笠原さんの告白
新し制服を着た私の目の前には、ピンク色の道が続いている。
念願叶って合格した館花女学園。校門から校舎に続く桜並木がすごく奇麗で見惚れてしまう。学校見学に来たのは夏だった。まだ青々としていいて、桜の木だとも気づかないでいた。だから春になると、ここがピンク色の世界に変わってしまうとは思わなかった。
この学校の受験を決めたのは図書室が便利そうだから。蔵書が多くて、国立図書館のような造り。見学の時、この図書室を使ってみたいと思った。たかが図書室、されど図書室。家で勉強しない主義の私――テスト前は別だけど――だから図書室は第2のマイルームになる。ここは大事なポイントだった。
入学して1か月。学校にも大分慣れ、友だちもできた。そしてここにはアイドル並みに人気の先生がいることも知った。
「きゃー、高橋先生だ」
「えっ! ウソ! どこどこ?」
「ほら、あそこの渡り廊下」
「どこ?」
「ああ、もう東校舎に入っちゃった」
「ええ、残念」
クラスの子たちの騒ぐ声にげんなり。また高橋先生か。
確かにイケメンだと思う。背は高いし、確か噂だと183cmとか言っていた。知的メガネ男子って騒いでる子もいる。でも、所詮先生は先生で、生徒は生徒じゃない。もっと言えば大人と子どもでしかないのに。本気で恋したからって実るはずもないし。
私がそんな考えを持っていることを知らない友だちは、先生への恋の悩みを相談してくる。そういう時は一般論のようなアドバイスと聞き役に徹することにしていた。恋愛の相手なんて同じ高校生が丁度いいんじゃない、というのが本音。
「真美ちゃん、この宿題の問題分かんないんだけど、教えてくれない?」
「あっ、由衣ちゃん。うん、いいよ。数学ね」
由衣ちゃんは入学して最初に仲良くなった子。肩につくぐらいのセミロングのサラサラな黒髪、色白で、大きな目。日本人形を現代版にした様なかわいい子。
「この問題はね、この公式を使って答えを出してから、xにその答えを代入して計算するの」
「そっか、ありがとう。どの公式使っていいか分からなくて」
「そうだよね、公式って似てるのが多いから。そういう時は公式の終わりか、真ん中のこの部分を見るといいよ」
「へえ、真美ちゃんって教える上手だね。真美ちゃんが数学の先生だったら、私の数学の成績、絶対上がるのに」
「違うよ。私の教え方が上手いんじゃなくてね、2回目に教えてもらったからだよ。頭の中に授業の内容が残ってる状態で、もう一度同じ内容を聞くから私の方が分かりやすく思うだけだよ」
「そうかな? 真美ちゃんは謙虚だね」
「別に、真実を話しただけだよ」
由衣ちゃんは腕時計をチラッと見て、目を見開いた。
「あっ、待ち合わせに遅れちゃう」
「そっか、今日はデートだっけ?」
「そんなんじゃないよ。ただの幼馴染だよ」と言った、由衣ちゃんの頬はチークを塗ったみたいになる。
本当は好きなくせに。いつか由衣ちゃんの恋が叶うといいな。
ノートを鞄にしまうと、手鏡を出し、前髪を軽く直して、ナチュラルなピンクのグロスを塗った。
「私、帰るね。真美ちゃんは図書室?」
「うん。じゃあ、また明日ね。そのグロス、すごく似合ってるよ」
「ホント? ありがとう。バイバイ」
教室を出ていく由衣ちゃんの背中には羽があるみたいで、ふわふわと歩く後ろ姿は恋する女の子だった。
図書室に行くと、ほとんど人が居なかった。それはいつものこと。うちの学校には、学生が使う北校舎の各階に学習ルームが2部屋ずつある。そこでは、委員の子達が先生と決めごとしていたり、ガールズトークをしていたり、勉強会を開いたり、なんでもOKな部屋。それに比べて図書室は私語禁止。ほとんどの生徒は学習ルームを使っていた。
本棚と本棚の間を通って、いつも座っている窓側の1人用席に行く。すると、そこから少し離れた所にある4人用席に高橋先生が居た。
先生はノートパソコンを広げ、教科書と分厚い資料とノートを見ながら仕事をしていた。
たぶんあの分厚い資料は図書室のだ。それで居るんだ。
1人納得をして、席に着いた。ノート、教科書、プリントを出して、宿題と復習に取り掛かった。
