失明したので婚約破棄されましたが、魔王からの溺愛が止まりません
その日、私の世界は二度終わった。
「リーネ。お前との婚約は、今日限りで白紙に戻す」
ユリウス・フォン・ヴェルムンドは、こちらを見ずにそう告げた。
声の方角からして、窓の外を眺めているのだろう。この人はいつもそうだ。私と言葉を交わすとき、決して視線を向けない。
——目が見えなくなってから、ずっと。
まるで、もうこの世にいない者に語りかけるように。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
自分でも意外なほど、声に揺らぎはなかった。
リーネ・フォン・クラウディア。伯爵家の末席に名を連ね、十五の歳にこの人と婚約した。以来七年。——ユリウスの認識ではきっと、「置いてやっていた」のだろうけれど。
「理由だと? 聞くまでもないだろう」
苛立ちすらない。
壊れた物を帳簿から消すときの、あの事務的な口調。——七年、隣にいたのに。この人にとって私は、ただの道具だったのだ。
「目の見えぬ女を、侯爵家に迎えるわけにはいかん。社交の場で恥を晒すことになる」
——ああ、やっぱり。
覚悟はしていた。目が霞み始めた頃から、ユリウスの振る舞いは少しずつ変質していった。最初は心配の素振りを見せてくれた——気がする。本当に案じていたのかどうか、今となっては判然としないけれど。
「お前が傍にいようがいまいが、俺の力に影響はない」
——そうですか。
胸の底で、何かが音もなく凍っていく。
ユリウスは「未来視の眼」の持ち主だ。禁呪級の力をもって宮廷に絶大な発言権を持ち、王からも格別の信を置かれている。
私はその傍らで、この人の生活を整え続けた。未来視の反動で倒れれば薬を飲ませ、社交の場では見落とした相手にさりげなく橋を架け、書庫に籠もる夜は文献を揃えて食事を運んだ。——それが当たり前だと思っていた。隣にいる者の務めだと。
「七年かけて、結局なんの足しにもならなかったな」
ユリウスが、ようやくこちらへ体を向けた。——空気の動きで察しがつく。
けれど私には、その表情は見えない。おそらく退屈そうに目を細めているのだろう。
「お前はただ座っていただけだ。邪魔をしなかった点だけは認めてやるが——それ以上でも以下でもない」
——座っていただけ。
これまでの人生が、たった一言で踏み潰された。
「まあ、仕方のないことさ」
足音が近づいてくる。
目の前で止まる。香水が鼻先をかすめた。——昔は、この匂いに胸が温まった。
「目が見えなくなったのは、お前の身体が脆いせいだ。俺の知ったところではない」
——は?
一瞬、聞き間違いかと疑った。
「お前を傍に置く間、俺がどれだけ神経を使ったか分かるか。体調が悪いと言っては休み、目が霞むと言っては泣き——正直、もううんざりだった」
違う。私は一度たりとも、この人の前で涙を見せたことなどない。
暗闇が少しずつ広がっていく恐怖を、悟られまいと歯を食いしばっていた。夜ごと、震える両手を膝の上で固く握り締めて耐え抜いた。
——それを「泣いた」と? 「神経を使った」と?
この人は、私の何を見ていたのだろう。いや——最初から何も見てなどいなかったのだ。
「ユリウス様、そろそろお時間ですわ」
甘ったるい声が割り込んできた。
女の声。最近、始終ユリウスの影に張りついている、あの女だろう。名前すら思い出せない。
「ああ、そうだな。——リーネ、話は済んだ。荷物をまとめて出ていけ」
「……はい」
「ああ、それから」
ユリウスの声色に、微かな愉悦が滲んだ。
「お前の実家には先に話を通してある。『盲目の娘を引き取る余裕はない』とのことだ。伯爵家も台所事情が厳しいらしいからな」
——え?
