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そこに店があるとは、知っているものでないとなかなかわからないだろう。 飲み屋が連なる繁華街の中ほどから細い路地を抜け、裏通りに出たところにあるこれといってめだたない建物の、すり減った石段を5段ほど下りた半地下に古びた樫の木の重そうな扉がある。 特に看板などは何も出ておらず、扉の小さな窓に金の飾り文字で小さく「stela」とだけ書かれている。 そこがステラの店だった。
イェリが重い扉を開くと、上についたベルがカランコロンとかわいらしい音を立てた。 店内は落ち着いた雰囲気で高価なオレンジ色のランプが惜しげもなく使われている。 ドアの先にも2段ほど段差があり、その先からは良く磨きあげられた木の床張りが続いていた。 入って左手がバーとカウンター。 右手は意外と広くテーブルとイスが10組ほど並んでいて、その半分ほどが客でうまっていた。 いつも不思議なことにこの店に客足が絶えることはない。 といっても満員御礼というところも見た事がないのだが。
「いらっしゃい。」
店内のざわめきの中よくとおる声がした。
「おひさしぶりです。」
イェリは声の主、カウンターの中にいるこの店の女主人の方へ近づいて行った。 ぬれたような黒髪をたかく結いあげ、細身の体によく合うシンプルな黒いドレスを着ている。 泣きボクロと赤く塗られた唇が何とも艶っぽい。 色香がにおいたつような女とはこういう人の事を言うのだろう、めったにお目にかかれないような美人だった。
「あら、イェリ様はいらっしゃるたびに『お久しぶり』ね。」
グラスを磨きながら少し拗ねたように女主人がいってくる。
「すみません。」
イェリは素直に謝った。 久しぶりとはよく言ったものでここに来るのは2,3年振りだろうか。 それでもステラはいつものようにイェリの顔と名前を覚えていてくれる。 それこそ学生時代から世話になっている彼女に頭が上がらない。
「昇進してまた忙しいのでしょう? 見るたびにいい男になっちゃって。」
だから許してあげる。とステラは艶っぽくほほ笑んだ。
「他の連中はもう来てます?」
「ええ、奥のお部屋に御集りよ。 今日は何の密談? いい男ばっかり揃っちゃって、うらやましいわ。」
「じゃあ、ステラさんも一緒にどうです?」
イェリがいたずらっぽく笑うと。 ステラは片手をほほにあてて首をかしげた。 こんな仕草が嫌味に見えないのは彼女ぐらいだろう。
「そうねぇ。行きたいけれど遠慮しておくわ。 カナル嬢に悪いし。」
ステラが、集まっているなかで唯一の女性の名前を上げた。 もっとも、男気あふれるカナルの事だから、紅一点というよりはいい男の一人に数えられているに違いない。 と、ステラの目がすっと鋭くなって伝わってくる空気が急に変った。
「それに、私、貴方達のお仲間に加わるほど命知らずじゃなくってよ。」
驚くほど彼女の声が低くなる。 そこにあるのは気の置けない飲屋の女主人ではなく、冷酷なまでに美しい彼女の裏の顔。 しかしイェリはひるむことなく囁いた。
「知ってますよ。」
そんなイェリにステラは少し目を見開いて、やがてふっと溜息をもらして元の女主人へと表情を戻す。
「やあねぇ、すっかり大人になっちゃって。昔はかわいかったのに、からかい涯がないじゃない。」
「30半ばの男を捕まえて、可愛いじゃ情けないでしょう。」
「あら、もうそんなになるの? 私が年をとるはずだわ。」
「ステラさんは、昔と全然変わりませんよ。 いや、見るたびに綺麗になっているかな。」
イェリはカウンターに身を乗り出してステラの右手をとり、さっとその手の甲に唇を寄せた。 向こうで若い店員が黄色い声を上げるが、当のステラは顔色一つ変えずにイェリの手をさっと振り払った。
