探偵部と真夜中の怪物
八月も十日を過ぎたある日のこと。
『明日からおばあちゃんちに行くから』
自宅の自室の自分のベッドの上で新発売の漫画に笑い転げていると、唐突に携帯が鳴り、唐突に城島の美声が空気を震わせ、俺の耳から脳みそにその言葉を伝達してくる。
「え? ……ああそう。いってらっしゃい」
他にどう言えばよかったのか、とりあえずそんな感じに返しておいた。すると、なぜか城島は少し不満げに声のトーンを落として、
『何言ってんの、あんたもいくのよ』
と、のたまってきた。カレンダーに視線をやると、ちょうどお盆のシーズンだ。世間の皆々様はご先祖様の霊を迎えるために、それぞれに帰省していることだろう。城島がおばあちゃんちに行くのもおそらくお盆を迎えるためだ。
ではなぜ、俺が城島に付き合っておばあちゃんちに行かなければならないのか。そのことを尋ねると、城島は当たり前のようにふんと鼻を鳴らした。
『……私も高校生になったし、もうそろそろ奴に勝てるかもしれないのよ』
ってな感じに意味不明な発言。
「いや、答えになってないぞ。どうして俺までおまえに付き合っておまえのばあちゃんちにいかにゃならんのかって訊いてんだ」
『あんたそれでも「探偵部」の部員なわけ? これはれっきとした依頼なのよ。大丈夫、母さんと父さんには話付けといてあげるから』
そんな上から目線で言われても。
『それとも何? あんたなんか用事でもあるわけ』
「いやないけどさ……」
うちのお盆参りは、俺の両親の都合により先週終わっていた。友達からも「男同士寂しく傷の舐め合いしようぜ」と遊びの誘いを幾度か受けていたが、クーラーの効いた部屋の中から出たくないと拒否。だいたいさあ、大した用事もないのに何でこのくそ熱い中外に出たがるのかねえ。全く持って理解できん。いくら『探偵部』の活動だからっておいそれと返事なんかできるかってんだ。俺は行かんぞ。
そんなわけで断りを入れようと電話口に向かって口を開き掛けたその時、
『そんじゃ、明日の十時に出発して十時半にはあんた拾って行くから。よろしく』
言うだけ言うとぶっちん。切られちまった。俺の耳に、ツーツー、という無機質な電子音だけが無慈悲に響き渡る。
俺には拒否する権利もないってか。泣きそうだ。
俺は溜息を吐き、枕に顔を埋めた。それから読みかけの漫画を開き、また爆笑する。
ま、細々としたことは後で考えよう。幸い、明日まで後半日あることだしな。
1
翌日、十時ちょうど。
宣言通り、城島は両親の搭乗しているワンボックスカーに乗って颯爽と登場した。俺はと言うと、すっかり旅支度を整え、車窓から手を振ってくる城島母にへらへらと手を振り返していた。
「やあ、娘から話はよく聞いているよ。『探偵部』のもう一人の部員なんだって? 何でも助手として娘の下で働いてくれているとか」
城島母の奥から、人のよさそうな笑顔とともに城島父が声を掛けてくる。内容が少し引っ掛かったがあまり気に留めないことにして、礼と確認を取る。
「今日はどうもありがとうございます。でも本当にいいんですか、俺が一緒でも?」
「別にいいのよ。人数は多い方が楽しいし」
「ああ、そうだぞ。娘から頼まれなければこんなことはしないが頼まれたからには仕方がないさ死んだらいいのに」
「そうですか、ありが……」
ん? 今何か不穏な単語が聞こえてきたような?
俺が疑問に思っていると、城島母はホホホと上品に口許に手を当てて笑いながら城島父に向かってボディーブローをかましていた。運転席で、城島父が悶絶している。
な、何なんだこの家族。
俺が対応に困っていると、車の奥から城島娘の声が聞こえてきた。
「いいから早く乗りなさいよ。いつまでくっちゃべってる気なの」
城島夫妻のやり取りを苦笑いとともに眺めていた俺は、二人の間を抜けて後部座席に深部下と腰かけている城島の仏頂面を視界に納めた。
どうも、あまり機嫌がよろしくないようだ。
「ああ、わかった」
俺が返答すると、城島はふんとそっぽを向き、足を組んだ。別段色っぽいとは感じない。普段から愛想ないのに、それに加えてあからさまに眉根を寄せている辺りが俺を戦々恐々とさせる。これからいったい何が始まるというのだろう。
「それじゃあ、お邪魔します」
場所もないので後部座席に乗り込むと、城島と城島父の二人から盛大な舌打ちを頂戴した。もう、いったい何なんだよ。
「ごめんなさいねえ。二人ともこんなで」
「いえ……」
城島母が振り返って困り顔で謝罪を口にする。学校でも城島はあまり愛想がいい方ではないのでこれくらい何ともないのだが、それが城島父と合わさってダブルでくるとちょっと心臓に悪い。
「あんまりお友達をイジメちゃだめよ」
城島母が窘めるように城島に注意する。城島は何がそんなに気に入らないのか、そっぽを向いたまま答えようとしない。城島母は気にした素振りも無く、笑顔だった。
この調子じゃ、依頼の話はできそうにないな。
仕方がないので、俺はシートに深く腰掛け、大人しくしていることにした。
車が発進し、徐々にスピードが増して行く。
一時間は走っていただろうか。車窓から見える景色が平野から盆地へと様変わりしていった。山肌を覆う深緑が太陽の光を反射させ、綺麗だと思った。
高速道路を降り、山道を進んで行く。ガタガタと揺れる車内の音に負けじと張り上げた声が俺の鼓膜を震わせた。
「きみは娘とはどういう関係なんだね!」
「はい!」
「娘とはどういう仲なのかと訊いている!」
「そんなの、ただの部長と副部長ですよ!」
変な誤解をしないで欲しい。
「本当かね!」
「本当です!」
「本当に本当かね!」
「本当に本当です!」
くそ、らちがあかねえ。
「本当の本当の本当の本当に!」
「わわわ、前見て前」
城島父が俺を振り返り、問い詰めようとしてくる。それはつまり、前方を見ていない状態でハンドルを握っているということであり、そうするとハンドルはあらぬ方向へと切られ――
「あらあら……」
城島母の何とも場違いな声が聞えた。
もう少し慌てろよ、あんたら。
俺は隣でぶすっとしている城島にも念を送った。失敗したようだが。
そして離れろ城島父、暑苦しい。
かくして、俺達を乗せた白のワンボックスカーは脇道に逸れ、巨木に激突することで速度を失った。俺達四人は車から放り出されたが、そのことで難を逃れることができた。
2
宿泊の用意はしていたが、山道を歩くことになろうとは毛ほども予想していなかったので、俺はげんなりと肩を落とす羽目に陥った。
まさか、余所見運転をされることになるとは。
その余所見運転をした超本人であるところの城島父は現在、車のすぐ近くで城島母によるお説教&関節固めを喰らっていた。痛い目にあわされているはずの城島父がなぜか嬉しそうに見えるのは、きっと俺の気のせいだ。
城島母はお説教が終わると、城島父を伴って俺達のところへ近寄ってきた。
「ごめんなさいねえ、こんなことになっちゃって」
「い、いえ……何というか、こういうもの経験ですから」
適当に言って、笑顔で誤魔化す。どうして俺がこんな役回りを演じなければないけないのかという不満はあったが、そんなことを今ここで口にしても意味がないというのは容易に想像することができる。
問題は、この後どうするかだ。
「幸い、実家はここからそう離れてはいないわ。さっき道に出て、真っ直ぐ進んで行けば付くはずよ」
さいですか。
「それじゃ、とっとと戻りましょう。ほら城島、立てよ」
俺は座り込んでいる城島を絶たせようと腕を掴んだ。そして、城島父の手によってその手が振り払われる。
城島父は俺に一瞥くれると、城島の側にしゃがみこんだ。優しく声を掛けながら、ゆっくりと立ち上がらせる。
「ほら、もう少しだ。がんばれ」
「…………」
ん〜……何なんだろうな、この感じ。
俺が城島父から嫌われてるっぽいってのはまあどうでもいいとして、もともと無愛想ではあったがあんなふうに黙り込んでいる城島なんて初めて見るぞ。何があった?
「それとも、これから何かが起こるんだろうか」
呟くが、答えは出ない。それはまあそのはずで、今の情報量で考えようってこと自体に無理がるんだ。もともと城島の思考や行動原理を理解しようとしても難しいというのはわかり切っていたことなので、あまり深くは考えないでおこう。ただ機嫌が悪いとした方が幾分か楽だ。
そんなわけで、俺達四人は暴走したワンボックスカーがなぎ倒して言ったできそこないの道をひいこらと登り、舗装されて以来整備なんかしていないであろうでこぼこの山道へと出る。城島は自分の足で歩く気がないらしく、俺がおぶっている。そして城島、城島母、俺の荷物を城島父が一身に担っていた。俺の荷物の扱いがずいぶんとぞんざいなのがムッとなるところだが、こんなところで無駄な体力を消耗してもつまらないので我慢する。
車なら十分程度で付くということだったが、歩きだとどのくらい掛かるか分からないのだと言う。携帯も通じないようなので、助けも呼べない。加えてこのあたりは車の通りも少ない、日に一台。二台も通れば多い方なのだそうだ。俺の実家より田舎だな。
ヒッチハイク形式も使えない。しんど。
城島夫妻の後ろ、最後尾を歩いていると、俺の耳元で城島がぼそぼそと何かを呟いた。このくそ熱いのに、余計な熱を俺の体から発生させるな。
「何だって?」
城島の声がよく聞こえず、尋ね返す。すると城島は小声ではあるものの、先ほどよりやや大きな声で言う。
「後数メートルも行かない内に付く。がんばれ」
「自分で歩け!」
俺は思わず城島を放り投げた。まあ当然のように城島は着地に失敗したのだがかすり傷程度出しそんなもん知らん。
そしてはたと気付く。ここはいつもの部室ではなく城島母の実家へ向かう道中なのだと言うことに。
「き、きさま……」
視線を上げると、案の定城島父が鬼のような形相で俺を睨んでいた。ぷるぷると俺の荷物を持つ手が震えている。もともと好かれていなかったのに、そこに更に油と石炭を注ぐがごとく城島を放り投げてしまった。こうなっては、俺が城島父と仲良くなることはまず不可能だろう。城島母の方も驚いたと言うように目を丸く死、口許に手を当てているが、それだけのようだ。
「えっと……」
上手い言い訳を考え付こうと必死に脳細胞をフル回転させるが何も湧いてこない。代わりにと言うように俺のテンパリ具合だげ増して行く。
おろおろしていると、俺の横から思わぬ助け舟が。
「ちょっと痛いじゃない。何すんのよ」
よっこらせっ、と膝に手を付いて立ち上がりながら、城島が呟くように言った。俺を見て、目を細める。
「ちょっと一発殴らせなさい」
「ふざけんな嫌に決まってんだろ!」
助け舟などとんでもなかった。とんだ地雷だ。そして囲まれた。
城島父は俺の荷物をその辺りに放り投げると、ボキボキと指を鳴らしている。
「さて、どうやって死にたいんだ小僧?」
「私を放りだしたこと後悔させてあげるわ」
城島と城島父の両方に視線を走らせる。
くそ、どうする! 逃げ場がないぞ!
「さあ、死ねええええええええええええ!」
「のやろおおおおおおおおおおおおおお!」
二人が一斉に飛び掛かってくる。ここ十数年スポーツはおろかまともに走ることすらしてこなかった俺だ。体育の授業の翌日には筋肉痛になる程度の運動神経しか持たないカモシカ野郎の俺に、城島父娘の双撃をかわせるわけがない。
絶対、絶命だった。
半ば無理矢理に連れて来られてなぜこんな仕打ちを受けなければならないだ。そりゃおぶっている最中にいきなり放り投げたのは悪かったけどさ。
固く目を閉じ、心中で文句を垂れながらその時を待っていた。
しかし、いつまで経ってもその時は訪れない。
「何が……」
恐る恐る目を開けると、そこには……、
「二人とも、悪さが過ぎるわよ?」
ギチギチギチギチ、と擬音が聞こえてきそうなほどきつく、二人の頭部を鷲掴んでいる城島母の姿が。
……すげえ。
俺は心の底からそう思い、見入っていた。城島母が振り返り、
「大丈夫?」
にこにこと笑いながらそう問うてくる。俺は大丈夫であると答えた。
「あの……そろそろ離してあげた方が」
ギチギチギチギチギチギチギチ、と更に強く二人をアイアンクローして行く。もう悲鳴を上げたり手足をジタバタさせたり、見るに堪えない。
そう? と城島母は不思議そうに首を傾げた。え?
「もう少しきつくできるけど?」
「もう十分です! 二人とも反省していると思うんで!」
「ん〜……まあそこまで言うなら」
と城島母は二人を離してくれた。城島と城島父は頭を押さえ、その場に蹲る。
初めてあった時とはイメージが違う。これが、城島母の力か。普段は自分の強さなどおくびにも出さず、必要な時にだけその力を振るう。
かっこいい……、
「って、そんなこと考えている場合じゃねえ」
俺は城島に駆け寄り、肩を貸して立ち上がらせた。次いでに城島父にも肩を貸してやる。
「こんなことしたからって娘との仲を認めるとか思うなよ!」
って手を振り払われたけどなんのこっちゃって感じだったので特に何も言えず、城島父が城島母に殴られているのを黙って見ているしかなかった。
「なあ、城島」
「あによ」
「おまえのとーちゃん何言ってんの?」
「ああ、気にしなくていいわよ。病気みたいなものだから」
正気を取り戻した城島から発せられた冷ややか言葉に、俺は困惑を返してやるくらいしかできなかった。
3
城島母の実家に到着したのは、正午を二時間ほど過ぎて頃だった。昔ながらの木造平屋、かやぶき屋根というのは予想を上回る美しさだなと心底感心してしまうほどだった。
まず最初に、城島母が両親に挨拶をする。よーきたねーと両親ともに城島母を歓迎。その次に城島父がへこへこと頭を下げながら出て行くと、なぜか城島の祖父と一触即発の雰囲気になった。そんな二人を城島と城島母、城島祖母が止めに入った。
「んで、こいつは誰だ?」
城島祖父が俺を指差して問う。まあ当然の成り行きだわな。そして俺を紹介しなければならない立場にある城島が母、祖母を伴ってどこかへ旅立っているので城島父による「娘の友達です」というざっくりとしたプロフィール紹介に補正を加えるべく一歩前へ出る。
「はじめまして、俺は……」
「ふん、お前が誰だろうとどうでもいいわ」
自分から訊いてきたくせに何ということだろう。城島祖父が俺の自己紹介を絶ち切った。それも舌打ち付きだ。
「孫娘の友達ならばワシの敵じゃ。そうじゃろう?」
城島祖父が城島父に同意を求める。さきほどまで喧嘩腰だった城島父が力強く頷いて、
「その通りです。そこだけは意見が合いましたな」
「全くじゃ。友達というだけでも追い出してやりたいくらいなのに、男じゃぞ? ぶっ殺してやりたいわ」
「ええ、ええ。わかりますその気持ち」
わかってんじゃねーよ。
っていうかこの感じ。俺ってもしかして歓迎されてない? そりゃ城島父にはなぜか嫌われているってのは何となく察しが付いていたが、まさか城島祖父にまでとは。城島の友達と言うだけで。
いやいやいや、それはないわあ。
「ていうか何じゃこいつは。明らかに自分は嫌々、無理矢理に連れてこられましたみたいな顔をしとる。本当は孫娘にお呼ばれされて飛び上るほど嬉しいくせにのう。つうか自殺せんかな」
「まったくです。見て下さいあのげんなりした顔。あんな顔してるくせに、腹の中じゃ娘をどうやって連れ出そうか考えているんですよ。娘の腹の中に白いあれをぶちまけようと考えているに違いありません死ねばいいのに」
「…………」
くるんじゃ無かった。
城島母がいないからって好き勝手いいやがって……。
俺は本当にくるのは気が進まなかったし、『探偵部』の活動をするからって言うんで付いてきてやったのにまさかこんな言われ方するとは思わなかったぜ……。
殴っても、いいよね?
「はいはい〜。お待たせしましたよ〜」
俺が怒りにうち震えていると、家の奥の方から、お盆の上に氷の入った冷たそうな麦茶の入った城島祖父が現れた。やった、やっとこの年寄り二人による罵倒地獄から解放されると思った矢先に、城島祖父が人懐っこそうな笑みと皺を顔いっぱいに浮かべて、
「それでおにいさん、うちのとはもうどれくらいヤったんで?」
「は?」
「ひ?」
「ふ?」
『は?』が俺、『ひ?』が城島父、『ふ?』が城島祖父だ。後の二人がどんな表情をしていたかなど、想像するまでもない。俺は目を見開き、城島祖母を見返した。
「えっと……それはどういう……?」
「もう、何言ってんの〜。そんなもんエッ――」
「一回もヤってないよなあ。なあ?」
「……まあ、そうですけど……」
城島父の威圧感に気押されつつそう答えると、城島祖父がなぜか笑っていた。
「マジ〜? 高校生にもなって経験ないの〜? マジ受ける〜」
何だあのジジイぶっ飛ばしてもいい感じのジジイか?
