聖母
常盤 志緒32歳、タオルの製造販売を行う中堅の会社に入社後、営業・企画を任されて10年がたった。仕事はソコソコやりがいが有るが……煩雑を極める業務に毎日追われ、有給は消化されずに消えてゆく。
楽しみと言えば、月に数回の出張で訪れる地方で時間をやりくりして少しでも旅行気分を味わう事、ただそれだけ。
恋人はいない、両親は遠く離れた地で暮らしている。
毎朝早起きをしてマンションの部屋を掃除し、ベランダの花には水やりを欠かさない。朝食はしっかり頂き、会社には弁当を持参する。週末出張と重ならなければ総菜を大量に作り、冷蔵庫に保管して美味しく頂く。
まるで修行僧のごとく、静かに穏やかに毎日を過ごす事で自分を保っていた……
辛い後悔が有る、一つだけ。
大切な人を泣かせ、一人で逝かせてしまった。
涙が枯れるほど泣いて十年以上が経ち、もう一滴も残っていないと思っていた。それなのに、あのギャラリーで聖母の像を目にした瞬間、後悔と悲しみの塊の一角が融けた。一瞬だけ。
だから、どうしても欲しい……そう思ったのだ。
『どうして僕の彫塑を欲しいと思われたのですか?』
週末の電話で、彫刻家はそう尋ねた。
スマホ越しに志緒は必死に言い募っていた。
『聖母像を毎日傍らに置いて、亡くなった人を偲びたいのです』
『……』
『湿っぽい事情で申し訳ありません……どうぞ是非制作をお願い出来ませんでしょうか?』
『わかりました。時間がかかりますが、お作りしたいと思います』
『あっ、ありがとうございます』
『あの……』
『はい?』
『いや、なんでもありません。それでは完成したらまたご連絡致します』
スマホ越しの彼の声は静かで、まるで彼方から聞こえてくる波の音の様に聞こえた。
とても好ましい声。
何時になるかはわからないが、彫像が自分の手元にやってくる。そう思うだけで、気持ちに張りができた。
そんな楽しみを待ってウキウキする自分を嗤う。でも、本当に楽しみで待ち遠しかった。彫像を迎え入れて毎日お祈りをした所で赦されるなどとは思っては居なかったが。
そんな日々を過ごして半年、真冬の出張先で彫刻家からの連絡を受けた。
「常盤さんですか?」
「はい、常盤です」
「黒川です、彫刻家の」
「……あっ、はい。こんにちは」
「こんにちは。ご依頼の作品が完成したので、ご連絡をと」
2月の第一の週末、志緒は作品を受け取るべく四国に向かった。JRで伊予西条駅に降り立ち、レンタカーを借りて寒風山を目指した。
バスもあるそうだが、日に数件と言う路線では、いつたどり着けるかわからない。この週末の寒波は最高潮に達しており、駅でも雪が舞っていた。
市街地から山里に入り長い上り坂を走る事20分、迫ってくる山はすっぽりと雪に覆われており、その荒削りな美しさと迫力は志緒を圧倒した。
スタッドレスタイヤを装着していても、雪の道路はハンドルさばきが難しく怖かった。それでも途中の民家はいかにも山里の家と言う見慣れない雰囲気で、一気に旅行気分が上る。
ゆっくりとした速度の為、登坂車線をひたすら走った。長すぎるほど長い(約5キロ)トンネルを抜けると、またどっさりの雪、雪、雪。
レストランと温泉宿を併設した道の駅にやっとの思いで辿り着き、彫刻家のアトリエ辺りへの道を尋ねた。
「車なら2~30分くらいでたどり着けるけど……」
と、売店のオジサンの表情は暗い。
「分かりにくい所ですか?」
「慣れない人には車は無理だな、崖から転落するかもしれないからね。歩きの方が林を抜けるしマシだ」
「林?」
聞くところによると、道の駅の裏山を昇り抜けた場所にアトリエは有るらしい。車ならここから先はスタッドレスタイヤでも危険で、歩きなら林を突っ切って進むので安全なのだそうだ。彫刻家も時々林を抜けてこの温泉にフラリと訪れるらしい。
「赤い紐が括りつけてあるから、昼間なら迷う事は無いよ。あんた長靴は?」
持っていないと言うと、オジサンは奥から赤い長靴を出して来た。
「これを貸してあげるから履いて行きな。車はここに置いてけばいいよ、帰って来たら温泉に入って今夜は宿泊施設に泊まりなさい」
志緒の為にレストランの女性が特別にコーヒーをマグに淹れてくれた。
「寒いからこれを……お気をつけて!」
マグカップを手渡しながらコーヒースタンドの女性は志緒に尋ねた。
「どうして今日なんでしょうね? こんな大雪の中」
「約束ですから」
決死の覚悟で雪道を行く割には悲壮感はなく、微かに微笑んだ志緒を、関わった店のスタッフは心配そうな表情で見送った。
『ここ数日は雪の予報が出ていますので、天気のいい日を選んでいらしてください。くれぐれも無理はなさらない様に……』
宅配便で送る事はしないと言う彫刻家は、急ぎで無ければ1か月後に近場まで行く用事が有るので手渡しが出来ると言ったが、志緒はアトリエを訪ねる事を選んだ。
無理はしない様にと言われているのだから、こんな大雪の日なら『今日は雪が深くて行けそうに有りません』そう電話すればいい事だ。
なのに、なぜか志緒は無理をしてでも向かいたかった。そうでもしなければあの聖母を受け取る資格がない様に思えたのだ。
そんな風に自分を虐める事をいい加減止めなくては……といつも思っているのだが、それについては後伸ばしにしようと雪に足を取られながら考えていた。
静かに、怖いくらい静かに雪は次々に降ってくる。
こんな知らない土地で無防備にもほどがある……と言うことは自覚していた。雪まみれで訪れた客を彫刻家はどう思うだろうか?
