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失明したので婚約破棄されましたが、魔王からの溺愛が止まりません

作者: にたまご
掲載日:2026/02/26

 その日、私の世界は二度終わった。


「リーネ。お前との婚約は、今日限りで白紙に戻す」


 ユリウス・フォン・ヴェルムンドは、こちらを見ずにそう告げた。

 声の方角からして、窓の外を眺めているのだろう。この人はいつもそうだ。私と言葉を交わすとき、決して視線を向けない。


 ——目が見えなくなってから、ずっと。

 まるで、もうこの世にいない者に語りかけるように。


「理由を、伺ってもよろしいですか」


 自分でも意外なほど、声に揺らぎはなかった。

 リーネ・フォン・クラウディア。伯爵家の末席に名を連ね、十五の歳にこの人と婚約した。以来七年。——ユリウスの認識ではきっと、「置いてやっていた」のだろうけれど。


「理由だと? 聞くまでもないだろう」


 苛立ちすらない。

 壊れた物を帳簿から消すときの、あの事務的な口調。——七年、隣にいたのに。この人にとって私は、ただの道具だったのだ。


「目の見えぬ女を、侯爵家に迎えるわけにはいかん。社交の場で恥を晒すことになる」


 ——ああ、やっぱり。


 覚悟はしていた。目が霞み始めた頃から、ユリウスの振る舞いは少しずつ変質していった。最初は心配の素振りを見せてくれた——気がする。本当に案じていたのかどうか、今となっては判然としないけれど。


「お前が傍にいようがいまいが、俺の力に影響はない」


 ——そうですか。


 胸の底で、何かが音もなく凍っていく。


 ユリウスは「未来視の眼」の持ち主だ。禁呪級の力をもって宮廷に絶大な発言権を持ち、王からも格別の信を置かれている。


 私はその傍らで、この人の生活を整え続けた。未来視の反動で倒れれば薬を飲ませ、社交の場では見落とした相手にさりげなく橋を架け、書庫に籠もる夜は文献を揃えて食事を運んだ。——それが当たり前だと思っていた。隣にいる者の務めだと。


「七年かけて、結局なんの足しにもならなかったな」


 ユリウスが、ようやくこちらへ体を向けた。——空気の動きで察しがつく。

 けれど私には、その表情は見えない。おそらく退屈そうに目を細めているのだろう。


「お前はただ座っていただけだ。邪魔をしなかった点だけは認めてやるが——それ以上でも以下でもない」


 ——座っていただけ。


 これまでの人生が、たった一言で踏み潰された。


「まあ、仕方のないことさ」


 足音が近づいてくる。

 目の前で止まる。香水が鼻先をかすめた。——昔は、この匂いに胸が温まった。


「目が見えなくなったのは、お前の身体が脆いせいだ。俺の知ったところではない」


 ——は?


 一瞬、聞き間違いかと疑った。


「お前を傍に置く間、俺がどれだけ神経を使ったか分かるか。体調が悪いと言っては休み、目が霞むと言っては泣き——正直、もううんざりだった」


 違う。私は一度たりとも、この人の前で涙を見せたことなどない。

 暗闇が少しずつ広がっていく恐怖を、悟られまいと歯を食いしばっていた。夜ごと、震える両手を膝の上で固く握り締めて耐え抜いた。


 ——それを「泣いた」と? 「神経を使った」と?

 この人は、私の何を見ていたのだろう。いや——最初から何も見てなどいなかったのだ。


「ユリウス様、そろそろお時間ですわ」


 甘ったるい声が割り込んできた。

 女の声。最近、始終ユリウスの影に張りついている、あの女だろう。名前すら思い出せない。


「ああ、そうだな。——リーネ、話は済んだ。荷物をまとめて出ていけ」


「……はい」


「ああ、それから」


 ユリウスの声色に、微かな愉悦が滲んだ。


「お前の実家には先に話を通してある。『盲目の娘を引き取る余裕はない』とのことだ。伯爵家も台所事情が厳しいらしいからな」


 ——え?


