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苦手な方はご注意ください。

「DNA」

作者: 野良みお

フリー台本。報告不要。

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登場人物

優利ゆうり(18)…主人公、大学生

嘉仁よしひと(30)…義父、会社員


雪子(享年38)…優利の母。(一部回想シーンでセリフあり)

高崎(優利の実の父)




(優利)この春から、俺は大学生になる。


 母が亡くなって、もう一年。

 大学合格を報告しようと、久しぶりに墓前に手を合わせた。


 唐突だが、俺は、母さんに似ている。

 顔も、性格も、好みまで。違うのは背の高さと、性別くらい。

 …まぁ、その背も、そんなに高くはならなかったけど。


 

 一年前、長年シングルを貫いてきた母が「再婚する」と言って連れてきた相手――優しく穏やに微笑む男を見たとき、 直感で「まずい」と思った。



 ――惹かれ「たくなかった」。



 母は気が強くて、凛としていて、誰にも弱みを見せない人だった。

 俺がどんなに熱を出しても、落ち込んでいても、母さんは「大丈夫」とだけ言って俺に背を向けた。

 優しく抱きしめられた記憶なんて、一度もない。


 だからだと思う。

 女性に対して「こうあってほしい」みたいな理想を、俺は持てなかった。

 期待すればするほど、どうせ裏切られるって勝手に思って。


 それでも、母さんは母さんだったし、俺は母さんが好きだった。

 本当は――俺のこと、嫌いじゃなかったって信じたかった。


 けど、そんな感情の上に、“恋愛”なんて積み上がるわけもなくて。

 誰かを好きになるなんて、俺には遠い世界のことだった。





 だからこそ、義理の父になるその人を見て、声を聞いた瞬間――鳥肌が立った。

 それと同時に、自分自身に対する嫌悪と罪悪感が押し寄せてきた。

 だから、俺はその気持ちを「殺した」。


 義父に向かいそうになる心を、全部、殺したんだ。



* * * * *



嘉仁「優利くん、準備はできた?」


優利「あ…うん」


(優利)明日、この家を出る。

 県外の大学を選んだのは、少しでもこの人から離れたかったからだ。


嘉仁「君と出会って、まだ2年か…。結局、父親らしいこと何もできなかったな」


優利「別に、あんたに父親なんて求めてないし。ただの同居人だろ」


(優利)嘉仁さんに背中を向けたまま、そう言った。

 ちょっと寂しそうな空気を感じたけど、わざと冷たく返した。


嘉仁「…あのさ」


優利「……なに」


嘉仁「嫌なのは分かってるんだけど、聞くだけ聞いてもいい?」


優利「……何を?」


(優利)あぁ、イヤだ。

 声を聞くだけでも、もう、しんどい。


 この声も、この姿も見たくなくて、母さんがこの人を連れてきた日から、バイトを詰めて家にいる時間を減らした。

 家にいるときは勉強に集中して、特待で県外の大学に受かるため、必死で成績を保った。


嘉仁「明日から優利くんがいなくなると、僕もひとりになるんだ。情けないけど、やっぱり寂しくて…。

もしよかったらでいいんだけど、男同士ってことで、ちょっとだけ話せたらって。…いっしょの部屋で寝ない?」


(優利)…は?拷問?明日は13時に出発するのに、朝まで語り合おうってこと?


優利「……いいよ」


(優利)…って、ああもう、俺のバカ!

 断るつもりだったのに、なに言ってんだ俺!


