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笠原さんの看病

 冬休みも半ばを過ぎた。クリスマス、大晦日、元旦。それは1年間で世の中が最も盛り上がるイベント。そういう時は好きな人と過ごしたいと思うのが自然の摂理な気がする。

 でも、私は父方の実家に帰省していたせいで先生に会うことはできなかった。高橋先生の顔が浮かぶ度に、胸元にあるネックレスを弄っていた。

 そんな私の気持ちを察してくれたのか、それとも先生も同じ気持ちだったのか分からないけど、クリスマスと元旦にはメールと電話をくれた。それは嬉しいことでもあったけど、逆効果でもあった。メールを見れば、声が聞きたくなる。声を聞けば、会いたくなる。

 人は欲深い。違うか。私が欲深いんだ。世の中には会いたくたって会えない恋人はいっぱい居るはずなのにね。

 私の年末年始はそんな思いと共に過ごしていた。



「もしもし。和樹さん」

「真美。こっちに帰ってきたんだな」

「うん。今日のお昼過ぎに」

「そっか。楽しかったか」

「うん。北海道、雪がすごかったよ。それにホワイトクリスマスだった」

「へえ。こっちは雪すら降らなかったよ」

 久しぶりの先生と電話。

 私が家に帰って来て最初にしたことは、先生へのただいまメールだった。それから30分後くらいに先生が電話をくれた。

「6日の土曜日、空いてる?」

「うん、大丈夫だよ」

「その日、会おうか」

「うん。北海道のお土産も持っていくね」

「ああ。楽しみにしてるな。迎えに行くけど、どこにする?」

「いいよ。もう場所も分かってるし、1人で行けるよ」

「遠慮しなくていいよ。真美の家に迎えに行こうか?」

「いや、それはちょっと。うちの親が出てきたら、いろいろ大変なことになるから」

「ああ、そっか。親としては、彼氏が娘の通う学校の教師だってことは、納得いかないよな。挨拶は卒業後か」

 今、挨拶って言葉が。もしかして親に会う気、満々だったの? 何をどう考えていいか分からなくなってきた。しかも大変になる理由を勘違いしている。

「大変になるのはそういう理由じゃなくって、その母が多分、和樹さんを見たら1人でテンション上がってしまうと思う。和樹さんが困るかも」

「そうなのか。何で俺を見るとテンション上がるんだ?」

 それはイケメン好きだからです。さすがに言えない。

「そこは気にしないで。とにかく1人で行けるよ」

「迎えに行く。早く会いたいから」

 そんなにストレートに言わなくても。でも嬉しい。先生も同じこと思ってくれたんだ。にやけちゃう。

「分かった。じゃあ、家の近くの公園でもいい?」

「いいよ。11時頃はどう?」

「うん、11時ね」

 そのあとは、他愛もない話をしてから電話を切った。明後日は先生に会える。



 今年、初めて先生と会える日。7時半に起き、机の上にある携帯を見るとメールが来ていた。それは先生からだった。


『風邪引いたみたい。移すと悪いから、会うのは今度にしよう。ごめん』


 メールの受信時刻はAM5:32。

 熱があったりするのかな。一人暮らしだし、心配だな。ちょっと様子、見に行こうかな。うん、そうしよう。


「お母さん、おじいちゃんが送ってくれたみかん、友だちに持って行っていい? 友だちが風邪引いたみたいだから、お見舞いに行ってくる」

 キッチンで朝ごはんを作っているお母さんを手伝いながら言った。

「そう。分かったわ。袋に入れて玄関に置いておくわね」

「ありがとう」

「あと、よろしくね。お父さん、起こしてこなくちゃ」

 何で、あんなに笑顔なんだろう。最近、お母さんに微笑まれることが多い。何なんだろう?

