紅掛空色
つくづく思い通りにならない日々には何か『軽い運命感』があるような。楽しみにしていたイベントの雨天による順延とか、知り合いからの気の進まない頼まれごとがあるとか。とはいえ年の功なのか、不都合があっても普段通りにやっておいた方がいいという思いはあった。有名な著述家の言にあった、「チャンスは訪れる」という表現を半信半疑のところに留めておきつつもどこか信じたい気持ち。菜種梅雨の趣がある朝、トースターでいい感じに香ばしく焼けた食パンにお馬さんのような模様が現れた。
<何かの暗示だろうか?>
干支だけに一瞬だけ不思議な感覚が訪れたものの長続きはしない。確か週末には『桜花賞』というG Iレースがあったはずだ。運試しに馬券でも買ってみようかと思ったのは自然な流れ。出勤前とお昼休みのちょっとした時間でレースに出走する『有力馬』の情報をチェックする。
『ベニカケソライロ』
普段ならそれほど意識することのない『馬名』、お馬さんの名前が妙に気になった。公式ページに記載されている馬名の意味で実在する『紅掛空色』という色を指すものだと知る。最近メディアでも良く聞くようになった所謂『黄昏時』もしくは『マジックアワー』と呼ばれる夕暮れの色合いを連想させる青紫で、とても日本的でスマホに表示された画像を見ているだけで何がしかの情緒を感じさせる。ちなみに血統を調べてみると同馬の母馬の名がまさに『マジックアワー』とのことで、馬主さんもかなり乙なことをする人だなと感じる。
<決めた。この馬の単勝で勝負だ!>
一点勝負。運試しには持ってこいの買い方ではあるけれど、外れたらちょっと…だいぶしょげそう。密かに意を決したその表情をたまたま目撃していたらしい同僚が、
「なんか面白いことあった?」
と訊ねてきた。新入社員の事以外は基本的に話題に飢えている雰囲気だったのもあって、その話をしてみたらいかにも興味津々という感じ。
「桜花賞は内枠があんまり来ないイメージなんだよな。意外と大外から飛んできたりして。枠の発表はもうすぐだな」
彼、『中嶋』も競馬を嗜む。というか昨今の競馬ブームもあるのか、G Iの日はテレビでレース観戦をするという人も増えた印象。昨年末のグランプリレースで彼の信じた大本命が来なかった事で肩を落としてはいたが、その話をした際に『張り裂けそうだ』と不思議な言葉遣いをしながらニヤニヤしていたのが印象的だった。夕方…雨は止んで曇り空から微かに紅が射していた頃には既に枠順も発表となっていて、『ベニカケソライロ』は偶然にもその色と似た大外のピンクの枠だった。退社の準備をしていた中嶋氏にこれを伝えると、
「いや、ベニカケソライロは瞬発力タイプではないから内の方がよかったかもな」
と渋い表情をされた。<大外がいいと言っていたのに…>と内心思わなくもなかったけれど、逆に信じてみようという気持ちがそこで生まれた。ちなみに彼の本命は内枠を引いた『アフォーダンス』で根拠を訊いたら、「鞍上がレジェンドだから」とのこと。ああ見えてミーハーな男である。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
日曜『ウインズ』と呼ばれる施設に出向く。競馬ファンにはお馴染みではあるが、単純に『馬券を買える施設』といえば良いだろうか。遠く離れた現地で観戦は叶わなくとも設置されたモニターを通して声援を送ろうと考えていた。桜花賞は『クラシックレース』と呼ばれる特別なG Iである為かこの日は来客も多く、さまざまな世代の男女が浮き足だった様子で馬券の検討を行っている様子が見受けられた。
「あー、どうしよう!悩むわー!!」
その中でも一際声の大きい同世代くらいに見える女性がやや大袈裟なリアクションで一人で頭を抱えながら新聞…競馬新聞を睨んでいるのが目に付いた。と言っても悪い意味ではなく、キャラの濃い『UMAJO』だなぁという、そういう感じで。桜花賞の1時間ほど前に入場したので彼女が悩んでいるのはおそらく15時代の『メインレース』の馬券であるとは思われたのだけれど、桜花賞のことかどうかは分からない。
「『ベニちゃん』来るかなぁ…大外だよ!?」
ただ彼女がその時発した『ベニちゃん』というワードがもしかしたら『ベニカケソトイロ』の彼女独自の愛称だとすれば、桜花賞であることは確定する。全体的に場慣れしている様子とか、推し馬が偶然にも一緒だったことから同じ競馬ファンとして親しみを感じた為気軽な感じで「ベニカケソライロ本命なんですか?」と声を掛けてみた。もちろん他意はない。
「うん、そうなの。お兄さんもベニちゃん?」
その返事で『ときどき居酒屋で出くわす妙にフレンドリーなタイプの豪放磊落なお姉さん』と自分の中での分類が済み、そういうタイプの人が喜びそうな言葉を交えて、
「そうなんですよ。俺もベニちゃん推しです。名前に惹かれました」
と素直に答える。春らしいピンクを取り入れたコーデに加えて、大きな瞳が印象的な彼女もまたミーハーっぽい。
「本当は今日現地行ける予定だったんだけど、予定入っちゃって今日はここになったの。デビューから応援しているんだけど、ここでは応援馬券の『一点勝負』はちょっと勇気いるなぁと思って。連に絡めた馬券買い足そうか絶賛お悩み中です!」
