12
三人が何かの反論をしてくるより先に、俺は屋上を跳び出した。
中庭をそのまま飛び越え、教員棟の上を駆け抜けると正面玄関の前に飛び降りた。
そして、ある部屋の前までやってきた。
窓の鍵は閉まっている。天羽々斬から作り出した白煙を窓の隙間に入れ、鍵を開けた。
許可も取らず窓を開け、声すらかけずに窓枠を越える。
「おやおや、誰かと思えば、凪君か」
机に向かって、何かの書類を書いていたその人は、軽く驚きながら視線を上げた。
「すいません。ちょっと今は気持ちに余裕が持てないもので、こんなところから失礼しますよ。芹沢先生」
俺が入ったのは校長室だ。
芹沢先生は今回の神罰のことがあるからか、書類が机に上に散らばっている。俺が突然現れたことに眉をひそめながらも、乱雑に広がっている書類を片付けていく。
「今回の神罰のことかな。大百足、最上位の妖魔だ。よく倒してくれた。本当にありがとう」
もし、俺たち生徒が妖魔に全滅させられれば、次はこの人たちが妖魔にさらされる。それでも俺たちとともに戦ってくれているのだから、感謝してもしきれない。
だけど、今俺はそんなことに気を使っている余裕はなかった。
俺は会議用に並べられた机を避けて、芹沢先生が腰を据えている荘厳な机の前に行く。
「どうして、黙っていたんですか?」
「何のことかな?」
芹沢先生は書類に目を落とし、ペンは止めずに聞き返す。
記入されている用紙には、今日の神罰のことを記しているようだ。もう何十年も書いているせいか、ペンの進みによどみがない。次々と埋まっていく項目に自然と目が追っていくが、それが終わるのを待つ気にもなれず、声をかける。
「紋章のことですよ」
滑らかに動いていたペンがピタリと止まる。
ゆっくりと顔を上げ、俺の顔を見た後、小さくため息を吐いた。途中だった書類を手早くまとめ、脇に避けた。
「どうして、知ったのかな?」
芹沢先生はかけていた眼鏡を外して机にしまいながら、理由を尋ねる。
俺は神罰が終わった後の、柴崎とのやりとりを伝えた。
芹沢先生は所々で相づちを打ちながら話を聞いていた。その表情からは、あまり意図が読み取れない。
「そうか。まあ、二ヶ月。ずいぶん隠し通せたとは思うけどね」
やはり、芹沢先生は意図的に紋章のことを隠していたんだ。教えてはいけないわけではなく、あえて教えなかったのだ。
「どうして黙っていたんですか。隠していた理由を教えてください」
校長が相手だとしても、自然と言葉がきつくなる。自分の不機嫌さを隠そうともせずぶつけたのだが、芹沢先生は気にした様子もなく、いつものように子どもを見るような目で俺を見た。
「隠していた理由か。そうだね、今の君の話を聞く分には、片桐君たちに私が頼んで隠していた、というのは聞いていないのかな?」
「……それは、聞いていません」
つまり、玲次たちが紋章のことを言わなかったのは、単に言いづらかったというわけではなく、全て芹沢先生主導の元、俺に知らせないために隠していたのだ。
わからなかったのは、芹沢先生が紋章所持者のことを意図的に隠すメリットだ。紋章所持者と接触を続けることは、普通は避けるべきこと。無用な接触から起きることには、誰も責任が持てない。最も安全な手段は、紋章所持者自身に決断を任せること。それは所持者以外の人間が口を挟むべきではない。たとえ所持者の判断で全校生徒の命がかかっているとしても、それは所持者も変わらない。無知な俺が心葉に接触し続けることがどのような結果を生むのか、周りの生徒はずっとハラハラしていたはずだ。
「なぜ、隠していたか、か。それを私が説明するのはちょっと時間がかかるね」
「安心してください。全部聞くまで帰る気はありませんよ」
芹沢先生は苦笑いを浮かべながら席を立った。
「さすがは親子だね。納得がいかないことにとことんなのは勇君にそっくりだ。それに、頑固なのは、陽君譲りなのかな」
突然出た名前に、体が凍り付いた。
声をなくした俺の横を、芹沢先生が通り過ぎていく。そして、どこからともなく取り出してきたティーセットで、お茶の準備を始めた。
「芹沢先生は、俺の母さんのことを……」
「もちろん知っているとも。陽君も美榊高校の生徒だ」
