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嘔吐と棄教と優しい世界

 何をするのも嫌だった。

 誰とも話がしたくなかった。

 周囲の者たちは彼の助けになろうと心を配ったが、彼が望んでいるのは放っておいてくれる事だけだ。

 出来るなら沈没船にでもなって、深い海の底でゆっくりと朽ちていきたい。

 光の届かぬ静かな海底にじっと横たわって居られたら、どんなに良いだろうと彼は思う。


 病室にまた、看護人が入って来た。

 入院患者が安静にしているか、様子を見ているようだ。

 置いてあった食事は、昨日から減っていない。

 躊躇ためらいがちに何か言葉をかけたが、彼は返事をせず寝台ベッドに寝転がったままだ。


 返事をしない理由は、億劫おっくうだから。

 口を開いて、声を出す。それ自体は至極しごく簡単な行為だ。

 しかし会話というものは、口と喉を使うだけで出来るものではない。

 相手が言う事を耳で聞いて頭で理解し、時に言葉の裏に込められた意味を相手の気持ちになって考えてから返答をする。

 口や喉や耳や頭や心を総動員して、初めて会話が成立するのだ。

 そんな面倒な行為を、なぜ皆は負担に感じないのだろうと不思議になる。


 彼も少し前までは、何の疑問も抱かず普通に会話が出来る側の人間だった。

 しかしある事件を機に、ひたすら他人に興味がなくなったのだ。

 もはや自分自身の生死にも関心がないので、食事もあまり取らない。

 それでも僅かばかり手をつける事があるのは、死にたくないからではない。

 空腹が続くと苛立いらだたしい。ただそれだけだ。


 看護人がまた何か喋ったようだ。

 耳とは不便なもので、誰かが近くで声を出せば、受け手が拒否したくとも聞こえてしまう。

 彼は不機嫌そうに唸った。

 うなるだけで充分だろうと思った。

 頭の中から適切な言語を取捨選択して、発声する手間がわずらわしい。


 誰とも関わりたくなかった。

 関わりたくないと言っているのに関わってくるのは、嫌がらせなのだろうか──とすら思う。

 そっちがそのつもりなら、報復も辞さない。

 次に話しかけてきたら、果実用の短刀ナイフでも突き刺してやろうか。

 首筋にでも刺してやれば、もう二度と他人に関わりたいと思わなくなるだろう。

 いい気味だ。


 短刀がずぶりずぶりと入っていけば、血がいっぱい出るはずだ。

 あの時と同じように。

 快活な兄が、物静かな母が、頼もしい父が、優しい姉が、バラバラに解体された時のように。

 特に姉は、解体される一部始終を目の前で見せられたので鮮烈に覚えている。

 ほとばしる血の赤を。四肢を切り落とした断面に見える骨の白を。脂肪の黄色を。

 それを手際良く、鼻歌まじりに行なっていた者が、あの──道化師ジェスターだ。


 ちまたで「血みどろ判官」と呼ばれるその連続猟奇殺人犯について思い出した瞬間、彼は全身の血が沸騰するのを感じた。

 あらゆる物事に無関心だった心に、感情が戻って来る。

 殺したい──という、強烈な衝動が。

 感情のたかぶりに手がわなわなと震え、涙が頬を伝う。

 それほどまでに、殺したい。

 家族を殺した輩を、同じ目に合わせてやりたい。

 いや、出来るなら同じよりも非道ひどい目に合わせてやりたい。


 湧き上がる殺意は彼の中だけで納まりきれず、声となってあふれ出す。

 地の底から響くような低いうめき声を絞り出していると、激しく胸がむかつく。

 胃液が逆流し、彼は身体をくの字に折り曲げてえずいた。

「イネスさん! しっかりしてください!」

 看護人が差し出した洗面器に、彼は嘔吐する。

 残留物が混ざっていない胃液が、鼻からも流れ出る。

 耳元で名前を呼ばれて背中をさすられ、侍祭は正気に戻った。


「げほげほっ、だ……大丈夫です。有難うございます」