『連に絡めた馬券』とは、馬連とか枠連とか3連複と呼ばれる馬券の中に『ベニカケソライロ』の数字を入れた馬券の買い方。あまり深く考えず一点勝負をしにきた自分とは対照的ではあるものの、当日の評価が5番人気という状況を鑑みれば現実的にはその方が『賢い』のかも知れない。ただ自分はこの日賢く立ち回るつもりは毛頭無かった。何せ、その頃に続いていた『停滞ムード』からの運試しを兼ねていたのだから。
「俺は『一点勝負』です」
そう言い放った刹那の彼女の驚愕したような瞳。
「お兄さん、見た目に似合わず『漢』だね!漢字のカンって書く方のオトコ!!」
<なんだろう…この不思議なやり取りは>と思わなくも無かったが、『漢』というか偶々その日の自分がそうせざるを得ない状況に追いやられているだけ、という背景を知らなければ『漢』に見えるんだろうなと素朴に感心してしまった。
「うん。そうだよね。こういう時こそ『推し』を信じなきゃ!わたしもそうするよ。ありがとう!!」
冷静に考えると自分が何がしかの責任を追ってしまうあまり良くない展開であった。とはいえ、言ってしまった手前「辞めた方がいいですよ」とは言えず、結局宣言通り『ベニカケソライロ』の単勝と複勝の合体した応援馬券を数千円購入。一点勝負とは言っても、3着までに入れば的中の複勝はこの際OKだろうと言い聞かせた。
想定外の責任を追ってしまいソワソワしている間にレースの時間が刻一刻と迫る。漢のクセに、というのも変ではあるが、<これで外れたら俺のせいになるのかなぁ…>などと最大の弱気が顔を覗かせる。モニターからお馴染みの関西のG Iファンファーレが流れ出し、ウインズの中も俄かに熱気を帯びる。手を合わせて祈るような格好のさっきのお姉さんの姿を横目で見守りつつ、自分もレースに集中しようと言いきかせた。
ゲートイン。スタート!!
ベニカケソライロも比較的良いスタートを切ったのが分かった。馬場は絶好の良馬場で前に行った馬が残りやすいという傾向もあったという。ベニカケソライロの鞍上は外から良いポジションを取る為に前目に付けて、そのままレースの流れの折り合った。例年、早いペースになりがちな桜花賞ではあるけれどこの日のレースは明確な逃げ馬不在で早いとも遅いとも言えないミドルペース。そうなるとどの馬にもチャンスはあったけれどベニカケソライロにとっては2着になった前哨戦とほぼ同じ展開になり、勝負所の4コーナー付近では外に膨れることなく距離ロスも最小限に回ってくることができた。
「いけ!!」
思わず声が出てしまった阪神の直線。半ばまで先頭を走っていた一頭を交わし、なんとベニカケソライロが先頭に躍り出た!!<イケるのか!?>とテンションが最大限に高まった瞬間、なぜか大外から出遅れた内枠発走のあの「アフォーダンス」が猛烈な勢いで追い上げてくるのが見えた!
<中嶋!!お前の馬なのかぁあああああ!!>
同僚の『ニヤリ』とする顔が脳裏に浮かんだ上、心の中で「お姉さんに言わなきゃ良かった!」と後悔の念が一瞬にして押し寄せ、アフォーダンスの恐ろしい末脚に思わず取り乱しそうになった。それくらベニカケソライロとは『勢い』が違っていたのだ。
『僕に、お姉さんに『その景色』を見させて下さい!』
最後に出てきたのはそんな祈りだった。ほとんど同時にゴール板を通過して、1着が2着である事は確定しているが結果は『写真判定』に委ねられた。
「どうなったの、どうなったの!?」
お姉さんが近づいてきて、不安そうに少し瞳に涙を浮かべてこちらを見ている。たぶん彼女は『推し』がここまで頑張ってくれて本心では嬉しいのだろう。それでも勝っていたかどうか自分には自信がなかった。
「結果を待ちましょう」
なんだろう。この時の妙な落ち着きは全てを出し切って、全てを受け入れた上でのものだったと思う。お姉さんとじっと無言でモニターを見て5分ほど見守っただろうか。掲示板の一番上に『18』という数字が表示され、確定の青ランプが灯った。
「ウソ!勝っちゃったよ!ベニちゃん勝っちゃったよぉおおおおおおお!!!」
絶叫して涙ぐむお姉さん。自分も何故か涙ぐんでいる。馬券が当たったからというよりかは、純粋な感動だったと思う。『生きていればこんな瞬間も訪れるのだな』という、そんな。現地では見届けられなかったお姉さんも、
「今日ここに来て良かった!ありがとう!」
と感動している様子。桜舞う競馬場ではベニカケソライロという名馬を称える声援が沸き起こっている。その人馬を見て「美しいな」と思った時からすっかり『彼女』が自分の『推し馬』になっていた。
「じゃあ、オークスは現地で応援ですね!」
「お兄さんも行く?行くよね?」
半ば社交辞令のようなものではあったけれど、もしかしたら府中で再会することもあるかも知れない。ウインズからの帰り道、なんとなく川沿いを通る。日の暮れかかったその時間に淡い色の空が一面に広がっている。そこにある色合いこそが『紅掛空色』なのだと教えてくれた、この出会いに感謝しなきゃなと思った。もっとももっと、この景色が好きになった。
『2着だったよ。張り裂けそう』
その時届いた中嶋氏からのそのメッセージが辛うじて現実感を保たせていた。




