20
「あっちー……」
夏休み初日。
天高い位置に存在している太陽が無遠慮に肌を焼いていた。
日焼け止めは塗っているとはいえ、本土からずっと南方に位置する美榊島に照りつける日光はきついものがある。さらにその日光を砂浜と海との照り返しを受けて、気分はさながら鉄板上の肉のようだ。
「俺なんでこんなところにいるんだろ」
しかも、水着一丁で。左手の巨大な腕時計は昼過ぎを示している。
他にも周囲には先ほど必死に息を吹き込んで膨らませたビーチボールやビーチマット、砂浜に突き刺したパラソルなどが並んでいる。
座り込んだまま項垂れると、砂浜に数滴の汗が落ちた。
後ろで砂を踏む音がする。
「そりゃ、泳ぎに来たからに決まってんだろ。あちっ、あちち」
後方で同じく水着の玲次が足をばたつかせながら跳ねている。
「俺、本当なら今日は図書室に閉じこもる予定だったんだけど」
「いいじゃねぇか一日ぐらい。せっかくの夏休みなんだから。俺たちも明日から忙しくなるからゆっくりしていられる日はあんまりないんだよ」
それ完全にお前らの都合じゃん。
まあ流されている俺も俺だが。
俺の前に出た玲次は真っ赤な地に稲妻のような模様が入った派手な水着を着ており、泳ぐための準備運度を開始した。さすが、神罰で戦うために鍛えているだけはある見事な体つきで、見た目にはそれほど筋肉が出ているわけではないのだが強靱な肉体であることは一目でわかった。
深々とため息を潮風の中に吐き出す。
腰に手を当てて体を大きく仰け反らせて俺の方を見て苦笑した。
「そんな陰気な顔すんなよ。お前にだって悪い話じゃないんだから」
「……何の話からわかりませんね」
「またまたー。いやこのむっつりさんは困りますなー」
とりあえず仰け反らせているその後頭部を蹴り飛ばしておいた。
反動で玲次が顔面から砂浜に突っ込んだ。
「こんなに暑いのによくやるわね。あんたたち」
不意に後ろから声をかけられ、首を傾げて振り返る。
同じく水着姿の七海がそこにいた。
ビキニタイプのネイビーのストライプ柄。ビキニとはいえ柄的には地味なタイプに入るであろう種類なのだが、七海が纏うとなぜか派手に感じてしまう。
強調されるのは決して控えめとは言えない胸元にはくっきりと谷間が浮かんでおり、このビーチに他の男どもがいれば周囲の視線を一身に受けたことだろう。
日頃から鍛えているのは玲次と同じはずなのだが、日頃扱う力はどこから出てくるのかと思うほどスレンダーな体つきをしている。
モデルとして売り込めばナンバーワンを軽く掻っ攫っていきそうだ。
「七海さん、なんか気合い入ってます?」
「どうして? これくらい普通でしょ?」
俺にはこの島の普通という価値観がわからない。
「それより、私の姿を見て何か言うことはないのかしら?」
若干上から目線で胸に手を当てて体を強調する七海。
格好と状況が状況なだけにちょっと開放的になっているのかもしれない。
体の向きを変えて俺は七海に向き直り、ふむと頷く。
「そうだな……うん、似合ってるよ。気合いが入っているなんて言ったけど、よく似合ってるな。もういっそそっち方面の仕事に行けば引く手数多なんじゃないか?」
「はっ倒すわよ」
「すいません調子に乗りました」
殺意を向けられてすかさず頭を下げる。
七海とこんなやりとりができるようになったのも、一時期を思い出せば考えられなかったことだ。
「まったく……」
七海は呆れた視線を上から落としてくる。
「まあ精々後で感謝するといいわ。土下座でも何でも受け付けるわよ」
「なんで俺がお前に土下座をせにゃならん」
今度はこちらが呆れ顔で返すと、七海がこちらに顔をよせてふふふと嫌な笑みを浮かべた。
「そんなことが言えるのも今の内ね」
自信ありげに胸を反らすと、過剰に胸の膨らみが強調される。
思わず目を逸らしたところで、砂浜に遅れてやってきた足が視界に入る。
「おまたせー」
暢気な声を上げながら、熱そうに足をぱたぱたさせながらこちらに歩み寄ってくる。
柔らか声色ですぐに誰が来たのかがわかり、自然と視線が上に行った。
俺たちは今日、四人で海に来ることになった。
部屋で本を読み漁っていた、突然部屋の扉を何度も叩かれた。インターホンがあるのになぜわざわざ叩くのかと覗き穴から外を窺ったところ、玲次の顔が一杯に映し出されていたのだ。
部屋を開けた瞬間に部屋の外に引き釣り出され、否応なしに街のデパートまで連れて行かれた。
あまりの強引っぷりに抵抗する気すら起きなかったほどだ。
そのままデパートの水着売り場に連れて行かれ、適当に着られる水着やら日焼け止めやらを適当に買わされ、タクシーに押し込まれた。ちなみに巨大な腕時計もここで買った。
購入させられた袋を胸に抱え、呆けて何も言えないにも関わらず、タクシーのタイヤが回転し始めると同時に我に返った。
どこに行くつもりだと、いきなりなんだ的なことを、なぜかわざわざ助手席に体を投げ出して座っている玲次に問うと、玲次はあっけらかんと答えた。
「夏だよ夏が来たんだよ! 夏と言ったら海に行くしかねぇだろ!」
何が行くしかないのかさっぱりだったが、途中で道に二人揃って立っていた心葉と七海を拾って、タクシーは走った。
美榊高校は北側の海沿いにあり、東側に俺が初めて島に来たときに訪れた港がある。タクシーはあまり行ったことがない、美榊高校から反時計回りに西側へと回った。
「ここにね。島の人もほとんど来ない穴場があるんだ。と言うか、凪君も、昔来たことあるよね?」
確かに覚えがあるが、どんな場所だったかは中々思い出せなかった。
タクシーは山道を走っていき、やがて開けたところで止まった。
海は心葉の言う通り完全にプライベートビーチ状態で、真っ白な砂浜と水平線まで見通せる海が太陽の光を受けて爛々と輝いていた。
美榊島には泳げるビーチが他にもいくつかあり、このビーチは街などから少し離れた場所にあるので、あまり人は来ないようだ。
俺は流されるまま玲次と適当に岩場の影で着替え、心葉と七海は少し離れたところにあるという更衣室に着替えに行った。なんだかんだで多少の管理はされているらしい。
そして今に至る。
「着替えるのに手間取っちゃって」
現れたのは、ワンピースの水着を纏った少女。ライトグリーンの淡い布地が肩から太ももの半ば辺りまで広がっている。いつもは隠れている腕と足はほっそりとして艶めかしく、肌は雪のように白い。首元から布地があるので胸元は見えないが、普段は厚着のブレザーの下に隠れている胸は着やせする体質なのか、女性らしく膨らんだ胸ははっきりと見て取れる。いつもは流している長い髪は、一つに束ねて肩から胸の方に垂らしている。
色々と言っているが、とにかく何が言いたいかというと……。
眼福です。
無意識に目を閉じて手を合わせていた。
「な、凪君? 何拝んでるの?」
「ハッ……い、いやなんでもない。気にしないでくれ」
両手をぶんぶんと振り否定する俺の背後で、玲次と七海がニヤニヤと笑っているのをひりひりと感じた。
心葉は少し恥ずかしそうに胸に手をやり、頬を赤く染めながらこちらを見返した。
「ど、どうかな凪君。この水着、似合ってる、かな?」
たどたどしく控えめに尋ねてくる心葉に思わずドキッとさせられた。
「……おう、よく似合ってるよ」
胸が早鐘のように打ち、そんな気の利かない一言しか出てこなかった。
普段から一緒にいることが多い心葉だが、水着姿の心葉は本当に艶めかしくて目のやり場に困る。
「さーて、揃ったところで、いっちょ泳ぎますか!」
玲次は気合いを入れて走り出した。
そして、勢いよく高々と跳び上がった。軽く三十メートルくらい宙を舞い、青々とした海に落下した。
普通ならあり得ないほどの跳躍だが、ここでそれを見られて困る人間はいない。