予想していたことだが、やはり母さんもこの高校の生徒だった。
今まで知らなかったことが次々と湧き上がってくるのは、喜びではあるが、同時にそれ以上の不安を掻き立てられる。
様々な考えが錯綜し、気づけば手が震えていた。振り払うように強く握りしめ、改めて芹沢先生を見る。
会議用の机に二つ、体面的に紅茶の入ったカップが置かれていた。
芹沢先生は廊下側に腰を下ろし、俺が反対側に座るのを待つ。
俺が椅子に腰を下ろすと、芹沢先生は熱い紅茶に口を付けた。俺の前にもある紅茶からは甘いダージリンの香りが漂ってくる。とても美味しそうに見えるが、今は口を付ける気にはならない。
「全部話すわけにはいかないから、少しだけね」
紅茶の入ったカップを置きながら、芹沢先生は遠くを見るような空虚な目を前に向けた。
「まず、なぜ私が紋章のことは説明せずにいたか。当初の予定では、紋章のことも含めて、初日には余すことなく全てを伝えた上で、神罰に関わるかどうかを判断してもらうはずだった。だけど、今年の紋章が椎名君に表れたことを勇君に伝えると、紋章のことを凪君に話すのは止めてくれと頼まれてね」
やはり父さん絡みか。その辺りまではなんとなく予想が付いていた。
以前電話で心葉の話を出したとき、心葉から目を離すななど、心葉が紋章所持者であることを仄めかすような言い回しをしていた。俺が何も知らなかったことは俺の態度から明らかだったはずだ。父さんがそんなことに気付かないはずがない。その上で紋章のことに一切触れなかった。これは何かあると考えるのが自然だ。
「その理由がわからないという顔だね」
言い当てられて言葉に詰まる。
「でも勇君を怒らないであげてほしい。紋章のことを全て話すということは、凪君がある事実に辿り着く可能性があったからなんだ」
俺は小さく頷いた。別に怒っているわけではない。父さんが嫌がらせでそんなことをしていないことはわかっている。問題は、それが何かということだ。
「勇君は陽君、君にお母さんのことを隠しておきたかったんだ」
「母さんのこと、ですか?」
いきなりわからなくなった。なぜここで母さんの話題が出てくるんだ。
母さんのことは確かに何も知らない。俺を産んですぐに死んだとしか知らされていたない。先ほど美榊高校の生徒だったと新たな情報が入ったくらいだ。
だが次に芹沢先生が言った情報は、俺の母さんの認識を全て吹き飛ばした。
「陽君もね、椎名君と同じ、紋章所持者だったんだよ」
Θ Θ Θ
凪君が去った後、玲次君と七海君は私に何かを言おうとしたが、うまく伝えられないようで足早に屋上を出て行った。
当然だよね。こんなことは今まで一度もなかったと思う。
いくらこれまでの神罰の記録を舐めるように見ている二人でも、対処ができてない状態となっている。
私も、少し困ってる。
ベンチに腰を下ろし、体を倒して額をひんやりとした木目に押しつける。
「ホントに恥ずかしい……」
穴があったら入りたいどころか、そのまま地下暮らしをしてもいい。
泣き叫んで、喚いて、情けない。
自分があんなことを考えているなんてもこれっぽっちも思っていなかった。
流しっぱなしの水道水を注ぎ込んだコップから溢れ出す水。私の感情はまさにそれだった。コップがいっぱいにならない限り、溢れることはないし、意識して見ていないといつ溢れるかもわからない。
こんなにも、死にたくないものだったんだと改めて思い知らされる。
それもそうか。始業式より前日に私が死を選んでいたら、皆助かった。それなのに今も生きるという選択をしている。
人間、こんな状況に放り込まれたら、余計死にたくなるに決まっている。そこに、大人か子どもかなんて関係ない。
頬から流れ出した涙の跡は、乾燥してかぴかぴになっている。
人前でこれほど涙を流したのはいつ以来か。思い出すとわりと頻繁に泣いている気がする。泣き虫ということはないと思いたいが、一人のときはよく泣いている気がする。
「はぁ……」
ため息を吐きながら、ベンチに頭をゴンゴンとぶつける。
不意に、誰かが私が座っているベンチに座る気配があった。
誰かと思い顔を上げると、真っ白なお尻が目に入った。
「なんだ君か」
体を起こすと、黄色のかわいいくちばしがこっちを向いた。
「グァッ!」
