15
六月が終わり七月に入ったばかりの蒸し蒸しした夏の日に、もう何度目になるかわからない神罰が起きた。
雲一つない晴天を黒の結界が徐々に犯していく。
教室の窓から流れ込む涼しかった潮風がピタリと止み、梅雨明け前の嫌な熱気が広がった。
もう神罰が始まるときに感じる不快感にも慣れ、顔こそしかめるが周囲に気づかれるほどではない。
周囲で他の生徒たちが準備するのに合わせて席を立ち、左手に天羽々斬を生み出す。
天羽々斬の力は未だに扱い切れているとは言えない、のだろう。
使用を重ねていく内に別の使い方や精度向上など、戦い方の幅は少しずつ広がってきている。ただ、それは今使えている力を工夫や応用によって手数が増えているだけに過ぎない。
父さんに言わせればきっとまだまだだろう。
ここ最近でできるようになったことと言えば、生み出すときに抜き身の状態で生み出せるようになったことぐらいか。
天羽々斬は鞘に収まっていない状態で生み出すのは神力の節約になったり、鞘を消したりする手間がなくなる程度だが、些細ではあるが前進だ。
天羽々斬を逆手に持ちながら、窓からグラウンドを覗き込む。
出したはいいが、どうやら使うことはなさそうだ。
覗き込んだはずのグラウンドには、ゆらゆらと揺れる森が広がっていた。
かと思うと、急に海が現れ、眉をひそめている間に大都市を上空から見ているような光景へと変わっていった。
周囲の生徒がなんだこれはと騒ぎ立て、どうしていいかわからずに窓際にいる玲次と七海に視線を向けて指示を待っている。
「こんな妖魔、お前知ってるか?」
振られた七海は、目に困惑を浮かべて首を振る。
「……いや、私も知らないわ」
状況が掴めないという空気は教室に広がる。
「天堵先生は知ってます?」
話を振られた天堵先生は困惑した表情を浮かべながら首を振った。
「私も知りません。でもこういうとき、無闇に動かないのが鉄則です。皆さんここから動かないように」
「大丈夫ですよ」
俺はそう言いながら机の中からテニスボールを取り出した。
「なぜ机の中にテニスボールが……」
珍しく後ろに座っていた心葉が冷静に突っ込んでくる。
「細かいことは気にするな」
手の中でボールを転がしながら、窓を開ける。
「凪、お前この神罰が何か知ってるのか?」
玲次に尋ねられ、俺は頷きながら答える。
「お前らが知らないのもわかる。この神罰は直接生徒に害がないタイプの神罰だからな」
七海は眉をひそめながら校庭に広がる不可思議な光景を見ている。
「あれは、私たちに害がない妖魔のなのね?」
「あれはただの蜃気楼だよ」
持っていたテニスボールを校庭に向かって投げる。
校庭には高層ビルが並んだようになっていたが、テニスボールはそれらのビルを通り抜けて消えていった。
教室の生徒たちが一様に驚いたような表情を浮かべている。
「蜃気楼。今ここに映っている風景は全て実在しているわけじゃない。この世界のどこかの風景だ。結界に阻まれた校内に直接光を曲げて像を結んでいるわけではないけど、離れた風景を映し出してるんだろうな」
「じゃあ、この神罰の妖魔って……」
七海はどうやらわかったようだ。
「ああ、この妖魔は【蜃】だ」
蜃。
巨大なハマグリの姿をしていると言われる怪異である。蜃が吐き出す息が蜃気楼を作ると言われており、今見ている光景もどこかの像をこの校内に結んでいるだけなのだろう。
本来の自然現象は密度の変化で本来見えるはずのない場所にある像を結ぶことによって起きる現象だが、妖魔としての蜃は次元や空間も異なった場所の像を結ぶことができるようだ。
「つっても、この神罰は違う場所の景色を作り出すだけ。蜃は直接的な攻撃能力は皆無だ。俺が知っているのは四十年くらい前に一度会ったからだが、そのときも誰も死者が出なかったみたいだしな」
「でも、これだと下手に動けねぇな」
「止めとけよ。どうせ治るつっても無駄な怪我するだけだからな」
「なら、下手に動かないように他のクラスに伝えとかないと」
玲次がクラスの何人かに目配せをすると、素早くその生徒たちは教室から出て行った。
生徒会がいるAクラスは言わばこの神罰の司令塔だ。そのため伝達係が存在しており、こちらで把握した情報は素早く他のクラスに伝達された統制を取ることになっている。
