5-4
「形勢逆転。 というところでしょうか。」
悠然としたイェリの声が聞こえてライサが顔を上げると、怒りと屈辱で顔を醜くゆがめたコレル夫人と目があった。
「この・・・・、この売女めっ。」
コレル夫人から向けられる悪意を持った視線には慣れているはずだったが、今までにこれほどの憎悪が込められていた事は無かっただろう。 それなのに、仲間達の背中越しに見る夫人の姿があまりにも小さく見えて、ライサは恐れも怒りも感じることなく真っ直ぐにその視線を見つめ返した。 夫人の言葉が汚いほどに、彼女が卑小な生き物で、自分が飛竜に乗って綺麗な空の高みからそれを見下ろしているような感覚がした。 ただ、そう感じてしまう事がライサにはどう仕様もなく悲しかった。
空気を切り裂く音を立ててイェリが箒を一振りした。 その柄は夫人ではなく起き上がりかけていた黒ずくめに向けられていたが、コレル夫人はびくっと震えて身をすくませた。
「貴方が貴族としての自覚をお持ちであるのなら、もう少し口を慎まれた方がよいでしょう。 貴方には彼女をとがめる権利は何もない。 僕もあの時のように貴方の言う事にうなずくことしかできなかった子供ではありませんから、これ以上僕の大切な人達を傷つけるというのなら、貴方であろうと容赦はしませんよ、コレル夫人。」
そこでイェリは少し息をついて、まるで子供をなだめるように声を和らげた。
「夫人。 貴方には感謝しているのですよ。 貴方のおかげで、母は病気を治せ、弟妹達は飢えずに済みましたし、一度は故郷を亡くした僕も、都で養父達に大切に育てられ、そして何よりもヤルノという得難い親友に出会う事が出来ました。 ですから、これ以上貴方の醜態をタンペレご領主の前でさらすようなことはしたくありません。」
少し後ろを振り返ったイェリにつられて後ろを見たライサは、そこに思いがけないほどたくさんの人がいる事に気づいて目を見張った。 ニーナ達教員のほかに、ミラ、フレイ、アレクセイ隊長と数人の隊員、ライサの知らない騎士団員。 そのさらに後ろから護衛兵を連れた壮年の男性が前へ進み出た。 人の上に立つ事に慣れた人物だけが持つ風格をまとい、悠然と歩みを進めてイェリの隣に並んだのは、驚いた事にタンペレ領主アラン・カウパルエだった。
「お初にお目にかかりますな。」
ゆったりとした笑みさえ浮かべているアラン領主とは対照的にコレル夫人は眼を見開いて顔色をなくした。 ただの領主とは違い、アランはかつてのカウパ公国の血を受け継ぐ、この国で4人しかいない州公の一人。 今は中央の権力争いから離れているとは言っても、大貴族コレル家に頭を下げる必要のない数少ない人物だった。
アランの名がコレル夫人に彼女が貴族の一員である事を思い出させたのは間違いない。 良くも悪くも、コレル夫人はその人生のすべてを貴族社会の中で過ごし、陰謀渦巻くその中を生き抜いてきた人だった。 茫然とした表情を一瞬で押しやり、コレル夫人は先ほどとは別人のような表情でピンと背筋を伸ばすと、服の裾を持ち上げて軽くひざを曲げ優雅に挨拶をした。 ライサでさえはっとさせられるほど、一分の隙もない完璧な作法だった。
「アンナ・レーナ・コレルと申します。 アルエ=アランにおきましては、ご機嫌麗しく・・・」
「いえ、ヘイノ=コレル。 ここは都から遠く離れた辺境の街。そのようなあいさつは不要に願います。」
正式な挨拶をはじめようとしたコレル夫人をアランが片手を上げてさえぎった。 その「辺境」という言葉に心なしか力が入っていたのはライサの聞き違いではないだろう。 先ほどそれを自ら口にしたコレル夫人もそれに気がついたのだろう、何かを言いかけていた口をつぐんだ。
「そうはいっても、ヘイノ=コレル。 私としてはここはそれほど子供にとって住みにくい街ではないと思っているのですよ。 都と違い豪華なものは何もないですが、ここには仲間を心配して駆け付ける大人も、生徒のために大男に立ち向かう教員も、心から息子を愛している母親もいますからな。 この街も捨てたものじゃないでしょう? それに。」
