5-3
「どうして・・・。」
やっと口にできた言葉は空気が漏れるような音にしかならなかった。
見上げたライサの眼に映ったのは、女性にしては長身の彼女よりも頭一つ以上は上にある懐かしい顔だった。 しかしそれは、どこかいたずらな青年っぽさが抜けきらない、無茶を楽しんでいる様だったライサのよく知る彼の表情ではない。 以前の飄々としてところが姿を消し、風雨にさらされた老木のように貫録と厳しさが彼に刻みこまれ、しかも彼の整った顔立ちを損なうどころかさらに魅力的なものに変えていた。 ただ、彼女を見下ろす瞳だけが昔と少しも変わっていなかった。
「イェリ・ライティオ。 なぜお前がここに・・・。」
言葉にならなかったライサの疑問を代弁するようにコレル夫人がつぶやくのが聞こえた。 しかしイェリはその声に振り向く事もなく、その穏やかな瞳でライサを見つめ続けている。 大きな手がかすかに力を抜いたライサの手をつかんで剣の柄から外し、次にその手が右肩に回されたと気付いた時には、彼女は力強く抱き寄せられていた。
「遅くなってすまない。」
甘い声とともに髪に吐息がかかる。 誰かが息をのむ音が聞こえた。 いや、それとも自分自身が立てた音だったかもしれない。 長年軍人をしてきて、声を上げるどころか指一つ動かせなくなる状況に陥ったことなどあっただろうか。 抱きしめられて額に口づけされていると分かっていても、頭で理解が追い付かない。 それなのに、思いのほか熱い彼の息からかかるところから、熱せられたように身体があつくなっていく。 自分は今、十代の小娘の様に真っ赤な顔をしているに違いない。
視界に映るたくましい胸元に耐えきれず、何とか腕の中から抜け出そうとやっと動くようになった体をひねろうとすると、ライサの体にまわされた手に力が込められた。
「落ち着くんだ。ヤルノを取り戻す。」
耳元でひどく冷静な声がした。
「大丈夫だ。 俺に話を合わせろ。 合図をしたら子供を助け出せ、他のは俺が引き受ける。 出来るか?」
ライサだけに聞こえるように、低く早口でささやかれた言葉の内容が頭に入るまで、数秒の時間がかかった。 理解した瞬間、先ほどまでの熱が驚くほどさっと引いて、代わりにぞわっと鳥肌が立った。 よく覚えている、この感覚。
飛竜隊にいたのは7年も前なのに昨日の事の様にはっきりと思い出せる。どれ程無謀な作戦でも、どんな境地に陥っても、この男が前にいる、それだけで隊の士気が上がった。 実際「葬儀屋」とまで呼ばれていた三番隊は彼が指揮をとるようになってから死人を出さなくなったのだ。 もう駄目だと思ったときでも、この男に「大丈夫だ。」といわれれば、戦慄とともに、いつも新たな気力がわいてきた。 そして、ライサ達の彼に対する信頼は絶対だった。
ようやく冷静になって、ライサは自分がどれほど冷静さを失っていたかに気がついた。何があってもこの男の事は信用できる。イェリにわかるようにかすかにうなずくと、何故かまた一瞬だけ力を込めて抱きしめられた後、その手が離れていった。 ライサが上を見ると、イェリの口元に笑みが浮かんでいた。 片方の口元だけを上げる彼の癖は、さっき見た貫録のある大人ではなく、まるでいたずらが成功した少年の様な笑い方だった。 昔とまるで変っていないその笑みがライサに見えたのはほんの瞬間で、イェリはライサの横に並ぶようにしてコレル夫人に向きなおった。
「ご無沙汰しています。コレル夫人。 お元気そうでなによりです。」
「何を白々しい。 お前がなぜここにいるのですかっ。」
無視されるのになれていないコレル夫人が、イェリのわざとらしいほど丁寧なあいさつに、先ほどと打って変わったようないら立った声を上げた。 先ほどまでとは空気が違う。 その場の主導権は今や完全にイェリが握っていた。