白いずんぐりとした体は、よちよちと見ていて不安になる足取りで近づいてくると、ひょいっと私の膝の上に飛び乗ってきた。そのまま蹲るように、体を丸めた。
「なあに? 励ましに来てくれたのかと思ったのに、実は昼寝に来ただけなのかな」
凪君の同居動物、コールダックことホウキちゃんは、私の屋上友達みたいなものだ。
授業中は私もよく屋上に来ているが、このホウキちゃんも本当によく現れる。
いつもは何か持ってきているのだが、今はお弁当と一緒に教室に置いてきているのであげられる食べ物がない。
ふかふかの羽毛を撫でながら、もう一度小さく息を吐く。
いつも自由気ままに現れるホウキちゃん。
その自由さが、本当に羨ましい。
この島から出ることもなく、毎日を神罰のために費やしてきた。いつかの未来、きっと外に出ることもあるだろうと考えていたこともある。
神罰で自分が死ぬ可能性は当然考えていたけど、それは絶対的なものじゃなかった。 だけど、紋章が与えられてから、私の未来は完全に途絶えた。
途絶えた、はずなのに……。
また胸が熱くなった。
凪君は、私に言った。神罰を止めると。神様を倒すと。
紋章は神罰があるから存在している。神罰に起因している以上、神罰がなくなれば紋章もなくるなる可能性は十分にある。
でも、凪君はまだ知らないのだ。
神罰が始まって五十年あまり、紋章が体に表れて助かった生徒が何人いるかということを。
そして――
Θ Θ Θ
「なるほどね。神罰が始まって五十年以上、紋章が現れて助かった人はいない。そりゃそうだよな」
そんな方法が過去一度でも見つかっていれば、心葉のように紋章で苦しむような生徒がいるはずがない。だからこそ、困難と言えるのだが。
あの後、詳しいことは父さんに聞いてくれと言われて、とりあえず帰された。そのときに渡されたのが、今俺が読んでいる一冊ノート。
図書館では紋章について記された書物は、俺が見た限り見当たらなかった。
紋章は、神罰において最も秘匿されている事項らしい。神罰の資料はいくらでも転がっていたが、紋章は神罰の中核をなすもの。さすがに一般生徒にほいほい見せるわけにはいかなかったらしい。
このノートは、芹沢先生が俺に特別に貸してくれたものだ。
借りて寮に帰る道すがら、玲次と七海が俺に様々なことを言っていた気がするが、考え事をしていて生返事しか返せなかった。
紋章のことは柴崎や心葉が言っていた通りだった。
神罰が始まった数年は、体に紋章が表れることはわからなかったそうだ。いきなり体に表れた模様を神罰と関連付けて考えるというのも難しいことだ。
だが、不意に一人の生徒が紋章が一種の術であることに気付いた。その生徒はやんちゃな性格だったようで、友達とふざけ半分で紋章の術を使用してみようと試みた。
たった、それだけのことだった。
紋章の使用方法は、心の底から使用を望むこと。それだけなのだ。
その生徒の正直な性格が災いし、ほぼ誤作動で紋章が発動したらしい。一度発動した紋章は、所持者の神力は根こそぎ食らい尽くした。
神力を持つ人間にとって神力は生命力、命と同じだ。
こと切れた生徒を前に、友人たちは混乱した。だが、その日を境に神罰が一度として起きなくなった。
そして、一人が言ったのだ。紋章を使えば、神罰は終わるのではないかと。
問題はその次の年だった。
次の年も、紋章を持った生徒が現れた。だが、今度は気弱で内気な女の子だったそうだ。
周囲は神罰から逃れたいがために、少女に紋章を使えと囃し立てた。だが少女も、紋章を使用した生徒がどうなっているかは知っていた。仮に紋章が関係なくただの病気か何かで死んだ可能性もあるが、そんな不確かなものに命を懸けられるはずもない。
紋章は、切に使用を願わない限り発動しない。
気の小さな少女が周りからいくら使え使えと言われたとしても、そんな心理状況で問題は発動するはずもない。
少女が紋章を使わないことに腹を立てた生徒たちの行いは、やがて陰湿ないじめへと姿を変えた。
神罰という状況も相まって、少女の心を病んでいった。高校にも出て行くことすらできなかったようだ。
少女が高校に現れなくなり、時を同じくして神罰がない期間が続き、平穏な日々が流れた。