「行き場がないなら、修道院でも紹介してやろうか? 目が見えずとも、祈りを捧げることくらいはできるだろう」
くすくすと、女の忍び笑いが部屋に散った。
ユリウスはそれを咎めもしなければ、同調もしない。
——興味を失ったのだ。もう完全に、私という人間に。七年連れ添った女が嘲りの的にされていても、瞬きひとつしない。
泣くとでも思っているのだろうか。すがりつくとでも。——その姿だけは、死んでもこの人たちには見せない。
「さて、次の未来視の依頼は——」
ユリウスの声が遠ざかる。
足音がふたつ。ユリウスと、あの女。私を部屋に残して、出ていく。
「あ、段差がございますわ。お気をつけて、ユリウス様」
わざとらしい声が、廊下に響いた。
私に向けた言葉ではない。——盲目であることを、これ見よがしに突きつけるための台詞だ。
その底意地の悪さが、針のように肌を刺す。
扉が閉まった。
ひとり、取り残された。
部屋にはユリウスの香水だけが澱のように漂っている。七年間嗅ぎ続けた匂い。今は胃の底からこみ上げるものに変わっていた。
◇
まとめる荷物など、あってないようなものだった。
七年。この屋敷で暮らしたというのに、私の所持品は小ぶりの鞄ひとつに収まってしまう。
侍女たちは誰ひとり手を貸してくれなかった。
それどころか、廊下ですれ違うたびにひそひそと笑い声が追いかけてくる。
「可哀想。すがることさえできないなんて」
「ユリウス様もお辛かったでしょうね。あんな足手まといを何年も」
「新しい方、とてもお綺麗でしたわね」
——聞こえているのに。
目の前にいるのに、存在していないとでも思っているのか。それとも、聞こえたところで構わないと。
おそらく後者だ。私など、もはや人として数えてすらいないのだろう。
昨日までは「ユリウス様の婚約者」として一応の敬意を払われていた。たった一日で、人間の扱いがこうまで変わる。
——いや。これこそが本音だったのだ。昨日までの態度のほうが、仮面だった。
屋敷を出るとき、見送る者はいなかった。門番すら顔を上げなかった。毎朝挨拶を交わしていたのに。
ここで過ごした七年間は、いったい何だったのだろう。
私は最初から、誰にも必要とされていなかった。
◇
行く宛など、どこにもなかった。
実家は閉ざされた。ユリウスの言葉が真実なら、父が私を拒んだのだ。
修道院という道もあったが——あの男が示した道筋をなぞることだけは、どうしても嫌だった。ユリウスに「救ってやった」という既成事実を与えたくない。
最後の意地だ。みっともない執着だと分かっている。けれど、それすら手放したら、私に残るものは何もない。
だから、歩いた。
杖を頼りに、一歩ずつ。どこへ向かっているかも分からないまま。
ただ、あの香水の残り香が届かない場所まで、遠ざかりたかった。
どれほど歩いただろう。
足の裏が焼けるように熱を持ち、喉が張り裂けそうに渇き、胃が空の臓腑を絞り上げる。
それでも足を止める場所がなかった。止まったら最後、二度と立ち上がれない気がした。
気づけば、周囲の音が変わっていた。
街の喧騒が途絶え、鳥のさえずりが耳に届く。風が木々を揺らし、葉擦れが囁きのように降り注ぐ。
——森に入っていたのだと、遅れて悟った。
何かの看板らしきものに杖が当たった。
「立入禁止」か、「危険」か。私には読むすべがない。
仮に読めたとしても、引き返す先などどこにもないのだ。
足元の感触が移り変わる。
石畳から土へ。土から、苔むした岩肌へ。湿気を帯びた空気がまとわりつく。
何かの建物が、すぐ近くにある。
そして——。
「——人間か」
低い声が、頭の上から降ってきた。
地の底から湧き上がるような、重く深い響き。
私は足を止めた。心臓が跳ねる。けれど、恐怖は来なかった。
もう、怖いものなどない。失うものを全て失った後だ。殺されるなら、それでもいい。
「なぜ怯えない」
声の主が近づいてくる。
足音は重い。石を踏みしめる音が腹に響く。大柄な男だろう。
「……何を、ですか?」
「俺の顔を見て、だ」
——顔?
