11
ゴールデンウィークが明けて五月の最後の週になるまで、一度も神罰は起きなかった。
休みの間にせっかく法術を身に付けたのに、肩すかしを食らったような気分だった。
俺からすれば、もう神罰は来ないのではないかと楽観視もしたくなるほど、何もない日々が過ぎていく。
だが他の生徒は、神罰がなくなるなんてことは考えてもいないようで、神罰が起こる正午になると不安と焦燥の高校全体を覆い尽くし、息苦しくなる。
その日も正午に近づくにつれ生徒がグラウンドからいなくなっていき、十分前になると一人もいなくなった。
ほとんどの生徒が自分の教室に戻り、俺もその日は教室にいた。普段は一日の大半は教室にいない。それは心葉があまり教室にいたがらないからである。
ゴールデンウィークが終わったあの日から、授業がある時間の大半は心葉といたが、心葉は自分がいると他の生徒がまともに授業を受けられないと言って基本的に教室にいない。
しかし、まじめな心葉はいつもいないわけにもいかないということで、たまに授業に出ているのだ。
今は天堵先生が神力についての応用方法についての授業をしている。授業と言っても、以前先生本人が言っていたようにテストがある授業ではないが、神罰のために有用な知識なため、生徒は真剣に取り組んでいる。
その中で、教室左後ろの席にいる俺や心葉に、視線や意識が向けられるのを肌で感じてはいたが、俺は授業だけに耳を向け、視線は窓から外のグラウンドへと向けていた。
神罰はここ二週間ほど起きていないが、始まるのはいつもグラウンドを中心として始まる。あと五分もすれば十二時だ。
今日も、神罰なんて来なければいい。
嘆息を零しながら、シャーペンの先でノートを叩く。
黒板の上にある時計の秒針が刻んでいく時間がひどくゆっくりと回っていく。
だが五分などという短い時間は、あっという間に過ぎ去った。
時計の全ての針が重なると同時に、大きなチャイムが響き渡る。
直後、沸き上がったとてつもない不快感に、俺は体を震わせた。
急に込み上げてきた吐き気が胃液を押し上げてきたが、なんとか留めることができた。
始まったか。
「うっ……」
すぐ後ろで心葉も同じように吐き気を堪えるように両手を口に当てている。
「心葉、お前もわかるのか?」
声をひそめて尋ねる間に、高校の外壁から黒い結界が上っていく。
心葉はひどく驚いたように目を見開き、俺の顔を見返した。
「な、凪君もなの?」
「ああ、たまにいるんだろ? 神罰の始まりを感じ取れる人」
「そうだけど……」
それっきり、心葉は考え込むように黙ってしまう。
だが視線がグラウンドの方に行くと同時に、再び驚きに染まった。
他の生徒からも一様に驚きと、ざわめきが広がっていく。
グラウンドの中央。そこに巨大な空間の歪みが浮かんでいた。
たった一つの、空間の歪みだ。
「今年は来たのか」
俺と心葉の後ろまで来た玲次が、顔を歪めて唸っている。
「単一神罰……」
俺が呟くと、心葉が瞳を揺らしながら頷いた。
「最悪の神罰だよ。中には普通の妖魔だったってこともあるけど、高確率で強力な妖魔が出現する。今回は間違いなく強力な妖魔だよ」
広がっている空間の歪みは、今まで見たこともないほど巨大だった。鎧武者のときよりもさらに大きい。
大きさはそれだけで直接強さに繋がる。人が虫や小動物を殺すのに苦労しないように、巨大な妖魔が俺たちを潰すのも容易い。
それを、鎧武者の神罰で学んでいる。
空間の歪みが消え、現れる。
空中から落下した衝撃が校舎を揺らし、窓がびりびりと震えた。
現れた妖魔に、教室にいた全員の動きが止まった。
体表を覆う黒い甲羅はにぶい硬質な光を放っている。体は節々で区切られており、体長は五十メートルを優に超し、百メートルに届きそうなほどだった。体の側部からは鋼色の足が数十対も伸びており、地面に食い込ませてその巨躯を支えている。持ち上げた頭からは、二つの牙が曲線を描きながら伸びている。
現れたのは、百足だった。その辺りにいる数センチの生き物などとは比較にならないほどの大きさであるが、明らかにそれは百足と呼ぶ生き物だった。
「【大百足】……!」
クラスの誰かが震える声で呟いた。
大百足。聞いたことがある。とある地方の民謡にそういう話があったはずだ。
弓の名人が龍神の娘に頼まれて大百足を倒す話だった気がする。あの話では大百足はもっと大きかったはずだが、そんなことに関係なく十分大きい。
グロテスクな形貌に体中の皮膚が一気に粟立つ。
他の生徒も同じように、体一つ動かせずに大百足を見ている。
大百足は、体を縮めるように固め、二つの牙をかちかちとゆっくり鳴らす。
ほとんど何も映さない目の代わりに、頭から生えた二本の触角が辺りを探るように揺れる。
触角がピタリと止まり、そして、大百足は物凄い勢いで校舎に向かって走り出した。グラウンドの地面を足で抉りながら一直線に向かってくる。
しかし目を付けられたのは校舎などではない。そこにいる生徒、俺たち人間を狙って突き進んできているのだ。
一番早く反応したのは、教室の一番後方にいた心葉だった。
「――ッ! 七海ちゃんッ凪君ッ!」
言うが早く、心葉は何事かを唱えて腕を振った。
ぴしりと音が走り、Aクラスの窓ガラスが全て綺麗に外れ、いや切断されて階下へと落ちていった。
硬質な金属で造られていたはずの窓枠まで綺麗に切断し、教室の前から後ろまで展望台のように見渡しがよくなった。
「私に合わせて!」
心葉は印を結び、一足先に呪文を唱えていく。
七海はすぐに意図を汲み取り、窓際に飛び出して心葉に倣う。
言われたことに眉をひそめたが、呪文の内容を聞き取って意味を理解した。
二人がゆっくりと唱えていてくれたため、すぐに追いつき同じ呪文を唱え始める。
心葉は口を動かしながら玲次に視線を向けると、玲次はハッとして慌てたように指示を出す。
「全員窓から離れろ!」
察した者は一目散に離れていき、わからない生徒も玲次の剣幕に慌てて廊下へと逃げ出す。
俺と心葉と七海の呪文が一つに重なり、慎重に一語一語を、それでいて急ぎながら唱えていく。
大百足は校舎のすぐ近くまで来ていた。
心葉が俺と七海を率いるように呪文を唱えており、俺はタイミングが悪いように感じたが心葉は迷わず続けていく。
直後、大百足は体をしならせ、大きく跳んだ。
百足が跳び上がるなど聞いたこともないが、妖魔にそんな常識は通じなかった。
跳び上がった大百足は、Aクラスの教室目掛けて突っ込んでくる。
このままでは、大百足が校舎ごと俺たちを押し潰すだろう。
だが、大百足が跳び上がったおかげで、完璧なタイミングになる。
最後の一節を早口に唱え挙げ、俺たちは吠える。
「「「火界呪!」」」
両手の印から吹き付ける熱風とともに、灼熱の炎が砲撃の如く撃ち出される。
三人の火界呪は一つになり、巨大な火柱となって大百足に直撃した。
激しい衝撃が校舎を揺らし、ガラスの割れた音が響く。心葉がAクラスの窓を落としてくれていなかったら、俺たちはもろに割れた破片を浴びていただろう。
大百足は火界呪の砲撃を受け吹き飛び、グラウンドを飛び越えて校舎と反対側の木々の中に落ちた。
大百足が落下した場所からは黒煙が吹き上がっている。
「助かったよ。心葉」
玲次が胸を撫で下ろしながら心葉に言った。
心葉は険しい顔で黒煙が上がる場所を睨んでいる。
「大百足はほとんど目が見えない代わりに触角で敵を探す。過去のデータにあったよ。過去一度現れたときに校舎に向かって跳んだってあったから、すぐに対応できただけだよ」
窓を落としたことと言い、火界呪のタイミングと言い、心葉の冷静さと洞察力に正直驚かされる。もし心葉が対応してくれていなければ、校舎ごと押し潰されて確実に死者が出ていただろう。
安堵したのも束の間、心葉は鋭い目を上空へと向けていた。その視線の先には、美榊高校を閉ざす漆黒の結界が広がっている。
崩れることも揺らぐこともない結界が示すことは一つだ。
黒煙が上がっている場所に目を向けると、木々の間から大百足の頭部が覗いた。続いて出てくる胴体は、焦げたように煙が上がっているが、あれだけの火界呪を受けてもほとんどダメージになっているようには見えなかった。
「やっぱりあれだけの術でも倒せないね。動く防壁って言われただけのことはあるよ」
冷静に淡々と呟く心葉だが、横顔からはかなりの焦りが感じ取れた。
「どうすんだよ!」
柴崎が乱暴な声を上げる。
「あんな化け物俺たちの手に負えねぇぞ! 一体どうやって倒せばいいって言うんだよ!」
初めて見た圧倒的な妖魔に柴崎は怯え、恐怖に混乱している。
他の生徒も、普通の神罰なら始まると同時にグラウンドに飛び出していくのに、今は誰一人教室から出ようとしない。
「俺たちにできることは二つだ」
玲次が普段の軽い空気を微塵も感じさせない声で言う。
「一つは、神罰が終わるまで逃げること」
だがそれは現実的ではないと、玲次は自分で却下する。
妖魔を倒さずに神罰が終わるには、三十分から一時間程度かかると言われている。戦わずに終わると言えば聞こえがいいが、妖魔は止まってくれているわけではない。問答無用で一方的に襲い掛かってくる妖魔から長ければ一時間、それも限られた空間の中で逃げ続けることがどれほど難しいかは想像に難くない。
そんなの、どう考えても無理だ。
「俺や七海、凪や他の仙術使いだけで、大百足を迎え撃つ。腕に自信があるやつは出てくれれば助かるが、強制はしない。相手は一体。こちらも少数精鋭で叩き伏せるぞ」
神罰において、妖魔が少数だった場合、こちらも少数で戦うと、以前玲次から聞いている。今回はその戦い方を選ぶようだ。
妖魔が一体や二体だけの場合、こちらが百人を超える人数で挑んでも同時に攻撃ができるわけではないのだから、どうしても戦えない生徒が出てくるのだ。だが妖魔の目的となる人数が減るわけではない。死ぬリスクは変わらないのに、戦闘に参加するメリットが対多数戦に比べて圧倒的に少ないのだ。
だからこちらが少数で戦うというのは、理に適っている。
俺がいい判断だと頷きかけたとき、怒鳴り声が教室に響き渡った。
「何バカなこと言ってんだ!」
声を荒らげたのは柴崎だ。
「そんなことして勝てるわけねぇだろうが! 相手はあんな化け物だぞ!? 人間が敵う相手じゃねぇだろうが!」
柴崎が指さす先では、大百足が先ほどあったことを警戒してか、触角を揺らしながらゆっくりとこちらに向かってきていた。
「俺たちが助かるにはそんな悠長なことしてる場合じゃない! いい加減諦めろよ! もう何人死んでると思ってんだ!」
何の話だ……?