家だと本や音楽の誘惑が強くて、なかなか勉強が進まない。でも図書室なら余計な雑念もないし、閉館時間と下校時間というタイムリミットがある。おかげで短時間で1日分の勉強が終わる。とっても効率的な場所。
大体のことが終わり、明日の授業の予習をサラッとしてから机の上を片付ける。そして席を立った。
「さようなら」
会釈をしつつ、帰り支度をしている先生の横を通り過ぎる。
「あっ、笠原」
「はい、何ですか?」
「先生が図書室に居たこと言わないでくれるか」
「はい?」
「いや、だから、その、図書室が騒がしくなるのは困るから」と先生は頭をかきながら、ちょっと困った顔で言った。
ああ、そういうことね。ここに居たのは追っかけから逃げ来たからなんだ。
「言いませんよ。そんなこと」
「そっか。そうだよな、笠原はそういうタイプじゃないよな。ごめん、変なこと言って」
「いえ、気にしていませんから。失礼します」
「ああ、気をつけて帰れよ」
私は先生にお辞儀をして図書室を後にした。校舎を出ると、空には三日月と1つ星が出ていた。
月や星は皆から好かれるけど、遠くにいるから楽でいいね。それに比べて高橋先生は大変だね。生徒に勉強を教えるのが仕事なのに、うまく生徒をかわすこともしなくちゃいけない。イケメンの宿命なのかもね。
校舎に目をやると、図書室の窓に鍵をかける先生が見えた。その時、ふと思った。
先生と勉強や委員関係以外で話したのは今日が初めてかも。
それから図書室に行くと必ず高橋先生が居た。高橋先生はいつもと同じ4人用席でノートパソコンを広げて仕事中。私は窓側の1人用の席で勉強。そして勉強が終われば、先生に「さようなら」と言って図書室を出る。それが放課後の日課になっていた。
ある日、いつも通り図書室に行くと、高橋先生が自分の腕を枕代わりにして眠っていた。先生を起こさないように、いつもの席に座った。
学生もやることがいっぱいあるけど、それ以上に教師はもっとやるこがあるだろうし、仮眠ぐらいしたいよね。
高橋先生が人気の理由はイケメンだけではない。授業も面白い。現代国語と言っても、所詮は何十年も前に書かれたものばかり。高校生には全く面白いと思える要素がない。だから高橋先生は補足のプリントにちょっとした雑学を入れてくれる。
例えば『芥川龍之介のラブレターを読むと、この人が本当にあの羅生門を書いた人なのかと疑いたくなる』のコメントの後にそのラブレターを一部抜粋して載せたりとか、夏目漱石は『I love you』を『月がきれい』と訳したとか、それらは女子高生が興味を持ちそうなものばかりだった。
そういうプリントを作るのだって大変だろうし、授業の進行を考えて、小テストを作って、その上、生徒の進路や悩み相談に乗って、本当に大変な仕事だと思う。私にはできないと、どの先生を見ても思ってしまう。
そんなことを考えながら宿題をしていると、後ろから変な声がした。
何だろう。
振り向くと先生が起きていた。周りをキョロキョロ見回した後、腕時計を見て、しまったという顔をした。
寝るつもりはなかったんだ。
その一連の行動が漫画に出てきそうな動きで、あまりに面白くて思わず笑ってしまった。
「笠原、何笑ってんだよ」
不機嫌な顔の先生は大人というより小学生の男の子みたいだった。こんな姿、ファンの子が見たら喜ぶんだろうなと思った。そんなことを考えても笑いが止まらない。
「すみません、寝起きの先生の行動が面白くて、つい」
普段ならこんなことは言わない。笑いすぎて、思考回路が止まっていた。
「そこまで笑うほど面白いことをしたつもりはない」
そう言う先生の顔を見ると、髪の毛に何かが付いていた。先生の所へ行き、それを取ってあげた。
「はい、髪に付いてましたよ」
先生はそれを受け取り、まだ笑い続けている私を見上げている。
「付箋、頭に付けた人、初めて見ました」
私は笑いすぎて涙が出てきた。メガネを外してハンカチで目元を拭い、またメガネをかけた。
そんな私の行動を先生は無言で見ていた。黄色の付箋を手に持ったまま。
「なあ、笠原、コンタクトとかしないのか?」
「えっ?」
