三章 正義
正義 『黒男の思想』
その少年はテレビとインターネットの、とある話題に夢中になっていた。
学校の友達が皆興味を持つ、ゲームやアニメには大した関心はなかった。
世に云う“天才”“異才”と称される、幼い子供特有の才能の持ち主ではあったものの、大人達の目にはさして留まる事もなかった。
幼い柔軟な脳が、“興味”の力を借りて素晴らしい才能を見いだす現象はよくある事である。
目立った才能を大人達は褒め称え、有頂天になりながらもどんどん吸収して行く幼い脳。
しかしやがて社会の中で興味そのものが分散し、いずれ“人並み”になっていくのだ。
黒男の興味と才能は、目立つ事無く彼自身の“内”ですくすくと育とうとしていた。
親も、他の大人も、其れには気付く事はなかった。
いや寧ろ、本来子供達が持つ特有の“興味のある物への執着”の単純な解決策である、
「何で?」から始まる好奇心や、
才能開花の為に必要な大人の支えや、環境の充実すら黒男には必要ではなかった。
彼の才能は『正義感』。
およそ両の手の指で足りる年齢の子供が、怒りに震えながらにして興味を抱いたのは、後の歴史的な事件である『母子殺害事件』である。
人間のエゴと狂気、そして世の中の矛盾に悩みながらも一つの事件を追い掛け、疑問を内に秘める様を、“才能”と云わずに何と云うのだろうか。
しかしその才能は、“暗算が得意な小学生”の様に、テレビで取り上げられもせず、周りに誉めて貰えもせず、ゆっくりと花開くのであった。
黒男は、『正義』と『悪』の図式を単純なテレビのヒーロー番組には見出せなかった。
いや、彼の異質な興味はテレビのヒーローの敵に課せられた“絶対悪”と、ヒーローがヒーローたる由縁の単純さが理解出来なかったのだ。
常に頭の中では朧気な疑問があった。
─何故敵は悪なのだろうか。
─何故ヒーローは正義なのだろうか。
と。
本質的な設定に疑問を抱きながら見るテレビ番組は、“娯楽”ではなく“研究”にも似ていた。
無論幼い彼にはそんな概念はない。
意味なく繰り広げられる戦闘を見て、どちらを応援したものか、どちらが敵でどちらが味方かすらわからない。
ただ一つ、必ず“悪”とされる側はやられるのである。
理屈等なく敗れさり、正義が勝つと云う事は頭に焼き付いていた。
彼は将来、この“正義”と云う言葉の呪縛の為に生きる。