しばらく海に沈んでいた玲次だが、浮き上がってこちらに手を振った。
「っぷは! おーい。お前たちも早く来いよ! 今日しかのんびりできないんだからさ! 遊べ遊べ!」
七海は嘆息を一つ落とすと、頭を振った。
「まったく、誰もいないから無茶して。今行くから待ってなさい!」
悪態を吐きながらも、七海は楽しそうに笑いながら海へと駆けていった。
元気だな。こいつら。
苦笑して同じく大ジャンプをして海に飛び込んでいく七海を眺めた。
俺の前にしゃがんだ心葉がこちらに手を差し出した。
「ほら、凪君も行こ。二人ともあんなだし、今日はゆっくり羽を伸ばそう」
……なんと言うか、こう水着姿の心葉に上目遣いで言われるのって、なんか凄い破壊力あるわ。
「ああ、ここまで来て逃げたりはしないよ。この島に来てまともに遊んだことなんてほとんどないからな。今日は楽しませてもらおうかな」
そう言いながら、差し出された握れば折れてしまいそうなほどか細い手を掴む。
掴むと同時に、どこにそんな力があるのかと思うほど力強く体を引き上げられた。
折れそうなほど細い手に見えて、この手で戦ってきているんだ。
神罰を、そしてあの学校での嫌な生活を。
「さ、行こ」
「おう」
そんな苦しみを欠片も見せずに、心葉は微笑みながら俺の手を引いて走り出した。
美榊島の海は透き通っていて遥か遠くまで先が見渡せる。
泳ぐ人が少ないこともあり、海水は濁ることなくありのままの姿を見せてくれる。
熱帯魚の魚群がすぐ近くを通り過ぎ、様々な珊瑚礁が海底に所狭しと生えている。
ちなみに仙術を応用すると、数分は息をしないで水中を泳ぐこともできるのだ。
海の底を仰向けにゆっくりと泳いでいく。ゴーグル越しの水中から見上げる海面は真上から降り注ぐ太陽を受けて万華鏡のように光っている。
上を小さな魚たちがたくさん泳いでいく。
こんなにも綺麗だったんだな。この島の海。
いつも潮風は肌に感じているが、島の外に無限に広がる海原はこれほどまでに綺麗だったんだ。本土の海では決して見ることなどできない、汚れなき青。
俺が知らないだけで、この島にはいいところがたくさんあるんだよな。ただ、俺が知らないだけで。
真上にゆったりと影が近づいてきた。心葉だ。
心葉は真下をゆっくりと泳ぐ俺を見てにんまりと笑っていた。俺も自然と口がほころんだ。
すると突然、このはが慌てふためき始めた。何をそんなにと首を傾げている間にも、心葉はジェスチャーと口をぱくぱくとさせて何かを伝えようとしている。
俺はそれがおかしくって思わず吹き出してしまった。
と同時に、頭に衝撃が走る。
「ごはあっああああっ!」
どうやら珊瑚礁に頭をぶつけてしまったようである。仙術を使用しながらくぐっていたので大した怪我はなかったが、それでも痛いものは痛い。
悶絶する俺を見て、心葉はお返しとばかりに大笑いをしていた。
さらに俺のすぐ近くを一メートルはある鮫が横切っていった。途端に、体が竦み上がる。すぐに人は襲わない温厚な鮫だと気付いたが、それでも心臓は口から飛び出しそうなくらいばくばくと言っていた。
心葉は笑いを一頻り噛み殺した後、もっと先の海へと泳いでいった。俺もそれを追いかけて、サファイアのように輝く海にくぐっていった。
しばらく泳いで一度浜辺に上がり、パラソルの下に座り込む。
「よく泳いだー。どうよ美榊の海。中々いいもんだろ?」
「ああ、最高の海だ」
「ほい」
玲次がクーラーボックスの中から持ってきた、炭酸飲料を投げてよこした。
「っと、サンキュー」
ぷしゅっと音を立ててキャップを外し、乾いた体に水分を流し込む。口の中に広がるピリピリとした刺激が心地良い。
玲次は俺の横に腰を下ろして、同じように炭酸飲料をあおる。女子二人組はまだ海でわちゃわちゃやっている。
俺たちはひとまずお休みだ。
「七海ちゃん見て! アワビにチョウガイにマベガイ! これだけ貝集めれば真珠とか出てこないかな!?」
心葉はワンピースのスカートを広げてその上に大量の貝を乗せいていた。色んな意味で危ない格好をしている。
「な、あんたなんて量を……。しかも水着をそんな使い方して……」
「大丈夫だよ。下もビキニ着てるから」
「そういう問題じゃないわよ……」
少し疲れたようにため息を吐きながら額を押さえている。七海も苦労が絶えんな。
心葉は集めた貝をどばーと波打ち際に落とした。
そして二人してしゃがみ込み、せっせと貝をほじくり始めた。
あんなことをして真珠がホントに見つかるんだろうか。たぶん無理だな。
「七海も心葉とだけだったら子どもっぽいな」
「だろ? あいつ心葉にはマジで甘いんだよ。お前は心葉の母ちゃんかって、いつも言ってたな」
過去形なのが、微かに気になった。
「いつも俺と七海で心葉を甘やかすもんだから、お前ら夫婦かって、皆にからかわれたりもしたな」
夫婦、か。
視線をちらりと玲次に向ける。玲次の横顔には、なんとも言いがたい表情が浮かんでいた。嬉しさや寂しさ、楽しさや悲しみを一緒くたにして放り込んだような、そんな感情が読み取れた。
「そういや、聞いたぞ。お前と七海、許嫁なんだって?」
ペットボトルに口を付けようとした玲次の動きがピタリと止まる。一瞬瞳を揺らした後、ため息を吐いてキャップに蓋をし、ペットボトルを砂浜に突き刺した。
「……大方、理音辺りだと予想する」
「ビンゴ」
俺が指を立てると、玲次は苦笑しながら砂浜に手を突いて空を仰いだ。
「形式上は、まあそうだ。でも、俺はあいつとそういう感じになるつもりはない。俺は、できそこないの代替品だ。絶対、代わりにはなれないよ」
「代替品?」
「そ、許嫁は俺だけど、あいつが好きだったのは兄貴だったんだよ」
「兄貴って……総一兄ちゃんか?」
玲次は目を見張ってこちらを見返した。
「なんだ。思い出してたのかよ。何も言わないから、てっきり完全に忘れてるのかと思ったぜ」
「いやー、面目ない。実際ついこないだまで忘れてました」
はははと苦笑しながら、玲次は足元の砂をすくってぎゅっと握った。手の中で細かな砂がさらに砕け、粉末状になって潮風に流された。
「総兄はさ、本当に将来を渇望されててさ。それでも、あんな簡単に逝っちまって」
寂しさをごまかすような笑みを浮かべて、離れたところで貝をほじくっている七海を見つめた。
「総兄が死んだ後のあいつの姿は見てらんなかった」
総一兄ちゃんが死んだことを話すときに七海の目に浮かんでいた黒い感情は、今思い出すだけでも胸が痛む。七海が感じていたであろう苦しみは、俺には想像に難くない。そんな気は毛頭ないが、俺も似たような痛みを伴う可能性は十分にあり得るのだ。
「俺も俺で一杯一杯だったんだけどな。総兄、神罰で戦ってる日々の中でも微塵もそんな気配も見せずにさ。総兄も寮生活だったから、たまに帰ってくるといつもと変わらない様子でただ笑ってた。神罰で生徒が死んだ後もさ、悲しそうではあったけど、総兄は笑うんだ」
意外な言葉に眉をひそめる。
総一兄ちゃんのことを思い出すように、玲次は海を青く映している空を見上げた。視線の先では積乱雲が天高くそびえている。
「あいつらは死んだことを悲しんでほしいわけじゃない。笑って前に進んでほしいんだって。だから俺がもし死んでも、お前らも笑って前に進め。矛盾するようだけど、悲しむなって言っているわけじゃない。悲しみながらでも、笑って前に進めって言っているんだ。総兄、いつもそんなことばっか言ってたな。現実になってわかったよ。こんなにも難しいこと、総兄はやっていて、俺たちもやらなければいけないんだって」
友達やクラスメイトが神罰で命を落としても、悲しくても辛くても、笑って前に進もうとしたんだ。
誰かがいなくなるまでわからない。喪失感や虚無感。誰もが長い人生の中で少しずつ感じていくそれを、この島の生徒はまだ高校生の内からそれを経験する。