小さく首を傾げた。
「申し訳ありません。——見えないので」
「…………」
沈黙が落ちた。
風だけが吹いて、木々が鳴る。葉擦れの音が、ふたりの間を埋めていた。
「——そういう、ことか」
男の声が、微かに色を変えた。
何かを得心したような、それでいて当惑しているような。——そしてどこか、ほっとしたような。
男が、一歩にじり寄った。
その瞬間、不思議な感覚が全身を包む。
身体の芯から、じわりと熱が広がっていく。
空っぽだった器に何かが注ぎ込まれるような。
「……お前、何者だ」
男の声が、かすかに揺れている。
「俺の傍にいて、なぜ平然としていられる」
「平然……? 私は——」
言いかけて、気がついた。
つい先刻まで全身を蝕んでいた疲労が、嘘のように消え失せている。足の痛みも、喉の渇きも、飢えも。
——この人の傍にいるだけで、癒されている。
「……分からんな」
男が呟く。
「だが——」
足音が、さらに一歩。
目の前に、大きな気配がある。熱量を持った存在が、手の届く距離に。
「お前の傍にいると、痛みが引いていく」
「痛み?」
「生まれた時からずっと疼いていた。この呪紋が。——だが今、静かだ」
男の声に、剥き出しの驚きがあった。そして——かすかな、戸惑い。
呪紋。
その単語に、おぼろげな記憶が甦る。王都の外れに棲むという、史上最強の魔法使い「魔王」。
「……怖くはないのか」
男が、低く問うた。
「俺が何者か、分かっているか」
「魔王と——呼ばれている方ですか」
「ああ。——俺に触れた者は廃人になる。体内の魔力が暴走して、相手を内側から蝕む。だが、お前にはなんの影響も出ていない」
「……そう、なんですか」
「それどころか、俺の魔力が——鎮まっている。お前の傍にいると、暴走が止まる」
男の声には、長い孤独の果てに突然手を差し伸べられた者の——困惑があった。
「でも、私には見えませんから」
小さく笑みがこぼれた。自分でも驚くほど、自然に。
「怖い顔をしていらっしゃっても、分かりません。——それに」
「それに?」
「あなたの声は、少しも怖くないです」
風が凪いだ。森全体が息を潜めるように静まり返る。
——おかしなものだ。つい先ほどまで凍えていた心が、この人の前にいると少しだけほどけていく。
「……変わった女だ」
男がぽつりと漏らした。呆れたようでいて、声の端がわずかに緩んでいる。
「名は」
「リーネ、と申します」
「俺はヴァルド。——ヴァルド・フォン・グラオヴァルト」
ヴァルド。
心の中で、その名を反芻した。重たくて、硬くて、けれど——嫌いじゃない響き。
「リーネ。行く宛は、あるのか」
首を横に振った。
嘘をつく気力も、見栄を張る余力も、もう残っていなかった。
「そうか」
また沈黙が降りる。
そして——。
「なら、好きなだけここにいろ」
その言葉は、ぶっきらぼうだった。
なのに私の耳には、ひどく温かく響いた。
——「必要ない」と突き放された日に。見知らぬ人から「いていい」と言われるなんて。
◇
ヴァルドの城は、古く、広かった。
全容を目にすることは叶わないが、足音の反響から天井の高さが窺える。石壁が音を硬質に跳ね返す。
冷たい空気だが、濁りがない。埃っぽさもない。——きちんと手が入っている証拠だ。
「ここを使え」
蝶番の軋む音。扉が開かれる。
「客間だ。寝台と机がある。足りないものがあれば言え」
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。——俺が引き留めた以上、当然のことだ」
素っ気ない物言い。
なのに、声に棘がない。——どちらかといえば、照れ隠しに近い響きだった。
「ヴァルド様」
「ヴァルドでいい」
「では、ヴァルドさん」
「……まあ、それでいい」
足音が遠ざかり、扉が閉じた。
ひとり、部屋に残される。
——状況だけ見れば、さっきと同じだ。ひとりきりで、見知らぬ場所にいる。
なのに、不思議と怖くなかった。ユリウスの屋敷で取り残されたときとは、何もかもが違う。
寝台の端に腰を下ろし、深く息を吐く。
シーツは少し硬いが、清潔な匂いがした。身体が軽い。あの壮絶な疲労が、本当に消えている。
——不思議な人だ。
けれど少なくとも、この人は盲目の私を「恥」とは呼ばなかった。
