笠原さんの誕生日
「あなた、いい加減、タクシーに乗りますよ」
「真美~、誕生日おめでとう。不甲斐ない、お父さんを許してくれ」
「ありがとう。お父さんのこと不甲斐ないなんて思ってないから。お仕事、頑張って。体調には気を付けてね」
はあ。
私の誕生日であり、ゴールデンウィークに出張で海外へ行くことになったお父さんはずっと「行きたくない」と1人で嘆き、お母さんが励ましていた。
出発当日の朝までこれが続くとは思わなかった。
「お父さん、荷物、タクシーに乗せておいて」とお母さんが若干怒り気味に言う。
お父さんは渋々、2つのトランクケースを引きずって玄関から出て行った。その背中は哀愁って言葉が一番しっくりくる。
「お父さん、仕事ちゃんとできるのかな?」
「大丈夫よ。そういう時の秘策があるから」
「秘策って?」
「秘密の対策なんだから秘密よ」と言って、タクシーの方に目を向け、お父さんがこっちに来ないかを確認した。
「今日は和樹君と一緒に過ごすんでしょ?」
「うん。約束してる」
「今日は和樹君にいっぱい甘えなさい」
「何、言ってるの」
「男の人は何だかんだ言ったって、好きな子に甘えてもらえるのは嬉しいはずだから。どうせ、和樹君と一緒に居ても、いつものしっかり屋のままなんでしょ」
「別に普通にしてるだけだよ」
「なら、やっぱりしっかり屋のままじゃない。とにかく、好きなだけ甘えなさい。誕生日なんだしね」
「分かった」
すると、玄関に向かってドタドタと走ってくるお父さんの姿がお母さんの背後に見えた。
「真美、もう行くけど、大丈夫か? 戸締りはちゃんとするんだよ」と玄関に入った途端、お父さんが言った。
「分かってるよ」
「もし困ったことがあったら、円香に連絡してね。円香にも出張のこと言ってあるから」
「うん。分かってるから」
「そう、じゃ、行ってくるわね」
「行ってくる」
「うん。気を付けてね。いってらっしゃい」
玄関から出て行く、お父さんとお母さんに手を振って見送る。扉を閉めると、タクシーのエンジン音が段々と小さくなっていた。
さて、先生が来るまでに出かける準備しますか。
部屋に戻り、昨日、お母さんが誕生日プレゼントでくれたペールブルーの透かし編みのニットワンピを着た。膝丈で、裾と胸元が花の模様っぽい透かし編みが施されている。先生から貰ったアメジストのネックレスと相性が良かった。
軽くメイクをして、由衣ちゃんと朱莉先輩から誕生日プレゼントして貰ったマーガレットをモチーフにしたヘアーピンと同じデザインのピンキーリングを付けた。由衣ちゃんに「左手の小指は恋人との愛を守ってくれるんだって」と聞き、ピンキーリングを左手の小指にはめた。
――ブー、ブー、ブー
携帯からマナー音が鳴りだした。
『真美、家の前に着いたよ』
「うん。すぐ、行くね」
携帯を切り、バッグに携帯を入れて、階段を駆け下りる。戸締りを確認して、この前買ったストールを首に巻き、玄関を出た。
濃紺のセダンにもたれ、煙草を吸っている先生がいた。白いTシャツ、ダークグレーの生成りジャケットにジーンズ。
いつも思うけど、何でそんなシンプルな私服が似合うんだろう。
ドキドキしながら先生の前に立った。
「お待たせしました。和樹さん」
先生は吸殻を携帯灰皿に入れ、後部座席のドアを開ける。
「どうぞ」
「ありがとう」と言って車に乗った。
先生が運転席に座りながら「途中から高速に乗るから、サービスエリアに入ったら助手席に移動な」と言ってきた。
「うん。高速使うんだ。ちょっと遠出?」
「ああ。着いてからのお楽しみな」
そう言うとシートベルトを締めて、車を発進させた。
ゴールデンウィークということもあって高速道路は車が多い。サービスエリアで休憩を挟み、大きなビルの地下駐車場に入っていた。
「さあ、着いたよ」
「ここどこ?」
「いいから、降りて」
