意識はまったく別のところにあった。違和感を覚えたのだ。

 ここで何かを言うことに意味は、おそらくだがない。

 だったら気になることは後回しにして、一つ挑発に乗ってみるのもいいだろう。

 不敵な笑みを返しながら、こちらも手の中で白煙を遊ばせる。

「手加減なんていりませんよ。全力で結構です。そうでないと実力を見せたことにならないでしょう」

 ただし、と指を一つ立てる。

「もし俺があなたに正しく力を示せたなら、御堂への誹謗を撤回する以外にもう一つ条件を呑んでいただきます」

「……ずいぶん傲慢なことを言うのですね」

「そうでもないでしょう。あなたは御堂のことの撤回以外に、俺に島を退去するという条件を提示している。こちらから一つ条件を出して公平というものです」

 どちらかと言えば御堂の撤回についてもこちらの要望であるわけだが、押し黙る結衣さんを肯定と受け取り、正面の大翔さんへと向き直る。

「すいません。警察署長室の机を破損してしまいまして。弁償します」

 いきなり机のことを持ち出され、呆気にとられた署長だったがすぐに持ち直した。

「ああ、いや、それは気にしなくていい、こちらの発言にも問題があった。でも、いいのかい? こんな勝負に乗って」

 こんな勝負と言うのは島を出ることをかけた勝負ということだろう。

「俺みたいな一般人は、こういう勝負事でしか得られない条件もあるってことですよ、安心してください。条件と言っても、大したことではありません。そちらが絶対無理だというのであれば妥協します」

 俺も無理な要求などしない。無理難題を突き付け、何も得られなければただの無駄になってしまう。相手が要求の呑める条件を提示し、最大限のものを得られるようにするのが取り引きというものだ。

 椅子を机に戻し、険しい顔をしている結衣さんに笑いかける。

「では、早いところ始めましょうか。こちらも夏休みとはいえあまり暇ではないですし、そちらは仕事がありますものね」

 まあ俺をこの島から排除するのも一つの仕事というのかもしれいないが、深く考えるのはよそう。なんだか悲しくなってくる。

 署長室を出た俺は一時大翔さん、結衣さんと別れた。結衣さんの準備があるのと、大翔さんが何か話があるそうだ。

 俺はと言うと、理音と太刀山に連れられて、エレベーターで地下へと移動していた。

 市役所は上にも高層ビルのごとく突き出ているが、地下にも施設を持っている。この辺りは島国の本土と同じで、限られた土地を生かすために地下開発が進んでいるのだ。

「それで、このエレベーターの先には何があるんだ?」

 階を示すデジタル表示が少しずつ減っていくのを見ながら尋ねる。

「地下のほとんどは訓練室になっているんですよ。上でやると建物が壊れる可能性があるんで、下でやればよほどのことがない限り地盤が崩落ってこともないですからね。地下に金属の巨大な箱があると考えてくれるといいっすかね。あらゆる衝撃を寄せ付けない特殊合金でできています。美榊高校の校舎にも使われているんすよ」