「何であんたが答えんの? ワタシはこのにいさんに訊いてますんですけど〜」
城島祖母が怨みがましくジト目で城島父を睨む。さしもの城島父といえど、城島祖母とは立場的に弱いらしく若干ながらたじろいだ。
「んで、どうなんです?」
「一回もないです!」
俺が正直に、元気よく声を張り上げて答えると、城島祖母はアテが外れたとばかりに溜息を吐いた。
「そろそろひ孫の顔が見れると思ったんですけどねえ」
「まだ早いんじゃないですか、お義母さん。娘には相応しい相手がいますから。こんなのじゃなくて」
こんなのってなんだこんなのって。指差すな。あんたにそんなことを言われる筋合いはねーんだよ。あんたが俺の何を知ってるんだって話だ。
不愉快だ。
「あら、どちらへ?」
「少しその辺りをぶらついてきます」
俺は立ち上がり、三人に背を向けた。
「でも、この辺りは何もありゃしませんよ?」
「いえ、俺みたいな奴はこんな場所でも物珍しいものですから」
「そうですか……」
城島祖母がどこか残念そうに目を伏せた。どうやら、まだ俺と城島のことを訊きたかったらしい。だがしかし、どんなに言葉を尽くそうと彼女の望み通りの解は得られないのだらか、無駄なことだ。こっちも、そんなことに付き合ってやる義理はない。
「それじゃ、行ってきます」
「おう、その辺りでオオカミにでも喰われて死んじまえ!」
城島祖父が農作業でたくましく鍛え上げられた腕を振り上げて、そう叫んでくる。城島祖母が慌てて止めるが、お構いなしだった。ちなみに、城島祖母がいるからだろうか、城島父は大人しくしていた。
ああもう、ほんとに付いてくるんじゃなかった。
4
解放されっぱなしの玄関の戸を潜ると、すぐさま夏の日差しが俺の肌を焼こうとぎらぎらと陽光を振り落としてくる。そのことに辟易しながら、少しでも涼しい木蔭へ入ろうと足を動かす。
幸い、ここは山奥だ。涼むのに適した木蔭を形作る大木などいくらでもある。それが証拠に、俺の目の前にもさっそく一つ現れた。
その巨木の陰に入ると、垂れていた汗が即座に引っ込むかのような清涼感に包まれる。ちょうどよく吹いた風が肌を滑り、涼しい。
「ふー……」
俺はその場に腰を下すと、一息吐いた。そして見る。城島母の実家であるこの山がどんなところなのかを。
全体的に、木々が生い茂っている。外側から見れば深緑に包まれた深い山で、人が住んでいるなどとは到底考えられないような場所だ。実際俺も、聞いていたからよかったようなものの、何も知らずに連れてこられていたなら不安でいっぱいだっただろう。
何となく、心が和む場所だ。適度に人の手が加えられ、自然の荒々しさは無く、居心地がいいと言えるだろう。
あの二人さえいなければ。
俺は城島父と城島祖父の顔を思い出し、胃の辺りにむかむかとしたものを感じて顔をしかめる。
本当は、あの二人が親子なのではないかと思えるほど、城島父と城島祖父はよく似ている。特に城島に関することなんかでは特に。
「……俺が何したってんだよ」
「ははは。その様子だとあんまり歓迎はされなかったみたいだね」
返答があった。
俺はひとり言を呟いたつもりだったのだが、果たしたこれは幻聴だろうか? まあそんなわけないか。
そもそも、幻聴を聞くようなことに心当たりなどない。
頭上、俺のちょうど真上からその声は聞えた。首を折り曲げて見上げると、まるで猫かなにかかと問いたくなるような体勢で女の子が一人、木の枝に寝転んでいた。
「誰だ?」
「おいおい、親戚の集まりに参加している部外者はそっちだぜ? あんたこそ誰だよって話だ」
「あー……それは確かに」
どうあっても、俺が他所者であることには変わりない。いくらむかつくことを言われようが心をえぐられるような罵倒を受けようが、それで立ち場的な優位に立つことはまずないのだから。
だから、ここは俺から名乗った方が賢明……なのか?
「俺の名前は――」
「言わなくてもわかるよ。あいつから聞いた」
そいつは人懐っこい笑みを浮かべて、にっしっし、と笑う。
「あいつって?」
「あんたの相棒だよ。メールとか電話くらいならよくするからね。話は聞いてるよ。あんた、『探偵部』の助手なんだって?」
「……まあな」
「まあここじゃ、携帯なんて使えないよ。わかってると思うけど」
だったら言わなくていい。
「しかし、なんて言うかほんとに何もないな、ここは」
「まあね。一番近くのコンビニまで大体三キロくらい離れているからね。電気やガスも通ってるし、電話もあの家の固定電話くらいなら使えるとは言っても、それでも不便なことに変わりはないよ。ところで一つ質問」
「なんだ?」
「どうしてあんたは付いてきたんだい? さっきも言ったがあんたはただの部外者で他所者だろ? こんなところにくる理由なんてないと思うんだけど?」
ああ、そのことか。別に大した理由なんてない。
「昨日、城島に誘われたんだ。ていうか半ば無理矢理な感じはあったんだけどな」
「ふうん……それで断れずに付いてきちゃった、と?」
「まあだいたいそんな感じ」
おおむね、九割方あっている。
他にも、電話越しの城島の言葉が気になったとか、どうせ暇だしとか、言い訳めいたことならいくらでも思い付く。だがしかし、それらは全て言い訳にしか過ぎず、つまるところ理由になっていない。
とはいえ、誘われて断れなかったから付いてきたっていうのはあまり格好いいとは言えないがな。
「ところで、俺も質問いいか?」
「なんだい? 僕に答えられることならいくらでも」
なんだこいつ? 僕っ娘か?
「お前はそんなところでなにしてんだ? 猿の真似?」
「そんなわけないよ。日向ぼっこ」
「日向ぼっこって……」
この日差しで日向ぼっこはないだろ。いくら木蔭とはいえ、少しマシなったってくらいで暑さはそんなに変わらない。現に俺の肌には小粒の滴が浮いてきた。雨とか降ってないし俺の汗だろう。確信できる。
「まあ、特にやることがないからっていうのが真相だったりするんだよね」
そいつはやれやれといった様子で首を横にする。肩をすくめないのは、体勢ゆえか。どうでもいいけど。
それより、そろそろ首が疲れてきたな。パンツとか見れないしこれ以上この僕っ娘を見上げていても益はないだろう。というわけで俺は首の角度を元に戻した。再び、山の木々の深緑が視界に収まる。
「なあ、気になったんだけど」
「なあに?」
「ここって山奥のわりには蝉の鳴き声とか聞こえないよな。どうしてだ?」
「んん……それはねえ、『怪物』のせいだよ」
「『怪物』?」
「そ。僕もよく知らないんだけどね。なんでもこの山には、真夜中になるとでっかい魔物がうろつくらしいよ?」
「魔物って……」
「ははは。そんなわけないって? まあそうだろうね。僕も信じてるわけじゃないんだよ。おじいが言うには、なんでもこの辺りがまだ小さな村だった頃からの言い伝えらしいし」
おじいっていのうのは、城島祖父のことか?
「村だったって、滅んでしまったりしたのか?」
「おばあが言うにはそうらしい。詳しいことは知らないけどね。興味ないし。形あるものはいつか滅んで行くものさ。それらに対して感傷的になるのは勝手だけど、まあ僕はならないね」
……こういう辺り、城島の従姉妹妹妹っていったとこか。
「さて、僕はもうそろそろ戻ろうかな」
そいつは木の枝の上から飛び降りて、とことこと歩きだす。よく見ると裸足だ。ほんと猿みたい。
「あ、最後に」
俺がそいつを呼び止めると、そいつは肩越しに笑顔で振り返った。
「呼び止められると思ってた」
「は?」
意味深……というか意味不明なことを言って、そいつはくるりと体ごと完璧に振り返る。
「で、なんの用?」
「なんの用ってか……名前なに?」
「あああ、そういえばまだ言ってなかったね」
ぱちこん、とウインクする。なんで?
「僕の名前は、冴川千絵。よろぴくね」
そいつ……冴川は名乗るだけに留め、去って行った。
「もう一つ、聞きたいことあったんだけどなあ……」
なんで裸足なの?
5
城島母の実家に付いて一時間が経過した。この間、城島が電話で言っていた依頼とやらの話を彼女とすることはできなかった。なんとかして、俺がこの度城島夫妻の帰省に同行しなければならなかった理由を知りたいものである。
と、そんな感じに木蔭で涼んでいると、なにやら視界の端に黒っこいモノが映り込んでくる。それは平屋の陰に隠れて出たり引っ込んだりを繰り返しており……、
「なんだ、あいつ」
目を凝らしてよく見てみると、どうやら人型をしているらしいということがわかる。髪から服装から黒い。頭のてっぺんにはふりふりしたカチューシャっぽい物を付けており、服もふりふりしたひらひらが満載だった。ゴスロリ、というやつだろうか。顔にはレースが掛かっていて、そいつの表情を読み取ることは難しかった。
たぶん、格好からして女だろうが、しかしんだってあんな熱そうな格好してるんだ? 城島の従姉妹妹妹ってのはさっきの冴川といい、城島の従姉妹妹妹ってのは可笑しな奴らが多いんだな。
ようやく決心が付いたのか、ゴスロリはおどおどしつつも不安定な足取りでこっちへ向かってくる。あまり歩くのに慣れていない奴の歩き方だった。ほんとに人間か?
「あ、あの!」
俺の前までくると、ゴスロリはなぜか必要以上に声を張り上げた。格好はともかく、性格だけなら似たような奴を知っているから別段慌てもしない。こういう奴は意識して声を出さないと聞き取れないものだと相場が決まっているからな。そういうことに無頓着な奴もいるが、こいつはそういうところをしっかりと認識してくれているようで助かる。
「そ、そそそこ……」
ぷるぷるぷる、と震える指先で俺の尻辺りを指差してくる。中と半端に折り曲げられた指先はちゃんと喰ってんのかと問い正したくなるほど細っこくて、少し心配になる。
「ここ?」
俺が自分の尻辺りをぽんぽんと叩いて示してやると、ゴスロリはうんうんとうなづいた。
「座りたいのか?」
うんうん。
「どうしても?」
うんうん。
「俺のこと好き?」
うんうん……は! ぶるぶるぶる。
最後の奴はさすがに引っ掛からなかったか。引っ掛かりそうになったというだけではまだ駄目だな。具体的になにが駄目なのかはわからないが駄目な部分がるということはわかった。
震える声で、ゴスロリが訴えてくる。
「そこ、わたし、のお気に……だから」
「わかったよ。今退くから」
こっこいせっ、と立ち上がり場所を譲る。するとゴスロリはすぐさまその場所に収まり、手にしていた分厚い外国本を膝の上で広げた。それはもう、ジェット機もあにはからんやという勢いで。
「なに読んでんだ?」
表紙に目をやると、そこにはかの有名な魔法使いの卵の冒険譚を示すタイトルが。
「『バリー・ボッダー』か? 俺も読んだことあるぜ。日本語訳した奴だけど」
あの分厚さに耐えきれず、途中でページを閉じてしまったが。たとえ流行に乗るためとはいえ、慣れないことはするものじゃないと学んだ瞬間だった。
「つうかすげえな。そんな本、源本で読もうとする奴なんていないだろ普通」
「……日本語に直すと、訳するに人よって言葉の意味合いとか変わるから。それに、完全に作者の意図通りに訳せるわけがないって思うし」
お? 返答があった?
失礼ってわかってはいるが、この手の奴って大抵こっちの言うこと無視してきやがるからな。正直答えてくれて助かった。
「そうか? だから源本で読んでんのか。すげえな」
「…………」
あれ? 返事が返ってこない? さっきは反応してくれたのになんでだ?
俺が首を捻るのと、ゴスロリがページをめくる音が聞こえてくるのがほぼ同時だった。そのことで、俺はようやっと理解する。
凄い集中力だ。よくも悪くも、あの城島の従姉妹妹妹ということか。
数秒して、またページがめくられる。早いな。
さて、俺はどうしようかと悩んでいると、どこからともなく名前を呼ばれた気がした。きょろきょろと辺りを見回してみるがそれらしい気配はない。さっきのように木の上に誰かいるのだろうかと枝葉を見上げるが人間どころか猿の影すら見当たらなかった。
気のせい、だろうかと結論付けたところで、もう一度声が聞こえる。
女の声だ。俺の名前を呼んでいる。間違いない。城島ではない声。ということは必然的に俺の知り合いではないということになる。さて誰だろう?
「……行ってみるか」
そうすればわかるだろう。どうせ暇だし。
6
俺の名を呼ぶ人物を探して草木を掻き分けていると、一部広い場所へ出た。その部分だけは木々が切り倒されており、草や花も咲いていない。遊び場としては最適な場所だと言えるだろう。もしくは、それを意図してつくられた場所か。
そんなことはどうでもいい。俺には関係のないことだった。
問題、ではないな。なんと言えばいいだろう。まあなんでもいいか。とにかく、俺の視線は広場を一周して目の前の人物に注がれる。
目の前の人物。薄手のシャツに履き古されたような短パン姿の女性。
「お、きみが姪の婿どのだね」
さてなんのことやら。
女性はなにがそんなに可笑しいのか、からからと笑い声を上げた。口ぶりからして、この人は城島の叔母さんに当たる人なのだろう。えらく若く見える。
「えっと……あなたは?」
「おっといけねえ。私としたことがうっかり挨拶しそびれちまった」
女性は鼻頭に手をやり、八割方の人々がイメージする江戸っ子のテンプレみたいな動作を取った。女だけどな。
それから、俺に握手を求めるように手を差し出した。
「私の名前は早乙女彬。短い間だが、よろしくな」
「よろしく……お願いします」
早乙女さんの手を取り、こちらも名乗ろうとしたところで手を差し出し、早乙女さんが俺の自己紹介を制してきた。
「お前さんのことは姪っ子から聞いてるよ。なんでも学校の部活動で一緒してるんだってな?」
「ええ……まあ」
ずいぶんとぞんざいな紹介のされ方だ。まあそれで納得してもらえるならいいか。変に詮索されても面倒臭いだけだし。
「早乙女さんこそ、城島の叔母さんにしてはずいぶんと若く見えますけど、おいくつなんですか?」
「おいおいおいおいおいおいおい、女に年なんざ聞くもんじゃねえよ。失礼だぜ殴り飛ばしてやろうか?」
「……遠慮しておきます」
見るからに格闘技とか得意そうだな、早乙女さん。女性レスラーかなにかなのかな?
俺が勝手に想像していると、早乙女さんは馴れ馴れしく俺の肩を組んでくる。その際、彼女の主張し過ぎるくらい主張している胸部が俺の肘に当たって心臓が爆発しそうだった。
「姪っ子とはもうヤッちまったのか?」
「えっと、いや」
こいつもか。
俺は早乙女さんかの腕を振り払い、距離を取る。これはただの勘だが、こいつといるのは何だかヤバイ気がする。根拠とかないけど。
「なんだよつれねーなあ。そんな困ったような顔すんなって。それよりまだヤッてねーのかよつまんねーなあ。お前ら付き合ってんじゃねーの?」
「……付き合ってなんかいませんよ。今日付いてきたのだって部活の活動をするっていうからきたんです。でなかったら俺は今頃クーラーの効いた部屋で漫画でも読みながら爆笑できていたんです」
「そいつはすまなかったなあ、姪が姪わく掛けちまったみてーでよ。なんちって」
「別にいいですけど」
今のはなんだ? 少しニュアンスがおかしかったぞ? ダジャレか? ここは笑うとこなのかどうなの教えて神様!
「まー、付き合ってねーってねんなら別にそれでもいーんだけどな」
「いいのかよ」
「いーんだよ。でまあ、部活って言ってたよな?」
「はい……言いましたけど?」
「『探偵部』か?」
「ええまあ……」
「だったらそうかやっぱりな」
早乙女さんがうんうんと納得したように頷いている。いったいどういうことなのかこれっぽっちも状況を理解できていない俺を置いて、一人得心がいったというように笑う。
「依頼の内容って聞いてっか?」
「いえ……まだ呼び出されただけでなにも聞かされてないです。まあ、いつものことなんで別にいいですけど」
「そうかそうか。お前既に姪の扱いに慣れてんな」
「慣らされたんです。好きにあんな奴の側にいるわけじゃありませんから」
俺は溜息を吐き、肩をすくめた。その様子を見てか、早乙女さんがあははと笑う。
「ってーことはお前さんが姪の言っていた助手くんか。いやなかなかにいい男じゃねーかよ」
……反応に困ること言いやがって。喜んでいいのか起こる場面なのか判断のしようがない。ここで「ありがとうございます」と言えばただのナルシストだし「違うに決まってんだろバ―カ」と言えばお世辞でも折角褒めてくれたのに嫌な奴っぽくなるし。
だいたい、いい男とかそういうの自分じゃわかるわけないしどうすりゃいいんだよこれ。
俺が反応に困っていると、早乙女さんがさっきより密着度三割増しくらいでくっついてきて、
「付き合ってねーんなんら私となんてどうだ? 結構経験あるし、テクニックもそれなりだぜ?」
「いや……でも……」
「そりゃ姪の若さがいーってのはわからなくもねーが、姪とやっていく上ではれんしゅーってひつよーだと思うだよ」
「それってどういう……」
「んもう、わかってるくせにい」
耳元で囁いてくれてくるがなにを言ってるのか全然わかんない。人差し指で俺の胸元ぐりぐりするな。お返しにぐりぐりしてやろうか?
