九章 打算
打算 『ノーラとクレア』
クレアとの交友で自分を取り戻したノーラは、以前の輝きをも取り戻しつつあった。
他者の噂も時が経つにつれ消え去り、ノーラの劣等感もまた次第に心の奥へと押されて行った。
クレアはそんなノーラを見て胸を撫で下ろし、ノーラもまたクレアには感謝した。
しかし二人の友好関係は続きはしたものの、クレアがノーラ以外のクラスメイトに受け入れられる事はなく、クレアも打ち解ける事はなかった。
「クレア、アナタは何故他の友達を作ろうと思わないの?」
クレアにとっては愚問であったが、そんな愚問を真顔で質問する無垢な雰囲気もノーラの魅力なのだと理解した。
「私の事なんて誰も相手にしてくれないもの……」
「それはクレアの本当の姿を見ようとしないからだわ。アナタも悪いわよ、クレア。いつもお人好しすぎるだけなんだもの」
クレアはノーラの言葉が嬉しかった。
内面を見てくれる人間も中には居るのだと……
Junior High School(中学校)も残り一年。
別々のクラスになったものの、ノーラとクレアの関係は途切れる事はなかった。
クレアは相変わらずスティッチの事をノーラに聞かせ、ノーラは嬉しそうに相槌を入れる。
「彼は昨日、怪我をしたウサギを学校に連れてきたわ。世話をするんですって」
「まぁ、アナタよくそんな事まで知ってるのね」
「私は毎日彼を目で追ってるわ。でも心配しないで。Stalkingしてる訳じゃないわ。ただ彼を見てるだけで胸が躍るだけなんだもの」
ノーラはスティッチと同じクラスであり、クレアに聞くまでもなくウサギの事は既に知っていた。
他人に興味を抱くと云う心理は、そのもの事態が危険である。
例えそれが関心から来る興味であろうと、抱いてしまった“興味”と云う形で対象を観察すると、相手を通常以上に理解するからだ。
きっかけは何でも良い。
ノーラのスティッチへの興味は、勿論クレアから毎日の様に聞かされる彼の話がきっかけであった。
その興味は次第に彼女の感情にも触れ、ノーラですら気付かぬ内に“興味”から“好意”へと変わっていた。
クレアの話を笑顔で聞きながら、心の中でノーラは思う。
(ごめんね、クレア。私は彼に興味を持ってしまったみたい……)
更にノーラは、スティッチからウサギの世話を一緒にしないか……、と持ちかけられてもいた。
(誘ったのは彼の方からよ……)
当然その事をクレアには教えなかった。
ノーラはすでに本来の自分を取り戻し、以前と変わらぬ皆の人気者の座に返り咲いていた。
クレアとの友達関係は続いたが、大抵人は損得の勘定なくしては生きられない。
ノーラは人として当たり前の“打算”的な感情までしっかりと回復していた。
(アナタも悪いわよ、クレア。いつもお人好しすぎるだけなんだもの)
ノーラはクレアに隠れながらも、スティッチと急接近して行った。
親友が愛して止まない男に好意を持ち、その相手も自分を求めていると云う“悦”。
ノーラはその“悦”に酔いしれた。
開き直っている訳ではない。
ただ、ノーラにとっての打算は“恋愛”と“友情”とは別の所で思考するだけである。
ここに、生まれた時からの“優劣”の前者が持つ、“winner(勝者)”の感覚が存在するのである。
ノーラはスティッチに興味を持ち、ステッチは見透かす様にノーラを見えない糸で手繰り寄せた。
ただそれだけの事実が重要なのだ。
スティッチが最初に何故ノーラを誘ったのかはノーラ自身にもわからなかったものの、winner(勝者)の感覚はそれすら悩みにはしなかった。
クレアには悪いと思いながら……、それでいて
「自分は見ているだけで十分」と言ったクレアの言葉に自らを正当化させて……
こうして勝ちを得て行くのが、常に世の中の摂理だと云う事を感覚に備えていた。
そしてノーラは、勝者の感覚と正当化と云う武器を携え、スティッチにのめり込んで行くのであった。
