笠原さんと教育実習生
湿度の多い空気が満ちる季節。分厚い雲を見れば、今日も雨が降るなとすぐ分かる。制服のブラウスが長袖から半袖に変わり、腕や掌が少しベタベタする。
ゴールデンウィークから2週間が経つ。連休明け、私と由衣ちゃんは朱莉先輩の質問攻めに遭い、タジタジになりながら、内容によっては質問をかわしつつ、遠回しに答えた。朱莉先輩はなんとも意味深な顔で、私と由衣ちゃんの話を聞いていた。
月曜の朝。教室から大ホールへ移り、月初めの全校朝礼が始まる。
入学式や卒業式などの式典やコンサートに使われる大ホールは、"大"と付くだけあって大きいホールだ。全校生徒が指定されている座席に座っても、後の3分の1は誰も座っていない。
舞台はエンジ色の緞帳が両脇でカーテンのようにまとめられ、先生たちがマイクの調整などをしていた。
冷房が効いてるな。少し寒いし。早く全校朝礼、始まらないかな。
今日から3週間、教育実習生がこの学校に来るため、妙にワクワクしいてる子が多い。男性の教育実習生は滅多に来ないよ、と教えてあげたい。普通は母校で教育実習するのが決まりらしい。つまり、女子高には女性の教育実習生しか来ない。統廃合で母校がなくなった場合みたいな例外もあるらしいけど。これは先生に聞いて初めて知った。
舞台で生活指導の先生がマイクを持って話しだす。
「皆さん、おはようございます。今日から3週間、教育実習生が来ます。それでは実習生の皆さん、前へどうぞ」
その合図とともに3人の実習生が前に出てきた。2人が女の人で、1人が男の人だった。
へえ、例外が発生したんだ。あれ、あの人、何処かで見たことがあるような。
思い出そうと頭をフル回転しているうちに、2人の自己紹介が終わってしまい、思い出せない人が最後に自己紹介をしていた。
「皆さん、初めまして。松井 雄太です。これから3週間、皆さんと一緒に勉強していきたいと思います。英語を担当します。どうぞよろしくお願いします」
周りは「松井先生、カッコイ」とか「爽やか」とか「高橋先生よりもタイプ」とかヒソヒソと言っていた。
この声、聞いたことある。話してるんだ、多分。思い出せそうな気がする。あっ、水族館のナンパ男だ! 今はメガネ、掛けているけど、絶対そう。間違えない。これって、まずいよ。高2の担当になりませんように。
「佐野先生は高1のC組、竹内先生は高2のD組、松井先生は高3のA組で実習をしてもらいます」
やった。高2じゃない。英語の授業以外で関わることはないはず。よかった。それにしても、松井先生って、高橋先生のこと気づいてるのかな? あとでメールしてみよう。
全校朝礼が終わり、教室に戻るまでの間、大半の生徒が「松井先生の授業、楽しみ」と言って、既に松井ファン予備軍ができていた。
みんな、なるべく松井先生に群がって。そして松井先生が私に気が付かないで欲しい。できれば忘れていて欲しい。忘れている可能性の方が高いと思うけど。常にナンパしているなら、女の子の顔なんて覚えているはずないし。
教室に戻る途中、女子トイレに入り、先生にメールを送った。
『松井先生って、水族館に行った時、ナンパしてきた人だよね。和樹さんのこと覚えてた?』
メールなら教室で送っても大丈夫な気がするけど、文章を打っている最中に画面を見られる危険性もある。トイレでメールするのが一番安全。
教室に入り、真っ先に由衣ちゃんの席へ行った。
「由衣ちゃん、今日のお昼、教室以外の場所でもいい?」
「うん、いいよ。どうかした?」
「ちょっと、困ったことがね。朱莉先輩も呼ぶけどいい」
「もちろん。もしかして」
「うーん、とりあえず、お昼に詳しいこと話すから」
「わかった」
あと3分で授業が始まる。席について、教科書を出し、朱莉先輩にお昼ご飯お誘いメールを送って、携帯をバッグに仕舞った。
2時間目と3時間目の休み時間に、1時間目の数学で配られたプリントを数学担当の先生に渡すため、職員室へ向かう。プリントを渡し、職員室を出ようとした時、高橋先生に声を掛けられた。
「今日の授業で使うプリント、授業前に配っておいてくれ」
渡されたプリントの一番下にピンク色の付箋が貼ってあった。
【覚えてた】
それだけが書かれていた。
「分かりました」
「プリントは全部で3種類あるから、間違えないように気を付けてくれ」