 さすが美榊の技術。考えることも実行するのとんでもないな。

「なら好きなだけ戦っていいってことだな。まあ、相手は女性だし、さすがに気を付けないといけないよな」

 理音は答えなかった。

「そんな余裕、一瞬でなくなるぞ。むしろ自分の命の心配をしろ」

 代わりに太刀山が会話に入ってきた。エレベーターの扉付近に立ち、壁に背中を預けて腕を組んでいる。

「何? 結衣さんそんなに強いのか?」

 一応俺の方が年上だが、太刀山はそんなこと関係なくタメ口を使ってくるのでこちらもフランクに返す。

「俺は俺たちの代で三本の指に入る順位だが、一ヶ月前の立ち会いで、三秒で意識を飛ばされた」

 三秒って、本当に一瞬だな。

 太刀山の実力がどの程度のものなのかがわからないので正確なことは言えないが、太刀山と結衣さんの間には相当な実力差があると判断できる。

 そもそも、この島の一般的な知識として、大の大人よりも現役美榊高校生の方が単純に強いという事実がある。

 五歳程度くらいしか離れていないであろうが、それでも年の功だ。技術に差が出てしまうのは仕方がない。

 だが、年月によって得られる技術を簡単に凌駕してしまうものがこの島にはいくつかある。

 例えば神力の保有量。神力保有量のピークは十八歳くらいのときにあるため、仙術の使用の有無を別にしても身体能力が常人より優れている。

 また、本来大人の神力では所持できない神降ろしの神器を有しているからという理由もある。

 しかし、結衣さんはこのどちらの条件も俺たちと同等だ。

 神力保有量は理音や太刀山と遜色ないまでに持ち、あろうことか神器まで所持している。

 条件から言って普通の美榊高校生では太刀打ちできる要素がない。

「まあ、なんとなるんじゃねぇの? 技術では劣るかもしれないけど、神器では絶対に劣ってないだろうかな」

 そもそもあの七支刀がどんな銘を持つ神器なのかはわからないが、天羽々斬より優れているとは考えにくい。

「そういえば、もし凪が勝ったら、何を要求するつもりなんすか?」

「んー、ちょっとした交渉材料になってもらおうと思って」

 なんか自分で言って不穏な言葉にしか聞こえないな。

「バカなことを言い出したらただじゃおかないぞ」

 案の定太刀山に噛みつかれた。

 チンと音を立てて、エレベーターが停止して扉が開いた。

 正面には白く長い廊下が広がっている。

 少し歩いたところで、理音が前に出て脇にある扉に手をかけた。

「ちょっとここで待っていてくださいっす」

 扉を開けて理音は中に入っていき、廊下には俺と太刀山だけが残される。

 どちらも口を利かない。そもそもついさっき会ったばかりで色々誤解があったから話づらいことこの上ない。

 俺は扉とは反対側、太刀山は扉側の壁に背中を預けて戻ってくる理音を待つ。

 すると不意に、太刀山が話しかけてきた。

「本当に神罰を止めるつもりなのか?」

「さっきの話を聞いてて、お前は冗談に聞こえたのか? それなら俺も修行が足りないな」

「やろうとしていることが既に冗談なんだよ」

「失礼なやつだな」

 散々言われてきたことなので今更反論したりはしないが。

「今回のことは丁度いい機会だろう。どうせ先で死ぬ身なら、ここで結衣さんに島から叩き出してもらった方が無駄死にしなくてだろう」

 意外な言葉に目を丸くして向かいの後輩を見る。

「何? 俺のこと心配してくれてんのか?」

「ばっ、ばっかちげぇよ!」

 顔を真っ赤にして否定する太刀山は見ていて面白かった。

 仏頂面でズボンのポケットに手を突っ込み、長々と息を吐き出して空を見つめる。

「ただ、そんな死に方をして悲しむ人を見るのが、嫌なだけだ」

「……? それって誰の――」

「おまたせっすー」

 なにやらビニールに包まれたものを持って理音が戻ってきた。

「ん? 仲良くなったんすか?」

「まあな」

「誰がこんなやつと」

 まったく別方向の答えを返しながらも俺は理音が持つものへと目を向ける。

「凪はこれに着替えてくださいっす」

「これ、高校のブレザー?」

「そうっすよ。まさか、その薄手の服装で模擬戦する気だったんじゃないっすよね?」

「その気だったが?」

 呆れたようにため息を吐く理音にちょっと傷つく。

「バカなこと言わないでくださいよ。今はまだ夏休みすけど、ここで怪我でもしたら今後色々面倒になるっすよ。凪は、もう島から出る気でいるんですか?」

 真剣みを帯びた言葉にぐうの音も出ない。

「結衣さんも結衣さんで準備をしているはずっす。こっちもしっかり準備しないとダメっすよ」

「そうだな、悪い。助かるよ」

 理音が服を取ってきた部屋に一度入り、そこで手早く着替える。どうやらここは衣服などを訓練などに使う衣服などを保管しておく場所のようだ。

 ブレザーに袖を通し、軽く体を動かしてみる。いつも着ているブレザーの感覚通りだ。いや、いつも通り過ぎた。

 部屋を出ると、理音と太刀山が待っていた。

「もしもし、理音さん。ブレザーのサイズ、気持ち悪いくらいぴったりなんですけど、まさか理音さんには一目見ただけでその人の体のサイズを把握できる能力をお持ちで?」

「まっさかー、凪の体のサイズなんて全て把握しているに決まっているじゃないですか」

「決まってねぇよ! ストーカーかお前は!」

 大方どこからか俺の様々なデータを入手しているんだろう。油断も隙もあったもんじゃねぇな。

 廊下を皿に進むと、大きく頑丈な扉があった。

 太刀山が両手で押し開ける。

 そこは、理音の言った通り箱でできた部屋だった。広さは体育館いくつもの並べたような部屋で、バスケットコートが十は入りそうだ。高さは大体三十メートルと言ったところか。

 俺たちみたいな人間が戦うには丁度よい部屋だ。

 反対側にある扉が開き、そこから大翔さんと結衣さんが現れた。

 大翔さんは変わらずスーツ姿だが、結衣さんは服を着替えていた。スレンダーの体に纏うのは黒色の軍服だ。模擬戦とはいえ、激戦になることは容易に想像ができる。これほど戦闘に適した服はないだろう。

 こちらも準備をするか。

「さーて、じゃあ行ってくるかな」

 体を慣らしながら部屋の中央へと歩いて行く。

「あれ、結衣さんの情報とか聞かないんすか?」

「そんなもん聞いたらフェアじゃないだろ。模擬戦って言っても、正々堂々勝たないとな。後腐れなく終わりたいし」

 ひらひらと手を振りながら歩いて行く。

 久々の対人戦だ。

 夏休みで平常時より鍛練は行っていないが、それでもコンディションは悪くない。

 左手に天羽々斬を鞘に入った状態のまま生み出す。

 直後、バチッと電流が走るように神力が散り、刀から肩辺りまで伝わってきた。

 最近たまにではあるのだが、天羽々斬を使用する際に違和感を覚えることがある。扱いに問題があるのわけではないのだ。むしろ常に絶好調と言えるような状態だ。

 なんと言うか、今まで一方通行だった会話に返事があるような、そんな感じ。俺にはまだ、天羽々斬を完全に扱えるだけの技量がない。

 それでも、俺に力を貸してくれている。

「本当に、感謝してるよ」

 静かに刀に向かって呼びかけながら、俺は部屋の中央で立ち止まった。

 歩み寄ってきた結衣さんは俺から十メートルほど距離を取ったところで止まり、大翔さんが間に入る。

「島を出る心構えはできましたか?」

「最近、ようやくこの島になら根を下ろしてもいいかと思い始めたんです。やはり故郷はいいですね。神罰もなくなれば、もっと住みやすくなると思うんですけど、評議会の人の意見はどうですか?」

 皮肉を皮肉で返しながらお互いに笑い合う。存外腹黒同士で似たもの同士なのかもしれない。

 間に入っている大翔さんはただただ苦笑い。

「お互いの条件を確認するよ。結衣が勝った場合は、准への誹謗を撤回しない。そして、八城君はこの島を去る。間違いないね?」

 結衣さんが首肯する。

「八城君が勝った場合は、准への誹謗を撤回させる。それともう一つの条件を確認しておきたいんだが……」

「必要ありません」

 答えようとしていた俺より先に結衣さんの言葉が飛ぶ。

 結衣さんは目を伏せ、右手を左腰に回してそこから引き抜く。

 先ほど見せた七支刀。日本刀や長剣などの基本的な形とは外れているものの、これほど規則正しく美しい刀も中々にないだろう。

 長さは五十センチほどと短めだが、間違いなくあの七支刀は他の武器とは違う種類の力を持っている。明らかに高位の神器だ。

「どうせ勝つのは私です。要求など聞くだけ無駄です」

「俺は構いませんよ。後で言っても呑んでいただける条件でしょうし」

 こんなところで張り合っても仕方がない。

 それにしても、結衣さんは見かけによらず相当な自信家だ。

 俺もある程度は自信を持って何事にも取り込むようにしているが、基本的にいつも失敗することを念頭に必ず置くようにしている。まず失敗から考え、それに繋がりそうな要素を一つ一つ潰していく。