時には校内放送をすることもあるが、大きな音で妖魔たちを校舎に集めてもいけないため普段からあまり使われていない。今回は急ぎではなく状況を詳しく伝えるための伝達係だ。
実際使ったのは初めの方の牛鬼のときに七海が生徒たちを決起させるときに使っただけだ。
「さて」
連絡が行き終わったのを確認すると、俺は天羽々斬を携えたまま教室を出て行く。
「おい、お前は出て行くのかよ」
「神罰で妖魔の心配をせずにうろつける機会なんて滅多にないからな。うろつけるだけうろついてくるよ」
廊下に踏み出したとき後ろを振り返ると、窓際から校舎を見下ろしている心葉の後ろ姿があった。どうやら今回は教室に残るようだ。
「あ、そうだ。今回の神罰では戦闘は起きないけど、俺は適当に暴れてるから気にしないでくれ」
「はぁ? なんで?」
「なんでもだ」
疑問符を浮かべている玲次たちを残し、俺は教室を出て行く。
しかし、次の一歩を踏み出そうと視線を前に戻すと、鼻先を赤い髪が掠めた。
爛々と燃えるような赤髪の持ち主は、そのまま角を曲がって階段を下りていった。
御堂が俺の部屋を訪れた日から数日が経っているが、御堂の無視っぷりは徹底されている。
俺と目も合わせようとせず、授業はサボり、柴崎たちと連み、周りに負のオーラを撒き散らしながら日がな一日自由奔放に生きている。
だが、あの日の御堂と会話をし、その心中を悟ってから、それが意図して行っていることだと理解している。
それを理解した上で、それが偽りだというレンズを通して見ると、御堂の行動はまったく違ったものに見えてくる。
それがわかったところで干渉も、もちろん批難もしない。
協力はするが共闘はしない。
御堂もおそらく同じことを考えている。
「よし」
窓枠を飛び越えて体を踊らせる。
重力に引かれて落下していく先にあるのは大海原。
ただの蜃気楼だとわかっていても、水面が近くなると息を止めてしまった。
体は水面を貫き、水にぶつかった衝撃は当然微塵も感じず落ちていく。
錯覚の海の中には、中庭の光景が広がっていた。距離の心配をしていたが苦もなく降り立つことができた。
視界には神秘的な光景が広がっていた。
二つの校舎に挟まれる中庭は海にすっぽりと覆われており、目の前を魚群が流れていった。
色とりどりの魚。立派に育った珊瑚礁。遥か先まで見通せるほど透き通った景色。
今まで生きてきて一度として見たことがない光景だ。
泳いでいる魚の姿を見る限り、明らかに日本の光景ではない。攻撃性はないと言っても、さすがは妖魔。この世界のどこかの光景を像として結んでいるんだろう。
「って、こんなことしてる場合じゃなかった」
十秒ほど、呆気にとられて浮き世離れした光景に見とれていた。
中庭から大きく飛び出すと、校内を囲う壁まで走り出した。
神罰の時間は限られている。
いつもなら永遠とも思えるほど長く感じる神罰も、明確な目的を持って動けば光のような早さで過ぎ去っていく。
アインシュタインの相対性理論を思い浮かべながら、飛ぶように駆けて外縁部へ向かっていく。
到達した外縁部からは黒い結界が空高々とそびえていた。
高校の外縁部はほぼ正円形の壁に囲まれている。その壁を囲うようにドーム状の結界が張り巡らされているので、結界で囲い切れていない土地は存在しない。
俺は勢いよくジャンプすると、塀の上に張り巡らされている結界に体当たりした。
びたーんと正面からぶつかったが、特に痛みは感じない。
体を仙術で強化しているからではなく、結界が阻んでいるからだ。
ずりずりと滑り落ちて、外壁に降り立った。結界に両手を付いた。
そこに確かに結界という障壁はある。だが、いくら力を込めて結界を貫くことはできない。
拳を打ち込んでも蹴りを叩き付けても、果ては天羽々斬で斬りつけても衝撃をほとんど感じることなく止まってしまう。
「なるほど……。これじゃいくら逃げようとしても逃げられないわけだ」
次元や空間までずれているとなると、力のあるなしは関係ない。
神罰で戦う生徒を閉じ込める檻。
これがあるせいで、戦わずにして逃げるという選択肢は選べないのだ。
外壁から飛び降りて少し距離を取ると、天羽々斬を下げて低く構える。そして切っ先に神力を凝縮させる。
