18
学期末の試験が終わった。
試験科目は他の一般的な高校に加えてずっと少なく、二日かけて全てのテストを終えた。
さすがにこれを受けないわけにはいかなかったので、テスト勉強はまったく行っていないが、点数は特に関係ないそうなので適当にやっておいた。
しかしこの島の生徒にとっては、特に点数は重要視されないにしても、悪い点数をとるわけにはいかない人間もいたようだ。
玲次や七海はその典型で、生徒会という立場でありながら悲惨な点数であれば、周囲から色々言われるそうで、結構必死にテストに取り組んでいた。
また他にも、家から勉学もやるようにきつく言われていた人間も何人かいたようで、テスト中の緊張感は本土の高校と似たものがあった。
そんなこんなでテストは終わり、明日になれば終業式。明後日から夏休みに入る。
夏休みには神罰がないとのことであるが、正確には終業式から神罰が起きない。
ほとんどの学校がそうであるように、始業式と終業式は大抵午前中に終了する。
神罰は正午から開始するので、それまでにはその日の授業が終了し神罰は起きないというわけだ。
これまでがそうだから絶対そうというわけではないが、まず大丈夫だろう。
今日さえ乗り切れば、とりあえず当分の間神罰はない。
明日で終業式のため、その説明を教壇で天堵先生がその説明を行っている。
クラスには珍しくほとんどの生徒が揃っていた。
正午が近づくと、説明を一度中断し、生徒全員がそのときを待つ。
俺は机に肘を突き、校庭の方を眺めながら物思いに耽っていた。
うだるような暑さの原因は、空から爛々と降り注ぐ陽光だ。
本土よりも南方に位置するため、俺が高校二年生まで過ごしてきた場所よりもずっと暑い。
戦闘時には防具として非常に役に立つブレザーだが、今は暑くて着られたものではない。
室内は冷房が効いているためそこまでの暑さはないが、それでもブレザーは着ずに椅子にかけている。
心葉は律儀にブレザーを着込み、机の上で開いた文庫本を読んでいる。ちょっと前までは推理小説にはまっていたようだが、最近は恋愛小説がお好みのようで古い本から最近発売した本まで幅広く読んでいる。
俺にも色々進めてくるが、今はあまり読んでいる時間がないので断っている。それなりに興味はあるんだけど。
玲次は先ほどまで暑さで頭がやられていたのと、まだ返却はされていないがテストの内容が散々だったようで魂が抜けたような表情だった。しかし神罰が近づくと落ち着いた様子で視線をグラウンドの方へ向けていた。
七海はただただ冷静に、気持ちを落ち着かせているのか机で組んだ手を見たまま静かにそのときを待っている。
他の生徒たちは一様に落ち着かない様子でそわそわしていた。
さすがにこの時期ともなると、心葉が教室にいた程度では動揺はしなくなった。最近は普通に授業も受けていたりするし、神罰にある程度慣れてしまえば生徒たちも必要以上に心葉に関わろうとしないだけで、いるからと言って煙たがるようなことはない。
彼らにとって、今日こそ乗り切れば夏休み。命のやりとりなどをしなくてもいい、普通の高校生と同じ夏休み。
それが待ち遠しく、今日が終わるのを心待ちにしているのだ。
しかし、全員の希望に反し、神罰は起きた。
体に虫が這いような悪寒。
外壁から結界が上っていくのを見ながら、俺は窓を開けた。他の面々は大抵四つある階段を使って降りていくが、俺は決まってここから飛び降りる。
いつももある程度状況を整理したら先陣を切って飛び込んでいき、敵の注意を自分に向けて他の面々が戦いやすい戦場を作るのが仕事だ。勝手にやっているだけだが。
制空権があるのでよほどの相手でない限り、空に逃げればやられることはまずないからこそできることだ。
だが今回は、玲次たちに指示を仰ぐよりも、自分で飛び出すよりも先に、動きと思考が止まってしまった。
「……え?」
窓際にいた生徒の面々も目が点に、いや凝らしてグラウンドを見ている。
グラウンドには空間の歪みがほんの短い間だけあったが、すぐに歪みは消え、中から現れた。
だがしかし、現れたであろう妖魔は、非常に見えづらい。
いや、当然モザイクがかかってわけでも、姿が捉えにくいわけでもない。