「熱っ」

 お味噌汁の味見をしている時、考え事をしていたせいで舌を火傷した。料理中は考え事禁止だね。

 ダイニングテーブルに朝ごはんを並べ終わったとき、お父さんとお母さんがリビングに入ってきた。

「お父さん、おはよう」

「おはよう」

「さっ、食べましょう」

「うん。いただきます」

「いただきます」

「いただきます」

 それぞれが椅子に座って、朝ごはんを食べだした。

 お父さんがお味噌汁をすすり「美味い」と、言った。

「それ真美が作ったのよ。最近、料理が趣味みたいでね、料理の腕がかなり上がってるの。もう、いつお嫁に行っても大丈夫ね」

 朝から何言ってるんだか。変に反応すると面倒なことになりそうだから、ここは無言でいるのが一番。

「お母さん、真美はまだ16歳だ。嫁なんて早いよ」

「そんなことないわよ。法律ではもう結婚できる歳だし。あと7、8年もしたら、お母さんがお父さんと結婚した歳とになるわよ」

 そんな渋い顔で私の顔を見ないで、お父さん。

「まだ10年くらい先のことじゃないか」

「あら、あなた。10年なんて、あっという間よ」

 その話題から離れて。お願いだから。

「それに彼氏ができたって、可笑しくないでしょ」

「彼氏!」

 朝から叫ばないで。

「落ち着いて。あなた」

 興奮させたのはお母さんでしょ。

「ごちそうさまでした」

「真美、待ちなさい。彼氏、いないよな」

 ここは嘘をつかせてもらいます。

「いないよ。落ち着いて食べなよ。お父さん」

 自分の食器をシンクに置いてから、自分の部屋に行って出かける準備をした。さすがに今日はワンピースだと動きにくいよね。ジーンズとチュニックのニットでいいか。コートを羽織り、バッグに携帯やお財布を入れて、北海道のお土産を持って玄関に行くと、少し大きめの紙袋が置いてあった。

「お母さん、行ってくるね。みかん、ありがとう」

 お母さんが小走りで玄関にやってきた。

「お父さん、大丈夫?」

「いいのよ。いつものことでしょ。いい加減、子離れして欲しいわね。真美がお嫁に行くまでに物分りの良い父親にしておくから」

 何、言ってんだろう。

「うん。よく分かんないけど、行ってきます」

「いってらっしゃい」

 家を出たとき、ドッと疲労感に襲われた。



 いつもは先生の車で行く道を自分の足で歩く。車の乗っているときは、先生と話していることが多くて、ほとんど外に目を向けることはなかった。早く先生の様子が知りたくて、早足で歩く。そのせいで、今日も周りのお店が目に入らなかった。

 あっ! スーパーの前を通った時に、あることに気づいた。先生は自炊をちゃんとするタイプで、レトルト関係がほとんどない。確か、お気に入りのキムチラーメンのカップ麺しかなかった。

 風邪を引いているなら料理をするのは面倒だろし、こういう時はレトルトに頼るのが一番だよね。

 スーパーでレトルトのお粥とスープ、それと念のため発熱用の冷却シートを買ってからマンションへ行った。


 オートロックを前に教えてもらった通りに解除する。エレベータで7階へ行き、先生の部屋の前に来た。インターホンを鳴らして、ドアが開くのを待ってみても開く気配がない。もう一度、インターホンを鳴らしてみた。やっぱり開かない。

 ドアノブに手をかけた。


――ガチャ


 開いた。鍵をかけないなんて不用心だよ。静かにドアを閉めて、鍵をかけた。

「お邪魔します」

 玄関から声をかけても何の反応もない。リビングへ行くと、ソファにはワイシャツやネクタイ、パーカー、ダウンなどが脱ぎ捨てられていた。

 こんな風に散らかっているなんて、初めて。そんなに体調悪いのかな。

 寝室のドアを開けると、ベッドで息苦しそうに横になっている先生がいた。

「和樹さん、大丈夫?」

 私の声に反応して先生が薄目を開けると、突然、腕を引っ張られた。そのせいでバランスを崩し、先生の体の上に覆いかぶさってしまった。

「和樹さん、ごめん」

 退こうとすれば、背中に先生の腕が回って、あまりの力強さに身動きが取れなかった。

「ちょっと、安静にしていないと。離して」

 顔を持ち上げて、先生の顔をのぞき込んだ。

「うんん……」

 病人の癖に何してるの! 先生がキスをしてきた。こんなことをしている場合じゃない。何とかしなくちゃ。

 腕に力を入れて体を離そうとしても、どうにもならない。うん? 背中に違和感が。これは手? ニットの中に先生の手が知らいない間に入っていた。文句を言いたくても、口が塞がって何も言えないし。背中、撫でないで!

 背中に気を取られているうちに舌が入ってきた。熱があるせいか、口の中が熱い。その上、朝の味噌汁の火傷の部分がジンジンする。

「ちょっ……、か、ず……んん」

 何とか口を離そうとしても、また塞がれた。本当にどうしよう。もう先生がキスを止めるまで待つしかない。されるがままになっていると、やっとキスが終わった。そのままなぜか首に先生の唇が這い、鎖骨まで行き着いた。

「和樹さん、ちょっと」

 その瞬間、鎖骨にピリッと痛みが走った。何が起きた?