◇
翌朝。
目が覚めると、扉の外に気配があった。
誰かが立っている。——いつから、そうしていたのだろう。
「……ヴァルドさん?」
「起きたか」
扉越しに低い声が届く。そこに、微かな安堵が滲んでいた気がした。
「飯がある。食堂まで来い」
足音が廊下の奥へ去っていく。
私は慌てて身支度を整え、部屋を出た。
壁に手をつき、足元を探りながら廊下を進む。
「そっちは突き当たりだ」
ヴァルドの声が、背後から聞こえた。
——戻ってきて、待っていてくれたのか。
「……ついてこい」
大きな手が、私の手を包んだ。
硬い皮膚。骨太の指。なのに、握る力加減は驚くほど丁寧だった。
その掌に触れた瞬間、また感じる。
身体の奥底に、温かなものが静かに流れ込んでくる感覚。
「足元に段差がある」
「あ、はい」
「ここを右に曲がる。梁が低い」
「はい」
ヴァルドは、逐一道を教えてくれた。
段差の位置。角の方向。扉の所在。
——私のことを、はじめから当然の前提として受け容れているかのように。
「ここだ」
扉が開く。
焼きたてのパンと、煮込んだ野菜の湯気が鼻腔に届いた。——温かい匂いだ。
「座れ」
手探りで椅子を見つけ、腰を下ろす。
「パンとスープだ」
「これ、ヴァルドさんが作ったんですか?」
「他に誰がいる」
言い方は荒いのに、やっていることが甲斐甲斐しい。
スプーンを手繰り寄せ、スープを口に運んだ。
野菜の甘みが、舌の上にじんわりと広がる。塩加減が絶妙だった。
「……おいしい。すごく、おいしいです」
嘘ではなかった。ユリウスの屋敷で供されていた料理より、ずっと素朴で、ずっと体に沁みる味がした。
「……そうか」
ヴァルドがこちらに背を向けた。声がわずかに遠のく。
「足りなければ言え。——お前は痩せすぎだ」
◇
それから、穏やかな日々が始まった。
ヴァルドは毎朝、食事を用意してくれた。
最初は質素なものだったが、日を追うごとに卓が賑やかになっていった。パンが二種類に増えた日。スープに肉が加わった日。デザートが添えられた日。
——蜂蜜をたっぷり垂らした焼きりんご。甘くて、温かくて、舌の上でとろけた。
「……今日はずいぶん手が込んでいますね」
「たまたま材料が余っていただけだ」
毎回その言い訳だ。けれど私は知っている。この城に、ヴァルド以外の人間はいない。
——わざわざ街まで買い出しに行っているのだ。「魔王」と恐れられるこの人が、私のために。
ある朝のことだった。
目が覚めると、肩に重みがあった。
温もりが残っている。——マントだ。ヴァルドの体温が、まだ布地に宿っている。
昨夜、窓辺の椅子で風の音に耳を傾けていたのだ。いつの間にか意識が落ちてしまったらしい。
私はそのまま、マントに顔を埋めた。
ヴァルドの匂いがした。森と、古い書物と、それから——言葉にしにくい、何か温かなもの。
——いつ、かけてくれたのだろう。起こさないように、音を殺して。
◇
日を重ねるごとに、身体が変わっていった。
疲れにくくなった。よく眠れるようになった。空だった器に、少しずつ何かが満ちていく——そんな感覚がずっと続いている。
ある午後、食事を終えたヴァルドが不意に切り出した。
「身体の具合は、どうだ」
「とても良いです。ヴァルドさんのおかげで」
「……そうか」
それきり、口をつぐんでしまった。いつもより距離がある。椅子を引く音が、遠い。
「ヴァルドさん?」
「……なんでもない」
背を向けて、部屋を出ていった。
その足音が、どこか寂しげに聞こえた。——見えないはずなのに。重くて、緩やかで、どこか躊躇うような歩調。
◇
その頃——王都では。
「ユリウス・フォン・ヴェルムンド。貴様の未来視は、もう使い物にならんな」
王の声が、謁見の間を貫いた。
玉座の前に跪くユリウスの顔は、紙のように白い。
「申し訳ございません、陛下。ほんの一時的な不調で——」
「一時的だと? この一月で予言が三度外れた。国境の守りに綻びが生じ、隣国との折衝は破談し、商会との取引で莫大な損害を被った」
王の眼差しが、冷たく光る。
「お前の未来視を信じて、どれほどの判断を重ねてきたと思っている」
「陛下、私の力そのものは変わっておりません。ただ——」
「ただ?」