ただ単純に、小さ過ぎたのだ。
グラウンドに現れた小さな空間の歪みから現れた妖魔は、これまで現れてきたものより圧倒的に小さい。
サイズで言えば小型の猫ぐらいの大きさだ。
……いや違った。
あれ、どうみても猫だ。
トラ、サビ、シャム、ヒマラヤン、ペルシャ、ロシアンブルー、スフィンクスなんでもござれ……。
「あ、あっれれー、おっかしいぞー……。心葉さん、神罰って動物とかも出てくるんで?」
席を立ってグラウンドを覗き込んでいる心葉に尋ねる。
俺は動揺して声が震えてしまったが、心葉は努めて冷静な視線を細めた。
「違うよ凪君。よく見て。あれはただの猫じゃないよ」
ただの猫じゃない? 猫なことに変わりないんじゃねぇか。
そんなことを考えたが、目に神力を集め視力を強化することで、猫たちの姿がはっきりと見えた。
外見の大部分はそこらにいる猫と同じであるが、ある一点において普通の猫とは明らかに違っていた。
「そうか、あれは……」
現れた生物の正体がわかった俺は、ブレザーは着ず、天羽々斬だけを手に窓枠に足をかけた。
「おい凪! 相手の姿もわからない内に飛び出すな!」
「たぶん、大丈夫だ。現れた数からして、どちらに転んでもそれほど強敵ではなさそうだし、ちょっと行ってくる」
玲次がまた何かを言おうとしていたが、俺はそれを待たずしてグラウンドへと降りた。
現れた猫たちは一斉にこちらに視線を向ける。
しかし、数秒も見ると興味をなくしたようで、どこかに行ったり毛繕いを始めたり、普通の猫と変わらないような動きをし始めた。
続いて、横に誰かが降りてきた。
「私も行くよ。凪君一人だと心配だから」
「いや、俺は心葉が前線に出てくる方が非常に心配だ。下がってくれよ」
ついてきた心葉に軽口を叩きながらも、俺は結構驚いていた。
これまで後方から法術での援護こそあったが、最前線まで出てきたことなど一度もなかった。
心葉の表情は真剣そのもので、考えなしに来ている様子はなかった。
心葉を前線まで引っ張り出すような理由があるのかどうか、俺は必死に頭を巡らせた。
「大丈夫。私、猫好きだから」
「……いや、意味わかんないっす」
まさかそれが理由? じょ、冗談ですよね?
だが心葉の口からどっきりですという言葉はない。
逆に、早く行こう的な視線がぐさぐさと頬に突き刺さっている。
「……わかった。でも危なくなったらすぐに下がれよ?」
「うん。堪能できればすぐに戻るから」
……ダメだこいつ。早くどうにかしないと。
しかし、いつまでものんびりしているわけにはいかない。
相手がどういう行動に出るのかまだわからないのだ。
心葉なら最低限自分の身を守るくらいはできる。
俺は警戒は解かないまま、足を前に進めた。
周囲は一面猫だらけだ。猫たちは俺たちが近づいたにもか関わらず逃げ出すようなことはなく、ただそこにいる。
しかし、自由気ままにこちらに何の反応も示さない猫の集団の中で、一匹だけちょこんと地面に座りながら、真っすぐこちらを見ている猫がいる。
集団の中では珍しい三毛の猫だ。
俺たちが進んでいくと、道を塞いでいた猫たちが自然と道を空け、こちらを向いている三毛猫までの道を作った。
猫たちのすぐ側を歩いているにも関わらず、攻撃しようとする素振りは一切見せない。
中には視線を向けている猫もいるが、どれも好奇の視線である。
やがて、こちらを見続けていた三毛猫の元まで辿り着いた。
先ほどからずっとそわそわしている心葉はとりあえず放置する。
「……」
俺は何も言葉を発せずに、ただ猫を見る。
十秒ほど膠着状態が続いた後――
「なんだね人の子。言いたいことがあるなら早く言いたまえ」
――さも当然のように、猫が俺に話しかけてきた。
驚いたは驚いたが、それはある程度予想していた。
俺は話しかけてきた猫に対して、小さく頭を下げる。
「失礼しました。やはり言葉が通じるんですね。あなた方は、猫又でよろしいでしょうか?」
数え切れない猫。
その猫たちには品種こそバラバラだが一つの共通点があった。それは尻尾が二本あるということだ。
猫又。
民間伝承や怪談などに登場する妖怪である。