「行き場がないなら、修道院でも紹介してやろうか? 目が見えずとも、祈りを捧げることくらいはできるだろう」


 くすくすと、女の忍び笑いが部屋に散った。

 ユリウスはそれを咎めもしなければ、同調もしない。

 ——興味を失ったのだ。もう完全に、私という人間に。七年連れ添った女が嘲りの的にされていても、瞬きひとつしない。

 泣くとでも思っているのだろうか。すがりつくとでも。——その姿だけは、死んでもこの人たちには見せない。


「さて、次の未来視の依頼は——」


 ユリウスの声が遠ざかる。

 足音がふたつ。ユリウスと、あの女。私を部屋に残して、出ていく。


「あ、段差がございますわ。お気をつけて、ユリウス様」


 わざとらしい声が、廊下に響いた。

 私に向けた言葉ではない。——盲目であることを、これ見よがしに突きつけるための台詞だ。

 その底意地の悪さが、針のように肌を刺す。


 扉が閉まった。


 ひとり、取り残された。

 部屋にはユリウスの香水だけが澱のように漂っている。七年間嗅ぎ続けた匂い。今は胃の底からこみ上げるものに変わっていた。



            ◇



 まとめる荷物など、あってないようなものだった。


 七年。この屋敷で暮らしたというのに、私の所持品は小ぶりの鞄ひとつに収まってしまう。


 侍女たちは誰ひとり手を貸してくれなかった。

 それどころか、廊下ですれ違うたびにひそひそと笑い声が追いかけてくる。


「可哀想。すがることさえできないなんて」

「ユリウス様もお辛かったでしょうね。あんな足手まといを何年も」

「新しい方、とてもお綺麗でしたわね」


 ——聞こえているのに。


 目の前にいるのに、存在していないとでも思っているのか。それとも、聞こえたところで構わないと。

 おそらく後者だ。私など、もはや人として数えてすらいないのだろう。

 昨日までは「ユリウス様の婚約者」として一応の敬意を払われていた。たった一日で、人間の扱いがこうまで変わる。


 ——いや。これこそが本音だったのだ。昨日までの態度のほうが、仮面だった。


 屋敷を出るとき、見送る者はいなかった。門番すら顔を上げなかった。毎朝挨拶を交わしていたのに。


 ここで過ごした七年間は、いったい何だったのだろう。

 私は最初から、誰にも必要とされていなかった。



            ◇



 行く宛など、どこにもなかった。


 実家は閉ざされた。ユリウスの言葉が真実なら、父が私を拒んだのだ。

 修道院という道もあったが——あの男が示した道筋をなぞることだけは、どうしても嫌だった。ユリウスに「救ってやった」という既成事実を与えたくない。

 最後の意地だ。みっともない執着だと分かっている。けれど、それすら手放したら、私に残るものは何もない。


 だから、歩いた。


 杖を頼りに、一歩ずつ。どこへ向かっているかも分からないまま。

 ただ、あの香水の残り香が届かない場所まで、遠ざかりたかった。


 どれほど歩いただろう。

 足の裏が焼けるように熱を持ち、喉が張り裂けそうに渇き、胃が空の臓腑を絞り上げる。

 それでも足を止める場所がなかった。止まったら最後、二度と立ち上がれない気がした。


 気づけば、周囲の音が変わっていた。

 街の喧騒が途絶え、鳥のさえずりが耳に届く。風が木々を揺らし、葉擦れが囁きのように降り注ぐ。

 ——森に入っていたのだと、遅れて悟った。


 何かの看板らしきものに杖が当たった。

 「立入禁止」か、「危険」か。私には読むすべがない。

 仮に読めたとしても、引き返す先などどこにもないのだ。


 足元の感触が移り変わる。

 石畳から土へ。土から、苔むした岩肌へ。湿気を帯びた空気がまとわりつく。

 何かの建物が、すぐ近くにある。


 そして——。


「——人間か」


 低い声が、頭の上から降ってきた。

 地の底から湧き上がるような、重く深い響き。


 私は足を止めた。心臓が跳ねる。けれど、恐怖は来なかった。

 もう、怖いものなどない。失うものを全て失った後だ。殺されるなら、それでもいい。


「なぜ怯えない」


 声の主が近づいてくる。

 足音は重い。石を踏みしめる音が腹に響く。大柄な男だろう。


「……何を、ですか?」


「俺の顔を見て、だ」


 ——顔?