それを知ってしまった後で、笑って進むなんて、そうそうできることではない。
「特に七海はやばかったな。俺とあいつが許嫁として親同士が決めたのが、俺たちが中一の頃だったか。神罰のことを教えられた直後に、親がすぐに決めたんだ。俺も七海もぽかーんとしてたけど、とりあえずはどうするかは、二人が神罰を無事終えるまでその話はなしにしようって決めてた。あいつは総兄のこと好きだったし、俺もそれわかってたから、今がどうとかって話じゃなかったんだよ。で、神罰で総兄が逝ってしまうんだから、俺もあいつも参ったよ」
心葉と水際で騒いでいる七海に目を向ける。
「七海ちゃんこれ真珠じゃない!?」
「なっ……!? ホントに見つけてどうするのよ!」
「ええっ!? 見つけちゃダメだったの!?」
……何やってんだあいつら。
楽しそうに心葉と遊んでいる七海の表情からは、当時見ていられなかったという面影は感じられない。
ほんの少し前まで、心葉に関わることさえ避けていた七海が、今は心葉と何でもないように接している。今はもう吹っ切れていて、心葉が紋章所持者だからというつまらない理由で距離を置くことを止めている。最近では心葉と笑っていることが多いように感じられる。
あいつは、総一兄ちゃんの死を乗り越えてここにいる。
好きだった人を神罰で亡くし、一度は世界に絶望したとしても、あいつは笑っている。
本当に凄いことだと思った。
玲次も、同じこと考えたのか、微かに口元を緩めた。
「今ではあんな風に笑ってくれるんだけどな。総兄が逝った後の姿を思い出すと、思うんだ」
声に、寂しさが宿る。
「ああ、俺じゃダメなんだ、って」
悲壮感とともに吐き出した言葉は、砂浜に落ちて消えた。
玲次はペットボトルの中身を一気に飲み干し、これ以上小さくならない大きさまで握り潰した。
「たとえ俺と許嫁であったとしても、俺は一番の次であって、それが順番で回ってきたとしても、一番には永遠になれない。だから俺は代替品なんだ。そんな中途半端な状態で一緒に過ごせるわけがない。俺は神罰が終わったら、七海とあいつの両親と俺の両親も交えて全て話すつもりだ。俺はこいつと許嫁を止めるって」
玲次は微笑んだまま、七海に優しげな視線を向ける。
「それが、お互いのためなんだよ」
穏やかな波の音とともに、心葉と七海の笑い声が響いてくる。
ここで自分のことが話されているなどとは露知らず、心葉と真珠を見て盛り上がっている七海。
それを見た俺は、一つの感想が浮かんだ。
「お前とあいつ、よく似てんのな」
「えー、似てるか?」
玲次が意外そうに口を曲げて笑う。
俺も小さく笑い、続ける。
「ああ、似てるよ。お前もあいつがちょっと前までそうだったように、他の人を理由に、何かを切り捨てるってことをしてる」
言葉にした直後、心葉たちの話す声も、波の音も、潮風の音も消え去った。
玲次の体からも同様に、動きという動きが消え去った。
俺は玲次が再起動するまでの間に、これから少し長く話すであろう喉を炭酸飲料で潤す。
玲次は機械的で緩慢な動作で視線をのろのろと動かす。
「何が言いたいんだよ……」
唾液で喉を潤すことも忘れているのか、しゃがれた声は枯れ葉の擦れるような音だった。
玲次と同じようにペットボトルを潰し、玲次が潰したペットボトルの近くに転がす。
「あいつの話をだけどな。あいつは、心葉をずっと避けていた。紋章を所持しているからって、そうしなければ心葉が悲しむからって、自分の気持ちを押し殺してさ。なんか、自分が無意識下に作り出した理想像みたいなもんなすがってた」
俺が島に帰ってきたすぐの頃と、今目の前にいる七海はまったく違う人間のようだ。以前の七海は、これから来るかもしれない未来を恐れ、その痛みを抑えるために、自分の本来の気持ちさえ抑えていた。
七海は心葉のためと言って、守りたかったのは自分であった。
「今の玲次は、以前の七海とまったく同じに見えるよ」
玲次は七海や心葉に気付かれないように、顔は前に向けたまま、視線だけを俺にナイフでも刺すように突き出している。
「俺が自分を守りたいって言ってんのか?」
「ん」
目を閉じてただ首肯する。
「はっ、なんでこんな自分を守りたいって思わないといけないんだよ」
玲次は笑い飛ばして拳で砂浜を打った。
横目に玲次を見やると、表情としては笑っているのだが、目だけは笑っていなかった。
「別に、悪いとは言ってないぞ。ただ、お前らしくないと思っただけだ。なんかいつもは脳天気に明るくしてるからさ。すくんでいる感じが似合わないだけだよ」
「……なんかバカにしていないか?」
玲次がじとっとした目を向けてくる。
俺は笑いながら玲次の背中をばしばしと叩く。
「ははは、してないしてない。尊敬してんだぞ? 俺は逆に淡々としてて、自分でも冷めた人間だと思ってるからさ」
軽く背中にいくつかの紅葉を作ったところで、俺は組んでいた足を前に伸ばす。
「でもさ、俺は下手に考えていることを隠すの苦手だからな」
「ああ、それはわかるわ。お前、好き好き光線を振りまいてるもんな。見てるこっちが恥ずかしくなるよ」
「……ノーコメントで」
玲次が何を言っているのかはわからんでもないが、とりあえず今は横に避けておく。
俺は自分がおかしな達観の仕方をしていると思っている。生まれた同時に母さんを亡くし、この島で短い幼少期を過ごした後、本土で様々な苦労に見舞われた結果だと思う。もしかしたら、神力を多量に持つが故、妙な成長の仕方をしているのかもしれない。
自分の性格を一言で言うなら冷めている。と同時に、俺は自分の内面を隠すのがそれほど得意ではないし、押さえることも苦手だ。
物事を客観的に見る癖が付き、それについてただ答えを出そうとするが基本的なあり方だ。
しかし主観的になった際は心の中のものを押さえていられない。
今も、そういう状態だ。
「お前が一番恐れているのは、拒絶」
先ほどまで少し緩んでいた玲次の口が苦虫を噛み潰したように歪んだ。
「仮に、七海が今でも、そしてこれからも墓に入るまで総一兄ちゃんしか見なかったとしたら、いずれ、遠くない未来にお前は七海から拒絶されることになる。しかも、そうなるとしたら今の友達みたいな距離でいることもできない。お互いが距離を置かざるを得ない状況に陥る。そうなるなら――」
「――いっそ自分から幕を引け」
先の言葉を、玲次が引き継いで言った。
自嘲気味な笑みを浮かべながら、玲次は空を仰ぐ。
「これも総兄のよく言ってたな。いつでも終わりは自分で引きたい。何事も、中途半端にだらだらするなら自分ですぱっと切り捨てて、次に行け。そんな口癖で、総兄はたとえ神罰で俺が死んでもすぱっと切り替えてお前らは神罰乗り切れよ、って。中三になった俺たちの頭を撫で繰り回してたな」
なんとなく、そのときの光景が目に浮かんだ。楽しい笑顔を浮かべながら三人の頭を撫でる総一兄ちゃん。きっと、玲次たちもぎこちなさそうであるが笑みを浮かべていただろう。
玲次は、ああと唸りながら項垂れた。
「……なんか、言われてみると確かに俺そんな感じがするな。みみっちい人間」
悪態を吐きながら体を起こして砂浜の上に横たえる。
「でもなんか、わかってたな。俺、逃げてるなって」
「逃げとまで言う気はないぞ? 偉そうなこと言ったけど、当の本人にしかわからないことだってある。周りがとやかく言っても、本人にとってそれが最善の手であったのなら、俺は本人の意思を尊重するべきだと思う」
「じゃあなんで、俺には結構きついこと言うんだよ」
苦笑しながら玲次はすくい上げた砂を俺の背中にパシャッとかけた。
「いや、すまん。わかったら砂かけんな。特に頭。じゃりじゃりする、ああ口にも入った」
頭にかかった砂を手で払いながらぺっぺっと口の中の砂を吐き出す。