まるで、今の状況を脱する方法は玲次が先に述べた二つ以外にもあるような言い草だ。
柴崎の視線は、こちらに向けられた。一瞬俺に向けられたものかと思ったが、柴崎の鋭い視線は俺の背後に突き刺さっていた。
視線の先にいるのは、心葉だ。
心葉はその視線から逃れるように、顔はグラウンドに向けたままだった。
教室中の視線がこちらに集まるが、それらを振り払うように玲次の拳が机に叩き付けられた。
「……俺たちだけで迎え撃つ。変更はない」
七海が小さく頷き、柴崎を睨み付ける。柴崎は忌々しそうに舌打ちをして、自分の席を蹴り飛ばした。
それ以上誰も何も言う人間はいなくなる。
玲次と七海はそれを確認すると、俺に視線を向けてきた。
当然俺は頷いて返す。そのためにいるのに、ここで拒む理由などない。
「……私も、戦うよ」
作戦を他のクラスへと伝えようとしていた玲次と七海が止まる。
声を上げたのは、少しの間黙っていた心葉だ。窓があった枠を握りしめ、何かを決めた目で大百足を睨み付ける。
「大百足は、これまでの妖魔とは比べ物にならないほど強い。私も戦いたい。私だって仙術は使えるし、その資格はあるよね」
最後の言葉は、玲次に向けられたものだったのか、七海に向けられたものだったのか、はたまたこの教室全員に向けられたものだったのはわからなかったが、誰もすぐに反応することができなかった。
「い、いけませんよ」
震える声で割って入ってきたのは、それまで一言も口に出さずに見守っていた天堵先生だ。
「紋章所持者である椎名さんが、率先して妖魔と戦ってはいけません。危険過ぎます」
心葉は静かな目で天堵先生を見返した。
「紋章所持者は、紋章を与えられることにより神罰の不参加を認める。ただし、神罰が開始される正午には、他の生徒同様に美榊高校校内にいること。これが古くから決まっている紋章所持者の習わしです。不参加は認められていますが、参加を禁じられているわけではありません」
可愛らしい顔には似合わない鋭利な目で、何か言いたげな周囲の生徒、玲次と七海を一瞥する。
「誰にも、文句は言わせないよ」
有無を言わせない一言に、玲次や七海さえもが怯んだ。
玲次は顔を歪めながら頭に手をやり、大百足を見て焦ったように髪をぐしゃぐしゃにする。
「くそっ。心葉、お前が戦うと言うなら今回は止めない。今は言い争っている場合じゃない。だが心葉、お前は前線には出さない。後方からだけの参加なら認める。神罰の指揮は生徒会長に任されている。それだけは従ってもらう」
生徒会長だからという理由で突っぱねることもできたのだろうが、その場合は心葉が食い下がって口論になりでもして大百足の対応が遅れたらそれは問題だ。だからこその妥協案だろう。
心葉は眉を下げ、ほんの少しだけ考え込んだ。
「……わかった。それでいいよ。私は校舎の屋上から戦う。私に考えがあるから」
心葉は手短に自分の考えを言うと、戸惑っている周囲の生徒には目もくれずに外に出て行く。
「心葉」
七海が呼び止めると、心葉は扉に手をかけて止まる。小さく振り返りながら、口元を緩める。
「大丈夫だよ。七海ちゃん」
微笑みとともに言い残し、心葉は走り去っていった。
他の生徒は高校の敷地内に散らばることになっている。それも、妖魔が見える位置にいる必要がある。
一ヶ所に固まっていては妖魔の注意を集め過ぎてしまう。目ではなく触覚で判断しているのなら尚更だ。そんなことになってしまえば、前線の俺たちから注意が逸れて戦いにくくなってしまう。
わざわざ危険がある見える位置にいることにも理由がある。
仮に前線で戦う俺たちが敗れた場合は、他の生徒だけで神罰に立ち向かわなければいけない。大百足との戦いを間近で見て、次の戦いに備えるために、この危険は必要なことなのだ。
俺も、いつまでもここにいるわけにはいかないな。
「それじゃ、俺も行くよ」
左手に天羽々斬を生み出し、鞘から引き抜く。刀身から白煙が溢れ、俺の周囲に漂い始める。
「ああ、俺たちもすぐに行く。無茶をするなよ」
「わかってるよ」
窓があった場所に足をかけ、空高々に飛びだした。
大百足は既にグラウンドの中程までやってきていた。
空中を蹴りながら大百足に接近していき、左手で印を結ぶ。
法術には片手や両手で結ぶもの、中には印を必要としないものもあるが多くの種類がある。しかし、総じて言えることだが、両手できちんと印を組んだ方が威力が上がるし難易度も下がる。
今は威力を重視していないので片手でも十分だ。
大百足へと落下していきながら呪文を唱え、射程に入ったところで法術を放つ。
「【風天呪】!」
放たれたのは風の衝撃波。周囲の空気を凝縮し、一方向に空気の砲撃を放つ法術だ。
風天呪は大百足のすぐ前の地面に着弾し、大量の土煙が巻き上がった。
大百足の視界と触角に土がかかり、一時的にだが大百足の動きが止まった。
すかさず大百足の側部に回り込み、胴体に天羽々斬を振り下ろす。
だが、天羽々斬は体を覆う黒い甲殻に阻まれた。少し欠けた程度で、まるで強固な金属の塊を斬りつけたような衝撃が腕を伝う。
腕の痺れに耐えながら再度天羽々斬を振り上げようとしたとき、鋼色をしたいくつもの足が振り上げられた。頭はまだ土を被っているのに大百足は正確に俺の位置を把握しているようで、的確に足を付き出してくる。
俺は大量の白煙を溢れさせ、それを周囲に盾のように張り巡らせる。
大百足の足が白煙の盾を打つが、激しい衝撃こそあるが貫かれるようなことはない。
後方に飛ばされるが間髪入れずに間合いを詰める。
そして突き出される足に刀を振るう。巨大な体とはいえ足はさすがに細い。それでも十分太かったのだが、刀に打たれて足が曲がった。
だが大百足はまったく気にしていないようで、体を動かして校舎の方へ向かっていこうとするが、それより先に校舎の方角から巨大な火球が飛んできて大百足の頭を直撃した。
それは火界呪の炎ではなく、レーヴァテインから繰り出される紅蓮の炎だ。
大百足の頭が大きく仰け反り、爆炎を貫いて二つの影が飛び出した。
一人は二振りの短剣を持ち、もう一人は一振りの日本刀だ。
二人の攻撃は勢いを殺さないまま、大百足の腹に一閃する。
白鳥と御堂の攻撃で大百足の腹に、浅くはあるが傷を刻んだ。体表や足は強固なようだが、腹部はそれほどの強度はないようだ。
続いて、高速で一発の弾丸が飛来し、大百足の腹に風穴を開けた。如何なるものも貫く銃弾、水破だ。
校舎の方から七海と玲次が走ってくる。白鳥と御堂は、大百足の後方に着地する、
さらに数人の生徒が校舎の方で待機している。俺たち生徒の中でも指折りの法術使いだ。接近戦はそれほど得意ではないから前線までは出てこないが、後方から法術で援護をしてくれるのだろう。
と言っても、援護なのは俺たちも変わらないが。
大百足は水破によって体を貫かれても問題がないように動き始める。妖魔に常識的なことを期待しても仕方がない。
天羽々斬の刃に素早く指を滑らせる。白刀から溢れ出した白煙が巨大な白刃となる。
大百足の上方に飛び乗り、天羽々斬を叩き付けた。斬るには至らないがそれでも甲殻に傷が走る。
「凪! 無茶するな!」
「わかってるって!」
数度斬りつけたところで、大百足が暴れ始めたので一旦距離を取る。
