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ライサは野菜を刻む手を止めて後ろを振り返り、思わず笑みをこぼした。 台所のカウンターの向こうで、フィオネルが食堂の机に向かい一心不乱にマンテラの実と格闘していた。 「何か手伝うことは無いですか」と聞かれて当たり障りのないマンテラの皮むきを頼んだのだが、最初のうちは雑談を交わしていたはずなのに、かたい殻をナイフで割り中の薄皮をむいていくという作業に予想外に熱中してしまったフィオネルはさっきから黙りっぱなしだ。 フィオネルの前の皿には、すでに今日使うには十分すぎる量のマンテラの実が綺麗に皮をむかれてたまっていたのだが、あまりにも集中しすぎている彼にライサは声をかけられずにいる。 残った分は、糖蜜と一緒に炒り菓子にして、フィオネルに持って行ってもらうことにしようか。
バタンッ。
その時、音を立てて入口のドアが開いて、一人の少年が部屋に飛び込んできた。
「ただいまっ。 かあさん今日は早かったんだね。」
そう言った少年は正面に座るフィオネルをみて、ドアを開けたその格好のまま目を丸く見開いて立ち止った。 今まで走ってきたのだろうか、彼の金色の髪の毛は四方八方に乱れ、子供らしく頬を紅潮させていたが、その顔からさっと色が引いていく。
「おじさん誰。」
少年のつぶやきに、片手にナイフ、もう片手にマンテラの実という恰好のまま止まっていたフィオネルは、何とも言えない表情を浮かべて少年を見つめていたが、はっと我に帰ると慌ててナイフを下に置いた。
「おかえりなさい。ヤルノ。」
手を止めて台所から出てきたライサを見て、ヤルノはやっとこわばった表情をやわらげ、思い出したようにドアを閉めた。 ヤルノは二人のそばまでゆっくりと近寄ってくると「ただいま。」と言いながらライサを見上げ、少し不思議そうな顔をしてフィオネルに顔を移し、やはり不思議そうな顔のままもう一度ライサを見た。 帰ってきて急によその男の人が、それもナイフを持って部屋にいればそれは驚くだろう。 可哀そうなことをしてしまった。 ライサはヤルノの前に跪くと彼の肩を抱いてそっと引き寄せた。
「ヤルノ、こちらはフィオネル様。 母さんが昔とてもお世話になった方よ。 前にも来てくださったことがあるのだけど、覚えてないかな。」
少し首をかしげるヤルノの前に、ゆっくりと立ち上がって近づいてきたフィオネルは、視線を合わすようにそっと腰をかがめて右手を差し出した。
「こんにちは、ヤルノ。 驚かせてしまってすみません。 しばらく見ないうちに、ずいぶん大きくなりましたね。」
柔らかくほほ笑むフィオネルをしばらく見上げていたヤルノは、ようやく安心したように笑顔を浮かべ、小さなその手でフィオネルの日焼けした大きな手を握った。
「それじゃあ、フィオネル様も軍人さんなの?」
ライサが出した果実水を一気に飲み干してから、ヤルノはフィオネルを見上げるようにして聞いた。 また、マンテラの実をむく作業に戻っていたフィオネルはその手を止め、隣に座るヤルノを見下ろして「いえ、」と首を振り、右腕につけている銀の腕飾りを差し出して見せた。 彼の前腕の半分ほどを覆うその腕飾りには、エウロニア王国の紋章と伝説の動物、馬と鳥が繊細にレリーフされていた。
「僕は貴方のお母様と違って、王府で監察官をしています。 監察官というのはわかりますか。」
「うん、しってるよ。」ヤルノは得意そうに声を上げた。「オラクルがまもられているか、世界中を見てまわる人、だよね。」
ヤルノの答えにフィオネルは軽く目を見開いた。
「よく知っていますね。 学校で習ったのですか。」
「ううん。 本で読んだんだ。 世界中に行けるなんてすごいや。 どこに行ったことがあるの?」
ヤルノのフィオネルを見る目が、憧れに変わる。 最初フィオネルを少し怖がっていたヤルノも、持ち前の人懐っこさを発揮してすっかり彼に馴染んだようだ。 まるで、昔からの友達のように仲よくフィオネルの旅先の話をする二人を見て、ライサは少し目を細めた。