 しかし、結衣さんに負ける要素を一つ一つ潰すのは中々骨が折れそうだ。どちらにせよ、まずはあの七支刀の能力を把握する必要がある。

「お互いがそれでいいなら結構。では、準備をしてもらえるかな」

 深呼吸をしながら刀の柄に手をかける。ひんやりとした感触とともに、天羽々斬から流れ出た神力が指を伝う。刀を鞘から抜き、鞘は消す。

 純白の刀身から生み出された白煙が俺の周囲を取り巻いた。

 大翔さんは目を大きく見開き、正面の結衣さんは悟られまいと堪えていたが一瞬眉がピクリと動いていた。

 何度やっても、初めて天羽々斬を目にする人の反応は面白い。

 だが、反対にこちらも度肝を抜かれることになった。

 結衣さんは七支刀を前に突き出した。

 直後、七支刀の七つの切っ先が生き物のようにうねる。

 そして、正面である俺の方向にではなく、手にしている結衣さんに向かって伸びた。植物のツタのように刀身を躍らせ、結衣さんの手首に巻き付くと、そのまま刀身と結衣さんの体が一体になるように溶け合った。

 やがて刀身だけではなく、鍔や柄といった全ての部分が結衣さんの体内に取り込まれた。

「すげぇ……人体ビックリショーだ」

 体内寄生型の神器。話には聞いたことがあるが実際目にすることになるとは思わなかった。

 神器は、使用者が手に持って使用するものがほとんどだ。例外として、体に身に付ける七海のレーヴァテインなどもあるが、大抵は実体化したまま用いる。

 しかし、神器の中には、稀に物質としての形を持っていない場合や、体内に取り込んで使用するものが存在する。

 あの七支刀もその一つだ。

 一体どんな銘を持つ武器なのやら。

 驚きの光景に心臓がどくどくと脈打っていたが、それもすぐに収まっていった。

 両手で握った刀を前に出し、切っ先を引いて防御がしやすい状態で構える。

 結衣さんはその場で構えるわけでもなく、ただ視線だけをこちらに投げている。

 武器である七支刀を体内に取り込み、本来の大きさであった刀身の長さよりもリーチが圧倒的に短くなった素手という状態。

 しかし、それが本来のリーチであるはずがない。

「模擬戦の勝敗についてだが、どちらかが降参、あるいは私が戦闘不能と判断した段階で終了とする。わかっていると思うが、お互い過度の攻撃は禁止。明らかに意図して攻撃を行った場合は、直ちに止める。厳罰も受けてもらう。結衣であってもだ。わかっているね」

