守護
「よくいらっしゃった」
「おかえり」
長い間実家に帰る事も無かった娘が、男性を伴って帰って来たのだ。両親は、嬉しさと、いくばくかの不安な気持ちを抱いて2人を迎え入れた。築40年の小さな家は、質素ながらも居心地よく整えられていた。久しぶりに実家に帰った志緒は、今日は懐かしさよりも、緊張の方が強い。反対に、ソファーに揃って座っている黒川の方がよっぽど落ち着いている。
志緒が「結婚を考えている人です」と黒川を紹介すると、母親は「やっぱり!」と、笑顔になった。
なれそめを聞かれ、作品を購入したのが縁で今に至ると志緒が説明した。それからは、自己紹介を兼ねた雑談から、会話は黒川の個人的な生活へと移った。
職業や住まいを聞いた両親は多少戸惑っていたが、志緒が問題は無いし、自分は進んでそこに住みたいのだと話すと頷いた。また、黒川が離婚を経験して思春期の娘が居ると話すと、両親は心配顔になったが、食事会で会った娘の印象を志緒が話すと、2人は安心したのか笑顔を見せた。
「志緒は黒川さんの娘さんと気が合ったのね?」
母親の問いに、志緒は大きく頷いた。
「ええ、とても。優しくて、それでいて賢い娘さんだったわ。会えて良かった……」
ずいぶんと長い時間話こんでいた。テーブルの上の紅茶のカップは空になっている。ふと訪れた沈黙が合図の様に、黒川は居ずまいを正すと志緒の両親に頭を下げた。
「2人で幸せになりたいと思っています。志緒さんは僕にとって、無くてはならない人です。どうぞ結婚をお許しください」
「私らが許すも許さないも……どうか、志緒を頼みます」
父親がそう答えると、母親は身を乗り出して黒川に問いかけた。
「あの……お聞きしてもいいですか?」
「はい」
少しだけ心配顔の母親は、志緒と黒川を交互に見た。
「なれそめは、志緒が黒川さんの作品を買ったからだと言われましたが……」
「ええ、そうです」
「他にも作品を買われた方は、大勢いらっしゃいますよね。志緒の何が、黒川さんに結婚を意識させるほどの強い印象を与えたのでしょうか?」
黒川に横恋慕していた義妹にもそう尋ねられた。やはりそれは皆不思議に感じるのだろうかと、志緒は思った。
母親の問いに、黒川は優しい表情を浮かべて答えた。
「ある意味、2人の心情に及ぶ事なので多くは語れませんが……実は、知り合ってしばらく文通をしました。なぜか自然とそう言う事になったのですが、その中で志緒さんは、とても個人的で大切な事を僕に教えてくれました」
そう言った黒川は、志緒に視線を向け目で尋ねた。志緒は、姉の話をするのだとわかった。だから小さく頷いたのだ。
「志緒さんに、何故僕の作品が欲しいと思ったのかお聞きした事がありました。すると、彫像を毎日傍らに置いて、亡くなった人を偲びたいと仰ったんです。僕はそれを聞いて、直ぐに制作を快諾しました。そして自分から聞くのは憚られましたが、亡き人と志緒さんの間に、どんなストーリーがあったのか知りたいと思ったのです」
「ああ……」
母親は口元に手をやり、漏れそうになる声を殺した。母親の目を見つめて黒川は話を続けた。
「文通を続ける間に志緒さんは、お姉さんの事を教えてくれました。自分の我儘で、大切な人を泣かせ一人で逝かせてしまったと」
「雅代……」
母親は志緒の姉の名を呼びながら、流れる涙を両手で受け止めていた。志緒はバッグの中からハンカチを出し母親に手渡した。
「これ、使って」
受け取ったハンカチで涙を拭く母親に、黒川は声を掛けた。
「泣かせてしまって申し訳ありません。やはり話すべきでは無かった」
「いいえ、そんな事はありません。志緒の大切な方の口から雅代の話を聞いて私は、私は嬉しかったんです。そんな事までちゃんと話していたのかと……」
「お母さん……」
「……志緒、お前は葬儀の後から、人が変わった様に無口になってしまって、雅代の話題を無理に堪えている様だった。だから……私達はそれで、随分と心配したの」
「ごめんなさい……」
母親の言葉に志緒は俯いた。その眼には涙が浮んでいる。黒川は、「せんえつですが」と前置きした上で会話を続けた。