最後の"気を付けてくれ"の時、目を見て言われる。
分かってるよ、先生。
「はい。分かりました。気を付けます。失礼しました」
さり気なく付箋の部分を手で隠すように持って職員室を出た。
「真美ちゃん、何かあった?」
音楽室でお弁当を食べだした時、由衣ちゃんが心配そうな顔で聞く。
「実は」
私は水族館での松井先生にナンパされたこと、高橋先生のことを覚えていたことを話した。
「うっそ。そんな偶然あるんだ。高橋くんのことを覚えてるとなると、その彼女、真美ちゃんのことも覚えてる可能性が高いよね」と朱莉先輩が言った。
「やっぱり、そうですよね。ただ、あの時は、メガネも掛けてなかったし、髪も下ろしていたし、多少はメイクもしていたんで、今の私を見ても気が付くことはないと思うんだけど」
「そうかもね。でも、気をつけた方がいいね。学級委員なんだし、教師と関わる機会も多いから。職員室や準備室に行くときは、私も就いて行くから」
「ありがとう、由衣ちゃん」
「それに、用がない限り早く学校から出た方が安全だよね。高橋くんと松井先生が居る校舎に長居するのは危険だもん」
「そうですね。この3週間は、なるべく早めに帰るようにします」
私にできることは、とにかく松井先生に関わらないことしかない。
「それにしても、松井先生って、ナンパとか絶対しないイメージなのに。外見と中身って違うね。外見にやられた松井ファン増殖中だし」と由衣ちゃんがため息混じりに言う。
「本当だよね。私も松井先生がそんな軽いタイプには全然見えなかったよ」と朱莉先輩も言った。
「はあ」
「真美ちゃん、今からそれじゃ、3週間やっていけなよ。何かあったら、高橋くんにちゃんと言うんだよ。それに、私たちにも。それに準ちゃんも居るしね。何とかなるよ」
「そうだよ、真美ちゃん」
2人の言葉に何よりも救われた。力になってくれる人がいる、応援してくれる人がいるって、こんなにも嬉しいことなんだね。
「ありがとう。由衣ちゃん、朱莉先輩」
お昼ご飯が食べ終わり、音楽室から教室へ向かう渡り廊下で、この3週間、絶対に関わりたくない人が向こう側から歩いてきた。
お互い目配せをして、私は目線を若干下げる。
「こんにちは」
3人で軽く会釈をして、松井先生の横を通り過ぎる。松井先生もすれ違いざまに「こんにちは」と言って、東校舎に入って行った。
「はあ」
松井先生の姿が見えなくなると、3人共、同時に息を吐きだす。
「ビックリした。こんなタイミングで」と、朱莉先輩が東校舎の方を見ていった。
「うん。とりあえず、真美ちゃんのこと気付いていない感じだね」
「みたいだね」と、由衣ちゃんに言った。
これが3週間、毎日続くんだ。寿命が縮むか老ける気がする。
松井先生を警戒しながら過ごす1日が終わった。
家に帰り、アクセサリースタンドに掛かっているアメジストのネックレスとアンクレットを眺める。
嫌な事があっても、これを眺めると安心するのに今日は不安が消えない。先生に会いたいな。先生にギュってしてもらいたな。そしたら、不安なんてなくなるのに。でも、松井先生の教育実習が終わるまでは、土日も会わないでいる方が安全だよね。
20時半過ぎ、先生からの電話がきた。
『真美』と先生に名前を呼ばれるだけで、さっきまであった不安が少しなくなった。
「和樹さん」
『松井に何か言わた?』
「大丈夫。何も言われてない。気づいてないと思う」
『そっか。びっくりしたよ、職員室に入って来た時』
その声には参ったなって感じが含まれていた。
「私も。最初はなかなか思い出せなかったんだけど」
『俺の顔見た瞬間、松井も「あれ」って顔してさ。挨拶に来たと思ったら「この前はデート中に失礼しました」って、小声で言ってきたんだ』
「そうなんだ。私のことも覚えてるのかな?」
『そこまでは分からないけど。松井には極力関わらない方がいい。あと絶対にメガネ外すな』
「うん、分かってる。職員室や準備室に行く時は由衣ちゃんがついて来てくれるし」
『そっか。それと』
先生は少し言いにくそうな感じで話しだした。
『教育実習が終わるまでは、2人で合わない方がいい』
「私もね、そうした方がいいと思ってた。でも、その後はテスト2週間前になっちゃうね」
『そうだな。でも1回は会おう』
「うん」
『何かあったら必ず言うんだぞ。この3週間は必ず電話するから』