車から降りると先生が私の右手を取り、エレベータがある方へ進んだ。エレベータに乗ると先生は迷いもなく最上階の9階を押して、小さな機械音をさせながら上に昇る。
「これ、どこに行くの?」
「ドアが開いてからのお楽しみ」
先生に車の中で、さり気なく探りを入れてみても、教えてもらえなかった。着くまで秘密なんだね。
――9階です。
アナウンスの声と共にエレベータのドアが開く。そこは濃いブルーの世界が広がっていた。
「うわあ。水族館」
「ここ期間限定で9階フロアが水族館になっているんだ。ネットでたまたま見つけてね。真美、水族館好き?」
「うん。大好き。ありがとう」
カウンターに並び、入場チケットを買い中へ入った。
普通の水族館みたいに壁一面が水槽っていうのはなく、大中小の水槽がディスプレイされている。
水槽の中には色鮮やかな魚が優雅に泳いでいた。
「和樹さん、見て。エンゼルフィッシュ。かわいい。こんなにたくさんの種類があるんだね」
「すごな。あの黒の縦縞がアルタムエンゼルフィッシュか」
「ねえ、あの目が赤くて、体が白いのはアルビノレッドアイエンゼルフィッシュだって。そのままだね」
「そうだな。本当に目が赤いな。寝不足のエンゼルフィッシュだな」
「なにそれ」
こういう風にデートをするのって初めて。楽しいな。
「宝石の名前がついてるのもいるね。ゴールデンエンゼルフィッシュは王女様、ダイヤモンドゴールデンエンゼルフィッシュは王様、プラチナエンゼルフィッシュはお姫様って感じがするね」
「確かにそんな感じだな。あっちの方も行ってみよう」
エンゼルフィッシュのコーナーから比較的人が空いている所に行く。そこには小さな体をキラキラさせた魚が泳いでいた。
「小さい魚がいっぱい。あの魚、色が奇麗」
「どれ」
「ほら、あれ。体はサファイアみたいな青で、尾ひれが黄色いの」
水槽の側面に指を当てると、その魚がこっちへ来た。
「こっちに来たよ。かわいい」
「シリキルリスズメって言うんだ。うん、かわいいな」
「魚なのに『スズメ』なんだ。名前までかわいい」
気が付けば、先生の顔が接近した状態で水槽を眺めていた。水族館がデートスポットの理由が分かった気がした。多分、こうして自然にくっつくことができる場所だから。
「あっ、あっちクラゲのコーナーだ」と言って先生が水槽から顔を離す。
「クラゲ、見たい」
このフロアの中で一番大きい水槽の中に半透明の白いクラゲがふわふわと水槽の中を漂っていた。
クラゲは泳ぐと言うより漂うが合っている気がする。自分の意思で水中を動いているんじゃなくて、流れに従っている感じ。きっとクラゲを見て癒やされるのは、クラゲがただ自然に身を任せているからなんだろうな。
「ミズクラゲか。奇麗だな」
「うん。海の中に白い花が咲いてるみたいだね」
「詩人だな」
青い光を背中にした先生がそう言いた。
「一通り見たけど、もう一度見たい所ある?」
「ううん。大丈夫」
「そっか。じゃあ、出るか」
「そうだね」
順路を辿って出口へ向かった。出口の少し手前にお土産物のコーナーがあった。
「お土産物コーナー、ちょっと見てもいい?」
「いいよ」
棚にはキーホルダー、ボールペン、シャーペン、ぬいぐるみ、マグカップやグラスが並んでいた。
「見て、これかわいい。さっき見た、黒の縦縞のエンゼルフィッシュと目の赤いエンゼルフィッシュが描いてある」
私が手に持っているマグカップの柄を先生がのぞき込んできた。
「本当だ。寝不足のエンゼルフィッシュ」
「違うってば。なんとか……レッドアイエンゼルフィッシュだよ」
「全然、正確な名前言ってないじゃん」
「寝不足のエンゼルフィッシュよりはマシでしょ」
マグカップを棚に戻すと「買わなくていいの?」と先生が聞いてきた。
「いいよ。ちょっと見たかっただけだし」
「じゃあ、俺が買おう。どの色がいい?」