「コレル夫人。 貴方がここにいらっしゃるほど、おかしなことではないと思いますが。 貴方がわざわざこのような辺境の町に、誘拐まがいな事をしにいらっしゃるほどお暇だとは知りませんでしたよ。」
イェリの声音にライサは思わず身震いしそうになった。 これ以上ないほど丁寧で静かな物言いだが、こういう時ほど声を荒げて怒鳴られるよりもよほど恐ろしい事をライサは長年の経験から知っている。
「ゆ、誘拐? 何を無礼な。 だいたい、お前には何の関係もない事でしょう。 わたくしはこの子の保護に正当な権利を・・・」
「正当?」
イェリがコレル夫人の言葉をさえぎった。 その静かな声にかすかに怒りがこもる。
「子供を母親から無理やり引き離すことが正当ですか?」
「法律にも明記されています。 保護責任を全うしない親の代わりに、その親族が子供を保護する事が出来ると。」
初めて、コレル夫人の影のように付き添っていた執事が口をはさんだが、イェリにひと睨みされると、瞬時に顔色を変えて引き下がった。 イェリはゆっくりと執事から、夫人そして黒ずくめと彼に抱えられている子供に目を移し、意味ありげに口元をゆがめた。
「親族、ですか。 あなたが、その子の。」
「何が言いたいのですか。」
何がおかしいのか、喉の奥で笑い声を立てるイェリにコレル夫人が咬みつく様に声を上げるが、そんな彼女を全く無視して、イェリはいきなりライサの腰に手を回すと彼女をまた引き寄せた。
「ライサ。 僕達の事を、この人に何も説明していないのかい。」
夫人に対するのとは別人のような優しく甘い声、それは、ライサが彼の部下だった時は決してかけられる事がなかった声で、彼女はただ首を振るしかなかった。 この男を信頼するとは決めたが、彼が何をしたいのかが全く分からない。
「全く君は真面目だな。 秘密にとは言ったけれど、こんなときまでそれを守らなくてもいいのに。」
またライサの額に口づけを落としてから、たぶんライサ以上にイェリの言う事が理解できないのだろう、完全に意気をのまれたコレル夫人に目を向けた。
「僕もその子とは全く無関係というわけではないのですよ。 その子の、首にかかっている指輪をご覧になった事がありますか、コレル夫人。」
「ゆ、指輪ですって?」
イェリの視線を追うようにヤルノに目をやったコレル夫人は、その首にかかった鎖を見つけ戸惑いながらも隣に立つ部下に向けて顎をしゃくった。
「それ僕のだよ。 やだよっ。」
あわてて鎖を押さえこもうとするヤルノをもう一人の黒ずくめが抑え込んでいる間に、その部下は手早くヤルノの首から鎖を引き抜くとそれを待ち受けるコレル夫人に手渡した。
「これは・・・。」
「見覚えがありますか。 その内側です。」
手の上にある古い銀色の指輪を見て目を細めたコレル夫人をイェリが促した。 その内側に何が彫られているのか知っているライサは、ようやくイェリが何をしたいか判って来てまた自分の耳が赤くなってくるのを感じていた。 なにが「大丈夫」なんだろう。 彼の思惑がライサの予想通りなら、確かにヤルノをコレル家から守るのにこれ以上の手は無いかもしれない。 しかし、なんて突拍子もない事をこの人は考えるのだろうか。
「こ、こんな。」
指輪の内側を覗き込んだコレル夫人が顔色を蒼白に変えて、怯えたように指輪を床に投げ捨てた。 ちょうど夫人とイェリの間の落ちた指輪は、床の上を鎖ともつれあうようにして転がって、全員の視線が集まる中でまるで意志を持っているかのようにゆっくりと静かに倒れた。 校章の指輪はコレル夫人にも見覚えがあったのだろう。 だが、その内側に彼女が見つけたのは、「イェリ・ライティオ」という元の持ち主の名前だったはずだ。 それは、卒業の時に彼の親友であったヤルノ・コレルの物と交換され、その後ライサに預けられて今はその息子に託されている。 しかしそのような事情を知らぬコレル夫人にとって、イェリにライサと意味ありげな様子を見せつけられた後では、その指輪に刻まれた名前は彼女の中に一つの疑惑を植え付けるのに十分だったようだ。 夫人の目が、息子の幼い頃に良く似た少年と、その少年と同じ髪と目の色を持った男の間を何度も行きかう。
