閑話
「イェリ!」
探していた人物を見つけヤルノは声を上げた。
この時間、訓練所から宿舎や食堂へ抜ける中庭は人通りが多かったが、他人よりも頭一つは大きい彼の友人を探すのは難しいことではない。 ヤルノの声に気付いた長身の友人は足を止めてふり返り、夕日が当たったのだろうか琥珀色の眼をまぶしそうに細め、近づいてくるヤルノの姿を見つけてそのまま笑みに変えた。
「ヤルノか。どうした。」
「明日非番だろう。俺もなんだ。久しぶりにどうだ。」
そういってヤルノが右手をグイっと上げて、ジョッキをあおるしぐさをすると、イェリはおっと嬉しそうに眉を上げた。
兵舎の食堂に行けばただで夕飯がでてくるが、量が多いのだけが救いといった兵食にもちろん酒など付いてこないから、美味い飯や酒にありつきたければ外に出なければならない。といっても騎士団員には割と自由に外出が許されていたし、その都度外出届けを書かなければいけない面倒はあるが、次の日が非番となれば若い彼らがたまにハメを外すのぐらいは大目に見てもらえる。
「いいな。本当に久しぶりだしな。 これを人に渡さないといけないから、ちょっと待っていてくれるか。」
ヤルノに手に持った紙袋を少し上げて見せて、イェリは中庭をぐるりと見渡した。背が高いというのはこういうときにも役に立つらしい、あっという間にイェリは目当ての人物を見つけ出した。
「ライサ・グリス!」
人ごみの中で、小さな人影が驚いたように立ち止り、あたりをきょろきょろと見回して手を振るイェリを見つけると慌てて駆け寄ってきた。 白を基調とした飛竜隊の軍服の中で目を引く濃緑の制服。 イェリが呼び止めたのは一目でそれとわかる、騎士見習いの学生だった。 乾草色の髪を弾ませて走りよってきた少年は二人の前で直立不動の体勢をとる。
「お呼びでしょうか。」
その硬さが何とも新入生らしくて、ヤルノは頬を緩めた。
専修校からの騎士見習い生は毎年秋から春にかけてやってくる。受け入れているのは2番隊から5番隊の実働部隊なので6番隊に属するヤルノが直接彼らと関わることはなかったが、大人たちの間をちょこちょこと走り回る彼らが目に入ると、自分も昔はあんなふうだったのかと懐かしくなる。これが見習い3年目にもなると少しふてぶてしさも出てくるのだが、目の前にいる少年は明らかにこの秋初めてはいってきた1年生だろう。
ヤルノがそんな風に思っている間にイェリは手に持っていた紙袋の中をごそごそと探って、小さな瓶を取り出すとライサと呼ばれた見習い生にほり投げた。手の中にすっぽりと収まる茶色の小瓶を慌てて受け止めて「これは?」と首をかしげるライサに、イェリは少し意地悪い笑みを浮かべて言った。
「尻の薬だ。青あざになる前に塗っておけ。」
途端に、ライサの顔が耳まで真っ赤になる。「えっっ。」とか「うっ。」とか瓶を握りしめながらしどろもどろになるのを見て、ヤルノはやっとライサが驚いたことに少年ではなく少女だということに気がついた。
男女同じの制服に、短髪、ひょろっとして上から下まで真っ直ぐな体つき、顔を赤らめた表情を見なければヤルノでも判らなかっただろう。 それにしても軍では性別の区別なく扱われるのが普通だが、仮にも女の子に対してその言い方はいかがなものかと思う。 イェリのほうはそんなライサに一向にお構いなしで、先ほどの数倍はありそうな壺を取り出し彼女の目の前に突き付けた。
「こっちは野郎どもの分な。渡しておいてくれ。」
困惑した顔のまま両手で壺を受けとりながら、ライサはふとまだそばかすの残る形のいい鼻を寄せた。
「なんだか、すごい香りがしますね。」
「ああ、飛竜隊秘伝の軟膏だからな。 涙が出るほどよく効くぞ。」
「・・・やっぱり、しみるんだ。」
消え入りそうなライサのつぶやきが聞こえてしまい、ヤルノは噴き出すのをこらえるのに苦労した。
見習い生とはいえ、ここ飛竜隊に送られてくるのはほんの一握りの選ばれた優秀な生徒たちばかりだ。 そんな彼らでも、通常の倍以上の大きさと力を持つ、飛竜隊専用の翼竜「ワイバーン」を乗りこなすまでには相当な訓練が必要になる。