「うん、分かってる。ちゃんと何かあったら言うから」
『そろそろ、切るな』
「うん、おやすみなさい」
『おやすみ』
携帯を充電器に戻し、3週間乗り切ってみせると心に誓った。
最初の1週間は松井先生の授業はなく、英語の授業の時、後ろで見学していた。その週は直接話すこともなく、廊下ですれ違う程度だった。
そして2週目からは松井先生の授業が何回か入るようになる。
授業の時はなるべく松井先生は見ず、黒板を見る。教科書を読むときは不自然にならない程度に、教科書で顔を隠した。
職員室、廊下などの松井先生に会う可能性が高い場所、授業などの会わざるを得えない場所では、常に細心の注意を払った。
高橋先生の方も、初日以来、あの日のことを松井先生から言われていない。
このまま平穏に教育実習が終わればいいと思う。
松井先生の授業の時、嬉しそうにしている子が多い。授業の初めに言う「お願いします」と、終わりに言う「ありがとうございます」の語尾にハートマークが付いている感じでいる子、「授業、聞いてる?」と、聞きたくなるような子が続出している。
授業が終わる10分前に、その日の授業の確認プリントをして終わるのが松井先生の授業スタイルだった。
「あっ、プリント解く時間が5分しかないですね。放課後までに各自、やっておいてください。もし、分からないところがあれば、聞きに来てください。学級委員さん、プリントを集めて、放課後に持ってきてください」
何で、そんな展開になるの。
「はい。分かりました」
号令の後、松井先生は教室を出て行った。そんな松井先生の後ろ姿を扉が締まるまで見つめる子が教室中にうやうやいる。
「真美ちゃん、私も一緒に行くからね」と由衣ちゃんが私の席に来て言った。
「ありがとう。初接触だよ」
「だね。でもプリント渡すだけなら、すぐ終わるし、大丈夫でしょ」
「そうだね」
重い気分のまま目の前に広げられた英語のプリントを解いた。
帰りのホームルームでプリントを回収して由衣ちゃんと一緒に職員室へ向かう。
入口で教育実習生がいる机を見ても松井先生が居なかった。
「笠原さん、誰か探してるの?」
振り向くと担任の森先生が居た。
「松井先生にプリントを持ってきたんですけど、松井先生が居ないようで」
「ああ、松井先生は英語準備室に居るわよ」
「分かりました。ありがとうございます」
由衣ちゃんのところへ戻って、今度は英語準備室へ行った。
「私、ここで待ってるね」と言い、由衣ちゃんは英語準備室からちょっと離れた所にある柱にもたれ掛かる。
「うん。ちょっと行ってくね」
由衣ちゃんの傍にスクールバッグを置いてから、英語準備室の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開けると松井先生が1人パソコンに向かっていた。
何で、松井先生、1人しかいないの。
「お仕事中失礼します。2‐Aの確認プリントを持ってきました」
「ああ、ありがとう。そこに置いておいて」と松井先生は横にある小さい机を指差す。
「はい」
私は言われた通りにプリントを置いて準備室から出ようとした。
「ねえ、水族館デートと楽しかった?」
背後から松井先生の声がした。その声色はあのナンパしてきた時と同じだった。
バレてる。しらをきるしかない。
「何の話かよく分かりませんが」と冷静な口調で言う。
「気付いてないと思った? それとも覚えてないと思った?」
パソコン画面からこっちへ目線を向けていた。
「ですから何のことでしょう? プリントそこに置きましたので、これで失礼します」
「いいの? そんな態度取って。もし俺がこのことを誰かに話しちゃったら大変だよね」
「すみません。話の内容がよく分からないのですが。それに時間がありませんので失礼します」
そう言った瞬間、腕をつかまれた。
「痛っ」
「俺が声かけて真っ向から断った人、君が初めてだったんだよね。笠原真美さん。高橋先生があの時『真美、大丈夫』って言ったのが聞こえたんだよね。名前通りの性格なんだと思ってさ。それで覚えてるんだ」
「真美なんて良くある名前だと思います。離してください」
「ここまで言っても認めないんだ。さすが、教師と付き合うだけこのとはあるな。高校生にしては肝が座ってる。今日はもういいよ」と言うと腕を離した。
「プリント、ありがとう。気を付けて帰ってください。笠原さん」
