13
今日から六月。心機一転だ。
目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚まし、ベッドから跳び起きてブレザーに袖を通す。
鮭や目玉焼きやらを適当に焼いて朝食を済ませると、作り置きしておいた料理を弁当に詰め込んで昼食も作る。
「ガァガァ!」
ホウキが羽をばさばさと振りながら自分のご飯はと抗議するので、ペレットと一緒に野菜と一本ソーセージを乗せてやると嬉しそうにがっつき始めた。
できるだけ毎日違うレパートリーでご飯を上げるようにしている。そういうところにわかりやすく反応するやつなのだ。
携帯電話をズボンのポケットに、左手にリストバンドで右手にお気に入りの耐ショック腕時計をはめて準備完了。
まだご飯を食べているホウキを残して部屋を出て行く。ホウキは自由にこの部屋を出入りできるから、放置しても問題ない。最近はよく高校にも来ているし。
「行ってきます」
ホウキ以外誰もいない部屋に向かって挨拶をする。
「ガァー」
すると、ホウキが返事を返してくれた。本当にアヒルだよな、あいつ。
部屋から出ると、そこでは玲次が待ち構えていた。
「……おはよう」
挨拶をしながら視線が無意識に周りの誰を探す。
「はよ。七海ならいないぞ」
「……べ、別にビビってねぇよ」
「いや、聞いてないから」
玲次が冷静に突っ込んでくる。
内心七海に待ち伏せされていなくてよかったと思う。
昨日寮に帰るまでの間、それどころではなく二人を無視して帰路に就いたが、七海は俺を射殺さんばかりの視線を送っていた。
今にもその手から炎が飛びだして俺に襲い掛かるかとひやひやしたものだ。
俺は玲次を伴って階段を下りていく。
エレベーターもいくつかあるが俺は基本的にエレベーターは使わない。最初は使っていたのだが、エレベーターは他の生徒と一緒になる可能性が高い。最近色々やっている俺なんかが、密閉されたエレベーターなんかに乗るとそれだけで空気が悪くなる。特にエレベーターという密室空間に押し込められたときの沈黙。あれは耐えられん。
「あら、二人とも。早く行かないと遅刻するわよ」
「はーい。急ぎまーす」
エントランスの掃き掃除をやっていた彩月さんに答えながら、寮を出て学校に向かっていく。
朝の挨拶から俺と玲次の間には会話はない。玲次はわざわざ俺を待っていたにも関わらず、何を言うでもなく俺の横を歩いている。
俺も、話す言葉が見つからず口をつぐんでいた。
校門をくぐった辺りで、玲次がやっと口を開いた。
「悪かったな。紋章のこと、黙ってて」
話しづらそうにしていたのは、それが理由か。
「別に、気にしてねぇよ。それよか、お前ら知ってたんだよな? 母さんのこととか」
玲次は言葉に詰まって視線を泳がせたが、やがてため息を吐いて頷いた。
「……当たり前だ。神罰を少しでも知ろうとしたやつなら大抵知っている。そのときの子どもがお前って知ってるやつはそうそういないだろうけど。お前のお袋さん、名前は八城じゃなかったから」
「確かにそうだな」
そこが違えば大抵の人間は気づかない。そもそも結び付けられる点がない。そこは知られていなくてよかったと思う。
「校長に口止めされてたんだって?」
「ああ、紋章のことは絶対に伝えるなって言われてた。どこかで知る機会はあるかとは危惧してたんだが、お前、俺たち以外のやつらとほとんど話もしてなかっただろ。だからこっちも知られずにいたんだが、柴崎があんなところで……」
玲次は言いよどんで口を閉ざした。
きっと昨日亡くなった三人のことを思い出しているんだろう。
「むしろ柴崎に感謝しているよ。お前らが黙ってたことに腹を立ててるわけじゃないけど、それでも俺は、知ることができてよかった」
「……そっか。でもな、本当は心葉からも言われてたんだぞ。言わないでくれって」
「あいつなら言いそうだ」
笑いを噛み殺しながら、正面にある校舎を見上げる。心葉はたまに教員棟の屋上にいることもある。グラウンドが見えないので神罰が見ることができないからいるときは生徒棟の上の方が多いが、あまり人が来ないということで教員棟の上にいることもある。
今頃どこで何をしてるんだろうか。最近は心葉を守るという名目でずっと傍にいたが、紋章のことを知った今、会うことすら少し気まずい。
「心葉にも悪いけど、やっぱり聞いておきたかった。別に怒ってるわけじゃないよ。俺がもっと知ろうとしていれば、きっと心葉に嫌な思いをさせることもなかっただろうからな」
玲次も今言っていたが、俺は率先してこの島の生徒に関わろうとしていなかった。
柴崎にも言われた。俺は戦ってさえいればいいと思っていた。
結局俺は何も考えずにただ戦っていただけだ。
思い出すだけでも自分に腹が立ってくる。
「というわけで、授業はサボるから」
「どういうわけなんだ」
「いや、もうなんか授業なんかどうでもよくなったから」
保護者やPTAが卒倒しそうなことを言ったが、美榊高校なら問題発言ではない。これまでも自らを強くすることで授業はあまり出ていなかったが、さらに授業より大切なことができた。
俺の考えを読み取ったのか、玲次は眉根をよせて足を止めた。つられて俺も足を止めた。
周囲には生徒がちらほらいたが、授業が始まるため足早に校舎へと入っていく。
直後、予鈴が鳴った。
校舎に入っていないのは、俺と玲次だけだ。
「悪いことは言わない。バカな真似は止めろ」
「バカな真似、ってのは?」
周囲から生徒がいなくなり、玲次は遠慮なく言い放つ。
「はぐらかすな。神罰を止めようなんて、神に刃向かう真似なんて止めろって言ってんだ」
俺は肩をすくめながら首を振る。
「悪いけど、それはできないな」
玲次は苛立ちに顔を歪めた。