「わ・た・し・で・け・い・け・ん、しとかねーかってこと?」
「ないないないないないないない」
ズザザザザザザッ、と後ずさりする。今度はさきほどの比じゃないくらいの距離の取り方だ。
早乙女さんはぱちり、と片目を閉じ、
「なんだよ、そんなに怯えなくてもいーじゃんか。なにも取って喰おうってわけじゃねーんだからよ」
「取って喰う気だったんですか! なぜそんなことをするんです!」
「いや、あの……落ち付けよ、な?」
取り乱したふうを装っている俺を宥めるためだろう、早乙女さんは苦笑を浮かべつつ手招きする。
「大丈夫だって。ほら、ワタシタチトモダーチ」
「ちげーよあほか!」
あっ……思わず叫んじゃった。
まずいと思って口許に手をやった時にはもう遅い。早乙女さんは俯き、ぷるぷると肩を震わせていた。その震えが、俺のせいでないと自らに言い聞かせる。
「や、早乙女さん落ち着いて」
顔を伏せているため、前髪が邪魔で彼女の表情は伺えない。
「お前さんは、口にしちゃならねーことを言った」
ゆっくりと、しかし確実に早乙女さんは近付いてくる。それに合わせて俺も後ろへ下がっていく。彼女を警戒しつつの後退なので、どうして歩幅が小さくなっていかん。そのせいか、着実に早乙女さんとの距離が縮まっていく。
さきほど取った距離がもう半分まで埋まっていた。
「さて、質問だ。お前さんはどういうふうに死にたい?」
「いやあ……どういうふうにって言われても……」
死にたかねーよ。
ちらり、と後ろを見る。もう広場の端の方まで追いやられていて、逃げるためには森へ飛びこむしかない。しかし、荷物はあのかやぶき屋根の家に置いてきた。加えて山歩きの装備などなにもないただのTシャツ姿で森の中に飛び込むべきじゃない。きっと遭難する。
「でも……」
前を向くと、刻一刻と早乙女さんが下草を踏みしめながら近付いてくる。そのことにかるく恐怖し、また一歩後ずさった。
がさり、と木の葉が揺れる。枝が何本か折れる音がして、森の中に足を踏み入れているのだと気が付く。
「え……」
がくん、と体が沈む。目の前で、怒りを忘れたように目を丸くして駆けてくる早乙女さんの姿があった。がしかし、彼女の姿もやがて視界から消え去ってしまう。
どうやら、木々や草に覆われて気付かなかったが俺の足許は崖になっていたようだ。そうとは知らずに後ろへ下がったもんだから、不意を付かれてバランスを取る暇もなく落ちて行くはめになったのだろう。自業自得、というやつだ。
さて、この崖はどの程度の深さがあるのだろうか。数メートル? それとも数十メートル? どちらにしても、無事ではすまない。足の一本も折れるだろうな。それだけならまだいいが、下手をすれば死んでしまうかもしれない。
「はは」
こいつはいいや。死にたいと言われて即座に死にたくないと答えられなかった。だったら、別に死のうがどうしようがどうでもいいと無意識のうちに思っているのだろう。そうに違いない。でなければ、早乙女さんに問われた時、すぐさま死にたくないと言っていたはずである。そうでないということは、つまり――
さまざまなネガティブな考えが脳裏を過ぎる。体感時間にしておよそ数時間が経過したようだった。実際は一分も掛かっていないだろう。
ごとり、となにか重たい物が落下した音がした。体中に痛みが走り、手足が満足に言うことを聞いてくれない。
……死んじまうのかな、このまま。でもまあ、それならそれでいいか。
率先して死にたいとは思わないが、別に死にたくないとも思わない。結局のところ、どっち付かずな俺にはこういうふうに苦しみながら死ぬのがお似合いだということだ。
ああ、体中がいてえ。すげえいてえよ。苦しいよ。
早くその時が来てくれないかな、と切に願う。こんな苦しみ、いつまでも味わいたいとは思わないから。
はやく、はやく……
7
目を覚ましたのは、固い床の上だった。ぼんやりとした視界の端々が段々と鮮明になっていき、伴って意識も徐々に覚醒していく。
上体をおこして、俺が眠っていた場所を見回した。どうやら、あのかやぶき屋根の家に運ばれてきたわけではないようだ。ここはどこだろうと疑問に思う。
全体的にこじんまりとしている印象だ。城島母の実家のかやぶき屋根の家と似ているが、やはりサイズが小さい。それにところどころに穴がいている。それもごく自然に。後から空けられた物では無く、つくられた当時から既にそこに開いていたのだと推察される。
が、それだけの情報を入手したところで、ここがどこだかわかるはずもない。いったい誰がどういう思想に基づいてつくった小屋なのだろう。不思議だ。
それに、俺に掛けられていたこの藁づくりの掛け布団。夏場の今ならそこまで寒くはないが冬場などには使い勝手が非常に悪い。以上の理由から、ここが夏限定で使われているキャンプ用の小屋ではないかと思う。思ったからなんなのだという話。
と、そんなふうに考えを巡らせていると、不思議な匂いが漂ってきた。すんすん、と鼻を動かす。
青臭く、しかし香ばしい。食欲をそそる匂いだ。山菜の煮込み汁だろうか。
匂いは小屋の入り口を抜け、外から漂ってきていた。風があるようには感じないが、ここが風下らしい。
藁の布団を剥がし、起き出して小屋の外に出る。
「出てきた」
そこには、女が一人木の切り株に腰掛けてぐらぐらとに詰まる鍋を見詰めていた。年の頃は俺と同じかやや幼く見える。頬のそばかすが目立つが、本人あまりその辺りを気にした様子はない。きっと、人と触れ合うことの少ない生活を送っているのだろう。
「……ん、完成」
女は厚手の布を手の平に巻き付け、鍋を抱える。足で器用に砂を掛け、消火した。
鍋を俺の側まで持ってくると、差し出してきた。
「食べて」
「えっと、これは……?」
無表情――しかしそれは無感情ということではない。俺という部外者がいるために本心を吐露できないだけだというのはすぐにわかった。何度も彼女の口許がひくついていたから。
差し出された鍋の中には、たくさんの山菜や薬草が入っていて、見た目にはあまり美味しそうとも、綺麗とも言い難い。
体にはよさそうであるけれども。だけど、食べたいかと訊かれると食べたくないと万人が答えるだろう。
でも……、
「えっと……」
鍋を差し出した姿勢のまま、微動だにしない。ジーッ、と俺の方を見ている。きっとこれを受け取らない限り、ずっとこの調子なのだろう。
なら、仕方がない。ここは彼女の好意だと思って素直に受け取っておこう。
それが一番いい。面倒ごとは極力回避したいし。
「しかし、なにが入ってるんだこれ?」
「……わからない」
「ほえ?」
なに? 今わからないって言ったこの娘?
「名前、わからない。でも食べられるものだけしか入ってない」
「そ、そうなのか?」
「そう」
こくん、と女はうなづいた。俺は首の角度を調節して今一度鍋の中に視線を落とす。名前わかんないのに、よくわかるなあ。
「まあいいや。折角だしいただこう」
毒とか、入ってないよな?
俺はその場に腰を下した。女が木でできたスプーンのようなもの差し出してきたので受け取り、それを使って一口すくい、口に放り込む。
数秒間、咀嚼する。口の中が青臭さでいっぱいになった。思わず吐き出しそうになったが、女が見ている手前そんなことができるわけがなく、なんとかかんとか我慢して飲み込んだ。
咳き込んでしまった。
「おいしい?」
女が訪ねてくる。そりゃまずいと答えたかったがそんな気力もなく、小さく頷くに留めておいた。
「そう……それはよかった。ところで、あなたはそこの沢の近くで倒れていたのだけど、いったいどこからきたの?」
「どこからって……」
山菜スープのせいで言葉につまりながら、俺はさきほど起きたことを説明した。とはいえ、この娘に言ったところでどうしようもない部分もあるので、細部はぼやかした説明になったけど。
「……そう」
女はとくに驚いたり嫌がったり、嬉しがったりすることなく、淡々とした調子で呟いた。そのことに軽く違和感を覚えたが、俺がその疑問を口にするよりはやく、彼女は瀬を向けていた。
「あなたはこのあたりの人間ではない?」
「あ、ああ……そうだけど……」
「だったら、すぐにこの村から出ていって」
「村……?」
そういえばかやぶき屋根の家の側の巨木で会った冴川も同じようなことを言っていたな。
このあたりがまだ小さな村だった頃からの言い伝え――
「それってどういう――」
「……知らないほうがいいってことは世の中にはいくらでもある」
そう言い残すと、女は森の中へと姿を消した。
まだ訊きたいがあったのに。まだ、知りたいことがあったのに。
教えてはもらえなかった。
「あ、見つけた!」
振り返ると、早乙女さんが俺を指差し笑っていた。
さて、俺はどんな表情をしているのだろうか?
8
早乙女さんの先導で、あのかやぶき屋根の家まで戻ってきた。城島父と城島祖父以外からは心配されていたようで、そのことに俺は少なからず笑みを溢していた。
「心配したってのになんだその表情は!」
そう声を荒げたのは、冴川だった。彼女はずかずかと俺に詰め寄ると、
「きみ、僕たちがどれだけ心配したと思ってるのさ?」
「いや、すまない。どうもこのあたりには慣れなくてな」
「だったら出歩いたりせずに家の中にいればいいのに」
「……家の中は居心地悪くて」
ちらり、と城島父と城島祖父のコンビを見やる。俺の視線を追ってか冴川も二人を振り返るが、当の二人組は俺達から目を逸らし、わざとらしく口笛を吹いている。かなり下手い。
「まあ、無事だったからいいではないか」
俺と冴川の間に早乙女さんが割って入ってくる。冴川はぶつぶつと文句を言いつつも、早乙女さんに対してはなにも言えないらしく不満げながらに俺から距離を置く。そのことに、俺は少しだけこの家の力関係というものを垣間見たような気がした。
女系家族、ということか。男より女の方が権力も持ってるし、それ以前に気の強さで敵う奴などこの家には存在しないのだろう。
城島の母方の実家だという話だし、ここにくるまでの城島母の態度を見ていればなんとなく察しは付くというものだ。
「そういえば、城島は?」
城島祖母を始めとして、この場には親戚一同が勢ぞろいしていた。その中に、『探偵部』部長の姿が見えないのだ。
「ああ、美夏ならそのへんぶらぶらしてくるってさ」
「そのへん?」
いったいぜんたいどのへんのことを言っているのかわからず、思わず訊き返してしまう。ついでに三十度くらい首を傾けた。
「さあ? そのへんはそのへんだよ。ま、腹が減ったら勝手に帰ってくるだろうさ」
なんともアバウトかつ適当な心配の仕方だった。信頼の表れか、それとも放任主義という名の育児放棄か。ま、どちらであろうとどうでもいいことではあるがな。
「もしかしたら、またあれ調べてるのかも」
という自信のなさそうなおずおずとした進言をしたのは、昼間に顔を合わせたゴスロリだった。俺含め、全員が彼女を見る。そして、ゴスロリはびくっと肩を震わせた。
ジーッ、と皆の視線が集う。みるみるうちに赤くなっていくゴスロリ。耳まで真っ赤で、ゆでダコのようだ。
そうして数秒がたった頃、誰かが急に笑い出した。
俺の後ろの早乙女さんだ。そこまで笑い転げるほど面白いわけでないのに、腹を抱えて声を張り上げていた。
一しきり笑った後、目尻にうっすらと浮かんだ滴をぬぐいながら、早乙女さんの口が開く。
「なに言ってんだ。あいつはもうそれは止めるって言ってただろう?」
それは、ゴスロリに向けられた言葉でもあるように聞こえるし、あるいは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえる。まあ、そう聞こえるだけなんだが。
ゴスロリは俺がいることで一瞬だけ「ぐ……」と喉を詰まらせたようだったが、それでも言わなければならないと思ったのだろう、構わず続ける。
「彬姉さん、あなたは知らないかもしれないけれど、美夏姉さんはまだあのことを調べているよ」
「……そんなわけないだろ。てきとーなこと言ってっとぶっ飛ばすぞ?」
さっきまでの笑みを引っ込め、声のトーンを落として早乙女さんがゴスロリを睨み付ける。ゴスロリは気押されたように半歩後ずさったが、それでも喰い下がる。
「本当だよ。美夏姉さんはこのあたりが昔村だった頃のことを調べている。調べてどうするつもりなのかは知らないけど、時々わたしに電話してきた。今日はこんなことがわかったって」
「それ、本当なのか?」
真面目な、早乙女さんの声。ゴスロリはこくんと一つ頷いて、
「でね、お盆の今日、正体を暴いてやるって言ってた」
「本気かあいつ!」
早乙女さんは慌てて振り返り、森の中へと身を投じていく。部外者である俺はともかく、その場にいた誰も、早乙女さんを止めることはできなかった。
ただ、早乙女さんの消えた方を見詰めるだけだ。
「なあ、紫音」
という冴川の声に振り返る。冴川は紫音と呼んだゴスロリの肩と肩組み、ひそひそとなにかを話していた。城島父や城島祖父、城島母も三人で固まって会議を開いている。
当然の成り行きとはいえ、俺は完全に浮いていた。唯一、城島祖母が俺の肩を叩く。
「家の中に入っときなさい」
「……はい」
今、俺にできることはなにもない。もしこいつらのためにできることがあるとするなら、それは邪魔にならないよう大人しくしていることだけだ。
仕方ない、と自分自身に言い聞かせる。
9
「あの紫音ってのが言ってたのってどういうことなんですか?」
俺は城島祖母が淹れてくれた緑茶を啜りながら、そう尋ねた。だいたいの察しは付くが、それでも確信に至ることはできていない。ここは、親戚でもありこの家の住人でもある城島祖母に聞くのが一番だろう、とそういう判断からだった。
城島祖母は少し考えるような仕草を見せた後、
「昔、このあたりは一つの小さな村だったんですよ」
ぽつり、とそんなことを話し出す。「話していいんですか?」と訊くと「訊いてきたのはあんたでしょう?」と返された。全くその通りだと返す言葉もない。
「昔、まだこのあたりが小さな村だった頃のことです」
そのことは、昼間に冴川からも聞いた。具体的なことはなに一つ聞けやしなかったが、それでも心の奥底のどこか隅っこにでも引っ掛かっていたのだろう。即座に思い出し、必要はないがそのことを城島祖母に伝えた。城島祖母は一つ頷いて、続きを話し出す。
「以前はこのあたりも、貧しいながらに隣家同時が助け合い、それなりに活気ある村でした。毎日額に汗水流して働いて、昼になると近所の者達がみな集まって和気あいあいとご飯を食べて。特別なことなんかなんにもありはしません。それでも、私達は少しばかりの幸せを感じて、笑顔で毎日を過ごしておりました」
そこで城島祖母は一旦言葉を切り、ずずず、と湯呑みをすすった。はあ、と一息吐いた後「しかし」と続ける。
「ある年、村の農作物は例年にない凶作に陥ってしまったのです。おかげで食べる物に困り、生活も立ち行かなくなりました。そこで、口減らしをすることにしたのです」
「口減らし?」
その不穏なワードに、思わず眉間に皺がよる。俺が不快感を露わにしたからだろうか、それとも当時のことを思い出しているからだろうか、城島祖母の表情も黒々と曇った。
「そうです。村の赤子を山に放り込んだのです。赤子は手が掛かる。そうみなで決めて、生きるためには仕方がないと自らを納得させて。そうして、およそ五人ほど、赤子を山に放りました。赤子どもがどうなったかなど、想像したくもなかったので、それ以来そのことは忘れるよう努めて、話題に出すことすら禁忌とされました」
ぎゅっ、と手の平に力が籠る。ズボンがくしゃりと皺をつくり、そこへ視線を落とすことで勝手に当時の情景を頭の中で創造することにストップをかけた。それでも、赤ん坊の顔まで鮮明に思い浮かべてしまったので目の前がぐらりとした。倒れないよう床に手を付いて体を支える。そうすることで、どうにか意識を保つ。
この話は、少しばかり俺には刺激は強すぎるかもしれない。あるいは、荷が重すぎると言った方がいいだろうか。
それでも、城島だったら平気な顔をして聞いているんだろうな。眉毛一つ、心一つ動かされずに。
おそらくそれは、ただたんにそう見えてるだけなのかもしれない。なんだかんだ言いつつ、城島だってそのあたりの女子高生とはなんら変わらない。並はずれた推理力があるわけじゃないし、化物並の戦闘力だって持ち合わせているわけじゃない。ただ、人助けをしたい。他人を助けたいという想いあるだけだ。俺にはないその心持ちに惹かれて、というのが俺が『探偵部』に入部を決めた理由の一つでもある。それだけではないが。
「それで、その子ども達はどうなったんですか?」
訊くと、首を横に振る答えが返ってきた。城島祖母の行動の意味するところが推し測れずに首を捻っていると、すぐに補足説明があった。
「わかりません。飢餓で果てたか、獣の血肉になったかのどちらかだと思います。どちらにせよ、あの当時の私達は間違っていたと言わなければならないでしょうが」
「……そう、ですね」
否定するのは易しい。自分達が生きていくためには仕方がないことだったのでしょうと慰めの言葉を口にすることで、城島祖母の顔から幾分かの曇りを取り払うことができるだろう。だがしかしそれは、当時犠牲になった赤ん坊達の死は仕方のないことだったのだと言っているのと同じだ。
どんな理由であれ、誰かの死を許容できるほど、俺は人間の死に対して寛容にななれない。たとえ自分達が生きていくためであったとしても、だ。
だが、それはやはり人死にをあまり目のあたりにする機会のすくない学生という身分での意見なのだろうとも思う。生きるか死ぬかの選択を迫られた経験など皆無の俺が、誰かの死を許すとか許さないとか、そういうことを言うべきではない。
ましては、これは俺とは無関係なできごとだ。口出しできる道理はない。
全く、これっぽっちも。
だからこそ、城島祖母や城島祖父。それにまだ村だった頃に住んでいた当時の人々に対し、責めるようなことを言ったり、糾弾したりしてはならない。
無関係だからこそ、そのあたりはよりシビアに。ありのままの事実として受け入れて。
そして、口にこそ出さなかったが、城島祖母の話を聞いている最中に思い出したことがある。昼間の女のことだ。日に焼けた肌に包まれた相貌から覗く、底なし沼のような深淵の闇にも似た憎しみの籠ったあの瞳。着ているものも機能性重視といった感じで、近頃の若いもんと言った印象ではない。
なにより、あれだけ深い山の中だというのに、慣れたものだった。それこそ、十数年間そこに住んでいたかのようだ。
「まさか……」
どんなふうに関係があるのかということを説明することはできない。が、無関係だと断言することもできなでいる。
「どう、しましたか?」
黙り込んでしまった俺を訝しむように、城島祖母が声を掛けてくる。目を向けると、揺れる囲炉裏の火の向こう側で、城島祖母は無表情に俺の顔を見詰めていた。
俺は慌てて両手を振り、笑顔を繕いその場をごまかした。
「なんでもないですよ、なんでも」
「そう、ですか……」
城島祖母はいまいち腑に落ちない様子だったが、それでもそれ以上言及してくることはなく「お茶、もう一杯いかがですか?」と尋ねてきた。俺は「頂きます」と自分の湯呑みを差し出し、奥へと引っ込んでいく城島祖母の背中を見ていた。
たぶん、もし城島がこの場にいたならば、俺が直感的に感じたこの二つに対し、瞬時に理屈をくっつけて実験なり検証なりしようと言い出すのだろう。俺のためでも、親戚のためでも、増してや自分自身のためでもなく、その女のためにそうするのだろう。こちらもまた、経験がないが、それでも想像はできる。
復讐ってのは、たぶん相当に空しいだろうな、と。
「……本当なら、私達には抵抗することすらも許されてはいないのかもしれない」
お茶を淹れて戻ってきた城島祖母がぼそり、と呟いた。段々と尻すぼみになっていったお陰で、最初の「本当なら」くらいしか聞き取れなかったが、それでもなにか意味ありげな、そして重要そうなことをいったんだろうなと推測する。だからなんだ。
受け取ったお茶をずずず、と音を立てて飲み、ふうと息を吐く。
「それにしても、みんな遅いですね」
電話としての機能のほとんどが役に立たなくなっている携帯電話を取り出して、時刻を確認する。もうそろそろ、八時になろうという時間だった。俺が戻ってきたのが七時三十二分くらいだったから、それから既に二十分以上は立っていることになる。それだけ、城島の捜索が難攻しているということなのだろうか。
城島祖母も、湯呑みから顔を離すと困ったような表情で格子形の窓の外に視線を飛ばす。
「そうですねえ。夜の山が危険なことくらい、あの子達ならわかっていると思うんですが。こんなにこんなに暗くなるまで山にいたら遭難してしまいます。それに『怪物』のこともありますし」
「……『怪物』、ですか」
俺は目を伏せ、湯呑みで口許を隠した。お茶を口の中に流し込み、再三潤わせた喉を更に潤す。
「少し気になることがあるんですけど、いいですか?」
「はい、なんでしょう?」
俺が尋ねると、城島祖母は少し怯えを含んだ顔を俺に向けてきた。さっきの話をしたことで、俺がどう思ったか気になるのかもしれない。それは、まあ普通の反応と言っていいだろう。
俺はどうとも思わないが。
「城島……美夏さんはなにを調べているんですか? ゴスロリ、じゃなくてあの紫音が言っていてのはなんのことなんですか?」
この人ならば、心あたりはあるはずだ。
「なぜでしょう?」
「……さあ」
問い返されてしまった。城島祖母が首を傾げてくるので俺も傾げ返す。惚けたような瞳が、殺傷能力皆無の矢となって俺にぶつけられ、射抜くこと無く囲炉裏の中へと落ちていく。
本当に、知らないのだろうか?
