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5-2



 走るというのはこんなにつらいことだっただろうか。  運の悪い事に、ヤルノの通う学校と警備隊本部は、丘の中央にある時台を挟んで街のほとんど反対側に位置していた。 それでも森林火災で出動する時などは、子供くらいある重さの装備を背負って一日中森の中を駆け回るのだ、普段から鍛え上げているライサにとってはそれほどの距離ではないはずだった。 それなのに走っても走っても前に進んでいる気がしない。 いつの間にか、ミラを大きく引き離していることも、全力で走るライサを通りがかりの人が驚いてふり返るのも、気にも留めずにライサは走り続けた。



校舎に駆け込むと、事が起きている教室はすぐにわかった。 ドアの前に子供たちが群がっている。 とりあえずライサは間に合ったようだ。


「あ、ヤルノのおかあさんだ。」

「おばちゃん早く!」


ライサに気付いた子供たちが口々に声を上げるのをかきわけるようにして進む。 若い女性が一人、蒼白な顔をしてドアの前に張り付いていたが、ライサの姿を見るとほっとしたような表情を浮かべた。 


「ヤルノは、まだ中に?」


教員助手をしているイーナは、小刻みに頷いた。


「はい。 他の先生方も一緒に中にいらっしゃいます。」

「他に、中に残っている子供はいます?」

「いいえ。」

「ケガ人は?」

「誰も。 ヤルノを連れて行こうとしただけで、他の子どもたちは大丈夫です。」


自分も後から来たので中の様子まではわからないのですが、とイーナは不安げに首を振った。 


「危険は無いと思うけど、ここにいる子供たちを他の場所へ移してください。 後から、他の警備隊員が来ますので、ここは私達に任せて子供たちをよろしくお願いします。」


イーナを安心させるようにライサはゆっくりと柔らかい声で言った。 さっきまで母親だった自分が、徐々に警備隊副長としての自分に戻っていく。 「いかなる時も冷静であれ」 軍に入って一番初めに教わったことだ。 冷静さをなくせば、勝てる相手にも勝てなくなる。 しかもライサがこれから対決するのは、彼女にとって天敵といってもいい相手なのだから。 

服を引っ張られて下をむくと、ヤルノと仲のよい子たちが、それぞれに真剣な眼差しでライサを見上げてきた。今にも泣き出しそうな女の子の頭をやさしくなぜて「大丈夫よ。」と微笑みかける。 大丈夫、冷静になれ。 深呼吸して息を整えライサはドアをあけて部屋に入った。



部屋の中にいた全員の視線が一斉にライサに突き刺さる。 ドアの前で立ちふさがるように、ヤルノの担任のニーナがいた。 その一歩向こうには、もう一人の教員のクルトと、用務員のマウリ。 いつもカクシャクとしているマウリ老人だけではなく、温和だけれども少し気の弱そうなところがあるクルトまでもが箒とモップを手に構えていて、そんな場合ではないと分かってはいたがライサは微笑みそうになってしまった。 王都でコレル家の人間に掃除用具を突き付ける勇気をもった人間がどれほどいるだろう。 


「ライサさん。」 


ニーナがライサを見て硬くなった表情を少し和らげた。 この50半ばの品の良い夫人は、この街でライサ達の家庭事情を知る数少ない一人であり、子育てから生活の事までいつも心よく相談に乗ってくれる。


「ありがとうございます。」彼女だけに聞こえるよう方に手を置いてささやいた後、その先にいる二人の間を抜けるように前に出たライサは、ついに7年ぶりになるだろう人物と対面した。 




「おひさしぶりね。」


あいかわらず人を見下したような冷たい声。 場違いなほど高価な服に身を包んだコレル夫人は昔と変わらず、汚いものでも見るような眼をライサに向けた。 7年の歳月もこの高慢な女性を変えるには至らなかったらしい。 ただ、美しかった髪が栗色から白いものに変わったのと、その小さな顔に刻まれた皺が、時の流れを教えてくれる。 夫人の隣にいる壮年の男性が確か、コレル家の執事。 そして、その後ろの4人の黒ずくめが護衛官だろう。 そのうちの一人に、抱え込まれるようにしてヤルノが立っていた。 顔色は蒼白で目が少しうるんでいるが、取り乱すこともなく、見たところ怪我などもしていないようだ。 この人がヤルノを傷つけはしないとわかっていたが、ライサは少しほっとした。 ヤルノにかすかに頷いて見せると、ライサはコレル夫人を正面から見つめた。 7年前に奪われたものを、今度は守りとおさなくてはならない。


「お久しぶりです、コレル夫人。 私の息子を返していただけますか。」


すっと一歩前に出たライサに、2人の黒ずくめが無言のままコレル夫人の前に出ようとするが、当の婦人の細い手の動きがそれを制した。 彼女はライサを見て、深くため息をついた。


「それはこちらの台詞です。 私の孫を返してもらいましょうか。」


男の腕の中でヤルノがびくっと震え、見開いた眼でコレル夫人を見上げるのが見えた。  


「ヤルノは私の息子です。」

「ヤルノ。」 コレル夫人は愛おしそうにその名を呟いた。

「そのような名を、よく恥ずかしげもなくつけられたこと。 その上、こそこそと隠れ回って。 まったく、卑しいもののする事といえば。 この子はヤルノの息子、高貴なるコレル家の血をひくものです。 このような辺境の地で、お前のようなものと暮らしていいような子ではないのですよ。 わたくしが都に連れて参ります。」