「えっ?」
「ピンクと白とブルーか。俺はブルーにしよう。真美はどれがいい?」
「お揃い?」
「嫌なの?」
ブルーのマグカップを持った先生がちょっとムッとした感じで言った。
「嫌じゃないよ。和樹さんの方こそ嫌じゃないの?」
「全然。さすがにお揃いの服とかは着られないけど、家で使うものだったらいいんじゃない。で、どれがいい?」
「じゃあ、白がいい」
「これ買ってくるから、ちょっと待って」
先生はそのままレジへ行ってしまった。私は近くにあるグラスやぬいぐるみを見ていた。
「ねえ、あそこにいる人、カッコいい」
「本当だ」
横からそんな会話が聞こえてくる。そこには大学生くらいの女の人が2人居て、目線の先には先生が居た。
誰が見たって先生はカッコイイよね。その隣にいる私は釣り合ってるのかな。
「こんなところで何してるの?」と急に後ろから声を掛けられた。
だっ、誰!? 知っている人だとまずい。
ゆっくり後ろを振り向くと全く知らない人だった。
「1人で水族館? こんなかわいいのに。世の男は見る目ないね」
目の前でそう話す人は大学生くらいの男の人だった。黒髪に白い肌。パーカーにデニム素材のジャケットを羽織っていた。
見た目は真面目そうな人なのに。ただのナンパ男か。知り合いも困るけど、ナンパも困る。
「一緒に遊ばない?」
「私、彼と一緒なんで」
その場から離れようとした。すると私の前に立ちはだかった。
「いいから、いいから。ほら、行こう」
右の手首をつかまれそうになった時、左腕が後ろに引っ張られた。2、3歩後ろに下がると誰かの体にぶつかった。
「真美、知り合い?」
「ううん。知らない」
「俺の彼女に何か用?」
頭の上から聞こえる声は、威圧感のある低い声。
「何だ、本当に彼氏いたんだ」と言って、さっき先生を見ていた女子大生をナンパしに行った。
うわ、最低。
「真美、大丈夫?」
「うん。ありがとう」
「真美を1人にするのは危ないってことがよく分かったよ」
先生にため息混じりで言われてしまった。それから、手を繋いでエレベータに乗る。
「よくナンパされる?」
エレベータの『閉まる』のボタンを押しながら先生が聞いてきた。
「ううん、全然。今日で2回目だし」
「前のナンパはいつ?」
「えっと、先週」
先生は「そんな短期間で」と小さい声で言った。
「その時は大丈夫だったのか?」
「うん。由衣ちゃんと朱莉先輩も一緒だったし、運良く由衣ちゃんの彼氏が助けてくれたから」
「そっか。気を付けろよ」
「はーい」
地下駐車場にエレベータがつき、車へ向かった。その時、少し離れたところで、あのナンパをしてきた人と女子大生2人が車に乗り込むのを見た。
本当に最低。
車に乗ると「夕飯は家でいい?」と聞かれ、「うん」とシートベルトを締めながら答えると車が動き出す。
空の色が段々と赤くなり、建物や道路がほんのり赤くなる景色を眺めながら、先生のマンションに向かった。
先生の部屋に入ると、最近、真っ先に思うことがある。先生の匂いがするということ。休日だけ着けるマリン系の香水と煙草の匂い。スーツ姿の先生からはしない匂いが部屋と休日の先生からする。彼女である自分の特権な気がして嬉しい。
「さて、夕飯作るかな」
先生の後に続いてキッチンに入ると「真美はあっち」と言ってリビングを指差す。
「えっ、でも」
「いいから、いいから」と言いながら、強制的にリビングのソファに座らせた。
「ちょっと時間かかると思うから、テレビ見るなり、本読むなり、CD聞くなりしてて」
エプロンを着けながら、先生はキッチンへ消えていった。
とりあえず、携帯を出してメールや着信の確認。画面には【新着メール8件】という表示があった。
8件とも友だちからのバースデーメール。その中に由衣ちゃんと朱莉先輩のメールもあった。
『 HAPPY BIRTHDAY!!
