雨
嫌に鼻につく、砂利まみれの雑草をすり潰したような臭いと、地平線の向こうまで立ち込めていそうな暗い空気で、下を向いたままでも一雨来そうなのが分かる。
あの街をいきなり飛び出して全力で逃げてきた私は、どことも知れない砂漠の砂の上を歩いていた。
ゆっくりと手前に流れていく地面は色がほとんど分からないほど暗く、もうすっかり日が沈んでしまったことを私に教えてくれる。
踏み出す度に砂に沈み込む自分の足を感じながら、絶望とも後悔ともいえない黒い感情に押しつぶされそうになりながらも、今はただただ歩き続けるだけだ。
もう引き返すことはできない。
私は何をしているのだろうか。
三人で協力して泊まれる家を捜そうとしていたのに、私があんなことしてしまったら、もう二人ともどこにも泊まれないだろう。
大体、男の人たちに襲われそうになったくらいで街を壊すような危険な女を、あの二人が受け入れてくれるわけがない。
いや、普通そうか・・・
明日、あの街を出発するとしても、菊池君は妄想力がないから、車の運転は多分樹君がすることになるだろう。
そんなことになったら、もしかしたら二人とも死んでしまうかもしれない。
そうでなくとも、もう旅はできなくなるだろう。
私のせいで。
私のせいだ。
いきなり地面が激しく白色に発光した。
驚いて上を見上げようとした瞬間、
パーン!
空気が震える程の凄まじい雷鳴が鳴り響き、すぐ横の木に雷が落ちて真っ赤に燃え上がった。
あまりの光景に思わず悲鳴をあげそうになるが、そんな元気はもう残っていなくて、私はヘナヘナとその場にしゃがみ込んでしまった。
そこに容赦なく雨が降り注いだ。
体が地面にめり込みそうなくらいの雨粒を受けて、数時間ぶりに体の感覚を思い出す。
辺りは雨粒が地面を打つ音だけになった。
私は独りだ。
せっかく退屈な日常から解放されたのに。
やっと理想の世界に来られたのに。
周りなんて気にせず自分の好きなようにいられると思ったのに。
あの二人と一緒にいられると思ったのに。
なんで、どうしていつも私の理想は壊れてしまうんだ。
誰が壊すんだ。
わたしだよ。
・・・黙れ。
黙れるわけないでしょ?
わたしはあなたなんだから。
違う。
いいかげん受け入れたらどうなの?
どうして拒絶するの?
わたしはあなたが一番不満に思っているものの、かたまりなんだよ。
うるさい・・・
前からずっとあなたの中にいたけど、ここ数年で異常に私は大きくなった。
あなたと会話ができるくらいに。
そう、あれが出てきてからだよね。
やめろ・・・
あなただってほんとは気が付いてるんでしょ?
自分が寂しがってるってことぐらい。
・・・
変にプライド持って、周りがつまんないとか言い訳して、ほんとはこわいんだ。
他人のことを知るのが。
自分のことを知られるのが。
・・・
だから全部壊したいんだ・・・!
・・・やめろ
やめられるわけないじゃないか、こんなにおもしろいこと。
自分の気に入らないもの、自分を苦しめるもの、自分を虐げるものを壊してしまうんだ!
全部!
全部!!
ずっと長い間そうしたかったんだろう!?
だからわたしは大きくなったんだろう?
そして壊した!
欲望と怠惰に満ちたあの故郷を!
樹君の大切なひとを奪ったあの男を!
悪人だらけのあの街を!
違う!!
違わない!
あの男たちに体を触られたときどう思った?
周りの見て見ぬふりの連中をどうしてやりたいと思った?
ただ耐えることしかできない自分をどう思った?
あなたはわたしが出てくるのを望んだんじゃないのか?
・・・違う
ああ、春休みに菊池君を追いかけまわしたときは楽しかった。
わたしの世界に勝手に入ってきた他人が、あんな風に必死に逃げ隠れしているのは痛快だった!
リアルに復讐した気分になれた!!
・・・でも、少し安心もしたんだ・・・
・・・
ドラゴンはわたしだ。
ドラゴンは私だったんだよ。
私はドラゴンに追いかけられていることにして、日常を破壊していたんだ。
きっとそうなんだろう?
違う・・・!あんなの私じゃない・・・
・・・
・・・
「・・・、・・・」
頭の中に響き渡る雨音の中に、微かに雑音が混じっている。
「・・・!・・・!」
朝、目覚める時に、夢の中に鳴り響く目覚ましの音にどこか似ている。
「・・・ぎり!・・・い!」
何の音かはわからないが、きっとこの音についていけば何かが変わる。
そんな気がする。
顔を上げると、そこには菊池大樹がいた。
雨に濡れて、所々が弱々しく燃える木の光に照らされて、雨に濡れた顔の半面が僅かに赤くなっている。
・・・何かを必死に伝えたいらしい。
さっきからずっと私に何かを叫び続けているようだが、雨音が激しすぎて必死に口パクをしているようにしか見えない。
私が耳を近付けると、しばらくドギマギしたようだったが、やがて観念したように話し出した。
耳を澄ませ、菊池君の声に集中する。
「か・さ・だ・し・て」
かさだして・・・
傘出して?
よく目を凝らして見ると、菊池君の手にはボロボロの、ほとんど骨組みだけになった傘のようなものが握られていた。
・・・どうやら、こいつは自分の貧弱な妄想力で傘を作り出してみたものの、雨がひどすぎて使い物にならなくなったところで私を発見し、現在助けを求めている、ということらしい。
思わずため息が出てしまった。
助けに来て第一声が「傘出して」って・・・
樹君でも「迎えに来た」くらい言うぞ・・・多分。
絶え間ない雨にさらされ続けている炎は、その最後の輝きを存分に放ち、私と菊池くんの影を微かにゆらめかした。
本当にダメな奴だ、菊池君は。
だけど、だからあの時安心したのかな・・・
私はようやく立ち上がり、大きな水色の傘を出して(暗いから色はわからないけど)、菊池くんを置いて歩き出した。
正直もう誰とも話したくなかったし、誰の側にもいたくなかった。
この先もし生きていくことになったとしても、一人でいようと思った。
もうこんなにびしょ濡れになったら傘なんて刺しても刺さなくても変わらないかもしれない。
もう消える。
最後の残り火が、消える。
真っ暗になる。
怖い。
私は今どこを歩いているのか、真っ直ぐ歩けているのか。
それどころか自分が立っているのかさえ分からない。
暗闇が怖いんじゃない。
自分が本当にいるのかわからなくなるのが、怖い。
私は確かにいるはずだ。
私は今、怖い怖いと思いながらも歩いているはずだ。
なんども自分にそう言い聞かすけれど、もうだめかもしれない。
もう歩けない。
もう進めない。
寒い・・・
不意に私の手を何か温かいものが包んだ。
その温かさは私の手からゆっくりと全身へと伝わり、凍りついていた私の体をじんわりと溶かしていった。
「一緒に帰ろう、片桐。」
優しい声が、隣から聞こえてきた。
私はこの言葉を聞いたことがある。
そう、樹くんに初めて声をかけられた時だ。
あの時、私はちょっとだけ救われた。
今もその言葉を私に送ってくれる人がいる。
こんなに暗くても、こんなに寒くても、こんなに拒んでも、側にいてくれる。
きっと誰かが、私に優しさをくれる。
私は生きている。
何かが心から溢れ出して、冷たくなった頬に流れた。
懐かしい、温かさだ。