「お前はわかってない。神に刃向かってただで済むわけないだろ。知らないだろうがな、神罰に変な関わり方をすると祟られる、死ぬって言われてるんだ。神罰を止めようなんてしてみろ。お前に直接罰が下る可能性だってあるんだ」
玲次は怒りの声を上げたが、俺は対照的に口を緩めた。
「それで死ぬなら上等だ。本当に神の罰だと証明される。死ぬのは、まあ困るが、その神様ってのが許さないのなら納得だ。でももし神罰でないのなら、俺は罰を受けることもないし死ぬこともない」
俺は校舎に入らず校舎沿いに歩き始める。下駄箱などがない美榊高校では、普通の生徒は教員棟を通り過ぎ中庭を通過して生徒棟へと入っていく。
俺は授業に出る気はないので、校舎を通って行く必要もない。
「それに、もし俺が殺されなくて、この神罰を誰かが起こしているのだとしたら、俺が神罰を起こしているやつをぶっ飛ばす。それだけだよ」
背中越しに手を振りながら、俺は玲次と別れた。
突き刺さるような視線を背後に感じていたが、気にしないように努めた。
玲次や七海には、悪いと思っている。あいつらもこの島で神を信じてきた人間。俺がやっていることは、あいつらにとって悪でしかない。
俺にとって、善か悪かなんて、もう関係ない。
納得できない、許せないからただやるだけだ。
仮に相手が神だとしても許せない。
もう何人も死んでいる。彼らとはまともに会話をしたことも挨拶を交わしたこともない。
それでも、もう二度と会うことはできない、話すこともできない、何も伝えることも、何も共有することができない。
挙げれば切りがない、できないこと。
そのことがとても悲しく、虚しく、これが人が死ぬということなんだと、この島に来て初めて実感させられた。
それが道理に反していることなら尚更、許せない。
神罰を止める。
一人でも多く、神罰を生き残るんだ。
心葉も、クラスメイトも、これからの子どもたちも、絶対に。
そのためにもまず、神罰について知る必要がある。
現在時刻は八時半。仮に今日も神罰が来た場合でも、まだ三時間はある。
俺は戦うことしか考えていなかったため、この高校のこともよく知らない。
神罰を止めるとしても、今は何も手掛かりがない。
市長に会うこと。それが父さんから言われたことだが、何も知らずに行っても、まともに取り合ってもらえるとは思えない。それなりの材料を揃えておく必要があるのだ。
まずは、この高校について知ること。それが第一歩だ。
Θ Θ Θ
美榊高校は、南方に門があり、長い道の先に教員棟があり、中庭を挟んで生徒棟がある。
三階建ての教員棟は、その名の通り教員が使う棟だ。図書室や保健室、食堂などというものは大抵こちらの棟にある。
教員棟から北側に抜けると広い中庭がある。中庭は花や草木を使われ丁寧に整えられている。高校専門の庭師が毎日丁寧に整えているのだ。
それと中庭は巨大な石碑がある。祝詞が掘られ、立派なしめ縄によって奉られた石碑は、美榊高校を守るように佇んでおり、そこに数々の思いが込められている。生徒たちを守護しているようにも感じるが、神罰を象徴しているようで今は若干の苛立ちを覚えてしまう。
中庭から越えるとあるのが俺たちが最もいることが多い生徒棟だ。
生徒棟は一階や二階はジムや武道場など、鍛練を積むことができるようになっており、その上の三階が学生たちが授業を受ける教室がある。
ちなみに屋上は庭園のようになっていて心葉がよく読書などで時間を潰している。
生徒棟の次は、神罰で戦場となるグラウンドだ。その広さはそこらの球場の広さを遥かに凌駕する。端から端まで行き来するだけでも面倒に感じるほどに広さであるが、これは神罰において戦いを有利に進めるために必要な場所だ。
グラウンドを挟んで、校門とは反対側にある建物で、校舎の次に大きな建物である体育館がある。
グラウンドと体育館は授業でも使われるが、ほとんどの場合は自己鍛練のために使われる。
校舎やグラウンド、体育館といった建物は、数え切れない数の木々で囲まれている。空から見れば森の中に高校があるように見えるだろう。
玲次と別れた俺は、一度校門近くの塀まで戻ってきた。
美榊高校は森に囲まれ、さらに数メートルの塀に四方を囲まれている。
俺は仙術を使って体を強化すると、軽やかに塀の上に跳び乗った。
右は離れた場所に校舎、左は塀沿いに西に行った辺りに寮がある。
何かあるかもしれないと考え、塀の上を落ちないように注意しながら歩いて行く。
遠くから見た人にはさぞシュールな光景を見えるだろう。誰かに見られていたら恥ずかしいが、気にしないでおこう。
美榊高校はほとんど綺麗な円形の塀に囲まれているようだ。
この塀を沿って、神罰の結界は張られていく。神罰の結界の位置を記録し、それに沿って塀を作ったらしい。
のんびり落ちないように塀の上を歩いていると一周するので数十分もかかってしまった。
これと言って収穫はなかった。だが収穫がないというのも一つの収穫。
ポジティブに考えつつ、一周回ってきた校門へと改めて降りる。
授業が始まってそろそろ一時間経つ。
今頃、どこにいるかな。
校舎へと入り、ほとんど人気がない校舎を歩いて行く。
中庭に足を踏み入れた辺りで、不意に視線を感じて振り返る。
校舎の陰に隠れるように、白衣を着た男が立っていた。黄泉川先生だ。
「おい」
黄泉川先生はだるそうに腕を上げて俺の手を指さした。
突然何かと思って指さされた手を見ると、手の甲が薄く切れて血が出ていた。さっきやぶを歩いたから、そのときに枝にでも引っ掛かたのだろう。
「手当てをしてやるから来い」
俺が何か言う前に、黄泉川先生はポケットに手を突っ込んだままのそのそと歩き始めた。
今更お断りしますなどとは言えず、肩をすくめて後を追う。
連れてこられたのは保健室。