そこには教師の顔になった松井先生がいた。
「失礼しました」
失礼したのは、松井先生の方な気がするけど。これからどうするか考えなくちゃ。まだ教育実習は7日も残ってるし。
たくさんの不安を抱えて由衣ちゃんの所に戻った。
『松井、そんなこと言ったのか?』
夜、電話で先生に放課後の事を全部話した。先生はかなり怒っている感じだった。
『あいつ、何考えてるんだろうな。"今日はもういい"ってことは、また真美に近づく気だな。教育実習期間に何してるんだよ』
「また何か言われても、しらをきる以外方法はないよね」
『ああ。そうするしかないな。俺が何か言えば、真美が俺に今日のこと言ったってことになって、松井に自分からバラすことになるし』と言ったあと溜息が聞こえた。
「うん。もしかしたら、和樹さんに何か言ってくるかもよ」
『そうだな。とにかく、松井に会うときは、絶対に1人で行くな。あと中川と清水に今日のこと話したか?』
「うん、話した。教育実習が終わるまでは駅で待ち合わせして3人で登校することにした」
『その方がいい。真美、俺のためと思って、我慢したり、隠したりしなくていいから。その場その場で真美が思う通に行動すればいいから』
「ありがとう。和樹さん」
『あんまり、心配しすぎるのも良くないよな。俺も、真美も、いつも通りしれてればいい』
「そうだね」
『今日は疲れただろ。もう寝た方がいい』
「うん。おやすみなさい」
『おやすみ。真美?』
「はい?」
『大好きだよ』
「へっ、あの……、私も……その、す、すき、です」
『おやすみ』
携帯をテーブルに置き、放心状態になった。
電話で"好き"って言ったのも、言ってもらったのも初めて。きっと私が不安がっているのを察して言ってくれたんだな。
ベッドの横になり天井を見つめた。
松井先生は何を考えているか全然分からない。私と先生の事を噂にしたって、松井先生とって利益になることは1つもない。仮に、私たちのことをネタに脅しを掛けたとして、松井先生は何の見返りを求めてくるんだろう。
もし、そういうことがあっても、脅しに屈することはできない。何らかの条件を飲むことは、あの水族館に居たのが私だって認めることになってしまう。
松井先生がこれ以上、何も言ってこないことを祈ろう。
私はゆっくり目を閉じた。
松井先生は不思議なことに、私にも、先生にも、何も言ってこないまま、教育実習も今日で最後になった。
来週からは平穏な日々が戻って来る。
「真美ちゃん、よかったね。あれから何も起こらなくて」と由衣ちゃんが言う。
由衣ちゃんと朱莉先輩の3人で校門に向かいながら話していた。
「本当。先週のことでどうなるのかと思って心配だったけど」
朱莉先輩が私の肩を叩きながら言った。
「2人とも、ありがとう。無事、3週間やり過ごす事ができたよ」
2人のおかげで、松井先生と2人きりになるこはなかった。あれから2回、プリントを松井先生に渡しに行くことがあったけど、由衣ちゃんと朱莉先輩が『分からないところがある』という名目で、一緒に準備室へ入ってくれていた。
「何か、今日は暑いよね。喉渇く」と言って、由衣ちゃんがペットボトルのお茶を飲みだす。
「そうだね。6月に入ってから暑い日が増えたよね」
朱莉先輩が少し色の濃くなった空を見上げながら言った。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」
由衣ちゃんが急にむせだした。
「大丈夫?」
「お、ちゃっが、へん、ゴホッ、なっ、ところに、入った」
朱莉先輩は由衣ちゃんの背中を擦り、私はバッグからハンカチを出した。その時、携帯がないのに気が付いた。
由衣ちゃんの服を軽く拭いて、落ち着いたのを確認してから「携帯、教室に忘れたみたいだから、ちょっと待って」と言って、小走りで教室へ向かう。
教室は誰も居なかった。しかもカーテンが閉まったまま。自分の机の中に手を入れると、携帯が奥の方にあった。
「あった、あった」
携帯を手にした途端、震えだす。
「もしもし、朱莉先輩。どうしたんですか?」
「一応、鳴らした方が探しやすいかなと思って。ちゃんと見つかったんだね」
「はい、机の中にありました。すぐ、そっちに行きますね」
「うん。待ってる」
携帯をバッグにしまい、カーテンに手を掛けた時、教室に誰かが入ってきた。