真美ちゃん17歳の誕生日おめでとう。
17歳が真美ちゃんにとって幸せな年でありますように☆
P.S. 高橋先生とステキな誕生日を! 由衣』
『真美ちゃん、お誕生日おめでとう☆
高橋くんと楽しい誕生日を過ごしてね(*゜▽゜*) 朱莉』
バースデーメールへのお礼メールをして、携帯とソファに置いたストールをバッグに仕舞う。それからテレビをつけてみたけど、特番のバラエティ番組ばかりですぐに消した。
結局、先生がよく聴くジャズのCDをかけ、本棚から読んだことのない作家さんの本を手に取り、キッチンから聞こえる調理器具の音とジャズを聴きながら読んでいた。
「真美、できたよ」
ダイニングテーブルにはレストランのような料理――白身魚のムニエル、スモークサーモンのカルパッチョ、きのこのサラダ、ガーリックトースト――が並んでいる。
「すごい。和樹さん、教師じゃなくてシェフでも良かったんじゃない」
「何言ってるんだよ。兄貴にレシピ、教えてもらったんだ」
「正樹さんに?」
「ああ、兄貴にも、まゆみさんにも、茶化された」と照れた感じで、先生はシャンパングラスにお酒を注いだ。
「私、未成年だよ」
「これはノンアルコール。一応、20歳以上対象に販売されてるんだけど、今日ぐらいはいいだろ」
「和樹さんもノンアルコール?」
「ああ」
「和樹さんは飲めばいいのに。私のことは気にしなくていいよ。目の前にあるからって、お酒、飲んだりしないし」
「いいよ。真美が20歳になったら、一緒に飲もう」
その言葉にちょっと泣きそうになった。
先生はずっと一緒に居てくれるんだ。
「ありがとう」
「さあ、乾杯しよう」
椅子に座って、グラスを手に持った。
「真美、17歳の誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
一口、ノンアルコールのカクテルを飲む。
「美味い。本物のカクテルに近い味だ」
「美味しい。カクテルってこんな味なんだ。20歳になったら初めて飲むお酒はカクテルがいいな」
「了解。カクテルが美味しいお店探しておくよ」
「楽しみにしてる」
「じゃあ、食べようかっ」
先生が小さめのサラダボウルにサラダを取り分けてくれた。
「いただきます」
フォークとナイフを持って、白身魚のムニエルを一口食べる。
「美味しい。お店出せるよ」
「良かった」と言って先生も食べ始めた。
「ねえ、私の誕生日、佐藤先生から聞いたんでしょ?」
「ああ。4月の終わりに知ったから、ちょっと焦ったよ」
「ねえ、和樹さんの誕生日はいつ?」
「俺? 8月22日だよ」
「あっ、夏休みの時期だ。今度は私が和樹さんの誕生日お祝いするから、予定開けておいてね」
「ああ。開けておくよ」
それから、いつものようにいろいろな話をしながら、先生が作ってくれた料理をゆっくり味わった。
食事が終わると和樹さんが「こっちに来て、目をつぶって座って」と言ってリビングのソファに座らせた。
言われた通り目を閉じた。少し経つと先生が近くに来たのを感じる。そして、ソファの背もたれと私の間に座った先生が後ろから抱きしめてきた。
「目、開けて」と耳元で先生の声が響く。
ゆっくり目を開けると、17本のロウソクが立てられたバースデーケーキが炎でキラキラ輝いていた。
「おめでとう。ほら、消して」
「ありがとう。すごく嬉しい。もうちょっと見てていい?」
「いいよ」
ライトが消された部屋に光るロウソクの炎は目の前にあるテレビや窓ガラスに映って、部屋中がロウソクの優しい光に包まれているようだった。
「真美」
耳元で呼ばれた声の方へ顔を向ける。
どちらともなく目を閉じて、そっと唇を合わせた。啄むようなキスを繰り返したあと、角度を変えながら、何度も唇を合わせた。
「そろそろ、ロウソク消そうか?」
至近距離で見る先生の目にはロウソクの炎が映り込んでいた。
「そうだね」
私はケーキの方へ顔を近づけ、17本のロウソクを吹き消す。炎がなくなった部屋は窓から差し込む外からの明かりだけがあった。