そして少し言いよどんだ後口を開く。
「なんて言うか、お前さ、見ててわかるんだよ。こいつ、あいつのこと大事に思ってるなとか、心配しているなとか、好いてるなとか」
「そ、そんなわかりやすかったか?」
「びんびん感じてました」
幼馴染みだから当然なのかもしれないが、それでも玲次の態度はわかりやすかった。いつも七海のことを気にかけているし、フォローなども欠かさず行っていた。
「そんな態度見てたのにさ、あいつとはそうなるつもりないって言っても、未練が残るとしか思えないからさ。俺もお前たちが不仲になるのはいただけないな」
「そりゃあまた、お節介なことで」
お互いおかしなボーイズトークに終始苦笑している。
玲次は仰向けになったまま、目を閉じた。
「あーでも、本当にどうすればいいかわかんね。七海のことはぶっちゃけるとマジ好きだ。愛してる。ゾッコンラブ」
なんか唐突なカミングアウトと同時に古い単語が飛びだしたぞ。高校生が使うような単語じゃないだろ。
そんな心のツッコミに玲次が気付いているはずもなく、ただ続けた。
「もう好きになるなとか無理だったよ。七海が総兄を好きだって知ってたから、許嫁になったとき、嬉しかったんだ。それなのに総兄が死んで悲しむ七海を見てさ、やっぱダメかって。神罰のこともあるしさ、頭の中ぐちゃぐちゃなんだよ」
玲次の声にはやや疲れが滲んでいた。迷いがあるのは確かなのだろう。
玲次も玲次なりに、様々なことを考えた上での結論だったのだろう。それに対して、俺が思いつきでとやかく言うのは失礼だっただろうか。
そんな俺の気持ちを読んだのか、玲次の力強い平手打ちがバシンと背中を打った。
「気にすんなよ。お前が言ったことを全部事実だ。確かに俺は、言い訳で七海から離れようとしていた。情けない限りだよ」
「別に情けなくなんかない。俺なんて、命かかってるからな。助ける助けると息巻いても、結局まだ助けられる手掛かりさえ見つけられてない」
視線の先で心葉が二個目の真珠を見つけたようだ。女子陣のテンションがぐんぐん上がっている。
と言うかどれだけ簡単に真珠見つけてるんだ? 美榊自体が取れやすい場所なのだろうか。
玲次は体を起こして訝しげな視線を覗かせた。
「それは、お前……」
その先の言葉が続かず、吐息だけが潮風に乗って消える。
さて、湿っぽい話もこの辺りだな。
俺は水際ではしゃいでいる心葉と七海に声をかける。
「おーいお前らー、遊ぶのはいいけどビーチマット流されてるぞー」
二人の視線が同時に海へと向かう。穏やかとはいえ、先ほどまで使っていたオレンジ色のビーチマットが波に攫われ砂浜から数十メートルほど離れたところでゆっくりと回転している。
「あ、いけない」
「やっちゃたわね。心葉はここで待ってなさい。私が取ってくるから」
七海は自分が持っていた真珠を心葉に渡し、泳いでビーチマットの元へと向かっていく。七海の泳ぎは綺麗でよく進むが、それでも波の影響もあるのでビーチマットまで追いつくには時間がかかりそうだ。
「お前ずっと流されてるの気付いてただろ? 気付いたんなら言ってやれよ」
「そんなことないですヨー、いやー気付かなかったナー」
「棒読み過ぎだ」
「だから玲次、手伝ってやれよ」
泳ぎ始めた七海を指でちょいちょいと差す。
玲次が呆けたように俺の顔を見返していたが、俺はにんまりと笑ったまま七海に目を向けていた。
「それと適当に一緒に泳いでこいよ。俺は心葉が集めた貝を片付けておくから」
これ以上言わなくても伝わってくれたようだ。
玲次は、手を額に当てて小さく笑った。
「お節介なやつ」
「やかましい。さっさと行けやこら」
恥ずかしさを紛らわすために今度は俺が玲次の背中に紅葉を刻む。
「いっつー、はいはいわかりましたよ」
口では悪態を吐きながらも、玲次は七海を追いかけて海へと走っていった。
やれやれと笑いながら、立ち上がり海パンに付いた砂を払う。先ほど玲次にかけられた砂で頭と背中がじゃりじゃりして気持ち悪い。
俺は水際で貝をこじ開けている心葉に近づく。
しかし心葉さん? 貝って素手でこじ開けられるものなんですか?
近くに置かれたバケツには貝の残骸が大量に詰め込まれている。
「なーに玲次君をけしかけてたの?」
心葉が貝を手にしゃがんだまま、意地の悪い笑みをニヤニヤと浮かべている。
先ほどの話が聞こえていたとは思えないので、玲次の態度や俺たちが会話をしていることからの推測だろう。
「人聞きが悪いな。ちょっと背中に気合いを入れてやってやっただけだ」
物理という気合いをな。
「それよりお前さ、いつもで貝と戯れてんだよ。そんなに真珠探すの楽しいか?」
「楽しい!」
即答されてしまった。
「ふーん、そんなにか」
頷きながら俺も砂浜に腰を下ろして近くにあった貝を手に取り、継ぎ目にすっと手を滑らせる。指先から少しだけ放出した神力によって、貝がぱかっと開く。
中には美味しそうな大きな貝柱などが光っており、その上に光る珠がちょこんと乗っていた。
「あ、俺も発見」
ずいぶん簡単に見つかってしまった。真珠なんて初めて見るが、まさに宝石と呼ぶにふさわしい神秘的な光を放っている。
「お、凪君やるねぇ。まあこの辺りの近海は真珠がよく採れる場所だから、探せば結構見つかるものなんですよ。この島の名産の一つなのです」
自慢するように心葉が手の中の真珠を広げる。心葉の小さな手のひらには既に数個の真珠が乗っている。
「へぇ、知らなかったな」
俺は心葉の手に真珠を投げ、残りの真珠も手早く割ってしまう。しかし、残りの貝からは真珠は見つからなかった。
玲次がどうなったかと視線を海へ向ける。
二人は既にビーチマットの元まで辿り着いており、七海はビーチマットに横になり、玲次が脇に腕を乗せてなにやら話し込んでいる。
楽しそうにしているので何よりだ。
「さて、これは後で焼いて食べるか」
ここは島ということもあり、海で採れる魚介類は絶品なのだ。
「おお、いいねいいね! 凪君が料理してくれるんですか?」
「もうしばらくしたら適当に他の食材でも買ってくるか。火は法術でどうにかなるし網はどこからか調達してこないといけないな」
「大丈夫だよ。ここに来るまでに私と七海ちゃんで買ってきてるから。バーベキューセット。お肉とかもクーラーボックスの中に入ってるよ」
「用意いいな。それじゃあ、後でいただくとしようか」
ごろごろと重量のある貝が入ったバケツはクーラーボックスと並べる。
「ねぇ、向こうの岩場にちょっといい場所があるんだけど、行ってみない?」
心葉に連れられて向かった場所は、タイドプール、潮だまりだった。
海は干潮に近かったため、岩場に綺麗な潮だまりができていた。素足で立てないでこぼことした岩肌ではなく、波で綺麗に削られたためか固くも滑らかな足場となっていた。
潮だまりは幅が十メートルほどもあり、それこそ小さなプールのようだ。一部は珊瑚でできており、陽光を受けて青や緑に光っている。
「こんな綺麗な潮だまり、初めて見た。自然にこんな場所ができるんだな」
驚いた俺の前に心葉が軽快に踊り出して笑う。
「凄いでしょ? 私のとっておきの場所なんだ。七海ちゃんと玲次君以外には誰も教えたことないだよ」
心葉は俺の手を掴んで足早に潮だまりへと歩いて行く。
「おい、急ぐと転ぶぞ」
「大丈夫です。島育ちの私を甘く見てもらっては――あっ」
とか言いながら足をもつれさせる心葉。
「おいバカっ!」
咄嗟に受け止めようとしたが、心葉の体に引っ張られて俺の足も華麗に滑った。
そして、俺と心葉の体は潮だまりに勢いよく落ちた。
潮だまりはそれなりに深かったため、体は岩場などにぶつかることはなく底辺りまで沈んだ。
俺は心葉の体を両手で抱えると、足を動かして水底を探り、体を返してどうにか体勢を立て直すことができた。