教員棟の一階に位置する保健室に来たのは、二ヶ月近くこの美榊高校で過ごして初めてだ。
保健室と言えばサボる定番ポイントだが、元々授業に出なくても容認されているこの高校ではわざわざ保健室でサボる必要はないのだ。容認されてなくても来たりしないが。
神罰などという危険に巻き込まれているが、終われば傷は跡形もなく消えるためそっち方向でも使うことは少ない。
あとは修行中などに起きる怪我で、普通の生徒はわりと利用しているようだが俺は多少の怪我は気にしないので来たことがないのだ。
初めて来た保健室はベッドなどがいくつも並んでおり、それなりの多くの人が入れるようになっている。
まだ昼にもなっていないからか誰も利用している人はいなく、黄泉川先生以外に二人いた養護教諭がベッドなどの整備をしていた。
「座れ」
戸棚から消毒液などを取り出しながら促された。
大人しく椅子に座って待っていると、黄泉川先生は同じように前の椅子に腰を下ろした。
手当て自体は手慣れたもので消毒を済ませた後で大きな絆創膏を一枚、手の甲に貼られた。
「すいません。ありがとうございます」
「いや」
それだけ言うと、近くにあった机からタバコを取り出して咥えていた。保健室だからさすがに火を付いてなかったが、もう黄泉川先生の口にタバコがないと違和感すら覚えてきそうだ。
「授業も出ずに何をやっている?」
「だめですか?」
普通なら結構な不良発言だが、この高校では至って普通の発言だ。
「別に構わないが」
一拍置き、タバコを指で摘まんで俺の鼻っ面に突き付けた。
火こそ着いていないが微かに嫌な臭いが鼻孔に刺さる。
「死ぬぞ。お前」
「……」
脈絡もなく告げられた不吉な言葉に俺が沈黙した。
周囲にいた二人の養護教諭がギョッとして方を震わせていたが、黄泉川先生は気にした様子もなく治療具を片付け始めた。
「ほとんどの場合、ろくな最後じゃない。行方不明、発狂、衰弱、記憶喪失、惨殺」
「何の……話ですか?」
「過去数十年、神罰時ではない際に、外部に比べて明らかに異常な人数が不審死を遂げている。大人も子どもも関係なくな。総じて言える共通点は神罰を阻害しようとしていたことだ」
どこから聞きつけたのかは知らないが、黄泉川先生は俺が神罰を止めようとしたことを知っているようだ。
そういえば、玲次も祟られるとか言ってたっけ。
「そんなことがあったんですね」
頷きながら手を顎に当てる。消毒液の香りが手に貼られた絆創膏から上がってくる。
「そういうことも、黄泉川先生たちの管轄なんですか?」
「俺たちは島の死を扱う。神罰の死を含め、この島の死は全て俺たち担当だ」
暗鬱たる話であるが、黄泉川先生は淡々と語る。
道具を戸棚にしまい終え、前の椅子に再び腰を下ろす。
「話を逸らすな。神罰に変な関わり方をするのは止めろ」
顔にかかっている前髪から覗く切れ長目が二つ、細められて突き刺さる。
視線や言葉は直接的だが、俺を心配してくれているのだけはわかった。
「仕事を増やすな」
……どうやら違ったようだ。
「わざわざ自ら命をさらすことに、お前にメリットがあるのか?」
「メリットデメリットどうこうで物事を決断できるほど、大人じゃないだけです」
「高校側としては、死ぬことが決まっている紋章所持者に関わり、お前という人間の血を失うのは結構な損失なんだ」
ずいぶん機械的な言い回しだ。
死ぬことが決まっているなどと言いながら、表情は変わらず無表情を貫いている。
「紋章所持者が死ぬって言うのは決まっていることなんですか?」
聞き入れるどころか逆に聞き返す俺に、黄泉川先生はうんざりしたように肩を落とす。
「大学を出てからすぐにここに入り、十四年続けているが、十四人の紋章所持者の遺体を扱っている」
遠回しな答えではあったが、十分な答えだ。
しかし意外に歳をくっているな。
無精ひげやぼさぼさな髪で若さこそ感じられないが、それほど歳をとっているようには見えないのに。
「そうですか。仮にそうだとしても、止める気はないですよ、神罰がある以上、高い低いは別として、死ぬ可能性があるのは変わりませんから。今更バチが当たろうと当たらまいと、知ったことではありませんよ」
言って、俺は立ち上がる。
「あいつにできなかったことが、お前にできるとは思わんが」
「なんですか?」
「なんでもない。手当ては済んでる」
だから行けということだったのだろうが、黄泉川先生はそれ以上は口を開かなかった。「ありがとうございました」
軽く頭を下げ、保健室を出た。
背後での扉の向こうで、黄泉川先生と他の養護教諭との話し声が聞こえてきた。
「……好きにさせていていいんですか?」
「他にも被害が……」
「知らん。どうせ無駄なことだ。気にしなくていい……」
まだ言い争いが続いていたようだが、立ち聞きも趣味が悪いので保健室を後にする。
Θ Θ Θ
教室の後ろの扉を静かに開けた。
今は数学の授業だったようだ。
黒板に数式が並べられ、睡魔を誘うような空気が流れていた。
事実寝ている生徒は結構いる。と言ってもその辺りも看過するのが美榊高校である。
教壇に立っていた教師は、普通なら遅刻で入ってきた俺を一瞥しただけで授業に戻っていた。
寝ていない生徒もあまり集中していた生徒は少ないようで、いきなり入ってきた俺に視線が集まった。
気にしないように努めて、俺は自分の席辺りを見る。
教室はは空席が目立つが、左後方にある俺の席とその後ろの席が空席なのはわかった。
俺の席の右斜め後ろに座る玲次が訝しげに目を細めてこちらを見ていた。廊下側一番前に座る七海は、間違いなく俺に気づいてただろうが、こちらは視線は向けなかった。
俺は玲次に軽く手を振り、教室の扉を閉めた。
まだ神罰が始まる正午になっていない。
となれば、心葉が登校していることは間違いないだろう。
