小さなさざ波
『……奥さんにしてください』
そう言った志緒の耳元に、黒川が返した言葉は、
『ありがとう』で、大の大人なのに、はにかんだニュアンスを含んでいた。
そうして二人はお互い、長い間無言でスマホを握りしめていた。
早く会いたい。
そう言いながら、志緒は仕事をどうしよう……などと考えていた。
貴女の仕事の事とか……会ってちゃんと話し合おうと言われ少し安心する。黒川の事だから、こちらが困るような状態にはしないはず。志緒はそう信じていた。
※※※
「浅木を営業に推す動きがあるんだが」
残業をしていた金曜、コーヒーに釣られた志緒が上司から聞かされた話は、『良い話』と『悪い話』の両方だった。
良い話は『冷え取り』のライセンス契約が園田タオルと結ばれ、会社に大きな利益が出たと言う話で、臨時ボーナスの予定が有ると聞かされ小躍りした。しかし悪い話は、志緒にとって気の滅入る内容だった。
「浅木さんですか……」
「社長から女性の営業を増やすようにとお達しがあったらしいぞ」
志緒の『冷え取りシリーズ』が当ったので、女性の感性をもっと営業に。と安易に上が決め、以前から希望を上げていた浅木が抜擢されたのだった。
「教育係は石川さんにして下さい」
「だろうな――、でもお前ら二人が教育係だぞ」
「彼女とは相性が良く無くて……コーヒー返しますから、一抜けさせてもらえませんか?」
聞こえない様にため息をついた志緒は、微糖コーヒーを返そうとしたが上司は笑って拒否をした。
「まぁそう言うな、出来るだけやってみて無理なら俺が何とかする」
信頼する上司の言葉に、志緒は渋々頷いた……
「私、石川さんと出張したかったんですけど」
上司の話から1週間後、浅木は営業職を得た。そして志緒と石川が教育係となったが、女性同士が良いだろうと言う事で、志緒が主に行動を共にしていた。
そうして初の出張の日、二人で四国の営業先に向かっている間、不機嫌な態度に志緒は悩まされた。浅木は新幹線の窓に顔を向けてまだ拗ねている様子だ。
理解を超えた我儘な年下の扱い方を知らない(知りたくも無い)志緒は、出来るだけ心を無にしてモバイルを操作していた。
「名刺ケースはすぐに取り出せるように、胸ポケットに入れておくと良いわよ」
客先の詳細は社内メールで知らせて置いたのでそれを読めばいいはずだ。それでも営業に慣れていないだろうからと、アドバイスしたつもりだった。
「そんな事知っています、今やろうと思っていたところだったのに!」
勝気な性格を全開にした浅木は、志緒のアドバイスを素直に受け入れる気はなさそうだ。
ため息を飲み込み先を急ぐ。それでも……営業を希望していたくらいだから、その気になればコミュニケーション力の有る浅木は、若さを売りに客先でのウケは良かった。
最初はこんなもので良いか……と、内心で及第点を付けた志緒は、ホッとして首を回しながら凝り固まった肩を緩めた。
取引先を数件回りホテルに戻る。浅木のお守りに精神的に疲れたので本当は一人でゆっくりしたいところだが、ぐっとこらえて夕食はどうするのかと尋ねるた。
「一人でたべますので」
とりつくしまもないとはこう言う状態なのだろう。それでも、今日はこれ以上一緒に居たく無かったので有難いかな……とも思う。
後輩とて大人だ。子守はしなくても良いだろうと、志緒はシャワーのあと着替えて夕食を採るため外出をした。
夜の街は鼻がツンとするほど冷えていたが、暖かいコートを着ていたので風邪の心配は無かった。どこでも良いわと、賑わっているレストランに飛び込んでハンバーグ定食を食べた。
普段は野菜を中心とした食事を摂っている志緒だが、たまの外食ではジャンクでこってりとしたものが欲しくなるのだ。
本屋で雑誌を買いホテルに戻った。ロビーを横切っている間にスマホがバイブで着信を告げる。
「くろ……直人さん、こんばんは」
焦って応答すると、スマホ越しに少し笑った声が耳をくすぐる。
「まだ慣れないですか?」
「え?」
「名前」
「あ……」
今日は寒かったねと他愛の無い事を話しながら、志緒の視線は何となくエレベーターに吸い寄せられた。
そこには……岡山方面に日帰りで出張しているはずの石川と、女性らしい凝ったワンピースに着替えた浅木がエレベーターから出てきた所だった。
驚きすぎて言葉を失った志緒は、咄嗟に観葉植物の陰に隠れて二人を見送った。
自分とて、出張の度に地方の美味しいものを食べたり、終業後宿泊先から買い物に出かける事はある。それが楽しみで仕事に耐えていると言えなくも無いが……直帰とは言え、デートの為に出張先から寄り道をする石川と、それを非常識と思っていない(だろう)浅木に志緒は呆れてしまった。
「部屋に戻ってから電話をしますね」
小声で黒川に伝えてスマホを仕舞った。
部屋に戻って水を飲んだ。あの二人の事はとりあえず今夜は忘れてしまおう……そう思いなおし黒川に電話をした……
黒川との電話の後もモヤモヤが消えない志緒は、買ってきた雑誌を手に取った。それは、いわゆるナチュラル系の生活情報雑誌で、気になる特集が有ればたまに買っているものだ。
インテリアの特集を眺めては、ため息をつく。
珪藻土の壁や無垢板の床、または無機質なグレーの壁、アイアン脚のテーブルやシャビーな棚など、媚びない雰囲気が心地よく、自分の部屋のインテリアも変えたくなる。
パラパラとめくっていると、あるページで手が止まった。
モノ作り作家やスタイリストなど、いわゆる業界人のインテリアを紹介するページに、意外な人物を見つけたのだ。
『雑誌の取材が有った』など、嬉しそうに報告する人では無いから、多分断りきれずに取材を受けたのだろう。工房で木を削る黒川の姿と、キッチンやリビングが雑誌に公開されていた。
不思議な気分だった……心を寄せる男性の穏やかな横顔と懐かしいインテリアが、若干ささくれだっていた志緒の気持ちを静めてくれた。
業界人が友人の素敵なインテリアを紹介すると言う連載物で、ページをめくると紹介者の人気スタイリストと黒川のツーショットも掲載されていた。
マリメッコのワンピースを着て、キビキビトした雰囲気のその女は、女性の羨望を集める人気者だ。そのスタイリストの、年齢にしては丈の短いワンピースと、その裾から覗く露出の多い脚に意味も無く嫌な気分になるのは何故だろうか? 黒川の静かな表情とスタイリストの満面の笑みが『友人』っぽく無い様に見えるのは何故だろうか? 同僚の嫌な場面を見た所為だと思い直し、志緒は雑誌を閉じた。
『雑誌見ました』
一言だけ、黒川にラインで報告した志緒は、アイマスクを付けてベッドに横になった。