「子供の前です。 そのような言い方はやめてください。」


ライサの絞り出すような声に、コレル夫人は鼻で笑うように顎を上げてライサを一瞥しただけで、視線を後ろの3人に移す。


「あなた方も、いい加減にわかったでしょう。 わたくしは、この子の保護に正当な権利を持っております。 手荒な事は致したくありません、道をお開けなさい。 コレル家に立てついて後から困るのはあなた方ですよ。」


ライサの後ろから戸惑いの気配が伝わってきた。 無理もない。 コレル夫人には命令する事に慣れた人だけが持つ、圧倒的な威圧感があった。 彼女と話をしていると相手が正しく、自分は間違っているような錯覚に陥ってしまう。


「コレル夫人・・・。」

「おだまりなさい。 お前に気安く名前を呼ばれる覚えはありません。」


口を開きかけたライサを、コレル夫人がぴしゃりと遮った。


「女が警備隊などという危険な仕事に就いた上に、このような小さな子を夜遅くまで一人で不安に待たせておく。 母子一人で今後の生活の保障もなく、教育にしても限られた選択肢しかない。 それが、この子にとって正しい家庭環境といえますか。 わたくしが、この子に王都で最高の生活と教育を受けさせてやるのを止める権利が、お前にあるとでも言うのですか。」


かみしめた唇から、ライサの口内に鉄錆の味が広がっていった。 確かにコレル夫人の言うことは間違っていない。 だがそれがすべて正しいわけでもない。 小さなヤルノにはいつもさびしい思いをさせているし、母親だけではどうしても至らないところもある。 それでも、家族として一番大切なものが自分たちの暮らしにはあるとライサは信じている。 


コレル家の財力と権力をもってすれば、子供に最高の生活と、国一番の教育を与える事が出来るだろう。 だが、コレル夫人が求めているのは、世間にうらやまれる様な、彼女にとって満足できるコレル家の人型を育て上げることだ。 彼女の言うように最高の環境で育てられたヤルノはどれだけ幸せといえただろうか。 そして、何一つ困ることのない生活をしているはずのコレル夫人自身が、彼女の老いた顔に幸せのかけらも見つけることが出来ないのはどうしたわけだろうか。


『あの人も可哀そうな人だよ。 コレル家という鎖にがんじがらめにされて身動きも取れない。 だからといって、あの人のしたことが許されるわけではないけれど。 あんな人でも、俺の母親だから。』  


だから愛しているのだ、と。 コレル夫人を恨んでいないのかと、一度だけ生前のヤルノに聞いたことがある。 その時のヤルノの悲しそうな顔を忘れる事が出来ない。  

 

 あの時は理解できなかったが、母親になった今、コレル夫人の気持ちがライサも少し分かる様な気がした。 手段はともかく、自分の息子を彼女なりに可愛がっていたのだ。 だから、良くも悪くも、自分の世界を作り上げそこから出てこようとしない彼女を、ただ哀れに思う。 コレル夫人がほんの少し見方を変えることが出来ていたら、息子がどれほど彼女を愛していたか、そして息子が一番ほしがっていたのが母親からの愛情だと気づくことができただろう。 そうすれば2人ともが今、幸せに笑っていられたかもしれない。


小さなヤルノを第二のヤルノにするわけにはいかない。


 もうこれ以上言葉を交わしても、7年前と同じようにコレル夫人と理解しあうことはできないだろう。 ライサの心を絶望と悲しみが支配していった。  ライサはもう一歩前に出て、今度は無言で動いて立ちふさがる黒ずくめを見上げた。


「息子を、返してください。」


後ろのドアが開いて誰かが部屋に入ってくる気配がした。 ミラと後発の隊員が到着したのだろう。 だが、ライサはふり返ることなく護衛官たちをけん制するように睨みつけ続けていた。 さすがコレル家の護衛官だけあって、全員が何気なく立っているだけだが一分の隙もない。 ライサ1人でこの4人を相手にするのはきついだろう。 そうかと言って警備隊の仲間を道連れにすることはできない。 ライサは左腰に下げた剣の柄に手を伸ばした。


「ライサっ」


ミラの悲鳴に似た叫びを、あえて聞こえなかったふりをする。 

治安警備隊が使用している捕獲や防御に特化した短剣と違い、ライサたち辺境警備隊の装備に使われるこの剣は、軍でも佩用されていて小型の竜種であればこれで対応できるような殺傷能力の高いものだ。 それだけに、理由もなく民間人相手にこれを抜けば犯罪行為に相当する。 たとえ相手が格闘のプロであろうと、除隊処分ではすまないだろう。 

 だが、ここでヤルノを失うことにくらべれば、それがなんだというのだろう。 ヤルノは希望、喜び、生きがい、ライサのすべてだ。  武力に訴える事が正しいとは決して思わないが、後から後悔することはもうしたくない。


ただヤルノと二人、静かに幸せに生きたかっただけなのに。 自分の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた事には気がつかず、ライサは剣の柄を握る手に力を入れた。




 「常に冷静になれと、教えたはずだ。」


剣を抜こうとしたその瞬間、横から伸びてきた大きな力強い手がライサの右手を押し止めた。  聞こえるはずのない、だが聞き間違うはずもない懐かしい声に、ライサは眼を見開いて手の主を見上げた。





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