ノーラは特別動物が好きだった訳でもなく、まして研究等は二の次である。
しかし、持ち前の器用さと振る舞いで、あたかもスティッチと同じ物に興味がある振りを演じた。
昆虫採集に行くと言えばランチを作って出掛け、した事もないウサギの世話も進んでこなした。
いつしかノーラとスティッチは互いの身体を重ね、その事がノーラを更に“悦”に陥らせた。
スティッチはクレアだけでなく、他の女生徒にもすこぶる人気があった。
ノーラにとっては、その事だけでも以前抱えた“劣等感”を粉砕するに十分だったが、一度彼の愛撫にかかれば意識や感情とは別の所で、ノーラの女性としての身体の何かが支配された。
まるで快楽の糸で操られる様な感覚。
彼は女性の何たるかを知っている様でもあった。
Platonic Love(純精神的恋愛)と云う言葉がある。
しかし恋愛を感じる上で性はごく自然な要素であり、極めて重要な過程である。
ノーラは、心も身体もスティッチに支配されて行く。
その頃になると、他生徒の間でもノーラとスティッチの関係は周知の事実として知られる様になっていた。
ノーラのスティッチに対しての接近振りは恥じらいもなく大胆。
まるで他のものは目に入らないといった雰囲気を醸し出していたからだった。
ただ、誰一人羨んだり皮肉るものがいなかったのは、二人が皆もが認める美男美女であり、どちらも高嶺の花的な存在だったからである。
お似合いの二人──
ノーラがスティッチに過度の愛情を注ぐようになってからは、クレアとの交友は激減して行った。
いや、もはや以前の様に会話する事すらなくなり、クレアはまた“独り”の生活に戻っていた。
クレアは二人の関係を知らぬ訳ではないとノーラは確信していたが、クレアからその事でアクセスがある訳でもなく、ノーラもまたクレアに打ち明ける事はしなかったのである。
疎遠になりながらも時は過ぎ、ノーラはときめく学園生活を……
クレアはただ身を縮めて劣等感に耐える学園生活を送っていた。
しかしこれは“もとの生活”に戻っただけである。
ところが、卒業のせまったある放課後、ふいにクレアはノーラの前に現れこう言った。
「ノーラ、うまく行ってるのね。少し妬いちゃうけど、アナタなら自分の事のように嬉しかったわ」
ノーラにとっては転機。
「クレア、ごめんなさい……。なかなか言い出せなくて、私……」
「いいのよ。水くさいのね、アナタったら。彼の事よりこれからも友達でいて欲しいのよ」
「私達はずっと友達よ、クレア」
罪悪感が消える瞬間であった。
二人が顔を見合わせて会話をする事の懐かしさにも似た感覚に、クレアは安心したように微笑んだ。
「ありがとう、ノーラ。今日もスティッチと逢うんでしょ?彼は実験室で一人だったけど……」
「そ、そうなの……。ごめんなさい、クレア。ありがとう……。私……行かなきゃ……」
ノーラにとってはクレアとの仲直り等既にとるに足らない事であった。
僅かな罪悪感が消えれば、意識は自ずとスティッチに向かう。
クレアよりも、スティッチが一人実験室に居る事等知らなかったノーラは、早くスティッチの下に訪れ二人の時間が欲しかった。
(お人好しさん、We wish to express our gratitude to you who taught it.─教えてくれたアナタに感謝するわ─)
勢いよく実験室のドアを開けたノーラは入り口で凍りついた。
普段のCoolでSexyでIntelligent(知的)なスティッチはそこには居なかった。
変わりにそこで見たものは、まるで淫猥な美女を卑劣な輩が手に掛けるような……
飲まず食わずで見知らぬ土地をさ迷った浮浪者が、かっぱらったバーガーを涎を垂らしてほうばるような……
醜く、羞恥に満ち溢れた獣のような男の顔であった。
その獣の手はシンクの中……
血しぶきで真っ赤な色をしたシンクのステンレスを爪でかきむしるウサギの首を掴んでいるのが見えた。
