ここにある感情
思考の記録。
私は、生きるのが嫌なのではない。
ただ、億劫になってしまっているのだ。
理由は分からない。
ただ、全身に気だるさがへばり付いて取れない。
生きる意味など考えず、ぼんやりと暮らしている方が幸せなのだろうか。
「そう違いない」と思いたいが
それは、はたして生きている意味があるのかと疑ってしまう。
鬱々しい訳ではない、ただやる気がない。
そう言ってしまった方が早い。
人の目を気にして、SNSとやらに取り憑かれたように時間を浪費している。
いっそのこと、この板を顔に埋め込んでしまった方が良いのではないかとさえ思う。
だが、板から得られるものも少なからずある。
映画や、他人の考えだ。
しかし、それらはどれも肌で感じるものには劣る。
映画館には空気があって、上映前と後の雑踏とざわめきがある。
それらすべてが、巻き戻すことのできないもので
そこに、生きている実感がある。
他人の考えに触れることも同じだ。
その場で思いついたことを言葉にすれば、多少の間はあれど、必ず返答が返ってくる。
やはり私は、「生きている心地」というものに執着しているのだろう。
生きていたい、よりも生きている。
その場所、そこに居るということが大事なのだろう。
ここまで読み返してみると、随分と鬱々しい文章だ。
では、その対極にある「死」はどうなのだろうか。
君たちは、人の命は尊いものだと思うか。
まぁ、そうすぐに答えを出せる人は、碌に物事を考えていないのだろう。
ある日、人の訃報が突然届くことがある。
その人は誰にも相談出来ずに死んだのではないか、と考えることもある。
飼っていたペットの死を、目の前で見たこともある。
死というものは、目の前に吊り下げられている。
ここのところ、「死」というものに興味がある。
なぜ人は死を選ぶのか。
死ぬことで、今まで生きてきた証が無くなるとでも思うのか。
贖罪のように死んでいく人を見て、愚かだと思うこともある。
だが、それを誰かに言うことはない。
私は、死ぬことで逃れられるとは思わない。
死とは、生きて、生きて、もがき苦しんだ末にある終着点だ。
人は突然死ぬらしい。
私の友人も、今まで関わってきた人も、いずれ死ぬのだろう。
中には、私が嬉しいと感じる相手もいるかもしれない。
だが大半は、寂しさが残るはずだ。
生きたり、死んだり、忙しい文章だと思う。
だが、これ以上書いてしまうと美しくない。
私は「生きている」と言いたい、この目まぐるしく変わる世の中で。
読んでくれてありがとう。
またどこかでね。