猫又は人に飼われていた猫が年老いてなると言われている。
主な特徴として、尻尾が二本ある、二足歩行をするなど色々あるが、その中の一つに、人語を理解するというものがあるのだ。
俺が目を通してきた神罰の資料に、猫又が妖魔として現れたというものはなかった。
だから一瞬疑ったが、もしかしたらと思った。
あられる妖魔のほとんどは、民間伝承などに登場する妖怪や伝説上の生き物だ。
そこから得られる情報は全て真実ではないが、得られる情報も多い。
人語を理解するという妖怪は稀にいるが、猫又ほどその特徴が顕著に伝えられている例は少ない。
だからこそ期待した。
そして、その期待に応えてくれる。
三毛猫は少し顎を引いてみせた。
「確かに我々は猫又だ。しかし我の名前はマリと別にある」
「重ね重ね失礼しました」
再び頭を下げる。
二つのくりっとした可愛い目が、不思議なものを光らせた。
「珍しい人の子だ。初めて我々を見た反応を示しているにも関わらず、君たちが言うところの人外である我に低い物腰で話すとは」
「おっしゃる通り、あなた方を見るのは初めてです。ですがこちらの知識が正しければ、猫又とは長い間生きた猫がなるものだと聞いています。だとするなら、十八にもならない子どもが不敬を働くわけにもいかないでしょう」
一瞬呆けたような表情を浮かべた三毛猫だったが、すぐに大きく口を開いて笑い始めた。
「はっはっは! 面白い考えを持つ人の子だ。我々を化け物と蔑む人間たちとは違う。面白いものを己の中に持っているな。気にせずともよい。普段使う言葉で話すがいい。ここにいる誰も、その程度のことで怒りはしない」
周囲に視線を配ると、いつの間にか全ての猫又たちが視線をこちらに向けていた。
「……わかった。なら、これで話させてもらうよ、マリ。俺の名前は八城凪、よろしく」
「凪か。して凪よ、これはどういう状況だ? ここはどこか、なぜ我らがこの場に呼ばれたのか。教えてくれると助かる」
「もちろん。こちらがわかる範囲であればなんなりと」
「よし、なら宴としよう」
マリは二足で器用に立ってみせると、前足を顔の前でちょこんと打ち合わせた。
直後、グラウンド中に料理が盛られた数え切れない大皿、明らかに高級そうなお酒が入った酒瓶が現れた。
「宴?」
苦笑しながら聞き返すと、マリは動物の顔には不釣り合いな笑みを浮かべた。
「我らはここに呼ばれたが、することもないようだ。酒盛りくらいは付き合ってくれ。君の言う通り、我は君の数百倍は生きている。酌ぐらいしてくれてもいいだろう」
マリの手の上に、小さなおちょこがポンと現れた。
俺は乾いた笑いを浮かべながら、目の前に用意されていた酒瓶を手に取った。
神罰の話を一通り終えた後、マリはおちょこを持ち上げたまま何かを考え込むように黙り込んだ。
「マリって、ずいぶんかわいい名前だな」
不意に気になって尋ねると、マリは視線をこちらに向けておちょこのお酒を少し飲んだ。
「名前は重要なものなんだ。我が猫又であり、マリという名前なのも、我が我であるために必要なものだ。それだけ、我らの存在が不確定だということもあるが」
概念的な部分が多い神々には、どうやらそういうことが多いらしい。俺たちが猫又たちを猫又と認識するのも自らを猫又と認識しているマリたちも、自らの存在を確立させるために必要なのだろう。
「お主が持っているものも同じだぞ?」
「持っているものって、この刀か?」
念のため持ってきていた天羽々斬を持ち上げて聞き返す。
「ああ、紛い物かと思ったが、本物の神刀のようだな。まさか我の生涯で創造神に並ぶ一柱に出会えるとはな」
「……この刀って、やっぱり凄いものなのか?」
マリの目がじとっとしたものに代わり、どこか呆れたものを見る目になった。
「天羽々斬。その刀自体が一柱の神なのだ。その名を持つ武器が、ただの武器なんてことはあり得ない。天羽々斬たる所以、いつかわかるときが来るだろう」
果たして、俺にそんなときが来てくれるだろうか、ひどく心配になる。
この刀は妖魔である猫又が認める神刀なのだ。だが、降ろしたのは俺ではなく父さんだ。父さんはもっと使いこなしていたようだし、俺にそこまでのことができるのか心配だ。