「せいやっ!」
掛け声とともに天羽々斬に集めた神力を刃に変え、外壁に放つ。
神力の刃は外壁を直撃し炸裂した。
分厚い石で作られた強固な壁ではあったが、天羽々斬の一撃に呆気なく吹き飛んだ。
しかし崩れた外壁の先に現れたのは、当然黒い結界だ。外壁を崩したところでことは逃げ出すことはできない。
この結界はおそらくドーム状ではなく、球状に美榊高校を覆っているのだ。いくら地面を掘ってもこの結界からの脱出は不可能だろう。
結界面から神罰のシステムを崩すのは、どうやら無理なようだ。
これだけ壊したとしても、簡単に戻ってしまう。
「さて、次行くか」
天羽々斬を持ち、再び走り出す。
だから、手当たり次第に周囲のものを破壊して回った。
誰もいない体育館を天羽々斬の神力の刃で木っ端微塵に吹き飛ばした。
校内に植えられているご神木を薙ぎ倒すのは気が引けたので、人工物で壊せるものは校舎以外のものを片っ端から潰していく。
焼却炉やゴミ置き場、倉庫や外壁などもできる限り破壊していった。
そんなこんなでしばらく校内を回っていると、視界にゆらゆらと動く物体が入った。
周囲の景色は砂漠のように何もない、だだっ広い砂浜が広がっていた。
誰か人でもいたら危険なので、動きを止めて凝視する。
しばらく観察していると、それが人でないことに気が付いた。やたらと大きいし、動きも同じ動きを繰り返しているようだった。
ならその物体の正体は一つだ。
天羽々斬を構えたまま、警戒して近づく。
二メートルほどまで近づいたところで、周囲の蜃気楼が薄れ、動く物体の正体がわかった。
大きな、本当に大きなハマグリだ。
殻長は一メートルを優に超えている。重量がどれくらいになるかも想像できないが、大の大人よりずっと重いことは間違いないだろう。
二枚貝であるところの巨大なハマグリは、上殻をゆっくりと上下させながら、貝の奥底から淡い色の煙を吹き出していた。空気に溶けるように消えていく煙は、臭いや刺激も感じさせずに周囲へと広がっていく。
このハマグリこそ今回の妖魔、蜃だ。
吐き出されている煙が景色をねじ曲げ、ここではないどこか別の景色の像を結んでいるのだ。
目と鼻の先まで近づいているにも関わらず、蜃は煙だけを吐き出し続けている。特に攻撃してくる様子もないし、そういう気配も攻撃的な意志も感じ取れない。
ただそこにある。それが蜃のあり方だ。
妖魔だからと言って、全てが俺たちの敵になるわけではないのだ。
今年に入っての神罰、俺たちの代は、強力な妖魔で尚且つ好戦的な妖魔が多いと聞いている。だが、過去の神罰では戦意を持たない妖魔は少数ではあったが珍しくないと言う。
「にしてもハマグリか。うまそうだな……」
でかでかとした妖魔と言えどハマグリはハマグリ。食すという考えが頭をよぎったが、可哀想なので止めておこう。腹を壊してもいけないし。
俺の存在など意に介さず、ハマグリであるところの蜃はひたすら煙を吐き続ける。
「達者でな」
よくわからない挨拶を自分でしながら、蜃の殻をコツンと叩き、また他の場所へと向かっていった。
三十分もすると、蜃気楼が大分少なくなり始めた。
蜃の力が弱くなっているわけではない。狩られているのだ。
俺の他にも、ちらほら校舎から出て蜃を狩っている生徒がそれなりにいる。
こちらは避けて移動しているため直接会うことはないが、武器を手に歩いてる生徒がそれなりの数いるのだ。
その中には理音や柴崎たち、青峰たちの姿もあった。理音は武器も持たずただ散歩感覚で歩いている風ではあったが、柴崎や青峰は武器を手にしており剥き出しの戦意を示していた。神罰で何かしら失っている彼らからしたら、敵意がない妖魔も許すことができないのだろう。
俺は特に何もする気はないが、攻撃性がない蜃を狩っている生徒を責めることはできない。
級友、先輩、兄弟姉妹、様々なものを神罰で失っている生徒たちは、神罰を、妖魔を許すことができない。そこには強い感情や怨嗟が込められている。
いくら玲次たちが無駄な動きをするなと言ったところで、聞く耳を持たないだろう。指示を聞く義理はあっても義務があるわけではない。