 小さく首を傾げた。


「申し訳ありません。——見えないので」


「…………」


 沈黙が落ちた。

 風だけが吹いて、木々が鳴る。葉擦れの音が、ふたりの間を埋めていた。


「——そういう、ことか」


 男の声が、微かに色を変えた。

 何かを得心したような、それでいて当惑しているような。——そしてどこか、ほっとしたような。


 男が、一歩にじり寄った。

 その瞬間、不思議な感覚が全身を包む。


 身体の芯から、じわりと熱が広がっていく。

 空っぽだった器に何かが注ぎ込まれるような。


「……お前、何者だ」


 男の声が、かすかに揺れている。


「俺の傍にいて、なぜ平然としていられる」


「平然……? 私は——」


 言いかけて、気がついた。

 つい先刻まで全身を蝕んでいた疲労が、嘘のように消え失せている。足の痛みも、喉の渇きも、飢えも。

 ——この人の傍にいるだけで、癒されている。


「……分からんな」


 男が呟く。


「だが——」


 足音が、さらに一歩。

 目の前に、大きな気配がある。熱量を持った存在が、手の届く距離に。


「お前の傍にいると、痛みが引いていく」


「痛み?」


「生まれた時からずっと疼いていた。この呪紋が。——だが今、静かだ」


 男の声に、剥き出しの驚きがあった。そして——かすかな、戸惑い。


 呪紋。

 その単語に、おぼろげな記憶が甦る。王都の外れに棲むという、史上最強の魔法使い「魔王」。


「……怖くはないのか」


 男が、低く問うた。


「俺が何者か、分かっているか」


「魔王と——呼ばれている方ですか」


「ああ。——俺に触れた者は廃人になる。体内の魔力が暴走して、相手を内側から蝕む。だが、お前にはなんの影響も出ていない」


「……そう、なんですか」


「それどころか、俺の魔力が——鎮まっている。お前の傍にいると、暴走が止まる」


 男の声には、長い孤独の果てに突然手を差し伸べられた者の——困惑があった。


「でも、私には見えませんから」


 小さく笑みがこぼれた。自分でも驚くほど、自然に。


「怖い顔をしていらっしゃっても、分かりません。——それに」


「それに?」


「あなたの声は、少しも怖くないです」


 風が凪いだ。森全体が息を潜めるように静まり返る。

 ——おかしなものだ。つい先ほどまで凍えていた心が、この人の前にいると少しだけほどけていく。


「……変わった女だ」


 男がぽつりと漏らした。呆れたようでいて、声の端がわずかに緩んでいる。


「名は」


「リーネ、と申します」


「俺はヴァルド。——ヴァルド・フォン・グラオヴァルト」


 ヴァルド。

 心の中で、その名を反芻した。重たくて、硬くて、けれど——嫌いじゃない響き。


「リーネ。行く宛は、あるのか」


 首を横に振った。

 嘘をつく気力も、見栄を張る余力も、もう残っていなかった。


「そうか」


 また沈黙が降りる。

 そして——。


「なら、好きなだけここにいろ」


 その言葉は、ぶっきらぼうだった。

 なのに私の耳には、ひどく温かく響いた。

 ——「必要ない」と突き放された日に。見知らぬ人から「いていい」と言われるなんて。



            ◇



 ヴァルドの城は、古く、広かった。


 全容を目にすることは叶わないが、足音の反響から天井の高さが窺える。石壁が音を硬質に跳ね返す。

 冷たい空気だが、濁りがない。埃っぽさもない。——きちんと手が入っている証拠だ。


「ここを使え」


 蝶番の軋む音。扉が開かれる。


「客間だ。寝台と机がある。足りないものがあれば言え」


「……ありがとうございます」


「礼は要らん。——俺が引き留めた以上、当然のことだ」


 素っ気ない物言い。

 なのに、声に棘がない。——どちらかといえば、照れ隠しに近い響きだった。


「ヴァルド様」


「ヴァルドでいい」


「では、ヴァルドさん」


「……まあ、それでいい」


 足音が遠ざかり、扉が閉じた。


 ひとり、部屋に残される。


 ——状況だけ見れば、さっきと同じだ。ひとりきりで、見知らぬ場所にいる。

 なのに、不思議と怖くなかった。ユリウスの屋敷で取り残されたときとは、何もかもが違う。


 寝台の端に腰を下ろし、深く息を吐く。

 シーツは少し硬いが、清潔な匂いがした。身体が軽い。あの壮絶な疲労が、本当に消えている。


 ——不思議な人だ。

 けれど少なくとも、この人は盲目の私を「恥」とは呼ばなかった。



            ◇



 翌朝。


 目が覚めると、扉の外に気配があった。

 誰かが立っている。——いつから、そうしていたのだろう。


「……ヴァルドさん?」


「起きたか」


 扉越しに低い声が届く。そこに、微かな安堵が滲んでいた気がした。


「飯がある。食堂まで来い」


 足音が廊下の奥へ去っていく。