「電話、終わった? 笠原真美さん」
カーテンから手を離し、後ろを振り向いた。
「松井先生」
何もなく終わったと思ってたのに。
「高橋先生とはデートしてる?」
「何、言ってるんですか?」
「多分していないよね。俺が嗅ぎ回るかもしれないから」
「松井先生が何の話をしているのか、見当がつかないのですが」
「笠原さんも、高橋先生も、強情だね。何言ってもビクともしないんだよね」
やっぱり、先生にも何か言ったんだ。
「身に覚えのない話をされたら、こういう反応以外できないと思います」
「俺、今日で教育実習が終わったんだ」
だから、何よ。
松井先生は私を見据えながら話を続けた。
「ただの大学生に戻ったんだよね。俺の彼女にならない?」
「はあ? 何言ってるんですか」
「わざわざ面倒な恋愛しなくてもいいんじゃない? 付き合ってること隠して、そのために嘘までついて、そこまでする恋愛に意味あるの?」
「私は今、付き合っている人なんていません。それに誰かと付き合う気もありませんから」
松井先生に会釈をして、教室から出ようとした。でも、腕をつかまれて、足元にスクールバッグが派手な音を鳴らして落ちた。
「何するんですか。離してください!」
松井先生に抱きしめられていた。
「彼氏いないんでしょ? なら、いいじゃん」
「訳の分からないこと言わないでください」
体と体の隙間に両手を入れ、松井先生の胸を力一杯押す。
「そんなことしても、無駄だよ。女が男に力に勝てるわけないでしょ」
今出せる力で押しても、松井先生の腕は私から離れることはなかった。
「声出せば。そうすれば誰か助けに来てくれるかもよ。あっ、今日の鍵閉め、高橋先生だった」
分かっていて、わざとやってるんだ。
「離してください。松井先生なら誰とでも付き合えるでしょ。わざわざ、教育実習先の生徒なんか選ばなくたっていいじゃないですか」と言いながら、松井先生の体を押し続ける。
「その言葉、そっくりそのまま高橋先生に返すよ」
「いい加減にしてください」
その時、靴音と一緒に鍵がぶつかり合う音が聞こえてきた。
「あ、高橋先生かもね。彼氏に助け求めたら? そうしないと彼氏に勘違いされちゃうよ」
そう言った松井先生は泣きそうな表情だった。
そんな顔してまで。
「離してください」
近づいてくる足音を聞きながら、声を抑え気味に言う。
「いいよ。その代わり、俺と付き合って」
「何でそうなるんですか。離してください」
足音はもうすぐそこまで来ていた。
本当に、離して。先生にこの状況を見られたら。泣きそう。
奥歯に力を入れて、もう一度言った。
「離してください」
見上げた松井先生の顔が歪んで見える。きっと、私の涙のせいだけじゃない。
――ガラッ、ガタッ
もう駄目だ。目をつぶると堪えていた涙が目のふちから流れた。
「何やってる。離れろ!」
先生が低い声で言った。学校では絶対に出さない声で。
「それは教師としてですか? 彼氏としてですか?」
松井先生は腕の力を抜きもせず、先生に言う。
「いい加減にしてください。離して」
松井先生は先生の方を見たままで、私は先生の方に顔を向けることができなかった。
「男として言う。離れろ」
先生、そんなこと言っちゃったら。
「やっと認めましね、高橋先生」と、わざとらしく"先生"の部分を強めて言っていた。
「何か勘違いしていないか。嫌がる女を無理矢理抱きしめるのは男として問題だって言ってるんだ」
先生がゆっくりこっちへ近づいてきて、私の腕を引っ張った。松井先生の拘束から離れることができた。
「大丈夫か? 笠原」
「……は、はい」
私の顔を見て、先生がポケットからハンカチを出す。
「ありがとうございます」
ハンカチを受け取り、涙を拭いていると「真美ちゃん」という叫び声と一緒に由衣ちゃんと朱莉先輩が入って来た。
この状況を見て、由衣ちゃんと朱莉先輩は松井先生を睨んでいた。
「中川、清水。笠原、気分が悪いみたいなんだ。保健室に連れて行ってくれないか」
由衣ちゃんと朱莉先輩が私の両脇に来る。
「大丈夫、真美ちゃん」と言って朱莉先輩が私の背中を摩ってくれた。
「行こう」
由衣ちゃんが私のバッグを拾う。
「うん……。高橋先生、ハンカチありがとうございました」
「ああ」
先生にハンカチを返して教室から出た。その時、松井先生は無表情で何を考えているか分からなかった。