教師の授業を耳の片隅に聞きながら、俺は静かに廊下を歩いた。
「ちょっとちょっと」
またも突然呼び止められた。教室は授業中のため声をひそめているようだが、それでもよく通る声だったのではっきりと耳に届いた。
廊下の反対側の離れたところに、白鳥が手を振りながら立っていた。
音を立てないように静かに駆け寄ってくる。
「少し話いいっすか?」
「ああ、ちょうど俺も聞いておきたいことがあったんだ」
願ったり叶ったりだ。
白鳥に連れられ、一階降りて二階に移動する。
二階は授業中であるが自らを鍛えるために、結構な人数がジムを使用していた。数学の授業が嫌だからか、Aクラスの人間が何人もいた。
白鳥は、二階の端にある小さな部屋に俺を案内した。
「ここは、僕が新聞部の部室として使わせてもらっている部屋っす。美榊第一高校では数少ないものなんですよ。と言うかここしかありません」
説明しながら、閉じていたカーテンが引き開けられ、太陽の光が部屋に広がる。
美榊第一高校に部活は新聞部のみ。そのため、元々建物に部室が作られていない。だから隅の部屋を使わせてもらっているのだろう。
広さは八畳くらいだろうか。壁にはラックが並べられており、書類や本が詰め込まれていた。
青色のノートパソコンやプリンターなどもあり、これは新聞を発行するためのものだろう。
「座ってくださいっす」
促され、中央にある長机に並べられている椅子に腰を下ろす。
白鳥は備え付けのケトルを使ってレモンティーを淹れてくれた。
「どぞどぞ」
「これを飲んだら色々後戻りできなくなる気がするんだが」
白鳥は苦笑しながら首を振る。
「そんなことないっすよ。少なくとも今回は」
加えられた一言が引っ掛かったが、とりあえずカップを手に取った。
「じゃ、いただきます」
カップにそっと口を付ける。熱いレモンティーが喉に滑り落ちる。
体の奥からほんのりと温まっていく。
「さて、まずは僕から話させていただいていいっすか?」
「もちろん」
頷きながらカップを机に置く。
「単刀直入に聞きますが、神罰を止めようと動いているというのは、事実ですか?」
「本当だよ。情報早いな。さすが新聞部」
迷わず答えた俺に、白鳥はしかめっ面になった。
「ずいぶん陽気に考えているんすね。正直、賛成できませんよ」
「黄泉川先生にもさっきと止められたな」
と言うか本当に情報広がるの早いな。
俺の行動ってわかりやすそうだもんな。
いつも雑誌から切り取ってきたような笑顔を顔に貼り付けている白鳥だが、今日は微笑すら浮かべない。
「僕のこの高校では役割は、神罰を滞りなく進めることです。以前も言いましたが、玲次や七海は神罰での戦いで犠牲者を出さないことが目的。そして僕ら高校外の生徒を取り締まることも主ですが、そこには神罰というものが狂わないようにおかしな考えをする人間も含まれるんす。今、八城君もその取り締まる対象になりつつあります」
つまり、俺は島から目を付けられる人間となってしまったわけだ。
「過去、高校から生徒を全て排除したときに、島全体に神罰が降りかかるという災厄がありました。神罰は正常に進めなければ、生徒だけではなく島民全員が被害が出る恐れもあるんす。それに、この島だって本土と繋がりがないわけじゃありません。基本的に正月など以外は島外からの出入りはないですが、それでも外部に神罰なんて信じがたいことを漏らすわけにはいかないっすからね」
「俺が神罰のことを外部に漏らす可能性があると?」
「そうは言ってませんす。僕が気にしているのは、八城君が神を怒らせないかと危惧しているんっす」
それは確かに、可能性としてはあり得るのだろう。
だけど俺の考えとしては、実際神を怒り覚えるなんてことは起こりえないと考えている。
だからこそ隠そうとはせず動いているのだ。
「神を怒らすか。その結果何が起こるって言うんだ?」
「一番高い可能性と考えられるのは、八城君に直接罰が下る可能性っすね」
「他には?」
「八城君一人なら罰はそれだけで済むでしょう。でも問題なのは、八城君に触発された他の生徒が神罰におかしな関わり方をすること。それが僕らたちが一番懸念していることなんすよ」
俺に影響された他の生徒が神罰に疑問を抱くこと。それが評議会の白鳥たちの考えということだろう。
「それなら問題ない。俺は情報収集で何かを聞くことがあっても、他の生徒を先導したりはしないよ。何を信じるかは自由だ。この島の生徒たちが神罰を受けるべきものだと信じ、戦っていくことにはとやかく言うつもりはない。ただ……」
渇いた喉を紅茶で潤し、白鳥に告げる。
「戦うことすらできない、紋章所持者、心葉のことだけは絶対に許せない。たとえ神が相手だろうとなんだろうと、俺は絶対に戦う」
他の生徒はどんな形にせよ生き残れる可能性が残ってる。
しかし心葉には、そんな可能性は欠片も用意されていないのだ。
それだけが、本当に許せない。
「その結果、八城君が死ぬことになってもっすか?」
「ああ」
迷いなく頷く。
白鳥は露骨に肩を落とした。
「そうっすか。そこまで覚悟が決まってるんすね」
言って、自分に淹れていた紅茶を飲み干した。まだ熱かっただろうが、お構いなしだった。
「それは紋章所持者が心葉だったからっすか? 他の誰でも同じように命をかけたんでしょうか?」
「……嫌な質問するな」
誰もが考えそうな質問であるが、同時に誰も聞こうとしない質問だ。
しかし、その答えは最初から持っている。
「それは……」
白鳥は真っすぐ俺の目を見て、答えを待っているようだった。
俺は肩をすくめ、視線を下に逸らした。
「心葉だから、俺は命をかけてるんだよ」
予想と違った答えだったから、白鳥の目が大きく見開かれた。