ユリウスは、言葉に詰まった。
自分でも分からないのだ。リーネを追い出してから、未来視を発動するたび激しい頭痛に見舞われる。視界は歪み、未来の輪郭がぼやけて定まらない。
ユリウスは、言葉に詰まった。
自分でも分からないのだ。リーネを追い出してから、未来視を発動するたび激しい頭痛に見舞われる。視界は歪み、未来の像が定まらない。
「……はぁ」
王が、深く息を吐いた。玉座に肘をつき、こめかみを押さえている。
怒りではなかった。——呆れだ。底の底まで呆れ果てた者の、溜息。
「まだ気づかぬか。七年も傍にいて、まだ分からぬか、お前は」
「陛下……? 何を——」
「お前の眼が、なぜあれほど精確に未来を映せていたと思う。お前一人の力だとでも?」
ユリウスの顔が強張った。
「——ガルディス」
王が、傍らの老人に顎をしゃくった。もう自分の口で説明する気力もないとでも言うように。
「御意」
白髪の老人——宮廷魔術師長ガルディスが、一歩前に出た。その目は、哀れむようにユリウスを見下ろしている。
「リーネ・フォン・クラウディア。あの娘は『澄んだ瞳』の持ち主だ」
「澄んだ……瞳?」
「百年に一人現れるかどうかの希少体質。傍にいるだけで他者の魔力を安定させ、増幅する。——言うなれば、生きた魔力の炉心だ」
謁見の間が、水を打ったように静まった。
「お前の眼は、あの娘の魔力を燃料にして駆動していた。お前はそれと知らず、これまで彼女の魔力を搾り取った。——彼女の視力が失われたのは、お前が吸い尽くしたからだ」
「そんな——」
「そして今、燃料を失った。だから眼がまともに動かん。——単純な話だろう」
ガルディスの声には、怒りすらなかった。ただ事実を並べているだけだ。それが余計に残酷だった。
ユリウスの顔から、最後の血の気が引いた。
「で、では——代わりの者を——」
「試しただろう?」
ガルディスの声が、さらに冷えた。
「お前が最初に傍に置いた女は、三日で意識を失った。二人目は一週間。三人目は——命を落とした」
謁見の間がどよめいた。王が、玉座から身を起こす。
「ユリウス・フォン・ヴェルムンド。お前は国家の至宝を、無知と傲慢で失ったのだ」
「陛下、お待ちください——」
「私とて知らなかった。『澄んだ瞳』が実在するなど、誰が信じる。——だが、お前は違う」
王の声が、広間の隅々にまで届いた。
「お前は七年間、彼女の傍にいた。その恩恵を受け続けていた。——にもかかわらず、気づきもせず、感謝もせず、塵のように捨てた」
「私は——私の力は——」
「お前に力などなかった。あったのは、あの娘の方だ。——救いようのない愚か者が」
ユリウスは、床に這いつくばった。かつて宮廷でもっとも輝いていた男が、惨めに震えている。
◇
その夜——魔王の森にて。
寝つけなくて、城の中をさまよっていた。
壁伝いに、ゆっくりと。この城の廊下は、もう身体が憶えている。
奥から声が届いた。ヴァルドの声。——独り言だ。
「……目が治れば、出ていくだろうな」
私は、息を殺した。
「当然だ。呪われた男の傍に、留まる理由がない」
低くて、静かで、——諦めに沈んだ声だった。
「見えないから、傍にいられただけだ。俺の顔を見れば、怯えて逃げ出す。——他の人間と、なんら変わらない」
私は、扉に手をかけた。
「ヴァルドさん」
声が途切れた。
扉を開ける。大きな影が、こちらを振り向いた。
「リーネ——なぜ、ここに」
「眠れなくて、歩いていたら」
部屋へ足を踏み入れる。
ヴァルドが退いた。床板が軋む。
「近づくな」
「どうしてですか」
「俺の顔を——見るな」
ヴァルドの声の震えは分かった。——怯えているのだ。私が逃げることに。
「見えません」
「だが、いずれ見える。お前の身体は回復している。目も——そう遠くない」
「そうかもしれません」
「なら——」
「でも、怖くないです」
一歩、踏み出した。
ヴァルドの息が止まる。
「ずっと、あなたの声を聞いてきました。あなたの手の温度を知っています。あなたが拵えてくれたご飯の味を覚えています。あなたがかけてくれたマントのぬくもりで眠りました」
もう一歩。
「見えなくても、あなたのことは知っています。——だから目が戻っても、怖くなんてなりません」