 この状況にパニックを起こしていると、先生が耳元で「真美」と言った。そのまま腕の力が抜けた。

 ベッドに両腕をつき、体を離し先生を見ると寝ていた。

 えっ、えええっ! 今までのことは寝ぼけていたの? 何だったの。

 とりあえずベッドから降りて、ずり上がってしまったニットを直した。ベッドの横にあるサイドテーブルを見ると、病院から処方された薬とミネラルウォーターが置いてあった。

 病院は行ったんだ。薬を飲んで、そのまま寝た感じだね。

 額に手を当てると、やっぱり熱を出していた。スーパーの袋から発熱用の冷却シートを出し、前髪を間に挟まないように気をつけながら貼ってあげた。一瞬、眉間に皺を寄せたけど、すぐに戻った。

 よし。お粥でも作るか。バッグやスーパーの袋などをソファの上に置いた。まず、みかんと冷却シートとお土産を冷蔵庫に入れないと。袋を持ってキッチンへ行った。

 レトルトのお粥とスープを調理台の端に置き、みかんを袋から出そうと手を入れたとき、みかんじゃないものが触れた。それを出してみると、私が家で使っているエプロンだった。

 何でこんなのが入ってるの? お母さんが入れたんだよね。もしかして、何か感づかれているかも。そう考えると、ここ最近の微笑みや今朝の会話も納得がいく。いや、あのお母さんが気づくはずがないよね。あのぽわんとしたお母さんがね。ない、ないよ。間違って入れただけでしょ。せっかくだから使おう。

 エプロンを着けて、冷蔵庫にみかん、冷却シート、お土産を入れた。シンクの方を見ると使ったコップやお皿が洗わずにあった。

 リビングはさっき見た通り、服が脱ぎ散らかしてあって、洗面所には2日分くらいの洗濯物が溜まっていた。

 まずリビングに行って、窓を開ける。それからダウンやジャケットなどハンガーに掛けるべき服を持って、静かに寝室に入る。静かにクローゼットを開けて、空いているハンガーに服を掛けて、また静かにリビングに戻った。

 さあ、次はキッチン。シンクの中にある食器を洗い、お粥を作る。お鍋に蓋をして、先生の様子を見に行った。


 先生の顔を見ると、さっきよりも息苦しそうな感じはなくなっていた。少しは下がったかな。頬に手を添えたとき、先生が目を開けた。

「えっ、真美。あれ、本物?」

 起き抜けで訳の分からないこと言っている。

「どうしたの? 熱はどう?」

「薬が効いてきたのかな。結構、楽になった」

「そっか。よかった」

「いつ来たんだ?」

「11時くらい」

「風邪、移すとまずいから来なくてよかったのに」

「でも、心配だったから」

「ありがとう。こういう時、誰かが居るっていいな。今、何時?」

「13時ちょっと前。お粥、作ったんだけど。食べられる?」

「うん、食べる」

「ちょっと待ってて」

 キッチンに行くとお粥がいい感じにできあがっていた。小さめの土鍋にお粥をよそって、トレーに漬物、梅塩、お茶、お茶碗、レンゲと一緒に乗せて先生の所へ持っていった。

 サイドテーブルの上を軽く片付けてトレーを置くと、先生が起き上がった。

「大丈夫?」

「ああ」

 枕を立て、寄りかかりやすいようにしてあげた。それからパーカーを肩に掛けた。

 先生は「ありがとう」と言ったあと、少し咳き込んだ。

「はい、お茶」

 先生がお茶を飲んでいる間に、お粥をお茶碗によそった。

「熱いから、気を付けて食べて。朝ね、お味噌汁の味見の時に火傷しちゃったから、私みたいにならないようにね」

 お茶をサイドテーブルに置いた先生が口を開けて「あ~ん」と、言ってきた。

「何してるの」

「あ~ん」

「あのさ、自分で食べられるよね?」

「あ~ん」

 もう、食べさせてばいいんだよね。しょうがない。

「梅塩、かける?」

 先生が軽く口を開けたまま、首を縦に振った。お粥に梅塩をかけて軽く混ぜる。冷ましてあげないとダメだよね。レンゲに向かってフー、フーっと息をかけてから、先生の口に運んであげた。

