聴罪司祭と血みどろ判官(前編)
イネスは、アンセルム司祭を敬愛していた。
司祭の地位にありながら驕ることなく、老いてなお精力的に神の教えを実践している高潔な魂の持ち主。
誰からも愛されるというのは、まさに彼のためにあるような言葉だと思う。
今はまだ侍祭の身にすぎないイネスにとって、アンセルムは憧れであり高い目標なのだ。
先日届いた異動の指示を、残念にすら思う。
イネスは近日中にアンセルム司祭の元を離れ、帝国に戻らねばならない。
念願だった、正教会本庁で務めに励む機会を得たのだ。
稀有な光栄に浴したことは頭ではわかっているが、イネスの本心はここに留まりたかった。
「司祭様、馬車の準備が整いました」
「ご苦労。では、向かうとしよう」
馬車の行き先は、王都の北端にある大監獄だ。
祭具が入った鞄を持って、イネスも馬車に乗り込む。
今日はアンセルム司祭が聴罪を行なう日だった。
聴罪とは死刑を言い渡された咎人の言葉に耳を傾け、回心の機会を与えること。
死が間近に迫り不安に襲われている者たちに、せめてもの情けをかける措置だ。
イネスはこの時間が憂鬱だった。
そもそも正教会の発言力が強い帝国では、教会法により死刑そのものが禁じられている。
応報は神の教えに背く行為だからだ。
しかし帝国の外に目を向けると、王国のように死刑が行なわれている土地は多い。
「司祭様。国が民の命を殺めるのは、如何なものでしょうか」
馬車に揺られて、日頃から思っている不満がつい口から溢れてしまう。
思慮深い司祭は、白く伸びた髭を撫でながら侍祭に問いかけた。
「イネスは優しいのう。本日これから聴罪するのは、峠道を行く数多の男を殺し、数多の女を犯した山賊たちだと聞く。そんな罪深い者たちであっても、お前は死罪が相応しくないと思うか」
「はい。彼らとて人の子、道を間違えることもありましょう」
司祭は「ふむ」と言ってから、突飛な名前を出した。
「それが、血みどろ判官でもか?」
血みどろ判官。
近頃、帝国を騒がしている連続猟奇殺人犯だ。
無差別に目をつけた獲物の家に忍び込んで惨殺した後、犠牲者の屍骸をバラバラに損壊させ辱めるらしい。
犯人を見た者が居ないので噂に尾ひれがついて、怪談じみた荒唐無稽な話が広がっているのが王国にまでも聞こえてくる。
その正体は悪魔だとか、馬より速く走るとか、被害者の判決文を血糊で書くとか、月桂樹の香りが嫌いだとか、様々だ。
アンセルムは老人らしからず、流行に敏感だ。そんな司祭の一面を見るたび、イネスはいつも可笑しくなる。
「血みどろ判官ほどの大罪人なら、赦すことは適わないかもしれませんね。であるならば、生涯ずっと牢に入れておけば良いではありませんか。殺してしまうのは、あまりに無体です」
帝国の常識が染み付いた若者にとって、諸外国の流儀はたいそう野蛮なものに見えるのだ。
「国が法理を持って罪人を殺めるのが無体であるなら、法も理もなく無罪の人を殺めた者は、より無体であると言えんかのう?」
「それは……そうかもしれませんが……」
返答に窮して、居心地が悪そうに下を向くイネス。
「お前は真っ直ぐだな、イネス。まるでルクレーシャス枢機卿のようじゃ」
「そんな! もったいない事です!」
帝国内でも信奉者の多い、高名な聖職者に例えられて恐縮する。
ルクレーシャスは、教会法に特別厳格な事で知られる枢機卿だ。
布教活動にも注力しており、異教徒を改宗させる手腕は随一と言われている。
「お前の考え方が枢機卿だとするなら、儂の考え方は法王猊下に近い」
「法王猊下に!」
同時代を生きる偉人を二人も引き合いに出され、イネスは目を白黒させた。
「法王猊下は、信仰とは無理強いであってはならないと仰っておる。帝国には帝国の、諸外国には諸外国の法がある」
「正しいのは神の御言葉に基づいた教会法だけです! 帝国のように教会法を採用すれば、非人道的な刑罰はなくなるのに……」
「無論、教会法が正しいのは疑うべくも無い。しかし、他国に強要されれば反発も出よう。正しさだけで人の心は動かん。いや、正しいのであれば尚更、時間をかけてゆっくりと相手を納得させなければいかん」
そんなものだろうか──とイネスは思ったが、だからと言って近付いてくる石造りの大きな建物への嫌悪感が消えるわけではない。
「そろそろ到着じゃな」
大監獄の門扉が開き、二人の聖職者を乗せた馬車はその中へ吸い込まれて行く。
処刑を前にして、山賊たちは個別の独房に収監されていた。
獄卒はその飾り気のない寒々とした部屋に、侍祭を連れたアンセルムを案内する。
罪人は板に穴をあけた簡素な手錠で拘束されているため、暴れたり司祭を害する事はできない。
このような状況になった時、囚人の反応はだいたい決まっている。
「助けてくれ司祭様! 俺はまだ死にたくねえよ!」
自らの運命を受け入れず、否定する者。
「俺は一人も殺ってねえ! 全部、頭目のファーガスが悪いんだ!」
見えすいた嘘で他人に罪をなすりつけ、自分だけは助かろうとする者。
「死んだらどうなるんだ……? なあ司祭様、祈ってくれよ! 地獄になんて行きたくねえよ!」
死の恐怖に怯え、今さら信仰に縋ろうとする者。
中には悪びれず、汚い言葉を喚き散らし、不敵な笑みを浮かべる者も居る。
だがそのような態度をとっていても、刑場がある中庭まで自分の足で歩いて行ける者は稀だ。
たいていは腰が抜けて脚が震え、両側から獄卒に抱えられて刑場へ向かう。
虚勢を張って自身を鼓舞してみても、差し迫った処刑への恐怖は常人には克服できないのである。
アンセルムは山賊たちの話を親身になって聞いてやり、その後で魂が天に召されるよう儀式まで執り行なってやった。
そんな慈愛に満ちた司祭が、イネスは誇らしい。
やがて山賊たちは全員刑場に引き出され、目隠しと猿轡をつけられた状態で跪くよう促された。
司祭が落ち着かせた甲斐あって、皆、神妙に断頭の時を待っている。
覆面をつけた巨漢の処刑人が、大斧と共に姿を現わした。
もうじきだ。
もうじき全てが終わる。
「連中も心細いじゃろうから、儂が最後にひと声かけてこよう。イネスはここで待っていなさい」
中庭に面した控え室で待っていた司祭が、そう言い残して刑場に向かった。
若い聖職者は、司祭を待ちながらギュッと目を瞑る。
これからこの大監獄の中庭で、身も毛もよだつ恐ろしい事が行なわれるからだ。
早く終わってくれ──と思う。そうしたら後ろを振り向かず、司祭を連れて一目散に帰るつもりだ。
もう終わったか? まだなのか?
薄っすら目を開けて刑場に視線を向けると、ちょうど司祭が山賊に言葉をかけている光景が目に入る。
するとそれまで神妙にしていた罪人たちが、急に身を捩り始めた。
大声を出す者も居るが、口には猿轡が噛ませてあるので言葉にはならない。
何を言ったのか気にはなったが、そこで処刑人が大斧を振り上げたので侍祭は慌てて顔を背けた。
イネスには、知る由もない。
敬愛する司祭様が罪人たちにかけた最後の言葉が、「お前ら全員、地獄行きじゃな」だったなどとは。