嘉仁「えっ!? ほんとに!?」


(優利)顔を見なくても分かる。

 いつもこちらの機嫌を伺いながら話しかけてくる、その目が、今はきっとキラキラしてる。

 …あぁ、喜んでる。

 否定し続けてきた心が、崩れそうだ。


 俺が黙っている間に、嘉仁さんは嬉しそうに布団を運び出す。

 並べられた布団の間隔は、わずか5センチほど。


 …バカヤロウ。これでどうやって寝ろってんだ。


 頬が熱くなりかけたのをごまかすため、洗面所に向かった。






―嘉仁 side―




(嘉仁)雪子とは、同じ会社で出会った。


 彼女はそのとき三十六歳。

 歳を感じさせないほど洗練されていて、美しかった。


 育ちの良さが滲み出る所作と言葉遣いに、誰もが一目置いていた。

 実際、シングルマザーという立場にも関わらず、彼女に好意を寄せる男たちは多かった。



 けれど、選ばれたのは――なぜか…僕だった。



 それは、嬉しかった。けれど、同時に、重たい問題が胸にのしかかっていた。


 …僕は、女性を愛することができない。


 人間としての好意はある。尊敬もしていた。でも、それ以上の感情を彼女に抱くことは――どうしてもできなかった。


 雪子からの最初の告白は、丁重に断った。



 「そっか…」と、苦笑して去っていったあの横顔。

 失望や怒りではなく、どこか物語の終わりを悟ったような静かな笑みを浮かべていた。

 あれは、どこまでも美しい人だった。


 数週間後の休日。偶然、街で見かけた少年に目が釘付けになった。


「あの子が…」


 噂に聞いていた、雪子の息子。美少年で、雪子に瓜二つだと話題に上っていた。


 たしかに、一目で親子だと分かった。

 目の形、唇の輪郭、白く整った首筋――けれど、違った。

 そこには、女性にはない喉仏と、骨ばった肩。伸びかけた手足に、未完成な体つき。



 その一瞬、全身を熱い何かが駆け巡った。



 いけない。

 この感情は、間違っている。


 そう自覚したからこそ、気づかないふりをして、強く拳を握った。



 半年後。

 彼女はふたたび、僕のもとに現れて告白してくれた。

 僕の母が亡くなり四十九日を過ぎた頃だった。


 僕のどこに、そんな想いを寄せる理由があるのかと理由を尋ねた。


 彼女はしばらく黙ったあと、静かに言った。


雪子「なぜか…あなたは、私を受け入れてくれる人だと思うの。私を、たとえ愛せないとしても…愛そうとしてくれそうな人だわ。私は、あなたの何に惹かれているのか…ずっと考えていて…深い、深い何かが、どうしても気になっていて…」


(嘉仁)その言葉の続きを、今でも覚えている。

 なぜ、僕を選んだのか――君の過去の出来事は、僕を「共犯者」にするための言葉だった。


 ああ、雪子。思い出すたび、胸が痛む。




優利「……おい」


嘉仁「わっ!? え? なに!?」


優利「何、ボーッとしてんだよ。……きもい」


嘉仁「ひ、ひど……」


優利「……ふっ」


(嘉仁)……笑った? 優利君が、笑った……?

 え、やば。かわ……。


 眩暈がした。

 その笑顔は、雪子に似ていた。笑うと目がふわりと垂れて、頬のかたちも柔らかくなる。


嘉仁「……無理言って、ごめんね」


優利「……いや」


(嘉仁)小さなその声に、耳が赤く染まっていくのが見えた。


 ああ、君のこういう顔が……見たかった。


 雪子。

 僕たちは、“夫婦”という名前の、静かな共犯者だった。


 よく、ソファで並んで映画を観たよね。

 君はいつも、救いのない物語ばかり選んだ。

 悲劇のヒロインのような顔で、僕の手をそっと握ってきた。



 女性を愛せない僕と、女性として愛されない雪子。

 それでも、確かに――僕は、彼女を人間として愛した。


 そして、君も。




* * * * *




-優利side.