「美味い」

 あとは自分で食べてという意思表示として、お茶碗とレンゲを先生の前に持っていった。でも、また「あ~ん」と言ってきた。

 結局、お茶碗の中が空になるまで「あ~ん」攻撃は続いた。しかも2杯目もまた「あ~ん」をしてきた。「いい加減、自分で食べて」と言って「あ~ん」攻撃を強制終了させた。先生は不満そうだったけど、もう限界だった。

 「あ~ん」がこんなに照れることだとは夢にも思わなかった。誰かに、ご飯を食べさせたこと自体なかったけど。

 それだけ食欲があれば安心だなと思いながら、お粥を食べる先生を眺めていた。

「和樹さん、ご飯食べ終わったら、着替える?」

「ああ、そうする」

「着替えとタオルって、どこにあるの?」

「そこの引き出しの一番下がタオルで、その上が着替え。どれでもいいから」

「分かった」

 ダークブラウンのチェストから2枚のタオルと着替えを出す。ベッドの端に着替えを置いてから、タオルを持って洗面所へ行った。

 洗面器に少し熱めのお湯を張り、その中にタオルを入れる。寝室へ戻ると、先生はお粥を完食していた。

「全部、食べられたんだ。よかった。薬、飲んだ?」

「うん。お粥、美味しかった。ありがとう」

「どういたしまして。はい。顔とか手とか拭いたら、少しさっぱりするよ」

 固く絞ったタオルを渡した。

「ありがとう」

 冷却シートを剥がして軽く顔や手を拭いたあと、服を脱ぎだした。

「うわぁ。私が出て行ってから、着替えてください!」

 あたふたしている私をよそに、Tシャツも脱ぎ、上半身裸だった。

「背中、拭いて」

「えっ?」

「背中、拭いて。俺、風邪悪化するよ。早く」

 病人の癖に態度、大きくない? 子どもの我が儘に付き合っている気分だ。先生じゃなかったら絶対お説教してるよ。

「分かった」

 タオルを洗面器の中にもう一度浸けて、固く絞って背中を拭き始めた。

「痛かったら、言ってね」

「うん」

 目線のやり場に困る。どこを見ても背中。男の人の背中って、広いな。

「はい、あとは自分でやってね」

 新しいタオルを濡らして、後ろからタオルを渡した。

「えっ、腕とか肩とか拭いてくれないの?」

「頼まれたのは背中だけだから。早く服着なよ」

 空になった食器が乗ったトレーと使い終わったタオルを持って寝室を出た。それから食器を洗って、冷却シートを持って先生の所へ戻った。

「着替え、終わった? 入るよ」

 ドアの前で声をかけると、なかから「どうぞ」と、返ってきた。

 先生は着替え終わって、ベッド上に座っていった。

「はい。だいぶ落ち着いたみたいだけど、まだ熱あるでしょ。前髪挟まないようにね」

 私の手から冷却シートを受け取り、片手で前髪を抑えて、もう片方の手で冷却シートを貼ろうとしている。でも上手く貼れないみたいだった。

「もう、私がやるから。前髪、抑えてて」

 ベッドに片足をついて、先生の手から冷却シートを取り、おでこに貼ってあげると「冷たっ」と言った。

「ゆっくり休んでね」

 ベッドから降りようとした時、先生の両腕が腰に回ってきた。

「少し、このままでいさせて」

「うん」

 毛布が掛かっている膝の上に横座りする状態で先生に抱きしめられていた。私も先生の背中に腕を回した。残像のように、さっき見た先生の背中がチラついた。

「ああ、キスしたい」

「な、何言ってるの」

「ダメだよね。風邪、移っちゃうよな」

 さっき、すごい勢いでキスしてきたこと覚えていなんだ。一生教えてあげない。

「うん、ダメ。病人は安静にしていないとね」

「はいはい」

「さっき、私を見た瞬間、本物って言ってきたでしょ。何で?」

「えっ、ああ、いや、言ったかな。覚えてない」

「その言い方、怪しい」

「そんなことないよ」

 何か隠してる。絶対。

「ふ~ん」

「何だよ、その『ふ~ん』」

「別に。何か隠してるなと思って」

「隠していないし」と目をキョロキョロさせながら先生が言った。

「顔、赤いね。熱、上がっちゃった?」

 むすっ、とした先生から体を離し「いい加減、寝ようね」と言って、膝から降りようとしたら、余計に力を込めて抱きついてきた。病人なのに何でこんなに力があるのよ。

「やっぱり、嫌だ。キスする」

 有言実行。「ダメ」と言う間もなかった。気が付けば唇が触れていた。抵抗してみても無駄だった。


 息をすると微かにハーブのような、メンソールのような香りがした。ああ、冷却シートの匂いだ。熱を出している人なのに、と思っても、もう遅い。先生の首に腕を回していた。

 12月に初めてキスをした時はビックリしたのと、嬉しいのと、恥ずかしいって気持ちでいっぱいだった。

 今は気持ちいい。今日は先生との2回目のキス。さっきのも入れると3回目か。キスはすればするほど、気持ちよくなるものなのかな。今以上に気持ちよくなったら、どうなってしまうのだろう。