暗い顔をしていたのか、マリは鼻をひくつかせて笑った。
「心配をしなくていい。天羽々斬も神だ。お前が然るべきとき、然るべき願いを捧げれば、必ず答えてくれる」
いつか聞いた、父さんが言っていたことと似たような言葉だった。
マリの言葉が正しいのなら、俺はその願いを持っていないのだろう。
もしかしたら持っていても届いていないかもしれない。
答えは、まだわからない。
再び考えるような仕草を取っていたマリが、ゆっくりと口を開いた。
「神罰、妖魔、戦わされる人の子……。ふむ、妙なことが起こっているようだ」
俺は気を取り直してマリの話に耳を貸す。
「やっぱり、お前たちから見てもおかしなことなのか?」
マリが持つ空になったおちょこにお酒を注ぐ。
「当たり前だ。我々が生きてきた長い年月の中でも、神罰なんてものに出くわしたことなど初めてだ。ましてやそれが現世でのことなんて、前代未聞」
猫又の神罰が始まってから三十分が経過していた。
マリが的確に知りたいことを質問してきてくれたおかげで、短い間でマリに神罰の情報をほとんど伝えることができた。
少し離れたところで、心葉が地面に座り込み、膝に猫又を一匹乗せてごろごろと言わせていた。
堪能したら戻るとか言っていたが、かれこれずっとこんな感じだ。
猫又も嫌がっている様子はなく、マリ曰くこの場に人を襲うような猫又はいないそうなので問題ないとのこと。
それと玲次や七海、理音もこの場にやってきている。
この神罰が危険でないものだとわかるとすぐにやってきて、他の猫又たちに晩酌しながら一緒になって料理を食べている。
他の生徒たちも何人か降りてきており、最初は警戒こそしていたが、危険でないとわかるとすぐに打ち解けて話し始めていた。
人語が理解できるということで知能も人と同等以上なので、普通に接することができている。
蜃のときのように、ただ現れたからというだけで武器を手にしている生徒はいない。
「凪よ、我からしても、この神罰にはおかしな点が多いように感じる。まず、神罰なんてものを起こす神がいるというのが、不思議でならない」
「どういうことだ?」
「いいかね? 神は存在する。ここのように現世ではない場所であるのだがね。しかし、神は本来人とは一線を画している存在だ。確かに、神とて稀に現世にやってくることはある。そこで仮に人から攻撃をされたとしても、超越した存在である神には痛くもかゆくもなかったはず。君のような者が全力をぶつけでもしたらダメージを与えることはできるだろうが、ちょっと攻撃がされた程度で五十年もの間罰を起こし続けるなんて、どう考えてもおかしいな」
「やっぱりそうなのか」
「我々もそうだが、いくら永遠に近い命を持っているとしても、五十年は長い年月だ。たかだか仕返しでそんな時間を費やすわけがないだろう」
俺の考えの方向は間違いなかった。
それが証明され、心の中に嬉しいものが広がった。
「他に何かわかることがあるか?」
俺は近くにあった皿から唐揚げを箸でつまみ上げて口に運ぶ。
マリもまだまだ熱々の湯気を放っている肉まんを手に取る。
そして、口を曲げて嫌な笑みを浮かべた。
「そうだな。何でも話してやりたいところだが、我とて対価もなしになんでもかんでも教えるわけにはいかない」
ふむ、と頷きながら唐揚げを咀嚼して飲み込む。どういう作り方なのかはわからないがかなり美味しい。
それにしても対価か。
人間たちが行う祭事でさえ、お供え物などが必要なのだ。猫又は分類的には妖怪になるだろうが、それでも神に近い高位な存在あるのは間違いない。
その存在に対して、対価なしでなんでも答えてくれるわけはないだろう。
先ほど神罰がおかしいという点について答えてくれたが、それは神罰がどういうものか教えてもらった代わりと言ったところか。
俺はちょっと間考え込む。
そして口を開いた。
「なら、そうだな。片目か片腕くらいなら差し出すから、代わりにマリが知っていることを全て教えてくれ」
側で猫又を撫でていた心葉がギョッとして振り返る。
マリはかわいい目を大きく見開き、驚きを露わにしている。