蜃を可哀想だと思う気持ちはあるが、それでも生徒たちの勇み足を止めることはできない。反撃されることはないので、生徒たちには危険がないので大丈夫だろうが。
「――ですので、今日のことでわかったと思いますが、神罰に現れる妖魔は何も全てが皆さんに攻撃を仕掛けてくる妖魔ばかりではありません。見た目や起きていることに騙されず、正しい判断を行ってください」
教室に戻ってくると、残っていた生徒が自分の机に座り、天堵先生が授業のようなことをしていた。
天堵先生は一瞥をこちらにくれるが、すぐにまた授業に戻っていった。
神罰の途中に授業とは暢気とも思えなくはないが、授業の内容は今回の神罰の内容であり、必要なことなので有意義に違いはないだろう。
俺は邪魔にならないように静かに教室の後ろを横切っていく。
「お前、一人で何やってたんだ? 本当に暴れてみたいだけど」
「んー、ちょっとした実験かな」
玲次に曖昧な答えを返しつつ、俺は自分の席に座る。
後ろにはまだ心葉が座っており、机と椅子を窓際によせて、ずっと校舎の方を覗き込んでいた。
「ずいぶん熱心に見てるな」
「うん。だって、綺麗だから」
心葉は子どものように目を輝かせながら答える。そしてまたグラウンドへと視線を戻した。
俺も椅子を窓際によせてその上にあぐらをかいた。
グラウンドは少し蜃気楼が薄くなっていたが、それでも幻影は未だに映し出されていた。今教室から見えている光景は、なんとモアイ像。イースター島の光景が映し出されていた。
「私、この島から出たことないから、自分の目で世界の景色を見られるなんて思わなかったよ。たとえ蜃気楼でも、本当に凄い」
そう話す心葉は、寂しそうであり、とても嬉しそうだった。
「俺もさすがにモアイ像は見に行ったことないよ。高校生なんだし、まだまだ見られる機会はあると思うけどな」
「私は――」
「お前もだよ」
先に言おうとしていた言葉を遮り、俺ははぐらかすようにため息を吐いた。
「そろそろ神罰は終わる。見納めになるんだからしっかり見ておけよ」
Aクラスの半数は教室にはいない。そのことから考えても、それなりの生徒が蜃を狩りに出ているようだ。蜃気楼が薄くなっているのは蜃の数が減っているからに間違いないだろう。
蜃が狩り尽くされるにしろ、そろそろ正午から四十分近く経っている。どちらにせよあと三十分もしない内に神罰は終わるだろう。
だからそれまではこの神罰の光景を見るくらいは、許されてもいいだろう。
天堵先生が神罰の授業を進めていくのを頭の片隅で聞きながら、俺と心葉は蜃気楼を眺めていた。
ふっと、体から不快感がなくなり始める。
神罰開始から一時間ほど経ったときのことだった。
神罰の終わりだ。
初めに比べてずいぶん薄くなってしまった蜃気楼は急激に晴れていく。狩り尽くされたわけではなく、時間が経ったから終わるようだ。
俺たちが勝手に話を進めようとしていると、天堵先生が教壇で手をぱんぱんと叩いた。
「さてさて、何はともあれ今日の神罰は終わりです。皆さん、午後の授業は短くなりますが頑張ってください」
天堵先生はそれから事務連絡を数分行い、机の上で出席簿を整えるように叩き、教室から出て行く。
他の生徒も、併せて昼休みに入っていく。神罰が長引いた分午後の授業は短縮されるが、昼休みはそのままずれ込むので、これから数十分は休みがある。
それにしても、戦わなくてもいい神罰であったから内からどうにかできると思ったが、やはり無理なようだ。
おそらく、片っ端から壊したものも全て直っていることだろう。付け入る隙がないな。
結界に抜け道らしきものもなく、ネズミ一匹この結界から逃れることは不可能だ。
―――ぁ。
不意に耳に微かな何かが届いた。
「……なんだ?」
振り返って視線を窓の外に向ける。
校庭では幾人かの生徒が校舎に戻ってきているようだった。その彼らも、なにやら様子がおかしかった。
「どうかしたの?」
七海が俺の視線を追ってグラウンドへと向ける。
俺は窓を開けながら目の届く範囲を見渡した。
「今、何か聞こえなかったか?」
「何かってなんだよ」
「いや、なんて言うか……」
俺が言葉に迷っていると、後ろで心葉が同じように窓を開けた。
「私も聞こえた気がする。なんと言うか、悲鳴、みたいな」
そうだ。確かに悲鳴に聞こえた。
