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遠い記憶の中で、母親が寝る前に神話を教えてくれたのを覚えている。 この国の人間ならライサと同じように何度となくその神話を聞かされて育ったはずだ。
世界を創った双子の女神の物語。 明るくて活発だけれど少し慌て者の妹神、炎と大地を守護する陽の女神ヨルア。 大人しいけれど優しくて聡明な姉神、風と水を守護する月の女神ノルア。 二人が世界の中心に植えた大樹「スピレ」は天と地を結び、その木の実から数々の竜種が生まれて、この世界は竜種の楽園になった。
ある時、天から木をつたって人がやってきた。 女神たちは人々の長に居住の地と「源の力」を貸し与える代りに、4冊の書を授けた。 それが今に伝わる契約の書「オラクル」
どこまでが神話で、どこからが史実なのかライサには知る由もない。 けれども4冊のオラクルの書は実在し、その契約は今でも何よりも優先されるべき事として人々の生活の中に根付き頑なに守られている。 例えば。オラクル第一章「礎の掟」第3条9項、「フィレストルムの発生防止と鎮火の義務」のように。
幸いな事に着陸地点は簡単に見つかった。 警備隊の中庭の倍ほどの広さがある干上がった沼だ。 十分とまでは言えないが、全員が着陸するのが可能な広さで立地条件も良い。 ライサは腰袋から発煙弾を取り出すと放り投げた。真っ直ぐに落ちていった握りこぶしほどの球体はすぐに見えなくなったが、やがて落ちて行った先から紫色の煙が立ち上ってきた。
「南南東の風、風力は4というところか。」
発煙弾の煙は仲間に着陸地点を伝えるだけでなく、地上付近の風向きを教えてくれる。 イェリの声にライサは頷いた。
「荷物をおろしましょう。」
ライサの乗る鞍の後ろ、シューティングスターの背中には大きな荷が積まれている。 消火作業用に必要なのは斧やシャベルといった道具だけではない、一度森に降りると消火が終わるまで何日もかかる上にいつ次の補給が来るかもわからない、対竜種用の武器、飲料水、食糧からテントまで大量の荷物を運ばなければならなかった。 だが、いつもは4,5頭の翼竜に分けるか空船を使って運ぶ荷物を今日は2頭のワイバーンが引き受けてくれている。 その分警備隊にいる翼竜は全て隊員を乗せるのに使い、空船は別の現場にまわす事が出来た。 警備隊員の中でワイバーンに乗ることが出来るのはライサしかいなかっただけに、イェリが資材運搬をかってでてくれたのは本当にありがたいことだった。
「後席、投下準備よし。」
「了解。投下地点まで5秒。」
風上から大きく旋回してきたシューティングスターは着陸地点の手前に差し掛かったところで身体を大きく傾けた。 その瞬間をねらってライサが留め具を外すと網にまとめられた荷物は翼竜の背中を滑り落ちる。 一呼吸後に、網につながった大きな傘状の布が勢いよく開いた。 風に流されながらもゆっくりと降下していった荷物が。無事に着陸地点の端に落ちた事を確認してライサはほっと一息ついた。
「流石だな。 散々訓練したかいがある。 感覚を忘れていない様で安心したよ。」
「・・・・ありがとうございます。」
褒められているのか貶されているのかわからないイェリの口調に、多少なりとも複雑な気持ちでライサは答えた。 あの見習い時代の投下訓練は「散々」などという一言で済む様なものだっただろうか。 見習いの時だけではない、イェリと組んでワイバーンに乗っていた2年間、この鬼上司は「散々」しごいてくれたものだ。 10年近くたっても彼との呼吸を忘れないほどには。
「褒めているんだ、そう複雑な顔をするな。 君は俺が教えた中で一番優秀な翼竜乗りの一人だよ。 ワイバーンに騎乗するのは久しぶりだし、実を言えば本当に乗ってくるとは思っていなかったんだが、この分だと降下も大丈夫そうだな。」
前を向いたままのイェリに、どんな顔をしているのか言い当てられてライサはますます複雑な顔になった。大体、ライサがワイバーンに乗る様に焚き付けたのはイェリ自身ではないか。
昔からイェリは何を考えているのか分かりにくい人物で、ライサは振り回されてばかりいた。 厳しかったり優しかったり、真面目だったりふざけていたり。 彼の親友だった男は「あんなにわかりやすい男はいないと思うけどね。」とよく言っていたけれど、やっぱりライサには未だにつかめない。 今も、仕事の上では昔と同じでいられるのに、ふとした瞬間に伝わってくるイェリの優しさや、からかうような空気にどう返せばいいのかわからなくて、自分でも悔しくなるほどそっけない態度をとってしまっている。