「俺は、見ず知らずのやつにまで命をかけられるような、高尚な人間じゃないよ。確かに、他の誰かが紋章を持っていても、それなりに気になって調べはしただろうけどな。でも、命をかけられるかって聞かれたら、答えは、ノーだ」
「……つまり、心葉が紋章所持者だったから、たとえ自分が死ぬかもしれないような状況でも戦うってことっすか?」
「ああ、玲次か七海が持っていても、たぶん俺は命をかけたと思う。大切なやつらだからな。でも、心葉は、心葉だけはな。あいつは、違うんだよ」
白鳥が再び口を開いて何かを問おうとしたが、俺はカップを上げてそれを制した。
「今度は、俺が質問させてもらうぞ」
白鳥は少し不満そうに眉を歪めたが、俺は紅茶を一口飲んで尋ねる。
「俺が聞きたかったことは二つ。一つはさっきも言っていたことだ。俺が神罰を止めようとした場合の、お前らの反応。まさか高校から追い出されるとか、神罰に参加させてくれない可能性も考えていたけど、さすがにそれは勘弁な」
期待を込めた目を向けると、白鳥はげんなりとしたように頷いた。
「そうっすね。八城君が平均的な力を持つ一生徒なら、僕らも神罰に関わらせないように何らかの対策をしたかもしれないっす。でも、八城君は今の美榊高校でトップクラスの戦闘力っすからね。神罰での被害を考えるなら、それはできないんすよ」
「ずいぶん高く評価してもらってるな」
「今年は妖魔も強いっすからね。仕方ないすよ」
妖魔が強くなければ最悪島から追い出されていたということか。
運がいいと言っていいのかどうか……。
でもとりあえず、このまま登校するのは問題ないようだ。
敵を作りたいわけじゃないからな。
「じゃあ、次の質問」
白鳥が視線で促すので、俺は尋ねる。
「白鳥たちは評議会っつう組織に入ってて、島側の人間だろ。だったら市長に会ったことはあるよな?」
「そりゃあ……あるっすけど……」
白鳥は露骨に嫌な顔をした。
俺が何を言いたいかわかったらしい。
「市長と会いたいんだ。聞きたいことがある。だから、取り計らってくれないか?」
白鳥がバタンと頭から机の上に突っ伏した。
俺のカップに残っていた紅茶が少し跳ねた。
苦笑しながらハンカチで机を拭き、こぼれないようにカップを取り上げる。
「……それ、マジで言ってんすか?」
「マジもマジ」
肩をすくめながらこぼす前に紅茶を飲み干し、自分のカップと白鳥のカップを持って立ち上がる。
隅にあった流しで手早くカップを洗ってしまう。
本棚にハンガーで吊されていたタオルで手を拭きながら、白鳥を振り返る。
「今の市長は、何年も昔から変わってないって聞いてる。それだけ昔からいる人なら、神罰についても何か知ってるかもしれない。だから、話を聞かせてほしいんだ」
「そうは言ってもっすね……」
白鳥はげんなりとした顔でこちらを見る。
「僕だって、市長には何回もあったことがあるわけじゃないっすよ。市長はこの島の大部分の仕事を自分一人でこなしている人っすからね。忙しくて中々会えないんすよ。僕も年に一回会えるか会えるかどうかっすね」
白鳥でその頻度。俺が会おうとしてもそう簡単に会えないか。
「だから取り計らってくれって言ってるんだけどな」
自分からアポイントを取って会いに行けるのなら初めからそうしている。
それは既に試している。
昨日の夕方父さんに市長の話を聞いた直後に、試しに市役所に電話をかけてみた。
市長に会いたいんですけどっと伝えると、お約束はされていますかと聞かれたので、初めて電話しますと馬鹿正直に答えると、ご予約がない方はお会いになれませんと、何も弁解する暇もなく切られた。
どうやら悪戯電話と思われたようだ。
初めにそんなことをしてしまった以上、後で何回かけても悪戯としか思われなかった。
ダメ元だったから構わないけど。
さすがにいきなり電話をかけて市長が出てきたらそれはそれでびっくりだ。
「取り計らうって、簡単に言うっすけどね……。僕らはまだ下っ端なんですよ。確かに神罰を中心とした組織なのは片桐君たちと変わらないっすけど、権限を持っているのは上層部っす。僕らはただ高校内だけを注意する人間っす。そりゃ見回り程度なら外も行くっすけど。大人が目を光らせるより、中から見た方がわかりやすいこともある。ただ動くだけなのが僕らなんすよ」
白鳥は自分で言って、少し眉を下げていた。
力ないことを悔やんでいる。そんな顔だ。
「俺も無理なことを頼んでいることは承知の上だ。けど、やれるだけやってみてほしいだ。神罰は、絶対止める。なんとしてでもな」
自分に言い聞かせるように、最後の言葉を紡ぐ。
腕時計で時間を確認すると、もうすぐ正午だ。
「ごめん。そろそろ行くわ。紅茶ごちそうさま」
「いえ、お粗末様っす」
白鳥はひどく疲れたような顔でぶらぶらと手を振った。
そして、力なく椅子にもたれかかると、長々と息を吐いた。
「はは……一人で勘弁して欲しいっすよ……こんなことは」
やるせなさを吐き出すように白鳥は言った。
開けた扉に手をかけて後ろを振り返る。
「そんなに心配しなくてもそうそういないだろ」
「……だといいんすけどね。八城君、ああ、凪って呼んでもいいっすか? 実は友達の名字呼びって苦手なんすよね」
「構わんぞ」
白鳥が口元に薄ら笑みを浮かべた。
「あざす。聞きたいんですが、凪はどうしてそこまで、心葉を助けようとするんですか?」
入り口で止まったまま沈黙する。
なんと答えればいいか迷った。
自分の中にそこまでの答えがあるわけではない。
ただわかっていることを一つだけ。
言わないという選択肢もあったが、こちらから頼み事を申し出ている手前、答えないというのは卑怯な気がした。
「あいつは、さ……」
廊下へ一歩踏み出し、机に突っ伏したままの白鳥に告げる。
「俺の、命の恩人なんだよ」