俺と心葉は揃って海面から顔を出す。
「ぷはっごほっ! ……心葉さん、全然大丈夫じゃなくないですか?」
「……ごめんなさい」
心葉が顔を俯かせて誤る。濡れた髪から覗く耳は熟れたリンゴのように染まっている。
まあはしゃぎたい気持ちはわからないものでもないが。
はぁ……やれやれですな。
「えっと、凪君、もう大丈夫だから、その……」
「ん……?」
言われて、現在俺と心葉はとても際どい状況であることに気付く。
お互い水着で、ほとんど抱き合ったような状態だ。お腹辺りまでは海水に浸かっているが、それでも体の大部分は密着したまま。何度も言うがお互い水着です。
「うわあっっ! ご、ごめん!」
慌てて心葉から離れ、水面がばしゃっと揺れる。
心葉は顔を赤くしながらも照れたような笑みを浮かべた。
「いや、こっちこそごめんね。ドジな女は困りますな。迷惑かけてすいません」
「別にそんなこと思ってないよ。迷惑なんかいくらでもかけてくれればいいけどさ。それより怪我ないか? 体どっかにぶつけなかった?」
心葉はあっと声を上げ、両手を挙げて体辺りを見渡す。すると、お腹上辺りの布地が裂けて肌が露出していた。
「ああー、さっき何かが破れたような感触あったんだよね」
「おいおい、どこか切ったり打ったりしてないだろうな?」
「それはないみたい。ああ、でもこの水着お気に入りだったのにな」
残念そうに肩を落とした心葉だったが、やがて自嘲気味な笑みを浮かべて破れた水着を指でなぞった。
「でも、いいかな。どちらにしても、泳ぎに来るのは今日が最後だろうし」
「またそういうことを言う。頼むから止めてくれ」
「うん、ごめんね。でも……」
でもの先に続く言葉はなんとなくわかってしまったが、お互い口には出さなかった。
心葉は、しばくらぎこちない笑みを浮かべていたが、やがて思いついたようにワンピースの肩紐に手をかけた。
「もう破けちゃったし、脱いじゃお」
「……いや脱いじゃおじゃねぇよ」
いきなり何言っちゃってんですかねこの子は。思わずドキッとしちゃったじゃないですか。
心葉は少し恥ずかしそうな頬を染めるが首を横に振った。
「大丈夫だよ。下にも着てるし、破れたワンピース着たままってわけにもいかないでしょ?」
「いや、俺が言ってるのはそういうことじゃなくて……」
「わかってるよ。でも、凪君もちょっと期待してたからわざわざ海に遊びに来てくれたんでしょ? でないと、来てくれなかったんじゃないかな?」
……さすが、心葉。きっちり気付いている上に言いにくいことをはっきり言ってくる。確かにその期待がなかったと言えば嘘になる。ただでさえ心葉の命をかけたことをやっているんだ。それなのに、夏休み初日だからと言っておちおちと遊びに来るようなことは本来ならやることではない。
心葉は肩紐を引くと、そのまま下まで降ろしていき、体を海水に沈めてワンピースを脱ぎ去った。
破れてしまったワンピースの下からビキニが現れる。
ワンピースの下から細身の体が姿を現す。ワンピースの下に隠れていた部分や四肢が全て露わになる。
ワンピースと同じライトグリーンのビキニはよく似合っている。
透き通るような白い肌、くびれた腰や七海に比べるとやや劣るが、それでも立派な胸が目を引く。
だけど、それよりもずっと目を引くものが存在する。
ビキニに包まれた胸の谷間の少し上、そこに、俺が一度は見たいと思っていたものが刻まれていた。
白絹のような肌の中に、おおよそ似つかわしくない部分が存在する。白の中に混じった赤い痣のように浮き上がったそれ。
直径十センチの円の中に、呪的文様が幾重にも絡み合い一つの形を成している。法術や呪術を使う際に用いる文字もあるが、それ以外も見たことのない図柄が細かく刻まれてる。
そして、円の中心には造形された木のような紋様があった。
「それが、そうなのか」
「うん……」
心葉は少し恥ずかしさを残しているが、小さく頷いて首肯する。
「これが紋章。私たち紋章所持者が神罰に縛られる、絶対に外せない呪いの印だよ」
俺と心葉は、潮だまりに足だけを浸けて脇の岩に並んで腰をかけていた。
潮だまりの海水はひんやりとして冷たく、お互い恥ずかしさに火照っていた体も冷却してくれたので落ち着いて会話ができる。
「前にも言ったと思うけど、紋章はある日突然私の体に表れた。こんな目立つ場所にいきなり印が表れたら気付かないわけはないよね」
「気になったんだけど、突然って言うのはどれくらい突然なんだ? 前兆とか、直前に何かがあったとかはないのか?」
心葉は紋章の上に手を重ねながら眉を曲げた。
「それが、まったく覚えがないんだよね。何の予兆とかもなかった。ただ、気付いたらそこにあったの」
思い出すように目を閉じて、足でぱちゃぱちゃと水を蹴る。
「そうだねぇ。なんかね、朝目が覚めたときから、体の調子がちょっと変わっているって気はしてたんですよ。悪かったわけじゃないよ。ただ、いつもと感覚の一部がずれてるって言いますか、そんな感じかな。わかりにくくてごめんね」
「いや、言いたいことはわかったよ。続けて」
「うん。それでその日はなんだか寝汗すっごく掻いちゃって。とりあえず、シャワー浴びよーっと思って服脱いでみたら、これですよ」
谷間の上にある紋章を叩きながら苦笑する。
寝ている間の紋章が表れたということだろうか。いや、人が寝ている時間は一日の約三分の一だ。確率として別におかしい部分ではない。
「あ、ちなみに言っておくと、過去紋章が表れた人は日中に紋章が表れたって人もいるから、寝ている間っていうのは関係ないみたいだよ」
俺の考えを察して心葉が言った。
「時間とかは関係ないみたいなんだ。お風呂に入っているときに表れたって人もいてね。徐々に赤く浮き出してくるものらしいよ」
人の意識があるときにでも関係なく表れるということか。だとするなら誰かから直接刻み込まれるということもないわけだ。心葉の場合も、眠っていたときに紋章が刻み込まれたのだとしたら、紋章は心葉が眠っているときに寝室に侵入したことになる。それに、風呂場で表れた件にしても、姿を見えない場所からわざわざ紋章を刻む必要はないわけだ。
そもそも刻むと言っているが、紋章はどのような手順を踏まれて表れるものなのかはわからない。
「紋章は使えば神罰を終わらせることができる。なんで紋章を使うと神罰は終わるんだろう」
心葉はきょとんとして首を傾げ、人差し指を顎に当てた。
「それは、色々説はあるけど、紋章所持者という生贄を捧げることで神が許す。それとか、神罰を起こしている神に対抗するために別に神が授けてくれているとか……」
「いや、そういうことじゃなくてさ、原理的な話だ」
「どういうこと?」
「いいか? マリが言ってただろ。神罰は俺たちが術と同じだって。だとするなら、神罰に関係している紋章も同様に術であるはずだ。つまり、紋章によって神罰が止まるという行程も、使用した後何かの行程があって神罰が止まる。って風になっていると思うんだ」
神罰と紋章は無関係ではない。神罰を止めるための紋章と考えられているのだから関係がないわけがない。
なぜ紋章所持者が死ぬと神罰が止まるのか。紋章を使用すると神罰が起きなくなるのか。因果関係がはっきりしていないのだ。
「確かに、そうだね。共通して言えることは、紋章所持者が死亡するイコール神罰の終わりってことかな」
「むかつくことにそうなんだよな」
まったくもって腹立たしい限りである。
「と言うか、なんで紋章を使うと所持者は死ぬんだ?」
不意に思った疑問を口にする。
紋章は、使用すると持ち主の命を奪い、使わずとも卒業と同時期ぐらいに勝手に発動し、所持者を死に至らしめるという話だった。
確か、所持者の神力を根こそぎ食らい尽くしたとか、過去の資料にはそんな表現がされていたが。