 私は慌てて身支度を整え、部屋を出た。


 壁に手をつき、足元を探りながら廊下を進む。


「そっちは突き当たりだ」


 ヴァルドの声が、背後から聞こえた。

 ——戻ってきて、待っていてくれたのか。


「……ついてこい」


 大きな手が、私の手を包んだ。

 硬い皮膚。骨太の指。なのに、握る力加減は驚くほど丁寧だった。


 その掌に触れた瞬間、また感じる。

 身体の奥底に、温かなものが静かに流れ込んでくる感覚。


「足元に段差がある」


「あ、はい」


「ここを右に曲がる。梁が低い」


「はい」


 ヴァルドは、逐一道を教えてくれた。

 段差の位置。角の方向。扉の所在。

 ——私のことを、はじめから当然の前提として受け容れているかのように。


「ここだ」


 扉が開く。

 焼きたてのパンと、煮込んだ野菜の湯気が鼻腔に届いた。——温かい匂いだ。


「座れ」


 手探りで椅子を見つけ、腰を下ろす。


「パンとスープだ」


「これ、ヴァルドさんが作ったんですか?」


「他に誰がいる」


 言い方は荒いのに、やっていることが甲斐甲斐しい。


 スプーンを手繰り寄せ、スープを口に運んだ。

 野菜の甘みが、舌の上にじんわりと広がる。塩加減が絶妙だった。


「……おいしい。すごく、おいしいです」


 嘘ではなかった。ユリウスの屋敷で供されていた料理より、ずっと素朴で、ずっと体に沁みる味がした。


「……そうか」


 ヴァルドがこちらに背を向けた。声がわずかに遠のく。


「足りなければ言え。——お前は痩せすぎだ」



            ◇



 それから、穏やかな日々が始まった。


 ヴァルドは毎朝、食事を用意してくれた。

 最初は質素なものだったが、日を追うごとに卓が賑やかになっていった。パンが二種類に増えた日。スープに肉が加わった日。デザートが添えられた日。

 ——蜂蜜をたっぷり垂らした焼きりんご。甘くて、温かくて、舌の上でとろけた。


「……今日はずいぶん手が込んでいますね」


「たまたま材料が余っていただけだ」


 毎回その言い訳だ。けれど私は知っている。この城に、ヴァルド以外の人間はいない。

 ——わざわざ街まで買い出しに行っているのだ。「魔王」と恐れられるこの人が、私のために。


 ある朝のことだった。


 目が覚めると、肩に重みがあった。

 温もりが残っている。——マントだ。ヴァルドの体温が、まだ布地に宿っている。


 昨夜、窓辺の椅子で風の音に耳を傾けていたのだ。いつの間にか意識が落ちてしまったらしい。

 私はそのまま、マントに顔を埋めた。

 ヴァルドの匂いがした。森と、古い書物と、それから——言葉にしにくい、何か温かなもの。


 ——いつ、かけてくれたのだろう。起こさないように、音を殺して。



            ◇



 日を重ねるごとに、身体が変わっていった。


 疲れにくくなった。よく眠れるようになった。空だった器に、少しずつ何かが満ちていく——そんな感覚がずっと続いている。


 ある午後、食事を終えたヴァルドが不意に切り出した。


「身体の具合は、どうだ」


「とても良いです。ヴァルドさんのおかげで」


「……そうか」


 それきり、口をつぐんでしまった。いつもより距離がある。椅子を引く音が、遠い。


「ヴァルドさん?」


「……なんでもない」


 背を向けて、部屋を出ていった。

 その足音が、どこか寂しげに聞こえた。——見えないはずなのに。重くて、緩やかで、どこか躊躇うような歩調。




            ◇




 その頃——王都では。


「ユリウス・フォン・ヴェルムンド。貴様の未来視は、もう使い物にならんな」


 王の声が、謁見の間を貫いた。

 玉座の前に跪くユリウスの顔は、紙のように白い。


「申し訳ございません、陛下。ほんの一時的な不調で——」


「一時的だと? この一月で予言が三度外れた。国境の守りに綻びが生じ、隣国との折衝は破談し、商会との取引で莫大な損害を被った」


 王の眼差しが、冷たく光る。


「お前の未来視を信じて、どれほどの判断を重ねてきたと思っている」


「陛下、私の力そのものは変わっておりません。ただ——」


「ただ?」


 ユリウスは、言葉に詰まった。

 自分でも分からないのだ。リーネを追い出してから、未来視を発動するたび激しい頭痛に見舞われる。視界は歪み、未来の輪郭がぼやけて定まらない。


ユリウスは、言葉に詰まった。

 自分でも分からないのだ。リーネを追い出してから、未来視を発動するたび激しい頭痛に見舞われる。視界は歪み、未来の像が定まらない。


「……はぁ」


 王が、深く息を吐いた。玉座に肘をつき、こめかみを押さえている。

 怒りではなかった。——呆れだ。底の底まで呆れ果てた者の、溜息。


「まだ気づかぬか。七年も傍にいて、まだ分からぬか、お前は」