「……対価でもらうということは、我の一部となるということだ。たとえ生きている限り如何なるものも修復するという現象においても、戻りはせんぞ?」
「そんなことはわかってる。そんな図々しいことは考えてないよ」
周囲の猫又たちも、距離があってもその耳にはしっかりと届いているのか、視線をこちらに向けている。
玲次たち他の生徒には俺が何を言ったのかは聞こえなかった様子で、首を傾げながらこちらを見ている。
返答を待っていると、マリは呆れたように肩を落とした。
「……冗談だ。ちょっと見栄を張っただけだ。すまないな。別に我らは高位の神々とは違い、力を使うことに贄を必要とすることもない」
マリは小さく頭を下げながら、手に持っているおちょこをあげた。
「晩酌に付き合ってもらっているのだ。わかる範囲で答えよう」
心の中でほっと胸を撫で下ろす。
必要かもしれない代償とはいえ、言った後で相当滅茶苦茶なことを言っていたと思う。
さすがに簡単に差し出せるものではないし、今後の神罰に差し支えると困る。
周囲の重くなった空気がふっと緩み、心葉は深々とため息を吐いてまた猫又を撫でるという作業に戻り、他の猫又たちも宴へと戻っていた。
「我は術や現象を起こすということはあまり得意ではない。精々このような料理を生み出すのが精一杯だ」
マリは料理が盛られた皿を軽々と持ち上げて言う。
「だが、知識の面からすればそれほど少なくはない。その観点からの推測になってしまうが、それでもよければ話すが?」
「もちろん、それで構わない。頼む」
座ったままマリに深々と頭を下げる。
よかろうと言い、マリはおちょこのお酒を一気にあおった。
「まず、先ほどここを現世と表現したが、厳密には違う」
「待ってくれ。そもそも現世ってなんだ?」
「現世とは、人間が住む世界の通称だ。死後行く世界をあの世とするなら、ここはこの世と言うだろう? それと同じで、人が住む世界を現世、神々や我々妖怪などが住む世界は常世と呼ばれている」
俺たちは自分の住む世界の他に世界があるなんて普通考えないから、自分の世界に名前などは付けていないが、神々からすれば別世界があるので名前も必要になってくるわけだ。
「そして、先にも言ったがここはどうやら現世ではないようだ。だからといって常世でもない。この閉ざされた場所は元は現世にあったものだが、今は違う。現世で常世でもない、空間の狭間に位置している」
「空間の狭間……」
そう言えば、妖魔は現れるときに必ず空間の歪みが現れ、その中から現れてくる。
そのことをマリに尋ねてみると、少し考えた後頷いた。
「ふむ、これも推測だが、この神罰という現象はまず、この建物や周囲を結界で囲み、現世の一部を切り取って常世に近づける現象なのではないか?」
「……そうか、それで妖魔が現れるんだ」
通常現世と常世は行き来できない場所にある。
この島には稀に神々がやってくると言うが、だからといって簡単に行き来できるものではないはずだ。
そんな壁を簡単にぶちこわして幾度となくやってくる現象が神罰だ。
その理由は、マリの話を聞いてなんとなくわかった。
現世の空間を切り取るか移動させるかして、常世に無理矢理近づけているんだ。そうすることで、本来行き来できない現世と常世の距離を近くし、困難である妖魔の召還を可能にしているんだ。
それを伝えると、マリはこくんと頷いた。
「おそらく、それで間違いない。加えて言うなら、妖魔はこちらに現れてこそいるが、体の半分はおそらく常世に残ったまま。我らも同じくな。でなければ、本来現世に止まることが非常に難しい妖魔たちがそう簡単に現界することなどできるわけがない。そして、我らと同じようにこの場に現れる妖魔たちは、こちらにある半身が死ぬことによって常世に残っている半身に戻る。とは言っても、戻ったところで死んでいることには変わりないがな」
向こうの半身に戻ったところで生きている、なんて都合のいいことはやはりないようだ。
そこは妖魔たちも俺たちと同じということだろう。俺たちも死んだら元の現世に肉片となる運命にあるのだ。
マリは目を細めて難しい顔をしながら、魚の干物をがりがりと囓る。
