端然として
穏やかな週末を終えた志緒は、朝から仕事に追われていた。金曜の出張の資料作りに取りかかりながら日常業務もこなす。そんな忙しい月曜だと言うのに、同僚の送別会が6時から控えていた為仕事はタイトを極めた。昼食を摂ることが出来たのは午後三時で、仕事をしている同僚に気を使い、小会議室でコンビニオニギリを頬張るという味気ないものだった。
志緒は商品企画と営業を兼ねているため仕事は極めて忙しい。仕事を兼任している社員は他にも数名居るが、彼らにはアシスタントが一人ついている。志緒のアシスタントは同僚の石川と共有している為、あまり頼りにならない。
自分はどうして他の社員の様に『程よくいい加減』な仕事が出来ないのかと思う。全速力で仕事をこなす姿を哀れげに見られているのは知っている。『そんなに頑張っても給料は同じだよ』営業の男性社員にそう言われた事も有る。
でも……と思い直す、その代りに出張に行けばそれなりに楽しみもあるのだし、それで良いじゃないか、人より仕事量が多くても給料が安くても、自分が納得していればいいのだ。
心の中で頷きながら持参した温かい黒豆茶を飲んだ。そして、先週の黒川との時間を思い出していた。
『僕は強欲なので、この余韻を楽しみたいと思っています』
志緒を腕に抱いたまま擦れた声で囁いた人はさらにこう言った。
『でも、そんなのすっ飛ばして今すぐ押し倒したい……とも思っています。このせめぎあいは……』
苦しくて甘い。
そう言って、志緒の躰をそっと離した。
『本当はこんなに急ぐ気は無かったんです。少し時間を貰えますか? ちゃんと整理をしてから貴女と正式に付き合いたい』
幸せな2日間だった。
でも、時間をかける必要は無いのにと少し不満だ。
志緒は黒川の事を何も知らない。ネットで検索すれば何か知ることが出来るかもしれないが、それはしたくなかった。必要なら彼の口から聞かされるはずだからだ。
一人暮らしだと思っていたが、もしかして結婚して家族と暮らしている可能性だってある。そんな人では無いとは思うのだが、悪い想像をするときりが無いものだ。
かなり遠距離の、まだ恋愛とも言えない関係は心もとない。しかし、そんな志緒の不安を吹き飛ばすようなプレゼントを黒川は用意していた。
『会いたい』そう言って自分を呼んだのはこのためだったのかと、志緒は感激で胸がいっぱいになった。個展の最終日、黒川からのプレゼントとは、非売のカードが付いていたあの彫像だったのだ。
『これ……すごく素敵だと思っていたんです』
驚きのあまり上ずった声の志緒に黒川は言った。
『貴女の姿をモデルにして彫りました、鼻筋や首の線がご自分に似ていると気が付きませんでしたか?』
『わたし?』
自分の首筋など気にして見た事など無いし、鼻筋が通っていようがぺちゃんこだろうが気にした事も無かった志緒は彫像をしげしげと見つめた。似ているのだろうか? 彫像の静謐な姿と自分を重ねても、志緒にはピンと来なかった。あの時の黒川の困ったような照れた様な表情を思い出し、志緒は一人の会議室でクスッと笑った。
……と、その時会議室のドアが勢いよく開かれた。
完全に油断していた志緒はビクッと小さく飛び上がった。
「常盤さん……どうしたんですかこんな所で?」
アシスタントの浅木だった。
「遅い昼食を摂っていたのよ、もしかしてここを使うの?」
「はい、園田タオル側の人数が多いとかで応接室が狭いと」
今日は愛媛の取引先の担当者が商談の為会社を訪れていた。応接室を使うと聞いていた為、ここで隠れて食事を摂っていたのだが……社内の人間とは言え、恥ずかしい所を見られたと志緒は内心慌てた。
志緒と同僚の石川、二人のアシスタントをしているこの女性は浅木と言い、何故か上司である志緒への対応がキツイ。石川への対応はやりすぎだと思うほど甲斐甲斐しいと言うのに。
窓を開けるのを手伝った志緒は、さっさとデスクに戻ろうと踵を反した。その時またドアが開き、石川が入って来た。ぶつかりそうになり体をかわすと軽く腕を掴まれた。
「おっとワルイ。常盤さんデスクに居ないと思ったら、やっぱりココで寛いでいたんですね」
「もう出ますので」
掴まれた腕を、思いのほか強く降り放した志緒は廊下へ出た。背後から石川の声が漏れてくる。
「あれ浅木さん気が利くね、早速来客の用意してるんだ」
白々しいセリフに志緒は少々ウンザリした、腕を握られた時にはゾッとするほど石川の事は苦手だった。以前から自分の容姿を鼻にかけた勘違いな言動が気になっていたのだが、少し前にアシスタントの浅木との不適切な関係を知ってしまってからは、増々苦手になっていた。志緒の中で石川と浅木は『個人的に関わり合いたくない人』のカテゴリに入っている。
社内恋愛は別に悪い事ではないが、社内で不謹慎な行為に及ぶのは良くない。年末の残業時に彼らの不適切な行為を偶然目撃した志緒は目を疑った、しかも石川は妻帯者だ。
「常盤さん、課長が会議に同席する様に言っていましたよ」
廊下を急ぐ志緒に石川が声を掛けた。
「え、私がどうして?」
「例の冷え取りシリーズ、園田タオルが企画発案した本人に会いたいって言ってきたみたいで」