「陛下……? 何を——」


「お前の眼が、なぜあれほど精確に未来を映せていたと思う。お前一人の力だとでも?」


 ユリウスの顔が強張った。


「——ガルディス」


 王が、傍らの老人に顎をしゃくった。もう自分の口で説明する気力もないとでも言うように。


「御意」


 白髪の老人——宮廷魔術師長ガルディスが、一歩前に出た。その目は、哀れむようにユリウスを見下ろしている。


「リーネ・フォン・クラウディア。あの娘は『澄んだ瞳』の持ち主だ」


「澄んだ……瞳?」


「百年に一人現れるかどうかの希少体質。傍にいるだけで他者の魔力を安定させ、増幅する。——言うなれば、生きた魔力の炉心だ」


 謁見の間が、水を打ったように静まった。


「お前の眼は、あの娘の魔力を燃料にして駆動していた。お前はそれと知らず、これまで彼女の魔力を搾り取った。——彼女の視力が失われたのは、お前が吸い尽くしたからだ」


「そんな——」


「そして今、燃料を失った。だから眼がまともに動かん。——単純な話だろう」


 ガルディスの声には、怒りすらなかった。ただ事実を並べているだけだ。それが余計に残酷だった。


 ユリウスの顔から、最後の血の気が引いた。


「で、では——代わりの者を——」


「試しただろう?」


 ガルディスの声が、さらに冷えた。


「お前が最初に傍に置いた女は、三日で意識を失った。二人目は一週間。三人目は——命を落とした」


 謁見の間がどよめいた。王が、玉座から身を起こす。


「ユリウス・フォン・ヴェルムンド。お前は国家の至宝を、無知と傲慢で失ったのだ」


「陛下、お待ちください——」


「私とて知らなかった。『澄んだ瞳』が実在するなど、誰が信じる。——だが、お前は違う」


 王の声が、広間の隅々にまで届いた。


「お前は七年間、彼女の傍にいた。その恩恵を受け続けていた。——にもかかわらず、気づきもせず、感謝もせず、塵のように捨てた」


「私は——私の力は——」


「お前に力などなかった。あったのは、あの娘の方だ。——救いようのない愚か者が」


 ユリウスは、床に這いつくばった。かつて宮廷でもっとも輝いていた男が、惨めに震えている。




            ◇



 その夜——魔王の森にて。


 寝つけなくて、城の中をさまよっていた。

 壁伝いに、ゆっくりと。この城の廊下は、もう身体が憶えている。


 奥から声が届いた。ヴァルドの声。——独り言だ。


「……目が治れば、出ていくだろうな」


 私は、息を殺した。


「当然だ。呪われた男の傍に、留まる理由がない」


 低くて、静かで、——諦めに沈んだ声だった。


「見えないから、傍にいられただけだ。俺の顔を見れば、怯えて逃げ出す。——他の人間と、なんら変わらない」


 私は、扉に手をかけた。


「ヴァルドさん」


 声が途切れた。

 扉を開ける。大きな影が、こちらを振り向いた。


「リーネ——なぜ、ここに」


「眠れなくて、歩いていたら」


 部屋へ足を踏み入れる。

 ヴァルドが退いた。床板が軋む。


「近づくな」


「どうしてですか」


「俺の顔を——見るな」


 ヴァルドの声の震えは分かった。——怯えているのだ。私が逃げることに。


「見えません」


「だが、いずれ見える。お前の身体は回復している。目も——そう遠くない」


「そうかもしれません」


「なら——」


「でも、怖くないです」


 一歩、踏み出した。

 ヴァルドの息が止まる。


「ずっと、あなたの声を聞いてきました。あなたの手の温度を知っています。あなたが拵えてくれたご飯の味を覚えています。あなたがかけてくれたマントのぬくもりで眠りました」


 もう一歩。


「見えなくても、あなたのことは知っています。——だから目が戻っても、怖くなんてなりません」


「…………」


「それに」


 手を伸ばした。

 ヴァルドの頬に、指先が触れる。


 浮き上がった紋様の感触が伝わってきた。脈打つ熱。微かな痛みの気配。——この人は、ずっとこれを抱えて生きてきたのだ。


「たくさん、刻まれているんですね」


「……傷ではない。呪紋だ」


「痛くはないですか」


「…………」


 長い間のあと、ヴァルドが答えた。


「……痛くない」


 嘘だ、と思った。ずっと痛かったのだ。生まれてから、ずっと。

 けれど今は——私が触れている間だけは、痛くないのだ。


「ここに、いてもいいですか」


 私は、訊いた。


「目が治っても——ここに、いたいんです」


「……なぜだ」


「分かりません。でも——」


 ヴァルドの頬から、手を離さなかった。


「あなたの傍が、いいんです」


 言葉が尽きた。

 風が窓を鳴らす音だけが、静かに響いている。


「……好きにしろ」


 ヴァルドの声は、震えていた。掠れて、低くて、けれど——温かかった。



           