「…………」
「それに」
手を伸ばした。
ヴァルドの頬に、指先が触れる。
浮き上がった紋様の感触が伝わってきた。脈打つ熱。微かな痛みの気配。——この人は、ずっとこれを抱えて生きてきたのだ。
「たくさん、刻まれているんですね」
「……傷ではない。呪紋だ」
「痛くはないですか」
「…………」
長い間のあと、ヴァルドが答えた。
「……痛くない」
嘘だ、と思った。ずっと痛かったのだ。生まれてから、ずっと。
けれど今は——私が触れている間だけは、痛くないのだ。
「ここに、いてもいいですか」
私は、訊いた。
「目が治っても——ここに、いたいんです」
「……なぜだ」
「分かりません。でも——」
ヴァルドの頬から、手を離さなかった。
「あなたの傍が、いいんです」
言葉が尽きた。
風が窓を鳴らす音だけが、静かに響いている。
「……好きにしろ」
ヴァルドの声は、震えていた。掠れて、低くて、けれど——温かかった。
◇
数日後。
ヴァルドの城に、招かれざる客が現れた。
「リーネ! そこにいるのは分かっている!」
門の外から、聞き覚えのある声が響いた。ユリウスだ。
窓辺に立って、その声を聞く。
——最近、うっすらと視界が戻りつつある。ぼんやりとだが、光の輪郭を拾えるようになった。窓の向こうに、人の形がある。
「戻ってこい、リーネ! お前が必要なんだ!」
出会ってから、ただの一度も口にしなかった言葉。今さら「必要」だと。——笑わせる。
「もう一度、俺の隣に来い! 傍に置いてやる!」
足音が近づいてきた。ヴァルドだ。
「……行くのか」
背後から、低い声が届いた。抑えた口調の下に、不安がにじんでいる。
「いいえ」
ヴァルドが、息を呑んだ。
「行きましょう、ヴァルドさん。はっきり伝えないと」
ヴァルドの手を取った。
大きくて、力強い手。呪紋の熱が指先に伝わる。——この手が、好きだ。
並んで、門へ向かった。
◇
門を開けると、ユリウスが立っていた。
光の加減で輪郭が分かる。金髪が乱れ、衣服は皺だらけだ。——みっともないほどに落ちぶれている。
「リーネ……!」
ユリウスが一歩踏み出し——ヴァルドの姿を捉えて、凍りついた。
「な——魔王……!?」
「久しぶりだな、ヴェルムンドの小僧」
ヴァルドの声は静かだった。静かなのに、大気が軋んでいる。
「なぜお前が——リーネ、こいつに何かされたのか!? 騙されているのか!?」
「騙されてなどいません」
私は、はっきりと言い切った。
「私は自分の意志で、ここにいます」
「馬鹿な——お前は俺の婚約者だっただろう!? 俺の隣にいるべき女だ!」
「婚約はあなたが破棄したでしょう。『盲目の女は恥になる』と、そう仰って」
「あれは——あれは誤りだった! お前が要るのだと分かった! だから戻ってこい!」
——私の力が欲しいだけだ。私自身ではない。七年傍にいて、この人は何ひとつ変わっていない。
ユリウスが手を伸ばしてきた。
私の腕を掴もうとする。
その手が、途中で止まった。
ヴァルドが、私の前に立ち塞がっていた。
「触れるな」
ユリウスの表情が、恐怖にひきつった。
「ま、魔王——」
「この女は、俺の傍にいる。もうお前の手が届く場所にはいない」
「ふざけるな……! 俺には未来視の眼が——」
ユリウスの双眸が、青白く発光した。
未来視の発動。
——そして、その顔が絶望に染まった。
「な……何だ、これは……」
「見えたか」
ヴァルドの声は、凪いでいた。
「お前の眼は、俺の魔力を触媒にしてかつてないほど鮮明に未来を映しただろう。——そして幾千通りもの未来で、お前は俺に圧殺されている」
「そんな……そんな、馬鹿な……」
「——帰れ」
ヴァルドが一歩踏み出した。ユリウスがよろめくように退く。
「二度と来るな。次に姿を見せたら——お前が視た通りになる」
ユリウスは一言も返せなかった。蒼白のまま、逃げるように去っていった。
◇
ユリウスが去ったあと、私たちは城の庭に立っていた。
風が木々を揺らしている。穏やかな午後だった。
「……怖かったか」
ヴァルドがぼそりと訊いた。
「いいえ」
「俺があいつを殺すと脅した時もか」
「ヴァルドさんは、殺さないと思いました」
「……なぜ、分かる」
「だって」
私は、ヴァルドの方を向いた。