「それにしてもこの神罰、一体どういう仕組みなのかまったく想像もつかない。我は知っている術については少々自信があったのだがな」
「……術?」
マリの一言に眉をひそめる。
「術って、この神罰が術だっていうのか?」
信じられない思いで言葉を吐いたのだが、マリは逆に不思議なもの見るように目を丸くした。
「何を言っている。これほどのものとなると相当高度なものであるのは間違いないが、この神罰という現象も一種の術には違いはない。神が起こしていようが人が起こしていようが妖魔が起こしていようが、どんな現象も術で起こすものだ。術式や神力、それらのものが必要ではあるが、神力とは通常なら起きえないことを起こすための力なのだ。この神罰にも術に使用している神力があり、術を起こしている術者がいるのは間違いない」
術。
火界呪、風天呪、仙術、式神、俺が扱える術は決して多くはないが、神力を消費して確かに行える神が成させる技。それが俺たちが術と呼ぶものだ。
神力はこの世の理を変えるエネルギーだ。
しかし、この神罰が術の一種などとは考えたことすらなかった。
その理由としてまず第一に、あまりに規模が大き過ぎるということ。何十年もの間、この高校全体を取り囲む結界、現れる妖魔。そんな大規模な仕掛けを、術などで片付けることなどできなかった。
第二に、これがそもそも術だとするなら、術式と足りうる神力があれば同じことができるということ。どれほどイメージしても自分がこの神罰と同じ現象を起こせる気はしない。
神と俺たち人間。
その間にどれほどの溝があるのかはわからないが、この神罰は神だからこそ起こせる特別なもので、俺たち人間が使える術とはまったく違うというのが俺の考えだった。
マリはふむと頷くと、視線を校舎の方へと向けた。校舎では、降りてこない生徒たちが顔を覗かせている。
「君たちは自分たちがどういう存在なのか、正しく認識してないように感じるな」
「俺たちの存在?」
自分たちが特殊な人間だということは理解している。神力という超常的な力を扱う人間であり、力を持たない人間とは、神と俺たちぐらいの差があると思っている。
「こういう認識で間違ってないだろ?」
マリに確認を求めると、目を閉じて首を振った。
「それでは二十点と言ったところだ」
赤点だったようだ。
「君たちが住むこの美榊は、常世でも名の知れた場所だ。それは、神に最も近いとされる、神人が住む場所であるからだ」
「神人?」
「神は自分に似せて人を作った。現世に住む全ての人間は元々は神とほとんど同じ存在であったのだ。しかし、長い年月の間にはその力は薄れ、現在では大部分の人間がその力を失った。そんな中で例外と言えるのが、この美榊と呼ばれる島に住む人々だ」
マリの話によると、美榊島は世界の特異点に位置し、古来より神力が満ちている場所なのだと言う。そのため、住んでいる人間はおろか、存在するもの全てに神力が宿りやすいそうだ。
本来なら薄まり失ってしまうはずだった神力も、この島に住んでいることで現代まで強く引き継がれているのだと言う。
そんな神力を多く持つ人間のことは、神人と呼ばれるそうだ。
「君たちは人でありながら神に近き存在。力の大小はあるにせよ、君たちが使っている力は神と遜色ないものだ。この神罰も、君たちと同じように神力を消費し、術を行使している術者がいることは間違いない」
術者の存在。
それは大きなものとなって胸の中に広がっていた。
俺はこれまで、確かに神罰を起こしているであろう神を探していた。
しかしそれは、元凶を直接叩いて神罰を止めるという強引なやり方だった。
その方針は変わりはしないだろうが、これが俺たちでも行えるかもしれない術であるとするなら、そこには割り込む隙があるはずだ。
元凶をどうにかするのは当然な問題であるが、俺の目的はあくまで心葉を助けることにある。
神罰を起こしている神をどうにかする必要はあるが、神罰が術であるならその術自体を妨害すれば心葉は助かるはずだ。
「マリ、この術にはまったく心当たりがないんだよな?」
難しい顔を浮かべたマリは、丸めた手を鼻に当てた。