校舎に向かって突き進んでいこうとする大百足に、後方支援の生徒たちから稲妻の法術が飛来する。
大百足は避けようと体を動かそうとするが、俺と御堂が左右から挟撃し、力任せに胴体を斬りつける。
怯んだその短い間に、稲妻は大百足の胴体を捉える。電撃が大百足の体中を駆け巡り、すかさず上空から白鳥が襲い掛かる。
金色の光を放つ二振りの短剣を大百足の頭部に突き刺した。固い甲殻をもろともせず貫いた一撃に目を見張ったが、巨大な大百足にその程度の傷は問題ではないらしい。
大百足は太い尾部を振り回した。周囲が揺れ荒れるほどの衝撃に俺と御堂と白鳥は吹き飛ばされる。
「お前ら近づき過ぎだ! 時間稼ぎってことを忘れるなよ!」
玲次が再び水破を放ち、大百足に穴を空ける。
「与えられるだけダメージを与えて、あとは心葉に任せるのよ!」
七海が拳を地面に叩き付けると、大百足の頭を貫くように火柱が立ち上がった。
追撃するように、後方から炎が飛び、大百足を捉える。
「七海! 鎧武者のときみたいに溶かすこととかできないのか!?」
「あんな大きい相手にそんなことできるわけないでしょ! そもそも金属じゃないから無理!」
確かに大百足の甲殻は強固だが金属という感じではない。しかも普通の物質とは思えない強度を誇っている。熱で溶かすというのも無理な話か。
それに、玲次と七海が言っているが俺たちの目的は直接倒すことではない。
時間を稼ぎ、最後は心葉がなんとかしてくれる。
何をしてくれるかは聞いていない。だけど、あのとき私に考えがあるからと言った表情から感じさせる自身と、それを相手に信じさせる力。
今まで神罰に参加してこなかった心葉だが、さすが美榊高校でトップレベルの一人だけのことはある。
大百足に吹き飛ばされて距離を空けられた俺は、すぐに大百足に接近していく。
神罰で現れる妖魔はほとんどが好戦的だ。こちらを殺そうと、それだけを考えて突き進んでくる。大百足は俺たちを殺そうと襲い掛かってるが、常に意識は校舎へ向かっている。普通の神罰と違い生徒がいる場所が固まっているからか、俺たちが離れていると目もくれず校舎に進んでいくだろう。
隙を与えず時間を稼がねばいけない。きつい話だが、やらないわけにもいかない。
大百足までの距離が三十メートルほどになったところで地面を踏みしめる。
巨大な刃と化している天羽々斬にさらに神力を流し込み、振りかぶる。
「ハアアッ!」
纏った神力を切り離し、そして放つ。
天羽々斬から離れた白煙の神力は纏われていたままの形を残し白刃となって飛ぶ。
大気を斬り裂き地面を削りながら進む荒々しい白刃は、大百足の胴体を直撃した。
白刃は大百足の側部を抉り、数本の足が宙を舞った。
初めてまともに攻撃が届いたようで、大百足は牙の間から苦しそうな音を漏らす。
天羽々斬に纏われている白煙は高濃度の神力を物質化したものだ。盾と使うこともできるし足場として使うこともできる。それを応用して刃にしてはなったものが、今の白刃だ。
天羽々斬から切り離しても形を保っておかねばならないため、今までは使えなかったが心葉に法術のことを教えてもらっている際に身に付けた神力のコントロールでなんとか使えるようになった。
しかし、切り離した神力は完全に消費してしまい、大量に神力を消費するので連発はできないのが難点だ。
大百足は首を蛇のように持ち上げ、こちらに頭を向けた。
突進してくるのかと思いきや、大百足は口から覗いている牙を打ち付けた。
次の瞬間、大百足の牙が光を放ち、口から青い光とともに何かが飛来した。
反射的に跳び退いた直後、俺が先ほどまで立っていた場所をそれが遠過ぎていく。
地面は数メートル抉れ、どろりと溶けて煙を上げている。
「あっつ! なんだ今の!」
再び青い熱線が放たれ、俺を追撃するように次々と飛んでくる。
天羽々斬の白煙を使いながら空中を飛び回りながら避けていくが、近くを通り過ぎる熱線が体を掠めて激痛が走った。
その隙に御堂が大百足の懐に飛び込み、がら空きになっている喉元を鬼切安綱で深々と斬り裂いた。
鬼切安綱の切れ味は恐ろしいものがあり、明らかに他の武器とは一線画す攻撃力を持っている。
徐々に攻撃を増していく刀身が大百足の体を斬り裂けるまでに向上している。
大百足は頭を下げると同時に尾を振り回し御堂を攻撃しようとするが、御堂はすぐに距離を取って逃れていた。
消えるように移動をしていた白鳥が俺の横に現れる。
「高位の妖魔が使用する神力を使用した攻撃っす。気を付けてください。まともに食らったら肉片すら残らないっすよ」
片手間に白鳥が説明してくれていると、俺たちの方に熱線が飛び、俺と白鳥は左右に跳んで躱した。
妖魔が神力を使う。それは別段珍しい話ではない。
神力は俺たち人間に宿っている力であるが、それは人間に限った話ではない。
例えば、この島では人間以外の犬や猫と言った動物から、地面や草木、建造物などまで様々なところに宿っている。それはこの美榊島が元々神力を多く宿した土地だからに他ならないのだが、本土の神社などでも、宿している場所は宿しているらしい。
神力とは本来、科学では解明することは決してできない、この世の理を変えることすら可能な力だ。
熱を操り炎を生み出すのではなく、何もない空間から神力を消費して炎を生み出す。
それが神力の力なのだ。
そして、妖魔の生命力も神力だと言われている。
元は同じ力なのである。
つまり、俺たちが仙術や法術を使い、身体能力の強化や炎は稲妻を操っているように、妖魔が神力は操って何かをすることは十分に考え得ることなのだ。
大百足は体内の神力で熱線を生み出し放っているようだ。攻撃力とスピードともに恐ろしいものがあるが、なんとかならないこともない。
熱線は放つ前動作押して、大百足は牙を打ち付けている。それさえ見逃さないように注意していれば、直線的に飛んでくる熱線が来るタイミングはわかるので避けることはできる。
「全員近寄らずにできるだけ離れて戦え! 近くにいたら避けられるものも避けられないぞ!」
玲次は飛んできた熱線を躱しながら後退し、雷上動から無数の矢、兵波を放つ。兵波は矢の物量で攻撃する技のため、強固な防御力を誇る鎧は貫くことはできなかったが、大百足は少し怯んだ。
七海はここぞとばかりに炎を放つ。炎の波が大百足を覆い尽くした。
一瞬大百足の姿が完全に見えなくなる。
その短い隙に、大百足は炎を突き破って七海へ突進した。
急のことにも七海は慌てず対応する。
大百足の視界を覆うように炎をぶつけると、足を強化して大きく横に跳び退いた。
だが、その炎を貫き熱線が突き抜けた。
「――ッ!」
空中に跳び出したばかりの七海を正確に射抜く熱線だ。
ギリギリとのところで俺が七海と大百足の間に割り込み、白刃をぶつけて軌道を逸らした。熱線は離れたところにあった木を焼き、炎が上がる。
大百足が追撃の熱線を放とうとするが、後方支援の法術と玲次の矢に阻まれて後退した。
「助かったわ」
「頭を狙うのは止めた方がいい。熱線を放つタイミングがわからなくなるのはまずい」
「そうね。気を付けるわ」
七海は着地すると同時に的にならないように走り出す。
白鳥と御堂はあまり法術が得意ではないため、先ほどから神器でのヒットアンドアウェイを繰り返している。