神罰がない期間が長く続いたことで、生徒たちの頭も冷えたようだ。
高校に出てこない少女を心配した友達が様子を見に行った。元々少女は身寄りがなく、街外れの家に独りで住んでいたらしい。
家を訪れた友達が見つけたのは、手首を切って血溜まりに沈む少女だった。
畳に広がった出血は致死量を遥かに超えており、すぐに病院に運び込まれたが助からず。
やりきれない出来事だ。
だが、神罰はその後、一度としてその代に襲い掛かることはなかった。
立て続けに起きたこの二件により、後にある推論が立てられた。
それは、紋章所持者は神が付けた目印ではないのかというもの。所持者が紋章を使用、あるいはその命を捧げれば、神に許され、神罰は起きないのはないかと。
紋章所持者の命の終わりは、神罰の終わり。
それは、正しい認識ではあった。それは事実だったのだ。紋章所持者が命を落とした年で、神罰が続いた年は一度としてない。
しかしこの認識は、高校は必ずしもいいものではなかった。当然だ。紋章は誰に与えられるかはわからない。わかっているのは術の扱いに長け、神力を多く持つ者に現れやすい傾向にあるということだけだ。
そして、紋章所持者の迫害が始まったのだ。他の生徒は自分たちが助かりたいがために、神罰が終わるから、皆が助かるからと、紋章所持者を責め立てた。神罰は神の罰。許されるために、紋章所持者が死ぬことは正しいことなんだと。
当時は、かなり荒れたそうだ。一人の犠牲で神罰は来ない。この気の緩みが、向上心を削り、修練を怠った生徒たちが神罰で命を落とした。
紋章所持者も簡単に命を捨てられるはずなどない。自分は死を選ばない。最後まで戦って生き抜いてやる。そういう生徒も中にはいたようだ。
そんな陰惨とした年が数年が続いた。紋章のことがわかってから数年は、一人として紋章所持者は卒業式まで生きてはいなかった。当初は紋章所持者が優遇されるようなことはなかったので、当然神罰にも駆り出されていた。迫害も相まってか、卒業式まで生き残れる生徒がいなかったのだ。
しかし何年か経つと、神罰が始まって初めて、一人の紋章所持者が卒業式の日まで生き残ることができた。歴代でも相当な実力を持った術者だったようで、武器を使う戦闘においても秀でていたようだ。紋章所持者も自由に戦えたこの時代で、その生徒は先陣を切って神罰に切り込んでいった。その結果、ほとんど生徒を欠くことなく卒業式の日を迎えることができた。多くの生徒の激励を受け、限りなく過酷な一年を生き抜いたことを歓喜した。
そして、最後の絶望が襲い掛かる。
全校生徒の目の前で、所持者の紋章が発動した。
体から神力が抜けていくのは、相当な苦しみを伴うらしい。命を削られていくその様子は、その場にいた生徒全員が目撃した。生徒たちの中で誰より強く、鮮烈に生きたその生徒の最後は、ひどく呆気ないものだった。
一分と経たずに、所持者は絶命した。
この出来事で、紋章所持者の運命が明らかになった。
近年では、紋章は希望だと言われている。
神罰を起こす神と、紋章を与えてくれる神は別だという説が深く信じられているそうだ。
紋章を使えば、神罰は終わる。
その絶対的な力は、神が与えてくれたものだと考えることができる。
怒る神があれば救う神あり。
神罰はそんな状態なのだと。
だからといって、紋章所持者の状態は変わらない。
自ら命を絶つことを選択したとしても、最後まで戦い抜くという選択をしたとしても、何もしないということを選択したのだとしても、紋章所持者は生き残ることはできない。迫り来る絶対的な死から、逃げることは決してできない。
それが、紋章所持者という存在なのだ。
読み終わったノートをパタンと閉じ、床に置いた。
ここぞとばかりに寄ってきたホウキが膝に飛び乗る。
気が付くと、いつの間にか部屋は薄暗くなっていた。日は完全に沈み、赤くも暗い光が部屋に差し込んでいる。
「もうこんな時間か。悪いな。めしめし」
ホウキを抱え、座り続けて痛くなった体をいたわりながら立ち上がる。
明かりを点け、冷蔵庫に手を突っ込んで食材を引っ張り出す。ホウキの餌は既に切り終えたものがあるので、皿に盛って床に置き、ホウキもその前に降ろしてやる。すぐに勢いよくがっつき始めた。