「彼女はご両親を気遣うあまりに、お姉さんへの想いを口に出来なかったのではないでしょうか。雅代さんが亡くなられた時、ご両親も志緒さんを責めなかったとお聞きしています。僕はその話を聞いて、志緒さんもご両親も互いを思うあまりに、ご自身を責めていらっしゃったのでは無いかと思ったんです。部外者にも関わらず僕は……志緒さんとご家族の、不器用すぎる優しさに胸を打たれたんです」
「……」
しばらく誰も言葉を発する事が出来なかった。
亡くなった娘の存在に導かれる様に、志緒が黒川と縁を結んだ事を聞いて、両親は胸が揺さぶられる様な喜びを感じた。志緒もまた、黒川の想いを知って、胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます……」
志緒の父が、かすれた声で呟いた。
「雅代は……あの子は哀れな子でした。子供の頃から運動を禁止され、病状が悪化すると入退院を繰り返しておりました。それでも……亡くなった時、私たちは出来得る限りの事をしてやったのだから後悔は無かったんです。それよりも、長い間母親を雅代にとられ、亡くなってからは、悲しいと言う感情を仕舞いこんでしまった志緒が可哀想で……」
黒川の隣で涙を流す志緒に、父が声を掛けた。
「志緒、お前にずいぶんと寂しい思いをさせていたね。ごめんよ」
「ううん、そんな事……」
父親の言葉に、志緒はただ涙を流し首を振っていた。
実家から駅へと向かう道すがら、志緒は懐かしい場所を通りかかった。子供の頃によく遊んだ公園だった。夕方だからなのか、遊ぶ子供は一人も居ない。志緒は中に入ると、ブランコに乗った。
「このブランコでよく遊んだの。いつも争奪戦だったわ」
傍らで笑う黒川に、志緒は思い出話を続けた。
「じゃんけんで勝つと乗れるんだけど、私はじゃんけんに弱くてね、指をくわえて友達を見ている事が多かったかも」
ふふふ……と笑った志緒は、ふと公園の入り口を見た。そこには誰も居ない。
「お姉さん……」
「え?」
志緒の視線を追っていた黒川は、その呟きにふり返った。
「思い出した……家に帰るお姉さんが、ブランコで遊ぶ私を見つけては、よく手を振ってくれていたわ」
「うん」
「お姉さんはゆっくりと歩くの。だから私よりも帰宅が遅かった。それで……」
「うん?」
「……お姉さんもブランコで遊びたかったでしょうね。でも、一度も遊ぶ事は出来なかった。走る姿を見た事も無かった。いつもバタバタと煩い私を叱る事もせずに、ニコニコと笑って見ていたわ」
「可愛かったんだよ、志緒が。大事な妹だったんだ」
「ええ、ええ……私は姉に愛されていたのね」
「うん。ご両親にもね」
「ええ……」
***
実家での優しい時間を過ごした後、2人はそれぞれの自宅へ戻った。
「じゃあ。3週間後だね」
「ええ。3週間たったら、私行きます」
「待っているよ」
短い会話の中には、2人の想いの全てがこもっていた。
会社では、退職までの引継ぎや挨拶回りで、てんてこ舞いの日々が続いた。
「あ――あ、寿退社なんて時代錯誤な事をしてくれちゃって、迷惑だわ」
志緒の退職に伴って、仕事の増えた浅木は、聞こえよがしに悪口を言う。社内でそれに同調するものは居ない。
志緒は退職にあたって、結婚相手の事を上司にだけ報告したが、周りにそれを吹聴するつもりは無かった。だから、物理的に退社するしか道が無い事など誰も知らない。それでも、昨今では珍しい寿退社を、他の社員たちは祝福した。
以前にも増して当たりの強い浅木を、退職までやり過ごそうかと思っていた志緒は、我慢をしながら仕事をこなした。
仕事もあと数日となったある日、外回りから戻った志緒がノートパソコンを開くと、シャットダウンしていた筈の画面がスリープ状態になっていた。不思議に思いデーターを確認する。ふと、デスクトップに仮置きしていた後任者への引継ぎフォルダが消えている事に気が付いた。ゴミ箱をクリックしたが、そこにも無い。自分の操作ミスで、フォルダを消去したのでも無さそうだ。茫然と画面を見つめる志緒の隣で、浅木が声を掛けてきた。
「どうしたんですか、ぼーっとして。仕事中に幸せボケとか、止めてくださいよ」
