安堵
黒川の娘の名は眞子と言う。14歳の中学生で、凛とした美しい少女だった。
だが、会食の席に断りもなく同行者がいた事に、黒川と志緒は驚いた。
「ごめんなさい。一人で行かすのはどうしても心配だったので私が付いて来ちゃったの」
そう言って笑顔で挨拶をしたのは、スタイリストの義妹で、慌てて追加したコースのオーダーをレストラン側は快く応じてくれた。
職業がらなのか、最新流行の服装で現れた義妹は、地味なこちらが恥ずかしくなるほどお洒落で朗らかすぎるくらいに元気だった。
「由佳ちゃん来なくても良かったのに」
と、眞子は叔母につれない。
その華やかな二人から目が離せない志緒は、目が合った眞子からはにかむ様な微笑を向けられた事が嬉しくて精一杯の笑みを返した。
おかげで、思いのほか緊張していた気持ちが落ち着いた。
黒川から、
「結婚相手の志緒さんです」
はっきりと紹介され志緒も挨拶をした。
少しぎこちなく、でも穏やかに始まった会食の料理はとても美味しかった。食事の合間に会話をリードしていたのは義妹の由佳で、二人のなれそめや志緒の仕事、はたまた黒川の仕事の調子について……色々と尋ねて来る。
「なれそめって……」
志緒と顔を見合わせ苦笑した黒川に、眞子も知りたいと声を上げた。
「弱ったな」
照れて首を傾げる黒川の代わりに、志緒が端的に説明した。
「展示会場で作品に一目ぼれして、私が依頼をしたのがきっかけです」
答えた志緒に由佳がまた問いを返す。
「お義兄さんの作品を購入する人は沢山いるのに、どうして志緒さんだけは特別だったのかしら? だって……私も持っているわよ作品」
志緒が困って隣の黒川に顔を向けると、今度は黒川が助け舟を出した。
「……特別だったから結婚を決めた訳で、理由は僕らの秘密にしておきたい。眞子は知りたいかい?」
「ん――言わなくて良いよ。大切な秘密なんでしょう? それにこっちが照れちゃうわ」
眞子は非常に聡明な少女だ。父親の再婚相手に敵がい心を持つ事も無く、さり気ない態度を向ける姿は、14歳とは思えない程大人びていた。
デザートを残すのみになった頃、眞子がお手洗いに行きたいと席を立った。
「志緒さん、姪と一緒に行ってもらえませんか?」
「あ、はい」
由佳の言葉に顔を上げると眞子が微かに頷いた。自分と何か話がしたいのだろうか? そう解釈した志緒は素直に従った。
用を足した後、鏡の前で眞子が志緒に話しかけてきた。
「あの……」
「はい」
「志緒……さんは、パパを大切に思っていますか?」
「えっ、はい。大切な人だと思っています」
「ママみたいに出て行ったりしない?」
「出て行きません。山で一緒に暮らしたいと思っています……実は少し前まで仕事を辞める事を迷っていたんだけど、今は迷いは消えました。貴女のお父さんの事を大切な人だと思うから」
「……ありがとう。あの、ごめんなさい」
「どうして眞子ちゃんが謝るの?」
話をしながら、会食の個室に戻っていると、中の会話が外に漏れてきた。
『……だから、あんな地味な人なんかより、私を見て欲しいの。私……』
漏れ聞こえた言葉に固まった志緒の袖を引いたのは眞子だ。小声でまた謝って来る。
「叔母ちゃんはパパの事が好きみたいで、こんな事になるんじゃ無いかと思っていたんだけど……ごめんなさい、叔母ちゃんを連れてきて」
義妹に言い寄られて黒川が考えを変える事は無いとは思う。それでも自分の勘が当っていた事が嫌でたまらない。由佳が顔合わせの席に乗り込んで来るほど必死なのかと思うと、その情熱が怖いとも思う。
由佳が言い募っている個室から黒川の声は聞こえてこない。言葉を失うほど驚いているか、声を殺して諭しているかのどちらかだろう。
個室に入る事が出来ず眞子とまたトイレまで戻った志緒は、動揺しながらも眞子に尋ねた。
「眞子ちゃんは、叔母さんが一緒に来る事を断り切れなかったのね?」
志緒の問いに眞子は頷いた。
「叔母ちゃんはあんな人だけど私は好き。でも本当はパパには誰とも結婚してほしくないと思っているの。でも……」
「でも?」
「私がそう思うのは我儘だと判っているし、ママもそう言ってた。それに、叔母ちゃんはパパには合わないと思う、志緒さんの方がパパには合う気がする。何となくだけど……雰囲気と言うか」
「雰囲気?」
「うまく言えないけど、なんとなくそう思うの。それに、今日パパにあんな事を言う叔母ちゃんは……なにか変、間違っていると思う……」
眞子の言葉に志緒は深く安堵した。父親と別れて暮らす娘は真っすぐに育っていると感じたし、その娘を育て上げた母親はきっと素晴らしい女なのだろうと思った。
「ありがとう。あの、私は眞子ちゃんにとって嫌な人にはなりたくないと思っています。だからこれからも宜しくお願いしますね」
「……はい」
「じゃあ、戻りましょうか?」
二人してドキドキしながら個室に戻ると、デザートが運ばれている最中だった。会話の途中だったら気まずいと思っていたのでホッとしたが、それでも志緒が余裕満々だったわけでは無い。
自分の『女の勘』が的中していた事は残念だったし、黒川の気持ちを疑いはしないものの、やはり今日由佳には会いたく無かった、そう思った。
黒川の表情は志緒たちが部屋を出て行く前と全く変わらず、柔らかく微笑んでいた。
と、突然、膝の上に揃えて置いた志緒の右手を黒川がギュッと握った。4人だけになった部屋のテーブルには美味しそうなデザートが並んでいるが、誰もそれに手を出さない。そして……シーンと静かな空間に黒川の静かな声が響いた。
「眞子、僕は志緒さんと結婚するよ」
「……うん」
「でも、眞子の父親を辞める訳では無いし、眞子を捨てた訳でも無い。それは分かっている?」
コクンと頷いた眞子は微かに微笑んだ。
「パパの事は分かっているよ。私……志緒さんをママとは呼べないけど嫌いじゃ無い、良い人だと思う」
「ありがとう」
志緒はなんだか感激して少しウルウルとしてきた。そんな志緒の手を黒川はずっと握っている。かたや由佳は、先ほどの情熱は欠片も見当たらない固い表情でテーブルの一点を見つめているばかり。
「さあ、デザートを頂こうか」
「うんっ」
黒川の声に、眞子が満面の笑みを浮かべた。