「そういや、昼も食べてないな……」
芹沢先生は、詳しいことは、母さんのことについては何も教えてくれなかった。
それは私の役目ではないよ。芹沢先生は頑なにそう言い張っていた。
結局最後まで教えてはくれず、途中で玲次と七海が乱入してきてそれ以上聞くこともできなかった。
代わりに渡されたのが、このノートだ。
三十年ほど前に紋章のことについてまとめたノートのようで、今まで数え切れない人が読んできたのか、所々すり減り、破れていた。
高校から帰ってくると同時に、疲れた体を引きずるようにしてリビングに入り、そのまま床にへたり込んでノートを読みふけった。穴が開くほど何度も見返した。これまで読んできた人も同じように、一人一人が何度も何度も読み返していったのだろう。
共通していることは、きっと皆が心の底から答えを望んでいたということだろう。
俺も答えが知りたい。
俺がこれから、何をすればいいか。何をやるべきなのか。その答えを。
そのとき、机の上に投げていた携帯電話が着信音を響かせた。
跳び掛かるようにして掴み取り、折りたたみ式の携帯電話を逆に折れんばかりの勢いで開く。
画面に表示されている名前は、父さんの名前だ。
寮に帰ってきてすぐ、父さんに電話をかけた。しかし昼過ぎの時間は、大学教授である父さんが捕まりにくい時間である。これまで何度か電話をかけたときは大抵繋がっていたが、神罰初日などの特殊なときを除けば、捕まるだろうと考えていた朝や夜にばかりにかけていた。
今回はそんな余裕もなく、捕まる可能性が低い日中にかけた。案の定繋がらず、やきもきしながらずっと電話を待っていたのだ。
しかし、最初繋がらなかったのはよかったと、今は思う。
最初から繋がっていたら、たぶん勢いに任して言葉をぶつけ、まともな会話にならなかっただろう。
今なら落ち着いて電話を取ることができる。
『悪いな。学生結婚を考えているゼミ生の相談に乗っていたんだ』
……仕事しろよ大学教授。と言うかそんな理由でいつまで待たしてんだよ。てかいっそ別れちまえ。今すぐに。
「前にも似たようなこと言ったけどさ」
学生カップルを呪うのもほどほどにして、質問を切り出す。
「なんで黙ってたんだよ。紋章のこと」
『……』
父さんが言葉に詰まった。
十秒ほどは沈黙が続いただろうか。無言の父さんからは何も伝わってこない。
ある程度予想は付いていたのだろう。それも含めて何から話そうか迷っている。そんな感じだ。
「母さんが紋章所持者ってことも、芹沢先生から聞いた。詳しいことは教えてくれなかったけど」
『……そうか』
父さんは再び押し黙る。
こちらから急かすことはしない。ただ父さんが話すのを待つ。
もどかしくはあるが、きっとこれから話すことは父さんがずっと胸に秘めてきたこと。迷うのも仕方がないだろう。
『紋章のことを知ったお前は、如月先生に詰め寄って紋章のことを問い質したが、陽が紋章所持者だったということだけを聞けた。けどそれ以外は答えてもらえず、結局私に電話してきたわけだな』
「……ああ、その通りだよ」
何でもお見通し。驚きこそすれ不思議とは思わない。父さんは昔からこういう人だ。
『如月先生とはそういう約束だったからな。紋章のことは凪には隠す。だがそれがもし知られたときは、私の口から全てを話す、と』
「じゃあ、全部話してくれるんだな」
電話の向こうで、父さんが寂しげに笑う。
『そうだな。昔話になるが、それでもよければ』
俺は壁に背中を預け、ずるずると座り込む。床はひんやりと冷たく、はやる熱を押さえてくれる。
早くも野菜を食べ終わったホウキが、とことこと歩いてきて俺の横に体を丸めて座った。
軽く頭を撫でやり、再び電話に意識を戻す。
「いくらでも、付き合うよ」
父さんは語り始めた。
まず話したのは、紋章についてだ。
俺がどの程度知っているかまではさすがにわからなかったようで、その辺りも含めての説明だったのだろう。
その話の多くは、先ほど読んでいたノートに起因したもののようだった。父さんもあのノートを読んだ人間の一人だったのだろう。
相づちを打ったり聞き返したりしながら、再び聞かされた忌まわしい紋章。その話を聞くたび、知りたいという気持ちが募っていく。