それだけ言うと、部室から出た。
「今の話、誰にも言うなよ。理音」
次の反応を見るより先に後ろ手に扉を閉めた。
静かな廊下を一人で歩きながら、視線を外に向ける。
窓から見える中庭では、数人の庭師が手入れをしていた。
巨大な石碑も清掃されて綺麗にされている。
神罰が始まればあんな風に仕事をしていられない。
だから彼らの動きはどこか慌ただしい。
こんな光景も見慣れてしまった。
のんびり廊下を進んでいると、ジム教室からちらほら生徒が出てくる。
あと一時間もすれば神罰だ。
教室に戻るのだろう。
俺もそろそろ行くか。
だが行き先は他の生徒と違い、俺は教室より上へと行く。
屋上。
幾度となく訪れた場所。
床を撫でるように吹き抜ける潮風が、前髪を揺らした。
細めた視線の先にベンチや花が植えられた鉢が並んでいるが、そこに心葉の姿はない。
当てが外れたかなと考えたが、ふとまだ確認していない場所があることに気づいた。
右手にある、貯水タンクがある場所だ。
音を立てないように梯子を登り、屋上からさらに数メートルほど上がると、大きな貯水タンクがある。
そのタンクの日陰に、一人横になっている。
どうやら眠っているようだ。
「こんなところで無防備な……」
自分も同様のことをしていたので人のことは言えないが、仮にも女の子がこんなところで寝ているのはいかがなものだろうか。
起こさないように、そっと腰を下ろした。
日陰はひんやりと涼しく、初夏の暑さを忘れさせてくれる。
俺は貯水タンクに背中を預け、潮風に思案を乗せた。
可愛らしい寝息が聞こえてくるが、気にしないように努める。
頭の中にある情報が多過ぎる。
整理していかないととても頭が着いて行かない。
ちらりと、視線を無防備にも夢の世界へ旅立っているそいつに目を向ける。
神罰を止めるにはどうすればいい。
こいつを、心葉を紋章から解放させるためなら、俺はなんでもやる。
そっと手を伸ばし、揺れていた心葉の前髪に指を滑らせた。
「絶対に、助けるからな」
眠った心葉にも、誰にも届かない。
俺は、誰にも知られないまま、自分の覚悟を紡いだ。
他の誰でもにでもない、自分への覚悟だ。
しばらく何もせずに頭を巡らせていった。
入道雲が浮かぶ青空をただただ眺めながら、時間の流れに身を任せる。
数十分ほど経った頃、どこからか電子音が響いてきた。
「ん……うーん」
同時に心葉が呻いた。
発信源は眠っていた心葉からだった。
体をもぞもぞと動かしながら手探りでポケットを探し当てると、中からスマートフォンを取り出した。
どうやらスマートフォンのアラームだったようだ。
腕時計で時間を確認すると十二時十分前だった。俺は以前寝坊をしてしまったが、心葉はそうならないように事前にアラームをセットしていたようだ。
「ふぁ……よく眠た……」
ゆっくり体を起こしながら、心葉は大きく伸びをする。
視線がのろのろと動き、やがてすぐ横に座っている俺に気づいた。
「…………」
心葉は目をぱちくりさせながら俺を見ている。まだ夢の中かと疑うように、指で口を引っ張っている。
「おはようさん」
「きゃあああななな凪君!? どうして!?」
「どうしてって、来てみたらなんか寝てたから」
俺は苦笑しながら口元を指で叩く。
心葉は自分の指を口に当てるとそこからはよだれが伸びていた。
「――ッ!」
顔をリンゴのように真っ赤にしながら飛び上がり、顔を逸らして袖で一生懸命に拭き取っていた。
「い、いつからいたの?」
「数時間前からいたって言いたいところだけど、大体一時間くらい前かな」
「ね、寝顔は見てないよね?」
「お返しですから」
ニヤリと笑いながら告げると、再び顔を真っ赤にした心葉は貯水タンクに頭を打ち付け始めた。
「おいおい、落ち着けよ」
動揺し過ぎだろ。
「だ、だってだって、昨日は泣き顔まで見られてるのに……寝顔に、よ、よだれまでぇ……」
涙目になりながら恥ずかしさを隠そうと必死に頭を振っている。
「気にしてないから落ち着けって。そろそろ十二時だからさ」
それでもまだ心葉は呻きながら顔の熱を逃がそうと貯水タンクに頭を当てていた。
俺は肩をすくめ、神罰が始まるかもしれないまでの短い間に、また思案に耽る。
昨日、大百足という神罰が来たため、今日は来ても強い神罰は来ない。そんな淡い期待を抱いてしまうが、過去の神罰を見る限り特に一貫性は見つけられていない。
それが不思議な点ではある。
神罰が始まる日は決まって始業式の日、休日は神罰が起こらない。
ここ数十年絶対に変わらない法則があるにも関わらず、神罰が起きる間隔や大きさには法則のようなものは見受けられない。
「神の気まぐれなのか、それとも……」
その先の言葉は口にせず、小さく息を吐く。
心葉は終始、隠れておろおろとしていた。
それから正午になったが、神罰は起きずに時間が過ぎていった。
心葉と俺は同時にほっと息を吐いた。
「さてさて、これから心葉はどうするんだ?」
ようやく冷静を取り戻した心葉は、貯水タンクの下から鞄を引っ張り出した。
中から水色の小さな弁当箱を取り出した。
「今日はここでお昼かな。昨日のことがあるから、食堂にも行きづらくて」
「俺もここだ。なんか広まってるんだよな。俺が神罰を止めようとしてること」
ショルダーバッグから取り出した弁当を開いて手を合わせる。
「凪君……本気なんだよね?」
「当然だ。お前だって昨日、死ぬのは嫌だって言ってただろ」
「それは、えっと……」
心葉は口ごもり、自分も弁当を広げてもそもそと食べ始めた。
心葉の弁当は色とりどりのおかずに飾られており、女の子らしい可愛らしさがあった。
「やっぱり心葉も料理できるんだな」
「これでも家事は得意な方だからね。いやそうじゃなくて……」
心葉は箸を下げて俯いた。