「ヴァルドさんは、優しい人ですから」
「…………」
「毎日ご飯を作ってくれて、冷える夜にはマントをかけてくれて、暗がりの中で道を教えてくれる。——そういう人が、たやすく命を奪ったりしません」
ヴァルドが、小さく笑った。
笑い声を聞くのは、これが初めてだった。低くて、少し掠れていて、けれど——耳に心地よい響き。
「……変わった女だ」
「よく言われます」
「褒めている」
——ああ。この人の傍にいてよかった。心の底から、そう思った。
◇
後日、王宮から使者が訪れた。
「リーネ・フォン・クラウディア様。陛下より、王宮へのご帰還と保護のお申し出がございます」
——あの時見捨てた私に、今さら「様」を付けて。
「お断りいたします」
「し、しかし——『澄んだ瞳』の持ち主として、王国には——」
「何度お伝えすればお分かりになるのですか。私は、ここにいると決めたんです」
使者はそれでも説得を試みたが、私が翻意することはなかった。やがて諦めて引き下がっていった。
使者から聞いた話では、ユリウスは国外追放に処されたそうだ。
「魔王と呼ばれる史上最強の魔法使いに喧嘩を売った大馬鹿者」として。王が激怒したのだという——「この国を滅ぼす気か」と。
あの日私を嘲笑した侍女たちも、連座で屋敷を追われたらしい。
ユリウスの隣にいたあの女は、ユリウスの未来視に利用され、二日で倒れたそうだ。私の代わりになれる者など、いなかった。
——どうでもいいことだ。もう、振り返る必要はない。
◇
そして——ある朝。
目を開けた瞬間、違和感に打たれた。
いつもより明るい。ぼんやりとした光の塊ではない——輪郭がある。色がある。
窓から射し込む朝の光。揺れるカーテン。天井の木目。
すべてが、鮮やかに映っている。——暗闇の底にいた私のもとに、世界が還ってきた。
「……見える」
寝台から身を起こす。使い込まれた机、壁一面の本棚。七年ぶりに目にする、色のある世界。
扉が開いた。
「リーネ、朝飯——」
ヴァルドが入ってきた。
私は、初めてその顔を見た。
暗い銀髪。灰色の瞳。そして——全身を走る、黒い呪紋。
誰もが目を背け、恐れて逃げるであろう姿。けれど私には分かる。この人がどれほど優しいか。
「……そんな顔を、していたのね」
微笑んだ。
ヴァルドが立ち止まった。その表情に、怯えが浮かぶ。
「リーネ!? まさか目が見え——怖くないのか」
「ずっと隣にいて、今さら怖がるわけないでしょう」
寝台から降りて、ヴァルドの前に立つ。
手を伸ばして、その頬に触れた。
呪紋の起伏。脈打つ熱。
目を閉じていた時と、同じ感触だ。——ああ、やっぱり。見えても見えなくても、この人は変わらない。
「やっぱり、たくさん刻まれている」
「傷ではない。呪紋だ」
「知ってます」
笑った。
「——やっぱり、逃げたりしません」
ヴァルドの灰色の瞳が揺れた。——泣いている。この人は。
「……リーネ」
「はい」
「俺は——お前を、離さない」
「はい」
「俺が見えるようになっても——ずっと、傍にいろ」
「はい」
ヴァルドの胸に、額を預けた。
大きな手がぎこちなく——本当にぎこちなく——背中に回された。この温もりを、私はとうに知っていた。
「……ありがとう」
ヴァルドの声が震えていた。
「傍に、いてくれて」
顔を上げる。灰色の瞳が、すぐ目の前にあった。
「ヴァルドさん」
「……なんだ」
「私のほうこそ」
ヴァルドの眉が、微かに動いた。
「拾ってくれて。——生きていていいと、思わせてくれて」
「…………」
「だから——」
背伸びをした。
ヴァルドの頬に、唇を寄せる。浮き上がった呪紋が唇に触れた。
ヴァルドの体が、石のように硬直した。
「——っ」
「……ヴァルドさん?」
返事がない。見上げると、ヴァルドの顔が真っ赤に染まっていた。耳も、首も、呪紋の隙間すら赤い。
「……お前、今のは」
「好きな人には、こうするものだと」
「…………」
長い間のあと、ヴァルドが私の頭に手を置いた。
大きな手が、不器用に——ひどく不器用に——髪を撫でる。
「……俺は、こういうことは分からん」
「はい」
「だが——」
ヴァルドの手が、頬へ移った。
呪紋の熱が肌に伝わる。怖くはない。むしろ、安らぐ。