 結衣さんはこくんと頷く。

「八城君もいいね」

「もちろんです」

 両者の返事を確認した大翔さんは、ゆっくりと俺たちから距離を取っていく。

「最初に言っておきます」

 あと少しで大翔さんが開始の合図をするというところで、対戦相手が話しかけてきた。

「自分が勝てないと判断した場合は、すぐに降参してください。私とて人殺しはしたくありません」

「過度な攻撃は禁止、と言ってももしということはありますからね。そうですね、勝てないと判断したら、すぐにでも」

 勝てないと判断したら、と心の中で復唱する。

 それを判断するということは、俺がこの島を去り、そして心葉の命を諦めるということだ。その後おそらくは二度とこの島の土を踏むことはなくなるだろう。

 絶対に、負けられない。

 深く呼吸を繰り返し、刀身、続いて体中に神力を満たしていく。

 下手をすれば勝負は一瞬で決する。

 気を抜くな。

 自分に言い聞かせながら刀の柄を強く握りしめる。

 大翔さんはほとんど壁際まで下がった。その場には理音と太刀山もいる。

 神力を持つ者同士の戦い。

 すぐ側に入れば巻き込まれない、あれほど離れても足りるかどうかとわからないほどだ。

「では――」

 大翔さんが声を張り上げる。

 結衣さんの目がすっと細くなり、指先がピクリと動く。

 俺は足に大量の白煙を集めた。

「始め――ッッッ」

 鋭い声が響き渡ると同時に、結衣さんが腕を振り上げた。

 直後、結衣さんの体からいくつもの刃が放たれた。

 四方八方に飛散した刃は結衣さんの体から生み出された剣だ。

 放たれた刃は結衣さんの体を基準に伸び続け、周囲を取り囲むように迫り来る。

 俺は仙術で脚力を限界まで強化し、白煙をほとんど真横に蹴り飛ばして回避する。

 先ほどまで俺がいた場所をいくつもの刃が穿つと同時に、後方数十メートルにあった壁に着地する。

 回避したところで、改めて結衣さんの攻撃を確認する。

 軍服の袖から覗く腕から、何本もの剣が生えている。剣の形状は結衣さんが当初具現化していた七支刀を枝の数を増やしながら、延々と伸ばし続けたような形だ。

 一本の伸びる七支刀だけでも十分過ぎる脅威を持っているにも関わらず、今見えているだけでも五本ある。

 質量保存の法則をこれまで無視した能力もそうそうないだろう。

 刃の網の向こうで結衣さんが目を丸くし、大翔さんたちも驚いていた。

 十メートルあった距離をまったく問題としない恐ろしいまでに早い不意打ち。それが躱されたことが意外だったのだろう。

 結衣さんの持つ七支刀の能力がこんなものであったのはこちらも驚かずにはいられないが、それでもある程度推測はできていた。

 太刀山が開始三秒で意識を吹き飛ばされたと言っていたし、結衣自身勝てないと判断したらすぐに降参しろと言っていた。

 攻撃手段はスピードに秀でたものだと大体予想を付けていた。

 だがそれがまさか、腕を振るだけで間合いや挙動を全て無視した攻撃などほとんど反則だ。

 とんでもない初見殺し。太刀山は三秒と言っていたが、俺がまともに攻撃を受けていれば一秒と持たなかっただろう。

 壁を軽く蹴り、入り口近くに着地する。

 すぐ目の前に二本の刃が迫っていた。

 二つの刃の軌道をまとめて天羽々斬で一閃する。

 重い衝撃が腕に伸し掛かるが仙術の力で強引に跳ね返した。

 リーチが長いなんてもんじゃない。中央から部屋の端まで届く驚異的なリーチだ。

 次の攻撃が来るより先に結衣さんの側部に回り込むように走り出す。

 結衣さんはさらにもう一方の腕を上げ、追加の刃を生み出した。

「なんて人だ……」

 信じられない思いが声になって漏れた。

 両手合わせて十本にもなる刃が触手のように恐ろしい速度で襲い掛か襲い掛かってくる。

 体を通すのがやっとなほど狭い刃の網を駆け抜け、結衣さんの側部に回り込み刃の網が一瞬薄くなったその隙を突いて一気に速度を上げる。

 勢いを殺さないまま側面の壁を蹴り、上方にある天井に跳び上がった。

 先ほどまで下にいた俺を囲うために張り巡らされていた刃の網も上は薄い。

 金属板が凹むほどの力で天井を蹴り飛ばし、上空から結衣さんを強襲する。

「ッダアァア!」

 振り下ろされた天羽々斬。

 防ぐように一瞬で俺と結衣さんを遮る刃の防壁が張り巡らされるが、構わず天羽々斬を叩き付ける。

 激しい衝撃と金属がぶつかり合う甲高い音が響き渡る。

 数本の刃が砕け散り、刃の防壁の向こうに一瞬結衣さんの辛そうに歪んだ顔が映った。

 その穴の縫うように刃の切っ先が飛び出してきた。

 即座に左手を天羽々斬から離すと、左肩の辺りに白煙を集め、それを殴って体を下に逸らして刃を回避する。

 そのまま床に着地し、今度は僅かに空いた結衣さんの下方に足を滑り込ませて払う。

 結衣さんは跳んで足払いを回避する。しかし慌てて跳んだため、俺の間合いから脱出できていない。

 どうにか時間を稼ごうと無数の刃を向けてくるが、こちらの方が早い。

 足払いに使った足でそのまま床を踏みしめ、刀身に膨大な神力を流し込んで全力で振り抜く。

 結衣さんが纏っていた七支刀の刃を根こそぎ砕き、その向こうにあった結衣さんの体をその衝撃で吹き飛ばした。

 七支刀の刃を床にぶつけて体勢を整えながら結衣さんは着地した。

「……中々やりますね」

 結衣さんの表情からは模擬戦開始前の余裕の表情は崩れていた。

「それはこちらのセリフ、っていうのを先輩に言うのは失礼ですね」

 一人で乾いた笑いを浮かべながら天羽々斬を前に出す。

「正直、今の攻撃を受けて十秒持った人は一人もないのですが……。ちょっと自信がなくなりますね」

「こちらだって今の一撃を防がれるとは思っていませんでしたよ」

 物理属性に限れば、攻撃面、防御面ともにこれまで見たあらゆる神器よりも突出した能力も持っている。

「でも、大方種はわかりました。体の調子も気になりますし、早めに終わらせましょうか」

「……? 何の話を……」

 途中で言葉に詰まらせた結衣さんの目がキッと鋭くなる。

 図星、か。

 だったら時間をかけて戦うわけにはいかない。

 空いた左手で漂わせていた白煙を握る。白煙の中から鞘が現れる。

 天羽々斬を鞘に納める。

 行けるよな? 天羽々斬。

 確認するように意識を向けると、はっきりと神力の脈動が返ってきた。

「頼むからな。力を貸してくれよ」

 右足を前に出し、姿勢を低くする。

 鞘に納めた天羽々斬は左腰に回し、手を柄から少し離したところに置く。

 結衣さんも素早く構え直す。

 抜刀術。鞘に刀を納めた状態から抜き放つ形で攻撃する技術だ。

 俺が得意としている剣術の技術の一つだが、居合いはあくまでも対人戦に効果を発揮するものだ。魑魅魍魎の神罰では一度として使用したことがない。

 抜刀術は片手で攻撃をするため、両手の扱いよりは攻撃に重みがなくなるが、それでも体重移動や体の回転を加える攻撃力は絶大だ。

 そして何より、抜刀術において最も秀でているのはその速さだ。鞘から抜き放たれた一瞬後には勝負が決している。そういう技術だ。

 結衣さんまでの距離は大体三十メートル。本来なら絶対に刀が届く距離ではないが、仙術を用いた瞬発力によりその間合いは何倍にも広がる。これくらいの距離でも十分攻撃できる間合いだ。