切り裂かれた短くなった耳にはナイフが突き刺さり、ウサギが暴れる度にガツガツとナイフの柄がシンクにぶつかり、その音だけが室内に響いていた。
驚いて振り返ったスティッチの手に握られた耳の先は、まだ赤い血を滴らせており、主を失い役割を忘れた物体と化していた。
スティッチは言った。
「やあ、ノーラ。今日も元気かい?」
声も出せず、その場から逃げ出す事も出来ず、ただただノーラは入り口に立ち尽くし、スティッチの握った“耳”から目を反らせずにいた。
スティッチは静かに優しくノーラに続けた。
「自分でも驚いたよ。まさか衝動的に欲求を抑止する事が出来なくなるなんて」
ノーラの膝はわなわなと笑ったが、当の本人はその声を聞くのが精一杯であった。
「ノーラ。俺が狂っているように見えるかい?今、とても幸せな気持ちなんだ。君と云う存在が俺の窮屈な鎖を絶ったんだから……」
声は聞こえども、スティッチが何を言っているのかノーラには理解すら出来なかった。
「隠していたものが見つかる。と云う事はもう周りに隠さないでいいって事だ。
我慢する必要がないって事だ。」
そう言いながらノーラに近付いたスティッチは、怯えるノーラの手を取り……
「俺は君の“アソコ”より、こっちの方が“Excite(興奮)”するって意味なんだけど……、当然君はこの事を公表するよね?」
そう言うと、その手に“耳”をそっと握らせた。
ノーラが初めて出した声は、刺すような発狂の叫びであった。
目で見た残忍な行為──
耳で聞いた卑猥な言葉──
裏切りにも似た告白──
手に伝わる暖かい血と指に絡む毛の感触。
怯えながら首を振るノーラに、更にスティッチの言葉は続いた。
「ところで……、何故今する話かと疑問に思うかも知れないけれど……、クレアとは仲良くしてるのかい?」
もうノーラの頭はPanic(混乱)に陥っていた。
(クレア、クレア、クレア、クレア、クレア、クレア、クレア、クレア……?)
「君はRapeで辛い目に遭った。でもノーラ、君は随分と“喘いで”いたみたいだね」
ドクン……とノーラの胸が鳴った。
「犯される事に快感を感じた君になら、俺の不可解な欲求も理解出来るだろ?」
その言葉を聞いた時、ノーラは我を忘れ、突発的に窓に向かって駆け出していた。
……反射的逃避。
そして自ら窓の外へ身を投げ出した。
数十メートルの転落の間、ノーラの頭を支配した走馬灯はあの廃墟の一室の記憶である。
縛られ、身動きの取れない自分と覆い被さる二人の男。
その刹那、ノーラの心に去来した異なった感覚は、絶望と侮辱と快楽と優越。
どうしようもない状況下で自らの体を無心に求め、果てる男達。
汚されながらもあの手この手で与えられる刺激。快感。
隣で、ただ縛られるだけの“同じ女”への優越。
そこで開花した性癖……。
Gag(猿轡)を外された口から漏れたのは、
悲鳴ではなかった。
結果、その性癖の開花と望まぬ快楽とがノーラを劣等感の渦へ引き込んだのである。
その全てを間近で聞いていたクレアとの親近はそこにあった。
クレアはノーラの、その認め難い劣等感をも含めて、真心をノーラに見せていた。
転落しながらも、確かなる屈辱と突き放された愛欲は、ノーラの“優”と“悦”を粉砕し、ドロドロとした汚物のような心だけを残していた。
地面が顔面のすぐ間近まで近付いた時、心の“辱”を認識したものの、最後に浮かんだのはクレアの名であった。
──何故……?
自分が地面に響かせた鈍い音が耳に届いた時、即死に至らず瀕死の状態で開いた目前に一人の人影が見えた。
消えそうな意識の中、その人物の発した声だけが微かに聞こえた。
「good-by.loser(敗者・負け犬)」
ノーラが最後に見たものは、その人物と、自分が握り締めた切り裂かれたウサギの耳であった。
事切れたノーラを跨ぎ、クレアはグラウンドを後にした。