「メガネ、かけてないものなかなかいいぞ」と先生は真顔で言った。
人前では必要最低限しかメガネを外さない。そう決めていた。それなのに無意識にメガネを――数秒とはいえ――外してしまった。別に先生がお世辞で言っている感じでもなかったけど、この言葉を真に受けたりはしない。
「そうですか? でもコンタクトって手入れとかいろいろと面倒なので、私にはメガネで十分です」
「そっか。これ、ありがとう」
先生は付箋を少し上に上げて、そう言った。
「いいえ」
私はそのまま自分の席に戻り、荷物をまとめて、先生に挨拶をし、図書室を出た。
何だか妙にドキドキする。別にこれと言った会話をした訳ではないけれど。たぶんメガネを外したせいだ。それだけのこと。
それからも高橋先生も私もいつもの席で勉強や仕事をしていた。そして先生に「さようなら」と言って、図書室を出るというのは変わらなかった。
ただ、家でメガネを外す時間が多くなった。別に深い意味はないけど。
気がつけばテスト2週間前になり、学校はテストムード一色だった。そうなると図書室は人が増える。
さすがに図書室は高橋先生の避難場所では無くなり、いつも先生が座っていた席には生徒が座っていた。私の席も、それは同じことで。
いつもと違う図書室がちょっと嫌で、その日から家で勉強するようにした。
そしてテストが終わり、高校に入って初めての夏休みが始まる。結局、あれから1回も図書室には行かなかった。図書室に行かなければいけないほどの勉強がなかったから。
夏休みが明けて2週間が経ち、また図書館に寄るようになっていた。
久しぶりに図書館に行くと、やっぱり人は全然いない。でも高橋先生が居た。いつもの席に座っていた。また放課後の日課が戻ってきたことがうれしかった。
10月になると、ちらほらとジャケットを羽織る生徒が増える。あんなに暑かった夏は9月まで居座ったくせに、10月になった途端、どこかへ行ってしまった。
そんな時期に高橋先生の噂が学校中に駆け巡った。
「高橋先生、結婚するらしいよ」
「嘘。だって、先生、彼女いないって言ってたじゃん」
「彼女はいないけど、婚約者はいるってことじゃない」
「そんなあ、凹む。マジ、ショック」
「だよね。私も。立ち直れない」
そんな会話が聞こえてきた。一瞬、固まってしまった。その噂にショックを受けている自分がいたから。
ショックを受ける理由なんてないのに。私には関係ないこと。そうだよ、関係ない。
「真美ちゃん、どうしたの」
「えっ」
由衣ちゃんが心配そうに私の顔をのき込んだ。
「何か、顔色悪いけど」
「そうかな。寝不足かも」
「そっか。つらかったら言ってね」
「うん、ありがと。でも大丈夫だよ」
その言葉で、由衣ちゃんはまだ心配そうな顔をしていたけれど、自分の席に戻って行った。
チャイムが鳴り、数分後に教室の扉が開いた。入ってきたのは高橋先生だった。
そうだ、次は現代国語の授業だ。
私は高橋先生の顔を見ることができなかった。
その日から図書室に行くのをやめた。
「真美ちゃん、最近、図書室に行かないね」
「ああ、家で勉強するのもいいなって、思って。好きな時のジュースも飲めるし、お菓子も食べれるしね」
「そうだね。図書室は飲食厳禁だもんね」
「うん」
図書室に寄らなくなってから、毎日、由衣ちゃんと一緒に帰っている。
「ねえ、真美ちゃんって、高橋先生のこと好きだったりする」
由衣ちゃんが何の脈絡もなく、そんなことを聞いてきた。それから心臓は原因不明のドキドキに襲われていた。
「何、言ってるの。そんなことある訳ないじゃん」
「真美ちゃん、もしかして気づいてない。現国の時、高橋先生の背中、苦しそうに見つめてるの。真美ちゃんが図書室に行かなくなったのって、高橋先生の結婚の噂が流れた日からでしょ」
私は何も言えなかった。先生を見ている意識は全くなかったから。
「思うんだけど、別に先生を好きって認めていいと思うよ。結果、つらくなることがいっぱいあるともうけど。私ね、幼馴染のこと好きだったんだ。ずっと。真美ちゃんは気づいてたよね。認めるのが怖かったんだ。彼は20歳の大学生で、私のことは妹にしか見てないのも分かってる。だから妹で居ようって決めてたの。好きって気持ち、無視してた。でもね、彼に彼女ができちゃった、夏休みに。そしたら無視できなくなっちゃった。失恋しないと認められないなんて、バカだよね」