 下唇を吸われて、舌が入ってきた。さっきより口の中が熱くない。よかったと思った。それからチュウッという音を立てながら唇が離れた。

 先生が「唇、真っ赤。口紅つけたみたい」と言って、唇を親指でなぞる。それだけで背中が甘く痺れるような感覚がした。

「風邪引いてるんだから、安静にしていないとダメでしょ」

 唇にある手をつかむと自然と恋人繋ぎになって、私の膝の上に絡んだ手が置かれた。

「すいませんでした。風邪移ったかな? あとでうがいして。真美が風邪引いたら困るから」

「だったら最初から、こんなことしないで」

「こんなことって、何?」と、聞いてきた。意地悪な顔で。

 何も答えないでいると「顔が赤いよ。真美も熱出ちゃった?」と言って、私の反応で楽しんでいる先生に「意地悪……」としか言えなかった。

 病人なら大人しくしていて欲しいよ。

 先生の膝から降りて、洗面器や着替えを持って「ちゃんと寝てね」と言ってから寝室を出た。背後から「はーい」と言う先生の声が聞こえた。


 洗面所へ行って、溜まっている洗濯物を洗濯機に入れてスタートボタンを押す。洗面器を洗って元の場所に戻した。目の前にある鏡を見ると頬が赤くなっていた。

 今になって恥ずかしくなってきた。何だか、すごいキスを。はっ、思い出しちゃったし。先生の顔、見られない。その場で数分しゃがみ込んでしまった。

 少し落ち着いてからエプロンを外して、リビングのソファに座った。携帯の時計を見ると、もう15時だった。

 夕ご飯時まで、洗濯、掃除、アイロン、余った時間は先生の本棚にある本を読んで過ごしていた。


 18時半過ぎると外は真っ暗になり、夕飯を作り始めた。食欲はそれなりにあるみたいだったから、お粥の上に野菜あんかけを乗せることにした。

「きゃっ! びっくりした。起きて大丈夫?」

 お粥の様子を見ている時、突然、後ろから抱きしめられた。

「うん。大丈夫。美味そう」

 右肩に顎を乗っけているせいで、しゃべる度に熱い息が耳にかかるし、肩には小さな振動が伝わってくる。

「ねえ。料理、しにくいんだけど」

「気にしないで、続けて」

 子ども返りしている先生に何を言っても無駄な気がして、その体制のままで料理を続けた。

「もうでき上がるから、ベッドに戻って」

「リビングの方で大丈夫だよ」

「そう。なら、あっち行って座ってて」

 そう言うと、やっと先生は「はーい」と言って、離れてくれた。

 昼間の「あ~ん」攻撃対策で、私も一緒にご飯を食べることにした。テーブルにあんかけお粥とあんかけうどんを並べ、ご飯を食べ始めた。

 あんかけうどんをツルツルとすすっていると、先生がこっちをじっと見ていて、また「あ~ん」攻撃かと思った。でも違うみたいで、首周りをじっと見ていた。

「どうしたの?」

「えっ、何でもない。いや、何でもなくないか。ご飯、食べたあとでいいよ」

「そう。熱いから気をつけてね」

 ちょっと怒っているような先生は、不機嫌な顔でお粥を食べ始めた。



*****



 真美の鎖骨にキスマークがある。一瞬、湿疹とか虫刺されとかに思ったけど、あれはキスマークだ。エプロンを外したとき気がついた。さっきまではエプロンの首ひもで隠れて見えなかった。