『これぐらいはもう知っているだろ?』
「……そうだな」
俺があのノートを読んだ上での説明だったようだ。
前書きはここまでだ。ここからは、こちらから質問していく。
「父さん。俺の母さん、姫川陽は紋章所持者だったんだろ?」
『確かに、陽は紋章所持者だった』
父さんは声を落として肯定する。
「それはどういうことなんだ? 紋章所持者だったってことは、留年とかなんかの理由で留年でもしない限りは、少なくとも十八歳までしか生きられなかったはずだろ」
紋章所持者である以上、所持者は高校三年生で必ず死亡している。例外など存在しない。
そこで一つの可能性が浮き上がってくる。
「俺の母さんは姫川陽じゃない、とかそんなことはないよな?」
それなら苗字が八城でないということも当然だし、紋章所持者で死んだというのも納得できる。
芹沢先生は俺の母さんは姫川陽だということを否定しなかったが、そこに確信が持てないでいた。
また少し考えるような間が続いた後、父さんが言った。
『……私は、今年で三十六になる』
「はぁ? いきなり何を――」
急に何を言い出したのかと思った。あまりに脈絡のない話に、一瞬虚を突かれたが、すぐに思い当たったことがあった。
俺は今年高校三年生である。つまり、本年度の誕生日で十八になるわけだ。そこに疑問を感じてしまうほど、今俺は自分の存在に自信を持てないが、それが間違いではないとなると、答えは一つだ。
『お前は、正真正銘俺と陽の息子だ』
突然父さんの口調が変わった。
言葉が少し鋭さを増し、いつもの落ち着いた話し方から感情を剥き出しにした話し方へと変化していた。
『凪、お前は、俺と陽が高校三年生のときに生まれたんだよ』
『俺が馬鹿だったんだ』
そう言って、父さんは話し始めた。
『神罰は、神力を持つとされる者は強制的に参加させられる。と言っても、美榊島では子どもの頃から「そういうもの」として教え込まれるから、ほとんどの生徒は疑うことなく、戦場に赴く』
それは俺の代でも同じだ。柴崎のように心葉に紋章を使ってほしいと考えている生徒が少なからずいることは事実だ。でも、神罰に出ることを全力で拒む生徒は俺の知る限りいない。
吉田でさえ、神罰を終わらせたいがために心葉を殺そうとしたが、それでも神罰には姿を見せていた。
『だが、例外は存在する。神罰に関わる組織はいくつかあるが、その組織が神罰への参加を不可能と判断した場合は、その生徒は神罰への不参加を認められるんだ』
その話をちらりと聞いたことがある。
神罰へ参加してもまともな戦闘にならない生徒は、神罰には参加しなくてもいいとされている。神力を本当に微々たる量しか持っていない生徒もこれに当てはまる。神罰に出てもほぼ確実に死亡すると目された生徒だ。そういう生徒は高校一年と二年の間に見極められ、一般高校へと移るのだ。病気や大怪我などをした場合も同じだ。
そしておそらく、生きていれば吉田もその道を辿ったということ。吉田の場合は無理に参加させても神罰を阻害する恐れがあったため、あのときコンテナに巻き込まれて死亡しなくても神罰に戻ってくることはなかったはずだ。ただ、後の人生が生きづらいものになったことは間違いないだろう。
この島はそういう風にできている。
「それが、どういう関係があるんだ?」
『様々な例外はある。だが、その中でも例外中の例外とも呼べる事項がある』
戸惑ったような間の後、それは言われた。
『……妊娠している生徒は、神罰への参加をしなくてもいいというルールがあるんだ』
「……ッ」
声を失った。
自分の出生。とても生々しく、辛い事実が語られる。
『俺と陽は幼馴染みだった。普通中学生くらいから発現し始める神力も、俺も陽も小学生になる前から力の片鱗を見せ始めていた。それに昔から許嫁という形で、ずっと一緒にいたんだ』
父さんは思った。神罰は確かに受けなければいけないこと。だけど、自分はともかく、彼女だけでも神罰を回避するできないかと。
明確な意図があったわけではないと思うと、父さんは言った。神罰不参加の例があることは知っていたが、ただ闇雲に手探り状態で、打開策を探したそうだ。