「そんな、はずが。 この子がヤルノの子ではないと? こんなにヤルノにそっくりで・・・」
「貴方ともあろう方がまさか、ヤルノと顔が似ているのに、などとおっしゃる気ではないでしょうね、コレル夫人。」
尻すぼみになっていく夫人のつぶやきを引き継ぐようにイェリが一歩前に出た。 ライサの時とは違い、黒ずくめの護衛達がイェリに気圧されたように一歩後ろに下がったのは、主人の動揺が伝わったからだろうか、それとも王都の武道大会で常に上位に顔を出し、特に棒術では伝説的な記録を持つこの男の名前に恐れをなしたからだろうか。 ライサにはさっきまで壁のように見えていた男達が小さく見え、代わりにイェリの背中がやけに大きく感じた。 イェリはゆっくりと床に手を伸ばして大切に指輪を拾い上げると、その手の中に握りしめた。 もう一歩前に出たイェリの口元が一瞬、苦笑とも苦痛ともいえる風に歪んだ。
「僕とヤルノが、幼い頃兄弟と間違えられるほど良く似ていたのを忘れたとは言わせませんよ。 ヤルノの影武者に仕立てるために、彼と顔立ちが似ている僕を、父を亡くして生活に困っていた母親から金で買い取ったのは、貴方ではありませんでしたか。」
コレル夫人の喉の奥からひっという音が漏れて、倒れこむように下がったところを後ろにいた男に支えられた。 初めて聞く話にライサも息をのんだが、後ろにまわさえたイェリの手が合図を送っているのに気がついて、その驚きをなんとか頭の隅に押しやった。 ゆっくりとカウントされるイェリの指の動きに意識を集中させる。
「それに、これは貴方が投げ捨て良い様なものではないですよ。」
イェリが手の中で指輪を転がす音がした。
「これは、持ち主に返しておきましょう。」
イェリの手が動いて、銀色の塊が大きく放物線を描いて空中を飛んでいき、ヤルノを押さえていた男の手つられるようにそれに伸ばされた。 次の瞬間イェリが滑るように前に出るのと、ライサがヤルノの方に飛びだすのとどちらが早かっただろうか。
ライサは目の前の男一人だけにすべてを集中させた。 指輪に気を取られていた男は、一瞬ライサに対応するのが遅れる。 その一瞬で十分だった。 がら空きになった男の懐に飛び込むようにして、ライサは鞘に入ったままの剣を男の鳩尾に叩きいれた。 突っ立ったままのヤルノを抱えあげて、倒れこむことは無かったがうめき声を上げて動きが止まった男から後ろに飛び離れる。 更に後ずさるライサの後ろから数人の人影が飛び出してきて彼女をかばうように前に並んだ。 良く見慣れたケケやティモ達警備隊の背中、そして懐かしい白い飛竜隊の制服を着た若い男。
すべては数秒ほどの短い間だったのに、ライサには何もかもがゆっくりと動いて見えた。 ただ、早すぎる自分の鼓動だけが耳の中で痛いほど大きくこだましていた。
何かがはじけたように急に音と時間が戻って来た時には、人垣の向こうでもすでに全部が片付いていた。 床に倒れこんで動かない4人の黒ずくめ、執事は腰の剣に手をかけた姿勢のまま、イェリがいつの間に手にした箒の柄を喉元に突き付けられ固まっていた。 その後ろでコレル夫人だけが一人、先ほどと変わらない位置で彫像のように立ち尽くしていた。 張り詰めた空気の中で、腕にかかえたヤルノの体温だけがやけに温かくて、そのぬくもりを確かめるようにライサはヤルノ子供らしく柔らかな髪の中に顔をうずめた。
「かあさん。」
小さなつぶやきが聞こえて、ライサの首にまだ幼い腕がまわされた。 そうしたまま親子はただ無言で抱きしめあった。