一章 欲
欲 『スティッチの苦悩』
スティッチは満足しきっていた。
生まれてこのかた、自分の欲求を抑える術ばかり考えてきた彼にとって、この1年間はまるで夢のような一時だったからだ。
この世に生を受けて、27年間。
物心ついた時からの苦痛は、彼にとっては計り知れないものであり、常人には理解しがたいものであろう。
元来人は食さなければ生きては行けない。
眠らなければ生きては行けない。
異性と交わらなければ、子孫さえ増やす事は出来ない。
それは食欲や睡眠欲、金銭欲、性欲と云う形で人の中に“欲求”として備わっている“本能”である。
否定は許されない。
それは生きる事への拒絶を意味する。
彼の生涯の悩みはその“欲求”であった。
『破壊欲』
他の者が欲に目覚めると同様に、幼い頃から“物を壊さずにはいられない”性。
壊れていく様を見ると、えもいわれぬ快感が込み上げてくるのがわかる。
彼が初めて射精をしたのは、Elementary School(小学校)に上がったばかりの頃。
たまたま居合わせた交差点で、とある事故を目撃した時の事だ。
運悪く信号を無視して交差点に侵入した、黒いシボレーの下敷きになった若い女性は、半身を退き潰され、息絶えながらもスティッチを凝視していた。
人間が……、
つい先程まで目の前を普通に闊歩していた美しい女性が、一瞬の内に壊される様を目撃した彼は胸を撃たれた。
分かり易い言葉で表現するならば、“快感”を感じてしまったのだ。
彼の苦悩の人生はその時から始まった。
物を壊す。
壊れた物を見る。
こう云った趣向を幼少期から“開花”させてしまった彼は、ありとあらゆる物を破壊して行く。
破壊とは言っても身の回りに存在する物等所詮程度が知れており、また、本人の力量からもたかが知れていた。
しかし“欲”と云うものは留まる事を知らない。
もとより彼の頭のトラウマは、あの日見た“壊れた女性”なのである。
その異常な欲求は心の中で育ちながら、彼の中の“正常”を侵食して行った。
自らの欲求が他者の持つそれとは異なる事に気付いた時、同時に他者には理解し得ない“性”だと云う事も分かり始める。
その頃には、もはや抑えの効かない本能は益々抑止力の垣根を越え始めていたが、“理性”ではなく“知性”がそれを隠す事を指示してもいた。
彼自身、周りの友達との些細な違いに引け目を感じていたせいもあるが、自分の欲求の先に位置するものは、『法』の枠の“外”にあるのだとすでに学んでいたからである。
スティッチは決して頭の悪い子供ではなかった。
物を破壊に追い込むと云う行為や、快感として忘れる事の出来ないトラウマは、基本的に世の中では受け入れられるものではない。
それを欲して止まない自らの欲求を、Control(操縦)する術をいつも探していた。
庭の花壇で種から育てた花を春になると無心に摘み取り、開いたばかりの花弁を一枚一枚剥ぎ取った。
夏には広がる青空を懸命に描き、出来上がった素晴らしい絵画をママに誉めて貰う前に破り捨てた。
冬になると早起きして、降り積もった柔らかな新雪の上を音を立てながら踏み潰す様に歩くのが日課だった。
水溜まりに張った薄い氷。
屋根から垂れ下がった氷柱。
それらを破壊しては自らを落ち着けた。
Christmasは余計な行事だった。
彼にとっては、折角のプレゼントも、欲求の制御の苦しみの原因でしかないからだ。
彼は秋を一番好んだ。
何故か全てが一度壊れて行くような感覚になれた。
枯れ葉を敢えて踏みつける様な真似はしなかった。
無論、どの行為も一人で行い、誰にも話す事は無い。
そしてまた、どの行為も欲求を満足させるものではなく、それどころか心の中でどんどんと膨らむ欲望を抑え込む事が苦でしかたがなかった。
こうして彼は幼少期を過ごした。