由衣ちゃんは少し涙目になりながら話してくれた。
その時の気持ちを話すのは今一番つらいことなのに、私のために話してくれる由衣ちゃんに何を言えばいいのだろう。
そんな風に思っていると、由衣ちゃんがまた話し始めた。
「でもね、彼のこと好きなままでいようと思う。それで、幼馴染で妹でいようと思う。ちょっとつらいけど、彼に会えない方がもっとつらいから、そうすることに決めたんだ。そう思ったら、なんだかスッキリしちゃった。」
「由衣ちゃんは強いね」
「違うよ。本当に強かったら、ちゃんと自分の気持ちを整理して、新しい恋を始めれる人が強い人だよ」
「そうかな。苦しくっても好きでいるって、やっぱり強いと思うよ」
「真美ちゃん、少しだけ自分の気持ちに向き合ってみたら。見つけた気持ちを大切にしてあげなよ。それで苦しくなったら、また一緒にいっぱい話そう。ねっ」
「ありがとう」
私は図書室での出来事を由衣ちゃんに全部話した。もう一度、あの時間を思い出したら、自分の気持ちがはっきりする気がしたから。由衣ちゃんに今の自分を話したいと思ったから。由衣ちゃんは静かに聞いていた。
「そっか。高橋先生とそういう繋がりあったんだ」
「うん。何か、ちょっと整理できたかも」
「そっか、よかった」
私たちはこの話が終わるまでに何本もの電車を見送っていた。
あれから由衣ちゃんと別れて、今は自分の部屋にいる。本棚には図書室で借りた本があった。図書カードを見ると明日が返却日。図書室にいる先生を見てから2週間が経っていた。
高橋先生と一緒にいる図書室の時間は普通のことだった。そこに居るのが他の先生だったとしても同じだと思っていた。でも違った。私にとって、高橋先生とのあの時間は居心地がよくて、特別な時間だった。結局、私も失恋して自分の気持ちに気がついた。しかも、由衣ちゃんがキッカケをくれなければこの気持ちに目を向けることもなかった。
これからこの気持ちはどうすればいいんだろう。
「由衣ちゃん、おはよう」
「おはよう」
「昨日はありがとう。私も認めることにした。これからどうするかは分かんないけど」
「そっか。変な恋してるね。失恋確定なのに」
「だね」
私たちは同時に笑い出してしまった。お互いの気持ちが理解できる友たちがいれば、それで十分かもしれない。
「今日、図書室に行ってくる」
「えっ、大丈夫」
「うん。借りてた本返しに行くだけだから」
「そう。私も一緒に行こうか」
「由衣ちゃん、今日は幼馴染と会う約束してるんでしょ」
「メールすれば平気だよ」
「いいよ、そこまでしなくて。本返すだけだから」
「なら、いいんだけど」
「うん」
ただ本を返すだけなら、入口にあるカウンターに行けばいいだけだしね。当分は図書室で勉強する気にはなれないけど。
放課後、図書室へ行った。図書室が近づいてくるだけで、心臓が痛くてしょうがない。心臓って、こんなに早く鼓動を打つことができるなんて知らなかった。
「すみません」
カウンターに司書の人が居なかった。仕方なく、少し奥へ進み探してみたけれど、やっぱり居なかった。
どこに行ったんだろう。
「笠原」
声の方に振り返ると、高橋先生が数冊の文庫を片手に立っていた。
「笠原が図書室に来るの、久しぶりだな。どうした。何か探してるのか?」
「あっ、本を返しに来たんですけど、司書の人が居なくて探してたんです」
「ああ、司書の人なら本が届いたって言って、出て行ったぞ。すぐ戻ってくると思うけど」
「そうですか」
どうしよう。待つしかないよね。10分ぐらい耐えるしかない。
「なあ、悪いけどちょっと手伝ってくれない」
高橋先生は私の返事を聞かずに、どんどん図書室の奥へ行ってしまう。仕方なく、高橋先生の後を追った。高橋先生はやっぱりいつもの席にノートパソコンを広げていた。
「悪いけど、これ名簿順に並べて、出していない人にチェックつけてくれる」