確かめる手段はいくつかあるが、一つとして試すことはできなかった。
なぜなら、俺の背後の戸が勢いよく開け放たれたからである。
俺と城島祖母が戸を開けた人物を見やる。
「み、美夏が……」
青ざめた顔をしてそこにいたのは、城島父だった。
10
気を失って倒れていた城島の姿を発見したのは、城島父を始めとして三人。
一人はもちろん城島父。
二人目は城島の叔母である早乙女さん。
三人目は従姉妹のゴスロリ衣装を着た紫音とかいう奴。
城島祖父と冴川も探しに出ていたはずだったが、この二人はこの時全く見当違いの場所を捜索していて、城島発見の瞬間に立ち会うことができなかったらしい。
で、現在の城島はというと、かやぶき屋根の下に仰向けに寝かされていた。時々苦しそうに唸り声を上げるものの、目を覚ます気配はなかった。親戚一同、城島父と城島祖父が一番心配している様子だった。
俺はというと、心配していなかったわけではないが、やはり親戚の輪から外れているという遠慮もあって、表だって城島に声を掛けたり、心配している素振りを見せることはしなかった。
でもまあ、誰一人として文句を言う輩はいなかったから助かったけど。これで「なんで心配そうじゃねーんだよ」とかって責められたら溜まったものじゃない。俺はそそくさとその場を離れ、半月がただよう空の下へと出る。
縁側に腰掛け、溜息のようなものを吐いた。
「……まさかなあ」
城島があんな形で発見されるとは思ってもみなかった。衣服は泥や土で汚れ、体の端々にちょっとした切り傷や擦り傷のようなものは散見されるが、目立った重傷はなく安心した。
笑みを形づくるかのようにつり上げられたような月を見上げて、疑問と納得の中間のような感想を抱く。
あれをやったのは、おそらく人間だろう。熊や狼だったなら、とっくに喰われて胃酸で解かされていたと思うし。
では、いったい誰があんなことをしたのだろうか? という府に落ちない部分に対して眉根を寄せる。そして、答え出ねー、と考えることを放棄し、体を倒す。
情報を見上げると、まだ私服姿の冴川がいた。ジーンズ生地のスカートの中身がもろ見えだったが本人に気にした様子はなく、しかたねーから俺から指摘してやった。
「パンツ、見えてる」
「半ば見せてるんだよ。どうだい? 嬉しいだろう?」
どうなのだろう? 実際のところはあまり嬉しくない。それというのも、パンツというものはただ見れればいいというわけではなく、チラリズムが大事なのだ。突如として吹き付ける強風によって捲り上げられるスカートを必死で抑える女子達。その奮戦空しくちらりと見えてしまった時の素肌とのコントラストがなんとも言えず男心をくすぐるのだ。
従って、今回のこれにはあまり興奮しない。それどころか萎えてくる。しかし、それを言えば高確率で冴川の機嫌は損ねられるだろう。そうすると俺がこの景色を見る機会がなくなるどころか、城島が目を覚ました時に告げ口される恐れもあるためここは下手なことを言わないほうがいいのかもしれない。だが、嘘をついて「いいよー、すごくいい」なんて舌舐めずりしながら言った日には変態エロ男爵の汚名を着せられるかもしれない。うーん……難しい。
「どうしたのさ?」
焦れたように、冴川が言ってくる。面白がってるふうにも見えるのは、俺の気のせいだろうか?
「別に」
とりあえずは憮然と唇を尖らせて、そう返しておく。そうすることで、冴川からのパスが受けやすくなるというものだ。
「……きみって案外照れ屋さんなんだね?」
ほらきた。
「そういうつもりはないんだけどな。そろそろ退いてくれないか?」
「わかったよ。すまなかったね、つまらないものを見せてしまって」
「そんなことはない。十分目の保養になった」
「ほほう」
やべ、なにかまずいこと言ったか?
冴川の目が不自然に細められている。まるで嫌々ながら夏休みの自由研究をしていたら思わぬ発見に化学への興味の扉が開いてしまった少年のような眼差しで俺を見てくる。
「目の保養になったのかい? 僕のパンツにも、それくらいの能力はあったってことかな?」
それとも、と冴川は自分の下唇にぺろりと舌を這わせて、
「僕のパンツなればこそ、かな? まさか誰でもいいとは言わないだろう?」
「………………」
誰でもいい、とは言えない。だがしかし、冴川のパンツだからというのとも違う。男のパンツを見ても興奮しないのと同じように、見ず知らずで全く関心のない他人のパンツと、今日出会ったばかりとはいえそれなりに打ち解けた感じのする冴川のパンツとでは、やはり冴川のパンツに軍配が上がるだろうな。ただしこいつ、自分からパンツを見せて恥かしがりもしないってところは減点対象だが。なん点満点かは不明。
それよりも、
「……城島の具合はどうなんだ?」
パンツ談義を中断して、聞きたかったことを訊いてみる。俺の隣に腰を下しながら、冴川も月を見上げた。
「どうってことないさ。気を失ってはいるが、目立った外傷はないし、命に関わるようなこともない。ただ……」
と、冴川は言い淀んだ。目線を空から自分の爪先あたりに落とし、それに合わせたように表情も暗くなる。
「どうした?」
訊いてみると、数秒から数十秒間黙り込んだ後、なにかを決意したかのように首を縦に振り、肩越しに俺を振り返る。
「なんで美夏があの場所にいたのか、それは気になる……」
「あ、ああ。まあ」
それはそうだ。早乙女さん達が城島を見つけたのは、森の入り口付近だった。しかし、城島の体のあちこちについている傷や服の汚れ具合は、そのあたりでは絶対にできたり付着したりしない、らしい。ということは、城島が気を失った場所は森の入り口付近ではないということなのだろう。
体の方々。とくに手許に多く小さな傷ができている。なにか刺々しいものをそれなりの力で掴んだりしないとできない傷だ。このあたりには樹齢ウン百年はゆうに超える木々がたくさんあるらしく、そのことを加味して考えると、城島が木のぼりの興じていたのではないだろうか、という推測が成り立つわけである。
まあ、有り得ないだろうけど。そう自らの推測を即座に否定できるだけの材料を思いついた。
まず、小学生くらいの子供ならば木のぼり遊びをするのも頷ける。とりわけこのあたりには暇を潰せそうな施設とかないし。
だが、あいにくと城島は小学生じゃない。いや、たとえ小学生だったとしても城島が木のぼりしている場面など想像できないが。
とにかく、なんの理由もなく城島が木にのぼるとは考えづらい。そして、城島が木にのぼらなければならないような理由など思いつかない。よって、今は城島は木のぼりなんてしていないと考えるのが妥当だろう。
「やっぱり『怪物』のせいかなあ……」
呟く冴川の表情は浮かない。が、それは不安とは別種の感情が浮かんでいるようにも見える。
「『怪物』……」
それは、隣に座る冴川が昼間に教えてくれた言葉だ。あの時は本人もあまり本気にしていないようだったが、城島がああいうことになってしまい、少しだけ信憑性が出てきた、というところだろうか。
「ま、あいつは関係ないだろうがな」
午後二時過ぎに、早乙女さんと揉めた際に足許が崖になっていることに気づかす、落下してしまった時に助けてくれた女の健康的に日に焼けた顔を思い出す。唇をきつく引き結び、まるでなにかを恨んでいるかのように目つきを鋭くしていたあの女。名前などは知らないが、まあ悪い奴ではないだろうと勝手に思っている。
ことここに至り、あの女の存在がやけに怪しく思えてくるから不思議だ。あいつが城島が気を失っていることとなに関係があるのではないかと邪推してしまう。いくらんでもあざと過ぎだ。有り得ない。
有り得ないのだが、一度疑いだすとどうしてもあいつを頭の中から追い出すことはできない。本当ならば、証拠とは言わないまでも疑うだけの根拠を持っていなければいけないのだろうが、それすらも俺は持ち合わせてはいない。
ただ、あまりにもタイミングがよ過ぎる、というくらいだ。
「どうしたんだい? そんな恐い顔して」
冴川が不安げに眉を寄せ、俺の顔を覗き込むようにしてくる。言動はともかくとして、顔立ちだけなら恐ろしいくらいに整っている奴なので、一瞬心臓がドキッとしてしまった。全身の筋肉を脈動させて、できうる限りの猛スピードで体を起こして冴川から距離を取る。
「な、なんでもない、なんでも」
俺がわたわたと手を振ると、冴川はむしろ不安の色を濃くした。
「そうかい? 美夏がああいうことになって、彬姉や紫音も相当に落ち込んでいる。美夏のお父さんやおじいちゃんはいわずもがな。自分達が倒れ込みそうなほど真っ青な顔をしていたよ」
「……………………」
落ち込んでいる様子の冴川に、俺はどういう言葉を掛けてやればいいのかわからず、黙ってしまった。冴川も一言も発しなくなったので、俺達の耳に届くのは庭や森の方から聞こてくる虫や動物達の声だけだ。そのことが、俺の中の恐怖と不安をより引き立たせてくる。冴川も俺と同じなのか、はたまた別の要因か、手許が微細に震えていた。視線を少し上へやると、なにかに耐えるように口許もキュッと引き結ばれている。
そのまま、一分は経った。
そろそろこの沈黙具合も耐えきれなくなった俺は、さてどういった感じに声を掛けようかと頭の中を引っ掻き回す。
「えっと……城島の様子でも見てくるよ」
「あ、と……うん」
俺が立ち上がると、冴川はなにか言いたそうにしていたが、なにか口にすることはなく、黙って俺を見送ってくれた。
そのことが、少しだけありがたいと思うのは俺が口下手だからだろう。
特異な一人称や自分からパンツを見せるといった奇っ怪な言動のせいで頭の中が愉快な奴かとも勘違いしていたが、どうやらしっかり空気を読める奴らしい。なぜか、ホッと安堵した。
そうして、縁側と居間を隔てる障子を開けて、中へと入っていく。
閉める時は、なるべく音を立てないよう優しく閉めた。
後ろで、冴川のすすり泣く声が聞えたような気がした。
「……無理だろ」
なんにも言えず、黙ってその場を後にする。
なんにしても、これで一つわかったことがある。
城島がなぜ、今回の帰省に全くの無関係である俺を呼びつけたか、だ。
11
城島が寝かされている部屋へ出向くと、彼女の傍らで城島父が手を握っていた。顔色は蒼白で、今にも倒れてしまいそうなほどしおれている。
城島父は俺が入ってきたことに気づくと、一瞬で絶望に浸り切ったような表情を引っ込め、恨みがましい目で俺を睨みつけてきた。そんな顔をされても、こっちとしては対応に困るのだが。
「どうですか、城島の様子は?」
尋ねると、城島父は俺から目の前で寝かされている愛娘へと視線を落として呟くように口を開く。
「目は覚まさないが、呼吸は安定している。命に関わるようなことを心配する必要はないだろう。ところで……」
城島父は城島から手を離し、再び俺へと目を向けた。
恨みがましい、怨敵を見るような視線を。
「なんです?」
「昨日、娘から電話を貰ったそうだね。今回の帰省に同席して欲しいと」
「ええ、ありました」
「なぜ、ついてきたんだい」
「………………」
即答、することはできなかった。そのことを説明するためには、俺と城島との、そもそもの慣れ染めについてまでさかのぼらなければならなかったから。
城島がいる状態で、軽々しく口外するべきことじゃないだろう。
だから、簡潔な返答に落ち着く。
「……恩人の頼みだったらです。ちょうど、うちは田舎から帰ってきてましたから。他にやることもなかったですし」
だが、こんな事態に巻き込まれるとは思ってもみなかった。いや、最初からどこかで予感はあったのかもしれない。ろくでもないことになる、と。
しかし、そのことにはあえて目を瞑り、今こうしてここにいる。
「恩人? 美夏が?」
城島父が怪訝な表情を浮かべる。知らなかったのか。それはそうか。考えてみれば、あれはあまり他人に話したくなるような出来事じゃないしな。
こいつのことだから、どうぜ両親に迷惑をかけたくなかったとかそういう理由だろう。
すうすう、と寝息を立てている城島に目を落とす。規則的に胸が上下していて、城島父の言うようになにも心配はいらないようだ。
俺がホッと安堵の息を吐くと、城島父が立ち上がり、詰め寄ってきて俺の胸倉を掴んだ。
「恩人の頼みだかなんだか知らないが、お前がきたせいで娘はこうなったんだ。娘から電話があった時、こうなるとなぜわからなかった!」
激昂したように声を荒げる城島父に、俺は呻き声を返すことくらいしかできなかった。ぎりぎりと首元が閉まり、呼吸が難しくなる。
じわじわと意識が薄れていく。が、まだある。いっそさっさと気を失うから殺してくれればいいのにと思うが、城島父にはそれほどまでの意志はないようだった。
ただ、怒りで前後を判別するためのラインが不明瞭になっているようだ。
「予想、できただろう!」
無茶をおっしゃる。城島に電話を貰った時に俺ができることといえば、せいぜい一度だけ本気ではない拒否を示すことくらいだ。三顧の礼というわけではないが、三回くらい頼まれればしぶしぶながら首を縦に振るだろう。そして城島から頼まれれば、それがどんな都合にもとずくものであれ、一回頼まれただけでわかったと言ってしまうのが俺だ。
つまり、どうあっても俺は今回、城島の帰省に付き合っただろう。それだけは断言できる。
「……離してください」
俺は自分の首元から城島父の手を振り払った。げほげほと数回咳き込んで、城島父を睨みつける。
「あなたこそ、どうして俺にそんなふうに言うんですか?」
「どういう、意味だ」
「どういう意味も、昨日城島は電話で俺に言いました。あなた達を説得するって。だったら、あなたから拒否すればよかったじゃないですか」
「……そんなこと、できるわけがないだろう」
ぎゅっと、城島父が握りこぶしをつくる。なぜ、と問わなくてもだいたいの予想はつく。
「娘からの初めての頼みごと、だからですか?」
「――――――」
城島父は握っていたこぶしを解き、驚いたように目を見開いて俺を見つめた。
「なぜ……それを……?」
「おかしいと思ったんですよ。自分達が帰省するのに赤の他人である俺を半ば強引に誘うなんて。でも、俺は城島の頼みだから引き受けた。そうすることで、少しでも城島の恩に報いることができるなら、と」
たぶん、城島の狙いは城島父や城島祖父、それに冴川や早乙女さんの注意を俺に向けること。そうすることで、冴川が言っていた『怪物』について悠々と調べることができると考えたんだ。実際、城島の目論見は成功した。冴川や早乙女さん、それに城島母は俺に興味を示し、城島との関係性をしつこいくらいに訊いてきた。
その結果、城島は『怪物』について調べることができた。
「ここからはたんなる俺の推測ですけど、おそらく城島はこのあたりで騒がれている『怪物』の正体を掴んだんだ。そして、『怪物』に関係するなんらかの形でこうして気を失っている」
「なんらかの、形?」
「それは……俺にもわかりません。『怪物』の正体がなんなのか、全く」
犬……じゃなくて狼のような生き物だろうか。『怪物』なんて言われるくらいだから相当不気味な生き物に違いない。巨大熊? 人語を解する猿とかそんなところか?
