小さき世界
以前書いたものの再録。
十年以上前やで
うるさいくらいの車の喧騒も、この場所では遠い世界のようだ。
空気自体がセピア色に染まる、懐かしさを感じさせる場所。
コーヒーの香りがただようここの景色が好きで、僕はよくこの場所に来ていた。
「V’sBAR」
それがこの小さき世界に冠された名前。
名も無き穏やかな曲。
年月が染め上げた木製の壁。
無口ながらも穏やかに微笑むマスター。
それがこの世界の全てだった。
雑誌で取り上げられるような、人気スポットというわけではない。
だが、古い写真の中の風景のようなこの店は、自然と常連客を集めていた。
マスターの入れてくれたご自慢のコーヒーを口に運びながら、僕は目の前のカウンターにおかれたスケッチブックを開く。
これが、僕がこの場所でいつもすることだった。
木製のテーブル。微笑みが浮かぶ、客の横顔。時には、想像の翼を羽ばたかせることもある。
目の前に広がる景色を、何気なく描き留めること。
誰かに祈りを捧げるように行われるその儀式が、僕なりのおまじないだった。
淡い水色の世界が、真っ白な紙の上に広がって行く。
窓から入り込む薄い陽光に照らされた想像の世界が、煌めきを帯びる。
眩しそうに目を細めながら、僕はその煌めきを見つめていた。
だいたい描きあげたところで、僕はちらりと隣に目を向ける。
そこには、ミルク皿につがれたビールをちろちろと舐めながら、わずらわしそうに僕を見上げる常連客の姿があった。
彼は僕がこの場所を見つける前からここに足を運んでいた客で、そういう意味では僕の先輩ともいえる存在だ。
昼だろうが夜だろうがビールしか頼まない変わった客で、何をするでもなくぼうっとしているかと思えば、不意に姿を消したりする。
誰に縛られるでもない彼の黒い体は、自由という単語を思い起こさせた。
・・・・・・僕の考えを伺うかのように金色の瞳で見つめ続けていた先輩は、問いかけるかのように「ニャーゴ」と鳴いた。