「お前の目の代わりに、俺が全部見てやる。転ばないように道を均す。寒くないように——」
言葉が途切れた。
ヴァルドが顔を背ける。
「……飯を、作る」
笑いがこぼれた。もう、目は見えているのにこの人は——
「はい」
本当に不器用だ。
けれどその不器用さが、どうしようもなく愛おしい。
目を閉じた。
視力が戻った世界よりも、この温もりのほうが、ずっと眩しかった。
◇
それから、季節がひとつ巡った。
私は今もヴァルドの城にいる。
目は完全に癒えた。世界は色鮮やかに映る。朝日の金色も、森の碧も、ヴァルドの灰色の瞳も。
けれど、一番見たいものは——いつだって、手を伸ばせば届く場所にある。
「リーネ」
「はい」
「……今日は、何が食いたい」
「ヴァルドさんが作ってくれるものなら、なんでも」
「……そうか」
ヴァルドが背を向ける。
その耳が、ほんのり赤い。
——目が見えるようになって、気づいたことがある。
ヴァルドは照れると耳が染まる。私の名を呼ぶとき、わずかに声が柔らかくなる。私が笑うと、口元がかすかに綻ぶ。
見えなかった頃には分からなかったこと。でも今は、全部見える。——目が戻ってよかった。
「ヴァルドさん」
「なんだ」
「大好きです」
ヴァルドの足が止まった。
振り返らない。けれど、耳が真っ赤になっている。
「……唐突だな」
「言いたかっただけです」
「…………」
長い間のあと、ヴァルドが振り返った。呪紋の走る顔。灰色の瞳。けれどその目は、誰よりも穏やかだった。
「——俺も、だ」
「俺も——お前が、」
言葉が途切れる。顔を背ける。耳どころか首筋まで赤い。
「……飯を作ってくる」
「待ってください」
袖を掴んだ。
「……なんだ」
「続き、聞いてません」
「…………」
長い沈黙。やがて、観念したようにヴァルドが振り返った。
呪紋の走る顔。灰色の瞳。その目は、誰よりも優しくて——今は、どこか腹を括ったような色を帯びている。
「……お前が、好きだ」
低い声。掠れた声。けれど、一語一語が鮮明に届いた。
「お前の声が好きだ。笑い方が好きだ。俺の飯を美味いと言う顔が好きだ。——俺の傍にいてくれることが、好きだ」
涙が、頬を伝った。
「ヴァルドさん——」
「泣くな」
大きな手が、涙を拭った。不器用に。ぎこちなく。けれど、優しく。
「泣かせるつもりでは、なかった」
「嬉しいんです」
「…………」
「嬉しくて、泣いてるんです」
ヴァルドが、困ったように眉根を寄せた。
そして——私を、抱き寄せた。
大きな腕。広い胸。呪紋の熱。
その全部が、私を包む。
「……飯は後でいい」
「はい」
「もう少し——こうしていろ」
「はい」
ヴァルドの胸に顔を埋めた。
——この人は、いつだってこうだ。不器用で、口下手で、素直じゃなくて。
けれど、その全部が好きだ。
誰にも要らないと思っていた。
すべてを失ったと思っていた。
けれど——。
失ったからこそ、辿り着いた場所がある。
見えなかったからこそ、見えたものがある。
窓の外では、森の木々が風にそよいでいた。
かつて「魔王の森」と恐れられた場所。今は、私たちの——家。
「リーネ」
背後から、低い声。
「飯ができた。——来い」
振り返ると、ヴァルドが立っていた。
エプロン姿のまま。片手に、湯気の立つ皿。
「……わざわざ持ってきてくれたんですか」
「お前が来ないからだ」
「呼んでくだされば行きましたのに」
「…………」
ヴァルドが、視線を逸らした。耳が赤い。
「……お前の顔が、見たかった」
笑みがこぼれた。
「私も、ヴァルドさんの顔が見たかったです」
「…………」
「だから——」
ヴァルドの前に立つ。つま先立ちになって、その頬に手を添えた。
「ずっと、見ていてもいいですか」
灰色の瞳が、揺れた。
そして——不器用に、笑った。
「……好きにしろ」
ここが、私の居場所だ。
この人の隣が、私の帰る場所だ。
お読みいただきありがとうございます。今回はざまぁ多めにしてみました!
※説明っぽくなりそうで本文に入れるのは避けたのですが、リーネの目が治ったのは魔王の漏れ出す魔力の影響です。リーネの「澄んだ目」は器。ユリウスに魔力を枯らされ、ヴァルドの魔力で満ちたという形です!
連載も始めましたのでぜひぜひ!