最後の奴はありえないとしても、まあ前の三つはありえそうだ。
一瞬、城島祖母から訊いた口減らしの話を思い出したが、赤ん坊が成長して復讐して回っているっていうのは、いくらなんでも出来過ぎだろう。そんなことがあるはずがない。
じゃあ、やっぱり……、
「なんだっていい。とにかく、美夏には近寄らないでくれ。君さえいなければこんなことにはならなかったっていうのは事実なんだから」
そう言うと、城島父は俺から城島へと視線を落とした。その目が、悲しげに伏せられる。
彼の横顔に、俺はなにも言えなかった。
確かに、そのとおりだと思ったから。
主観的に見れば、俺は城島から半強制的に呼び出され連れてこられた。だが、客観的に見ればどうしたって自分の意思でついてきたというより他ない。
そう考えれば、俺がきたから城島が危険な目にあったというのはあながち間違いじゃない。それどころか、俺がついてこなければ城島父達が俺に気を配ることもなく、結果として城島が危険な目に合うこともなかったとさえ言える。
要るするに、俺がいなければ城島はいつものどおり暴言の数々をその小さな口からナイアガラの滝のごとく撒き散らしていたことだろう。そう考えると、少しだけ罪悪感が生まれる。
「……ま、て」
俺がなにを血迷ったのか謝罪の言葉を口にしようとした直前に、城島の唇が動いた。思わずというように、城島父が彼女の手を握った。
「美夏、起きたのか!」
「……は、い。ついさ、っき……ですが」
「そうか、よかったあ……」
城島父は心底安心したというように頭を垂れる。両の目尻からぼろぼろと涙を溢し、城島の手を自らの額に擦り付ける。
まるで、不治の病で病床に伏せっていた恋人でも起き出したかのような喜び具合だった。実際は二時間程度、気を失っていただけなのだが。
城島はうっとうしげにその光景に目を細めていたが、うっすらと口許が綻んでいる。それを見て、俺もよかったと胸を撫で下ろした。
「と、うさん……手を、離し、て……痛い、から」
力強く握り過ぎていたのか、城島は右手に痛みを訴えた。城島父は慌てて手を離し、行き場を失った彼の両手がおろおろと空中をさまよう。
「本当に、よかったあ」
さきほどまでの蒼白さとは一転して、城島父が破顔する。満足げに父親の様子を眺めていた城島の顔が、不意に俺に向けられる。
いつもの、依頼者を前にした城島の顔だ。
「どうした?」
俺が問うと、城島は痛そうに顔を歪めながら、ゆっくりと起き上がる。
「私が気を失っている間、なにか変ったことはあった?」
「いや、特には。お前の従姉妹が変な奴らばっかりとか?」
「そういうのはいい。っていうか変な奴なんて一人もいない」
「そうか?」
疑問に思い、首を傾げる。が、考えても明確な答えなど出るはずもない。
今は、それどころじゃないしな。
「んじゃ、俺が昼間に変わった奴と出会ったってことか?」
「変な奴?」
怪訝そうな声。ただしそれは、城島ではなく城島父のものだった。
俺は城島父の方を見ずに答えた。
「なんか、俺が早乙女さんと一悶着起こした時にさ」
早乙女さん、という部分で城島の片っぽの眉がぴくりと動く。必死に抑えてはいるが、不快そうな雰囲気がその表情から滲み出ている。ありていに言ってもの凄く嫌そうな顔だった。
そのことに気づかない振りをしつつ、続ける。
「早乙女さんと……まあ一悶着あったわけだよ。内容自体は他愛のないものだ。でまあ、俺が早乙女さんにじりじりと詰め寄られて、落ちたんだ」
「……落ちた?」
今度は城島が訝しげだ。というか多少イラついたように俺を睨みつけてくる。どうやら、落ちたっていう単語の解釈が俺とは異なっているようだ。城島父はまともに理解してくれたようだけど。
あえて、そのあたりは指摘しない。触れれば厄介そうだから。
「そう、落ちた。後ろが崖になっているとは気づかなくてな」
「それって、森に入って中間くらいのところにある広場のことかい?」
城島父の探るようなもの言いに、俺は素直にうなずいた。
「そうです。そこで早乙女さんと口論になって、後ろに追いやられて足を踏み外して」
そこから先は、面倒なのでカット。
俺があの女と出会って早乙女さんが迎えにきてくれたところまでを全部話した。すると、城島が難しげに顎に手を当てて唸りだす。
「ふむ……」
「どうした、美夏?」
「なにかわかったことでもあるのか?」
俺と城島父がそれぞれに尋ねる。城島父のおどおどとした言い方と、俺の期待するような言い方、そのどちらもが気に喰わなかったようで、声が少し低くなっていた。
「……確信があるわけじゃないわ。でも……」
「どうしたんだよ、もったいぶらずに教えてくれよ」
俺が懇願すると、城島はやれやれといったように息を吐き、
「これから言うことはただの憶測。なんの根拠もないデタラメだって理解した上で聞いて」
「わかった」
うなづくと、城島にうなづき返された。
「じゃあ行くわよ。結論から言うと、さっき私を気絶させた人間と昼間にアンタが見たっていう人間。コイツらは同一人物よ」
「……ははん」
うすうすは、そうじゃないかと思っていた。だが、それにしたって話が出来過ぎている気がしていた。小説や漫画の世界の話じゃないんだから。
「そしてソイツは、以前にこの一帯がまだ村だった頃に行われた『口減らし』で捨てられた奴、とそう考えれば納得いく部分もあるわ」
まとめれば、城島が言いたいのはこういうことだ。以前にまだ村だった頃に、『口減らし』が行われた。その時に捨てられた赤ん坊が、なんの因果か生き残り、城島や俺の前に現れた、ということらしい。
現実味という観点からすれば、実に胡散臭い話ではあるが、それにしたって死者が亡霊となって化けてでたというよりはいくぶんかマシだろう。
まあ夏でお盆だし、幽霊が出たってのも案外風流かもしれんが。
「で、その口減らし野郎がどうして城島を狙うんだ?」
「それ、本気で訊いてんの?」
ジト目で睨まれてしまった。情けないとばかりに首を振る城島に対し、俺はさらに質問を投げつけてみる。返ってくるかは知らんが。
「わかってるでしょ」
お、返ってきた。それもそうとう面倒そう。
「私がこの家の関係者だからよ」
「……ふむ」
おおむね予想通りの答えだった。そんなありふれた設定を吐露して欲しくて訊いたわけじゃないが、それ以外に理由を述べよと言われても「はあ?」と侮蔑の表情と声色が返ってくるだけなので自重した。
それよりも、気になることが一つ。
「どうして、そいつは城島を見逃したんだろうな」
そう。そこに疑問が不時着する。
別に城島が無事だったことが遺憾なわけでない。むしろ喜ばしい。しかし、だ。
城島はこの家の関係者だった。だから襲われ、気を失うという危険に見舞われた。だったら、そのまま殺してしまいそうなものだがな、そいつは。たとえ殺しはしなくとも、それなりの恐怖を刻みつけるとか、そういうことくらいしても不思議ではないんだがなあ。なんでやんなかったんだろ。
「なにを言ってる――」
「確かに、それは不思議に思うわ」
城島父の憤慨を遮り、城島がむうと眉を寄せる。ただでさえ中央に寄っていた皺がさらに濃くなったように思う。
「それでお前、どうすんだよ」
「決まってるわよ」
「だよな……」
こいつのやりそうなことなんてだいたい想像つく。だてに、『探偵部』の助手兼副部長をしてるわけじゃないぜ。
誰かが困っているなら手を差し伸べる。道に迷っている他人がいれば迷わず道案内をかって出る。そういう奴なんだ、こいつは。
だから、城島が言いそうなことなんて簡単に予想できる。
おそらく、こいつはこう言うのだろう。
「助けるわよ、その人を。復讐なんてさせない」
推理と呼ぶには少し頼りない憶測に基づき、幸せとは呼べない道程に立つ誰かを幸福へと導くための道しるべになりたい。いつか部室で、城島がそう語っていたのを思い出す。
「ま、いいけどな」
俺は肩をすくめ、軽く息を吐いた。どう足掻いたところで、城島が考えを捻じ曲げるとは思えない。そして俺は城島の考えに真っ向から対立するつもりなんてこれっぽっちも持ち合わせてはいない。
だったら、ついて行くしかないだろう。たとえ、誰に感謝されずとも。
俺が善行を働いたというのを知ってるのは城島くらいなものだ。そして、俺も城島が成そうとしていることのだいたいを理解しているつもりだ。
なら、それでいいじゃないか。なんの問題がある?
では、始めよう。誰かを幸せにするために誰も笑うことのない喜劇を。
きっと、その先に明るい未来があると信じて。
12
暗い。真っ暗だった。
空を見上げると、瞬く星々が執拗に誰かを嘲笑っているかのようだ。
誰、とは言わない。いったい誰なのか、わからないから。
それは、例えば他人の幸せを望み、行動するあいつを愚かだと笑っているのかもしれないし、娘に異常なまでの愛情を傾ける父祖父を滑稽だと嘲笑しているのかもしれない。
あるいは、自分ではなにも決められない、哀れ極まりない男を指差してい腹を抱えている光なのでは、と。
そんなふうに夜空を見上げながら一人 よくわからない妄想を展開していると、背後から草木を掻き分ける音が聞こえてきた。
振り返る。
早乙女さんだった。
「よ」
軽く挨拶でもするように片手を挙げて、早乙女さんががさががさと草木を掻き分けつつ、俺の許へと近寄ってくる。
「なにしてんだ、お前?」
「それはこっちの台詞ですよ。早乙女さんこそこんなところでなにを?」
「別に大したことはないんだがな。少し調べ物を」
「調べ物?」
「調べ物っつーか人探しだな」
「人探し……ですか」
少々なりと歯切れが悪くなったが仕方ない。こっちのことに関してははぐらかすことに成功したのだから、それでよしとしよう。
早乙女さんは誰かを探すようにきょろきょろとあたりを見回すポーズをとる。しかし、四方を木々と草と土で覆われたこの空間で見出せるものなど、どこまでも続く闇か満点の星空、それと俺の淡麗な容姿(大嘘)くらいなものである。まさか俺を探しにきたわけでもないだろうから、たぶんあいつを求めてきたのだろうと推測できる。
あいつ……昼間に俺を助けてくれた女。名前はわからない。わからなくとも、問題はない。
「ふむ……その様子だと全部、とは言わないまでも、だいたいのところは把握しているみたいだな」
途中から黙りこくった俺の態度からどう抽出したのか、早乙女さんがそう呟いてうなずいた。そのことに、俺は少し気が滅入る。
この人は、あまり敵に回したくないなあ。
なんのどういった敵なのか明確にしないまま、ぼんやりとそんなことを思う。
「それで、美夏はどこだ? あいつも近くにいるはずだろう?」
「いえ、城島は今別の場所を捜索中です。先に見つけた方が、説得をする手はずになってますから」
「なるほど」
早乙女さんが、今までも十分に朗らかだったが笑みを形づくる。鮮明な説明など一切していないのに、なんでもわかってるふうにうなずけるのは正直すげーと思った。
実際、なんでもわかっているのかもしれない。ありえないか。
と、そこでぽんと早乙女さんが手を打った。
「ちょうどいい。君のその捜索活動のついでに、私の人探しも手伝ってくれないか?」
「嫌です。こっちで手いっぱいですから」
「大丈夫だって。たぶん君と私が探している人物は同一人物だから」
自信たっぷりに言い切る早乙女さん。たぶんじゃなくて同一人物じゃないのか?
俺は流し目に早乙女さんを見て、それから森の中へと転じる。
俺達以外に人影はない。視界の端で、早乙女さんも件の探し人を求めてきょろきょろしているのが確認できるが、他に動くものなど確認できず、溜息が漏れた。
駄目、だろうか。
このあたりにはいないのかもしれない。城島の方に行ってるのだとしたら、もしかしたらまた襲われる可能性もある。前回は気絶させる程度で済んでいたが、今回は本当に殺されるかもしれない。
城島はかやぶき屋根の家を挟んで反対側にいる。
そっちへ行ってみるか。
そう思い、踵を返した。俺が歩いてきたのと、早乙女さんのお陰で草が倒され、道が出来上がっていたのでそれに従って行けばあのかやぶき屋根の家まで辿りつけるだろう。
右足を踏み出す。がさり、と草同志が擦れ合う音が聞こえてきた。それを聞きつけて、早乙女さんの不思議そうな声が聞こえてきた。
「どこ行くんだよ?」
「城島のところです。こっちには出てこないみたいですから、もしかしたらあっちかもと思いまして」
「そうかあ? 私はこっちに出ると思うけどなあ」
もはや主語は不要。お互いがなにについて言ってるのかわかっている。
それにしても、早乙女さんのあの表情。半眼をつくり、眉根を寄せていかにも怪訝そうな顔。どう好意的に見ても、俺の意見を正しいとは思っていないだろう。
それはそうか。
俺は勝手に納得して、二度顎を引いた。そうすると、早乙女さんの眉間の皺がさらに深くなる。
「それじゃ、早乙女さんはこっちにいればいいんじゃないですか」
「そういうなよ。つまんないだろ、一人じゃ」
ガシッ、と早乙女さんが俺の肩を掴んでくる。そのまま引き寄せて、組む。そうすると彼女の必要以上に主張しまくりな胸部が俺の脇あたりに当たって、一高校生としては平常心でいることが難しくなる。できれば離れて。
彼女の腕を振り解こうにも、明らかに俺の腕力より強い力で締め付けてくるので、彼女の腕を払うことはできない。つーか痛い。
ぎりぎりぎり、と骨の軋む音が聞こえてくるんじゃないだろうかと心配になるほど強く、比例するように首元の痛みも強くなる。そうして俺を動けなくしておいて、早乙女さんが俺の耳元に息を吹きかけるように呟いた。
「美夏なら大丈夫だって。あっちにはなんの危険もない。お前の心配はまあわからなくはないがそれは必要のないことだぞ?」
「……どうして、あなたにそんなことがわかるんですか?」
「ふふん。どうしてでしょう」
ぎりぎりぎり、痛い痛い痛い。
ギブアップという意味合いを込めて、早乙女さんの見た目には細いが鍛え抜かれた腕を二度叩く。が、離してはもらえなかった。もはや早乙女さんの胸を楽しむ余裕もない。
「あの……そろそろ離してください」
苦しい、痛い。息が……っていうか骨が……、
「なんだよ、私の胸はお気に召さなかったと言うのか?」
全く見当違いに憤慨してくる早乙女さん。これだけ実力差があれば逃げられないだろうが、それでも俺を拘束することに意味などあるのだろうか?