(優利)油断した。

 まじで油断した。

 あのマヌケな顔につい笑ってしまった自分が信じられない。


嘉仁「じゃあ、おやすみ」


(嘉仁)もぞもぞと布団に潜り込むその背中を見ながら、思った。

 背、高くていいな。声も優しくて落ち着くのに、イライラする。

 そんなくだらないことを考えて、強引に頭を睡眠モードへ切り替える。


優利「……おやすみ」


(嘉仁)背を向けたまま、布団を引き寄せる。

 この距離が、たった10センチしかないことが怖い。

 こんな夜に限って、心の奥でずっと抑えつけていた何かが暴れ出す。


優利「……なぁ」


嘉仁「な、なに?」


(優利)その弱気な声に、ちょっとだけ笑いそうになる。

 どっちが年上だよ。情けない声出して。

 嘉仁さんに対して、くすぐられるような加虐心を飲み込んだ。


優利「……母さんが死んで、もう一年。俺も大学行って、独り暮らしになるし……。だからさ、もう、何もしなくていいよ」


嘉仁「え……?」


優利「この家も、駅近で立地いいし、高く売れるだろ。その金で、あんたも新しい部屋借りて……彼女でも作って、普通に暮らせばいい」


(優利)喉がカラカラに乾く。

 ああ、言えた。でも――これ、本当に俺の本心か?


嘉仁「……ごめん。それは、できない」


優利「い、いずれの話だよ。すぐにってわけじゃ――」


嘉仁「優利君。血は繋がってなくても、僕は君の父親だ。君が帰ってこれる場所でいたい。雪子も……それを望んでたよ」


優利「……その気遣いが、いらないんだよ!」


(優利)思わず声を荒げる。

 黙っていれば、優しさで殺されそうだった。


嘉仁「……一年、ほとんど話さなかったね。君がずっと壁を作ってたことも気づいてるよ」


優利「じゃあ、なおさら……!」


嘉仁「……気づいているのに?」


(優利)心臓がバクバクとうるさい。

 ああ、最悪だ。空気が重すぎて、息が詰まる。


優利「……なに言ってんの。意味わかんねぇし」


 (優利)そう言いながらも、背中にそっと手が触れたのが分かった。

 やめろ。少しでも触れられたら、何かが壊れてしまいそうだ。


嘉仁「……僕はね、雪子を人として、深く愛していたよ。だけど、それは――女性としてではなかった」


優利「なんの話してんだよ……」


嘉仁「雪子はね、自分が君を“ちゃんと”愛せていないことに、苦しんでいたんだ。それを僕に打ち明けてくれた。だから、僕は彼女と結婚した」


優利「……は?」


(優利)言葉が止まる。

 胸の奥で、ずっと知りたくなかった何かが動き始める。


嘉仁「そして、僕を選んだ理由も……」


優利「やめろよ……惚気なら聞きたくねぇ」


嘉仁「違うんだ。僕たちは、ただの夫婦じゃなかった。

寂しさを埋めるための――共犯者だったんだよ」


(優利)沈黙が落ちる。

 嘉仁さんの声は、いつもと変わらない優しさに包まれているのに、なぜだろう。

 苦しそうで、胸の奥が痛む。


嘉仁「優利君。君は……実の父親のこと、どう聞いてる?」


優利「………父さんはギャンブルに溺れて、俺が生まれたあと…他の女と逃げたんだろ?母さんがそう言ってた」


嘉仁「……はは、雪子らしい嘘だね…」


優利「……違うのか?」


嘉仁「雪子はね――君の父親に暴力で抑えつけられて、君を授かったんだ」


(優利)息が止まりそうになる。


嘉仁「女性の尊厳を奪われ、思い出すたびに何度も、死のうとした。だけど、お腹の中で大きくなる君を感じながら、葛藤したんだ。“この子には罪がない”って。そう信じようと、必死だった」


優利「……そんな……」


嘉仁「生まれてきた君の顔が、自分にそっくりだった。それでようやく、雪子は『安心した』って言ってた。ちゃんと愛せるって――そう思ったんだって…」


(優利)…何も言えなかった。

 目の奥がじんわり熱い。

 ずっと感じていた「母さんとの距離」の理由が、今やっとわかった。


嘉仁「……君が笑ってくれたとき、本当に嬉しかった。雪子に似ていたけど、それ以上に……君自身の顔だった。君が、君として、僕に笑ってくれたんだ」



(優利)俺の中で、何かが音を立てて崩れていく。


 嘉仁さんの言葉、母の言葉、全部が現実離れしてるのに、嘘じゃないってことだけが分かる。

 だからこそ、たちが悪い。

 どこか気持ち悪い…おかしい…おかしい………誰が?