『しかし結局何も見つかることがなく、高校二年生を迎え、何も変わらないまま終業式の日を迎えた。一つ上の代は、生徒の三割ほど失ったが、無事神罰を乗り切った。その代の紋章所持者は年明けに紋章を使用して終わらせていた。そして、俺たちの代の時期になり――』
姫川陽の体に、紋章が現れた。
それは、余命が一年という、絶対的な楔だった。病気などの余命は、告げられたとしてもそれを過ぎて生きるということはざらにある。しかしこと紋章においてそれはない。余命一年は一ヶ月経てば十一ヶ月になり、二ヶ月経てば十ヶ月なる。
『陽は仕方がないと言って、笑って受け入れていた。陽は、強いやつだった。紋章ってのは、不意に体に表れるんだ。だから本人が言わない限り気づくことは少ない。だが、陽はすぐにそれを近くにいた人間に打ち明けた。でもそのときには既に決めていたんだ。始業式までの日に、紋章を使用するってな』
つまりそれは、自らの命を絶つという選択だ。母さんは、悩まなかった。真っすぐ自分の意志を貫き、紋章を使い、他の生徒を、父さんたちを救うことを決めたのだ。
『それだけでも俺には耐えがたい苦痛だった。でも、その後さらにわかってしまったんだ。俺がどうにか紋章を消す方法はないかと調べまわっているときだった。なんかのきっかけで気づいたんだろうな。そんなわけはないと思いつつも、あいつは確認をするために、病院に行った。それで、子どもができているってことがわかったんだ』
それが神罰が始まる始業式の数日前だったと言う。紋章は始業式の前日に使おうと考えていたらしいので、相当ギリギリのタイミングだ。
そして、紋章を使うに使えなくなってしまった。
『ここで一つ矛盾が起きた。紋章所持者は、校内にいなければいけない。しかし、妊娠していてはまともに戦うことができないため、本来なら一般校に編入することになるはずだった。これまで数十年続いてきた神罰の中で、一度もない異例の事態だった。結論として出されたのは、可能な限り安全な場所を用意した上での、校内へ留まることだった』
今の心葉は神罰へ参加することができるが、母さんの場合は神罰へ参加することなくこの校舎内にいたというわけか。
父さんの声がトーンが少し下げ、続ける。
『あいつは、あのとき本当にどうしていいかわからなかっただろう。他の生徒も神罰がなくなると、表立ってこそではないが喜んでいた。今更紋章を使えないなんて言うわけにもいかなかったんだ。考える間もないまま、神罰が始まった。そして、あいつに頼まれたんだ。私が神罰で紋章を使わなくても、誰も死なないように、戦ってくれないか、と』
自分は戦えない。だからこそ、母さんは父さんに頼んだんだ。誰も死なせないでくれと。
『俺もそうするしかなかった。どちらにせよ、戦わない限り陽を危険にさらすことになる。だから俺は決めたんだ。誰も死なせないと。そんな願いを込めて神降ろしを行った結果降りたものが、天羽々斬だ』
携帯電話を持っていない右手を宙に向け、そこに天羽々斬を生み出した。白い鞘に収まった天羽々斬は、輝かしい光沢を放っている。
父さんから託され、何気なく、それが当然のように扱ってきた神の武器。ただ降ろされた神器というわけではなく、父さんの切実な思いが込められていたんだ。
『俺は天羽々斬を使って神罰を戦った。俺たちの代はそれほど強い妖魔は出てこなかったからな。前線が俺一人でもなんとか乗り切れたんだ』
「その結果、誰も死なせずに戦い抜いたってことか」
『……まあな。それが八ヶ月ほど続いた。そして十二月、記録的な大雪が降った、十二月二十五日に、お前が生まれた』
クリスマス。それが、俺の誕生日。
俺が生まれた背景にそんなことがあるなんて、知らなかった。
そしてきっと、俺の誕生日は……。
『お前が生まれた後、陽は俺にだけ別れを告げて、そのまま紋章を使用し、死んでいった。これがお前が生まれた顛末であり、陽が死んだ顛末だ』
俺の誕生日、それは母さんの命日でもあったんだ。
やっとわかった。母さんの苗字が、どうして八城ではなく、姫川という別姓だったのか。理由は簡単だ。母さんが、籍を入れる前に亡くなったからだ。
まだ高校生。その歳でそんな運命を背負った母さんは、一体どんな気持ちだったんだろう。何を見たんだろう。
「……父さんはその後、どうして島を出たんだ?」