「凪君、悪いんだけど、昨日の話は忘れてほしいの」
「うん、無理」
笑顔のまま拒否。
「…………」
心葉は頬を引きつらせて無言になった。
「でもね。神罰を止めようとした人には……」
「災いが降りかかるってことだろ。その辺りのことも知ってるよ」
ついさっき聞いたことだけど。
「それがわかってるなら、本当に止めて。凪君までそんなことすることないよ。紋章は私だけの問題だから」
心葉は自分の意志をはっきりと告げる。
「答えは、自分で出すから」
それは関わらなくてもいいという拒絶の言葉だった。
心葉は静かに食事を再開する。
俺も肩をすくめ、弁当をつつき始める。
お互い無言のまま、目を合わせずに昼食を進めた。
そして、同時に食べ終わる。
弁当を鞄にしまい、一息つく。
「それで、神罰をどうやって止めるかって話だけど」
「私の話聞いてた!?」
「聞いてた聞いてた。それでやっぱり神罰を止めるに、根幹の原因を突き止める必要があると思うんだ」
「全然聞いてないよね……」
心葉は呆れたようにがっくりと肩を落とした。
「ま、俺に紋章のことを知られた段階で諦めてくれ。はっはっは」
俺は豪快に笑いながらトントンと心葉の背中を叩く。
「でもでも、どんなことが起こるかわからないだよ? 神に抗っていうのはそれだけ、危険なんだよ」
心葉はあたふたしながら必死に説明してくれる。
皆、そうなんだ。
神罰を止めたいという気持ちがないわけではない。
ただ、その結果として自分の死という恐怖がちらつくため、足を止めざるを得ないだけだ。
だけど、足を止めなければ、きっとその先には希望がある。
「俺さ、今は本当に、この島に帰ってきてよかったと思ってるんだ」
急に話が少し変わり、心葉は眉を下げながら首を傾げた。
「もし、この島に帰ってくることがなく、さらに何年か過ぎて俺がこの島に帰ってきたときに、心葉が死んでしまっていたら。そりゃたぶんそのときは神罰なんて存在を知らされずに、事故で亡くなったとか教えられたんだろうけどさ。そんなことになっていたら考えるとぞっとする」
終わってしまった過去を変えるなんてことは、きっと神にもできない。そんな都合のいいことがあっていいわけがない。
「父さんのおかげで俺は、神罰に関わることができた。心葉が紋章を使う前に帰ってくることができた。心葉を助けることができるこの状況にいることができたんだ。本当によかったよ」
絶望的な状況ではある。
過去数十年誰一人成し得なかったことをやらなければ、心葉は助からない。
今までそうだった、母さんたちがそうだったように、外れない運命という楔から逃れることができずに、死んでいく。
何もしなければ変わらない、それが神罰の摂理だ。
でも、それでも……。
俺は心葉の顔を見返し、先ほど自分だけに呟いた決意を、心葉にも伝える。
「絶対に助けるよ、心葉。たとえ相手が、神であろうと何だろうと、絶対に死なせない。心葉が安心して笑顔でこの高校を卒業できて、これからも生きていけるように、俺が、俺が神罰を止めるから」
強い潮風が吹き、心葉の髪がなびいた。
同時に、少しの静寂が訪れる。
その間の後、心葉は小さく吹き出した。
「ふっ、ははっ……凪君、本当に変わってないね」
「……それもよく考えれば、ひどい話だよな。俺、十年近くも経ってそんなに変わってない?」
いつまでも子どもぽいってことだろうか。
「いやいや、そういうことじゃないよ。凪君も変わってる。すっごい格好良くなっているし、優しいし料理もうまいし……ってなんでもない! なんでもないよ! と言うか、今はそんな話をしてるんじゃないよ!」
心葉は顔を真っ赤にしながら両手で顔を隠す。
本当に忙しいやつである。
「まあ、そういうことだから、心葉も何か知ってることがあれば教えてくれ。神罰を止めるために、一つでも情報がほしいんだ」
それでもまだ何か言いたげに口を動かしたが、やがて深々とため息を吐いた。
顔を手で覆い、葛藤するように何度も顔を振る。
「……もぉー、わかったよ。私でわかることなら協力するよ。ただし一つ条件」
心葉はビシッと指を俺の鼻っ面に突き付けた。
「絶対に危ないことはしないこと。凪君は誰かを助けようとして自分のことを顧みなさ過ぎ。もっと自分のことを考えて行動してください」
「善処します」
俺はおどけて笑ってみせる。
「本当にわかってるのかな……」
心葉は呆れたようにもう一度ため息を吐いた。
「今日は神罰がないから、付き合えるだけ付き合うけどね」
「ああ、連日は精神的にきついからな。生徒たちにも気持ちが休まるときは必要だし」
神罰が起きるタイミング。
それも気になっている点ではある。
きっとどこかに何かの共通点があると思うんだけどな。
「それで、何が知りたいの?」
「そうだな。紋章のことは自分で調べたんだけど、心葉が紋章所持者に選ばれた辺りの下りが知りたいかな」
当然だが、現在紋章を所持しているのは心葉だけだ。
話を聞くにはこれ以上の適任はいない。
神罰を止めることも確かに重要なことではあるが、紋章所持者である心葉を救うこと。それが俺の一番優先するべきことだ。
心葉は人差し指を顎に当てて考える。
「そうだね、これと言って特には話せることがないかもだけど。私に紋章が現れたのは三月十日。この高校の卒業式は三月一日だから、前年の神罰が終わって大体十日後だね。お風呂に入っているときにたまたま気づいたんだ。だからいつからあったのかはわからないね」
「ふむ。前触れなしか。これまでの人もそうだったのか?」
「私の知ってる限りではそうだね。私もそうだけど、自分に紋章が現れたってことはすぐに誰にかに打ち明けることはできなかった。でも隠しておくことはできずに、芹沢先生や天堵先生に打ち明けたんだ。それからは、もう知ってたけど紋章がどういうものか教えられて、すぐ