優利「……いや、母さんもあんたも、自分が可哀想だって酔ってない?バカじゃねぇの……」


(優利)喉の奥が詰まって、声がかすれる。

 気づいたら拳が震えていて、それを震えた片方の手でおおって止める。

 息が、うまくできない。


 母さんは、優しかったよ。

 言葉ではいつも「味方だよ」って言ってくれた。

 俺が学校でケンカして帰っても、叱るより先に「ケガしてない?」って聞いてくれた。


 でも――


 抱きしめてはくれなかった。


 …一度だけ、幼い頃に、俺から手を伸ばしたことがある。

 母さんが洗濯物を畳んでいるとき、「だっこ」って言ってみた。


 でも、母さんは一瞬、笑ってから「もう大きいから」って俺の頭をぽんと撫でて終わった。


 それっきりだった。

 俺はそれが正解なんだと思い込んだ。

 誰かに抱かれることも、甘えることも、愛されるってことも、俺の世界にはなかった。


 だから――


優利(……愛情、なんて……わからなかったんだよ)


(優利)中学で初めて告白されたとき、ただ困った。

 「ごめん」と言って断ったら泣かれて、ますます訳が分からなくなった。

 好きって、なんだよ。

 ただ一緒にいること?触れたいと思うこと? それとも、家族になること?


 全部、ふわふわしてて形がない。

 俺には、何一つ掴めなかった。


 だから、たぶん――


 嘉仁さんの「優しさ」や「まなざし」が、怖かった。


 いっそ憎んだほうが楽だったのに。

 俺がどんな態度を取っても、嘉仁さんはずっと変わらなかった。

 怒らないし、突き放さないし、何より――悲しまない。


 無償の愛みたいなものが気持ち悪くて、俺はずっと避けてきた。

 そんなもの、あるはずないって思ってたのに。


優利「……俺は、愛されてなかった」


(優利)吐き捨てるようなその声は、自分の耳にさえ情けなく響いた。


 でも、そこには嘘はなかった。


 過去を思い出し、俺は思考を奪われて動けなくなっていた。


 自分がどこにいるのか、何を考えているのかさえ、遠く霞んでいた。


 そんな俺を、低く、優しい声が呼び戻す。




嘉仁「……僕は、嫌われてもいい」


優利「……なに……?」


(優利)次の瞬間、嘉仁さんに引き寄せられていた。

 驚く間もなく、俺の体は、その腕の中にすっぽりと収まった。

 やわく、でも決して逃がさない強さで求めていた腕に包まれて――


優利「やめろ……!!」


 (優利)抵抗する。声を荒げる。

 けれど、それさえも優しく包み込むように、嘉仁さんは言った。


嘉仁「……僕はね、実の母に過保護すぎるほど愛されて育った。愛されて愛されて…抱かれて……恐怖と、嫌悪と、母を失いたくない気持ちと…。だから……女性を受け入れるのが困難になった…」


(優利)その声には、どこか遠くを見るような絶望がみえた。


嘉仁「…高校のとき、一度だけ……本当に好きになった人がいて、思い切って告白した。けど、そいつにゲイだって言いふらされて……友人も、全部失った」


優利「……っ」


(優利)俺は何も言えなかった。

 嘉仁さんがそんな過去を持っていたこと、想像すらできなかった。


嘉仁「雪子と目が合った瞬間にね、あぁ、この人だって思ったんだ。互いに、ね。異性としてじゃなく、人として。苦しみを分かち合える相手だと……感じた」


(優利)胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


嘉仁「……ごめん。…ごめん…!僕は“父親のふり”をした狡い人間なんだ…こうして君を抱きしめながら、どうしようもなく、君を――愛したい」


(一拍の間)


嘉仁「……いや、きっと、愛されたいんだと思う。君に」


優利「……っ」


(優利)その言葉が胸に突き刺さる。

 俺は、どうすればいい?