「由衣ちゃん、朱莉先輩、ありがとう。もう大丈夫」
私たちは保健室には行かないで、由衣ちゃんと私が所属している、茶道部の部室へ行った。今日は休部で、畳の部屋には誰も居い。
「ごめんね。もっと早くに、教室に行けば」と由衣ちゃんが言った。
「そんなことないよ。高橋先生が助けてくれたし、あのまま1人で教室から帰るのは無理だったから。2人が来てくれて、ほっとしたよ」
「それにしても松井先生って何考えてるんだろう。真美ちゃんに一目惚れでもしたのかな?」
朱莉先輩はイライラしながら言う。
「仮に一目惚れでも、強引にも程があるよ。高橋先生と松井先生、何話してるんだろう」と話している間も、由衣ちゃんはずっと手を握っていてくれた。
「一目惚れとかじゃないと思う。途中から松井先生も泣きそうな顔して、つらそうだった」
「真美ちゃんは優しすぎ」と2人が少し呆れ返っていた。
突然、携帯のマナー音が聞こえた。3人とも自分の携帯を見る。
「あっ、私のだ」
それは、先生からのメールだった。
『松井と話は終わったから。もう心配しなくていいよ。夕飯、一緒に食べよう』
私は『はい。いつものコンビニで待ってるね』と返信した。
「もしかして、高橋くんから?」
「うん。松井先生のことはもう大丈夫だって。あと、夕飯、一緒に食べようって」
「そっか。よかったね」と、由衣ちゃんが言ったあと、朱莉先輩に勢いよく背中を叩かれた。
「ついでに、高橋くんの家に泊まっちゃえ」
「泊まりませんよ!」
「何で? 泊まっちゃえばいいんじゃない?」
「由衣ちゃんまで何言うのよ。制服で泊まれないよ」
由衣ちゃんも朱莉先輩も「なるほど」という顔をした。
「真美ちゃんも高橋くんの部屋に着替え置いておいたら?」
「えっ? 先輩は佐藤先生の家に着替えとか置いてるんですか?」
「うん。あっ、由衣ちゃんは?」
「響くん、妹の光ちゃんと一緒に住んでるから、光ちゃんに借りることが多いかな」
2人とも、突然のお泊り対策がちゃんと取ってある。すごい。私の場合は要らないでしょ。必ず約束してから会うしね。
「もう大丈夫だから。ありがとう。そろそろ帰ろう」
3人で駅まで一緒に帰り、私はサンライフコンビニに向かった。
*****
真美たちが教室から出ていったのを確認してから松井を見た。松井は無表情に教室の扉を見つめている。
「松井、人の恋愛事情に口出しをする気はない。ただ嫌がっている相手に感情や行動を押し付けるのは良くない」
「似てるんですよ」と小さな声で松井はうつむいて言った。
「えっ」
「俺、小学生の時、骨折で2か月くらい入院したんですよ。そのとき、隣の病室に入院していた子に」
これで何となく分かった気がした。
「その子、入退院繰り返して、俺が高1の時に死んだんですよ。俺の大事な人だった。教師になりたがっていたのは彼女なんですよ」
松井は近くにある机に軽く腰を掛けて話し続ける。
「水族館で彼女に声掛けたときビックリした。教育実習に来て、またビックリした。初日の朝、廊下ですれ違ったとき、すぐに分かりました。あの水族館に居た子だって。運命だ、彼氏が居ても奪ってやると思った。でも、職員室で高橋先生を見た時、マジかよって感じでした。それでも何もせずにはいられなかった」
真美とその子は別人だと言おうと思った。でも、それを一番理解しているのは松井だ。
「松井、いい教師になれ。お前の授業分かりやすいって、生徒たちに評判だったぞ。今度は教師として会える日を楽しみしている」
俺はそのまま教室を出るために扉に手を掛けた。
「高橋先生、あの……、ありがとうございます。それと彼女さん、泣かしてすみませんでした」
振り返ると体を90度に曲げて頭を下げている松井が居た。
松井の方へ戻り「教育実習、最後の仕事。急用ができたんで、戸締り、お願いします。松井先生」と言って鍵を渡した。
「あの」
「早く彼女を笑顔にしたいんで、よろしくお願いします」
松井がフッと笑い「分かりました。責任を持って、戸締りしておきます」と言って頭を下げた。
教室を出て、喫煙ルームで煙草を吹かしながら真美にメールをする。数分後に『コンビニで待ってる』と返信が来た。
泣いていた真美の顔が頭から離れない。あんな風に泣く真美を初めて見た。自分が泣かせたわけではないのに凹む自分がいる。早く笑った真美に会いたいと思った。