幼馴染みというだけあってか、二人の連携は凄いものがあった。お互い声を掛け合っているわけでもないのに息がぴったりだ。
大百足が二人以外を攻撃しているときは二人で接近して攻撃を続け、どちらかに狙いが定まればもう一方が集中的に攻撃を繰り出していく。
離れて戦った方がいいのは事実だが、二人の戦い方はむしろ安全なもののように見えた。
二人の邪魔をしないよう、俺は離れたところから法術での攻撃や、天羽々斬から白刃を放つなどして戦っていく。
玲次も七海も後方の法術使いたちも、距離を取って戦闘を長引かせるように攻撃を続けていく。
十五分ほど経過しただろうか。もしかしたらもっと続いているかもしれない、
神経を研ぎ澄ませた息もつかぬ戦いのせいで、正確な時間がわからない。ただ、神罰が終わらずに続いていることから考えると、それほど時間が経っていないのは間違いない。
だが、その短い時間が俺たちには問題なのだ。
神力を消費し続ける戦い方は、長くはもたない。神力がなくなれば、仙術も法術も全て使えなくなる。
普通の妖魔ならともかく、大百足のような圧倒的な存在に仙術も法術もなしで戦えるわけはない。
それは動きを鈍らせ、焦りを生んでいく。
もう何分も前から法術の支援が来ていない。彼らは法術は使えるが、仙術を使えるほど多くの神力を持っていないため、俺たちより先に神力が尽きてしまうのは不思議なことではないのだが、彼らの援護がなくなるのは結構きつい。
大百足の注意が近くにいる俺たちだけに向きやすくなり、隙を突くのが困難になっていく。
着実にダメージを与えられているのは確かだが、大百足は倒れるどころか動きを鈍らせることすらない。
もとより百足の生命力はとても強い。駆除をしようとしても苦労する人も多いだろう。
そのことはこの大百足においても同じなのだ。
白鳥や御堂や俺の攻撃で体表には数え切れないほどの裂傷が走っているし、玲次の矢で穴だらけ、おまけに七海の炎や他の生徒の法術によってボロボロだ。
だが大百足は暴れることを止めず、熱線も切れることなく放ち続けている。
「ま、まだかかるのか……!」
準備が進んでいるのは一目でわかるが、そろそろこちらも危なくなってきた。
躱し切れず防ぎ切れなかったダメージが徐々に体に溜っている。
先ほどまで絶妙な連携で戦っていた白鳥も御堂の攻撃も、今はずいぶん鈍ってきている。
俺や玲次たちも、確実に動きが鈍り、反応が遅れてくる。
だから、それを止められなかったことは、誰に責任でもないと思う。
長い戦闘のせいで、全員の集中力が鈍った瞬間に、大百足が包囲を突破して校舎に向かって突進した。
校舎の方向には、後方支援を行っていた生徒たちが集まっている。
慌てて行く手を阻もうと全員で取り囲もうとするが、間に合わない。
突進しながら放たれた熱線は、地面を焼きながら後方支援をしていた生徒たちに襲い掛かる。
「避けろおおお!」
玲次が叫ぶと同時に、生徒たちはなりふり構わず跳び退いた。だがそれは間に合わない。
あわや生徒たちに熱戦が直撃しようかというとき、その中にいた青峰が生徒たちの前に飛びだし、振り上げた両拳を地面に叩き付けた。
直後、地面が下から強い衝撃を受けたように隆起し、熱線の斜線上に巨大な地面の塊が浮き上がった。
青峰の使えるテレキネシスは、法術のように無から有の現象を引き起こすようなことはできないが、既に存在している物質に対しては絶大な効果を発揮する。
熱線は青峰が浮き上がらせた地面を直撃するが貫通することはできず、青峰は攻撃を防ぐことに成功した。
安堵したのも束の間、地面を焼いた熱線はそのまま校舎を縦に焼き払った。
教室から叫び声が響き渡る。
校舎にも少なからず生徒は残っているようだ。比較的安全な上、戦況を読むにはこれ以上ない場所であることは間違いない。
それが裏目に出た。
大百足は追撃に再び大きく跳び上がり、校舎を押し潰そうと落ちていく。
だがその跳び上がって落ちるまでのその間に、俺はなんとか大百足に追いつけた。
「落ちろ!」
大百足の真上に回り込み、ありったけの神力を注ぎ込んだ刃を振り上げる。
全力で放った白刃が大百足の甲殻を砕き、その巨体をグラウンドに叩き付けた。
俺は大百足と校舎の間に降り立ち、大百足の動きを警戒する。ここは校舎に近過ぎる。
そのとき、不意に耳元で声がした。
『遅くなってごめん。準備完了したよ』
視線を声がした方に向けると、肩に赤い紙の折り鶴が乗っていた。
心葉が操る式神だ。式神は陰陽術によって使役する呪具の一種だ。動物の霊などをものに宿らせて使役したり、今心葉がやっているように自分の意識をものに乗せて動かしたり言葉を伝えたりすることができる。
「待ちわびた!」
折り鶴の頭がちょこっとこちらを向く。
『大百足をもう少し後ろに下げられる?』
「もちろんだ。任せとけ!」
残る全ての神力を天羽々斬に注ぎ込む。純白の刀身から白煙が吹き出し、数メートルにもなる刃を作り出した。
落下したばかりで身動きが取れていない大百足の正面に飛び込み、その顔面目掛けて零距離から白刃を叩き込む。
白刃が大百足の頭部を大きく抉り、大百足は衝撃に後退した。
俺も後方に跳び退いていき、神力を使い果たして鉛のように重くなった体を支えるために、天羽々斬を地面に刺した。
突風ともに数え切れない紙が吹き荒れた。
心葉が放った呪符だ。複雑な模様が描かれた呪符は、荒れ狂う突風の中を滑るように移動していく。
大百足は怯んだように体を丸めている。
その周囲を、竜巻の如く呪符が取り囲んでいく。
俺は校舎の上、屋上を見上げた。
屋上では心葉が印を結び、早口で呪文を唱えているのが見て取れる。
大百足を閉じ込めるように張り巡らされた呪符は、牢獄のようにそびえ立つ。
バチッと一条の神力が走った。それは呪符から呪符へ連鎖的に繋がっていく。
「皆離れて!」
心葉のよく通る叫び声が屋上から響き渡る。
直後、全ての呪符が神力で連結される。呪符の牢獄の上空に光が集まり始める。
そして、上空から真下にいる大百足に向かって、眩くも神々しい光の柱が落ちた。
轟音とともに、光の柱が身動きができない大百足を貫いた。
熱や衝撃はなく、光だけが大百足を包み込んでいる。
大百足は断末魔の叫び声を上げてのた打ちまわっているが、光の柱は関係なく大百足を、消失させていく。
【殲光呪】。
心葉が自ら編み出した光の法術。あまりの難易度のため、発動までにかなりの時間を有すが、規模と威力は規格外だ。
俺たちが攻撃して傷を与えることしかできなかった大百足の体を消失させる。
焼くでも斬るでも潰すでもなく、消失させる。
殲光呪は、光の元となっている神力を細かな粒子に変え高速振動させるという恐ろしい術だ。光に触れるだけで物質は跡形もなく分解される。
それは妖魔しかりグラウンドしかりだ。
腕で顔を庇い、光が収まるのを待つ。
やがて光の柱が消え、それと同時に牢獄を作り出して呪符が、役目を終えたとばかりに燃え尽きた。
残ったのは、地面にぽっかりと空いた大穴だけだ。
先ほどまで大百足がいたであろう地面は跡形もなく消失し、暗い闇が広がっている。
当然、そこに大百足の姿もない。
周囲の物質が時間を巻き戻すように動き始めた。
「はぁ……」
安堵のため息とともに、先ほどまでのダメージが全て神罰が始まる前に戻った。