だが見える範囲には、悲鳴を上げたようなやつはいない。
しかし、グラウンドに残っていた生徒たちは、一様に同じ方向を向いていた。体育館付近の林の方向だ。
「ちょっと行ってくる」
俺は玲次たちに軽く手を振ってそのまま窓枠を飛び越える。
「私も行くよ!」
続いて心葉も窓枠を飛び越えた。
「ああ!? おまっ! 何やって!」
心葉はきょとんとした顔でこちらを振り返り、スカートを押さえながら落下している。
俺は後ろ手に引き抜くようにして天羽々斬を生み出し、同時に現れた白煙を俺と心葉の足元に足場を形成した。
心葉は突然現れた足場に少し驚いた様子ではあったが、危なげなく白煙の上に足を乗せて着地した。
「いきなり何飛び降りちゃってるの!?」
あまりに驚いて心臓がばくばく鳴っている。
「だ、大丈夫だよ心配しなくても、私も仙術使えるから。三階程度の高さから飛び降りても怪我なんてしないよ」
「あ、ああ……そうでしたね」
最近は少し増えたと行っても、基本的に後方支援だしほとんど戦闘には参加していないのですっかり失念していた。
俺も仙術で降り立つつもりだったので、心葉も同じことを考えていてもおかしくはなかったが。
俺はため息を一つ落としながら天羽々斬を持っていない方の手で顔を押さえた。
「だからって無茶するなよ。女の子なんだから。下から見えんぞ」
心葉は顔を赤くして両手で隠すようにスカートを押さえ、白煙の上にぺたんとしゃがみ込んだ。
「そ、そうだね。失敬失敬」
恥ずかし笑いを浮かべる心葉に俺は苦笑を返した。
白煙を操り、俺と心葉をグラウンドの上に降ろす。
急にグラウンドに降りてきた俺たちに、グラウンドにいた生徒たちは不思議な視線をこちらに向けてくるが、先ほど悲鳴が気になっている生徒もいるようで体育館近くの林を見ている。
俺と心葉は目配せをして、林の方へ向かって走り出した。
林の中に飛び込んだ俺と心葉は、むせ返るような激臭に息を詰まらせた。
鼻を抉り突き刺すような鉄錆の臭い。それだけで何の臭いかは、神罰を経験した生徒なら誰でもわかったろう。
「なん……で……」
飲み込めない現実に、足が杭で地面に打ち付けられたように動かなかった。
違う、あり得ない、そんなはずがないという否定の言葉が思考を埋め尽くした。
震えすくむ体を動かそうとするが、半歩すら動かすことができない。
そんな俺の横を、心葉は躊躇わず駆けていった。
半ば引きずられるようにして、足をもつれさせながらなんとか前に進む。
一歩進むごとに増していく異臭に、顔を歪ませながら林を抜け、少し開けた場所に辿り着いた。
眼前には、心葉の小さな背中が映っている。
「そんな……」
肩を小刻みに揺らしながら、信じられないものを見るように両手を口に当てている。
表情は見えないが、その視線の先にあるのもがなんなのか物語っていた。
俺たちの右、横の林の方に一人の男子生徒が頭を抱えてがくがくと震えている。歯がかちかちと音を立て、嗚咽がやたらと耳へと届く。
おぼつかない足取りで前に進み、そこに広がっている光景に呆然と立ち尽くしてしまう。
飛び散っているおびただしい量の鮮血。
木々や草花にまで降り注ぐほどの血液が、本来緑色であったはずの視界を赤く染めている。
何があったのかは、想像もできない。
ただはっきりしていることは――
目の前に広がっている赤一面は、その中心にいる生徒――
御堂のものに、違いなかった。
太い大木に寄りかかるようにして頭を垂れており、頭部から流れ出た血液が、嫌でも人目を引いていた朱髪をどす黒い赤いに染め、前髪を伝ってぽたぽたと落ちている。
左腕と右足はあらぬ方向にねじ曲がっており、右腕は肘から下が存在しない。
先ほどまで御堂の体にあったであろう右腕は、少し離れた地面にただの肉片と化して転がっている。
手のひらだけは妙に綺麗だが、それ以外は血の池に落としたかのように真っ赤だった。
空は青かった。
目の前の光景には似つかわしくないにもほどがある青い空。
妙に嘘っぽい空だった。
空から降り注ぐ眩い光が、血液をより鮮やかに見せつけ、これでもかというほど現実を叩き付けてくる。
今ほど、光が残酷だと思ったことはない。
「どうして、御堂が……」
いや、そもそも今目の前で起きている光景自体が、俺からすればあり得ない光景だった。