「バカですね。居合いでこの攻撃が防げると思っているんですか!」

 結衣さんも勝負を決めるつもりだ。

 怒気とともに吐き出された先ほどの倍はある量の刃が一斉に飛来する。

 視界の隅で理音たちが声を発しようとしていた。

 これだけでの攻撃だ。俺が何もしなければ冗談ではなく体をバラバラにされる。間違いなく死ぬ。

 鞘に閉じ込めた天羽々斬に惜しみなく神力を注ぎ込む。

 目と鼻の先に視界を覆い尽くすほどの刃が迫る。

 リーチならこっちも負けない。

 目と鼻の先にある死を前に、口元を緩める。

 天羽々斬を握りしめ、鞘に閉じ込めた神力を爆発させる。

 目の前の空間全てを一閃する。

 放たれた白刃の斬撃は流れ星のように一瞬軌跡を残して消滅した。

 左にある壁から正面、右側の壁まで、白い壁に一直線に傷が走る。

 眼前に迫っていた刃のほとんどは粉々に砕け散った。

 神力の一閃は結衣さんの頭上ギリギリを掠め、周囲に刃の欠片が降り注いだ。

 鞘に神力を閉じ込めることによって、攻撃力を一撃に注ぎ爆発させることができる。放たれた斬撃は視界を切断するようなもの。

 しかし、こんな危険な技は神罰では使えない。乱戦がほとんどの神罰でこの攻撃を使えば味方の体をまとめて真っ二つにしてしまう。

 刃の大多数を破壊され、結衣さんは僅かに怯んだものの、斬撃の破壊を免れていた刃を攻撃に転ずる。

 再び刀を鞘に戻し、真っすぐ結衣さんに向かって走り出した。

 七支刀の刃は当初に比べて急激に減った。先ほどまで軽く二十を超えていた刃は、今は五本程度しかない。

 天羽々斬の白煙と同じだ。体に纏わせているだけなら神力はほとんど消費しないが、体から切り離し消滅してしまえば神力はそのまま消滅する。

 守りに入ったときと先ほどの反撃の際と、二度刃を破壊している。あれほど長く広範囲に広げていた刃を一度に砕かれれば神力は一気に減少する。

 その証拠にほとんど動いていないにも関わらず、額に汗を浮かべ、表情はどことなく苦しそうだ。

 迫り来る刃を姿勢を低くして躱し、続いて地を這うように迫った刃を鞘の腹で弾き返す。

 そして、結衣さんの間に白煙の障壁を張り巡らせる。

「意味のないことを……!」

 刃が踊り、障壁はバラバラに切り刻まれてただの白煙に戻る。

「焦ってますね結衣さん。こんな子どもだましに引っ掛かるとは」

 煙を突き破って刃の中に飛び込む。

 再び天羽々斬の神力を爆発させる。

 体を仰け反らせ、左から上を通し右に天羽々斬を振り抜いた。

 半円を描くように光が輝くように伸びきった刃を全て打ち砕く。

 これで、結衣さんを守るものはない。

 新たな刃を生み出される前に、結衣さんの懐に飛び込む。

「くっ……!」

 結衣さんは距離を取ろうと足を動かすが、その足を白煙ですくう。

 たたらを踏んだ結衣さんを前に、刀を鞘に納める。

 チンという小気味のいい音が響く。

「結衣さん。申し訳ないですが」

 鞘に納めた刀は、戦闘終了の合図などではない。

 再度神力を鞘に注ぎ込む。

「斬らせてもらいますよ。それ」

 結衣さんは目を丸くするが、回避できる体勢ではない。

「凪!」

「お前何を――!」

 理音と太刀山の声が飛ぶが、俺は止まらない。ここで止まるべきではない。

 さらに一歩踏み込み、天羽々斬を振り抜いた。

 脇腹から肩にかけて、刀身が結衣さんの体を右斬上に斬り裂いた。

「あっ――」

 結衣さんの目から一瞬にして生気が抜け落ち、虚な目のまま仰向けに倒れた。

 その拍子に、天羽々斬によって結衣さんの体から弾き出されたそれは、くるくると回って鉄の床に突き刺さった。

「……成功か」

 手の中の天羽々斬は本来あった刀身の形状をしていない。代わりにあるのは稲妻のように迸る白銀の神力だ。物質化をせず神力をエネルギーとして力場で固定することによって、本来干渉し得ないものに干渉することができた。

「お前一体何をやってんだ!」

 突進してきた太刀山が掴みかかってくる。

 大慌てで走ってきた理音は倒れた結衣さんを抱き起こしている。

「何考えてるんだ! もう勝負は付いてただろ! なんで結衣さんを斬った!?」

「お、おい、落ち着けよ」

「落ち着けるわけないだろ! 結衣さんを殺しておいて何を――」

「だから落ち着けって」

 ごつんと頭を叩いて太刀山を退かせる。

「確かに俺は結衣さんを斬ったが、傷一つ付いてないはずだ。たぶん」

 言われた太刀山は赤くなった額を押さえながら結衣さんに目を向ける。

 天羽々斬の刃は確実に結衣さんの体を斬った。しかし、体どころか服にも傷一つない。あってもらっては困るのだが、体や服などは斬ることができない状態で斬ったのだ。

「結衣さん、しっかりしてください! 結衣さん!」

 理音が意識のない結衣さんの体を揺さぶる。

「うっ……」

 呻き声を上げ、苦しそうに表情を浮かべながら結衣さんを意識が戻った。

「な、何が……ッ」

 なぜ自分が気を失っていたのかを疑問に思っていたようだが、突然ハッとして目を丸くした。

「な……ない……」

「ないって、何がないんですか結衣さん! 体どっか悪いんじゃ……」

 太刀山がおろおろとしてうろたえるが、結衣さんの耳には届いていない。

「ど、どうして、ないの……」

 俺は天羽々斬は鞘に納めて、結衣さんたちから離れていく。

「結衣さん」

 離れた場所に突き刺さったそれ。それを床から引き抜き、問題ないことを確認する。

「捜し物は、これですか?」

 結衣さんの体から飛びだしたそれは、先ほどまで結衣さんが七支刀だ。

「なんで、それがそんなところに……」

 結衣さんの震える指先できらめく神力が僅かに揺れる。

 しかし、何も起きずに神力は空気に溶けて消えた。

 結衣さんは、はっきりと確信したことだろう。

 もう自分の中に、神器はないのだと。

 俺は呆れて果てて深々とため息を漏らした。

「なんでじゃないですよ。こんなもん使ってたらダメでしょう? 早死にしたいんですか?」

 痛いところを突かれたのか、言葉を詰まらせて黙り込んだ。

「どういうことかな。八城君」

 遅れて近づいてきた大翔さんは、通信機のようなものをポケットに戻しながら尋ねてきた。結衣さんのために人を呼んだのだろう。

「今キミは何をしたんだ?」

 答える前に七支刀へと意識を向けた。気持ちの悪いざわざわとした感触が手のひらを通して伝わってくる。間違いがないようで安心した。

「この七支刀、鬼斬安綱と同じ、妖刀の類いですよね?」

「妖刀!?」

「その刀がっすか!?」

 太刀山と理音は一様に当然の驚きを見せていたが、結衣さんと大翔さんは気まずそうに視線を逸らすだけだ。

「間違いないよ」

 今も俺が握っているだけで、体を蝕もうとしてくる力を感じる。

 神器のランクは天羽々斬より低いようなので無理矢理押さえつけることができるが、もしこの七支刀よりも力の小さい神器であった場合はどうなるかわからない。

「最初からおかしいと思ってたんですよ。神罰で高校三年生しか戦わないのは、その前後が神力のピークだからでしょう。それなのに結衣さんの神力は今も大きいまま。そんな特殊な人がいるならその人も神罰で戦えますよね。そんな人は普通いないから、神罰は高校三年生だけで戦う」

 神力は二十歳になるくらいから本当にがくっと落ちるものなのだ。だからこその高校三年生だけで戦うのだ。

 だとしたら、特殊なのは結衣さんと考えるのが自然だ。

「その膨大な神力に、まだ縁を切っていない神器。それから考えられるのは、縁を切っていないのではなく、縁を切れないということ。神力が多いのは無理矢理七支刀に引き出されていたからというのが妥当でしょう」

