序章
ヤルノは塔の上から平原に沈み行く夕陽を見ていた。 クリュエタの壁に囲まれた町の中からでは、この塔の上まで登ってこない限り、町の外に広がる平原に沈む夕日を見ることができない。 ヤルノは狭い壁の隙間に身をうずめるようにして腰をおろしていた。 いつのころからか、なぜかは分からないけれど彼は夕陽を見るのが大好きだった。 嫌なことや悲しいことがあっても大地に溶けるように沈んでゆく太陽を見つめていると、不思議と気持ちが楽になるのだ。
「やっぱり、ここにいたのか」
突然かけられた声に頭だけふり返ると、一人の青年が狭い梯子を上ってくるところだった。いつの間にかヤルノの身長を追い抜いてしまった彼の親友は、鐘楼に頭をぶつけないように身をかがめながら窓際までやってきて、少し呆れたようにヤルノを見降ろした。
「またそんなところに挟まって。 そのうち抜けなくなって日干しになっても知らないぞ。」
「ひとをヤモリかなにかといっしょにしないでくれ。」
お前はそんなことを言いにわざわざここまで登ってきたのかとヤルノが皮肉言うと、彼の親友はわざとらしく眉をしかめて見せた。
「なんだ、せっかく忠告しに来てやったのに。 煙とバカは高いところが好きだって言うからな。」
「翼竜乗りに言われたくないね。」
間髪いれずに言い返すと、相手は一瞬目を丸くして、次の瞬間には「違いない。」と笑いだした。親友の笑い声を聞いてヤルノもつられたように笑い出してしまった。
二人はエウロニア王国正規軍の白騎士団に属する翼竜乗りだ。 いったん翼竜に乗れば、こんな塔など豆粒ほどにしか見えない空の上を風のように飛び回る。 だが、そこから見える景色は圧倒的で、すべての翼竜乗りはその空の高みを愛しているといっても過言ではない。 普通の感覚を持った人間から見れば、彼らは命知らずのバカの集まりだろう。
「日干しにならないよう水分は補給しとけよ。」
ひとしきり笑った後、彼もヤルノのとなりの窓際に挟まるようにして腰をおろし、片手に下げていた薄緑の瓶を一本投げてよこした。 弧を描いて飛んできた瓶をヤルノは危なげなく片手で受け止め、器用に窓枠の端で栓を抜いた。
「守る物のために」
「守る者のために」
互いに目の高さまで瓶を掲げると翼竜乗り独特の祈りを捧げる。瓶に口をつけると程よく冷えた甘酸っぱい林檎酒が、ヤルノの渇いたのどを癒していってくれた。 瓶越しに見える太陽はもう半分ほど地平に隠れてしまっていて、その最後の弱い光が薄黄緑色の宝石のようにきらめいてみえた。たがいに何をいうでもなく黙って夕陽を見つめる、その沈黙が今のヤルノにとっては心地よかった。
「今日はすまなかった。」
太陽が完全にその姿を地平線の向こう側に消した後、ヤルノはぽつりと吐き出すように言った。 向こうにいる彼の親友はかすかに身じろぎしただけで顔は地平線を向いたままだった。
「おまえがいなければ、俺は今頃ここにはいなかった。」
大げさではない、今日の戦闘で彼がかばってくれなければ、冗談ではなくヤルノはここにいれないどころか二度と夕陽を見ることのできない身になっていたはずだ。
「けど。」
けれどそうだ、一歩間違えれば。
「俺は、俺の代わりに誰かが傷つくところなんて、もう見たくない。」
一歩間違えれば自分は親友を失うところだったのだ。 あの瞬間、ヤルノが感じた恐怖は自分の死への恐れ以上のもの、また自分のために誰かが傷つくという恐怖。 小さいころからたくさんの人に守られその犠牲の上にある自分の命、身分以外に何のとりえもない自分を変えたくてここにいるのに、また守られ、何かを犠牲にしている自分という存在への恐怖。
いつの間にか目を伏せていたヤルノの頭の上に、かたくて冷たいものがゴンと当たった。 驚いて顔を上げると、目の前には彼の親友の顔があった。 どうやら彼が片手に持った空きびんでヤルノの頭を小突いたらしい。かすかに残った薄明りが彫の深い彼の顔に長い影を落としていたが、その表情はすぐにわかるくらい真剣で怒っていた。
「また、しょうもないことを考えているんじゃないだろうな。」
たぶん彼の言うところの「しょうもないこと」を考えていたヤルノは答えに詰まった。目の前にいる青年はきつい表情を変えることなく続ける。
「他の奴のことは知らないが、少なくともオレはおまえがお貴族さまだから助けた訳じゃないぞ。 自分の親友が危ない目にあっていて、オレはそれを助けられる場所にいたから助けた。それだけだ。 また同じことが起きれば何度でもそうするし、それが間違っているとは思わない。」
そこで彼はちょっと言葉を切って、少し目を和らげた。
「だって、お前もおなじことをするだろ? 違うか?」
ヤルノは驚いて相手を見つめた。 それからふいにつんと鼻の奥が痛くなって、涙がこぼれそうになった。 どうしてこいつは、この親友はいつもヤルノのほしい言葉がわかるのだろう、どうしてこんなにも簡単に闇から自分を救いあげてくれるのだろう。
「そう、だな。」
涙なんか見せるのは悔しくて、でも嬉しくて、突っかかるように答えたヤルノに、彼の親友はやっといつもと同じ様に、人を小馬鹿にしたように片方の口を上げて、いたずらっ子のように笑い、右手を突き出してきた。 その腕には真新しい包帯が痛々しく巻きつけられていたが、ヤルノの目に留まったのは彼の中指にはめられた銀の指輪だった。
「約束だ」
卒業するときに親友同士で校章のリングを交換して、永遠に友であり助け合うことを誓う。彼らの母校の伝統のような儀式だったが、二人にとっては命をかけた大切な約束だ。
「お前の言うべき言葉は『すまない』じゃないだろう。」
いわれて、ヤルノは自分が一番言うべき言葉をまだ言っていないことに気がつき、自分も右手を差し出した。
「助かった。ありがとう。」
二人のこぶしの間でたがいの指輪がぶつかってカチリと音を立てた。
読んでいただきありがとうございます。
小説初投稿ですが、よろしくお願いいたします。