いくら思考を巡らせ、様々な考えに考えを重ねても、どうしてこの状況になるのかがわからない。
本当に、わからなかった。
「……ごふっ……ぁ」
そのとき、血だらけの左手がピクリと動き、呻き声とともにどす黒い血液が地面に吐き出された。
「凪君!」
心葉の呼びかけが耳に届くよりも早く、御堂の元へと駆け寄った。
地面の上に血の滴る左腕の手首に、慎重に指を押し当てる。
微かに触れていた。まだ息があったのだ。
この傷、この出血、この惨状で信じられない。
「おいそこのお前! 今すぐ黄泉川先生を呼べ!」
震えて地面で頭を抱えている生徒に怒鳴ると、体をびくつかせて顔を上げた。
「え……うぁ……」
「さっさとしろ!」
動揺しきってよくわからない声を発する生徒に再び怒声を叩き付けると、生徒はおぼつかない様子でポケットから携帯電話を取り出して連絡を取り始めた。
御堂はこんな状態だが、まだ生きている。この有様で本当に信じられない。
だが触れている脈は、とても弱々しい。いつ停止してもおかしくないほど、僅かに感じ取れる程度の脈しか感じることができない。
反対側に心葉がしゃがみ込む。
心葉は目に焦りを浮かべ、血だらけブレザーの上から迷いなく腹部に手を当てた。
淡い光が心葉の手から御堂へと伝わっていく。
自らの神力を他人にシンクロさせることができれば、神力を活性化させて傷の治りを早くするという効果を得ることができる。
極めて難易度の高い技術であり、俺は一度も成功したことがない。
御堂の体が神力の薄青い光に包まれる。
どうやら御堂の神力にリンクさせることには成功したようだ。
この方法は相手に無尽蔵に神力を受け渡すことになるようで、仙術や法術よりもずっと神力の消費が激しい。心葉の額にはすぐに大量の汗が浮かび始めた。
再び御堂の口から血が噴き出し、心葉の手が真っ赤に染まる。
「ダメ……! 治療が間に合わない!」
心葉が焦りを声とともに吐き出した。
いくらなんでも傷が深過ぎる。息があるだけでも奇跡なのだ。
治療をどこまで進めたところで、流れ出た血液が戻るわけではない。
心葉がやっていることは、焼け石に水だ。
焦れば焦るほど、何をすればいいかわからなくなる。視覚も聴覚も触覚も、全てが揺れる。
突然、力ない腕が俺の腕を掴んだ。掴まれたことで、一気に現実へと引きずり戻された。
それは他の誰でもない、御堂の残った左手だった。
弾かれたように顔を上げると、御堂が血で赤くした目を力なく開けて見ていた。
「御堂! おい御堂! 聞こえるか! しっかりしろ!」
破れたブレザーに手をかけ、必死に呼びかける。
御堂は顔を動かすことができないのか、視線だけをのろのろと下に向けた後、小さく視線を横に動かした。
それは否定の意だった。
「ふざけんなしっかりしろ!」
呼びかけが聞こえているのか聞こえていないのか、御堂はほとんど反応を示さない。
ただ生気のほとんどこもっていない目を虚ろに俺に向けているだけだ。
俺は焦りを押さえることができず、御堂に問いをぶつける。
「どうしてだ御堂! なんでお前がこんなことになってる!」
あり得ない。あり得ないはずなのだ。
御堂がこんな状態にあること自体が不可解で解せない。
だから、問い質せずにはいられなかった。
血ぬれの左手の力が微かに強まった。
顔を苦しそうに歪めながら震える口を開こうとしているのがわかる。しかし、ほんの少し開いた口から漏れるのは僅かな吐息と血泡だけだ。
傷が肺にまで届いているんだ。呼吸すら満足にできてない。
「先生は……黄泉川先生はまだか!?」
黄泉川先生に連絡を取っていた生徒は既に通話を終えており、携帯電話を両手での祈るように握ったまま、首を振っていた。
周囲には騒ぎを聞きつけた生徒たちが集まり始めている。蜃狩りに出ていた生徒たちだ。
その生徒たちの中に黄泉川先生や他の先生の姿はない。
不意に、掴まれていた腕が引かれた。
御堂を振り返ると、生気のない目をこちらに向けていた。
何か言いたげな視線に感じたため言葉を待つが、御堂は紡げないでいた。
苛立ちのようなものが微かに過ぎったの感じた。。
すると、御堂は視線だけを動かし、上方へと向けた。
なんだ……?