 俺の推測を二人は否定しない。

 そもそも、神器は禁術の神降ろしを行って得たものだ。卒業直後の生徒が持っているのは不思議ではないが、卒業して数年経つ人間が持つことを許されるわけがない。

 縁を形成している以上神力を消費し続ける。それは命を少しずつ削っているのと同義だ。だから、神降ろしで得た神器は高校生しか持つことが許されていないのだ。

 結衣さんも隠したかったのだろうからその辺りのことは伏せていたが、疑問に思うには十分だった。

 顔色は病人のように悪いし、おそらくは病院に行くと言っていたのもこの妖刀が関係しているのだろう。神力を無理矢理引き出され続けているということは、生命力を強制的に吸い上げられているようなものだ。

 生命力が溢れている若い子どもだから扱える禁術なのだ。

「持ってるだけならまだしも、こんなの使ってたら神力をさらに消費して無理矢理体から引き出される。ひどい悪循環です。下手すれば数年も経たない内に死んでたかもしれないですよ」

 実際、この先長い間少しずつ消費されていくエネルギーを全て先取りして使っているようなものだ。

 ロケットで宇宙まで行けるところが、推進剤の燃焼に異常を来し本来到達する高度到達する前に燃料不足で落ちるようなもの。

「た、大変じゃないですか! なんで今まで言ってくれなかったんですか!」

 大声を上げる太刀山。

 結衣さんは暗い顔をしたまま、唇を噛んでいた。

「言ったところで、どうこうなるものでもないですから……。私にどうにもできないなら、他の誰にもどうにもできないんですよ……」

「自らの神器を扱えるのは本人だけ、本人がどうにもできないんなら、他人が扱えるものではない」

 だから隠していたんだよ、と大翔さんは言う。

「な、なら、結衣さんはこれからも命を吸い取られ続けるってことっすか?」

 結衣さんと大翔さんは、何も答えなかった。

「いや、それはもうないから大丈夫」

 大翔さんは目を丸くしてこちらを振り返った。

「どういうことかな……?」

 苦笑しながら七支刀を天羽々斬の鞘でカンカンと叩いた。

「結衣さんがこの七支刀から神力を吸い上げられるのは縁があるからでしょう。だから俺が天羽々斬で結衣さんの縁を切断させてもらいました。これは結衣さんが降ろしたものですけど、もう結衣さんは扱うことはできませんし、神力を吸い取られることはないですよ」

「縁を、切ったのか?」

「はい、かなり強引に行かせてもらいましたけどね」

 しかしこの七支刀、縁を切ったというのにすぐに消えないとはさすが妖刀というべきか。

 にしても、初めて見る妖刀だが、鬼斬安綱とはずいぶん印象が違う。

 鬼斬安綱は確かの他の神器にはない異彩を放っていた。ランクとしてもかなり高位の力を有していたのも間違いないだろう。

 本来神器は、力を注いだ分だけ効果を発揮してくれるのがノーマルの形だ。しかし、妖刀は自ら力を得るために強制的に所有者から神力を取り込んで自らの力を発現する。

 言わば蛇口の壊れた水道口のようなものなのだ。

 鬼斬安綱はそんな様子はなく、御堂は自らの意思で操っていたと感じる。あの神器は妖刀ではなかった。

 やはり御堂は、鬼斬安綱に殺されたわけではない。

「何にせよ。勝負は俺の勝ちです。結衣さん、御堂へと暴言を撤回してください」

 未だ呆けていた結衣さんに俺は告げる。

「御堂は、俺は、俺たちは間違っていない。愚かではないし、やってるいることは恥ではない。神罰を止めることは、絶対に過ちであるはずがない。御堂のことを、そんな風に思うのは止めて上げてください」

 御堂のことはほとんどの人が、鬼斬安綱によって殺された可哀想な人ぐらいにしか思っていない。あいつがどんな思いを持って、死んでいったのかを知らないから無理はない。

 でも、結衣さんは違う。あいつが何を願い、何を信じて戦ったのかを知っている。きっと御堂が神罰を止めようとした理由の中には、結衣さんのためという理由もあったはずだ。

 それなのに、結衣さんにそんな風に思われるのは、悲し過ぎる。

「あいつのことを、誇りに思ってやってください」

 結衣さんは苦しそうに目を閉じた。俯き、目が前髪に隠れる。

「……あなたに言われなくても、そんなことはわかっていますよ」

 結衣さんは理音に体を支えられながらふらふらと立ち上がる。体にはほとんど力が入らないようで、立っているだけでもやっとのようだ。

「あなたに負けたのは確かです。言ったことは撤回します」

「はい、ありがとうございます」

 俺がお礼を言うのもおかしな話だが一応言っておく。

「それで、もう一つの要求とは……?」

「それは大翔さんにお伝えしておきます。それより結衣さんは今すぐ病院に行ってください」

 天羽々斬を消し、七支刀を手の中で転がす。

「この七支刀は俺が預かっておきます。しばらくすれば消えるでしょう。それ以外方法がなかったとはいえ、結衣さんとこの七支刀の縁を強制的に切断しましたからね。これまで無理矢理引き出されていた神力は全て消えます。体はその神力の量でバランスを取っていたはずですからね。本来あるべき神力の量で体が落ち付くまで、しばらく神力切れの体調と同じ状態になると思います」

 丁度そこへ、大翔さんが呼んできた人たちが現れた。

 搬送用のストレッチャーに乗せられた結衣さんが運ばれていく。

 結衣さんはもう俺の方に視線を向けることはなく、俺も同様に外していた。

「理音、太刀山君。君たちも結衣に着いて行ってくれ。私は八城君と話があるのでね」

 渋々という様子だったが、理音と太刀山は頷いた。

 理音が気負ったような目を向けてきたが、笑って頷き返した。

「それじゃあ八城君、上に戻ろうか」

「はい」

 持ってきていた荷物を拾い、七支刀は鞄に入れてあったタオルで包む。ちょっとはみ出したがショルダーバッグに突っ込んでおく。

 降りてきたときとは違うエレベーターを使って上に戻っていく。

「やってくれたね。八城君」

「ははは、やっぱりやり過ぎましたかね」

 二人になった途端に大翔さんはかなり砕けた口調へと変わった。

「そんなことはないよ。まさか、縁切りをできるとは思わなかった。どこでそんな技術を学んだんだい?」

「いえ、なんとなく思いついたんです。最初からなんか怪しい武器だという感じはしてたんで、縁を切った方がいいと思って」

「……それはつまり、初めてやったということ?」

「ええ、できるかどうかも知りませんでした」

 途端に大翔さんは吹き出して笑い始めた。一頻り笑った後、目じりの涙を浮かべながら壁に背中を預ける。

「とんでもないなキミは。島の外にキミを残しておいたかと思うと恐ろしいね。結衣に模擬戦で勝ったというだけでも驚きなのに、縁切りまでやってのけた。キミがその思いつきでやったことはね、過去を見ればできた人間は何人かいるが、それも片手で数える程度。現在行える人間はこの島にはいないよ」