それを心葉に尋ねると、顎に指を当てて考え込んだ。
「んーとね、それは正確じゃないんだけど、まあ昔はそこまでわかってなかったからね。本当は、この紋章の術の効果って一部わかっててね。その効果っていうのが、神力の破壊なんだ」
「神力の、破壊?」
「うん。紋章所持者に限らず、神力は神力を持つ人にとって命そのものなの。完全に枯渇してしまえば、生命維持ができずに死亡する。それで紋章を使うと、周囲の神力を破壊するんだ。と言っても、範囲は三十センチもないっていう話だし、周りの人を巻き込むってことはないんだけどね。でも、自分自身の神力は確実に破壊しちゃうんだ。結局、紋章所持者は死んじゃうってこと」
体に刻み込まれた紋章。
おそらくそれは、皮膚を剥ぎ取ったり削ったりする程度のことでは解決するはずもない。そのくらいのことならこれまでの人が試しているはずだ。
つまり紋章所持者は、自分だけを殺す剣を、自分の体に持っている。
逃げることなどできないんだ。
俺は深々とため息を吐き出して、拳で水面を叩いた。
「やってらんないよな。本当に」
紋章所持者と神罰の関係は、まさにそれが一つの形になっている。どちらか一方があるものではないんだ。どちらもあって一つの現象。それが神罰なんだ。
「そんなことより凪君、ちょっといいでしょうか?」
「何ですか心葉さん」
芝居がかったセリフを言う心葉に会わせて、こちらも合わせて言葉を返す。
心葉は潮だまりから足を上げ、その場で立ち上がってみせた。
「私の格好についてですが、何か言うことはないですか?」
胸に手を当て、自身あり気に体を見せつけてくる。
おどけた様子で話しているが、それは照れ隠しのためだと容易にわかった。
余裕の笑みを浮かべた表情ではあるが、口は若干ひくひくと引きつり、頬はこれ以上ないくらい赤く染まっている。
ここでそれを指摘するのはさすがに空気が読めてないというものだろう。
俺も海水から体を上げ、少しは心葉から距離を取ってあぐらを掻いた。
ふむと頷いて顎に手を当てる。
ワンピースを脱いでビキニ姿となった心葉を改めて眺める。
体の半分ほどを覆い隠してしまうワンピースと違い、ビキニはずっと布地が少なく、心葉が纏っているものも普段の心葉からは考えられないような大胆さだ。
ワンピースと同じライトグリーンの水着は、心葉の清楚なイメージをより引き立てさせる。
しかも七海に並ぶほど、出るところは出ていて引き締まっているところは適度に引き締まっている。
というわけで感想を一言。
「うん、いいね」
感情を一切浮かべない真顔で、これ以上ないまでにはっきりと告げる。
「え?」
予想外の反応だったのか心葉は目を点にして呆ける。
「スタイルもいいし水着のセンスもかわいいと思う。雑誌の表紙とかを飾っているモデルが霞んで空に消えてしまうほどの美少女っぷりだ。あまりに綺麗だから感動した」
ただただ真顔で真剣に、心葉の水着スタイルへの感想を並べ上げる。心葉が求めていた以上のかなり際どい発現を連発し、心葉の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
途端に動揺し始める心葉に、俺は必死に笑いを堪えて気付かれないようにするのが大変だった。
「いやもう、感無量だ」
「……凪君、絶対からかってるよね」
「そんなことないですヨー」
棒読みで言いながらにんまりと笑うと、心葉は口を膨らませて怒ったように両手を振り下ろした。
「もうっ! そんなこと言う凪君にはこうだ!」
心葉は走って俺の後ろまで回り込むと、勢いよく駆けて飛び掛かってきた。
「うわっお前何を! うばあああっ!」
俺は心葉を伴って、再び潮だまりへと落下した。
すぐに手足を動かして水面へと上った。
「ぷはっ! いきなり何やってんだこら!」
「ふ、ふんだ! 凪君なんて今日私の水着姿見たかったから海に来たくせに!」
心葉はぷんすかと怒りながら水面をばしゃばしゃと叩き水を飛ばしてくる。
「ひ、人聞きの悪いこと言うな! あらぬ誤解を受けるだろうが!」
しかし、心葉と言っていることは言い方に問題こそあれ間違いではない。
ただでさえ夏休みになり、神罰のことを調べないといけない大事な時期に、海に行くために簡単に流されたりはしない。
玲次が俺を連れ出した段階で既に水着らしきものを手に持っており、すぐに心葉と七海も来ることがわかったので、もしかしたら心葉の紋章を見ることができる可能性があるのではないかと考えていたのだ。
下世話な考えだと自分でも嫌悪に感じるが、それでも一度紋章は見ておきたかったのだ。どうしても。
さすがに見えないようなワンピースを着ていたときは仕方ないと思ったが、幸運と言っていいのかどうかはわからないが、どうにか紋章を見ることができた。
ただ、ふと頭をよぎってしまった。
ワンピースの水着に傷が入ってしまうほど水底の岩に体をぶつけたにも関わらず、心葉はどこにも怪我をした様子はない。
心葉は、意図してワンピースに傷を作ったのではないかと。
俺が紋章を見たいということを知った上で、ワンピースを脱ぐ口実を作ったのではないかと。
先ほど自分の口で言ったように、もう着ることはない水着を処分するための行動だったのかもしれない。
そんなふざけた推測は、ただの考えすぎだろうか。
「とうっ!」
心葉が潮だまりから大きく跳び上がり、まさかのフライングボディプレス。
恥ずかしさを押し隠すための行動なのだろうが、些か開放的になり過ぎではないだろうか。
「危ないことしてんじゃ、ないよ!」
空中から押し潰さんとばかりに落下してくる心葉を受け止めると、そのまま浅い潮だまりの隅に降ろした。
「きゃっ……」
衝撃は殺して降ろしたのだが、海水が弾け、動きを止めた心葉の周りに再び落ちた。
また暴れられない内にその細い腕を押さえ、げんなりと項垂れる。
まったく怪我でもしたらどうするんだと、毒の一つでも吐こうとしたところ、出し抜けに気付く。
俺は今心葉の上に覆い被さるようなポジションにおり、その上心葉の両腕を押さえつけて身動きが取れないようにしている。
心葉はさっきまでの暴れようがどこに行ったのかと思うほど、身じろぎもせずただこちらを見返していた。
湿った髪は艶やかに光り、白い肌に滴る水滴が胸から首筋へと流れ落ちていく。
心葉の顔は、先ほどまでの興奮が抜けていないのか、はたまた日焼けして赤くなっているだけなのか、それとも別の理由があるのかはわからないが、上気したようにほんのり赤くなっている。
そして、さっきも言ったが、俺と心葉は現在水着。
うん、これ誰がどう見ても俺が心葉を欲望のままに押し倒しているようにしか見えないな。
ハイ、アウトー。
バカなことを頭の中ではいくらでも並べ立てることができるのだが、心葉の妙に色っぽい表情の前に、一言も言葉を紡げない。
一瞬で口の中の水分が干上がり、張り付いた声帯がじくじくと痛む。
「な、凪……君……」
心葉が潤んだ瞳とともに小さく吐息を漏らした。
これは、やばい。
何がどうとは言わないが、非常にまずい。
思わず、心葉の腕を掴む手に力がこもってしまう。
そして――
「おーい、どこ行ったんだバカップルー」
「二人でしけ込むにはまだ早いわよー」
脳天気な二人の声が海岸に響いた。
「「わっっ!」」
俺は後方に跳び退り、心葉は体を庇うように腕で抱く。
跳んだ拍子にそのまま潮だまりに落下し、ぶくぶくと息を吐き出しながら沈んでいく。
死んだ魚のように水底に倒れ、目を閉じて努めて冷静になるように必死に頭を押さえていく。
やばかった。マジでやばかった。
冷たい海水が先ほどよりも十割増しで冷たく感じる。それほどまでに顔が上気している。
ああ、もうまったくもって本当に、俺は――
「――――――」