「生憎だが、我の知識の中にこんな術はない。全ての術に精通しているわけではないが、我が知らぬとなるとかなり特殊な術であるのは間違いないように思う。ただ……」
「ただ?」
言いよどむマリに尋ねると、マリは困ったように視線を宙に向けた。
「正確なことはわからない。あまり憶測で物事を言うのは好きではないのだが、ただ先ほど凪が言っていたように、やや回りくど過ぎる気がするのだ」
マリには俺が神罰について思っていることをいくつか混ぜて説明している。
今起こっている神罰がなぜ起こったかを説明したときに、どうしてこんな面倒な仕組みの神罰を行っているのかということも話してある。
「神とて人と同じように考えも持ち感情もある。仮に攻撃されたとなれば怒ることもあるだろう。しかし、だからといって人間を、それも神に近い存在である神人に五十年もの間こんな卑劣なことを続けるとはどうも考えづらい。神が罰を科すことすら珍しい中で、五十年間こんな複雑そうな術を使った神罰を続けるなんて、よほどの理由がなければ無理だと思う」
マリのような人とは違う存在に聞けば、動機のようなものが見えてくるのかと思っていた。動機も重要な部分だ。
限りなく可能性は低いだろうが、この神罰が悪意によって行われていないのだとしたら、もしこの神罰を行わなければならない理由があるとしたら、それを解消しても神罰は止められる。
そういう方面からの可能性も考えていたのだが、どうやら難しいようだ。
五十年も続けていることなのだから、続けなければならない理由があると思う。
それが何なのかは、おそらく直接神罰を起こしている神に問い質すまではわからないだろう。
マリは少し手を伸ばして魚の干物を掴むと、口を大きく開けて一口で飲み下した。
そして、胸の前で手を打ち合わせると、そこに術式のようなものが浮かび上がった。
「術者……術者……。どこにいるかはわからない。この中にいるかもしれないし、外側で術を行使しているのか。我の力ではわかりそうにはないな」
探査を目的とした術であったようで、マリは肩を落としながら術式を消した。
術者がどこにいるのか。
それは非常に重要な問題ではある。
しかし、それを実際に突き止めるのは最重要である当時に最難関の問題である。
これは俺の予想だが、五十年の間続けてきて一度たりとも術を行使するところを目撃されていないとすると、術を行使する際に必要な動作のようなものはない可能性がある。
ただ念じるだけで発動するような術だとしたら、発動の現場を押さえることもできない。
嫌になるほど困難なことをやっているのだと、つくづく思い知らされる。
俺は腕時計を確認する。ショックに強いことで有名な時計だ。
電波時計なので一度合わせた後はしばらく正しい時間を刻んでくれる。しかし、神罰が終わると神罰が始まる前の状態に戻り、正午の時間に針が戻ってしまうので毎度時間が狂ってしまうが、電波時計ならある程度時間が経てばまた時間を合わせてくれるので重宝している。
時刻は、神罰が始まってから一時間が経っていた。
「そろそろ時間のようだ」
そう呟いたのは結界の上方を見ていたマリだった。
「わかるのか?」
「なんとなく、ではあるがな。徐々に空間が現世に戻りつつあるのを感じる」
そういうのはわかるものなのか。
いくら結界を見てもそんなものは読み取れない。
「皆よ、そろそろ引き上げのようだ。準備せよ」
ぽふぽふと手を叩きながら合図をすると、丸まって眠りこけていた猫又は体を伸ばしながら大きく欠伸をし、食べかけの食べ物を持っていた者は手早く口に詰め込んでしまう。
心葉の中でごろごろと眠っていた猫又は、ずるずると心葉の腕の中から抜け出して毛繕いを始めた。
「あぁ……」
心葉が名残惜しそうに呻いている。
お前は何をやっている……。どんだけ猫好きなんだよ。
苦笑しながらそんなことを思っていると、マリの言う通り周囲の猫又に空間の歪みが現れ、次々と吸い込まれ始めた。
「凪」
名前を呼ばれ振り向くと、マリは両手両足を地面に付けて姿勢を正して座っていた。
「先ほど、我が冗談で体の一部を要求したとき、もし本当に対価としてお前が口にした部分を要求していたら、どうしていたつもりかね?」
「……さあ、どうしていたかな」