「ほんと、男って馬鹿ね。 お酒はいつものでいいの?」
「はい、いつもので。」
まるで何事もなかったかのように笑顔を返すと、イェリは店の奥に続く通路に向かった。 この店に来るたびに、ステラとあいさつ代わりにこんな会話が交わされる。 初めてこの店に来たのは、イェリが17か18の時だろうか。それから本当に驚くぐらいステラは少しも変わっていない。そろそろ妖艶というより妖怪の域だな、などとこっそり思っている事はもちろんステラには絶対知られてはいけないが、それにしても。
(あれで、女じゃないなんて詐欺もいいところだな。)
奥の個室の扉を開けながらイェリはこっそり溜息をついた。
イェリが扉を開けると視線が一気に集まった。 10人ぐらいは入れるだろう細長の部屋は、ぐるりと壁沿いに座り心地のよさそうなソファが並べられていて、そこで4人の大人がくつろいでグラスを傾けていた。 中央には大きな長机の上には、いく皿もの料理やグラスや酒瓶が置かれていたが、すでにそのいくつかは空になっている。
「遅れて悪い。」
空いている場所に適当に座ると、さっそく一番奥にいる女性が文句を言ってきた。
「ほんとに、主役が遅れてきてどーすんのよ。」
「カナル。 イェリも仕事が忙しいのですから。」
「なに? 仕事と、あたし達とどっちが大切だっていうのよ。」
「この、仕事バカに聞くせりふじゃないだろ。」
「ごめんね、イェリ。 先にいただいているよ。」
相変わらずの面々に、イェリは思わず笑いを浮かべる。 顔は全く素面なのに、酒が入るといつもにもまして絡んでくるセピア色の短髪の持ち主がカナル。 これもいつものように彼女の暴走を止める役に回るのが、外見といい性格といい、この中で一番おっとりとしたフィオネル。 それを妙に煽るのがブロンドにアイスブルーの瞳という、いかにも女にもてそうな顔をしたネストリ。 そして褐色の肌に黒眼黒髪というゴンガザ人の特徴を備えた大男ガズは、周りがどんな状況であろうと我が道を行く。 4人ともがイェリとは専修校の同級生、20年以上の腐れ縁だ。
それでも、この顔触れに少しさみしさを感じてしまうのは、昔からすればこうして集まる頭数が半分に減ってしまったからだろう。 腐れ縁という意味では、ほかにもあと5人ほどいたのだが、2人はこのような場所に簡単に顔を見せることが出来るような立場ではなくなり、1人は仕事でもう1人は結婚して遠くの街に移り住み、最後の1人はもっと遠くの場所へ旅立ってしまった。 この5人で集まるのでもずいぶん久しぶりだ。
軽くドアをたたく音がして、若い店員がイェリの分の酒を持って入ってきた。 さすがにステラの店だけあって、店員の質は高く良く躾けが行き届いている。 如才ない仕草でグラスを机に置くと、「どうぞ、ごゆっくり。」と見せかけだけではない無い笑みを残して、すぐに店員は部屋を去って行った。
「じゃあ、みんな揃ったところで。 何に乾杯する?」
いつの間にか機嫌を直したカナルがグラスを上げると、後の男たちもそれに倣った。
「ガズ、任せた。」
ネストリの一言に、全員の視線がガズに向く。 昔から、面倒な事はガズに一任するのがネストリで、この個性的な一団の中で一番常識のあるガズが、なんだかんだ言っていつもうまく皆をまとめてくれる、影のリーダーというかお目付け役だ。 女性陣はいまだに「お父さん」などというあだ名で呼んでいるが。 ガズの方は「また、俺か。」などと言いながらも、寄りかかっていたソファから身を起してきっちりと座り直すと、全員を見回した。
「それじゃあ、我々の変わらぬ友情と、旅立つイェリの前途を祝して。」
「乾杯!」
5つのグラスが、勢いよく音を立ててぶつかった。