二十章 LOOP:3
LOOP.3
『三人の部屋』
七月の深夜──
産婦人科の一室から発せられた小さな、しかし生ある鳴き声。
吉行はその部屋の中で、詩織の手を握りながらその声を聞いていた。
存在を知ってから八ヶ月。初めての対面に涙が流れた。
形ある真実──
永遠の愛を誓える存在に、心からそれを実感出来る存在に出会えたのである。
汗を滴らせ、疲れ果てた詩織は握る手にもはや力等無かった。
吉行は詩織を力いっぱい抱きしめ、
「ありがとう。愛してるよ」
そう伝えた。
詩織は吉行のその言葉を微かに聞き取りながら、一つの事だけを祈っていた。
(どうか神様……この人の子供でありますように)
羊水を纏い、目も開かず、ただ泣きじゃくる我が子を一目見た後、詩織はあまりの疲れに意識を失った。
出産に要した時間は、陣痛開始から二十時間。
しかし、出産への疲れだけではない。
詩織の精神状態はもはやボロボロであった。
快楽と快感。
その二つと引き換えに、詩織が背負う事になったモノ。
それは、依存と後悔、屈辱と怯え、後ろめたさに加え、酷いつわりと云う地獄の妊娠期間であった。
さらに留まる事を知らない欲求と中毒が追い討ちをかけ、尚更詩織をどうしようもない苦しみへ誘って行った。
吉行の優しさが増せば増すほど……、愛するが故の辛さまで憂鬱に変わっていったのである。
苦しさのはけ口は、その苦しみを生み出す場所に存在した。
全ての苦しみを払拭する為に正人を呼び出し、金を払っては一時の快楽に身体と精神を満たした。
ただ何も考えず、脳天気に腰を振る男との快楽が詩織を非現実に逃避させ、正人はそんな詩織の中に容赦なく排出した。
悪事がまた次の不快感を生み出し、それを癒やす為にまた快感を繰り返す連鎖。
辛うじて“静脈摂取”を避けながらも、幸せな一時を得る為にアルミを炙った。
胎児への影響は……
先天奇形の可能性は辛くも免れたものの、神経過敏症として後の不幸に繋がる事となる。
しかし、その赤ん坊が持って産まれた最大の悲劇……
それは、分かりすぎる程分かる、望まぬ遺伝子であった。
罪なき影響は“正人の子”であると云う事実で示されたのだ。
そして……、生まれつき背負った不幸が、この生まれたての新生児の、見えざる“不治の病”でもあった。
詩織の願望が絶望に変わった時、それまで懸命に保っていたほんの僅かな理性の箍が緩み、同時に“一つの感情”を失った。
人とは……、因果であれ何であれ、的を得たきっかけさえあれば、精神はいとも簡単に崩壊する。
側に逃げ道がなければ、最悪は“死”を選ぶ事も有り得るのだが、詩織には確固たる逃げ道があった。
寧ろ求めていたとも言えるその逃げ道。
産院からの退院後、間もなくして求めたものは、吉行の胸ではなく、知性の欠片もない青年が持つモノだった。
いつものように、落ちている物でも拾うかの如く正人を車に乗せ、“いつもの場所”へと“三人”は向かった。
初めて“我が子”を見た正人は、昼間から酔っ払っていた。
「思ったより小さいね。この歳から性教育すんの?」
ろれつの回らない口調で話す正人に詩織は苛つきを隠せずにいた。
「どっちの子かも聞かないのね……」
「どっちでもいいじゃん。どっちにしろ俺には関係ないんだから」
この短絡的思考は、詩織にすら“最低”な男だと思わせる。が……、逆にそれが安堵に繋がる。
自分が“最”低ではないのだと。
ホテルの部屋で聞こえる“声”は喘ぎ声と相場が決まっている。
しかし詩織と正人の居る部屋からは、それ以外に赤ん坊の鳴き声が響いていた。
今まさに性に溺れる母親と父親によって、振戦、筋緊張亢進、そして貧弱な睡眠パターンと云うリスクを背負おわされた赤ん坊は、常に泣き叫ぶ行為を繰り返していた。
(助けて……)と言う声にならない泣き声。
その泣き声が更に詩織の理性を破壊して行くのである。
気が狂わんばかりの泣き声の中、詩織自身も気が狂いそうになった時、理性のなくなった本能に効く“禁断の果実”は目の前に転がっていた。
「それ……私にもちょうだい」
「前から言ってるじゃん、炙ってるだけじゃ物足りなくなったんだろ?」
「わかるでしょ、気が狂いそうなのよ」
詩織は……、頭では理解しながらもとうとうその細い腕に細い針を刺され、我が子の鳴き声に張り合うように快感に悶えた。
その部屋にあったのは、親子三人の凄惨な光景であった。