俺の曖昧な答えに、マリは鼻を鳴らして小さく笑った。
「ふっ、呆れたやつだ。それではほとんど答えているも同じだろう」
確かに、そうだったかもしれない。
マリは心を読むような澄んだ瞳でじっとこちらを見返した。
「もっと自分を大事にしなさい。全てを投げ打って全てを助けたところで、君には何も残らない。自分が差し出した分だけ、見返りがもらえるとは限らない。そんなことを続けていては、いつか何も救えずに、自らの身を滅ぼすことになるよ」
痛いところを突かれてしまい、俺は苦い笑いを浮かべるしかなかった。
「そんなことにはならないように、気を付けます」
自分よりもずっと長く生きている先輩に、俺は敬意を称す。
そんな結末は願い下げだ。全てを投げ打つなら、最後の結末くらいはハッピーエンドにしたいものだ。
マリはじろりとした目をこちらに向ける。
「わかっているんだかどうなんだか」
嘆息を吐くマリの周囲からはほとんどの猫又が空間の歪みに消えている。
残るはマリを含めた十数匹の猫又のみ。
「美榊島か。我は訪れたことはなかったが、ここの外の景色も見てみたいものだ」
「また来いよ。今度来るときまでには、神罰なんて終わらせて、本当にいい島にしておくからさ」
「楽しみにしておこう。凪、君がこの罰を終わらせることを、我ら皆、あちら側から祈っているよ」
最後にそう言い残し、マリや他の猫又は空間の歪みに吸い込まれて消えていった。
結界が晴れていき、雲が少し浮かぶ青空が覗き始めた。
陽光が照らし出すグラウンドからは猫又はおろか、マリが出していた料理の全てが消えていた。
「……さて」
膝を叩いて立ち上がる。
「こんな神罰もあるんだな」
笑みを浮かべて呟くと、先ほどまで猫又をもふもふして上機嫌だった心葉が頷いた。
「戦闘自体がない神罰はたまにあるけど、こんな風に現れた妖魔と話せたりする神罰なんてたぶん今回が初だよ」
俺の知っている神罰の情報からも、過去そんなことはなかったはずだ。
俺は、案外運がいい方なのかもしれない。
マリから得た情報は、おそらく自分がどれだけ努力しようと得られない知識だった。
妖怪と話ができるなんて、なんとも新鮮な体験だ。
現世、常世、神人、術者、動機。
様々なことがわかると同時に、わからない疑問がそれ以上に浮かび上がってきた。
妖怪である猫又でさえ不審に思う神罰の存在。
この神罰は、絶対に止められる。
不可能なことなどではない。
そう考えると、口元が緩むのを押さえ切れなかった。
「何笑ってるの? 変な人に見えるよ?」
「……いや、お前に言われたくねぇよ。なんであんなテンション上がってたんだよ。上がり過ぎて逆に引いたわ」
「だって猫好きなんだもん! かわいいじゃん! もふもふしててごろごろしてて、もう離せなくなっちゃうんだよ!」
「……さいですか」
それからも心葉は猫について熱演していたがうるさいのでしばらく放置しておいた。
「変な神罰だったな」
離れたところにいた玲次たちがこちらにやってきた。
「ああ、妖魔たちも好き好んで俺たちを襲っているわけじゃないのかもしれないな。本来なら、人間なんていないところにいるのに、いきなりこんなところに放り出されて、わけがわからなくて人間襲ってるだけかもな」
「……例えそうだとしても、戦わないわけにはいかないでしょう」
七海が不満そうに口を尖らせて唸る。
「わかってるよ。襲ってくる以上は戦う。でも、妖魔たちも悪いやつばっかじゃないってのは、やっぱり間違いないな」
蜃の神罰では、ただ蜃気楼を見せていただけなのにそれなりの数の生徒が蜃を狩りに出ていた。
あそこで殺された蜃たちも、元の世界に戻ったところで生きてはいない。
無闇に殺すことは間違いだ。
でも神罰で大切なものを失っている彼らの勇み足を止めることは難しいだろう。
もし言葉がわかる妖魔がまた現れたときは、会話次第で戦闘は避けられるのだ。
「いや-、それにしても猫又って可愛いっすね。僕も思わず神罰なんてそっちのけで戯れてましたよ」
「だよね。すっごくかわいかったよね」
心葉が異様な食いつきを見せる。
俺は苦笑しながら肩をすくめ、校舎へと戻った。