なんでもいい。これから現れるらしいあの女より、目下今の状況の打開が最優先だ。
間違ってはいけないのが、当たり前だが早乙女さんに俺を殺す意志も動機もないということだ。昨日今日会ったばかりの人間を殺そうとするなど、とんだ酔狂である。これは、言うなれば巨大なヒグマが人間にじゃれついてくるようなものだろう。十分死ねる。
何度も何度も早乙女さんの腕を叩く内に、俺の腕にも力が籠らなくなってきた。それどころか、体の端々の感覚が曖昧になってきて、動かしずらくなってくる。
死ぬのか? そう思った矢先、俺の首元に巻きつけられた腕が解けた。その場に膝を折り、地面に手の平をついて何度も咳き込む。
な、なにが……。
疑問よりも助かったという思いが強かったが、とりあえず顔を挙げて起こったことを確認する。が、俺の角度からは早乙女さんしか見えなかった。
いつになく、真面目そうな表情。唇はきつく真一文字に結び、俺ではないどこかを見ている。
力が入りずらくてがくがくと震える膝に手をつき、なんとか立ち上がる。早乙女さんが見ていた方に視線をやり、思わず目を剥いた。
そこに、あの女がいたから――
「あ……が……」
声をしぼり出そうとして、出なかった。漏れるのは内側だけが腐って空銅になった木に風がが入り込んで空気が漏れ出るような音だった。自分でもなに言ってんのかさっぱりだがそのくらいの衝撃度だったことを察してくれ。
驚いたのは、別に早乙女さんの言っていたことが当たっていたからではない。それもあるにはあるが、そのこと以上にあの女がこんなところにいるのが不思議だったのだ。
程よく健康的に焼けた肌。あらゆるものを吸い込んでしまいそうなほど透明感のある黒い瞳。体の四肢は適度な運動を行っているのか、程よく引き締まっていて、体の凹凸が少なめだった。
なにより目を引いたのは、彼女の格好だった。
黒い、なんだろう……なにかよくわからないが布ではないなにかを身に纏っている。それがその女を夜の闇に溶け込んでいるようだ。もし先に早乙女さんが見つけていなければ、見落としていただろう。
早乙女さんが、通せんぼするように彼女の前に立つ。
「よお。どこ行くんだよ?」
「…………退け」
「つれねーなあ。そんなこと言わずに教えてくれよ? な?」
「貴様に語って聞かせることなどない。退け」
ギンッ、とその女は早乙女さんを睨みつけたようだった。暗くてよくわからないが、そんな雰囲気だ。殺気立っている、とでも言うのか。
対する早乙女さんからは、余裕にも似た高尚な笑い声が聞こえてくる。
「まあそんなに恐い顔すんなって。私がお前の前に立ち塞がった時点で、お前さんの負けは確定しているんだ。どんな理由があるにしろここは通れねーんだから、そんな焦ったって意味ないだろう?」
「――誰が!」
バッと、黒いものの裾っぽい部分をはためかせ、女が早乙女さんに向かって飛んで行く。俺など、眼中にないようで、ちらと見もしない。
そのあたりは別にどうでもいい。俺に戦闘能力を期待されても困るのだから、飛び掛かられたのが俺じゃないだけマシというものだ。
早乙女さんを見ると、なぜか口許を三日月形に曲げていて、おかしそうにしていた。なんだこの人、喧嘩とか好きなタイプか?
そんなことより、
「早乙女さん!」
体を動かすことは得意じゃない。だが、人間一人を突き飛ばすくらいのことはできる。
俺は重い両足を動かして、全体重を乗せて早乙女さんにタックルを決めてやった。草の中に転がった後、早乙女さんが驚いたり怒ったり品がら身を起こす。
「なにしてんだお前!」
「いえ、あのままだとなんだかとっても悲惨なことになりそうな気がしたので」
あんたの目的がなんなのかはわからないが、こっちの目的はあの女を説得し、誰一人として死傷者を出さずに返ってもらうことだ。このまま殴り合いの鍔迫り合いなんてしてもらうわけにはいかない。
一瞬だけ、足音と草の擦れ合う音が止まった。さっきの女がこちらの様子を窺っているのかもしれない。ごくりと唾を飲み込む。
早乙女さんを下敷きにして待つこと五分。再び足音とかが聞こえてきて、それが遠ざかっていく。完全に聞こえなくなってから立ち上がると、近くには誰もいないようだった。確信はできないが、クマやサルもいないようだ。
やや荒くなっている呼吸を整えると、俺は早乙女さんに押し退けられるようにして彼女の隣に転がった。早乙女さんが立ち上がり、続いて俺が立ち上がる。
「……いない」
どうすればそれほど自身満々に断言できるのか謎だが、早乙女さんがあたりを見回して舌打ちを漏らした。
「さて、そんじゃ行きましょう」
「ああ」
早乙女さんがうなづく。色々と言いたいことはあるだろうが、そんなアレコレは今は土の下にでも埋めておいて、後で掘り返そうとか考えているのだろう。
俺と早乙女さんが全く同じ方角へ向けて走り出す。鈍重に回る俺の脚力に付き合ってくれているのか、早乙女さんの歩みも襲い。つーか俺の走る速度と早乙女さんの歩く速度がほぼ一緒って。
なんてことに絶望しながら、俺達は女が向かったであろう場所へ向かう。
お互いにわかっていることわからないことはたくさんあるが、一つ、あいつの向かう場所だけは共通しているようだ。
急いで、かやぶき屋根の家へ。
13
悲鳴が聞こえた。あのゴスロリファッションの紫音とかいう奴の声だ。それほど遠くはない。むしろ近い。
声に即座に反応して、早乙女さんが息を整えるのもそこそこに駆け出す。一泊遅れて、俺も彼女に続いた。
かやぶき屋根の家の裏手に回ると、紫音がぐちゃりと倒れていた。脈を見ていた早乙女さんのホッとした様子から、彼女がまだ生きているのだとわかる。
出血はない。なにをどうやったのか不明だが、手際よく眠らされているようだ。悲鳴を聞いてからここに到着するまでの時間を考えると、そう時間はたっていない。たぶん、一分と掛かっていないだろう。
ということは、まだそのあたりに身を隠しているかもしれない。
俺が振り返るのと、俺の体が横合いに飛ぶのがほぼ同時だった。なにが起きたのかわからないまま、二転三転と地面を転がる。
体の節々にちょっとした痛みはあるのものの、重傷は負ってい。顔を上げれば突き飛ばした犯人は早乙女さんであることがわかる。
「さっきのお返しだ」
少しばかりおどけたような口調で、しかし目線はしっかりと緊張を含んで前へ向けられている。早乙女さんの視線の先を追っていくと、さっきの女がいた。
手には、小振りの石のようなものが握られている。真夜中であってもぎらぎらと輝きを放つそれは色合い的に黒寄りの紫に近く、加工の仕方がぞんざいというか原始的だった。
割れば鋭利に砕けるあの石……なんといっただろうか。とにかく、見た目感じナイフと受け取ることもできなくはなさそうなその石を振りかざして、女が俺の方に掛けてくる。さっきの一戦で早乙女さんの実力は理解できたらしく、まずは全く戦闘向きではない俺を潰してしまおうという腹づもりらしい。
俺はとっさに動くことが出来ず、せめてもの抵抗として目を瞑る。なにに対しての抵抗かと問われれば迫りくる死の恐怖に対しての、と言わざるをえない。
どすっ、と柔らかいもの同志がぶつかる音が聞こえてきた。おそるおそる目を開けると、早乙女さんの頼もしい後ろ姿。そして彼女の約三メートル先でぶっ倒れている女の姿。
「なにが」
あったんですか、と訊こうとして聞けなかった。
理由は次の通り。
「なんだお前」
立ち上がり、ふらふらと体を左右に揺さぶりながら早乙女さんを睨みつけている女。彼女の眼光に真っ向から受けて立つ早乙女さんが少々ドスの含んだ声音で言う。
「この子は関係ないからね。うちとは全く」
「そんなことはわかっている。そしてお前も関係ないだろう」
「そんなことないよ。私は関係ある」
「そうか。だが私が狙っているのは貴様の命ではない。この家に住む、木賀直正と楠代だ」
「おじいちゃんとおばあちゃんになんのご用?」
「命を頂きにきた」
「恨みを晴らしにきたの間違いでしょ?」
「どちらであろうと差異はないに等しい」
「でもある。ちょっぴりとね」
「………………」
言い合いが唐突に途切れる。女はどこか苛立ったように犬歯を露出させ、ぎりぎりと音を鳴らしていた。今の早乙女さんの言葉のどこに苛立つ部分があっただろうかと眼球だけをぐりんと動かしす
「早乙女さん、大丈夫なんですか?」
「でーじょーぶでーじょーぶ。私に任せなさい」
どんと胸を叩くことなく安請け合い気味に軽い調子で言ってくる早乙女さんに、俺は少しだけ不安を感じる。それどころかここを突破されて木賀直正さんと楠代さんとやらの許へ行かれるかもしれない。ていうか誰だ?
二人の言動から察するに、既存キャラっぽい人達だが名前からでは誰のことか全くわからん。名前の知れてない人物なんて俺が今日会っただけでも四人はいるからな。城島父に城島母。それから城島祖父と城島祖母。彼らの内の誰かだ。
「だいたいの目星くらいはついているんじゃねーのか?」
「確信が持てないので口にしたくないんです」
「なんだそれは。美夏の真似? それ、あいつの口癖なんだけど」
「そうなんですか? それは知りませんでした。っていうか読心術?」
「んにゃ。いくら私が天地神明を極めた超絶スーパーウルトラダイナミックエクストラフレーバーガールだとしても、他人の心を読む術までは身につけちゃいないよ」
なんだそれ。途中からなんだかいい匂いがしてきそうな感じがするぞ。
「じゃあなんで?」
「きみが地の文と間違えて全てを口に出してしまっていたからさ。古典的な失敗だ」
地の文? 俺が口にしていた? どういうこと? この世界が小説だとでもいうつもりか。
「……そんなことはさておき」
俺が立ち上がると、早乙女さんはわずかに右へずれた。それがなにを意味しているのかはわかる。俺に、中に入って家人達に知らせて欲しいのだろう。いくらんでも寝てはいないだろうが、母屋とこの離れはまあまあ距離がある。ここでの騒動はたぶんあっちには聞こえていない。誰かが知らせに行かなくては。
そうなると、早乙女さんがここに残って女を足止めするという形になるのが一番効率的だろうか。なんせ俺には戦闘スキルは皆無なわけだし。早乙女さんなんだか強そうだし。
お互いに無言で役割分担を確認すると、早乙女さんがちらりと後ろにいる俺を見てきたので、任せておいてくださいという意味合いを込めてうなづいておいた。伝わっているかは不明だが、早乙女さんもうなずいてきたので問題は無いだろう。ちなみに俺には早乙女さんがどんな意図を持ってうなずいてきたのかわからなかった。
「こそこそとした話し合いは終わったのか?」
女が俺と早乙女さんを睨み付ける。あまりの迫力に一瞬足がすくんだが次の瞬間には元に戻ったので俺の役割は問題なくこなせるだろう。
心配するべきは、早乙女さんの方だと俺は危惧する。
相手は相当に速い。おまけに武器を持っている。スピードでは互角だが見た感じ丸腰っぽい早乙女さんは部が悪いんじゃないだろうか。
それでも、俺がここにいるよりはマシなんだろうが。
俺がここにいれば、早乙女さんは俺というハンデを持って戦うことになる。そうなれば、俺がいないよりもはるかに状況的不利になってしまう。速やかにこの場を離れるのがよさそうだ。
いくら役割分担をしたとはいえ、やはり急ごしらえの連携ではざるだ。俺はタイミングとか完全無視して、即座に裏手の勝手口からかやぶき屋根の家へと入り込む。後ろで女と早乙女さんの掛け声のようなものが聞こえてきたが両手で耳を塞いで振り返らないようにして進んで行った。早乙女さんじゃない方の悲鳴とか聞こえない聞こえない。
俺は悠長に裏口の戸を閉める。さきほどまで真っ暗な森の中にいたせいで暗闇に目が慣れているので、月明かりが窓から差し込む家の中とか余裕で見渡せる。
台所だった。整然と並べられた棚に収まる食器類が微細に振動して、かたかたいっている。それくらい静かで、外から響いてくる早乙女さん達の大立ち回りの音意外の音源がないことを示していた。虫の泣き声すら聞こえない。
そこから出て、廊下を進む。日本庭園とまでは行かないがそれなりに美しい庭を横切り、皿に奥へと進む。昼間にまた見よう。
しばらく行くと、扉の隙間からぼんやりと明かりの漏れている部屋があった。迷わずその部屋の前まで行き、勢いよく開ける。
部屋の中には六人の人物がいた。城島祖父を始めとした親戚一同だ。
「どうしたんだい、血相を変えて?」
そんなに危機迫る表情をしていたとは以外だったが、まあそんなことはどうだっていい。
「きたぞ!」
半分以上の説明を放棄して、とりあえず叫んでみた。すると、当然のことながら半分以上の人達がぽかんと口を開けていた。
城島と紫音だけが深刻そうに眉根を寄せている。
「なにがきたの?」
問いは、城島からだった。他の人達はことの成り行きを静観することにしたようだ。
「あいつだ。お前が気絶させられた」
「……そう」
当然のことのように、城島はうなづく。彼女から聞かされていたとはいえ、あの女が実際に襲撃してきた時には、それなりに衝撃的だった。
無関係の俺でさえそうなのだから、城島からしてみればもう少しなにかあってもよさそうなものなんだが……。
驚くほど、城島の顔は真っ平らだ。能面よりもさらに感情というものを消失させた顔をしている。
そのことに、少なくないショックを受けた。
「……城島?」
「なに?」
返ってくるのは、平坦な声。山谷のない声調。
それは城島がものを考える時の癖のようなものだった。考えごとに夢中になるあまり、回りへの対応がおざなりになってしまう。わかっていても、正常で真っ当な一般人であるところの俺からすれば、少し傷つく。
溜息は漏れなかった。城島と出会ってから幾度となく経験した感覚だ。自分の中での目の逸らし方なんていうのはそれなりに心得ている。
俺は城島が顎に手を添えて床の木目に目をやって本格的に考え出したことを確認すると、とりあえず、別の奴へと視線を向ける。
「どったの? 僕の顔になにかついてる?」
首を傾げてくる冴川に一言。
「早乙女さん外」
「そう」
にこり、と頬を持ち上げて目を細め、柔和にもういっちょ牛乳を垂らしたような笑みを浮かべる冴川。柔らか過ぎてとろけてしまうんじゃと心配になったが状況が状況だから口にはせずに簡潔に疑問点だけを言うことにした。
「一人だけど、助けた方がいいんじゃ」
「大丈夫大丈夫。彬ねえはああ見えて空手と柔道と合気道と剣道とカツオの一本釣りの名人だから」
「そ、そう……」
最後のはどう考えても戦闘には役立たずなんじゃないかなと思ったがそんな無粋な突っ込みを入れるほど俺は勇者じゃない。きっと並行世界の俺がなんか言ってくれている。同じようなシュチュエーションに陥っていればの話だが。
そんなことより、早乙女さんが格闘技系得意だとは以外だ……った? どうなんだろう? どうでもいいか。今はあいつをどうにかする方が先決だ。「さてどうする?」
「あ、あの……」
城島に話を振ったのだが反応はない。代わりに、ゴスロリファッションの紫音がおずおずと挙手していた。
「あー……どうした、紫音」
我ながらずいぶんとぎこちない呼び方になってしまったのだが仕方ない。それなりに長い付き合いの城島やフレンドリーオーラ全開の冴川と違い、紫音には特別苦手意識が強い。
城島とはまた違った、彼女の醸し出す聡明な雰囲気が肌に合わないのだろう。
俺を含めたその場の全員からの突き刺すような視線を頂戴して、びくびくと肩を振るわせながら紫音は立ち上がる。
「わたし思うのですけれど、その人をここにおびき寄せればいいのでは?」
「どういうこと、紫音?」
首を傾げる冴川に、紫音が向き直る。俺の時より幾分かよく通る声音で、
「外にいる人が誰であれ、彬おねえちゃんと互角に渡りあえるんだよね?」
「うん、そうだよなあ?」
冴川の問いに、俺は小さくうなづいた。
「それがどうしたんだよ?」
冴川が俺と紫音の間で首を巡らせる。紫音は困ったようで怯えたような目で俺を一瞥した後、若干逆U字を描きつつある人差し指をぷるぷるさせながら一本立てた。
「彬おねえちゃんもそうだけど、そういう人ってだいたい戦うための目的っていうか、信念見たいなものをもっているっておねえちゃん言っていた」
「あー……なんか前にそういう話したかも」
冴川が天井を見上げながら懐古に浸る。俺も見上げてみたがクモの巣とかあってあまり長時間直視していたいものではないと思った。
「で、今彬ねえが相手してる人がそういうあれこれを持っている、と?」
首を許に戻すと、紫音がなぜか俺にびくりと肩を振るわせて、一歩と半分くらい後ずさる。城島父と城島祖父の突き刺して内臓をえぐるような視線がかなり痛かった。そして城島母と城島祖母、なに微笑ましそうに笑ってるんじゃ。