御堂の視線を追って振り返るが、その先には空があるだけで、雲一つ存在していない。
空間に何かが存在してるわけでもなく、御堂が何を見ているのかがわからない。
視線の先をもう一度確かめようと御堂の目を見るが、御堂の視線は既に落ちていた。
そして、薄く開いた瞼から覗く瞳は地面に取り込まれたかのように、動かなくなっていた。
同時に、ブレザーを掴んでいた御堂の腕がぱたりと落ちた。
ハッとしてその腕を掴み取り手首に指を押し当てる。
先ほど前微かに感じられていた脈が、ピクリとも触れなくなっていた。
「御堂? おい御堂!」
肩を掴んで体を揺らすが、ついさっきよりも重くなった体は人形のように揺れるだけだ。
口から漏れていた希望の吐息も停止している。
体を御堂によせて地面に膝を突くと、ぬめりとした感触が膝を伝ってきた。
気づかない内に、御堂の周囲には血溜まりができていた。
ズボンが地面から血を吸い上げ、対照的に俺の体の血が引いていく。
周囲に飛び散っている血と、血溜まりを作り出している血。
これだけの傷で、ここまでの出血で、生きていられるわけがない。
生きていられるわけが、ないんだ。
心葉が御堂の体に神力を流すことを止めた。
スカートに血が付くことも構わず地面に膝を突いて項垂れる。
両手は地面の土を握りしめ、行き場なくした神力がちりちりと音を立てている。
「この……は……?」
すがるように問う。
心葉は俯いたまま首を横に振った。
全身の血が冷たくなっていった。
周りの景色も、音も、全てが遠くなっていく。
駆けつけた黄泉川先生を初めとした養護教諭たち、玲次や七海もやってきた。
やってきた人たちは一様にその惨状に動揺を隠せないでいた。
鉄仮面を貼り付けた黄泉川先生も同じだったようで、驚きに目を丸くし、食いしばられた歯がぎりっと音を立てていた。
すぐに御堂の状態が確認されたが、結果は火を見るより明らかだった。
御堂が、死んだ。
残酷に、残忍に、無残に、惨たらしく、惨殺された。
どこまでも嘘くさい青空が広がる、夏の日のことだった。
Θ Θ Θ
駆けつけた黄泉川先生は、素早く御堂の元へ来ると首に手を当てた。
手のひらから心葉よりずっと小さな光が漏れる。
黄泉川先生は目を細め、小さくため息を吐いて首を振った。
生徒たちが一様にどよめいた。
玲次たち生徒会と同等の力を持つ御堂の死。
仙術を操ることができるまでの神力を持ち、戦闘の才に恵まれていながらも命を落としたというその事実は、生徒に恐怖の楔を打ち込んだ。
神罰での貴重な戦闘力を失い、御堂の力を持ってしても敗れるという、単純な恐ろしさ。自らがいつ死んでもおかしくないと生徒たちを戦慄させるには十分過ぎるものだったろう。
「どうして御堂が……」
「何があったのよ」
玲次と七海も、突然の出来事に瞳を揺らし、事態に頭を追いつかせようと努めているようあった。
俺は地面に両手を付いたまま、項垂れて呆然としていた。
四肢に力が入らず、目の前の光景を脳が受け付けない。
誰かが肩に手をかけた気がしたが、反応することはできなかった。
肩にかかった手は痺れを切らしたように肩を掴み上げ、そのまま乱暴に胸ぐらを掴まれ、近くにあった木に叩き付けられた。
肺の空気が無理矢理引きずり出され、一瞬息が止まる。
霞む視界には、怒りに歪ませた柴崎の顔があった。
目には入り込んだ光が鮮烈な感情となって頬を指す。剥き出しの怒気が容赦なく突き付けられる。
「どういうことだてめぇ!」
先ほどまで頭の中で反復していた疑問が自分へと向けられる。
しかし柴崎の言うどういうことという疑問が何を指しているのかわからずに、俺は背中に走る鈍痛に顔をしかめることしかできなかった。
「お前言ってただろうが! 今回の神罰は蜃だから、戦闘能力はないし好戦的でもないから誰も死ぬことなんてないからって。だけど結果はどうだ!? 御堂は死んでるじゃねぇか!」
そうだ。
今回の神罰は蜃。柴崎が言ったように戦闘能力もなければ好戦的な意志があるわけでもない。それは俺が近くまで行って確認したことでもある。
なのに今現に、御堂は死んでいる。
「お前があんなことを言わずに全校生徒で蜃を迎え撃って早々に決着を付けておけば、御堂は死ななかった。てめぇが殺したようなもんだ!」
柴崎は御堂を慕っていた。崇拝していたと言ってもいいかもしれない。境遇が境遇だけに、すがれる相手がほしいと考えるのは仕方がないことだ。
御堂は外では不良で通していたこともあり、まじめな生徒会をしている玲次たちよりずっと関わりやすかっただろう。
御堂もそれを突き放すようなことはしていなかった。
それだけに、俺の勝手な判断で御堂が死んだことを恨むのは仕方がない。
俺の判断が、御堂を、殺した?