 怒るべきか? 受け入れるべきか? 拒絶するべきか?


嘉仁「……嫌なら、振り払っていいよ」


(優利)そう囁いたその声が、震えていた。

 本当に、拒絶されるのを怖れている――そんなの、俺の方だ。



(優利)こいつが家に入るようになってから、毎週金曜日の夜、バイトから帰ってくると、いつも二人はソファで寄り添っていた。

 映画を観て、笑って、俺には入り込めない何かを分け合っていた。


 俺はリビングに入れなかった。


 まるでそこが“もう自分の居場所じゃない”と突きつけられているようで、シャワーを浴びて、逃げるよ うに自室にこもった。


 情けないほど、涙が出た。

 何度も、何度も。


 俺は――


 母さんのあの場所が、欲しかったんだ…



嘉仁「……僕は、ほんとに、狡い人間だよ」


優利「……」


嘉仁「1年前、雪子が自ら命を絶ったとき……君は、何も聞こうとしなかったね」


優利「……あんたが原因じゃないって、そう思ってた……けど」


嘉仁「……君の実の父親が、僕らの会社に転任してきたんだ」


(時が止まったような気がした。)


優利「……え……?」


嘉仁「部署は違ったけどね。ある日、彼を見た雪子は、急に様子がおかしくなった。僕は……その小さな変化に気づいたのに、いつもの女性の日かなって呑気に思うだけで、深くは聞かなかった」


優利「……あんたは、悪くないじゃん……」


嘉仁「……数分後、外から悲鳴が聞こえた。

 そして、彼女の机の引き出しに、メモがあった」


優利「もういい……言わなくていい……!」


嘉仁「“嘉仁さん。高崎が本当の父親です。優利を、どうか、よろしくお願いします”」


優利「……やめろ……!やめてくれ……!!!」


(優利)俺の中で何かが崩れた。

 気づいたら、俺の腕が嘉仁さんの背中を抱きしめていた。

 自分でも驚くほど、自然に。


 そうだ。

 母さんが死んだあと、嘉仁さんは仕事に追われて家にほとんどいなかった。

 それが俺は「他人だから」だと思っていたけど――


 この人も、この人なりに、ずっと戦っていたんだ。

 たった一人で…。


 微かに震える嘉仁さんの背中に、俺はそっと額を押しつける。

 暗闇の中、彼の息が少し震えているのがわかった。


 それでも、優しく、強く、俺を包み込んでいた。


 そのとき、不意に思い出した。

 母さんが言っていた言葉。


――「愛さずにはいられないの」


 それがどんなに痛くて、どんなに報われなくても、

 それでも人は、誰かを愛さずにはいられない。


 俺は今、その意味をほんの少しだけ知った気がした。




-嘉仁side.



 (嘉仁)そうだ。

 僕は、悪くない。

 悪いのは――あの男だ。優利の本当の父親。

 吐き気がするほどの憎悪が湧く。

 殺してやりたいと、心のどこかで願ったこともある。

 ……でも。

 僕にそんな勇気も、度胸もなかった。

 ただの願望に過ぎなかった。


 雪子を人として愛していた。

 気の強い心の美しい人で、繊細で、どこか脆い女性だった。

 だからこそ、守らなければと思った。

 でもそれは「人として」の愛であって、僕が本当に求めていたのは違うものだった。


 初めて彼女に告白された日、僕はその気持ちを断った。

 どこかで、彼女を拒む自分に罪悪感を抱きながらも、どうしても応えられなかった。


 そして――その少し後。

 僕の母が死んだ。

 交通事故だった。ありふれた、でも僕にとっては世界の崩壊だった。


 僕の母は、僕の全てだった。

 愛情を一身に注いでくれて、僕を抱き、叱り、身体も心も支配していた。

 誰よりも信じ、信じられていた。

 世界で、たったひとつの絶対的な愛だった。


 その母が、いなくなった。その瞬間、僕は――愛を失った。

 それでも、生きなければならなかった。

 