高橋先生はプリントの束を自分が座っている隣の席に置いた。
しょうがない。覚悟を決めて隣に座った。今日は現代国語がなくて良かったと思ったのに。何、この展開。ちょっと前なら、こんなこと何とも思わなかった。今は落ち着くことすらできない。でも、普通にしなきゃ。
スクールバッグからペンケースを取り出して、プリントの束を手に取った。
横からパソコンのキーを打つ音が聞こえてくる。それだけで高橋先生がいることを意識してしまう。
早く終わらせて、ここから離れなきゃ。長く居れば居るほど苦しくなる。
猛スピードでプリントを並べた。2度間違いがないか確認して、高橋先生に渡した。
「あの、できました」
「おっ、早いな。ありがとう」
「いえ。私はこれで失礼します」
スクールバッグと本を持って、席を立とうとした。
「待って」
図書室では出してはいけないような音量で先生が声をかけてきた。とりあえず、もう一度座ることにした。
「ここ最近、何で図書室に来なかったんだ?」
まさか、こんな質問をされるとは思わなかった。その質問に答えることはできない。
「特にこれと言った理由はないです」
「そうか。何か悩みでもあるのか。最近、元気ないみたいだけど」
その言葉がうれしかった。教師として気にかけてくれているだけだって分かっていても……。
「無理には聞かないが、もし先生で良ければ相談に乗る。話すだけで楽になることもあるから」
話したいこと、言いたいこと、聞きたいこと。いろいろなことが頭を回った。たくさん言葉が浮かんだって、言いたいことなんて1つしかない。それは言っちゃいけない言葉。先生と生徒で、大人と子どもで、婚約者がいる人。
高橋先生の手元に目をやると、太宰治の全集が開いてあった。
来週から太宰の作品を授業でやるって言ってたな、この前の授業で。
そこには黄色い付箋が貼ってあった。タイトルは『女生徒』。太宰治にまで「お前は生徒だ」と戒められているようだった。
でも、私は由衣ちゃんみたいに強くない。自分でどうしたらいいか分からないこの気持ちを高橋先生に切ってもらった方が楽かもしれない。気付いたばかりの気持ちなら、きっとすぐに諦めがつく。ずるい方法かもしれないけど。
私は高橋先生の方を見た。先生も真っすぐこっちを見ていた。
息を吸って言いたい言葉を出そうと思ったけれど、言えなかった。耳の奥がドクドク鳴って、とても声を出すことなんできそうにない。
『女生徒』に貼られている付箋を剥がした。そして言えない思いを書いて、それを高橋先生の手の甲に貼った。
これから言われる言葉が怖くて後ろを向いた。
これで本当に終わっちゃうんだ。泣きそう。絶対、図書室出るまで泣かない。
目を固く閉じた。一瞬の沈黙がとても長く感じられた。
突然、背中が温かくなった。ゆっくり目を開ける。目の前には高橋先生の腕があった。左耳の近くで低い声が響いた。
「先に言われちゃったな。本当は俺が先に言いたかったんだけど。でも、笠原は言っていないか。書いたんだもんな」
幻聴だと思った。自分が都合いいように解釈してしまっている気がした。
高橋先生の腕にさらに力が入った。
「笠原、好きだよ」
時間が止まった気がした。
夢みたい。あれ、結婚は、婚約者は。
「先生」
「何?」
「結婚するんじゃないんですか?」
高橋先生が離れた。そして、私の肩をつかんで体を反転させ、先生と向かい合う形になった。
「何、それ。俺、結婚しないよ。恋人すらいないし」
「えっ! 今、学校中の噂ですよ。先生が結婚するって」
「結婚するのは俺の兄貴」
何、それ。大事な部分が無くなり過ぎている。
そう言われてみれば、影は薄かったけど、高橋先生にはイケメンのお兄さんがいるっていう噂も流れていた。女子校の噂は尾ひれが付くこともあれば、刺身になることもあるのだと実感した。
噂って当てにならない。
「もしかして、それが原因。図書室に来なくなった理由」
「……はい」
「ヤキモチ焼いてくれたんだ」
高橋先生はうれしそうに私を見ていた。
「顔、赤くなってきた。照れてる」
「かっ、からかわないでください。もう、帰ります」