ちらちらちら、と俺をちら見しながら、紫音が冴川へうなずいた。俺はあくまで恐怖の対象らしい。
「そう。で、そういう人の対処法って言えば一番いいのが、目的を達成させてあげることだと思うの」
「おいおいおい、そいつは無理な相談だろ紫音。だって彬ねえが相手している奴の目的って要するに『口減らし』の復讐だろう? 目的達成させるわけにゃいかねって」
「そう、かな……そうだね」
自身の中でなにかが噛み合ったらしく、うんうんと頷く紫音。そして俺を見てやはりびくっ、と身を震わせる。今にも飛び掛からんばかりにじりじりとにじり寄ってくる城島父との距離の取り方に苦労した。
「で、結局どうするんだ?」
冴川も紫音も答えが出ないようなので城島へと話を振る。すると城島は俺へとち数いて来て、耳打ちする。
「……ねえ」
「くぷっ……」
耳元に近づけられた城島の口や鼻から吹きつけられる吐息がこそばゆくて、声を上げそうになった。城島に爪先をふんずけられて我慢する。
「なんだ?」
「そいつって、彬ねえさんが相手しているのよね?」
「あ、ああ……そうだが? それがどうした?」
「ふむ……だったら任せて大丈夫だと思う」
「それは早乙女さんを信頼しているから?」
「そうよ。ただし親戚だからとか根拠なく信頼しているわけじゃないわ。……本物だからよ、あの人は」
なぜかひそひそ話で城島と会話をしていた俺は、そこで意図的に眉を潜めてしまう。引っ掛かる部分があったのだ。
本物、とはどういう意味だろうか? そしてそろそろ城島父と城島祖父の目がヤバイ。両手の五指を鳴らし始めたからもうすぐ飛び掛かってこられるのではないだろうかと予想する。そのことに城島が気づいた様子はない。そのまま会話を続けようとしてくる。
なおも小声で、
「早乙女さんが格闘技の達人だっていうのは聞いたけど」
「それもあるけど、もっと違う部分で。とにかく、これ以上今回のことに私達が出る必要ななさそうね」
言うと、スッと城島が俺から身を離した。直後に予想通り握りこぶしを合計四つつくって飛び掛かってくる城島父と城島祖父。
振り下ろされるこぶしが、俺の脳天へと吸い込まれていく。俺は死を覚悟し、目を瞑った。が、こぶしが俺の頭蓋と脳細胞を揺らすことはなかった。おそるおそる猛スピードで目を開けると、城島母と城島祖母が男二人のゲンコツから俺を庇ってくれていた。なんで? そう疑問に思ったのは俺だけではなく、城島母と城島祖母に立ち塞がれられた城島父と城島祖父も立った。つまり俺達三人は似た者同士ってことか? 嫌だなー。
「なにしてるんですか、あなた?」
「答えてみ、じいさん」
城島母と城島祖母の妙にドスの効いた低音が響き渡る。俺からでは二人の後頭部が見えるだけで、城島母の流れるような茶髪と城島祖母のきらきら輝くような白髪しか見えない。表情を窺い知る術がないということだ。城島父と城島祖父の顔が青ざめている。
「いやあ……ちょっと頭にきたといいますかなんといいますか……」
「そんな恐い顔せんといてくればあさんや」
てへてへ、と二人が近所の恐いおっちゃんを落とし穴に落っことして怒られた少年のようにバツの悪そうな笑みを浮かべている。へこへこって頭を下げているのがなんとなくもの悲しい。きっと昔は勇敢な勇者だったに違いないとは考えないが、それでもそれなりに威厳というものがあったはずだ。大人……だよな? 疑いの余地がありそうな二人のだらしない表情から目を逸らす。すると、四人の周りを回って冴川が俺の隣にいた。
「許してあげてねー」
「なにをー」
冴川の間延びした感じを真似て、俺も間延びした声を出す。特に意味はない。
冴川は四人のやり取りを目で追いつつ、
「あの人達、美夏ともっと仲良くなりたいって思ってるんだよ」
「……あ、そう」
まあ、なんとなくだけどわかるような気がする。城島夫妻と城島の間にあるぎこちない感じとか、異常なまでの城島に対する溺愛っぷりとか。
なにより、俺が今回の帰省に同伴できたことが、一番の証拠だ。
あの四人は、城島との距離を縮めたいと思っているのだろう。
「でも、距離感掴めないでいるんだなこれが。だからあんなふうに、過剰な行動に出ることもある。そこのところ、わかってあげて欲しいし許してあげて欲しい」
「……善処する」
確約はできなかった。なぜなら、俺にはあの三人、城島祖父母を入れれば五人か。彼らの言動に理解を示すことができなかったから。
ただし、努力はしてみよう。そういう意味合いも込めての善処だ。
俺と冴川が密談しているのを発見して、相対している城島夫妻、祖父母の後ろから、城島が睨みつきけてきた。なぜ?
俺と冴川がなにか話していたのが気に入らないのか? いやそんなことはないだろう。自分で否定しておいて少し傷ついた。
おそらくだが、城島は冴川が余計なことを喋っていないのかが気になっているんだと思う。それ以外に理由らしきものは考えつかないがそれすらも当たっているのか自信がない。別の要因を考えて、そんなことは無駄だと思い至るのに十秒と掛からなかった。考えることを放棄。なにがそんなに気に喰わないのかわかないが、とりあえず心配の必要なしという意味も込めて手を振ってみた。正しく伝わってはいないようで、城島がぷいとそっぽを向く。唇を尖らせているとかそんなわかりやすいサインはないが、横を向いたまま先端にオリハルコンをあしらったかのような頑強な視線を寄越してくるので機嫌が悪いでまず間違いはないだろうな。
仕方なく、溜息を吐いた。直接慰めてやるのがベターだと思い、城島夫妻祖父母を迂回しようと壁伝いに歩く。
そして、二歩と半分ほど歩いたところで、部屋の壁が外側から爆発した。
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「……ひい!」
言い争いを中断して、城島夫妻祖父母が部屋に転がり込んできたものを見て息を飲む。ちなみに俺は目の前がいきなり暗転したような錯覚に襲われ、その場に立ちつくすより他ない。
ぎぎぎ、と首の骨が錆びついているとしか思えない音を発しながら左を向く。するとそこには、全身の至るところに傷を追い、ついでに服の要所要所が破れ肌が露出しているなんともエロティックかつバイオレンスな格好の早乙女さんが痛そうに顔を歪めている。体を丸め、足を押さえていることからあのあたりをやられたのだろう。こんな状態にも関わらず、冷静に状況分析できている自分自身に脱帽だ。それとも、状況が突飛過ぎて逆に現実味ないので、これほどまでに冷静でいられるのかもしれないが。
さて、今度は穴の奥へと首を回す。舞い上がる砂煙と土埃と小麦粉っぽい白い粉でシルエットのみの登場だが、あれは明らかにあの女だろう。ゆっくりとこちらへ近付いてくることで、シルエットだけだったのが鮮明になる。やはりあの女だ。全身を真っ黒でトータルコーディネートしているその女は、早乙女さんが空けた穴から室内へ足を踏み入れると、穴の縁に右足を掛けて部屋の中を見回す。
「……いた」
探し人を発見したらしい。女が俺など無視して前を歩いて行く。向かう先は城島夫妻祖父母のいる場所。さっきの爆発で端まで飛ばされたらしく、部屋の隅っこでカタカタ震えていた。ただ一つ気になったのは、城島夫妻、特に城島父に浮かぶのは純粋な恐怖だったが、城島祖父母の顔に張り付いているのは単純な恐怖だけではないように思えた。なんというか、以前からこうなることを恐れていた、みたいな感じだった。
なにか知ってるのか? 訝しみながらも、俺は最優先事項を目前に迫る危機に設定する。ごくりと唾液を飲み込んだ。
女は俺に一瞥をくれると、微かに驚いたような顔になったが、すぐにもとの仏頂面に戻った。興味を失ったとばかりに部屋の中央で蹲っている早乙女さんへと目をやった。
「もう、終わりだ」
女にしては低く、やけに背筋に寒気の走る声だった。研ぎ澄まされた刃か、凍る直前まで個冷やした水みたいに落ち付き払って、冷たい。
ゆっくりと、女が早乙女さんに近付いて行く。俺はただ呆然と立ち尽くし、ことの成り行きを見守るしかなかった。
「彬ねえ!」
冴川の声が轟く。彼女は転がすようにして早乙女さんに駆け寄ると、女との間に立って両腕を広げる。
「……退け」
女が冴川を睨みつける。冴川は一瞬ひるんだが、すぐに気を取り直し、
「彬ねえをどうする気?」
「……その女に用はない。ただ私はそこのそいつらを殺せれば文句はない。しかし、私の邪魔をするというのであれば容赦はしない。お前達も同様に、殺す」
言い終えると同時に女が腰を落とし、コンマ〇三秒の速さで冴川との距離を詰めた。あまりの一瞬の出来事に、冴川の反応は遅れ、結果として女の右手が突き出される。手先に握られていたあの石……思い出した! 黒曜石が冴川に向かう。
が、黒曜石の切っ先が冴川に当たることはなかった。首を右に振り、紙一重でかわしたのだ。
冴川は尻餅をつき、倒れ込む。女は目を見開き、適切な言葉を探しているのだろう、口をぱくぱくさせている。首を回し、冴川を見下げる。
「お、まえ……」
わけがわからないとでも言いたげな顔だった。今だけは、女の心情を理解してやれると思う。なぜなら俺も、冴川がなぜあの攻撃をかわすことができたのか不思議でたまらないからだ。
冴川に対しもの問いたげな視線を送ってみるが、冴川の目は女を注視することに掛かり切りだった。俺の目線に気づいていない。
「私が説明しよう」
「は……?」
いつの間にか、城島が隣にいた。さらにその隣には紫音がいる。城島の陰に隠れるようにして、伏し目がちに俺を見ていた。
「……頼む」
紫音のことには一切触れず、城島に説明を依頼する。すると、城島はその白い指先を冴川へと向け、
「千絵は昔から勘の鋭い奴でね。理屈とか抜きにしてものごとを判断することが多かった。だから、なぜそうなるのか、そこに理由を求める私や紫音より一歩先んじていたんだ。たまに間違えることもあるが、おおむね千絵の勘は当たる。確立にして九十九パーセントといったところよ」
残りの一パーセントが冴川の勘を持ってしても当たらないというわけか。動物並だな。
「そんなことより」
今、冴川と女が睨み合っている状態だ。ここで冴川が女から黒曜石を突きつけられて、冷静でいられるかどうか。
どうなんだろう。出て行ったところで冴川を助けるどころか返り打ちに遭いそうなので俺から動くことはない。何度も言うが、荒事は苦手なのだ。
ではどうするかといえば、どうすることもできないので城島に目配せしておうかがいをたてる。すると城島はどういう意図があるのか全く不明瞭に顎を引いてうなづいた。意味はわからなかったがとりあえずうなづき返しておく。満足そうでもなく、かといって不満そうでもない城島が女に向かって走り出した。速度はナメクジをやや速くした程度。頭は切れるが体力的には俺と大差ない城島なのであった。
いったい、なにをするつもりだ。
いくらナメクジより少し速い程度といっても、不意を突かれれば人間即座に対応することは難しい。女は城島のボディタックルをもろに受け、後ろへよろめく。さすがに倒れることはなかったが、冴川のまん前から一、二歩横にズレた。俺は自らの役割がなんなのかわからないまま、とりあえず早乙女さんに近づき肩を貸して、冴川にも声を掛ける。
「冴川、こっちだ」
「でも、今美夏が」
おろおろと俺と城島を交互に見回す冴川。確かに、城島をあのままにしておくのは危険だ。どう、すれば……。
「私に考えがある」
という声は俺の耳元から聞こえてきた。驚いて、声をあげそうになったが「シッ」という声で押し黙る。すばやく周囲に視線を走らせ、この会話が聞こえていないことを確認。
「生きてたんですか」
「死んでるわけがないだろうが」
俺は肩を貸している早乙女さんと小声での会話を続行した。冴川や紫音は城島と彼女にしがみつかれている女に夢中だ。城島夫妻、祖父母は恐怖により部屋の隅っこでかたかた震えているので、小声であればこの会話が聞かれることはないだろう。
「で、なんです、考えって?」
「二手に分かれよう。私は右から、君は左から」
「そんなことしてなんになるんですか?」
「おとりになる、君が。そうすれば、不意をついて私が奴の動きを止める。今は美夏ががんばってくれているが長くは持たない。行くぞ」
「っと待ってください、誰もやるとは」
「やらなければ美夏が死ぬぞ?」
ぐ……痛いところを。
美夏が死ねば今後の『探偵部』の活動に大きく影響する。最悪、廃部すらあり得る。そうなれば、学校での俺の居場所はことごとく制限されてしまうだろう。友達が全くいないというわけでもないが、それでも『探偵部』部室ほど心地いい居場所はない。
なにより、城島には恩がある。それを返すまでは死んでもらうわけにはいかない。
「仕方がないですね。上手くやってください」
「任せておけ」
早乙女さんの頼もしいお言葉と同時に、彼女の体を離す。一瞬体が軽くなったような錯覚に陥ったが、もとの重量に戻っただけだということを頭では理解している。
正確に右に回り込もうとすると多回りになるため、やや右寄りの正面からの突撃ということになる。城島がナメクジなら俺は亀だ。甲羅にキャタピラでもつけたかのような鈍足で、女に向かっていく。俺が城島より背が高いため、その分歩幅が広くなる。だから速くなるという、かっこよさの欠片も見受けられない理由だった。
女にしがみついていた城島の体が引き剥がされ、横合いに飛ばされる。ちらりと横目で城島を見ると、すぐに起き上がって大した怪我もしていないようなので安心した。
すぐに目玉を女に向ける。女は鈍足に走ってくる俺を警戒してか、少しばかり腰を落とした。迎撃というよりは、明らかな受け流しの構え。城島のことといい、こいつ、俺達を傷つける気がないらしい。どういう理由かはわからないが、それならそれで都合がいい。俺はできうる限り精一杯にこぶしを握り閉め、女目掛けて放った。が、俺のこぶしは当然のように女にいなされ、後ろへと流されてしまう。こぶしの軌跡を追うように、俺の体も女の後方へと行き、足をもつれさせて倒れ込む。
「よくやった」
俺のすぐ側を早乙女さんが通り過ぎて行く。そのスピードたるや俺では全く追いつけない。もはや神速と呼んで差し支えないほどだ。辛うじて、全体が見渡せる程度。
あまりの速さに、数瞬、女の反応が遅れた。そして、たったそれだけの時間で十分。早乙女さんは女を後ろから羽交い締めにすると、ぐるんと体を捻り、彼女を頭から床に叩きつける。ゴンッ、となにか固いものがぶつかり合うような音がして、女の呻き声が漏れ聞こえてきた。女と早乙女さんの顔は俺のすぐ側にあって、そちらに目を向けると、恨みがましい女の目が俺を睨め上げている。女と目が合い、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じ、後ろへ後ずさった。
女の声が聞こえる。
「はな……せ」
ぎりぎりぎり、と女の腕を捻じり上げている早乙女さんが、口の端をつり上げてシニカルに笑い、返す。
「そーいうわけにはいかねーな。今離したらお前さん、じいちゃんとばあちゃんを殺すだろ?」
「当たり前だ……それが私の悲願。そのためだけに私はこれまでの人生を送ってきた。そうすることでしか私達の怨みは晴れない。父と母を暗く、深い森の中に置き去りにしたあいつらを……ッ!」
女は無理矢理に、体を動かそうとした。しかし、早乙女さんが上にいる状態では満足に動くことが出来ず、小さく身をよじらせる程度だった。それでもなお、女が体を起こそうとする。
めきめきめきめきめきめき、と骨が軋む音が聞こえてくるようだった。少しずつではあるが、女の上半身が持ち上がる。が、早乙女さんが腕に力を込めることで、持ち上がった上半身が再び固い床に打ち付けられた。
「ぐう……」
「……私の話を聞け」
早乙女さんが女の苦悶の声を打ち消すように、話し出す。
「なあ、お前、私と一緒にくる気はねーか?」
「な……ッ」
女が目を見開く。眼球が動き、ぐりんと早乙女さんを視界に納めようしていた。回りの人達もびっくり仰天といったふうだ。俺も目を見開く。
意味が……わからん。どんな思考をすれば、そういう結論に至るのかがわからない。
が、確かに女の抵抗は弱まった。悩むような、迷うような素振りを見せている。もしかしたら、早乙女さんの狙いはこれだったのかもしれない。
「早乙女さん、今のうちです。そいつの身動きを封じてしまいましょう」
どこから声を絞り出したのかわからないが、確かに俺は早乙女さんにそう進言した。今ならば、女を無力化することも容易いのではないかと、そう思ったからだ。
しかし、早乙女さんは首を横に振る。明確に口にすることはないももの、それは確かに拒絶の意を表すための動作だった。