俺の気持ちは口から吐き出される水泡とともに真っ青な海へと溶けて消えていった。
海から上がった俺たちは、浜辺でバーベキューを始めた。
このビーチには海の家などはないが、隅にバーベキューのコンロがいくつか設置されていた。
色の違う煉瓦をいくつも積み上げて作られた年代物で、自作感が溢れている。何でも、何代も前の美榊第一高校の卒業生が雄志で作成したものらしく、このビーチを使用する人たちには重宝されているとのことだ。
さすがに網は用意されているわけはないので、そこは心葉たちが用意してくれていた。
コンロ自体はそこまで大きくないが、四人で食べる分にはこの大きさで十分だ。さらにコンロの横に木造の机もあるので、バーベキューをするには打って付けだ。
「いやー、採れ立ての海の幸は至高ですな」
玲次は炭火で熱された網の上で焼かれている、ゴールド伝説でお馴染みウツボ君を美味しそうに食べながら唸っている。
「おいこのウツボどこから盗んできた」
実際、食材を焼く係は俺の担当。押しつけられたわけでないが、こいつらに任せていると惨状が目に浮かんだので自分から買って出た。
食材にしれっと混ざっていたから適当に捌いて網に乗せたが、他にもベラやクロダイやカワハギやカサゴなど、魚の種類が明らかにおかしい。
「ああ、さっきちょっと海に向かって雷上動を打ち込んだら色々獲れたんだ。海って結構爆発するんだな」
「それやっちゃいけない漁法だから! 生態系破壊してんじゃねぇよ! バカチン!」
「大丈夫だって。気を付けて軽めにしたから。獲れた魚もそれだけだ。さすがに加減はしてる」
そういう問題じゃないだろ……。
深々とため息を落としながら、トングでいい具合に焼けたハマグリを空いていた心葉と七海のアルミのプレートに乗せる。
「ほら、お前らも乱獲してきた貝はしっかり食べてくれ。無駄にしちゃいけませんよ」
「はーい」
「あんたは私たちのお母さんか」
七海のツッコミを受けながらも、俺は新たな皿をテーブルに並べる。
「あれ、この刺身どこから出したの?」
「私たち、刺身なんて買ってきてないわよね? さすがに夏場に持ってくるわけにもいかないし」
心葉と七海が並べられた刺身を訝しげに覗き込む。
「玲次が獲ってきたクロダイだよ。鯛の獲れ立ては焼くより刺身に限る」
「でも私たちが持ってきた調理用ナイフで、よくこんなに綺麗に切れたね」
「ああ、切るときはさすがにこっち使った」
俺は手に神力を集めた包丁を作り出す。形は完全に刺身包丁のそれだ。
「あんたも変なことに神器使ってるじゃない」
「……便利なんだからつい」
最近では、天羽々斬の神力は自分の手足のように動かせるようになってきた。前から考えた通りにはある程度動かせていたのだが、包丁なんていう小さくそれでいて強固なものは作れなかった。
これまた最近わかったことだが、天羽々斬の能力のほとんどは、どうやら俺のイメージに大部分を依存しているらしい。
俺が何かをイメージしなければほとんどまともに機能しないが、イメージを正確に行えば、極端な言い方だが如何なることも可能にする。俺ができると感じたことはほぼ間違いなく可能になる。
可能だと思えないことについては、当然無理なわけだが。
トングで厚切りカルビを裏返しながら、横目にちらりと心葉を見やる。
夜になりずいぶん涼しくなってきたので、全員水着の上から上着を着ている。普段から寒がりな心葉は水着というほぼ布なしという過酷な状況を頑張っていたようで、日が傾いてからはすぐに厚手の長袖パーカーを纏っている。首のすぐしたまでファスナーが引き上げられており、もう先ほど紋章は見えない。
しかし、先ほど見たものははっきりと思い出せる。
心葉の白い肌に浮かび上がっていた鮮血の赤を思わせる紋章は、細部までどのようになっていたかを思い出せる。
イメージさえ完全に固めてしまえばあらゆることを可能にする天羽々斬だが、天羽々斬で紋章をどうこうはできない。それは無意識に理解している。
つまり、不可能ということなのだろう。
こういう思考ができるということも、天羽々斬と徐々に繋がりが強固になっているということなのだ思う。
不意に、一つの疑問が浮かんだ。
そういえば、俺と天羽々斬。俺たちの間に縁は存在するのだろうか。
本来、縁は神降ろしを行った際に使用する神力を元に形成される。それが所有者と神器を繋ぐパスとなり、お互いに神力を供給し、戦闘能力を高めたり異能力を得たりするものなのだ。
しかし、よくよく考えれば俺は縁を形成するという過程を行った覚えがない。
元々は父さんが降ろして使っていたものだ。他の人たちが当たり前に行っている神降ろしによる縁の形成を行っていないのだ。
玲次が縁を持っているのは間違いない。あいつと雷上動の間にはしっかりとした繋がりが感じ取れるのだ。
果たして俺はどうだろうか。縁の繋がりは、あるのだろうか。
「凪君、この辺り焦げるよ?」
「お、おう。すまん」
ぼーっとしてしまい、長く焼きすぎた豚トロが固くなってしまっていた。
「ああ、ごめんね。凪君全然食べてないよね。焼くの代わるよ」
「気にするなよ。これでもちゃんと食べてるから」
トングを振って遠慮したが、心葉はじっととタレが入ったプレートに目を向ける。プレートには肉の脂や野菜の切れ端などがまったくない純粋なタレだけが浮かんでいた。意外に目ざとい。
「またそんなこと言って……」
心葉は自分に近いところで焼けていたロースを一枚網からすくって自分のプレートのタレに漬けると、それをそのまま俺に向けた。
「はい、あーん」
笑顔のままでロースを差し向けてくる心葉。
「……」
なんて恥ずかしいことを堂々とやっているんだこいつは。
横目に玲次と七海がおおっと言いながら好奇の目を向けている。
断ることは簡単だが、それでは心葉に恥をかかせてしまう。
いいだろう。ここは男を見せてやる。
「んん、うまい」
と言っても食べるだけだが。
「ひゅーひゅー! あっついねー!」
「ナウいわね」
お前らいつの時代の人間だよ。
「そ、そんなんじゃないよ!」
今更恥ずかしがる心葉。もっと先に羞恥ポイントがあったのではなかろうか。
「さあ、凪君! 私たちが探し求めてきた食材だ! 美味しいぞどんどん食べるのだ!」
心葉は恥ずかしさを隠すためにおかしなテンションになりながら俺のプレートに次々と焼けた肉やら野菜やら魚を放り込んでいく。
確かにここにそろっている食材は一級品だ。
どこから調達してきたのかしれたものではないが、全ての食材が普通の店で買えるレベルを超えている。こいつら、生活態度とか考え方はあれだけど実際かなりぼんぼんなんだよな。
この島で力を持つということは、代々家系が何かしら突出した力を持っていることが多い。
例えば、七海の家、西園寺家は商業において大きく反映した家柄で、美榊島の商会のほとんどの経営に関わっている。そして美榊高校の大スポンサーであり、施設の維持や修繕はほぼ全て七海の家からの出資だとか。
七海はそういうところを鼻にかけないからまったくわからないが、家はかなりの豪邸でどこの貴族ですかと問いたくなるほどの洋館なのだ。
玲次の片桐家は、武器職人の一族らしい。刀や剣などといった刃物関係から、果ては重火器のようなものも扱っているとか。
高校に備蓄されている武具や訓練用の的などは片桐一族が揃えているようだ。
玲次が使っている雷上動が本来は弓なのに銃の形状を取っているのは、玲次の兄である総一兄ちゃんが重火器に結構な興味を持っていたかららしい。
実際重火器は妖魔においても十分な攻撃力を発揮する。なので何年も昔から神罰に使えないかと考えている人間も少なからずいるのだが、一対一ならまだしも多数対多数の敵味方入り交じった混戦状態で重火器なんてぶっ放せば、同士討ちになる可能性は非常に高い。戦場の真っ只中で味方の誤射を受けるなど、神罰では確実に死亡する。