なんとか、倒せた。
ギリギリの戦いだった。
人狼や牛鬼や鎧武者とも明らかに格が違う。純粋に強い妖魔だった。
だがだからこそ、何もなく終わることなどなかった。
天羽々斬を鞘に納めて消す。
グラウンドを見渡すと、大百足と戦っていた皆は全員無事のようだ。後方で支援をしてくれていた生徒たちも、青峰のおかげで熱線の被害はほとんど受けていなかったようで、お互いの無事を喜び合っている。
玲次と七海は俺たちが無事であることを確認すると、校舎へと駆け込んでいった。
白鳥と御堂は二人を追おうとはせず、真っすぐ校舎を見上げていた。
白鳥が軽くこちらに手を振ったので、俺も手を振り返す。
そして、先に行った玲次と七海の後を追った。
白鳥もおそらく後で来るだろう。
校舎二階は体を鍛えることなどが目的とされた施設となっている。一本の廊下から繋がった各部屋には様々な機材が入っている部屋や、道場のようになっている部屋もある。
その内の一つの部屋、畳張りの道場に、人だかりができている。
生徒たちは集まるこそすれ、部屋の中には足を入れようとはしない。ほとんどの生徒が足を止め、部屋には入らずに遠巻きに見ている。
生徒たちの中に割って入り、部屋の中へと足を踏み入れた。
俺は思わず顔をしかめた。
部屋に充満した生き物の焼ける嫌な臭いが鼻を刺す。梅雨の湿気の多い空気に流され、それは廊下まで溢れ出ている。
部屋の窓際、入り口の正面に、黒い塊がいくつかあった。
神罰が始まる前になかったものがそこにあるということは、この神罰では一つしかないのだ。
黒く焼け焦げた体からは、未だに煙が上がっている。
誰かが気を使ったのか、部屋の窓がいくつか開けられており、そこから流れ込んだ風になびかれているブレザーやシャツが、その塊が生徒であるということを教えてくれる。
既に黄泉川先生や他の養護教諭も到着している。
黄泉川先生たちはこの状況にも動じず、生徒の体に素手で触れて調べていく。
一瞬ちらりと俺に視線が向けられた気がしたが、疑問に思ったときには逸らされていた。
すぐ傍に玲次と七海が立ち、暗い面持ちのまま生徒の遺体を見下ろしている。
数人の生徒の間を通り抜け、俺もそこに近づいた。
生徒の遺体は三つだった。
全身を大百足の熱線に焼かれ、誰だったのかすら判別もできないほど損傷している。
ただ、体に纏うブレザーがズボンであったことから、男子であることだけは予想できる。
また生徒を死なせてしまったことを後悔し、拳を握りしめて立ち尽くす。
亡くなった生徒たちを調べる黄泉川先生の横で、数人の生徒が項垂れていた。
その内の一人は柴崎だった。残りはいつも柴崎といる生徒だ。
そしておそらく……。
それから一分ほど経った頃、黄泉川先生がいつものように亡くなった生徒の名前を事務的に淡々と上げた。
上がった名前を予想通り、いつも柴崎たちと一緒にいる生徒たちだった。
俺がこの美榊高校に転校した当初、柴崎ともに俺に絡んできた生徒でもあった。
素行はよくない生徒ではあったが、別に悪人というわけでもなく、善人というわけでもないという印象を持っていた。
どんな生徒であっても、人が死ぬということは、取り返しがつかない。
遅れて入ってきた養護教諭たちが遺体袋を持って入ってきた。先にいた教諭たちと協力して遺体袋に生徒を入れ始める。
損傷している生徒の体を遺体袋に入れるのは、いつもより時間がかかった。
二十分ほどかかり、全ての遺体が運び出された。
彼らの遺体が横たわっていた場所には、今でも痛ましい跡が残っている。
柴崎たちはその前に膝を突いたまま、起き上がろうとしない。
「三人……か……」
静かな空気を破ったのは、暗い面持ちの玲次だ。
「私たちの責任ね……」
七海は悔しそうに唇を噛んでいる。
俺たちの気の緩みが、大百足の攻撃を許した。
ほとんど俺たちにしか攻撃をしてこなかったため、なりふり構わず校舎まで行くとは考えていなかったのだ。
もっと校舎から引き離して戦うべきだった。もっと機動力を奪うために足を攻撃するべきだった。もっと力をつけて神罰に挑むべきだった。
大百足に熱線という遠距離攻撃の手段があった段階で、戦っていない生徒たちはもっと後方に下げておけばよかったのだ。
上げれば切りがない、俺たちの過ち。
そしてそれは、全ての生徒に言えることではある。
各々が強さを持っていれば、大百足だとしても死者が出ることはなかった。
しかし、それは全ての生徒にも言えることではあるが、やはり責任を感じられずにはいられない。
明らかに落ち込んでいる玲次や七海たちに、近くにいた生徒が励ましの声をかける。
「そう気を落とさなくても……。会長たちはよくやってくれたって」
「う、うん。あんな化け物を本当に倒せるなんて信じられない。私たちが死ななかったのだって、会長たちが頑張ってくれたからだし」
亡くなっている生徒がいる以上、手放しで喜ぶことはできないが、それでも今自分たちが生きていることは喜ぶべきことだと、女子生徒は必死に玲次たちを励まそうとしている。
俺の前ではふざけていることが多い二人だが、生徒会という立場をきちんとこなしているからこそ、こうして高い人望を持つのだ。
だが二人は全ての生徒の命を預かる身。今回の大百足の戦いにしても、自分たちで戦うと決めたのは玲次の判断だし、七海もそれを推した。
必死に慰めてくれる生徒たちのように楽観視はできないのだ。
特に、未だ悲しみに暮れている柴崎たちが近くにいるこの場では。
柴崎は泣きはらした顔を上げ、玲次たちを励ましている女子生徒を睨み付けていた。
戦っていない柴崎は、同じく戦っていない女子生徒たちを責めることができない。かといって戦った玲次たちを責めることもできないのだ。
「だけど、心葉のおかげで助かったな。あいつが大百足を倒してくれなかったら、今頃どうなってたかわからない」
俺も、玲次たちを励ますために、その言葉をかけた。これだけの被害でよかったと。
何気なく漏れた言葉。
俺からしたらなんてことはない、ただ二人を元気付けようとした言葉だった。
だが、この言葉は、許しがたいものだったのだろう。
突然、頬に衝撃が走った。
よろめいて数歩後退し、何が起こったのかわからずに頬を押さえる。
遅れて鈍い痛みが響いてきた。
自分が殴られたのだと気付くのに、三秒ほどかかった。
目の前では柴崎が拳を握った状態で止まっており、涙を浮かべた怒りの形相で俺を睨み付けていた。
「てめぇ……ふざけんなよ……!」
なぜ殴られたのかわからなかった俺に、柴崎は振り絞った声を叩き付ける。
「椎名のおかげで、助かった……だぁ? ふざけんなよ! 俺たちがどうしてこんな目にあっているのか、わかってんのか!?」
柴崎の言っている意味がわからない。
何に怒っているのかも、どうしてこれほど怒っているのかも。
「おい柴崎!」
「止めなさい!」
玲次と七海は瞬時に意味を理解したらしく、なぜか慌てたように制止しようとする。
だが、その制止も聞かずに、柴崎はその先の言葉を言った。
「椎名が……椎名心葉が生きているせいで! 俺たちは戦い続けないといけない! 神罰は終わらず、あいつらは死んでいったんだ!」
何を言われているのか、わからなかった。
心葉が生きているせいで、神罰が終わらない?