いや、おかしい。
そんなはずはない。
「なんとか言えよ人殺し!」
言葉から吐き出された怨嗟が鋭い槍となって胸を突いた。
「柴崎!」
玲次の大声が耳に届く。
柴崎は聞く耳を持たずに、ただただ言葉を刃に変えて吐き出し続ける。
雑音が頭を揺らし、思考を妨げていく。
「神罰が原因ではない」
そんな雑音を遮ったのは、低く冷たい声だった。
どこからか取り出したタバコに火を付け、紫煙を長々と吐き出した。
思わぬところから声が上がったため、柴崎を含めた周囲の生徒は一斉に静まりかえる。
柴崎は何かを言おうと口を動かしたが、声にならずに空気に消えた。
そのとき、胸ぐらを掴んでいた柴崎に手を、心葉が掴んだ。
柴崎は憎しみをこもった視線を心葉に向ける。
神罰が原因であるなら、それは紋章を使わない心葉のせいと言い換えることができる。そんな怨嗟を宿した視線だった。
しかし心葉はその視線を受けても怯むことなく、柴崎の目を睨み返した。
「柴崎君、御堂君が死んだのは神罰のせいじゃないよ。私たちがここに来たときには、まだ御堂君は生きていたの」
心葉が言っている意味がわからなかったのか、柴崎は顔を歪めて心葉の腕を振り払った。
「だからなっだってんだ! そもそもお前が紋章を使っていればな――」
「確かに、私が紋章を使ってさっさと死ねば、神罰でこれ以上人は死なない。でも、さっきも言ったけど、御堂君は神罰で死んだわけじゃない。それは間違いないの」
心葉はまったく物怖じせずに、柴崎に打って出る。
「そんなわけないだろ! 現に御堂さんは――」
途中で何かに気づいたように、柴崎が口を開けたまま目を見開いて停止した。
「わかった?」
心葉が確認するように問うと、柴崎は口をわなわなと震わせて瞳を揺らす。
「私と凪君がここに来たとき、御堂君はまだ生きていた。それは他にも見ている人がいるから間違いないよ。神罰で死んだのなら、私たちが生きている状態を目撃できたはずがない。この傷は神罰で負ったものじゃない。それはわかるよね? 神罰の際に受けた傷は如何なるものも、生きてさえいれば神罰の終了とともに神罰前の状態に回帰する。――つまり、御堂君は神罰で死んだんじゃない。神罰が終わった後に死んだの」
そうだ。心葉の言う通りなのだ。
御堂がこの状態でこんな傷を負っているのが妙な状況なのだ。
まず第一に、先の神罰、蜃において、蜃は幻覚を見せるだけで攻撃する能力は持たない。それは多くの生徒が実際に見たはずなので間違いない。
それに、仮に蜃が攻撃能力を持っていたとしても、俺と心葉を含めた多くの生徒が神罰後にはまだ御堂が生きていたことを確認している。
もし蜃の攻撃で受けた傷であったのなら、御堂は死ぬことなく神罰を終えたはずだから、傷も治っていたはずなのだ。
御堂は神罰で死んだわけではない。
それだけは間違いない。
だがそうなると逆に、大きな問題が上がってくる。
「じゃあ……」
柴崎が震える口からか細い声が漏れる。
「――じゃあ、なんで御堂は死んだんだ……」
問題は、そこに行き着くのだ。
人が死ぬ理由は様々ある。
事故、病気、老衰、自殺、殺人、生贄、……それら全ての要因に、多種多様な理由が入り乱れ、人は生涯を終えていく。
しかし、御堂の死は果たして何が原因になるのか。
状況から見れば他殺だ。
死因は刃物による外傷、それが原因の失血死というところだろう。
近くに武器になるようなものが転がっているわけでもない。
そうなると動機という問題も出てくる。
神罰で強力な戦力を持っていた御堂を殺す理由。
御堂は不良として振る舞っていただけで、別段悪事を行っていたわけではないはずだ。
となると動機もあやふやになってしまう。
御堂が殺された理由が、わからない。
「鬼斬安綱……」
周囲にいた誰かがふと呟いた。
その単語に、玲次がハッとして顔を上げた。
「まさか……妖刀の呪い……?」
俺の頭にもよぎった。
美榊高校に転校して間もないとき、御堂が呼び出した妖刀鬼斬安綱。
神罰でも見たが明らかに他の武器とは違う雰囲気を纏っており、相当な力を持った神器だったろう。
しかしその反面、これまで神降ろしを用いて鬼斬安綱を手にしてきた人間は、例外なく無残な死を迎えてきた。
御堂も、例外に漏れなかった。
「だから……さっさと縁を切れと言っていたのに……!」
玲次は悔しそうに呟きながら近くにあった木に拳を叩き付けた。
縁を切るというのは、神降ろしで得た神器との繋がりを絶つという意味だ。
降ろした神器は所持者の神力で繋がって現界しており、その繋がりを絶つことで、元の世界に戻る。
父さんの天羽々斬や、総一兄さんの雷上動のように、例外も存在するが、その縁を切れば神器は消えて元いた場所へと帰っていく。
もしその方法を御堂がとっていたら、こんなことには……。
「――准?」
声がした方に視線をやると、理音が立っていた。
顔が色素が全て抜けてしまったかのように蒼白で、あり得ない光景を見て瞳孔が開ききっている。
――そして、そのまま崩れ落ちた。