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「また、いらっしゃいね。」
帰り際、ドアのところですぐ後ろから声がかかってイェリは振り向いた。 いつも最後にステラがカウンターの向こうから言うセリフ。 なのに、彼女は今までで初めて入口まで出てきてイェリを見上げていた。 聡い彼女の事だから、イェリが言わずとも何かを感じ取ったのかもしれない。
「はい、きっと。」
いつものように微笑むステラに頷いて、イェリは扉を開けた。
「それじゃ、また。」
「ああ、元気で。」
「またね。」
5人の間での別れの言葉は簡素なものだった。 ただ、お互いにかたく手を握りしめて、頷きあうと彼らは別々の方向へとふり返ることなく歩みだした。
歩き出したイェリの火照った頬を、ひんやりとした風が冷やしてくれる。 もう夏も終わりだ。 そう言えば、あの日もこんな風が吹いていた。 7年前ここでヤルノと最後に飲んだ日も。
「おまえちょっと飲みすぎだぞ。」
「まだ、だいじょうぶらって。」
全然舌が回っていないヤルノに、イェリは苦笑した。 仲間内では比較的酒に弱いヤルノには、今日の酒の量は少しきつかったらしい。
「ちょっと休憩。」
夜風に当たって少しは酔いがさめたのか、顔が赤いのはましになっていたが、その分眠気が襲ってきたらしい、小さな広場に差し掛かったところでヤルノが足を止めた。 そして、イェリが止める間もなく広場の噴水に頭を突っ込む。
「ぷはぁ。 生き返るね。」
ぬれた頭を動物のように振って水を落とすと、ヤルノはどっこいしょとオヤジ臭い事を言いながら、あきれ顔のイェリの隣に腰をおろした。
「今日は、星がよく見えるな。」
「もう夏も終わりだからね。」
こんなにゆっくりと夜空を見上げるのは久しぶりだ。 澄みきった空に無数の星がきらめいて、まるで今にもこぼれ落ちてきそうだった。
「なあ、イェリ。 あいつの事頼むよ。」
「なんだ、唐突に。」
「俺が言えた義理じゃないけれど、強そうに見えても女だから。 守ってやってほしい。」
本当に突然のヤルノのつぶやきに、イェリは驚いて親友を見たが、彼は夜空を見上げたままだった。 ヤルノが誰の事を言っているのかは、聞かなくても分かる。 だが、今夜ヤルノが彼女の事に触れるのは初めてで、分かれ道の手前で立ち止まったヤルノが何か話がしたいのだろうと予想はしていたが、その言葉はイェリが予想もしていなかったものだった。
「あきらめるのか。」
イェリが低い声で聞くと、ヤルノは初めて視線を彼に移し、そしてゆっくりと首を振って吐き出すように言葉をつないだ。
「今はだめだ。 俺にはまだ力が足りない。 それを思い知ったよ。」
「融通が利かない奴だ。」
イェリがあきれ声を出すと、ヤルノは「俺もそう思うよ。」とさびしそうに笑った。
そんなにつらそうな顔をするぐらいなら、かけ落ちでも何でもしてしまえばいいのだ。
「あとから、返せと言っても遅いかもしれないぞ。」
「それならそれでいいさ。 あいつが幸せならね。」
「冗談だ。」
軽く言ったつもりが、驚くほど真剣な眼のヤルノに返されてイェリはいささか慌ててしまった。 ヤルノはまた夜空を見上げ、しばらくしてまたぽつりと言った。
「お前さ、あいつの初恋の相手が誰か知っているか。」
さっきまでほろ酔い気分だったイェリの頭がすっと冷めた。
「何を、唐突に。」
「そっか、知っていて当たり前だよな。 俺から見ても態度バレバレだったし。」