            ◇



 数日後。


 ヴァルドの城に、招かれざる客が現れた。


「リーネ! そこにいるのは分かっている!」


 門の外から、聞き覚えのある声が響いた。ユリウスだ。


 窓辺に立って、その声を聞く。

 ——最近、うっすらと視界が戻りつつある。ぼんやりとだが、光の輪郭を拾えるようになった。窓の向こうに、人の形がある。


「戻ってこい、リーネ! お前が必要なんだ!」


 出会ってから、ただの一度も口にしなかった言葉。今さら「必要」だと。——笑わせる。


「もう一度、俺の隣に来い! 傍に置いてやる!」


 足音が近づいてきた。ヴァルドだ。


「……行くのか」


 背後から、低い声が届いた。抑えた口調の下に、不安がにじんでいる。


「いいえ」


 ヴァルドが、息を呑んだ。


「行きましょう、ヴァルドさん。はっきり伝えないと」


 ヴァルドの手を取った。

 大きくて、力強い手。呪紋の熱が指先に伝わる。——この手が、好きだ。


 並んで、門へ向かった。



            ◇



 門を開けると、ユリウスが立っていた。


 光の加減で輪郭が分かる。金髪が乱れ、衣服は皺だらけだ。——みっともないほどに落ちぶれている。


「リーネ……!」


 ユリウスが一歩踏み出し——ヴァルドの姿を捉えて、凍りついた。


「な——魔王……!?」


「久しぶりだな、ヴェルムンドの小僧」


 ヴァルドの声は静かだった。静かなのに、大気が軋んでいる。


「なぜお前が——リーネ、こいつに何かされたのか!? 騙されているのか!?」


「騙されてなどいません」


 私は、はっきりと言い切った。


「私は自分の意志で、ここにいます」


「馬鹿な——お前は俺の婚約者だっただろう!? 俺の隣にいるべき女だ!」


「婚約はあなたが破棄したでしょう。『盲目の女は恥になる』と、そう仰って」


「あれは——あれは誤りだった! お前が要るのだと分かった! だから戻ってこい!」


 ——私の力が欲しいだけだ。私自身ではない。七年傍にいて、この人は何ひとつ変わっていない。


 ユリウスが手を伸ばしてきた。

 私の腕を掴もうとする。


 その手が、途中で止まった。


 ヴァルドが、私の前に立ち塞がっていた。


「触れるな」


 ユリウスの表情が、恐怖にひきつった。


「ま、魔王——」


「この女は、俺の傍にいる。もうお前の手が届く場所にはいない」


「ふざけるな……! 俺には未来視の眼が——」


 ユリウスの双眸が、青白く発光した。

 未来視の発動。


 ——そして、その顔が絶望に染まった。


「な……何だ、これは……」


「見えたか」


 ヴァルドの声は、凪いでいた。


「お前の眼は、俺の魔力を触媒にしてかつてないほど鮮明に未来を映しただろう。——そして幾千通りもの未来で、お前は俺に圧殺されている」


「そんな……そんな、馬鹿な……」


「——帰れ」


 ヴァルドが一歩踏み出した。ユリウスがよろめくように退く。


「二度と来るな。次に姿を見せたら——お前が視た通りになる」


 ユリウスは一言も返せなかった。蒼白のまま、逃げるように去っていった。



            ◇



 ユリウスが去ったあと、私たちは城の庭に立っていた。

 風が木々を揺らしている。穏やかな午後だった。


「……怖かったか」


 ヴァルドがぼそりと訊いた。


「いいえ」


「俺があいつを殺すと脅した時もか」


「ヴァルドさんは、殺さないと思いました」


「……なぜ、分かる」


「だって」


 私は、ヴァルドの方を向いた。


「ヴァルドさんは、優しい人ですから」


「…………」


「毎日ご飯を作ってくれて、冷える夜にはマントをかけてくれて、暗がりの中で道を教えてくれる。——そういう人が、たやすく命を奪ったりしません」


 ヴァルドが、小さく笑った。

 笑い声を聞くのは、これが初めてだった。低くて、少し掠れていて、けれど——耳に心地よい響き。


「……変わった女だ」


「よく言われます」


「褒めている」


 ——ああ。この人の傍にいてよかった。心の底から、そう思った。



            ◇



 後日、王宮から使者が訪れた。


「リーネ・フォン・クラウディア様。陛下より、王宮へのご帰還と保護のお申し出がございます」