体に巻き付いている先生の長い腕に力が入り、私の背中と先生の体がますます密着する。
「帰らないで、一緒にいよう」
「うん」
たった一言を言っただけで心臓がバクバクしていた。部屋が暗くて良かったと思う。尋常じゃないくらい顔が真っ赤だから。
私の顔の赤さが引いた頃「電気つけるね」と言って先生の温もりが無くなる。パチッという音と共に部屋が明るくなる。
少しだけ目を細めてバースデーケーキを見た。暗くてよく見えなかったから気が付かなかったけど、ケーキの真ん中にホワイトチョコレートでできたプレートがあった。そこには『HAPPY BIRTHDAY MAMI』と書かれて。その周りには苺や桃、巨峰などのフルーツが一面に敷き詰められ、普通のホールケーキより少し小さめのサイズだった。
「ケーキ切るか」
ロウソクを全部取って、切り分けたケーキをお皿に乗せてくれた。
「ありがとう」
ケーキは甘さが控えめで、フルーツの味が口の中に広がる。
「美味しい。これ、2人で食べ切るの、無理じゃない?」
「今日は無理だけど。明日、明後日で大体食べられるだろう」
先生はケーキを食べながら、何でも無いかのようにすごいことを言った。
確かに明日は日曜日で祝日。おかげで明後日も振替休日。『一緒』には『残りの連休を一緒に』ってことだったの?
「真美、何、固まってるんだ?」
「いや、明日も私は泊まるのかなと思って」
「うん。あっ、何か予定でも入ってた?」
「ないけど」
「なら、良かった」
やっぱり、そうなんだ。
「ケーキ、まだ食べる?」と、の空になったお皿を見て先生が言った。
「さすがにもう無理」
「だよな。これは冷蔵庫に入れるか」
ケーキをキッチンへ持っていき、冷蔵庫をバッタンと閉める音が聞こえた。先生はそのまま、洗面所の方へ行く。するとジャーっという音でお風呂のお湯を張っていると分かった。
お、お風呂……。
何だか落ち着かなくなって、ケーキのお皿を重ねてキッチンへ持っていき、ダイニングテーブルにあるお皿を片付けた。
「真美、いいよ。片付けなくて。俺がやるから」
「でも、料理作ってもらったし。これぐらいは私がやるよ」
「誕生日なんだから。真美は何にもしなくていいの」
――ピッピー
「あ、お湯が溜まった。真美は風呂入ってこいよ」
「えっ、和樹さんの後でいいよ」
「気にしなくいいから。真美が風呂入ってる間に皿洗い終わるし」
結局、着替えとバスタオルを無理矢理、渡された。
「歯ブラシ、白いのが新品だから、それ使って。あるもの好きに使っていいから」と言い残して、キッチンの中に入って行った。
これじゃ、お風呂入る以外ないし。
バッグからポーチを取り出して、洗面所に向かった。
洗面台の上に着替えやポーチを置く。コンタクトを外し、髪をまとめて、服を脱ぐ。そしてお風呂場のドアを閉めた。
コックを捻ってシャワーを出し、髪や体を洗う。先生が普段使っているシャンプーやボディソープを使うのが妙に恥ずかしかった。
バスタオルを巻き、あの下着を持ち上げる。
朱莉先輩が「彼氏の家に行く時は、替えの下着と最低限のアメニティぐらいは持って行きなよ」という助言に従い、あのランジェリーショップで買った下着と化粧水、洗顔フォームは持ってきた。
これを着けるべき? お店で買ったときは、周りにセクシーな下着がたくさんあったせいで、比較的普通な下着を買ったつもりだった。でも、これだけを単体で見るとやっぱりセクシーな下着にしか見えない。色気のない私が身に着けたら逆に変じゃないかな。替えはこれだけだし。
覚悟を決めて下着を着けて、目の前にある鏡を見た。
ダメでしょ、やっぱり。似合わない。でも仕方ないよね。一日着た下着より新品の下着の方がいいし。
その上から先生から借りた半袖のTシャツとハーフパンツを着た。男性物だから、Tシャツは半袖でも袖は肘の下に来るし、丈も長くてワンピース状態。ハーフパンツもウェストは紐を目一杯締めて、何とか落ちない感じだった。