ニヤッと笑うヤルノとは対照的に、イェリは何とも言えない気分になった。 騎士見習い生が、正騎士にあこがれやそれ以上の気持ちを抱いてしまうのは、まあ、はやり風邪のような仕方のないもので、風邪と同じで熱は出てもほっておけば大抵はかってに治まる。 あの頃、ライサの瞳の中にあったものに気がつかないほど、イェリは鈍感ではなかったけれど、だからといって、ライサから何かを言われたわけでも、上司と部下以外の関係があったわけでもない。
「もう何年も前の話だろう。」
とはいえ、その話をヤルノから言われると居心地がいいとは言いづらい。 「もう勘弁してくれ。」 と頭をかきむしるイェリをヤルノは面白そうに見つめて、それから大きく伸びをして立ちあがった。
「俺は、本当にあいつが幸せだったら何でもいい。」
「だったら、さっさと出世でも何でもして、早く迎えに行ってやれ。 あんなはねっかえり俺の手には負えないからな。」
「それもそうだ。」と笑い声を立てながらふり返ってイェリを見下ろしたヤルノの目が、まるで今夜の空のように怖いほど澄みきっていて、イェリは思わず彼から目をそらした。
「もういくよ。」
「明日は早いのか。」
「いや、今度の出発は明後日だ。 まあ、明日一日はバタバタしているだろうけどね。」
「偵察も大変だな。 今度はどこだ。」
「カウパ州都タンペレ。」
そっけなく出てきた地名に、イェリははっと顔を上げた。 偵察と伝令が主要任務の6番隊に属するヤルノが、どの街に行こうと不思議ではない。 むしろ、今まで行ったことがなかったことの方が不思議なくらいだ。 それなのに、少し悲しそうに微笑むヤルノを凝視するばかりで言葉が出てこない。 おもむろにヤルノは首を下げて、かけていた鎖をはずすと、その先についている指輪ごとイェリの手に押し付けた。
「これを、しばらく預かっていてくれないか。」
「どうしてだ。」
声がふるえなかったのを自分でほめたいぐらいだ。
「あの街に、この指輪を持っていく権利は俺にはないから。 おまえから故郷を奪った俺が、お前の親友面してあの街には行けない。」
押しつけたままだった手をそっとのけると、「じゃあ。」と柔らかな表情を変えることなく、ヤルノは踵を返してイェリに背を向けた。 いろんな言うべき言葉がのど元まで出てきて、音にならずに消えていく。 うつむいて右手の中のやけに重たい指輪を握りしめていたイェリは、しかし、気がつけば立ち上がり叫んでいた。
「ヤルノ。」
立ち止まり、ふり返ったヤルノにむけてイェリは右手を力いっぱい振った。 キラキラと大きな放物線を描いて飛んできたものを受け止めたヤルノは、困った声を出した。
「おい、これは・・・。」
「それはお前を縛るものじゃない。 お守りのようなものだ。 それがあったって、なくたって、お前が俺の親友であることには変わりないぞ。 つまらない事に囚われるな、前だけ向いて行け。」
イェリの必死の言葉がヤルノまで届いたのかわからない。 だが、自分に帰ってきたものをしっかり握りしめたまま、ヤルノは大きく手を振って叫び返してきた。 その表情までは暗闇にまぎれて見えなかったが、確かに声はいつもの明るいヤルノだった。
「ありがとう! ライサの事頼んだよ。」
「ああ。」
そして、歩み去るヤルノはもうふり返ること無かった。
「あんなことを偉そうに言っておいて、結局俺もこれに囚われているよな。」
胸元にかかった指輪を服の上から握りしめて、自嘲するようにイェリは笑った。 本当はそんなことではないと気付いてしまっている。 本当は、親友との約束に囚われたふりをして、自分の想いに言い訳をしているだけなのだ。 今の優柔不断な自分を見たら、ヤルノは何と言うだろうか。 ヤルノの事だから「しょうがない奴だなぁ。」とかいって小突いた後、笑って許してくれそうだ。 あの頃のように、何もかも許されて、心から笑う事がまたあるだろうか。 イェリは暗い空を見上げた。