 ——あの時見捨てた私に、今さら「様」を付けて。


「お断りいたします」


「し、しかし——『澄んだ瞳』の持ち主として、王国には——」


「何度お伝えすればお分かりになるのですか。私は、ここにいると決めたんです」


 使者はそれでも説得を試みたが、私が翻意することはなかった。やがて諦めて引き下がっていった。


 使者から聞いた話では、ユリウスは国外追放に処されたそうだ。

 「魔王と呼ばれる史上最強の魔法使いに喧嘩を売った大馬鹿者」として。王が激怒したのだという——「この国を滅ぼす気か」と。

 あの日私を嘲笑した侍女たちも、連座で屋敷を追われたらしい。

 ユリウスの隣にいたあの女は、ユリウスの未来視に利用され、二日で倒れたそうだ。私の代わりになれる者など、いなかった。


 ——どうでもいいことだ。もう、振り返る必要はない。



            ◇



 そして——ある朝。


 目を開けた瞬間、違和感に打たれた。

 いつもより明るい。ぼんやりとした光の塊ではない——輪郭がある。色がある。


 窓から射し込む朝の光。揺れるカーテン。天井の木目。

 すべてが、鮮やかに映っている。——暗闇の底にいた私のもとに、世界が還ってきた。


「……見える」


 寝台から身を起こす。使い込まれた机、壁一面の本棚。七年ぶりに目にする、色のある世界。


 扉が開いた。


「リーネ、朝飯——」


 ヴァルドが入ってきた。


 私は、初めてその顔を見た。


 暗い銀髪。灰色の瞳。そして——全身を走る、黒い呪紋。

 誰もが目を背け、恐れて逃げるであろう姿。けれど私には分かる。この人がどれほど優しいか。


「……そんな顔を、していたのね」


 微笑んだ。


 ヴァルドが立ち止まった。その表情に、怯えが浮かぶ。


「リーネ!? まさか目が見え——怖くないのか」


「ずっと隣にいて、今さら怖がるわけないでしょう」


 寝台から降りて、ヴァルドの前に立つ。

 手を伸ばして、その頬に触れた。


 呪紋の起伏。脈打つ熱。

 目を閉じていた時と、同じ感触だ。——ああ、やっぱり。見えても見えなくても、この人は変わらない。


「やっぱり、たくさん刻まれている」


「傷ではない。呪紋だ」


「知ってます」


 笑った。


「——やっぱり、逃げたりしません」


 ヴァルドの灰色の瞳が揺れた。——泣いている。この人は。


「……リーネ」


「はい」


「俺は——お前を、離さない」


「はい」


「俺が見えるようになっても——ずっと、傍にいろ」


「はい」


 ヴァルドの胸に、額を預けた。

 大きな手がぎこちなく——本当にぎこちなく——背中に回された。この温もりを、私はとうに知っていた。


「……ありがとう」


 ヴァルドの声が震えていた。


「傍に、いてくれて」


 顔を上げる。灰色の瞳が、すぐ目の前にあった。


「ヴァルドさん」


「……なんだ」


「私のほうこそ」


 ヴァルドの眉が、微かに動いた。


「拾ってくれて。——生きていていいと、思わせてくれて」


「…………」


「だから——」


 背伸びをした。

 ヴァルドの頬に、唇を寄せる。浮き上がった呪紋が唇に触れた。


 ヴァルドの体が、石のように硬直した。


「——っ」


「……ヴァルドさん?」


 返事がない。見上げると、ヴァルドの顔が真っ赤に染まっていた。耳も、首も、呪紋の隙間すら赤い。


「……お前、今のは」


「好きな人には、こうするものだと」


「…………」


 長い間のあと、ヴァルドが私の頭に手を置いた。

 大きな手が、不器用に——ひどく不器用に——髪を撫でる。


「……俺は、こういうことは分からん」


「はい」


「だが——」


 ヴァルドの手が、頬へ移った。

 呪紋の熱が肌に伝わる。怖くはない。むしろ、安らぐ。


「お前の目の代わりに、俺が全部見てやる。転ばないように道を均す。寒くないように——」


 言葉が途切れた。

 ヴァルドが顔を背ける。


「……飯を、作る」


 笑いがこぼれた。もう、目は見えているのにこの人は——


「はい」


 本当に不器用だ。

 けれどその不器用さが、どうしようもなく愛おしい。


 目を閉じた。

 視力が戻った世界よりも、この温もりのほうが、ずっと眩しかった。