しかしそれも、たどり着ければの話。このまま遭難するかもしれない。
もう今が何時なのか、朝なのか昼なのかそれとも夜なのかもわからない。
ただ雪に埋もれた道を赤い紐を頼りに進んでいた。ダウンコートのフードを縁取るファーが隠してくれているはずの頬には、すっかり感覚が無い。手も凍ってスマホを取り出す事も出来なければ、温かいコーヒーをバッグから出す事も忘れていた。
ザックザックザック……静かな林の中、自分の足音だけが聞こえる。後は無言の雪と枝の音、鳥は隠れているのか全く鳴いてもくれない。
このまま死ぬまで歩き続けなければいけない、そんな妄想まで浮かんできた……その時、自分の足音とは明らかに違う物音が耳に入って来た。
赤い紐の付いた細い幹を掴み、辺りをキョロキョロと見渡す。
動物では無い……近づいて来る足音はとても規則正しく、多分人間のものだ。
『あぁ、人だ、よかった』
すっかり遭難気分だった志緒は、嬉しさのあまりヘナヘナとその場に座り込んだ。
やがて大柄な人影がゆっくりと近づいて来た。目の前に立った人物の全身は黒く、なにかを喋っている。
「……さん?」
黒い影の声を聞こうとフードを外した志緒の耳に、少しかすれた声が響いた。
「常盤さん、ですか?」
「はい……常盤です」
「黒川です。立てますか? 家はもうすぐそこですから、がんばって歩いてください」
「えっ? はっ、はい。黒川さん……?」
志緒の腕を取った男性は彫刻家本人で、なぜここに居るのかと訳が分からなく混乱する志緒に、手短に説明をした。
「道の駅から連絡があったんですよ、心配だから迎えに行ってくれと。まさか本当に今日いらっしゃるとは思いませんでした」
志緒は恐縮しながらも、本気で有難かった。あまりの雪深さに心が折れそうになっていたからだ。
黒川に腕を取られ雪道を暫く進む。林を抜けた先に、茶色い屋根の建物が見えて来た。
真っ白い世界の中、バックに石鎚山系の峰々を従えた建物はとても小さく、とても可愛く見えた。
家の玄関までたどり着いた志緒が後ろを振り返ると、まっ白い雪の中、二人分の足跡が黒い林から続いていた。その画は、写真に残したいと思うほど綺麗だった。
木のドアを開けて玄関に入ると、そこには真っ白い壁。壁の途中にある木のドアは開け放たれていて、一段下がったそこは工房の様だった。
「クツのままどうぞ」
工房を過ぎ、細長い廊下を進むと温かいリビングがあった。
「暖炉の側で温まって下さい。いまお茶を持ってきますから」
黒川がキッチンに消えると、志緒はまっすぐ薪ストーブの元に走った。
ダウンジャケットと手袋、それにニット帽を脱ぎ木のスツールに置くと、ストーブの前で座り込んだ。
『あったかい……』
カチコチだった体が、ストーブの熱で溶けていく。今、自分の体から白い湯気が出ていたとしてもおかしくないだろう、と思った。
柱時計を見ると、道の駅を出発して1時間も経っていなかった。志緒の中ではもう2~3時間くらい経過している感覚だったのに。
温かい紅茶を受け取った志緒は、礼を言うとふーふーと冷ましながら口を付けた。喉から食道、そして胃へと温かい液体が染み渡った。
そんな志緒の元に、黒川が白い箱を大切そうに運んで来た。
少し離れた一人掛けのソファーに腰を落とすと、ストーブの前で座り込んでいる志緒に顔を向け、頷いてソファーに腰掛けるようにと促した。向いに腰を掛けた志緒に微かに微笑むと、蓋を開け30cmほどの大きさの生成の布に包まれた物を取り出した。
ゆっくりと布を剥ぐ黒川の手元を志緒はじっと見つめた。期待と、微かな興奮と……
聖母の様に美しい像の表情を見た時、感動で小さく身が震えた。
それは、550mlのペットボトルくらいのサイズで、ズシリと重かった。
ベールを被った華奢な女性は目を閉じて俯いている、細面の顔は優美で胸の前で組まれた手を隠したベールは足元まで続き、細い躰を包んでいた。
像を手にした感動を伝える語彙も無く、また伝えるには思いが個人的すぎて憚られた志緒は、2度3度うなずいて黒川を見た。
「ありがとうございます、毎日手元に置いて眺めます」
封筒にキッチリ入れた代金を確認もせずに引き出しにしまった彫刻家は、彫像を大切にバッグに仕舞った志緒を送ると言った。
念願の像を手に入れて志緒は夢見心地だった。しかしそんな気分に酔っていたとしても、道の駅までの距離は縮まるものでは無い。
首を振る相手から一歩も譲らない彫刻家は、コートと長靴を取り出し支度を始めた。
「この時間なら帰りは暗くならないから大丈夫です。行きましょう」