下着や化粧水をポーチに仕舞い、肩にバスタオルを掛ける。そしてワンピースを持って洗面所を出た。
「お風呂いただきました」
「ああ。はい、ハンガー」
「ありがとう」
ハンガーを受け取り、ワンピースを掛けると、先生はそれを持ってクローゼットの中に仕舞う。
戻って来た先生の手にはドライヤーがあった。
「おいで」とソファに座り、膝を叩きながら言った。
「いいよ。髪ぐらい、自分で乾かすから。和樹さんもお風呂入ってきなよ」
「言ったでしょ。真美は何もしなくていいって」
ドライヤーを持って準備万端の先生を見ると拒否することもできない。素直に、そこに座る。
私が座ると肩に掛けてあったバスタオルを両端で持って、軽く頭を拭いてくれた。
「熱かったら言って」
後ろからドライヤーの熱風と先生の指が髪や頭皮をゆるゆると摩る。
お母さんが出掛け際に「いっぱい甘えなさい」と言っていたことを思い出す。そして先生はいつも「俺に甘えて、頼って」と言ってくる。でも、先生が私を甘やかす時、私はいつも遠慮が先行してしまう。それは先生にとって寂しいことだったりするのかな。
そんなことを考えていると「だいたい乾いた」と言って、先生の指が離れ、ドライヤーが止まる。
「ありがとう」
「俺も風呂入ってこよう」と言ってテーブルにドライヤーを置いた。
お風呂場からシャワーの流れる音が聞こえてくる。何をしていたらいいか分からなくて、髪を梳かし、テーブルの上を片付けていた。
どうしよう。これから、その、やっぱり、そうなるんだよね。
朱莉先輩の言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。「素直に言う」って言葉が。私は何が言いたいんだろう。緊張しすぎて、何ができて、何ができないのかも分からない。
はっ、シャワーの音が止まった。どっ、どうしよう。落ち着かないと。えっ、もうドア開いた。
バスタオルで頭を拭きながらこっちへ来る先生がいた。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。真美が嫌がること何もしないから」と、私の頭を撫でながら先生が言う。そして、隣に座った瞬間、体がビクっとしてしまった。
「俺のこと、怖い? 嫌?」
「違う。あの、緊張し過ぎてどうしたらいいか分かんないの。どうしたら、いい?」
何、聞いてんの、私。
「ああ、もう」
いつもより温かい体が私を包んで、耳や顔の横に湿った髪の毛があった。
「真美、かわいすぎ。じゃあさ、できるところまでしてみる?」
先生が私の目をのぞき込み、顔がゆっくり近づいてきた。唇が合わせ、いつもより熱いキスについていくのが精一杯だった。
先生の腕が脇の下と膝の裏に周り、上へ持ち上げられる。落ちないように先生の首に腕を回すと先生が歩き出した。
人生初のお姫様抱っこは、先生の横顔しか見えない世界だった。
ベッドに着くと、先生が片足で毛布を退かし、シーツの上に私をゆっくり下す。そして私に跨るように先生が覆いかぶさって、思わず目をギュッとつぶった。
頭を撫でながら「真美」と呼ぶ声に、ゆっくり目を開ける。
「まだ、続けても大丈夫?」
少し動いてしまえば唇がくっついてしまいそうな距離で「大丈夫?」聞かれ、首を縦に振ることしかできなかった。
先生にたくさん抱きしめられて、優しいキスをもらう。「好きだよ」や「真美」と、何度も耳元で囁かれた。
先生の優しさと温もり、それに幸せを感じた夜だった。
*****
唇を離すと真美は眠っていた。
足元の布団をめくり、真美の細い足首にアンクレットを着けた。真美への誕生日プレゼント。ちゃんと手渡すつもりだったんだけど、タイミングを逃してしまった。というか、俺が盛ったと言った方が正しい。
布団を元に戻して、自分も布団の中に入る。真美の首の下に腕を入れ、体を引き寄せた。寝息を立てる真美の耳に髪をかけて、寝顔を眺める。