 イネスは「ちょっと吐き気がしただけです」と言うが、看護人から大丈夫には見えない。

 寝台ベッドの上で唸っていた患者が急に涙を流して震え出し、嘔吐したのである。

 殺人現場に居合わせた被害者の錯乱状態は、依然として治まっていないとしか判断できない。


「気持ちが……落ち着かないんです」

「無理もありません。大変な目に合いましたから」

 看護人は洗面器の吐瀉物としゃぶつを片付けるため、部屋を出て行く。

 不安定な心がつらかった。

 急に無関心になったり暴力的になったり、浮き沈みが激しい。

 何より辛いのは、正気に戻った今も、犯人への殺意が消えない事だ。


 神に仕える聖職者として、有るまじき事である。

 殺人と応報を禁じた神の御言葉に逆らう事だと理解しているのに、抑えられない情動。

 己の家族を無残に殺された今、以前の自分のように「誰にでも道を間違える事はある。ゆるしてやろう」とは思えない。

 以前、アンセルム司祭に向かって「血まみれ判官と言えども死刑は無体なので、生涯ずっと牢に入れておけば良い」などと口走ってしまった自分が恥ずかしい。


 彼は考えが纏まらない。

 恥じているのは、聖職者に有るまじき自分なのか?

 それとも、最愛の家族を殺した相手を赦そうなどと、非現実的な教えを得意げに説いていた自分なのか?

 いずれにせよ神に仕える道は、もう歩けそうもない。

 家族のために復讐する事が、むしろ人の道であり正義だと思えてならない自分が居るからだ。


 棄教ききょうしよう──と彼は思う。

 死後に地獄へ堕ちると言うのなら、どうぞ堕としてくれれば良い。

 憎い仇に一矢報いて死ねるのなら、喜んで地獄へ堕ちよう。

 イネスはよろよろと寝台から立ち上がる。

病院ここを出なければ……」

 抜け出すなら、看護人が席を外している今が狙い目だ。


 行くあてがあるわけではない。

 しかし、ここは自分の居場所では無いという強い衝動に背中を押される。

 勿論もちろん、実家にも帰れない。

 どうせ帰っても家族は居ないし、現場を見れば忌まわしいあの夜の記憶が蘇る。

 それに黙って病院から姿を消せば、きっと憲兵が自分を捜して家に行くだろう。

 発見されれば、ここに逆戻りだ。


 廊下に出ようとしてから、彼は自分が病院の寝間着ねまき姿なのを思い出した。

 こんな格好では目立ってしまう。

 病室の衣類棚を開けると、有難い事に自分の鞄と侍祭服が入っていた。

 着替えてから、医師や看護人に見つからないよう気を付けて病院を出る。

 服からはほのかに血の匂いがしたが、嫌な気はしない。

 他の誰でもない、家族の血なのだから。

 それは今や彼にとって、愛する者たちと繋がる唯一の絆なのだ。


 通りに出たイネスは、無心になって歩いた。 

 歩いていれば病院から離れられるし、実家からも遠ざかる。

 悲しい思い出は消えないけれど、せめて現実の距離だけでも間を開けたかった。

 集中して歩いていると、救われる気がした。

 余計な事は考えなくて良いからだ。


 ただの通行人である自分に、他人が干渉して来ないのも良い。

 近所の人からは、可哀想な被害者。

 看護人からは、精神錯乱した患者。

 憲兵からは、殺人事件の参考人。

 そういう肩書きは、もうまっぴらだ。

 通行人が良い。

 誰も自分に興味を示さない、優しい世界に身を置いておきたい。


 気がつくと彼は郊外を過ぎ、市壁を抜けて、琥珀都市の外に出ていた。

 足の向くまま歩こう──と、イネスはぼんやり考える。

 憲兵が必死に捜査しても発見できない殺人犯を、自分が簡単に見つけられるとは思えない。

 今はとりあえず歩こう。

 歩いて疲れたら休んで、また歩こう。

 彼が行く街道の上には、穏やかな秋空が広がっている。


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