柴崎が言ったことが、頭の中で反響する。
頭がまったく着いて行かず、心臓が早鐘のように打ち始める。
頬の痛みなど一瞬で感じなくなり、呼吸が苦しくなった。
「どういう……」
絞り出した声は、自分でもびっくりするほど震えていた。唾を飲み込み、再度言葉を喉の奥から出す。
「どういうことだ……。心葉が生きているせいで、戦わないといけないって。神罰が、終わらないって……」
そんな疑問を浮かべることすら、柴崎には腹立たしいものだったようだ。
顔を歪め、憎しみが見え隠れするほどの怒りの瞳を突き刺してくる。
「何も知らされてねぇ余所者が。ただただ戦うだけの兵士は楽でいいよな。滑稽を通り越して憐れだぜ」
涙を浮かべた目に、柴崎はいつもの嫌な笑みを張り付ける。
柴崎は鼻を鳴らした後、玲次と七海に目を向ける。
二人はもうどうしていいかわからないようで、瞳を揺らし、口から飛び出そうとしている声を必死に押さえているようだった。
周囲にいる他の生徒も、柴崎が口にしたことに何を言っていいのかわからないようだった。
柴崎はもう一度皮肉がこもった笑みを浮かべると、ゆっくりと俺に視線を戻した。
「お前も知っているだろうが、美榊高校では一年に一人だけ、紋章が与えられる生徒がいる。その年一番神力を保持している生徒に与えられるもので、紋章を与えられた生徒は、校内にはいなければいけないが神罰の参加はしなくてもいいということになっている。だが、紋章の本当の意味はこんなどうでもいいことじゃない」
神罰に参加しなくていいことをどうでもいいと言い切った柴崎の言葉に、背筋に寒くなった。
「紋章は、神が与えたたった一つの神罰を終わらせる方法だ」
神罰を終わらせる。
柴崎は確かにそう言った。
紋章で、神罰を終わらせることができると。
だが、柴崎が説明を続けていくたびに、俺の体の中には言いようのない黒いものが溜り始めていた。
「そんな方法があるなんて聞いていないって顔だな。大方、神罰は終わらないものだと聞かされていたんだろう」
玲次と七海が顔をしかめる。
その通りだ。二人からは、神罰を終わらせる方法があるなんて聞いていない。俺たちにできることは、神罰を戦い抜き、卒業することだけだと聞いていた。
神罰を終わらせる方法があるなんて、知らない。
「お前、神罰がどうやって始まったかは、さすがに知ってるんだろうな?」
「ああ……」
当然知っている。なんてことは言えなかった。今の俺には、それが本当に正しいのかどうかすらわからない。
神罰は、昔に人が誤って神を攻撃したことから始まった。その翌年から、美榊高校の生徒に降りかかる、妖魔と戦い。その戦いを生き残った者のみが生き残り、この高校を卒業することができる。
それが、俺が知っている神罰だ。
止める方法はない。戦い抜くことだけが、生き残って美榊高校から卒業できる。唯一の方法だったはずだ。
だが――
俺が自信なく気に言ったことに、柴崎は笑みを浮かべて頷いた。
「概ね正しい。でも全て真実じゃない。神罰を止める方法は、ある」
「その方法って……」
もう、これまでのことで、十分過ぎるほど考えられることだった。
柴崎は忌々しそうに舌打ちをし、告げる。
「生贄だ」
柴崎が紡いだその言葉は、胸に突き刺さった。
口が震え、何かを言おうとしてもそれは言葉にならずに空中を彷徨う。
やめろ。
「それは誰でもいいっていうわけじゃない」
頼む。
言葉にならない思いは、浮かんでは弾け消えていく。
「それが誰か、さすがにわかるだろ」
やめてくれ。
柴崎は、苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。
「今年の生贄は、椎名心葉だ」
頭を何かで打たれたような衝撃が襲った。
足が体重を感じられなくなり、倒れそうになる。
柴崎は容赦なく、次の言葉を口にする。
「紋章は、神罰を戦わなくていいものなんかじゃない。神罰で生贄になる生徒の目印なんだよ」
柴崎は一度話し出すと止まらず、次々と残酷な真実を俺に叩き付けてくる。
「紋章所持者が死ねば、もう神罰は起きない。紋章所持者を捧げれば、神罰は起こらず、そのとき生き残っている全員が生きてこの高校を卒業できるんだ」
「で、でも、心葉はどうなるんだ! あいつが生きてこの高校を卒業するには、神罰に参加するかどうかは別として、ただ俺たち他の生徒と同じように、神罰を生き抜けばいいだけだろ!?」
「いいや、それは違う」
俺の甘い考えを切り捨て、柴崎は無情にも言い放つ。
「紋章はただの目印じゃない。紋章に刻め込まれているのは神が施した術だ」
「じゅ……つ……?」
「ああ、誰も理解できない神の術だ。紋章を与えられた者は、紋章を使用することで神罰を終わらせることができる。紋章を使用することで命を絶つことができ、それによって神罰は起きなくなる。それが紋章に組み込まれている術だと言われている。でもお前の言うように、紋章を使わなければいいなんて、簡単な問題じゃない」
柴崎は、俺に最悪のことを告げた。
「紋章は、使用しなかったとしても、卒業式のその日に自動で発動する。所持者の意志に関係なく、だ」
「ま、まさか……」
「そうだ」
柴崎は目を伏せ、少しだけ悲しげに言った。
「――椎名は、どうあっても来年の三月までしか生きることはできない。神罰で戦い抜くとか、死ななければとか関係ない。あいつは、あと十ヶ月ほどしか、生きられないんだ」
胸の中が、空っぽになる。空虚になる。
今まで俺が考えていたものが、がらがらと音を立てて崩れていくようだった。
手足が震え、血管に冷水を流したかのように全身が冷たくなっていく。
定まらない視線を、玲次と七海に向ける。
二人は、何も言わず、俺と目を合わせようともしない。
周囲の生徒も何も言わなかった。
のろのろと動く視線が入り口に向かう。
そこでは、白鳥と御堂が立っていた。
御堂は無表情で目を閉じていた。
白鳥は、俺の目を真っすぐ見据えていた。
そして、短く頷いた。
「知らなかったのは、俺だけか……?」
誰も、何も言わなかった。
「知らなかったの、俺だけかよ!」
溢れ出す感情を撒き散らすように叫びを上げるが、やはり、誰も何も言ってくれない
心の中を埋め尽くしていくのは、赤くどす黒い感情。
純粋な、怒りだった。
「わかっただろう。八城」
柴崎が初めて俺の名前を呼んだ。
「今日この大百足と戦いだってな、無理に戦おうとせず、椎名が一人紋章を使うだけで、誰も死ななかったんだ。それどころか、椎名がもっと早くに決断をしていれば、誰も死なずに――」
柴崎が言い切るより先に、俺は柴崎を殴り飛ばしていた。
吹き飛んだ柴崎は、先ほどの俺のように、なぜ殴られたのかわからないように目を白黒させていた。
「ふざ……けるな……!」
俺は白刀を左手に生み出した。
「おい凪!」
玲次は俺が何をするかと心配して声を上げた。
俺は構わず開いていた窓から飛び出し、生み出した白煙を足場に屋上へ跳び上がった。
すぐ前を、目を見開いた心葉の顔を過ぎていき、俺は屋上の中程の着地した。
神罰が終わってから少し時間が経っているが、心葉はまだ確実に屋上にいることはわかっていた。
心葉と対峙すると、改めてどうしようもない怒りが湧いてきた。
「凪君、どうしたの?」
心葉が、黙ったまま何も言わない俺に声をかけてきた。
口を開こうとしたが、いくら話そうとしても、何を言っていいかわからなかった。
「下が騒がしかったね……」
それは、暗に聞いているのだと、すぐにわかった。
「……今日、三人死んだ」
少しだけ、心葉の体が揺れた。そして、俺に背を向けるように、グラウンドの方に向き直った。
「そっか……」
表情は見えないが、柴崎の話を聞いた今となっては、その表情は容易に想像できる。
「心葉」
呼びかけるが心葉はグラウンドの方を向いたまま、こちらを振り返らない。
「紋章のこと、聞いたよ」
心葉は体をびくつかせて振り返った。
驚きを表情いっぱいに浮かべている。
そして、その目には薄ら涙が浮かんでいた。
今度は心葉が言葉に詰まる番だった。
何を言うおうか必死に探しているように口を動かし、やっとの思いで言ったのは質問だった。
「何を……?」
「……お前が紋章を持っているせいで、来年の三月までしか生きられないってこと。それと、お前が紋章を使えば……自らの命を絶てば、神罰は終わるってこと」
心葉はもう一度目を見開き、口をわなわなと震わせた後で、穏やかに微笑んだ。
「知っちゃったんだ。参っちゃうなもう……凪君には、卒業まで知られる予定じゃなかったんだけどな」
嘘だ、と心の中で思う。
こんなこと、一年もの間隠し通せるはずがない。
俺がこの二ヶ月の間知らなかったことがむしろ問題だ。
知らなくていいと思っていた。
皆が隠していて、俺に知らせないでいようとしていることがどんなことであったとしても、俺はただ神罰で戦って、一人でも犠牲者を増やさないことが、俺のすべきことだと、そう思い込んでいた。
それで、心葉や玲次や七海を、助けられると信じていたのだ。
いや、違う。それはただの願望でしかなかった。
柴崎の『ただの兵士としている存在』という言葉に、俺は胸を抉られたような痛みが走っていた。
まったくもってその通りだ。
そのことに、一番憤りを覚えている。
なんて、不謹慎な、ひどいことを、俺は心葉に言い続けていたのだろう。
今年一年しか生きられない。そんなことを普通誰が信じるか。
この島に来るまでの俺なら、何を馬鹿なと一蹴していたはずだ。
だが、そんなことが言える時期は、とっくに過ぎている。
柴崎が言っていたことは、紛れもない事実なのだ。
心葉の命は、あと十ヶ月。卒業し、美榊高校を旅立つと同時に、終わる。
そんな心葉に、俺は何を言ってきた?
卒業したら、本土を案内する? 卒業したら、本土の大学に行けばいい? 卒業できるかどうかわからないのに、勉強する意味なんてわからない?