「明日は一日、のんびり過ごそう」
真美の額にキスをする。幸せな温もりを感じながら、目を閉じた。
*おまけ*
◇◆◇由衣ちゃんのゴールデンウィーク◇◆◇
「夕方から遊園地に来るのって初めてだね」と、手を繋いで隣を歩く響くんに言った。
「そうだね。何、乗ろうか?」
「ジェットコースター」
「絶叫マシーン、好きだね」
「うん。楽しいでしょ。それに今なら景色が最高だよ。夜景だもん」
「じゃ、ジェットコースター、乗ろうか」
響くんはパッと見、絶叫マシーン系は苦手そうに見えるけど、そういうのは得意な方だったりする。
こうやって、響くんの彼女になれたのは嬉しい。これからは彼女として響くんと一緒にいろいろな所に行きたいな。
閉園時間近くまでいろいろなアトラクションに乗って、最後に観覧車に乗った。
「響くん、見て。夜景、奇麗だよ」
「本当だ。由衣」
「うん?」
名前を呼ばれた瞬間、触れるだけのキスをされた。
「響くん」
「観覧車でキス、してみたくなかった?」
「響くんのばか」
「由衣が照れてる」
響くんは時々、いたずらっ子みたいな顔をする。私はその顔が好きだったりする。
突然、 響くんの携帯が鳴った。
「あ、妹からだ」
「光ちゃん?」
今夜は響くんのアパートに泊まることになっている。光ちゃんと3人で鍋パーティーをする予定。
「えっ!」
「どうしたの?」
「光、今日、彼氏の家に泊まるって」
「ええっ!」
「ああ、夕ご飯だけ家で食べる?」と、焦った響くんが言った。
「そうする」
結局、予定通り、響くんのアパートに泊まりました。
◇◆◇朱莉先輩のゴールデンウィーク◇◆◇
「準ちゃん、大変」
「何だよ」
「お姉ちゃんの陣痛が始まったって」
「えっ、2週間ぐらい早くないか?」
今、お兄ちゃんと香織さん――お兄ちゃんの彼女――と準ちゃんで軽井沢に旅行に来ていて、明日、帰る予定。
夕御飯も食べ終わって、それぞれの部屋に戻ったところだった。
「うん。明日は家に帰らずに、真っ先に病院ね」
「そうだな。予定繰り上げて、早めに帰ろう」
「そうする。それにしてもお姉ちゃんが結婚したのもビックリだけど、相手にもびっくりだよ」
「10歳上の高校の時の元担任だろ」
そう、お姉ちゃんの旦那さんは元教師。高校の頃から付き合っていた訳じゃなくて、転職した職場で上司として再会して、結婚した。
「世の中って何が起こるか分からないよね。私と準ちゃんが付き合ってるのも、ビックリだけど」
「そうだよな。お互い兄妹の感覚だったのに、気が付けば恋人だからな」
ベッドにごろっと横になった準ちゃんの隣に私も横になる。
準ちゃんは私の頬を撫でながら「遠くない未来さあ、結婚しような」と突然、言ってきた。
「ええー!! もっとロマンチックな感じで言ってもらいたかった」
起き上がって、準ちゃんの足を蹴った。
「痛って。馬鹿、予約だよ、予約。その時になったら、ロマンチックなプロポーズしてやるよ」
「ホント?」
「ああ。約束する」
「うん。結婚する」と言って、準ちゃんに抱きついた。
「何で、今、返事するんだよ」
「予行練習」
準ちゃんは「ばーか」と言って、誓いのキスをしてくれた。
◇◆◇真さんと美紀の海外出張◇◆◇
「真美は1人で大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。真美はお父さんよりしっかりしますから。何かあれば、円香が何とかしてくれますよ。今のところ、何も連絡がないんだから、大丈夫ってことでしょ」
本当に心配性なんだから。真美に彼氏がいるって知ったら、必ず泣くわね。
「もう日本に帰りたいよ」
「まだ仕事が残ってるでしょ。明日はパーティーなんだから」
「パーティーより真美~」
しょうがない人。
「お仕事、頑張ってる真さんは素敵ですよ」
「美紀。急に、何だ」
「いつも思ってることを言ってるだけですよ」
「ありがとう。頑張るよ」
真さんって呼ばれるのと、素敵って言われるのが弱いのよね。ふふっ。