「本隊が追い付いてきたな。こちらも降下体勢に入るぞ。」
また大きく旋回して元の場所へ戻る途中のシューティングスターの前に、ようやく近づいてきたケケ達警備隊の編隊が見えた。 ライサはどんどん大きくなってくる人影から煙をあげて燃え続ける森、そしてまた目の前の背中に視線を映した。 さっきから、ずっと言わなければいけないと思っている言葉をライサはまだ伝えられていない。 本当は初めに言わなければならなかったのに、慌ただしい状況に流されているうちに機会を失ってしまって、面と向かって言いだしづらくなしてしまった。 でも、伝えたい事を伝えておかなければ後でどれほど後悔するかライサは良く知っている。 そして、世の中はいつでも次の機会があるほど甘くも事も。 また会う事よりも簡単に二度と会えなくなってしまうこともあるのだ。 ライサは心を決めて口を開いた。
「イェリ隊長。」
「何だ。」
ライサがあえて使った昔の慣れ親しんだ呼び名をイェリはとがめなかった。
「まだ、お礼を言っていませんでした。」
「礼?」
「先ほどはヤルノを助けてくださってありがとうございました。 さっきだけじゃなく、今までも。 私たちを助けてくださっていたのが貴方だと知っています。 ずっとお礼を言いたいと思っていました。 私と息子がどれほど感謝しているか。 本当にありがとうございます。」
ふり返ったイェリは眼を見開いた。 だが、ライサの言葉を聞くうちに彼の表情は曇っていき最後には目を伏せた。
「君たちがここまでやってきたのは、君たち自身が努力したからだ。 俺は本当に力にならなければならない時に何もできなかったし、これからも君に面倒をかける事を持ち込んだ張本人だ。 礼を言われる様な事は何もしていないよ。」
目をあげ少し苦笑してから、イェリはまた前を向いてしまった。
それは違う、ライサはそう思ったけれど、ようやく言う事が出来た言葉を真っ向から否定されてしまったあとでは口に出す気力がなかった。 イェリは人に感謝されるからとか憎まれるからとかで、自分の行動を変えるような人間ではない。 いつも自分が決めた道を、周りの目など気にせず進んでいける強い人だ。 そのせいで敵を作ってしまうこともあるが、友人や部下はそんな彼の強さを慕っていた。 たとえイェリがライサに感謝されることを求めてないとしても、ライサは彼がしてくれた事に感謝している。 それをどう言えばうまく伝える事が出来るのだろう。 だが、かたくなな背中を見ているうちにライサの中にストンと答えが落ちてきた。
「それでも、ここに来てくれたのが貴方でよかったです。」
口に出してしまえば、それが今日イェリに逢ってからずっとライサの中にあった思いなのだと気がついた。 自分は単純に彼に逢えてうれしかったのだ。 うじうじしているのは性に合わない、認めてしまえばすっと気持ちが楽になって、黙ったままの背中にライサは微笑んだ。
降下地点が近付いて来ている。 ライサはもう一度降下器具のベルトを確かめると、鞍から足を外して横座りになった。 何度経験しても、翼竜からの地上降下は一番緊張する瞬間だ。 ライサはギュッと手に力を込めてもう一度気を入れ直した。
「ライサ。」
身を乗り出して下を確認していたライサは、自分の名前を呼ぶ声にふり返り、真っ直ぐにこちらを見つめるやさしい瞳を見つけた。 イェリは右手を手綱から離すと、拳をライサに差し出した。
「守る物のために、女神のご加護を。」
懐かしい祈りの言葉にライサは眼を瞬いた。 飛竜隊の隊員は国の中でも選りすぐりの戦士たちなのに、みな驚くほど信心深かった。 翼竜に乗る前後に必ず祈りをささげるだけではなく、髪を伸ばさないとか、護符に銀の指輪を身につけるといった縁起をかつぐ習慣がたくさんあった。 ライサ自身、数ある迷信のすべてを信じているわけではないが、飛竜隊を離れた今でも何となくその習慣を続けている。
「守る者のために、女神のご加護を。 後の事はよろしくお願いします。」
ライサはイェリのこぶしに自分のこぶしを軽く合わせると、迷うことなく鞍を蹴って空中に身を躍らせた。