どれほど心葉を傷つけてきたのかわからない。
知らなくてもいいと思っていた。
それはただ怠惰であっただけだ。知らなくても関係ないと思っていたからだ。
ただ、戦って神罰を生き抜けば、皆を救えるのだと勝手に信じていた。
無理にでも、聞き出しておくべきだった。
俺がいない間に起きたことだから、別に知らなくてもいいなんて思っていた。
俺は、どれほど糞野郎なんだ。
「心葉、教えてくれ」
俺は、心葉の目を真っすぐ見据える。
後方で慌ただしい足音が聞こえ、屋上の扉が開け放たれる。
現れたのは、玲次と七海だ。
だが、俺は構わず尋ねる。
「紋章所持者が死ねば、紋章を使用すれば神罰は終わるって、本当なのか?」
「うん、そうだよ」
変わらず穏やかな笑みを浮かべて答える心葉。
俺は重ねて質問をしていく。
「お前が来年の三月までしか生きられないってのも、本当か?」
「そうだね。卒業式までね」
「なんで黙ってた?」
「……言っても、どうにかなるものじゃないからね」
心葉は何一つ否定しなかった。
頭が思考することを放棄し、頭を金鎚で叩かれたような頭痛が襲う。
片手で頭を抱え、倒れそうになる体を必死に支える。
「紋章って、一体なんなんだよ……」
心葉は悲しそうに眉を伏せると、ゆっくりと目を閉じた。
「神罰が始まる始業式の一ヶ月ほど前に、三年生に上がる生徒の中で、一人選ばれて、その体のどこかに自然と紋章が現れる。けど、選ぶって言っても、誰かが選ぶわけじゃないよ。選ぶのは人じゃない。きっと、神様なんだろうね。前にも言ったけど、毎年、その学年でもっとも神力を多く持っている人から選ばれる。私、今年の人の中では相当神力の量が多かったみたいだね。お父さんやお母さんからは、あまり目立たないように控えておけとも言われたりしたよ」
心葉の両親。この島にいたときに当然会ったことが、実際会うどころではなかったのだが、二人とも心葉をとても大事にしていたことだけは覚えている。
「でも、私はそういうところで手を抜くなんて器用なことできなかった。それで他の人が紋章に選ばれるって可能性もあるから、ずっと本気で修行して、気が付いたら体に紋章が表れてたんだ」
自分が選ばれないために、他の誰かが選ばれるようにするために修行を拒むというのは、言わば諸刃の剣のようなものだ。
紋章に選ばれなくても、結局神罰には参加することになる。手を抜けば抜くほど、妖魔に敗れて死ぬ可能性が高くなる。
この美榊高校では、強くなろうとすればするほど、死ぬ可能性が高くなり、手を抜けば抜くほど、これまた死ぬ可能性が高くなる。
多くの道が、死に繋がっている。
「今もね、ここから考えてた」
グラウンドを見下ろし、フェンスを握りしめ、心葉は言う。
「私が今ここで紋章を使えば、ここから飛び降りれば、七海ちゃんも玲次君も、クラスの皆も、友達も、凪君も、誰も死なずに済むんだ、ってね」
「そんなことはしなくていい!」
一瞬、それが自分の声かと思った。
それは後ろで、玲次が叫んだものだった。
玲次が、七海が、今まで隠してきた胸の内を吐露する。
「お前はそんなことをしなくても、ただこの一年を過ごしてくれればいいんだ!」
「普通とは程遠いけど、それでも心葉が、この美榊高校で神罰と関わりなく学生生活を送ってくれればいいの! 神罰は私たちがなんとかする。だから、だから紋章を使うとか、自ら命を絶つとか二度と言わないで!」
二人の必死な叫びに、心葉は辛そうに顔を歪める。
俺は、力なく脱力し、空を仰いだ。
燃えるように爛々と輝く太陽が、屋上のコンクリートとともに肌を焼いていくが、気にもならない。
今ならわかる。どうして、この美榊高校の生徒が心葉を避けるのか。
心葉は、紋章所持者は遅かれ早かれ一年で死亡する。そんな人と、積極的に関わり合いを持とうとする生徒は少ないだろう。
心葉が紋章を使えば、命を絶てば神罰は終わる。どちらにしても、なんと声をかけていいかわからないはずだし、自らの命を絶つ決意をしている人間と親しくなれば、必ず後悔することになる。まして、決心を揺らがせてしまったら、そう考えてしまうとは萎縮するだろう。
吉田がどうして心葉を襲ったか。答えは極めて単純だ。紋章所持者が神罰に参加しないことが疎ましたかったからなどではない。心葉を殺してしまえば、その時点でその年の神罰は終わる。吉田を含めたその年全ての生徒が救われるからだ。
だから、美榊高校の生徒は心葉と関わろうとしないし、俺が心葉に接するのを恐れていたのだ。
心葉が誰と関わりを深くし、少しでも長く生きたいと思ってしまえば、紋章は使われず、神罰も一年終わらない。
だから誰しもが、心葉が一人で決断し、紋章を使ってくれることを祈っていたのだろう。
「でも、また三人死んじゃったよ」
心葉はポトリと落とした呟きに、玲次と七海は言葉を詰まらせた。
「紋章が私の体に表れてから、ずっと思ってたんだ。私が死ねば、みんな喜んでくれるんだろうって」
心葉は伏せた目を俺に向けた。
「凪君、覚えているよね。私が始業式の日に、トラックに轢かれそうになったこと」
「ああ……」
「あれね、実はわざと轢かれそうになったんだ。自殺だってわかると皆気にしちゃうと思ったからね。だから事故なら、誰もそれほど悲しまずに、この世界から消えてしまえるって思ったんだ」
玲次と七海は、目を剥いて驚いていた。あのときのことは二人には話していなかった。心葉が陰で命を絶とうとしていたなんて、信じられないのだろう。
「ふざけんなよ……心葉……」
喉から出た声はひどく乾いた、冷たい声だった。
「ふざけるな!」
心葉だけじゃなく、玲次と七海まで驚き、俺を見ていた。
胸の中に渦巻く黒い感情は、真っ赤な怒りとなって沸き上がる。
「何が唯一の救いの道だ。皆が助かる道だ。だったら、お前が助かる道はどこにあるんだ!」
そんなものは、ない。
そのことは俺でも理解している。
心葉が助かる道はない。心葉はどう足掻いても、一年で死ぬ運命を紋章とともに刻み込まれ、残りの命を生きるか、自分の命を投げ出して他の生徒を救うか。
そんな残酷な道だけが、心葉の道だ。
「心葉!」
「は、はい!」
名前を呼ばれた心葉は、体を強張らせながらも返事をする。
ただ不安と驚きに埋め尽くされた揺れる瞳を、俺は一つの決意を浮かべて見つめる。
口にしたらもう戻れない。許されることではないのかもしれない。だけど――
「お前はどうしたい? このまま紋章の、神の罰のために死を受け入れるのか。黙って、残り短い人生を神罰とともに苦しみながら生きるのがお前の願いなのか? それとも――」
許せないからこそ、言う。
「――もっと、もっと生きたくないのか?」
「え……」
心葉は目を見開き、呆けたような声を出す。
きっと、今までこういうことを聞かれたことすらないのだろう。
俺はそんなこと知ったこっちゃない。
「もっと生きていたいかって聞いているんだ。卒業した後も、その先もずっと、俺たちと生きていたくないかって聞いてるんだ!」
心葉はわなわなと口を震わせ、溢れ出そうとする何かを押さえるように唇を噛んだ。
「凪、お前一体何を!」
「いい加減にしな――」
七海の言い切るより先に、俺は天羽々斬から生み出した白い刃で二人の前を一閃する。
踏み出そうとした靴先を掠めるようにコンクリートの屋上に浅い傷が刻み込まれる。 二人は驚いたように口をつぐみ、足は傷より前に踏み止まった。
右手を刀の鞘に触れたまま、後ろの二人を睨み付けた。
「俺は心葉に聞いてるんだよ」
二人がそれ以上何も言わないのを確認すると、もう一度心葉を見つめる。
「やだな凪君……。な、なんでそんなこと聞くの?」
「俺はお前の意志を聞いてるんだ。さっきお前が口にしたのはお前の意志じゃないだろ」
さっき言葉は、優等生らしい模範解答だ。
そこにあったのは、心葉の意志ではなく、紋章を持つ生徒がどうあるべきかだ。
でも心葉に、まだ別に思っていることがあるのは間違いない。
思うだけでは何にもならない。
思いは、言葉にして初めて現実となる。
「私は……」
心葉は迷っている。
それを口にすることが、どういうことかわかっているのだ。
迷い、迷った長い時間の末に、心葉の目から、一滴の涙が流れ出した。
「――死にたくないよ」
一度口にしてしまうと、もう止まらない。
溢れ出す涙とともに、次々と言葉にする。
「そんなの、死にたくないに決まってるよ! 私だって高校を出たらとか、大人になったらとか、色々考えてた。でも、それが全部できないんだよ! 理不尽だよ。もう頭こんがらがっちゃって、わけわからないんだよ!」
玲次と七海は、心葉が吐露したことをただただ驚いて聞いていた。
それは俺も同じだった。心葉がこれほどのことを心に秘めていたのだ。
紋章が体に表れてから始業式までの一ヶ月と、神罰が始まってからの二ヶ月、一体どれほど一人で苦しんできたんだ。
俺の前でいつも何もないように振る舞い、明るく俺が気にしないように自然体でいてくれた。
本当は俺といるのも、心葉の負担になっていたはずだ。それでも心葉は、神罰について教えてくれたり、俺に法術のことを教えてくれたり、ずいぶん世話を焼かせた。
俺は、どれだけ心葉に、皆に守られていたんだ。
心葉は袖で目を拭い、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸った。
「紋章が私に選ばれるまで、死ぬなんてことを考えるのはもっと先のことだと思ってた。神罰でも絶対に生き残ってやろう。死んでなんかやらないと思ってた。紋章に選ばれたときはそのときだって。結局そのときになって、色々考えてるわけなんだけど。今まで何人もの紋章所持者が紋章を使うか、自らの命を絶つかの選択をしてきた。立派に自分で選択して、誰も神罰に巻き込むことなく死を選んできた先輩たちもいる。でも、私は生きたい。最後まで醜くても抗って卒業したい! 死にたいわけなんて、ないよ!」
「それだけわかれば……十分だよ」
そういうことかよ……父さん……。
この島に来たばかりのときに思った言葉を、もう一度、そして、父さんの言葉の真意を理解した。
母さんの墓参りをしたとき、たくさんの墓を見て、嫌な気持ちを感じた。
あれは憤り、怒りだ。
御堂は言った。死ぬのは弱いからだと。
違う。神罰なんてものがあるからだ。
心葉がこんなに苦しむのは、どうしてだ?