なんで、そう問おうとした俺の口許が動きを止める。理由としては、早乙女さんが女の上から体を退かしたからだ。
「…………」
声も出ない。罵倒すらすることができない。俺はただ呆然と、早乙女さんが女に手を貸して、起きるのを手伝ってやってるところを見ているしかない。
先に疑問を口にしたのは、他でもない女自身だった。
「なんの真似だ?」
俺も訊きたい。
女の問いに、早乙女さんは肩をすくめ、
「なんだよ、あのままじゃ私はお前を殺さなくちゃいけなかったんだぜ? なのになに、その態度?」
「当然だろう。私はお前に助けてもらう義理などないのだから」
「言ったじゃん、私と一緒にくる気はねーかって」
「それが意味不明と言っているんだ」
「わっかんねーかねかなー」
早乙女さんはぽりぽりと頭を?く。
「お前はなにも知らなさ過ぎる。だから、私が教えてやる。この世の中のいろんなことを。たくさんのことを。怨みや悲しみだけじゃない、多くのことを」
だから、と早乙女さんはもう一度手を差し出した。優しげに、愛おしげに、目の前にいる女のことを、まるで実の娘かなにかのように……。
女はその手を見詰め、迷うような素振りを見せる。
濁り切ったその目が揺れる。
「……く」
「本当はそれほど、じいちゃんやばあちゃんを憎んでいるわけじゃないんだろう?」
「どういう……意味だ?」
どういうつもりかは知らないが、早乙女さんは女に背を向け、城島祖父母へと向き直る。
「彼らが『口減らし』を行ったのが今からだいたい四十年ほど前。当時、じいちゃんとばあちゃんはざっと計算して三十代くらいか」
一旦言葉を切り、早乙女さんが俺達を振り返る。
「『口減らし』で捨てられたのは三人。一人は、まだ年端もいかない赤ん坊。狩りはおろか、一人ではご飯を食べたりすることすらできなかっただろう。残りの二人も、十歳から十二歳前後の子供ばかり。当然、最初はなにが起きたのか理解できずに苦しんだだろう。だが、誰も迎えにこず、ただただ暗闇の中で身を震わせていただけだった。それでも彼らは必死に生きようとしただろう。その赤ん坊とともに」
「……なにが、言いたいんだ?」
苛立ったような女の声。だがしかし、早乙女さんは気にした様子もなく、推理じみた憶測を並べる。
「お前は『口減らし』の際に捨てられた赤ん坊だった。四十年という月日を経て成長し、阻止え今ここにいる。これが私の考えだが、どうだろうか?」
「…………」
早乙女さんの質問に、女は答えなかった。ただ下方から早乙女さんを睨め上げているだけだった。
シンと静寂が俺達を包み込む。誰一人として言葉を発する者はなく、定期的な呼吸音と唾液を飲み下す音だけが部屋の内側に響き渡る。心臓の鼓動でさえ、この場にいる誰にも聞こえているような錯覚を覚えてしまう。
三十秒から一分、そうしていただろうか。もっと長かったかもしれないし、短かったかもしれない。とにかく、体感にしてそれくらいの時間、俺の周りの時間は止まってでもいるかのようだった。
その静寂を打ち破ったのは、他でもない女自身だった。
「……どうして、私がこいつらを怨んでいないと考える?」
「そんなもんは簡単だ。当時のお前さんは赤ん坊で、自分が捨て子だってことを覚えていないからさ」
「そうか……そんなふうに思われていたのか」
女は、まるで心外だというように、ぎり、と奥歯を噛んだようだった。正確にそう行動したのかどうかはわからないが、少なくとも俺にはそう見えた。
「……お前がそう思うのは、お前自身が私ほど誰かを憎んだことがないからだ。苦しみも悲しみも知らず、ただ生きていることをのうのうと甘受するだけだったお前らにはわかるまい。父と母も同然だった兄と姉が病で死んだ。以前からお前の言う『口減らし』のことは聞かされていた。そのせいで死んだのだと考えるのはごく自然の摂理だ。私は、あの人達を殺したあいつらを許さない……ッ!」
女が、城島祖父母を睨み付ける。俺の位置からではどんな顔をしているのかわからないが、城島祖父母の堅牢な表情から、女の表情など用意に相像することができた。
きっと、もの凄く怨みがましい目をしているに違いない。
間違っているとは言わない。でも、それじゃあ……、
「だったら、あなたはとんでもない親不孝者ね」
刺し貫くような、凛とした声が響いた。思わず背後を振り返り、見る。
声の主は城島だった。これまでと相も変わらず、笑みの一つも溢さず、同情心の欠片も垣間見えない態度だ。
城島は俺より前に出ると、女の目前に立った。早乙女さんと女に挟まれるような形になりながら、城島は右手の平を思いっ切り女の頬に激突させる。
パアンッ、と乾いたような湿っぽいような、いまいちよくわからない音が響く。次いで、女の不思議そうな吐息が漏れ聞こえてきた。
「なに、を……」
もう一度驚く。早乙女さんが女に手を貸していた時よりやや劣るものの、それでも決して小さくない衝撃が俺の脳髄を激しく揺らす。
……はあ?
意味がわからないことはない。会話の流れから、一瞬だが俺も親不孝な奴だとか思った。でも、だからって相手は黒曜石のナイフを振り回す野郎だ。あんなふうに平手打ちをかませるほどの度胸なんて、俺のどこを絞り出したって出てきやしないだろう。
この一族は、なんて度胸があるんだ……。
ちらり、と後ろを振り返る。冴川と紫音も口をあんぐりと大きく開けていることから、あの二人だけが特別なのだなと察した。
それにしても、なんというか。
「なにをするッ!」
「なにをしているの?」
女の叫びに、城島は問いで返す。声に、叱責や侮蔑といったものは見受けられない。単純に、怒りと、なにより憤りが感じられた。
それらが誰に向けられるべきものなのか、おそらく本人でさえも気づいていないだろう。
城島は女の胸倉を掴むと、ぐいと自分の方に引き寄せた。その際、女が手にしていた黒曜石が城島の腹部に当たり、表面を切ったようだった。赤い血が、若干ながら黒曜石を伝う。
「……このあたりには『怪物』が出るって噂があるの。『怪物』は真夜中になると露われて、村人を次々に襲って行く。そうやって村を壊滅に追いやった『怪物』はあなただったのね」
「それがどうした。あいつらだって兄と姉を死にやった奴らだ。あいつらは兄と姉の親だったくせに彼らを捨てた。そいつらを殺してなにが悪い。子供を捨てることは許されても、そいつらに復讐することは許されないのかッ!」
女の、心の叫び。いや女だけじゃない。『口減らし』によって森に捨てられた他二人も、きっと今頃は同じような心境でいることだろう。
城島は荒だったりしない。まるで心に、波どころか波紋すら広がらないように、穏やかに女を見詰めている。
女の胸倉を持つ手を離した。
「もしあんたが本気でそんなことを言っているんだとしたら、ずいぶんと悲しいわね。まるで暗闇の中に紛れ込んだ子鹿のようだわ」
「なに?」
女が、怪訝そうに眉根を寄せた。他にも、城島夫妻に祖父母も、意味がわからないとばかりに眉間に皺を刻んでいる。
「あんたはまだ、自分の生き方を見つけていないのよ。誰かのために生きることも、自分のために生きることもできていない。不安で仕方がなくて、うろうろとさまよっている子鹿だわ。だから、復讐という目標しか持つことができなかった。あんたが、世界にある様々なことを知っていれば、もう少し違った結果になったかもしれないのに」
悲しそうに、城島の目が伏せられる。今にも泣き出してしまいそうだった。
弱く、もろく、触れれば容易く気化してしまいそうな、儚げな横顔。それはかつて、一度だけ見たことのある顔だった。
なんで、そんな顔するんだよ。どうして、そう他人に心酔するんだよ。それがお前なのか? そうやって、感情を殺して、殺した振りをして、殺しきれなくて傷ついて、そうまでどうして他人なんかを救おうとするのかがわからない。
『探偵部』の理念は、無償で他人を助け、決して見返りを求めない。そうだったな。
だったら……お前の黒い部分は俺が背負ってやる。お前は、助けを求められる前に助けようとするが、自分からは絶対に助けを求めようとしない。
だから、俺がお前の背負い込んできた、これまで溜めこんできた黒々としたものを俺が担いでやるから、そんな顔すんな。
俺は立ち上がり、三人に近づいて行った。早乙女さんも女の方もなにが始まるのかと俺を見ているようだったが、そんなもんに気を使っている暇はない。
「なあ、お前さあ」
話を切り出す。突然話に割って入ってきた俺に、二人とも、どころかその場にいた全員が驚いたようだった。それはそうだよな。俺だってびっくりするもん。こんな奴が突然出てきたら。
だがまあ、今の俺はその立場にないので軽く無視して、
「親も同然だった二人の話を聞いてそう思ったんだろ? だったら、そいつらの話が本当かどうかなんてわかんないんじゃないか?」
「……そんなことはない。彼らの怒りは……憎しみは本物だった。私にはわかる」
「どうして?」
「私と彼らは同じ気持ちだからだ」
毅然と、女は言い放つ。俺は少々どころではなく驚いたが、だからと言って別段そのことを否定する気にはならなかった。
ただ、可哀想だ、と、そう思っただけだった。
復讐しか知らないこの女の、なんと哀れなことか、と。
「なあ……」
口を開こうとすると、俺の体を押し退けるようにして、早乙女さんが前に出た。
「早乙女さん、何を?」
「後は私の仕事だ。お前さんは引っ込んでな」
「でも、」
「くどいぞ」
一喝すると、早乙女さんが女に向き直る。
相対する。
「……もう一度訊く。私とともにくる気はないか?」
「お前こそくどいぞ。私は、そこの二人を殺す。誰がなんと言おうとな」
「それで、どうする?」
「?」
女が、怪訝そうに眉を寄せる。ただでさえ険しかった表情が一層悲壮なものになった。
「意味がわからん」
「そうか……なら言ってやるよ」
早乙女さんは一度深呼吸をする様子を見せると、なにか重大なことでも口にするかのように、きつくこぶしを握り、神妙な声を発する。
「じいちゃんとばあちゃんを殺して、その後どうする? お前も死ぬのか?」
「……そんなものは、殺した後で考える。今は、そいつらを地獄に落とすことが最優先だ」
「だから、殺した後どうすんだって聞いてんだッ!」
早乙女さんが声を荒げる。びりびりと、内蔵に響いてくるような、重量を感じさせる絶叫。早乙女さんの体で陰になって様子を伺い知ることはできないが、女も俺と同じ心境であるに違いに違いない。
それほどに、早乙女彬という人物の大きさに、畏怖と尊敬の念を抱く。
この人は、俺達にとって大きすぎる。きっと、この場の誰もこの人には勝てない。
勝ち負けの問題ではないとわかってはいるものの、どうしてもそうしたことを考えてしまう。意識、してしまう。
俺が口を開けずに、酸欠になった鯉のように口をぱくぱくさせていると、早乙女さんの背が一歩分遠ざかる。
「誰にでも怨みつらみを晴らしたい相手の一人や二人いるもんだ。汚点のねー人生なんてクソだと私は思う。だがなあ、いくら憎いからって殺しちゃ駄目なんだよ」
「……では、お前は私に、この悔しさを抱いたまま、この憎しみを募らせたまま涙を流しながら眠れと言うのかッ!」
「そうだッ! 誰もが怨みや憎しみを受け入れ、自分の一部として生きている。それは私だって例外じゃあない。私にだって、むかつく奴の十人や二十人いるもんだ」
「お前の憎しみがその程度だということだ。いくら受け入れようとしても、私のような小さな器では土台無理がある。収めきれずに溢れだしてしまうんだッ! この溢れ出してしまうんだッ! この溢れ出した分は、どうしたらいいんだッ! この気持ちを静めるためには、殺すにしかないだろう、こいつらをッ!」
「それじゃあなんの解決にもなりはしない。親同然にお前を育てた奴らは、お前にそんなことを望んじゃいねーはずだ」
「そんなことはないッ! 彼らは私がこいつらを殺すことを望んでいる。復讐を果たすことを願っているはずだ。でなければ、今まで私が行ってきたことは、いったいなんだったというのだ」
早乙女さんの言葉が止まった。なにが起こったのかわからず、俺はただ呆然と彼女の後頭部を見詰めているしかない。
早乙女さんは少しだけ考えるように顔を伏せ、それから、
「無駄だった。全くの無駄だったんだよ」
幼子に言い聞かせるように、そう呟いた。女は一瞬息を詰まらせ、それからなにか言いかえそうとしていたが、なにも言えずに口をつぐむ。
「無駄だったんだよ……なにもかもな」
早乙女さんの悲しげな呟きが、俺の耳を揺さぶった。
15
帰路につく。車窓から外の景色を眺めている。視界の端から端に流れて行く海面はきらきらと輝き、たゆたう波が一つの巨大な生物を形づくっているようだった。
俺はそんな海の様子を眺めながら、眠気を訴える頭と瞼に叱咤し、なんとか起きていた。寝てしまえばいいと言われるかもしれないが、そうする時間がもったいないような、もったいなくないような気がするのだ。たぶんどうでもいいことだ。
思考を、昨夜の惨劇に切り替える。壁に大穴の開いたかやぶき屋根の家には、これからも城島祖父母が住み続けるそうだ。止めたほうがいいなどとは、部外者である俺の口からはたとえ耳の裏まで避けようと言えるはずがない。城島夫妻も、冴川も紫音も早乙女さんも、誰も止めなかった。なのでなんの問題もないだろう。
あの女は、早乙女さんが預かることになった。養子として引き取るそうだ。確かに早乙女さんより年下に見えるが、子供と言うと無理がある気がする。そんなことを言えば、早乙女さんに半殺しにされてしまうだろうから、これもまた、口が裂けても言えないことだ。
それから、冴川と紫音だが、城島の親戚で今回は盆の帰省で集まっただけなので、当然のようにそれぞれの家へ帰るらしい。紫音からは、最後まで避けられていた気がする。
最後に、俺と城島だが、車に乗って走り出してから、なぜか城島の様子がおかしい。怒っているのだろうか、ちらりとバックミラーに目を向けると、唇を尖らせている城島の様子が見えた。そしてなにを思ったのか知らないが、城島もミラーを見て、俺と目を合わせる。合ったとたん、ぷいとそっぽを向いた。俺も再び窓の外に視線をやり、小さく息を吐く。
「……なあ、きみ」
振り向かない。今この車に乗っているのは俺と城島と城島夫妻だ。そんでもって運転しているのは城島母。ということは、そんなふうに声を掛けてくるのは城島父しか存在しない。簡単な推理だ。
どこぞの推理小説よろしく名推理を脳内のみでかまし、声の主を頭に浮かべる。そうすると、なんだか憂鬱な気分になった。心なしか体が重い。
「…………なんですか?」
「やけに娘と親しそうだが、どういう関係なんだい?」
「くる時にも説明したと思いますが? ただの部活仲間ですよ。部長とただの部員」
「そうか……ということはきみは娘の部下ということだね?」
少し……というか大分違う気がするが、それ以上反論しても面倒なことにしかならないだろう。俺は口をつぐんだ。俺の行動を肯定の意と受け取ったらしく、城島父は喜々とした様子で俺の耳許から顔を離した。城島父が発する熱と一緒に、彼が放出している威圧感も遠ざかり、一先ず小さく安堵の息を吐いた。
それからは、城島夫妻の会話が俺と城島の間を飛び交っていた。俺達は互いに口を開くことはせず、ただひたすらに肺に酸素を送り、二酸化炭素を吐き出す動作に従事していた。一時間半の道のりを経て、城島カーは俺んちの前へと停車した。俺は手許のレバーを引き、車から降りた。城島父とは意識的に顔を合わせず、城島母にのみ礼を言う。城島母はにこりと微笑みかけてくると、軽く会釈をして城島と城島父を乗せたまま走り出した。
城島カーが見えなくなるまで、彼女らが去って行った方角を見詰める。視界から完全に消失すると、俺は自宅の玄関の戸を開け、靴を脱いで我が家へと入り込む。
「……ただいま」
大して長くあっちにいたつもりはなかったが、体感的には凄く久しぶりな感じがする。俺は玄関マットの上に立ち、返答を待った。だが、なにも聞こえてこない。
不審に思い、リビングに顔を出す。
そこで見た者に、俺は目を見開いた。一瞬だけ呼吸が止まり、脳味噌が現状の認識を拒否していた。
恐怖が、俺の脳髄を伝い、全身を支配する。
体が固まり、強張る。思うように動くことができない。
だんだんと、じわじわと、目の前のことに理解が追いついてきていた。それはもう、鈍足な亀のようだ。
つい先ほど目撃した、黒曜石の女の比ではない惨劇がそこにあった。
「……なんだよ、これ……」
漏れ出た呟きは、誰かに聞かれることもなく、虚空へと吸い込まれていく。そのことを嘆く者は一人として存在しない。
ただ、血まみれになって倒れている両親の姿が、そこにあるだけだった。
FIN