「待って、携帯の番号教えて」
「えっ、いいんですか?」
「うん。彼女の連絡先は知っておかないと困る」
『彼女』という言葉にドキッとした。私、彼女なんだ。
番号を赤外線で交換して、私は図書室を出た。司書の人は私が帰る時もまだ居なかった。
今度、返却する時に事情を話せばいいよね。
高橋先生の番号が登録されている自分の携帯がなんだかすごく温かく感じた。そして、手に持っているだけでドキドキした。
*****
校舎を出て校門へ向かう笠原の後姿を図書室の窓から見ていた。
『人生、何が起こるか分からない』とは良く言ったものだ。自分が生徒を好きになるとは思わなかった。
俺の中で笠原真美という生徒は校則をきちんと守り、成績の良い、優等生というイメージだった。今年の新入生はかなり積極的なタイプの子が多い。気になる男性教諭には果敢に声を掛け、きっかけを作ろうとしている子、男女問わず先生という先生に好印象を与えようとしている子が多かった。その中で笠原はどの先生に対してもフラットだった。
そんな笠原のイメージが変わったのは図書室で寝起きの俺を見て笑った時だった。笠原は無表情ではないが、あんな風に感情をはっきり表に出すタイプでもなかった。不覚にも笑った顔がかわいいと思ってしまった。
所詮、教師だって人間だ。美人だの、かわいいだの、スタイルがいいだの、そんなことだって思う。
しかも笠原はメガネを外したら美人だった。普段かけている重そうな黒ぶちのメガネで地味な印象になっていた。
それから笠原のいろいろな表情を見たいと思った。
図書室で俺が座っている3つ前の1人席に居る笠原の後姿。それを眺めるのが学校での一番好きな時間だった。
でも、10月に入ると笠原が図書室に来なくなった。笠原が居ないというだけで、図書室は空虚な感じがした。
それに授業や職員室で見かける笠原は元気がないようだった。心配でも授業でしか接点のない俺があからさまに聞くことはできない。
笠原が図書室に来なくなって2週間が経っていた。さすがにここまで笠原のことばかり考えている自分へ自嘲的な笑いが出てしまう。
教師が生徒にこんな感情を持つとはな。
そんなことを考えながら本棚から数冊の本を取り出し、席に戻ろうと反対を向いた。そこには本を片手に何かを探している笠原がいた。
一瞬、考えすぎて幻覚を見ているのかと思った。でも、本物だった。
別に頼む必要のない仕事を笠原に頼み、初めて隣り合わせで座った。真剣に取り組む横顔が奇麗だった。
多分、笠原はあと2、3年もすれば男が放っておかない女になるだろう。そんな風に成長する笠原を一番近くで見守ってあげたいと思った。
教師として「何か悩みがあるなら相談にのる」と笠原に言うと、彼女は俺の顔を見た。少し口を開いたがすぐに閉じてうつむく。突然、本に貼ってあった付箋を剥がし、何かを書いて、俺の手に貼った。
それを見て、固まった。
【好き】
何でこんなかわいいことするかな。
付箋をゆっくり剥がし『女生徒』と書かれているすぐ隣に貼った。そして、笠原を抱きしめた。
本来なら断るべきだろう。笠原が卒業するまで待つべきだろう。でも、教師ではなく男でいることを選んだ。笠原の気持ちと俺の気持ち、今そこに存在する同じ気持ちを1つにすることにした。簡単に行く恋じゃない。笠原につらい思いをさせるかもしれない。それでも俺が守っていこうって、笠原の温もりを感じながら思った。
笠原が見えなくなった後、窓の鍵を閉め、図書室を出た。職員室に向かう途中で携帯が震えた。画面には新着メール1件という文字。
『笠原です。うれしくてメールしちゃいました。先生の居る場所から月見えますか? 今日は満月です。先生、月がきれいですね』
やっぱり、かわいい……。
近くの窓へ行き、空を見上げる。空には奇麗な満月が浮かんでいた。笠原は素直に月がきれいと思ってメールしたのか、俺がプリントに載せた夏目漱石の和訳のことを言っているのか分からないが、どっちでもよかった。
ただ、他愛もないメールをしたり、電話をしたり、話したり、そういう時間を大切にしたい。
笠原にメールを返信した。
『本当だな。月がきれいですね』