浅木は笑顔を向けていたが、目が笑っていない。普段からログインしやすいようにとパスワードを短いものに設定していた志緒は、それを読まれてパソコンにログインされたのだと思った。そして、大切なフォルダを消去された。
浅木だとは断定できないが、フォルダが無くなった事、それから今まで浅木の行動で気になっていた事を、やはり課長には話しておくほうが良いと判断した。
「課長、ちょっとお時間頂けますか?」
「お、会議室行くか?」
世話になった上司だ。それに、自分が居なくなれば、浅木は標的をまた見つけるに違い無い。
「引継ぎの為のデーターがPCから消えました。だれか私のデスクで作業していた人物は居ましたか?」
会議室の椅子にゆったりと腰を掛けていた課長は、はて……と首を傾げた。
「……石川がお前の席で浅木と打ち合わせをしていた様に思うが、会議が入っていたからなあ、俺も席を外していた。根こそぎ消えたのか?」
「会社のPC上では……じつは自分のデーターは全て外部媒体にバックアップを取っています。実害は無いのですが……」
志緒は浅木と石川の不適切な関係について上司に話をした。そして、浅木の態度についても話した。意外な事に、上司は全て知っていた。知っていて泳がせて居たのだと言う。
「実は、彼らの出張経費が不正請求されていてな。今裏を取っているんだ」
「えっ」
「常盤が彼らに関わって大変だとは知っていたんだが、言う訳にも行かず、悪かったな」
上司はそう言って苦笑した。では、自分が辞めた後に浅木から迷惑をこうむる社員は無いという事か……志緒はホッとした。そして、少しだけ胸がすく思いがした。
「悪い事は出来ないものなんですね」
志緒の呟きに、上司はニヤリと笑い、こう答えた。
「常盤よ。反対に良い事をすれば、やっぱり見ている人はいるってモンだ。お前に近々、いい話が舞い込むだろうよ」
「私、いま十分に幸せですけど?」
「だろうな。お前には欲が無い」
退職の日、引継ぎデーターを求めた浅木に、志緒は冷静な声で、課長に尋ねる様に話した。満足な引継ぎをせずに辞めるのかと罵声を浴びせようとした浅木は、石川共々上司に呼ばれ営業フロアから追い立てられた。
残った社員から労いの言葉を掛けられ、花束を贈られた志緒は会社を後にした。
浅木と石川の事を思うと嫌な気持ちになったが、自分にはどうする事も出来ない事だ。仕方が無い、そう思った。黒川に出会う前の志緒なら、同僚の陰湿な行動に平静を保っていられたか自信は無い。しかし、それも終わった。
志緒は小春日和の空を見上げて、微笑んだ。
その夜、帰宅した志緒は、郵便受けに一通の封書を見つけた。相手は以前会社に来ていた園田タオルの社長からだった。
手紙には、志緒と企画デザイナ―として契約をしたいと記してあった。上司の言った『いい話』とはこの事か? 志緒は、驚きと共に笑いがこみ上げてきた。上司の、ちゃめっけの有る笑顔を思い出したのだ。
レンタカーでレストランと温泉宿を併設した道の駅に辿り着いた志緒は、一面の銀世界に眩暈がしそうだった。3月も終わりになったと言いうのに、この雪は……。
以前と変わらぬ従業員が、気の毒そうに声をかけて来る。
「どうするね、歩くかね? 今なら遭難はしないと思うが、あんた長靴は?」
その問いに志緒は笑顔で答えた。
「はい、持って来ています。前回は貸してくださってありがとうございました」
「ああ、やっぱり! あんたかね。去年もこんな大雪の日やったねぇ。今日も黒川さんの家に行くのかね?」
「はい、行きます」
荷物を車に残し、志緒は防寒着と長靴で武装して雪道に立った。
「気をつけていきなはいよ」
見送られて一歩進む。去年の様な悲壮感はまるで無い。
「志緒」
少し歩くと、耳慣れた恋しい人の声がした。
森から現れた黒川も防寒着と長靴だ。一気に近づくと、志緒をギュッと抱き締めた。
「直人さん、はっ恥ずかしいです」
「良いよ、誰も見ていない」
「だって……」
恥ずかしがる志緒を、黒川は目を細めて見つめた。その視線は甘い。
「さ、帰ろうか」
「はい」
森へ……
そうして2人の足跡は森の家へと続く。