            ◇



 それから、季節がひとつ巡った。


 私は今もヴァルドの城にいる。

 目は完全に癒えた。世界は色鮮やかに映る。朝日の金色も、森の碧も、ヴァルドの灰色の瞳も。


 けれど、一番見たいものは——いつだって、手を伸ばせば届く場所にある。


「リーネ」


「はい」


「……今日は、何が食いたい」


「ヴァルドさんが作ってくれるものなら、なんでも」


「……そうか」


 ヴァルドが背を向ける。

 その耳が、ほんのり赤い。


 ——目が見えるようになって、気づいたことがある。


 ヴァルドは照れると耳が染まる。私の名を呼ぶとき、わずかに声が柔らかくなる。私が笑うと、口元がかすかに綻ぶ。

 見えなかった頃には分からなかったこと。でも今は、全部見える。——目が戻ってよかった。


「ヴァルドさん」


「なんだ」


「大好きです」


 ヴァルドの足が止まった。

 振り返らない。けれど、耳が真っ赤になっている。


「……唐突だな」


「言いたかっただけです」


「…………」


 長い間のあと、ヴァルドが振り返った。呪紋の走る顔。灰色の瞳。けれどその目は、誰よりも穏やかだった。


「——俺も、だ」


「俺も——お前が、」


 言葉が途切れる。顔を背ける。耳どころか首筋まで赤い。


「……飯を作ってくる」


「待ってください」


 袖を掴んだ。


「……なんだ」


「続き、聞いてません」


「…………」


 長い沈黙。やがて、観念したようにヴァルドが振り返った。

 呪紋の走る顔。灰色の瞳。その目は、誰よりも優しくて——今は、どこか腹を括ったような色を帯びている。


「……お前が、好きだ」


 低い声。掠れた声。けれど、一語一語が鮮明に届いた。


「お前の声が好きだ。笑い方が好きだ。俺の飯を美味いと言う顔が好きだ。——俺の傍にいてくれることが、好きだ」


 涙が、頬を伝った。


「ヴァルドさん——」


「泣くな」


 大きな手が、涙を拭った。不器用に。ぎこちなく。けれど、優しく。


「泣かせるつもりでは、なかった」


「嬉しいんです」


「…………」


「嬉しくて、泣いてるんです」


 ヴァルドが、困ったように眉根を寄せた。

 そして——私を、抱き寄せた。


 大きな腕。広い胸。呪紋の熱。

 その全部が、私を包む。


「……飯は後でいい」


「はい」


「もう少し——こうしていろ」


「はい」


 ヴァルドの胸に顔を埋めた。

 ——この人は、いつだってこうだ。不器用で、口下手で、素直じゃなくて。

 けれど、その全部が好きだ。


 誰にも要らないと思っていた。

 すべてを失ったと思っていた。


 けれど——。


 失ったからこそ、辿り着いた場所がある。

 見えなかったからこそ、見えたものがある。


 窓の外では、森の木々が風にそよいでいた。

 かつて「魔王の森」と恐れられた場所。今は、私たちの——家。


「リーネ」


 背後から、低い声。


「飯ができた。——来い」


 振り返ると、ヴァルドが立っていた。

 エプロン姿のまま。片手に、湯気の立つ皿。


「……わざわざ持ってきてくれたんですか」


「お前が来ないからだ」


「呼んでくだされば行きましたのに」


「…………」


 ヴァルドが、視線を逸らした。耳が赤い。


「……お前の顔が、見たかった」


 笑みがこぼれた。


「私も、ヴァルドさんの顔が見たかったです」


「…………」


「だから——」


 ヴァルドの前に立つ。つま先立ちになって、その頬に手を添えた。


「ずっと、見ていてもいいですか」


 灰色の瞳が、揺れた。

 そして——不器用に、笑った。


「……好きにしろ」


 ここが、私の居場所だ。

 この人の隣が、私の帰る場所だ。

         

お読みいただきありがとうございます。今回はざまぁ多めにしてみました!


※説明っぽくなりそうで本文に入れるのは避けたのですが、リーネの目が治ったのは魔王の漏れ出す魔力の影響です。リーネの「澄んだ目」は器。ユリウスに魔力を枯らされ、ヴァルドの魔力で満ちたという形です!


連載も始めましたのでぜひぜひ!

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