使うかこのまま卒業式まで使わないか、どうするかは任せる……って。そんなこと言われても困っちゃうよね」
心葉は膝を抱えたまま、たははと笑う。
「まったくだな」
どうするかは任せるなんて、無責任な言葉もあったもんだ。
別には芹沢先生や天堵先生たちが悪いわけではない。この島の体勢に問題があるのだ。
どうせ死ぬから、いつ死ぬか選ばせてやる。
そういう思いやりも気遣いもない言葉だ。
「紋章が体に表れてから何か変わったことってあるか?」
「紋章が原因でってこと? そうだね。あるようなないような……」
「どっちだよ」
俺が苦笑しながら尋ねると、心葉は肩をすくめた。
「いやーなんかわからなくなっちゃって。気になることはあるんだけど」
心葉は首をすくめたまま頭を左右に振る。
「まあでも、特にないかな。紋章のトリガーは強い思いだから、誤発動することもないし、あったら生きてないけどね」
簡単に発動したら困るしな。
「というかさ、なんで紋章を使用したら死ぬんだろうな。おかしくないか? 紋章は神罰に対抗するために神が与えてくれたものって柴崎は言ってたぞ。矛盾してないか?」
対抗するためにあるのに、神罰同様人が死ぬなら違和感を覚えずにはいられない。
「うーん、それは一説であって証拠のないものだからね。他にも、神罰を止めるために多くの神力が必要だから、それを使い切って死んじゃうとか、神罰を起こしている神が一人選んで確実に一人は罰を受けるようにできているかとか、諸説あるけど、どれも決定的な根拠があるわけじゃないね」
全て推測でしかないということか。
この路線で調べるのは難しそうだが、神罰に最奥に関わっている紋章には絶対に意味があると思う。心葉を救う道として最も早い手段であることも間違いない。常に念頭に置いておく必要があるだろう。
「でさ、ちょっと頼みがあるんだけど」
「何?」
どう聞いていいものか悩む。
勝手に熱を帯びていく頬を掻く。
「どうしたの? なんでも聞いて」
心葉は膝に頭を乗せて促す。
「う、うん。じゃあ言うけど」
俺は心葉から視線を外して下に向けた。
「紋章、見せてほしいんだけど」
面白いぐらい、心葉は体を飛び上がらせた。
目をぱちくりとさせながら、視線が上下左右に飛び交っている。
「ちょ、ちょっとそそれは……」
そして視線が下がって自分に胸辺りに行き、慌てたように両手で抱えた。
なるほど。心葉の紋章は胸にあるのか。
「み、見せてあげたいのは山々だけど、場所が場所だから……」
しどろもどろになりながら必死に言葉を探す心葉に、俺は手を振った。
「ああ、いやいいよ。気にしないでくれ。別に見たからってどうなるものでもないし。ただの興味だから」
今までの話の流れで、もし問題がなければ気の使う心葉のことだから自分から紋章を見せてくれてもおかしくないと思っていた。
そういう考えが心葉の中に生まれないのは、簡単には見せられる場所ではないと考えれば納得がいく。
胸にあるのであれば、男の俺に見せることができないのは当然だ。
俺は空気をごまかすため、別の質問をする。
「それも気になってたんだけど、紋章が現れる場所に決まりはあるのか?」
あまりごまかすことができなかった気がするが、心葉は赤い顔をショールに埋めて隠すようにしながら答えた。
「わ、私は胸の真ん中辺りだよ。でも人によっては手の甲だったら肩だったりお腹だったり、色々だよ」
俺がまず探しているのは共通点だ。
神罰はこれまで幾度となく繰り返されている。
そこに何か共通するものがあれば、それが糸口になるかもしれないと考えているからだ。
だが、ほころびすら見当たらない。
神罰を止める唯一の手段。それが紋章。
神罰を止めるためだけに、対抗する手段として与えられた、神罰を無力化するという術。
神様から与えられた、神罰だけを止められる力だと言われているが、となると当然、神罰を起こしている神と、神罰を止める力である紋章を与えてくれている神は別ということになる。
神様にも様々な派閥があるのだろうか。
その神様とやらに直接会うことができれば、何かしらの情報は得ることができるだろうが、どこに行けば会えるのやら。
いやそもそも、同じ世界にいるのかどうかもわからない神様に会うことなどできるのか問題だ。
「……さて」
俺は膝を叩いて立ち上がる。
「神罰もないし。図書館に行くかな」
「勉強?」
「まさか。今更そんなことしても意味ないだろ。調べ物だよ」
これまでは神罰を生き抜くための調べ物しかしてこなかったが、現在必要なのはその知識だけではなく神罰そのものも知識だ。
図書館になければ直接芹沢先生のところに行く。
今借りている紋章のノートのようなものがまだあるかもしれない。
「これからは今までみたいに、色々付き沿うことが難しくなるかもしれないけど」
「ううん。それは大丈夫。私も自衛ぐらいはできないといけないからね」
元々心葉は戦闘技術にも長けている。動揺さえしなければ多少のことは大丈夫だろう。
そっちにも気を配っていなければいけないのは確かだが。
「じゃ、また」
「うん。またね」
心葉に小さく手を振り、俺は貯水タンクの高台から屋上に降りた。
屋上から階下への扉を開けると、すぐ前に七海が立っていた。
屋上から出てきた俺を見ても何も言わず、ただ刃のように研ぎ澄まされた視線を俺に向けている。
「こんなところで何してるんだ?」
俺が声をかけても、口を開こうとはせず射殺さんばかりに睨んでくる。
これ以上何か言えば噛みつかれそうだったので、手を軽く上げながら七海の横を通り過ぎた。
階段を下りていき、折り返しのところで七海を振り返ると、未だにこちらを睨んでいる。
俺は肩をすくめて、七海の視界から消えた。