 そんな僕に、再び手を差し伸べてくれたのが雪子だった。

 2度目の告白。きっと彼女にとっても最後の勇気だったはずだ。


 そして僕は、彼女と暮らす決意をした。

 ……母の記憶が、まだ色濃く残るこの家で。


 この家は、母の名義だった。

 生まれてからずっと、母とふたりで過ごしてきた家。

 笑いも、涙も、母の匂いも、母から与えられたいとなみも。全部この部屋に染みついていた。

 だからこそ、僕にとってここは、逃げられない監獄だった。

 愛の亡霊が住みついた、この場所から、僕は一歩も動けなかった。


 雪子は、それを知っていた。

 僕がこの家に、母の愛を、そして母への執着を閉じ込めていることを。

 それでも、雪子は黙って受け入れてくれた。


 彼女は言った。


雪子「母親にとって、子どもは呪いにもなる。でもね、嘉仁さん。あなたはその呪いを抱えてでも、生きている。それは、とても強いことだと思うの。私はそんなあなたのそばに居たい。苦しいときは抱きしめてあげたい」


(嘉仁)…僕は、強くなんかない。

 ただ、歪んだ愛を忘れたくなかっただけだ。

 忘れてしまえば、もう僕は、何者でもなくなるから。


 雪子の優しさに、何度も救われた。

 それでも、僕は彼女のすべてを背負えるほど、強くはなれなかった。

 そして気づけば――

 雪子の過去ごと、彼女の子どもごと、

 僕はすがるように受け入れてしまっていた。


 ああ、今ならわかる。


 雪子も、僕も。

 互いの過去の影を抱えたまま、

 ひとりでは立てなかっただけなのだ。


 僕たちは――最初から、愛ではなく、

 孤独を分け合う“共犯者”だったんだ。




 優利くん。

 僕が、愛したのは雪子ではなく、君だ。


 君の中に流れる、あの男のDNAに過ぎないのかもしれない。

 僕の母と同じ「相手を支配する犯罪者の血」。


 雪子にとって忌まわしい記憶、痛み、哀しみの結晶が君だった。

 そのすべてを孕んだ君を、僕は、愛してしまった。


 それは父性でも、友情でも、ましてや同情なんかじゃない。

 もっと深く、もっと醜く、もっと――取り返しのつかないものだった。


嘉仁「……優利くん。

 たまには帰ってきてくれる?

 僕はここで、ずっと待ってる。

 君のこれからを、父親として――いや、人間として、見守らせてほしい」


(嘉仁)語尾が震える。言葉が、呼吸の奥で軋む。

 もう、どうしようもないほどに、声が嘘をつくのが下手になっていた。


優利「……わかった。……でも、」


(優利)その沈黙が、やけに長く感じた。

 不自然なくらい、鼓動が間延びして聞こえる。


優利「…ごめん…あんたは父親じゃない――俺は…あんたが、どうしようもなく……好きだ」



(優利)カチリ、と何かが外れた音がした。

 心の奥に鍵をかけていたものが、内側から壊されたような――冷たい破裂音。


(嘉仁)ーーー気づいたときには、君の手が、僕の背中にまわっていた。



(嘉仁)その手のひらが、熱を持っている。

 でもそれは、ぬくもりなんかじゃない。

 むしろ――獣が、咬みつく前の、微かな予兆だった。


 優利君の指が、僕の背中の骨をなぞる。

 僕の息が、かすかに震える。

 この力が、このまま強くなれば、きっと僕は砕けてしまう。

 けれど、それでも僕は。



嘉仁「……ありがとう」


(嘉仁)と、微笑んでいた。


 どうしようもなく嬉しかった。

 どうしようもなく、報われた気がしたんだ。


 彼女のいないこの家で、

 母の気配だけが染みついたこの空間で。





 ようやく、"愛された"ような気がした。





 たとえそれが、

 引き返せない狂気だったとしても。






















――end.

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