アランはそう言って、軽く振りかえると初めてライサの方を見た。 あきれた事に彼の口元には「にやり」としか形容できない様な笑みが浮かんでいた。 どうやら彼はこの場の成り行きを楽しんでいるらしい。 普段、泥だらけになって畑を耕していたり、ふらりと警備隊に遊びに来て翼竜を乗り回してみたり、何かと貴族らしからぬ行動をとる気さくなアランしか知らなかったが、やはり彼も食うか食われるかの謀略の世界を生きてきた人なのだとライサは悟った。 そんなライサの考えを知ってか知らずか、アランは彼女に向かって軽く片目をつぶってみせるとまた前を向いた。
「それに、貴方がたがどういった関係かは存じ上げないが、この度、私がこの子の後見人をひきうけることになりましてね。 カビの生えた法律など持ち出さんでも、この子の事は大丈夫。 貴方がご心配なさるには及びませんよ。」
その言葉がコレル夫人にとって決定的な何かだったのだろう、しばらくの間アランを無言で見つめていたコレル夫人の口元が上がり、そこからクスリという笑い声が漏れた。 夫人がどうかしてしまったのではないかと驚くライサの前で、夫人の笑い声は徐々に大きくなっていった。 ヒステリックな笑い方ではない、こんな風に本当に楽しそうに声を立てて笑う夫人をライサは初めてみた。 笑いながらコレル夫人は初めて自分からイェリに歩み寄り、背の高い彼を見上げてようやく笑いを止めた。
「イェリ・ライティオ、あいかわらず用意周到な事。 自分の思い通りになって、さぞや満足でしょうね。 だからわたくしは言いましたのに。 夫がお前をライティオ家の養子に出すなどとバカな事を言い出した時に、わたくしは言ったのです、お前はいずれコレル家に仇をなす存在になると。 野放しにするにはお前は知りすぎている、そしてあまりにも賢すぎると。 貴方にもご忠告しておきましょう、アルエ=アラン。 この者を、飼い馴らそうなどとお考えになるのはおよしなさいませ。 これは、周りのものを食らい尽くす野竜。 人の手に負えるような存在ではありませんよ。」
言うだけ言ってしまうと、コレル夫人は執事に向かって短く「帰ります。」と告げ、すたすたと歩き出した。 黒ずくめたちが慌てて立ち上がりその後を追うが、イェリはただ黙って立ち尽くすだけで彼らをもう止めようとはしなかった。 教室を横切って近くまで来たときに、コレル夫人がふと足を止めて、ライサ達をまたあの刺すような視線で一瞥した。
「お前もこれで満足でしょう。 なぜ、お前の様な者が私の大切なものを全て奪い、手に入れる事が出来るのでしょうね。」
苦笑交じりのつぶやきにライサは返す言葉が見つからず、ただコレル夫人を見つめ返した。 たぶんその答えを知っていたけれど、それをどうこの女性に伝えればいいのか分からなかった。 ライサの代わりに答えたのはイェリの低い声だった。
「それは、貴方の持っていないものを彼女が持っているからですよ。 貴方も、今からでも遅くは無い、一度それが何かを考えて見られてはいかがですか? 失ったものを取り戻すことはできなくても、これ以上失わずに済むかもしれませんよ。」
イェリは夫人に背を向けたままで、足を止めた夫人もまたイェリの方に振り向く事は無かった。 少しの間があってから、まるで何事もなかったかのようにコレル夫人は歩き出すと教室から出て行った。 アランが少し顎をしゃくると、彼について来ていた護衛が3人ほどコレル夫人達の後に続く。 扉が閉まり、しばらくの間部屋に静寂が満ちた。
どれくらい時間が経っただろうか、呪縛の様な時間の中から最初に動いたのはイェリだった。 彼は身をかがめて足元にあった何かを拾い上げると、ライサの腕の中から降りたヤルノの前に歩み寄り、視線を合わすように片膝をついてそっとそれを差し出した。
「君の大切なものを、投げてしまった。 傷はついてはいないけれど、許してくれるかい?」
ヤルノは目の前の大きな掌の中にある指輪からその手の持ち主へゆっくり顔をむけた。
「あなたは、ぼくのお父さんなの?」
「いや違うよ。 でも、僕は君のお父さんの親友だったんだ。」
小さく戸惑う様な声に、イェリの低いがはっきりした声が答えた。 ヤルノはまたしばらくイェリを見つめていたが、やがてその小さな手を伸ばして「ありがとう。」と言ってにこっと笑いながらイェリから指輪を受け取った。 イェリの方は何も言わずにただ微笑み返しただけだったが、二人の視線の間で言葉以上の何かが交わされたのをライサは感じた。 それは見ていて気持ちがよくなる様な、とてもいい光景だった。