これまで感じてきた全てが、父さんが俺をこの島によこした理由に繋がっている。
「決めたよ」
怒りが腹の中で渦巻いている。それは、一つの決意と湧き上がる。
心葉、玲次、七海は俺が何を言い出すのかと疑問に思っているようだ。
この状況で、一体何を決めるのかと。
口に出せばもう戻れない。
言ってしまえば進むしかない。
戻るなんてあり得ない。進めばいい。
きっとこれこそが、父さんが俺を島によこした本当の理由。
――お前は、お前のやりたいようにすればいい。
思い出した父さんの言葉に、自然と口元が緩んでいた。
「俺が、神罰を止める」
そのとき三人の顔に浮かんだものは、一言では形容できない。
不安、焦り、恐怖、困惑、驚き。そんなものを一つのまとめて放り込んだような表情だった。
三人にとっては、それほどあり得ないことを言っているのだろう。
「や、止めろよ凪……」
震える声で、玲次が言う。
「それは神に対する冒涜だ。そんなことできるわけがない。いや、やっちゃいけないことだ。神罰は、五十年以上も続いているんだぞ」
動揺しきった七海も続く。
「私たちは……続けるしかないのよ。たとえ苦しくても、悲しくても、許されるまで耐えるしかないの」
二人が言っていることはこの島で信じ続けられている事実。
だが、俺はそこに疑問を感じていた。
「神への冒涜? 五十年? 許されるまで? そんなことをこの二ヶ月何度も聞いてきたよ。許されるっていつの話だ。何十年も前の人が犯したっていう罪を、一体いつまで背負えばいいんだ」
これまで沸き上がり溜まっていたものが溢れてくる。
「そもそも、これは本当に神が起こした罰なのか?」
俺の言っていることが理解できない。そういう訝しげな目をする二人を振り返る。
「この神罰、俺は二ヶ月しか見てきていない。けど、いくつかおかしな点がある。まず、神罰が始まる日が、毎年始業式っていうところだ。当たり前だけど、始業式の日なんて土日の関係で毎年違う。それなのに毎年神罰は始業式の日に起きている」
過去の資料を見て確認済みだ。過去神罰が始まる日は、例外なく始業式の日からだった。
「それに、土日が休日に設定されているのもおかしな話だ。学校週五日制が教育機関で休日という設定がされたのは精々ここ十年二十年の話だ。なのに神罰は五十年前から続いている。当初は美榊高校も土曜は授業があり神罰があった。それがこの世界の制度が変わると同時に、土曜日が休日に設定されたと同時期に神罰も起きなくなり、やがて美榊高校も他の学校同様土曜日を休日とした。こんな人為的なことが起こり得るか?」
どいつも何も答えない。
こいつらが気になっていないわけがないこと。それを音に、言葉に、刃にして突き立てる。
「神が起こしているという罰なら、そんな作為的で人為的な選択をするとは思えない。人の形に添い過ぎに感じられる」
玲次と七海、それと心葉も呆けいているようだが、構わず続ける。
「それにこの島が行っている神罰の対策。一見危険極まりない行為を、美榊島は幾度となく繰り返している。この対策は失敗もあり、有名なのはこの高校から生徒を取り除いてみたこと。そのときはこの島全体に神罰が起きるという事態にまで発生したが、それ以降の様々な対策では何も起こらず続いている。これもよく考えれば妙だろ。一年、二年の生徒は取り除いたのに、神罰は問題なく続いていていた。神罰を受ける対象がいれば神罰は続くってことだ」
おそらく、生徒を全員排除して、代わりに大人を数十人放り込んでも神罰は起きるんじゃないかと思う。重要なのは、神罰を受ける人がいる状態なんだ。
「それと、神降ろしもだ。神降ろしは元々禁術に指定されていて、その上神まで呼び出したりもできる代物だ。こんなものまで使って神罰に抗っているのに、別にそれを咎められることなく神罰は続いている」
「それは、神様が……」
七海は反論しようとするが、うまく言葉が出てこないようだった。
その理由は、なんとなくわかっている。
「極めつけは、心葉が所持しているという紋章だ」
気にせず続ける。
「紋章を使用するか、あるいは紋章所持者が死ぬかすると神罰は止まると言う。神罰を終わらせる唯一の方法だと。そもそもなんでそんなものがあるんだ。罰ということなら、紋章所持者が確実な死を、他の生徒は妖魔との戦いで罰を受けているだろう。どちらもが存在する理由がわからない」
俺からすれば、おかしなことだらけだ。
この島で起きている神罰は、皆が思っているような、本当の神様が罰を貸しているわけではないと思う。何かの意図があって、誰かが仕組んだものじゃないかと思っている。
そしておそらく父さんは、こうなることを理解していたんじゃないかと思う。
その上で、俺には神罰のことを話さなかった。その理由は、父さんも言っていたが、先入観を持たせないためだったんだ。
今俺が並べた推論は、長い時間を島外で過ごし、何も知らない一から始まって調べたからこそ辿り着いた結論だと思っている。
この島でずっと生きてきた人間には、俺が今並べた推論など思いつきもしないのだ。
それはそこに先入観があるからだ。昔からこうあるべき、こういうものだからと、疑問に持つことがないのだ。
桃太郎の昔話で桃太郎が退治する鬼がどこからきてなんで悪さをしているか、鶴の恩返しに出てくる鶴がなぜ人に化ける力を持っていたかなんて、そういう話だからと思い込んでいたら疑問にも思わない。
この島の人は神罰を、そういうものだからと、受け入れてしまっているんだ。
父さんは俺に先入観を一つたりとも与えず、おそらく父さんの予想通りにこの島の問題に辿り着いた。
俺の性格を理解していれば、神罰がどういうもの知ったときにどのような行動に出るかはわかっていたはずだ。
父さんはそれを承知で俺を島によこした。
つまり、そういうことなんだろう。
俺はもう一度、心葉を振り返る。
涙の乾ききっていない頬が、太陽の光を受けて光っている。
表情は未だ困惑しているようだ。
「もう一度言うぜ、心葉」
体を渦巻いていた怒りは、完全に別のものへと姿を変えた。
「俺がなんとかしてやる」
これまで、こんな気持ちになったことはなかった。
「俺が神罰を終わらせる。妖魔だろう神だろうが、俺がまとめてぶっ飛ばしてやる。俺が絶対に、この神罰を止めてやる! そして――」
自然と口がほころび、迷いの欠片もなく、どこかで聞いているかもしれない神様に向かって叫ぶ。
「俺がお前を、助ける!」