そんな凄惨な状態を作り出すなら、神力を使い特殊な能力を有する神降ろしから得た神器を使う方が安全だし効率もいいというわけだ。
二人とも、この島では有数の一族であり数え切れないほどの親族が神罰のサポートをしている。
ちなみに兄弟は、玲次には総一兄ちゃんが一人いただけだが、七海は上に四人の兄と姉がいるらしい。最近聞いて驚いたものだ。
そして、心葉は一人っ子。
心葉から家柄はまったく予想できないが、心葉の実家も重要な役割を持っている家系だ。と言っても、玲次や七海のように特別親類が多いというわけではなく、心葉自身は一人っ子で家もどちらかというと細々としたものだ。
「凪君、さっきからうわの空だけど、もしかして疲れちゃった? 私たち急に連れ出しちゃったから」
「いーや、そんなんじゃないよ。今日はいい気分転換になった。誘ってくれて嬉しかったよ」
気遣ってくれる心葉に笑い返しながら、先ほど盛ってくれた肉を口に入れる。甘い肉汁が口の中に染み渡る。
心葉の家には、美榊島に帰ってきてからも一度も顔を出していない。
どうやって顔を出せばいいかわからないんだ。間を開ければ開けるほど行きづらくなるということもわかっているし、早く行った方がいいこともわかっている。
しかし、俺だって神罰で死ぬ可能性がある身だ。久しぶりに会えたそのすぐ後に死んで、なんて事態は避けたい。
心葉が紋章所持者であることがわかっている今、ますます行きづらくなっている。
だから夏休みが来るのが、ちょっとだけ憂鬱だった。授業があったこれまでとは違い、バタバタとしていたゴールデンウィークの次にやってきた大型連休だ。これでは、神罰が忙しくてくる暇がありませんでしたなんて言う無茶な言い訳も使えない。
幸いと言っていいのかはわからないが、心葉の両親から出向くというやられてしまうと非常に申し訳ないイベントは発生していない。
心葉曰く、両親に俺が帰ってきていることは伝えているし、もとより知っていたそうなのだが、今すぐに俺のところ突撃してくることもなく、かといって呼ばれているわけでもないようだ。
なので今すぐどうこうしなければいけない問題ではないのだが、心なしか罪悪感を覚えてしまう。
その内、行く機会はあるだろう。あの人たちに挨拶をしないまま、この島を去るということはない。
「それよか、お前ら明日から忙しいんだろ? 具体的にどんなことするんだ?」
話を向けると、玲次は口に含んでいたウツボを飲み込んだ。
「ほとんどは、生徒の強化が主な仕事かな。同期はほっといても勝手に強くなるから頼んでくるやつらだけだけど、後輩たちの指導は俺たちがやらないといけないからな」
七海は二リットルのペットボトルに入ったお茶を皆の紙コップに注いで回る。
「仙術が使える人間は限られてるからね。後輩の仙術使いの指導ができるのも、私たちとまだある程度神力を持っている先輩たちだけなのよ」
「そりゃあそうだよな。仙術使いとまともに張り合うことができるのって結局は仙術使いだけだもんな。それなら心葉もか?」
「私は仙術よりも法術の指導で少し手伝おうと思ってるよ。あんまり紋章所持者がそういうことやるって珍しいんだけど、これと言ってやることもないしね」
自嘲気味な笑みをこぼしながら足元の砂を軽く蹴った。
紋章所持者が誰であるか、それが下級生にまで伝わっているかは正直わからないが、伝わっていないことはないだろう。
しかし、と心の中で独りごちる。
この島でのやり方は、今を生きるためのものがほとんどだが、来年やそのまた来年のことを考えている動いている。
神罰は何十年も間一度も終わることなく続いているのだから当然であるのだが、未来の対策を欠かさず行っている。
現状の打破というのは、それほど不可能と考えられているのだ。
この夏休み、俺には何ができるだろうか。
俺が何をすべきかという目的は把握しているが、何をどうすればいいかがわからない。
最近、夜が凄く怖い。
真っ暗な部屋の中で、神罰を終わらせることについて、ずっと考えている。それは心葉の紋章のことを知るより以前、この島に来てから毎日、胸の奥底で考えていた。
それが、日に日に怖くなる。
最初の内は、できる、できないわけがないと、むしろ高揚した気分でいたのだ。俺は自信家ではない。何でもできるなんて思うほど傲慢ではない。大抵のことはある程度可能だったし、失敗も敗北もそれなりに経験しているが挽回だってしてきた。
思い返せば、それは俺ができる範囲でのことだったのだ。手の届かない場所にあるリンゴを取ろうとするのではなく、簡単に触れることができるリンゴを取ってそれで満足する。それがこれまでの人生だった。
でも今俺がやろうとしていることは、今まで誰一人として成功した人間などいなく、もしかしたら最初から不可能なのかもしれないこと。横車を押していることなんて最初からわかっている。
そんなことを考えると、本当に怖くなる。
真上に広がる星空へと視線を移す。
夜空に輝く満天の星は、そんな怖さを紛らわしてくれる。
薄らと浮かんでいる壮大な天の川に、一条の光が流れていった。
「神罰が終わりますように。心葉が、助かりますように」
誰には聞こえないように、俺はそっと願いを呟いた。
結局散々夜まで騒ぎ通した後、寮に帰ってくる頃にはすっかり日が昇っていた。夏至を過ぎているとは言えまだ夏だ。日の沈みは遅く上るのは早い。
心葉たち三人は、昼前からすぐに下級生の指導に入るらしく、三人とも美榊第二高校の近くにあるという七海の家で仮眠を取ってから行くとのこと。
初日ということもあって、もしよかったら一緒に誘われていたのだが、さすがに断っておいた。
神罰のことで調べたいことがあるのも確かだが、おそらく俺が神罰を止めようとしていることは下級生にも伝わっているだろう。必死に強くなろうと夏休みも修練に励んでいる生徒に、無粋な横やりは入れたくない。
家に帰ると玄関のすぐ前にホウキが立っており、抗議の声を張り上げた。
「ガァガァガァガァッ!」
昼過ぎからずっと帰ってきていなかったので、当然ホウキにご飯はあげられていない。ただ、ペレットだけは常に切れない程度には盛っているので、絶食状態であったわけではない。現に、ホウキの部屋を覗いてみると隅置かれた皿にはペレットがまだ残っている。
ただ、いつもおやつや野菜などの主菜をあげているので、それがないことへの抗議だろう。
「悪い悪い。お土産持ってきたから許してくれよ」
と言っても中身は食材の残りだが、寮でも頻繁に料理をしているということで渡された。若干押しつけられた感があるが気にしないでおこう。
余った野菜やらウインナーなどを新たな皿に載せペレットの横に並べる。余りものとは言え、高級食材である。ホウキはすぐに勢いよくがっつき始めた。
海辺にあったシャワーで塩水は流してきたが、それでもまだ髪のいがいが感は残っていたので、再度シャワーで洗い流した。
水着とバスタオルをまとめて洗濯機に放り込み、適量の洗剤と入れてスイッチを押す。
洗濯機が動き始めたのを後ろに感じながら、黒のタンクトップに半ズボンのジャージに着替え、ベッドに転がった。
長いようで短い夏休みが始まった。
日数は四十日近くあるが、それでも神罰のことを調べていたらあっという間に過ぎていくだろう。
しかし、ただあっという間に終わったというだけで片付けるわけにはいかない。こんな長い休みは卒業まで後にも先にもこの期間だけだ。
夏休みだからこそ掴める情報もあるはずだ。
ただでさえ一つの情報も無駄にできないこの状態で、情報の取りこぼしは目的に失敗に直結しかけない。
逆に、一つの手掛かりで神罰を止めるきっかけになるかもしれないのだ。
必ず、掴んでみせる。