ずっと気になっていた疑問。父さんは美榊島を出て、今も島外で暮らしているが、神罰でそれほどの働きをしたなら美榊島での生活は安泰だったはずなのだ。
神力を持つ生徒は、神力を持たない生徒に比べて勉強面などが疎かになる。それもそのはずだ。普通の生徒が勉強する時間の多くを、術やら武道やらの時間に充てている。そのため、美榊高校の神罰を生き抜いて卒業できた生徒はその後の人生は安泰、とまでは行かないがそれなり待遇を受けるのだ。
しかも、神罰をほとんど一人で戦い抜いたなんてなると、父さんのこの島での評価は相当高かっただろう。
電話の向こうで、少し父さんが疲れたようなため息を吐く。
『事情があってな。島にいるわけにはいかなかったんだ』
「事情ってのは?」
『島の長、市長との約束だよ。俺は陽に紋章が宿った時点でどうにか紋章を消せないかと考えた。調べまわっている際に、市長まで辿り着き、島の極々一部の人間しか知らない事実を知った。俺が島を出ないといけなかったのはそれが理由だ。俺が聞いたのは神罰の根幹にある話。そんな話を聞いておいて、おちおちと島にいるわけにもいかなかったんだ』
その後聞いた話を俺も知っていた通り。卒業後すぐに島外の大学に通った。父さんは大学から大学院に行き、異例の若さで准教授、そして教授になった。
それと同時に、俺も本土で生活することになり、父さんは以前芹沢先生と約束した、俺がもし高校三年になったときにもまだ神罰が起きていれば、俺を島によこしてほしいという約束で、俺は戻ってきたというわけだ。
「俺にはその市長から聞いたって話は教えてくれないのか?」
『……できればそれも自分で聞いてきてほしい』
「聞いてきてほしいって……」
それってまさか……。
『市長に会ってこい。俺が島を離れて二十年近く経っているんだ。新たな情報が入っていることも十分考えられる。だから、行ってこい』
「行ってこいって、そう簡単に会えるものなのか?」
『それはわからないが、市長は俺のときから変わってないはずだ。それなりに大変だろうがなんとかやってみろ』
電話を持ったまま、首をひねり、天羽々斬を肩にかける。
確かに、ここで無理矢理聞き出せば父さんは教えてくれるかもしれない。もう俺はかなり踏み込んだところまで来ているんだ。
ここまで俺は自分でやってきた。正しく決まった道など、どうせありはしない。
なら、俺は俺にできるやり方で、できることをする。
「父さん、言ったよな? 俺がこの島に来るときに、俺がやりたいようにやればいいって」
『……ああ、言ったな』
「俺は、潰すぞ」
父さんはきっと、俺が何を言うかを知っている。全てを見通した上で、俺を島にやった父さんだ。俺がどこに行こうとしているのか、どこに行くべきかも、全て知っている。
でもこれは父さんに導かれたからじゃない。これは、俺の意志だ。
「俺は神罰を潰す。こんなこと、これからも続いていくなんて、許せるわけはない。俺が絶対に神罰を終わらせてみせる」
『……私は、特に多くのことをお前に言うつもりはない』
父さんの声色が、いつものように落ち着いた調子を取り戻した。
『お前はやりたいようにすればいい。それは変わらない』
「ああ、そうだよな」
『ただ、これだけは付け足させてもらう』
そして、真剣みを帯びた声で言う。
『お前はこれから、いくつもの選択をするだろう。その選択は、何を選ぶかの選択肢ではない。何を切り捨てるかだ』
普通なら絶対に言わないような、苛烈な言葉を父さんは言った。
『お前には、辛い選択をさせることにはなる。しかしこれだけは言わせてほしい。選択迫られたときは、絶対に自分が生き残る選択をしろ。どれほど大きなものと秤にかけても、絶対に自分の命を守れ。それだけは約束しろ』
……この人は、まったく。
不意に父親らしいことを言うから、反応に困る。
恥ずかしげもなく言い放つ父さんに、俺は逆に言葉に詰まったが照れを押さえて返す。
「まあ、そうね。俺よくばりだから、全部拾い集めてみせるよ」
俺の願いは、皆生きてこの神罰を終わらせることだ。
そして、呪われた紋章を持つ心葉を、必ずその運命から救ってみせる。
天羽々斬が、小さく脈を打ったような気がした。