要は、なれずに翼竜に振り回されているうちは、全身の筋肉痛はもとより鞍に当たる尻や内腿が擦れて真っ赤に腫れあがってしまうのだ。更にそれが擦りむけるほどになると、鎮痛成分の入った秘伝の薬はえらくしみる。 十年に一人の逸材といわれたイェリも、今は最速を誇る6番隊のエースと呼ばれるまでになったヤルノにしても、この薬には随分とお世話になったものだ。
「飛竜隊の伝統だからね。 この薬がいらなくなれば一人前っていわれるぐらいだよ。 がんばって。」
さすがに、「同じ釜の飯」ならぬ「同じケツの薬」をつけた仲、なんて言われるぐらいだとまでは口に出せなかったが、ここは先輩としてかわいい女の子にフォローの一つも入れておかねばならない。 急に声を掛けられてライサはきょとんとした顔でヤルノを見上げた。
「まあ、お前は筋がいいから。 すぐにこんな薬はいらなくなるさ。」
イェリが珍しく優しい笑みを浮かべながらライサの頭に手を乗せて、彼女の短い髪をくしゃくしゃにかき混ぜると、今度はライサの頬がまた見る間に真っ赤になる。 その様子には初めて彼女を見るヤルノでもピンと来るものがあった。
「ありがとうございます。」
律儀にイェリとヤルノにぴょこんと頭を下げると、ライサは大事そうに薬の瓶を抱えて走り去って行った。
「お前なんて顔してるんだ。」
小動物の様な彼女の後姿を何となく見送っていたヤルノは、イェリに声を掛けられてわれにかえった。 鏡を見なくてもわかる、自分はずいぶんニヤケタ顔をしているのだろう。
「いやぁ。初々しいというのかな。新入りってあんなにかわいいものだったっけな。」
「かわいいなんて言っているのは最初のうちだけどな。あいつらを見ていると、たまに自分の方が小恥ずかしくなってくるぞ。」
からかい半分のヤルノに、イェリがにやりと返してくる。
「その割には、気を使ってやっているじゃないか。」
「んっ? ああ、さすがに野郎どもと一緒の薬を使うのはかわいそうだろう。 女だからって特別扱いはでないが、ガキといっても微妙なお年頃ってやつだしな。難しいところだ。」
でかでかと広告の書かれた薬屋の袋を握りつぶして弄びながら、イェリは苦笑いを浮かべた。
口ではこう言っているが、ヤルノは彼がライサに渡した小瓶にかわいい花柄が付いていたのを見てしまっていた。あいかわらず、細かいところに気の付く男だと思う。 ヤルノもこの友人のこういうところには随分助けられてきたし、だから新人教育を任されたり、女にもてたりするのだろう。
そういえば、自分の同期にも一人女性がいたが、彼女はあの薬をどうしていたのだろう。 自分達の教官がイェリの様に気がつく男でなかったことだけは確かだ。 今度会ったときに聞いてみようか。 確実に怒り出して、自分の髪と同じように真っ赤になるだろう女友達の顔を想像して、確かにあいつは最初っからかわいいなんて言う柄じゃ無かったよなと、ヤルノは思わず吹き出してしまった。
「なんだ、気持ち悪い。」
くすくすと笑い続けるヤルノを、イェリは言葉通り気持ち悪そうに半眼で見降ろしてきた。
「いや、ちょっと思い出し笑いを。 それより、どこに行こうか。」
「ステラの店はどうだ? 長いこと顔を出していないし。」
「そういえば。」
行きつけの店の名前にヤルノもうなずいた。 少し値が張るが、酒も食事もうまくていい女がいる。 確かにここしばらく行っていないから、あの変わり者の女主人にお小言を言われるだろう。
「そろそろ、怒られるな。」
「ステラに、怒られるな。」
重なった声に二人は顔を見合わせ、声を上げて笑い出した。
その後行った店で「あら色男さんたち、もう私のことなんて忘れたと思っていたわ。」などと女主人に微笑みながらいわれ、二人はあわてて高めの酒を注文する羽目になった。 親友と心行くまでうまい酒を飲みかわしながら、その日の小さな出会いを後から何度も思い出すことになろうとは、その時のヤルノには想像もつかなかった。