 それは俺も驚きだが、そもそも縁を切らなければいけない状態なんてそうそうないだろうから、需要はほとんどないのではないかと思う。妖刀なんてそんな転がっているものではないし。

「でも、結衣さんには悪いことをしました。体にかかる負担があそこまで大きいとは思ってなかったので。命には関わりはないはずですけど」

「問題ないさ。結衣はあれでもタフだ。神力の調子も多少不安定だったけど、【正宗(まさむね)】を持っていたときに比べれば全然いいよ」

「ま、正宗? この七支刀、妖刀正宗なんですか?」

「そうだよ。形は七支刀とちょっと変わってるけどね。キミの思っている正宗で間違いないよ」

 正宗と言えば妖刀の代名詞とも呼べる武器だ。江戸時代に実在した刀で様々な逸話を持つ刀として有名だ。

 まさかそれがこんな形状を持ち、現代に縁を切れない妖刀となって降ろされているとは。能力と力はさすがという他なかった。

 エレベーターがゆっくりと止まる。階数を確認すると、署長室がある部屋より高い階にあった。

「ここは会議専用のフロアだ。この時間はどの会議も入ってなかったはずだから、ゆっくり話せるよ」

 警察のフロアよりも開けた造りとなっており、広い廊下が前に広がっていた。しかし大翔さんの言う通り誰も使っていないようで、人っ子一人いない。

 適当な部屋の立て札を空室から使用中に変え、大翔さんと揃って中に入る。

 少人数で会議を行うための部屋のようで、十畳くらいの部屋に四脚の椅子と長方形の机が一つあった。正面には窓があり、そこから街が一望できるようになっている。

 手前にあった機械で二つのコーヒーを淹れると、その片方を俺に手渡した。

 そして、窓際にあった椅子に腰を下ろした。俺もその正面に腰を下ろす。

「結衣が色々悪いことを言ってしまったね」

 大翔さんは視線を窓の外に投げた。

 眼下には絶えず人が行き交う街があり、少し離れた場所には山々が広がっている。空には入道雲が高々とそびえており、大翔さんはその動きを追っていた。

「結衣も准のことを本心から悪く思っているわけじゃないんだよ。ただ、それくらいに思っていないと、心を平静に保っていられなかったんだ」

「結衣さんが、妖刀を所持していたからですよね?」

 大翔さんは憂いた笑みを浮かべる。

 手当たり次第に、様々なことに手を付けて神罰を止めようと考えていた御堂。その一つに選んだのが、呪い殺されると噂のあった鬼斬安綱を降ろすこと。

 御堂が妖刀と言われた鬼斬安綱を降ろそうと考えた理由の一つに、結衣さんが妖刀を所持していたというのが、僅かながらあったはずだ。

 それに、妖刀をどうにかできないかと考えたのなら、自分にも降ろして結衣さんの解決策を何か見つけられたという発想に至っても不思議ではない。

 結衣さんは、御堂が神罰を止めようとしたという事実以上に、自分が御堂の死の一端を担ってしまった考えているのだ。

 実際には、そんなことは微塵も関係ないと言うのに。

 俺はコーヒーを一口飲む。今度はアイスコーヒーではなくホットコーヒーだ。冷房のよく効いた会議室には丁度いい熱さだ。

「准が死んだという知らせは、さすがに堪えたよ。それは、私も結衣も同じだ。あいつの戦闘技術は十分神罰を生き残れるレベルのものだったし、今年のメンツは十分過ぎる力量を持っていた。犠牲は出てしまっているが、それでも例年に比べればずっと少ないのは誰の目から見ても明らかだ」

 そんな中、御堂は突然逝った。

 御堂の周囲は、未来に期待をしていたことだろう。素行が悪く、それは意図した振る舞いであったのは今だからわかることだが、それでも将来を羨望されていたはずだ。

 誰が御堂が死ぬことを予想していたというのか。

 おおっぴらになっていないとはいえ、その原因が神罰を止めようとしたことであるとは、周囲はそれは泡を食ったことだろう。

 大翔さんはコーヒーを飲み、熱い息を漏らした。

「本来、あいつはこんな道を歩いてはいなかったんだ。それが細々とした要因が重なって、結果神罰に矛先を向けてしまった。結衣の要因も、その中の微々たるものだ。でも、結衣はそれが許せなかった」

 自分を責め始めた結衣さんは、毎日仕事に没頭していったそうだ。御堂の死を忘れるように、ただ打ち込む。誰もが痛ましくその光景を見ていた。

 正宗に向けられた思いも、当然深い憎しみへと昇華する。しかし、そんな気持ちは妖刀へは好物だった。より強力な神力を求めて結衣さんの体から力を引き出した。そのせいで、最近は病院へ通う回数も増えていたそうだ。病院へ行けば、ある程度は妖刀の影響を緩和することはできるが、それでも完全ではない。担当医の判断では、このまま行けば三十まで生きることができないかもしれないということだった。

 あの場で結衣さんの縁を切っておいて正解だった。後になって、縁を切らせてくれなんて言っても、聞き耳を持ってはくれなかっただろう。

「これで結衣が妖刀に苦しめられることはない。多少神力を多く消費してきた影響が零になることはないだろうが、そこはある程度治療でどうにかできるだろう。本当に、感謝しているよ」

「いえ、勝手にやったことですから。できると思ったことをやっただけです」

 感謝されたことの照れを隠すために手の中で紙コップを転がす。

「それでも、感謝している。これで御堂の死の重荷も、少しは軽くなってくれる。結衣も、私も、准が死んだことをいつまでも引きずってはいられない。私たちにも責任はある。しかし、それを理由に今の仕事を投げるほど、私たちの立場は簡単ではないからね。あいつが妖刀を手にしたことも、悲しいけど、受け入れられる」