 真美がお見舞いに来てくれて嬉しいけど、今はすごくイライラする。真美が浮気をするようなタイプでないのはよく分かっている。何なんだよ、ったく。

 夕飯の間、真美が話しかけても曖昧な相槌しかできなかった。


 夕飯を食べ終わったあと、真美の手を引っ張って寝室へ連れて行った。「和樹さん、どうしたの」と、不安を含んだような声で聞いてきたけど、それを無視した。

 ベッドに座り、膝の上に跨るように真美を座らせた。この体制が恥ずかしいみたいで、何度も俺の膝から降りようとしていた。そうはさせないと腰に腕を回して体を拘束した。

 降りるのを諦めた真美は「和樹さん。ねえ、どうしたの?」と、少し怯えたような表情で聞いてきた。

「ねえ、これ何?」

 キスマークのある鎖骨を人差し指で撫でる。

 何のことだか、さっぱり分からないという感じで「えっ」と、聞き返してきた。

「これキスマークだよね」

「キッ、キスマーク?」と、裏返った声を出した。

「気付いてないの?」

 真美は目を開いて、固まっていた。

「何かあったの?」

 怒らないで聞こうと思っても、それとは裏腹に声がどんどん低くなっていってしまう。

「キスマークって、付ける瞬間、チクって、する?」

 突然、顔を赤くして聞いてきた。どうしてそんなことを聞いてくるのかよく分からないが「ああ」と答えた。

「これ付けたの、和樹さんだよ」

「はあ?」

 いや、付けたなら覚えているだろ。今のところ口以外にキスしたことないし。



「覚えてないみたいだから、言わないつもりでいたんだけど。今日ここに来たとき、寝ぼけてる和樹さんが急に抱きしめて、すごい勢いでキスしてきて。離れようと思っても離してくれないし、首筋や鎖骨にまでキスしてくるし。そのとき、鎖骨当たりでチクッとしたの。多分、その時のじゃない?」

 嘘……。あれ、夢じゃなかったんだ。真美とキスする夢を見ていた。まさか現実の真美に変なことしていないよな。

「そうだったんだ。ごめん。あのさ、俺がしたのって、キスだけ?」

「ううん。背中、じかに触ってた」

 そう言った、真美は真っ赤だった。

「ごめん。本当にごめん。怖くなかった?」

「それはない。困ったけど」

「ごめん」

 情けない。自分が付けたキスマークにイラついて、夢と現実を勘違いして真美にいろいろなことをしてしまったなんて。

「いいよ、寝ぼけてたんだし。変な夢でもみてたんでしょ」と話す真美の目はヤラしいと言っていた。

 返す言葉もない。

「すみません」

 俺が項垂れて真美の肩に額を乗せると、真美は「よしよし」と言いながら頭を撫でてきた。

「何だよ。急に」

「凹んでるから、元気がでるように」

 今日の真美には勝てないな。柔らかく細い指を感じながら、そんなことを思った。



 あれから真美は食器を洗い、洗濯物を仕舞いに寝室へ入ってきた。そしてベッドの方に呼び寄せ、また膝の上に真美を座らせる。

「もう、帰った方がいいな」

「まだ20時だよ」

「今日は送ってあげられないから早めに帰ること。じゃないと俺が心配」

「分かった。その代わり明日も来ていい?」

「うん。いいよ」

 よかった。キスマークのこと怒ってなくて。二度と来ないなんて思われたどうしようかと思った。

「ちゃんと鍵、かけておかなきゃ駄目だよ」

「えっ」

 そう言われてみれば、何で真美は家の中に入れたんだ?

「鍵、開いてたよ。危ないでしょ」とちょっと強めの声で言われてしまった。

「分かりました。気を付けます」

「うん。気を付けてください」と言ったあと俺の膝から降りた。

 そのあと「また明日。ちゃんと休んでね」と、手を振りながら玄関を出て行く真美を見送った。

 鍵を閉めて、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けようとドアに手をかけると、メモが貼ってあることに気付いた。


『冷蔵庫にみかんと北海道のお土産、あと予備の冷却シート入れておいたよ。

 レトルトのお粥とスープ、カップ麺の横に置いておいたから。

 食べたい時にどうぞ。早く風邪治してね。    真美』


 冷蔵庫を開けると、みかんが5個あった。なぜか1個だけ、にっこり笑った目と口が書いてあった。これは食べるのは最後だな。

 北海道のお土産は『雪の恋人』だった。北海道といったらこれだよな。明日、一緒に食べよう。

 ミネラルウォーターを一口飲んでから冷蔵庫を閉めた。

 

 寝室へ行き、お礼のメールを真美にして、パソコンディスクの引き出しを開けた。奥の方へ追いやられていたスペアキーを取り出す。

 これからはちゃんと鍵を閉めるから、今度はこれが無いと真美が困るよな。

 携帯の横にスペアキーを置き、ベッドの中に入った。


 風邪も堪には悪くないなとエプロンをしている真美を思い出して、そう思った。

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