『冷え取りシリーズ』は、志緒が企画したタオル雑貨だ。OⅬの仕事の合間に温もりと癒しを……と言うコンセプトで、温かくて糸くずが付きにくいひざ掛けや仮眠用の枕など肌触りと使い心地を大切にと、苦心して作り上げた商品で、デパートや雑貨ショップでの売れ行きは好調だ。
しかし、この商品は志緒の会社が提携している工場では製造が難しく、残念ながら今治タオルの最大手である園田タオルに製造を依頼している。こちらが依頼主とは言っても相手はタオル業界の最大手で、しかもタオル以外に食品製造を行う兄弟会社は調味料の国内シェアトップの会社だ。
実際はこちらが頭を下げて取引をお願いしている状況なのだ。
園田タオルからの客は、なんと社長と営業の責任者だった。企画営業室に入って来た客を目にした女性社員全員が息を呑んだ。
社長はまだ30代の男性で、非常に魅力的な外見をしていた。業界トップの園田タオルに新社長が就任したのは3年前、園田グループの会長となった父親の後任としてだった。
営業フロアを抜け社長室に向かう一行を、男女問わずフロアの全員が目で追ったのはいうまでも無い。
送別会の会場に遅れて入った志緒は、詫びながら入り口近くの空いた席に落ち着いた。来客の対応に時間がかかった為、遅れたのだった。
隣は志緒より年上の、数少ない女性の営業だ。早速今日の来客の話題を振って来た。
「園田社長が『冷え取りシリーズ』を企画した人物にかなり興味を持っていたらしいわね、常盤さんスカウトされなかった?」
手を小さく左右に振りながら志緒は否定した。
「顔が見たかったと……雑談の後は名刺を頂いて、今治に遊びにいらっしゃいとお誘いを受けただけです。課長もお誘いを受けていましたし、社交辞令ですよ」
「そう? それにしても見ごたえのある男性だったわね。田舎にもあんなに素敵な人が居るなんて、私愛媛に移住しようかしら?」
「まさか、本気で?」
二人で笑っていると、遅れて石川と浅木が入って来た。彼らには遅れる正当な理由は無いはずだが……悪びれず上座の空いた席へ向かう。それを見ていた隣の営業が意味ありげに志緒を見た。
志緒が彼らの扱いに困っている事を知っているのだ。
「常盤さんも大変ね、相棒とアシスタントがあれじゃあ」
首を振る志緒の表情を見ながら彼女は言葉を続けた。
「浅木さんは営業を希望しているのにいつまでもアシスタントどまりだから、企画と営業を楽々と兼任している貴女を妬ましく思っているみたいよ」
そうだったのか? と、志緒は意外だった。彼女はノンビリと0Ⅼ生活を楽しんでいるのかと思っていたのだ。
「私はやり手の課長に追い立てられて、仕事をこなすだけで精いっぱいなのに……近くで仕事をしていても理解されないものなんですね」
「常盤さんはデキる人だけど、そんなオーラを消しているから鈍い人には理解出来ないのよ」
……とんでもない。と、頭を下げながら、やるせない思いで志緒は目の前の料理に箸を付けた。
※※※
季節は変わり、そろそろコートの出番だと感じる事が多くなった……
相変らず黒川との文通は続いている。
あの時の、時間を下さい……と言う黒川からの申し出の理由は、夏の終わりに再会した折に知らされた。
元妻との間に思春期の娘が居る。そう聞かされた時に黒川の人柄を思い、何となく腑に落ちた。
『年に5~6回は会いに行ったりしている、アトリエまで来てくれることは無いけどね』
娘に会った後に、君に会いに行くのは何となく悪い気がするとも言った。『娘さんに対して?』そう尋ねた志緒に黒川は首を振った。
「君に会う事は『ついで』じゃ無いから。誰にと言う訳じゃ無く、僕は気まずいんだと思う。そんな自分を僕は、少々うっとおしく感じるよ」
『娘は難しい子だけど、時を選んできちんと話して納得してもらいたいと思っている』
付き合うだけなのに……そう思った志緒は、その時初めて気が付いた。黒川はもしかして自分との結婚まで考えているのではないかと言う事に。
今まで……仕事を辞めるとか、住んでいる地を離れるとか、まるで考えた事が無かった志緒はそう言う可能性に気が付いた途端に、何となく目の前がパーッと開けた様な、何故か明るい気持ちになった。
新しい生活とはどういうモノなのだろうか? 自分にはそれが出来るのだろうか? と。
北風一号が吹き荒れた晩、「山では少し雪が降ったよ」と電話で聞かされた。
「……思い出します。アトリエまでの道を」
「あれ程の雪になるのはまだまだ先だけど。そうだね、僕も思い出すよ。森の中で君を見つけた時の事を」
「睫毛の雪まで凍って……私あのまま死んでしまうんじゃ無いかと本気で思っていました」
「あの時、赤い紐の結ばれた木の側で君は呆然とした表情で僕を見た」
「はい。地獄で仏とはこの事かと」
「そんなに……」
「今日は止めておこう。とは思えなくて夢中で、ごめんなさい」
不安になるほどの間の後、彼は唐突に言った。
「電話で言う言葉では無いのだけど……」
「はい?」
「まだ正式にお付き合いも出来ない状況なのだけど、常盤志緒さん、いつか僕と結婚してくれますか」
「はい」
即答に志緒本人も驚いたほど、返事に迷いは無かった。
「僕は二度目で、貴女に森へ来てほしいと思っているのに?」
「はい」
無言の彼に志緒は重ねて答えた。
「私、黒川さんと一緒に居たいです。奥さんにして下さい」