酢漬けの魚、燻製のチーズと腸詰、ジャガイモ入りのオムレツ、塩漬けのホルトの実。 とりあえず軽くつまめるようなものを机の上にライサが並べていくと、さっそくヤルノの手が伸びてホルトの実を一つつまみ、ポンと口にほりいれた。 無言で睨みつけるライサに、もう一度伸ばしかけた手をあわてて引っ込めて頭の後ろで組むと、ヤルノは思い出したようにライサにきいた。
「かあさん。きょうの夜、学校のみんなで森蛍を見に行くんだって。 僕も行ってきていい?」
「西の沼まで行くの?」
ライサは少し渋い顔をした。 街はずれの西の沼は、昼間に行くときれいなところだが、暗い夜はどこまでが岸かわかりにくく、あまり安全な場所とは言えない。
「大丈夫だよ。 先生とか大人の人も一緒だから。」
そんなライサの心配を見越したようにヤルノが意気込んでいった。 そう言われると仕方がない、ほかの友達も行くのだろうし、明日は学校が休みだから帰りが多少遅くなっても構わないだろう、ライサは「気をつけるのよ」とゆっくり頷いた。
「森蛍が見られるのですか?」
「うん、西の沼に大きなオルクの木があって、いーっぱい集まってくるんだ。」
フィオネルに聞かれてヤルノは嬉しそうに両手をいっぱいに広げた。 そして何を思ったのか急にパッと顔を輝かせてライサとフィオネルを見上げた。
「ねえ、フィオ様とかあさんも一緒に見に行こうよ。」
突然のヤルノの提案に、フィオネルとライサは顔を見合わせた。
森蛍は、小指の爪ほどの大きさの水辺にすむ黒い虫なのだが、この時期夜になると仲間を呼ぶために尻の部分から黄緑色の光を出す。 それがなぜか申し合わせたように一つの木に大群が集まってきて、樹全体が光り輝いているように見えるほどになるのだ。 息をのむほど美しい光景だが、初夏のほんの数日、それも日没後の数刻の間しか見ることが出来ない。
野菜の入ったボールを机の上に置きながら、ライサはフィオネルからヤルノに目を移した。
「ヤルノ。 フィオ様は遠くから来られて疲れていらっしゃるのだし、無理を・・・」
無理を言ってはいけませんよ。と続ける前にフィオネルの方が割り込んできた。
「いえ、僕も見てみたいですね。 一緒に行ってもかまいませんか。」
にっこりと笑ったフィオネルの答えに、ヤルノは「やった!」と手を打ちながら椅子を下りて飛び跳ねる。
「フィオ様、明日も早いのでしょう。 ご迷惑になりませんか。」
「いいえ。 森蛍など、都にいれば見られませんからね。 こちらこそ、御迷惑でなければぜひ。」
それから、「貴方も行きませんか。」とフィオネルはライサを見上げた。 とびまわっていたヤルノも、ライサの前に駆け寄ってくると、大きな目をいっぱいに広げて彼女を見上げた。
「かあさんも行こうよ。 せっかく早く帰ってきたんだし。 ね?」
ライサは少し困ったような顔でヤルノを見下ろした。ライサも森蛍を数えるほどしか見たことがないから、行くのが嫌なわけではない。 そうではなく、ヤルノの言葉の端に、普段彼が口にださない寂しさが覗いていたから、言葉を返すのに詰まったのだ。 聞き分けがよく、同年代の子供よりも少し大人びているヤルノに、ついつい甘えてさびしい思いをさせてしまっている。 ライサは勢いよくヤルノの前にしゃがみこんでにこっと笑った。
「よしっ。 じゃあ早く夕飯にしないとね。」
「僕も手伝うっ!」
「んー。 何をお願いしようっかな。」
ライサは飛びついてきたヤルノを軽々と抱き上げると、ぐるぐると回転させた。 ヤルノがケタケタと笑い声を上げる。 気づくたびに大きくなっている様なヤルノも、竜鞍に比べればまだ軽いぐらいだ。 でも、こうして彼を抱きあげられる時期など、人生のほんのわずかな間だけなのだから。
「僕も、何かお手伝いします。」
いつの間にか全部皮をむき終わったマンテラの実が入った皿を置き、フィオネルがはしゃぎまわる2人を見てくすくすと笑いながら言った。
思っていたよりずいぶん話が長くなってきてしまったので、サブタイトルを書き換えました。 途中まで読んでくださっていた方、紛らわしくなって済みません。




