氷の壺
それは壺とは言っても、人間の頭くらいの大きさの少々歪な球形で、上に口があり、中が空洞になった氷の塊だった。
氷の壺を上からのぞき込むと、中の空洞には半分ほど澄んだ水が溜まっている。
その水面には、自分の姿と、その背後の七色の影が映っている。
七色の影は、絶えず揺らめき、形を変え、その様はまるでシャボン玉の表面のよう。
いつか見た、氷の壺の中に映る自分の姿は、顔は深い青一色で表情は見えず、代わりに自分の背後の七色の影がやけに鮮やかだったのを、今でもはっきりと記憶している。
それ以後、壺を見ることもなく、その存在すらも忘れて数十年の間生きてきた。
あの壺はいつ、どこで見つけた物だったのか、今ではそれすらも思い出せなくなっている。
私はその壺を探す為に、実に八年ぶりに帰郷した。
氷の壺を探しに来たというのは、実のところ体のいい言い訳に過ぎず、私は失職して都会から逃げ帰ってきたのだった。
それでも、故郷へと向かう鈍行列車の中、それを見つけることで何かを得られる、この閉塞した自らの状況に活路を見いだせる、そうした根拠のない思い込み、言うならば信仰に近い観念に囚われていた。
駅を出ると、目の前の全てが朽ち果てたような光景が広がっていた。
十二月の硬質の冷気が頬に刺さる。
帰ってきた、改めてそう実感したが、感動はない。
不意に心臓が縮みあがるのを感じ、同時に焦燥感に襲われて、私は早足で駅を離れた。
まず、中学時代に親しかった旧友の家を訪れた。
突然の訪問ではあったが、幸運にも彼は在宅中で、玄関先には彼が出てきてくれた。
懐かしいな、そうは言ってくれたが、その時の彼の、怪訝そうな、迷惑そうな表情が忘れられない。
氷の壺の話をしたところ、ますます怪訝さは色濃く現れた。
知らない、という返事を受けて、私は早々に彼の家を離れることにした。
せっかく来たのだからゆっくりしていけ、そんな彼の誘いを丁重に断った。
いかに落ちぶれた私でも、そこまで厚かましくなってはいない。
人に聞くことを諦め、自力で探すことを決心し、子供の頃に行ったことのある場所を一つ一つ見て回ることにした。
それは学校であり、公園であり、空き地であり、資材置場であり、堤防沿いの残土置場であった。
大人になってそれらの場所に行くと、そこは私有地であったり、関係者以外の立ち入りを禁じていたり、子連れの母親連中に占拠されていたりした。
そこはいずれも私が立ち入れる場所ではなくなっていた。と同時に、そこが氷の壺があるはずもない場所であることもわかった。
あれは、昼でも日の当たらない場所にあったはずである。
あるいは、あの場所自体が失われてしまったのだろうか。
物見ついでに、かつて実家があった場所に行ってみることにした。
そこには今でも昔と同じ家が確かに建ってはいたが、表札には、当然ながら別の人の名前が書かれていた。
私の家族がこの土地を離れて十年以上になる。両親は既に他界し、まともな職にありつけなかった私は姉夫婦に実家を託して都会へと出たのだった。
結局、私は定職にも就けず結婚も出来ずにこの年になってしまい、姉夫婦とはもう何年も連絡を取っていない。
氷の壺を見つけた時、その場には姉もいたような気がする。私は久しぶりに姉に電話してみることにした。
「もしもし、××です。お久しぶりです。……え? ああ、まあそれなりに。生きてはいけてます。はい、来年のお盆あたりには、多分……」
「それで、ちょっと聞きたいことがあって。……いえ、金の話ではなく。子供の頃、『氷の壺』って見たの、覚えてませんか? ……いえ、大したことではないんですが」
「……はい、またそのうちに。今日はちょっと用事で出先からなので、それでは」
結局、私の記憶以外に手がかりはないらしい。
私はいい加減探すのに疲れ、駅前まで戻って、一軒の寂れた喫茶店に入った。
その店は、けばけばしい格好の中年女性が一人で切り盛りしているらしく、私の他に客はいなかった。
私が席に着くなり、彼女は、どこから来たの、とか、何の用事で、とか、どちらにお住まい、とか、矢継ぎ早に質問してきた。
うっかり氷の壺のことを口に出してしまった為に、それについてさらに質問攻めにあった挙げ句、何の手がかりも得られないまま一時間近くこの女主人の話に付き合わされ、私はすっかり疲れ切って店を出た。
都会へ帰ろう。
あれはもう、見つかりっこないんだ。
私がここに戻る理由は既にないんだ。
そう思うことにした。
帰りの列車の中で居眠りをしていると、こんな夢を見た。
冬の朝、私は深い森の中、光も届かぬその奥へと進む。氷の壺はそこにあった。
私はそれの中をのぞき込んでみたが、そこには虹色の影は無かった。
水面に映るのは、黒い私の姿と灰色の空。
それでも壺だけは持ち帰ろうと思い、壺を抱えて森を出ようとするが、どこまで歩いても出口が見えない。
そのうち壺が溶け出し、再び私が中をのぞき込もうとした、その時。
突然壺の底が抜け、中の水が流れ出してしまった。
そこで目が覚めた。
列車に乗り込んでから、たった三駅通過したばかりだった。
車窓から外を見ると、夕焼けに染まった見覚えのある景色が流れている。
いつしか日は落ちて、景色は夜の闇にとけ込んでいく。
もう壺のことなど、どうでもよくなっていた。
車内に目を移すと、乗客はまばらで、皆押し黙ったまま座っている。顔には生気がなく、まるで人形のように見える。
それらは、私の目の前で老いていく。その流れを止める手段も見つからないまま、みるみる朽ちていく。
そしてそれは、今まさに窓ガラスに映る私の顔も例外ではなかった。
その日、古い車両に乱雑に揺すられながら私は、自分に残された時間が既に残り少なくなっていることを知った。
(了)