 大翔さんの目が一瞬光った。瞬きを素早く何度かすると、少し前の落ち着いた目に戻っていた。

 心の中で引っ掛かを覚える。

 半分ほどになったコーヒーに吐息とともに気持ちの欠片が落ちる。

「大翔さん、御堂のことで、お伝えしておかなければいけないことがあります」

 窓の外に向けられていた二つの目が、こちらに向いた。

 俺も、心葉も、いつ死んでも不思議ではない身だ。

 結衣さんの縁切りは、成功するという自信があった。

 でも神罰を必ず止められるという気持ちは、今の俺にはない。

「驚かないで聞いてくださいと言うのは無理だと思いますので、落ち着いて聞いてください」

 俺は自信家ではない。常に失敗を考えているつもりだ。結衣さんの場合でも、失敗した際の問題はそれほどなかったのだ。

 俺が死んだ後、この島にも残すものは必要なのだ。

 この先、大翔さんや結衣さんは神罰を受けることはなく、未来を生きていく。そんな二人に、俺ができる数少ないことだ。

 意を決して、言う。

「御堂は、妖刀に呪い殺されたのではありません。神罰を起こしている、神に殺されました」

 話を聞き終えた大翔さんは両肘を机について顔の前で手を組んでいた。目を覆い隠すその仕草はただの癖か俺に考えを悟らせまいとしているからか。

「……信じられるものではないよ」

 しかし、と呟いて小さく息を吐く。

「御堂を殺した犯人が誰なのかは現段階ではわかりません。ただ、犯人がいることは間違いありません。御堂の死亡理由は神罰ではあり得なかった。そして鬼斬安綱によって殺されていない証拠が現場に残されています」

「それは、わかった」

 神罰が終わった後にも生きていた御堂。現場にない鬼斬安綱。切り傷以外の外傷。血の付着していない手のひら。

 あらゆる物証が御堂が妖刀によって殺されてはいないことを裏付けていた。

「なぜ、キミはそれを私に話した……」

 責めるような言葉が刺さる。

 大翔さんからしてみれば、知りたくない事実だったのだろう。

 この島の人間は物心付いたときから無条件に神を信じている。

 言葉を覚えていない生まれたての幼児に言葉を教えず、ただ人がいる空間に置いた場合、どういうことが起きるか。答えは勝手に周囲で話されている言葉を覚えるということ。赤ん坊は周囲の言葉を無意識に聞いて、それを言葉して発するのだ。

 この島の神への信仰はその言葉を教えない子育てと同じことが言える。

 神への信仰を説くまでもなく、赤ん坊は周囲の神への信仰を当然の、当たり前の事実として受け取り、自らもその色に染まっていく。

 この島に来て数ヶ月経つが、神への信仰の大小はあれど、神への信仰がまったくないという人間に会ったことがない。

 特に大翔さんのような名家で育てられた人間は、他の人間より深い信仰を持っているはずだ。

 その中で、御堂の出来事は決定的だ。

 神罰は神が起こしているのは周知の事実だが、それは過去この島の人間が犯した過ちに対する罰だ。

 神罰を止めるために動いた。その事実は許されるものではないのかもしれない。神罰を止める人間を排除するということもわからないでもない。

 しかし、御堂の死には決定的な差異がある。

 明確な悪意が見えているのだ。

 殺害方法の残忍さもさることながら、神罰が終えた直後に殺すことによって、神罰を起こしている神が殺していないと見せかけるという狡猾さ。

 失敗していたとはいえ、そこには言いようのない恐ろしさが垣間見える。

「大翔さんには知っていてほしいと思ったからです。俺の勝手な考えで申し訳ありません」

 謝罪を求めているわけではないのはわかっているのだが、なんとなく漏れていた。

「俺は、おそらくはどうあっても来年の三月、本年度の間しかいられないでしょう。神罰を止められていたらいいですが、神罰を止められなかった場合、俺の得たものは誰かに残す必要があります。大前提として、俺の目的は神罰を止めることはないですからね」

 でも、神罰は止めるべきものなのだ。

「元々、自分がかなり無茶なことをやろうとしているのはわかっています。時間が限られていますからね。ある程度情報を残しておけば、後々の人が神罰を止める手掛かりになるかもしれないですから」

「……キミは、私が神罰を起こしている人間だとは思わないのかい?」

 大翔さんが何気なく発した問いに、俺は吹き出してしまった。

 その問いは、かつて御堂が俺に向けたものとまったく同じものだった。あのときも、お互いの情報交換をしているときで、簡単に情報を交換した俺を疑問に思っていての発現だった。

 顔を覆っていた手をどけ、大翔さんは怪訝な顔をしていた。

「いえ、以前御堂にまったく同じことを言われました。やっぱり、兄弟ですね」

 笑いを噛み殺しながら言うと、大翔さんも微かに口を緩めた。

「それで、キミはなんて答えたんだ?」

「えーとですね、確か、当然そっちも神罰を起こしている神が俺だという可能性を捨ててはないんだろって言って、御堂が当たり前だって仏頂面で言ってました」

「ああ、あいつならそう言うだろうな」

 大翔さんは笑いながら、すっかり冷たくなってしまったコーヒーを飲む。

「そうか、あいつを殺したのが、この神罰を起こしている元凶、か」

「……はい、おそらく間違いありません」

 なんとも言えない沈黙が流れる。

「理音にはこのことは伝えていません。知っているのは俺と、今年の紋章所持者の椎名だけです」

「そうか。理音には知らせない方がいいだろうな。あいつも准が死んだ後は塞ぎ込んでいたからな。キミも私を信用して話してくれたのだろう。私も、このことは他言しない。私が話さなければいけないと判断したときにだけ、話させてもらうよ」

「はい、お願いします」

 お互い重い話を終え、大翔さんは少し腕時計を気にした。

 大翔さんは仕事の合間を縫って時間を取ってくれているし、結衣さんのこともある。

 俺は結衣さんとの勝負の条件を大翔さんに伝えた。

 怪訝な表情をする大翔さんに簡単に事情を説明し、了解を得た。

 十分な成果を獲得し、俺は市役所を後にした。

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